Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
最終更新
サイズ
224.4KB
ページ数
9
閲覧数
4523
評価数
11/13
POINT
1160
Rate
16.93

分類タグ




 冬の夜は早く到来し、そして長く居座る。
 すでに太陽は西の果てに沈み切り、夕焼けの跡さえ少しも残ってはいなかった。

 焚き火と篝火があちこちで燃え、その灯りのなかに人々の影が映し出される。暖を取ろうとする兵たちの影だった。諏訪子が前後左右いずれに顔を向けても、彼らの愉しげな声は絶えることがない。皆の顔が赤らんでいたのは、決して火に照らされているから、というばかりではないだろう。血よりも今は、酒のにおいの方が高く高く香ってくる。そのことに、まず興味を引かれないわけにはいかなかった。諏訪と辰野の両軍が烈しい戦いをくり広げたという山道は、今や束の間の勝ちいくさに湧く酒宴の会場と化していた。

 もはや辺りに、両軍の者の屍骸も見られない。
 日が落ちる前に粗方は片づけられ、埋葬されたと見える。

 その仕事を担当したらしい兵たちは、諏訪の職人が手掛けるものとは明らかに異なる様式をした飾り物や武器を身につけ、戦友たちに見せびらかしていた。おおかた、死んだ敵の骸から奪い取った品であろう。略奪、人買い、強姦……そういう『悪事』は、およそはるかな古(いにしえ)から続く、戦勝者の特権とでも言うべきもの。平時であれば断罪の対象でしかないものだが、命懸けで戦い、勝ち、生き残った兵らにとっては、それくらいの“報酬”がなければ釣り合わぬといった思いもある。

 後詰めとしてようやく本隊の元にまで追いついた下諏訪勢の武将たちは、兵らのそのような様子を眼にして、鼻白むのを隠しもしない。ある者は眉をひそめ、ある者は舌打ちをし、またある者はわざとらしく溜め息を吐いた。戦勝の余韻が汚されたとでも思っているのかもしれないが、諏訪子自身は別段、自らの部下たちに同調する気にはならなかったし、一方で兵たちを蔑む気持ちも有りはしない。

 いくさと、いくさを指導する者たちは、自分たちの行いが正しいという証拠を常に手にしておかねばならない。そのため為政者は大義や正義を気にするものだが、戦闘に駆りだされる民人の立場にすれば、そんなものはどうでも良いのである。彼らにとって大事なのは、明日生き残れるか、手柄を立てられるか、戦利品でひと儲けできるか、きれいな女を攫えるか、――などなど、有り体に言ってしまえばひどく俗っぽい欲望ばかりだ。

 だが、その人らしい欲望こそが、いくさでの殺し合いという人が人を否定する非道の場において、もっとも強い『希望』となる。それを諏訪子は知っていた。それゆえに、彼女は兵たちを非難する気持ちにだけはなれないのだ。人が欲望を棄てるということは、一面ではもはや人でなくなるということ。欲望を……つまりは生の源泉を喪った人は、自らを生かすに足る『希望』さえも喪ったに等しい。その『希望』こそが、人の意識のはるかな奥底に、神を求め、神を呼び起こす力となる。人の欲を否とし、棄ててしまうことは、諏訪子にとっては己を殺すにも等しい愚行なのである。

「怖や、と、思うて飲む酒ほどの美酒は、この地上にはあるまい」

 ぽつりと呟かれた諏訪子の言葉に合点がいく者は、部将たちのなかにはひとりも居ない様子だった。皆、多少はあれど首を傾げている。ふふ、と、諏訪子はいつもの含み笑い。黄金(こがね)の髪を、酒の香をいっぱいに孕んだ夜風が揺らす。死の恐怖を即座に克服できる人間など、そうは居ない。なればこそ、明日をも知れぬいくさの道を歩かされる兵たちは、戦いの前に酒で酔って恐怖を忘れ、戦いの後にも酒で酔って恐怖を嗤うのだ。それもまた、人が生きるための何より尊き欲である。重い傷を負って手足をなくしたり、夜明けを待たずして死ぬであろうほどの者でも、酒の力で酔いもすれば苦しみから逃れられる。怖や、と、思って飲む酒ほど、美味い酒などあるはずもない。

 さて、斯様に苦と楽とが混在する山道に、諏訪軍は本営を築いていたということである。

 各部隊の陣所が道なりに長々と連なっているところは、蜀漢の大軍が孫呉に大敗を喫したという、かの夷陵の戦いというものを彷彿とさせる。あるいは自分が陸遜であれば、機を見て火攻めを仕掛けるに相違ないとさえ諏訪子は思った。各々が明かりを灯して宴に酔いしれているところなどは、これはもう、夜襲をかけてくれと言わんばかりの光景ではないか。

 しかし、諏訪全軍がそのような事態を想定している様子はない。
 あの八坂神奈子が戦勝に驕り、むざむざと隙を晒すほど愚かな真似をするはずはあるまい。山中に在る辰野勢の拠点は潰しているのだし、すでに相手の主戦力は壊滅したとの報せを受けている。してみると夜間の奇襲も不可能なほど、敵勢を痛めつけてやったということに違いなかった。あるいはあえて隙らしいものを見せつけることで、敵方に「さては計略か、伏兵か」と過剰に警戒させ、結果として手出しをさせないという策かもしれない。それもまた、古より伝わる兵法のひとつ。

「ひとまずは、安堵しても良いということでございましょうな」

 辺りに満ちた悦楽の空気を危ぶんだか、部将のひとりが諏訪子に声を掛けてくる。
 が、彼女は否定も肯定も直ぐには返さなかった。もういちど、戦勝に酔う味方を眺めまわす。結局、此度の決戦に後詰めの部隊は参加することがなかった。一兵をも損じなかったことは僥倖と言えるが、果たして参陣すれども戦わずという状況は、良かったのか悪かったのか。彼女自身にも未だ解りかねる。

 短い溜め息を吐いてから、「ならば、良いのだが」と、諏訪子は先ほどの部将に返答をした。

 そのまま下諏訪の将たちは山道を行き、味方の本陣を目指す。
 まずはそこに居るはずの神奈子に面会し、事態の詳らかなるを把握しておく必要がある。
 諏訪軍将兵が放つ嬉しげな喧騒は、夜の静寂を隅に押し遣って数刻早い朝を引っ張り出すかのごとく、なお響くのであった。


――――――


「まずは此度の勝ちいくさ、まことにおめでとうございまする」
「未だ早いわ。祝いを申すは、諏訪子、敵の本営を攻め落としてからに致せ」

 床几に腰を下ろした諏訪子は、八坂神奈子と対面していた。相手の方でも、やはり床几に座っている。言祝ぎを捧げた諏訪子を、しかし神奈子は制した。祝うのは早いという意見は、その身で辰野勢との戦いを経験した者による、疑うことのできぬ実感であったことだろう。

 所はようやく、諏訪軍が山中に置いた仮の本陣である。

 本陣、とはいっても、両脇を崖に包まれた山道のなかに置いたものだから、そうそう広く展開できているわけではない。陣幕を張り巡らして篝火を幾つか設え、周りには矛を携えた衛兵たち。そんな風に体裁ばかりはどうにか整えてはいるものの、やはり平地に敷く陣に比べれば窮屈な感は否めない。それでも、将らが身を寄せあえば軍議くらいはできるはず。現に、矢盾を組んだ即席の机もまた用意されている。神奈子と諏訪子は、その机を挟むかたちで向かい合っているのだった。

「敵には、もうかなりの痛手を与えたと聞き及んでおりまする」
「んん。戦果のあらましを述べれば、わが方は百二十余りの敵を斃した。虜とする者も三十ほど。ようやくの大勝利ぞ」

 篝火に投ぜられた薪がぱちぱちと爆ぜるなか、神奈子はぽつぽつとそう述べた。

 大勝利。そう、大勝利なのだ。

 小勢ながら険阻な土地に拠って、幾度も諏訪の大軍を翻弄してきた辰野方に、ようやく諏訪方は勝ったのである。そして此度、その決戦は、敵に完膚なきまでの大打撃を与えたに相違なかった。でなければ全軍挙げての酒宴が、なかば能天気なまでに行われるはずもない。

 だが、その大勝利を直に味わったはずの神奈子自身は、さほど嬉しそうにも見えない。
 息からも、酒の香りはほんのわずかだ。代わりに、鉄錆びをさらに生ぐさくしたような――ひとりやふたりでは利かないほどたくさんの、血のにおいが強く感じられる。ひと筋の血の跡さえ、その身には残されていないというのに。

 神奈子自身は傷らしい傷も負っていないようだったが、いちど戦場でこびりついてしまった敵味方の生死のにおいは、そう簡単には消えぬということだろう。ならば、総大将の身でありながら、酒に酔えぬのも解らないではなかった。いくさ慣れした者でもいざ戦いが終わって頭が冷えてくると、殺し合いによる血のにおいは、酒食を不味くするだけということだ。

 だが、あえてそのことを問わなかったのは、紛れもなく諏訪子の気遣いである。

 彼女は、相手の身から血のにおいが拭いきれていないということは努めて伏せながら、「大将は大変にございまするな。いくさを終えても忙しき限り。他の将兵のように、酒を飲む暇(いとま)さえないとは……」と、別の方面から話を振った。

 実際、神奈子は諏訪子と面会をしながらも、いま現在の仕事の手もまた緩めることをしなかった。神奈子が行っていたのは、論功行賞の準備である。今回の戦いで戦功を立てた者に与えるべく、感状の草案となる文句を竹簡に筆で殴り書きしている。諏訪に戻ってから、祐筆の稗田阿仁に清書を命ずるつもりなのだ。

 諏訪子が振った話題はどうやら『正解』だったようで、神奈子はようやく筆を止め、にやりと不敵にほほ笑んだ。するとほんの少しだけ、血のにおいも薄らいでいくように感じてしまう。だが、そこはさすがのいくさ神か、一戦を終えて落ち着いても、その洞察は決して精度を落とさない。「ユグルとの和睦なら、結ばぬぞ」と、諏訪子に先んじて宣言したのである。先手を打たれるかたちで自らの提案を却下され、諏訪子は開きかけていた口を直ぐに閉じる。少しだけ、血のにおいに気づかぬふりをしてやったことを後悔した。

「なぜにございまするか。敵方に大損害を与えたのであれば、これ以上のいくさは無意味。和睦を以て事態を収め、しかる後に沙汰を下すことも……」
「そなたの言う“和睦”には、叛逆者に対する無用の憐れみが宿っておる」

 神奈子は、なおもきっぱりと言った。
 諏訪子は、それを否としない。否とはできないのだ。

 辰野衆が諏訪の新政に裏切られたときの、その思いを顕か(あきらか)にしたユグルの顔。烈しい怒りとかなしみに満ちた少年の顔を、彼女はどうしても忘れることができなかった。むろん、洩矢諏訪子も飾り物とはいえ、長きに渡って諏訪一国の王だったのである。政での目的を達成するためなら、踏み越えるべき道理も時にはあるということを知っている。数十年前、未だ統一ならぬ時代の両諏訪において、豪族ウヅロに謀叛の咎を着せて諏訪から追放したように。そのときの諏訪子――“諏訪さま”にとって、体制を固めるために必要な行為だったからだ。

 だが、よく考えてみれば、そのときウヅロとその一族を諏訪から追いだしたからこそ、今、ダラハドとユグルとの土地争いに端を発するいくさが巻き起こっているとも言える。してみれば諏訪子の心を占めるのは、後悔と憐れみが境を失くしてどろどろに混じり合った何かである。いま確かに解っている事――それは、苛烈なるものは後にまた苛烈なるものとなって、自らに返ってくるかもしれないという真理なのだ。

「和睦というなら一案にもならぬ。ここで辰野勢と和睦など結べば、後にさらなる禍根を残す」

 確かに、神奈子の言う通りではある。

 諏訪に恨みを抱いたままユグルらを生かし置けば、またいつか叛かぬという保証はない。それを防ぐためには、今、やれるときに禍根の源を、反逆者たる辰野の者たちを手に掛けねばならない。そして禍根となり得るものすべてをそもそも根絶やしにするのなら、憐れみなどは端から見当違いも甚だしいと言わざるを得ないのだ。諏訪子は、曖昧にうなずくばかりである。

「間引くことできる雑草(くさ)は、早いうちに間引かねば。そうせねばいかに健やかなる大地とても、豊かな穣りは訪れぬ。解っておろう、諏訪子。科野という大地に穣る、われらふたりの政のためだ」

 それが、神奈子の持つ一応の結論ということであろう。

 理解はするが、納得はできない。
 否定も肯定もせず、黙して何も語らなかったのは、『敵を根絶やしにして禍根を絶つ』という神奈子の考えと、『憐れみを留めて禍根をつくらせぬ』という自分の考え、いったいどちらがより正しいのか、諏訪子にとって直ぐには判断しかねるものがあったからだ。しばしふたりは口をつぐんだ。神奈子はむっつりと、どこか不満げに筆を動かしている。感状の草案作りの仕事は、いよいよ大詰めといったところらしかった。

 と、突然。

「とはいえ、未だ手はないでもない」

 神奈子が手を止め、再び口を開く。
 突然の人の気配に耳をそばだてる獣のように、諏訪子はうつむいていた顔を上げた。
 不承不承といったような顔の神奈子が、机越しにこちらを覗きこんでいる。

「それは……いったい、いかなる手にございまするか」
「和睦でもなく、根絶やしでもない。いわば、このふたつの策の“合いの子”とでも言うべきものだ。ユグルが自らの非を認めるかたちでわれらに降るのであれば、それでこのいくさ、収めることもできようぞ」

 止めていた筆をまた動かし始めながら「ただし、相手が乗ってくれればな」と付け加えるのも神奈子は忘れなかった。

 そして、それ以上のことを彼女は多く語らない。
 ユグルが降れば……と、噛むように何度かくり返し呟いて、諏訪子はとうとうと考える。直ぐにはそのような折衷の案に思い至らなかった彼女でも、この第三の“落とし所”は良案だと考えることができる。諏訪は己の正義を示し、同時に辰野は生を長らえることで再起の道を得る。両方に波風が立たず、将来への禍根も残らないだろう。

 だが、それもすべて、もっとも上手くことが運べば、という程度のことでしかない。

 神奈子が不服そうな面(つら)でこの案を述べたのは、当初想定していた自身の展望を否定するからという以上に、成功するかどうか――すなわちユグルがこちらの思惑通りに投降してくれるかが、未知数に過ぎるからに違いなかった。さらに問題はある。もし仮にユグルとその一党が投降を受け入れたとして、王権への叛逆者たる彼らを如何様に裁くべきか。沙汰は諏訪子と神奈子のふたりだけで決められるものではないし、諸方の豪族たちとの力関係のことまで考慮した処断を下す必要がある。事態の転変によっては、辰野衆を根絶やしにするのをただいたずらに遅らせるだけにならないとも言いきれない。未だ事態は、捕らぬ狸の皮算用というにも足らぬ状況なのであった。

「実は、すでにクジャンを使者に立て、辰野方に投降を呼びかけに行かせておる」

 またぽつりと、神奈子は言う。
 未知数とはいえ、打てる手は打った方が良いということだろう。何も行わずに失策を嘆くよりは、確かにましである。諏訪子はうなずき、唇の端をぺろりと舐めた。冬場は、さすがに乾燥する。諏訪子の仕草をつまらなそうに見遣ると、神奈子は話の先を口にした。

「兵糧を断たれ、味方だった豪族たちも次々寝返り、いくさでは大敗を喫して、数少ない戦力を大いに損なった。それが今の辰野勢、今のユグルが置かれた立場よ。尋常の将なれば、ここで負けを悟って諦めるものだが」

 大きな溜め息が、いくさ神から吐き出される。
 いくら締め上げられても決して折れなかったユグルたちだ。ここでこちらの目論見通りにいくものかという、ささやかな諦めが彼女の言葉からは感じられる。

「ユグルは、果たして降ることを選びましょうか」
「そうなることに賭けるよりほかあるまい。いくさに、賭けなどという運任せを持ち込むは、下策も下策なのだがな」

 フと、諏訪子は妙な可笑しさにとらわれた気がしたが、眉ひとつ動かさずに耐えた。
 運任せを嫌う神奈子の言葉。鉄片の卜占で、わざわざイカサマを仕込んでまで神の力を演出した彼女らしい言い分だと思ったのである。戦場において不確定の要素に頼り過ぎ、自らの命を預けるなど、愚の骨頂と言うほかはない。だが、あえて賭けをせねばならぬのが、今、神奈子と諏訪子の置かれた状況なのだった。

 人の心の有り様は、神にても測りがたいものがある。

 人は神を求め、新たな神を創ることができる。しかし怒りや悲しみに任せて神を棄て、昨日まで信仰していた神を侮蔑することもまたできるのだ。怖ろしきは人の心の移ろいでもあり、また頑なさでもある。そういう怖ろしげなる存在を当てにして、事態の打開を画する。それが、ふたりが賽を投じねばならぬ『大博打』であった。

 ようやく草案作りを終えた神奈子は、直ぐさま筆を投げ出した。
 硯に叩きつけられた筆の柄の部分が、からりと乾いた音を立てる。峻烈な冬山の空気と、延々と続く将兵たちの酒宴、そしてそれとはほぼ無縁に行われる二神の会見。何もかもがちぐはぐな夜であった。

「筆仕事が終わったのであれば、……」

 酒でも、と、諏訪子は口にしようとした。
 むろん、今夜の神奈子は酒が進んでいないらしいのは承知している。
 が、要はひとまずこの会見を切り上げて、頭の中身を整理する時間が必要と思ったからだ。しかしその口実は、「いや、不要だ」と神奈子に制されて潰される。

「どうにも今晩は酔えぬゆえ、酒は要らぬ。代わりに白湯が欲しい」
「では、諏訪子が持って参りましょう」
「なぜそなたが直に。誰かを人を遣れば良かろう」
「はあ、まあ、それはそうではございまするが」
「ここは、いやに“冷たき”ものがある。血の熱さがなくなった代わりに起こってきたものか――それは解らぬが」

 勇猛果敢ないくさ神とても、戦いが終われば、冷静さがぶり返すということだろうか。そしてその冷静さは、ひょっとすると八坂神奈子のなかにはひとつもないと思われたはずの、臆病さに似た何かの裏返しなのかもしれない。してみれば、彼女もなかなか可愛らしいところがある。今度こそ、諏訪子はこらえ切れずに噴き出した。床几から浮かせかけた腰をまた戻し、あらためて神奈子と対面した。

「何を笑うておる」
「いえいえ。いくさの後にても、斯様に八坂さまと言葉を交わすことできるは、良きことなり、と」
「何をわけのわからぬことを」
「白湯は、誰かに持って来させましょう。その間、われらはこうしてお話を。声を出しておれば、いやでも身体は温まりまする」

 何も言わず、神奈子はうなずいた。
 よく考えてみればこの数月、神奈子とゆっくりと話をしたことはほとんどなかった気がする。口を開けば、辰野の処遇といくさとについての論議ばかりだったのだ。とはいえ、新たに四方山の話をせんと思えど、あらたまって考えると上手くは話題が出にくいのだった。ふたりともが、苦笑しあって――そしてどちらからともなく何かを言いかけた、しかし、そのとき。

「申し上げます!」

 陣幕を突き破るかのように、ひとりの伝令が本陣に姿を現した。
 ふたりはちらと横目を遣る。やってきたのは、逸勢舎人である。青年の肩は、少しく上下している。駿足の彼とても、よほどに急いで走ってきたらしかった。とすると、急を要する報告か。神奈子は諏訪子の友人から、直ぐさま諏訪王としての顔に戻り、「何があった?」と逸勢に問うた。

「クジャンどのの陣営から、火急の報せにて」

 クジャン――その名はついさっき交わされた。辰野方に投降を勧めるべく立った軍使として。もしや、と、諏訪子はその歯を軋らせる。神奈子の方は、その心底こそは知れぬものの、眉根に皺を刻みながら逸勢に先を促す。

「火急とはいかに。申せ」
「は! ユグルどのをはじめとする辰野方、わが諏訪方からの降伏の要求を、拒絶したとのことにございまする!」

 逸勢が交渉の結果――決裂の報せを口にした途端、諏訪子は向かい合っていた神奈子の身から、凄まじい殺気がほとばしったのを感じた気がした。否、八坂神奈子というそれそのものが、人のかたちをした殺気だったと気づくがごとく。

 それも、止むを得ざることであった。
 神奈子がクジャンを使者として送ったのは、ユグルに対する事実上の『最後通牒』にも等しき降伏の勧告である。これに背かば、今度こそ本営を攻め落とすという。事実、諏訪方にはそれだけの用意と戦力がある。それが解っていながら、ユグルは背いたのだ。

 険しい顔は崩さぬまま、しかし、一瞬ばかりほとばしった殺気は神奈子からすでに消え去った。きっと神奈子の怒りを察するあまり、自分の感覚が捉えた幻影だっただろうと諏訪子は思う。だがそれほどまでに、彼女の怒りといら立ちの烈しさは疑いようもない『本物』だ。そして、決戦を経て決定的な大打撃を被ってもなお戦いを止めぬユグルとの、これ以上は不毛な潰し合いが始まるという推測もまた、いずれ事実となって眼前に立ち現われてくることだろう。

「此度の賭けは、われらの負けか」

 悔しげに呟いた神奈子と、諏訪子は顔を見合わせた。
 愉しげな酒宴の喧騒は、なお呑気に夜へ響いている。


――――――


「おい、なあ。まだいくさは続くんですか」
「そうだ。もうぐうの音も出ねえほどにやられちまったのによう」

 怒気を孕んだ多くの声が、山上の城にこだましていた。

 飢え痩せた数百の群衆が、徒党を組んで押し寄せている。
 篝の火は城のうちにてほとんどない。寒々とした暗闇のなかで白い息を吹きあげながら、群衆たちはただ怒りを叫んでいた。

 彼らの手に武器はない。
 鉄や銅や青銅など、およそ金属(かね)の武器はない。
 あるのは石鍬や石包丁といった原始的な農具ばかり。それでもなお、肉が削げ落ち骨が浮かび始めた身体を薄衣(うすぎぬ)に包み、睨みつけなければならぬのは、自分たちを率いていくさを始めた辰野の豪族たちである。だというのにその豪族たちは、彼らの前に姿を現さぬ。姿を現さぬのなら、出てくるまで待つしかない。しかし、そうそういつまでも保っていられるような忍耐でもない。群衆たちはいま、総大将のユグルたちが籠る城の本営に詰め寄ってきているのだ。

「いま大将方は軍議の真っ最中じゃ、然る後に沙汰があるはず。諏訪方との決戦も近い。各々の持ち場に戻れ……!」

 本営たる場の守護を仰せつかった衛兵たちが、矛をぎらつかせながら民人の抗議をたしなめる。しかし、その声にはどこか精彩さを欠いてもいた。まるで間違っているのは自分たちの方であり、本当は群衆たちの言い分の方が正しいと知っているかのごとく。

 そして、衛兵たちと相対する群衆もまた、そんな不自然な様子には目ざとかった。

「この期に及んでおまえらも、未だ手柄欲しさにいくさに行こうっていうのか! 敵に斬られて片輪者になったやつらだって大勢居るじゃねえか!」

 そう言って、雪の中から探り出した石を本営に向けて投げつける者が居る。
 投石は誰にも何にも命中せず、再び雪の上に落ちただけだったが、代わりに衛兵たちが大いに渋い顔をつくることになった。

 敵に斬られた片輪者――重い傷を負って手足を喪った者は、先に行われた諏訪方との戦いを生き延び、城まで退却してきた者たちにも決して少なくはなかった。現に衛兵たちでさえ、喪った足首から先に添え木をしてどうにか立っている者や、片手がないため盾が持てず矛しか携えていない者たちばかり。さっき真っ先に群衆をたしなめた男でさえ、顔の半分を覆う白布から、赤黒い血がじくじくと滲み出た跡がある。彼の片目は、先の戦いで矢傷を受けて潰れていたのだった。

 他方、眼を転ずれば、立って歩くことさえできぬ者、死を待つばかりの者たちは、ひとつの狭い部屋に押し込められて、傷薬の調達もままならぬまま痛みに喘ぎ、泣き叫んでいる。冬は夏ほど傷の腐りは早くないが、寒さに煽られ痛みは強く骨身に染む。群衆たちの叫びで満ちる本営の近くでも、そうした苦痛を訴えるうめき声はかすかに聞こえてくるほどだ。

 そして此度こそ決戦ぞと勇んで出ていった将兵たちが、斯様に悲惨な姿で戻ってきたとあらば、ユグルら豪族たちと共に城に入った民衆が、一気に不満を爆発させるのも無理からぬことであった。

 諏訪人は辰野人の田畑を掠め取って好き勝手に使おうとしている。新しい領主は八坂の神の腰巾着のようなものだから、中央のご機嫌取りのために苛烈な税の徴収を行おうと目論んでいる。……辰野の豪族たちが戦いに向けて自らの土地を護るため、領民たちを囲い込むのに使った弁はいろいろとあった。だが、そのいずれでも、皆が豪族たちに従ったのは、自分たちの暮らしを壊されたくないという純粋な理由からだったのだし、いざいくさとなったら手柄を上げて褒美を得たいという幾ばくかの野心であるに違いなかった。

 だが、実際の戦いの推移はどうか。

 長い籠城の果てに物資や食糧は欠乏し、兵力を補うために徴集された若い男たちは、その大半が戦死するか不具者となった。有力な働き手である男子が居なくなるということは、農民にとっては計り知れない痛手である。さらに加えて、もはや戦局には勝てる見込みなどいっさいない。いかに「郷里に命を捧げて華々しく散ろう」と将たちが意気込んでも、その将たちのうつくしき志を支えるのは、土と泥にまみれて懸命に――いくさとあらば、それこそ兵士として文字通りに命を懸けて――働く、名もなき民衆たちなのである。為政者が好き勝手に唱える美意識に、骨の髄まで殉じることをむざむざと選ぶほど、彼らは決して愚かではなかった。

 こんな負けいくさをいつまで続けるのか。
 おれたち百姓に、大将方はひとりも余さず死ねというのか。

 次々と噴き上がる不平不満は、いずれも理の当然というべきもの。
 叫ばれる声の調子は次第に烈しくなり、ユグルたちが籠る本営への包囲網を、じりじりと狭めつつある。暴動らしい暴動こそ起こらないものの、このまま何の沙汰も示されなければ、辰野人たちの連帯が次の日の出を待たずして崩れ去るのは、火を見るよりも明らかであった。

「ユグルさまを出せ」

 そんなことを、誰かが口にした。

 誰が言ったのかは、実際には掴みようがない。
 大勢の声、声、声に紛れて、ひとつひとつの発言の元を正しく辿るのは極めて難しかった。だが、総大将のユグルを出せという思いこそは、紛れもなく、辰野群衆におけるもっとも大きな要求であった。ユグルさまを出せ、ユグルさまを出せ、と。何度もくり返される叫びは、この敗戦の責をどうかして誰かに押しつけなければ、苦しみかなしみに耐えられぬという敗北者の心理の成れの果てであった。

 総大将がなかなか姿を現さぬことに憤った人々は、いよいよ本営を護る衛兵たちへの『攻撃』を烈しくする。農具を振り上げて叩きつけるような仕草をしたり、石ころや雪玉を投げつけたりする。衛兵たちは、彼らに鎮まるよう盛んに促していたが、次第にその声は小さくなり、消え入ってしまう。辰野人同士が争っても、何の意味もない。そのことに誰もが気づいていた。投げつけられる石や雪玉を浴びるだけ浴び、衛兵たちは泣いていた。いら立ちを棄てるすべを持たない民人たちもまた、涙の跡を頬に刻んでいた。むごく、惨めな、夜であった。

 そして、しばし。

 衛兵たちへの投石などしょせん虚しい行いと気づき、群衆はようやく静まり返った。
 夜の闇をつんざいてあれほどやかましかった抗議の声々も、ひとつ減りふたつ減り、すっかりおとなしくなってしまった。さめざめと、誰彼となく啜り泣く声ばかりが響き渡る。重傷者の収容された部屋もまた、今では不気味な静けさに沈み、何の音も発さない。痛みも苦しみも、等しく夜の寒さに押し潰されていったのだ。濃厚になりつつある破滅への予感が、ひしひしと、人々の心に重苦しいものを残していく。

 と、そのときである。
 ぎいい、と、本営と外とを隔てる扉が軋み、皆の目前に人影が現れた。
 群衆も衛兵も視線を揃えてそちらを向いた。清潔な布で余さず拭き取ってもなお、取り去ることのできない血のにおい。本営からは、将たちが戦場で浴び、流してきたであろうそんな血の残り香が、むわりと漂い出してくる。顔を顰める者は、この場にては皆無。この数カ月で、辰野人は人の血が発する生ぐささというのものに、慣れ過ぎてしまっていたのである。

「ここに居る。ユグルは、確かにここに居るぞ」

 本営から出てきた少年――総大将のユグルは、白い息を吐きながら告げる。

 群衆たちが立つ地面と、将たちの詰める本営とは、数段の簡素な階(きざはし)で繋がれるのみであった。ユグル自身はその階にまで足を進めることなく、数段分の高床の上から、皆を見下ろすかたちで声を発していた。

 そこへ真っ先に衛兵たちが畏まり、こころなしか頭を低くしたようであった。
 一方の群衆はユグルの姿を認めて、また先ほどまでのような怒りを顕わにする兆しを見せる。一歩、二歩、皆は少しずつにじり寄っていった。それを押し留めるはずの衛兵たちも、今はもう人々に進んで矛を向けようとはしなかった。自分たちの総大将が何を口にし、どんな沙汰を下すのか、彼らとて聞き逃すことはできぬ。

 ユグルはしばらく人々と対峙し、皆の顔つきの細々としたつくりまでも覗き込もうとするかのように、幾度も視線を巡らせた。そのたび、涙で泣き濡れた多くの瞳が彼を追いかける。本営からは、ユグル以外の将は出てこない。しかし、また、人々からはそのことを訝しがる声もない。今このときの責を誰が負うべきなのか、誰も彼もが解っているからこそであろう。それが、あまりにかなしきことであったとしても。

「皆、今までよう付き合うてくれた」

 ようやく、総大将自らの言が下る。

 すると衛兵たちはもちろんのこと、ユグルを出せと要求していた群衆たちでさえ、みな一様に深々と頭を垂れた。不思議な光景であった。心の奥底では未だ、辰野人はユグルへの信望を少しは残していたのであろうか。眉根に皺を寄せ、しかし、眼には微笑の残りかすのような気配を湛えつつ、ユグルは話を続ける。少年の言葉を遮る者は、皆無である。

「辰野の地を侵し掠めんとする諏訪の者どもとの此度のいくさ……正義は依然としてわれら辰野衆の側にこそあれど、天よりの運なく、我には才なく、ただいたずらに将を喪い、兵を損なうばかりの結果となった。これほどの負けいくさとなっては、もはやこのユグルと申す徳なき領主は、死してのち冥界の奥底にて生前の咎受け、五体をばらばらに引き裂かれることであろう」

 凄愴なまでの懺悔である。
 十四の少年らしい勇猛さ、血気盛んさというものは、もはやひとつも残ってはいない。
 あるいはそれが敗将の定めらしきものであるとは申せ、斯様な懺悔を口にさせる落魄(らくはく)の惨めさは、いま辰野人のうちでこそ極まっているというべきであった。ユグルはなおも続ける。

「否、冥界に行くよりも早く、今ここにこうして集まった皆に嬲り殺しにされたところで、私は文句のひとつとて申すことできる立場にはない。だが、ひとつだけ新たに聞き届けて欲しい。このユグルは、決して皆をいたずらに死地に追い落とすために、いくさ仕掛けんと欲せるに非ず。この科野にて行われる不正義に鉄槌下さんがために、立ち上がったまでのこと。だが、それを声高に申すことできるのは、いくさに勝った者たちだけ。そして敗将の分際で斯様なこと申すは思い上がりも甚だしいが、」

 ユグルは唾を飲み込んだ。
 黒々とした闇がもたらす沈黙は、少年の喉の微細な動きでさえも、詳らかに伝えんとしているかのようだ。

「死して冥界の化生にこの身裂かれるは、ユグルひとりで十分だ。この期に及んで塗炭の苦しみを受けたおぬしたち辰野の民人を、道連れにするは心苦しい。この城から逃げたい者は、逃げて良い。諏訪方に降らんと欲する者は、そうすると良い。決して止めはせぬ」

 また沈黙が、降りてきた。

 夜という時間の底の底、およそ暗みとか静けさというあらゆる属性が、辰野人たちのあいだを十全に占めている。逃げたい者は、逃げて良い。降らんとする者は、降って良い。きっとそれは、当夜、この場に集まった辰野の民衆が何より求めていた命令のはずである。勝者につけば、敗者と共に破滅の道を辿ることは避けられる。何より『敗者』であるはずのユグル自身がそれを勧めているのだ。従わぬ道理はひとつもなかった。

 しかし、誰も彼も直ぐには足が動かない。
 賛意も拒絶も漏れ出てこない。振って湧いたかのような突如の命に、どうして良いか解らぬ、といった風であった。数月のあいだのいくさは、辰野の人々のあいだに幾ばくかの逡巡を植えつけていた。ユグルは、この戦いが終わったら叛逆者として殺されるだろう。それを思えばこそ少年への同情の余地もある。だが辰野に災厄を招いたのもまた、他ならぬユグルなのだ。信望は、何より憎悪と相半ばするものであった。

 しかし、やがて。
 群衆のなかから、ひとりの女が歩み出てきた。

 皆の視線が彼女に集まる。手にした石包丁の刃には、欠けのようなものが見られていた。根元が白み始めた髪の毛と、着物が擦れるだけで垢がぽろぽろこぼれ落ちる肌。概して、不潔である。だが決して珍しくはなかった。程度の多少はあれ、誰もみな彼女と同じように不潔であった。珍しくはないからこそ、誰かひとりが前に出てくれば、そのような惨めさがそのひとりに集約されて見える。女は、石包丁を振り上げる。だが、その場に立ちつくしたまま、包丁を握った手は振り下ろされない。ユグルと、女の対峙。絞り出すように、ようやく彼女は声を発した。

「あたしら百姓下人は大勢死んだ。あたしの旦那も死んだ。髪の毛一本だって戻ってきやしねえ。なのに、なんでユグルさまは未だ生きてんだ」

 ユグルは、何も言わなかった。言い返せなかったか、言い返さなかったか、いずれであるのかは誰も知らぬこと。けれどそれが、いよいよ潮であった。

 民人たちは、女の言葉に心からの衝動を蘇らされた。
 互いに目配せをし、幾度か溜め息を吐き出す。怒りともかなしみともつかない感情の色が、汚れた頬を通してありありと浮かび出る。それは、あたかも失望か落胆か。いずれにせよ、今このときに辰野民衆の『いくさ』は終わったのだ。殉ずるべき大義も、背くべき味方ももはやない。彼らには帰るべき自らのふるさと、耕すべき大地だけがある。そんな彼らが、今やちっぽけな敗軍の将についていく道理などない。

 みなユグルを見限る決意がついたと見え、それほど時間をかけることもなく、辰野方の城からはひとり去り、ふたり去っていく。諏訪軍が陣を構える麓の方角へ、取る物もとりあえずといった様子で駆けて行った。兵たちでさえ例外ではなかった。彼らは未だ実戦に従軍した分だけ、総大将への未練も在りはしたのだろうが……結局は矛も盾も放り出し、次々と城門をくぐり抜けていく。夜に山を下るという危険を冒してまで、一刻も早くこんな場所からは離れてしまいたいというみたいに。
 
 半刻も経つと、また静けさが戻ってきた。

 小勢とはいえ人の気配がひしめき合っていた急造の山城は、今や全く活気が死んでしまったかのようだった。否、それよりはむしろ、沈黙が生き始めたというべきか。重傷者の呻きもない。残っているのはとくべつ忠誠に篤いと見える幾十人かの兵と、それに加え、他の誰にも負ぶってもらったり肩を貸してもらえず、城から逃げたくても逃げ出せなかった不具の者。そして未だ本営に籠る将たち、最後にユグル。人の声はまるで消え失せてしまった。畏まっていた衛兵たちも、ほとんどが城を出たのである。その間ずうっと、ユグルは去り行く者たちの姿を見送っていた。

 ごうごうと吹きすさぶ寒風の音は、山の神や妖怪が、ユグルを嘲笑いに来たかのように鳴き騒ぐ。

 たったこれだけでは、いくさどころか小競り合いにもならぬ。
 少年の唇から真白い息の塊が吐き出され、夜の闇に融けていく。
 失意なのか自嘲なのか、彼自身にもよく解らない。

 もう、この戦いというものは、ユグルには解らないことばかりだった。
 なぜ正義が、正しいはずの志が、負けて死なねばならぬのか。
 畢竟、それは、何ゆえ自らが天に見放されたのかが解らぬということである。
 ではユグルのいったい何が悪かったのか。志か、政か。
 神に刃向ったことそのものか。

 そぼそぼと降りだした雪の珠を、少年の眼は捉える。

 ふと唇を濡らす冷たさに気づき、彼は指先で、口元にくっついた雪を払ったつもりであった。だが、それは雪ではなかった。気づかぬうちに彼の両の眼から滂沱(ぼうだ)と流れだした、止めどもない涙の粒。一刻ばかりか前に過ぎ去った出来事を、少年は急に思い出す。諏訪方から軍使として遣わされたクジャンという将が、辰野方に再び降伏を勧めてきたこと。その勧告が八坂神奈子からの『最後通牒』であると、気づかぬユグルでは決してない。だが、決戦の場からかろうじて生還した彼は、その最後通牒に対して「否」とも「応」とも口には出しかねた。ユグルは黙って、ただゆっくりと、かぶりを振るばかりであった。

 あの戦いから、未だ一日と経っていない。
 それゆえか全身に染み込んだ血の香も、未だはっきりと感じられる。
 鮮明な回想を可能にする条件は、幾つも出揃っていた。

 敵方の大軍に包囲され、勇戦しながらも確実に削り取られていく味方の戦力。
 血肉の色が雪の上に明々と落ちるときの、烈しいにおい。
 怒号と悲鳴と絶叫とに覆い隠され、戦いの狂騒が理性をいっとき麻痺させていたとしても、ときおり戻ってくる冷たい思考。そのときにこそ鮮やかに、まざまざと息を吹き返す死の恐怖。戦場のユグルに落ち着きを取り戻させたものは、しかし。自身の身に迫る死の恐怖というよりかは、これほどの災禍を辰野に招いた己自身の罪深さではなかったか。

 八坂神奈子が辰野に敷いた仕打ちは許せぬし、この志の正しさも知っている。
 ユグルはそう確信していた。戦おうと思えば、未だ戦える。戦力さえ整っていれば、一年でも二年でも大暴れできるだけの気概は確かに持っているというのに。だが、今となっては。もう戻ってはこない死者の代わりとして在る静寂(しじま)と、生きながら腐肉の塊と化していく廃兵たちの苦しみばかりが満ちる今となっては。

 戦うか、戦わざるか。

 その結論を出せぬまま、辰野人の誇りを護らんと未だ意固地である彼自身の心が、ただ、諏訪からの降伏の呼び掛けにかぶりを振らせたのだ。手にすべき剣ももはや折れたに等しく、矛を委ねる兵たちも今やない。それでもなおユグルという大将は、その魂魄(たましい)のうちでは負けたくないと願っていた。否、負けを認めたくなどなかったのだ。辿るべき道を違えてしまったということには、せめて気づいているとしても。

「いったい、私はどこで間違うた……」

 戦って亡びるか、それとも降伏して亡びるか。
 同じく死を選ぶのなら、いったいどちらがましだというのか。
夜が明ければ、敵の大軍はいよいよこの城を落とすために動きだすことだろう。それまでに、城を脱した人々は無事に諏訪の軍営に到ることができるであろうか。辰野の主としての心配ごとも、もはやどこか上の空である。

すべての決着がつくそのときに向け、ただ時間ばかりは、いずれの者にも等しく過ぎていくだけなのだ。


コメントは最後のページに表示されます。