Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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 その朝、辰野には霧が舞った。
 一刻か、二刻ほどのあいだであったか、その霧は山を駆け巡り、分厚く濛々たる乳色の闇で人々の眼を遮ってしまった。乳色をした冷たい霧は、あたかも山の頂が母の乳房となって、天をこそ乳飲み子として見ているかのように吹き上がっていた。『霧』は大勢の者の視界を覆い、方向の感覚をしばし迷わせ、足取りが今どこに向かっているのかを不明瞭にさせる。

 元より山などは、本来ならば人の通る道など無きものを、どうにか足を向けられそうな場所を道と呼んでいるのみに過ぎない。ならば山中を突き進んでいた辰野の軍勢が、迷わぬためにしばし足を止めるのも止むを得ざる仕儀であった。

「思いのほか、霧が濃いようですな。無理に兵を進めて道を見失っては元も子もございませぬ。霧に晴れ間が見えるまで、軍を進めるはお留まりなされた方がよろしいかと」

 辰野勢の総大将たるユグルは、将のひとりからそのような進言を受けると、何も言うことなく黙ってうなずいた。それを見届けた辰野の将らは、各部隊へ向け「小休止!」と告げまわる。みな安堵して、その場に腰を下ろすのがユグルにも解る。だが『霧』のなかゆえ、その姿までははっきりとは見えない。ただ、がちゃがちゃと武器や甲冑がこすれ合うかすかな音が、将兵の影とともに朧に映し出されているだけだ。

 ユグルは、首元に滲んだ汗を拭った。

 いかに冬のさなかとはいえ、ここまで急ぎ進軍の指揮を執れば、それなりに汗もかく。ぼろの布を首元に詰めて、襟巻きの代わりとして防寒にしていた彼は、しばしそれを外して首筋に風を当てようとした。が、しかし。

「霧ではないな」
「はあ……いったい、いかなる意味で?」

 少年の呟きに、たまたまかたわらに居た将のひとりが疑問を発する。

「いま漂うているは霧にあらず。よう似てはいるが、地吹雪であろう」

 言われて、将は足元に眼を落とした。

 地吹雪なれば、風が地面の雪を巻きあげて起きているはずだ。
 果たして彼の眼はユグルが言った通りのものを見つけた。風が、山肌に積もった未だ新しい雪を吹き飛ばし、あたかも霧のごとくに宙を舞っているのであった。粒の細かい雪と緩やかな風の勢いが、どうやら皆に『霧』であると誤らせたようなのだ。

「大勢の兵とともに山を駆ければ雪が蹴り上げられ、地吹雪も起きよう」
「あ、なるほど……」

 将は、ユグルの大将としての観察眼によく感心したらしい。

 十四の少年ながらに良い勘の持ち主だとか何とか、世辞めいた言葉を幾つか口にすると、彼は自分の靡下(きか)にある部隊の監督に向かった。将兵たちに囲まれながらも、ユグルはしばし“ひとり”の状態に置かれる。冬であるため葉を落としながらも、密たり繁茂する山の木々は、なお鬱蒼と辰野の将兵四百の頭上を押し包むごとく展開している。その真下でしばし憩う兵たちの様子を窺うにつけ、ユグルは「まずいぞ」と心中に舌打ちをしたい思いに駆られていた。

 休息に入ってから程なくして、視界を遮るほど烈しかった地吹雪は多少は収まっているようである。最初に比べれば、向こうの景色もよく見えるようになっている。だが、それだけでは安堵できなかった。

 此度、自ら城を出て本隊を率いてきたのは、山中に置いたはずの物見の拠点の幾つかと連絡が取れなくなり、麓に布陣しているはずの諏訪方の様子が伝わりにくくなったからだ。夜のあいだ、何の合図を意図したものか、各拠点から火矢が幾本か射られているのも眼についた。おそらくは向こうから何らか仕掛けてきたのであろうというのは、直ぐに解った。そして、――事前の予想通り、夜のうちに山中へ向けて本隊を進軍させてくるであろうということも。

 ならば諏訪本隊が真っ先に狙うのは、この山にて第一の要衝たる、あの狭隘な坂道だ。

 あそこさえ手中に収めてしまえば、このいくさの主導権を握ることができると言っても過言ではない。むろん、ユグルとてそのような相手の作戦をむざむざと看過するつもりはなかった。坂道を奪われれば、もはや味方は城に押し込まれて大軍に囲まれ、ゆっくりと擦り潰されて嬲り殺しにされるだけである。そんな無様な最期を、武人としての彼が許すはずもないのである。

 それゆえ、

「いま城を出ては、山中にて諏訪の大軍と直に会することになる! そうなれば数で劣るわれらは瞬く間に蹴散らされるぞ!」

 副将たる叔父のそんな反対を押し切って自ら先頭に立ち、坂道まで兵を進めるつもりだったのだ。城に籠って嬲り殺しにされるよりは、いくさの趨勢をめぐって一擲の大勝負に出る方が未だ勝ち目がある。……、否、三千の大軍相手に勝ち目など、万にひとつもないと本当は解っていたが、それでも華々しくひといくさに参じることができれば、未だ己が名を汚さぬと思うこともできる。そのためにこそ、ユグルは危険を侵して城を出た。

 しかし、実際は。

 夜明けから吹き始めた風が山肌を攫い、霧と見紛うぼやりとした地吹雪を吹きまくらせた。おかげで、ただでさえきつい雪道の行軍がさらに難度を増し、飢えた兵らは未だ会敵を果たさぬまま疲れ始めている。自然と行軍の速度は低下し、こうして雪の粒を肌に貼りつかせながら休まざるを得ない事態となっているのだ。

 ユグルは、今度こそ本当に舌打ちをして天を仰ぎ見た。
 雲は、一片の鈍色さえも含むことなく、ただ白い。その白さがユグルには恨めしい。白い雲は、まさに乳飲み子が乳を欲するごとく、自然の有りようとして風を吹きまくらせているのだから。これが未だ何者かの策謀であれば、そいつひとりを恨むことでいら立ちの棄て場も保てるものを。

「どうか、こちらの方が速く決戦の場に到ることできれば良いのだが、……」

 髭の剃り跡も未だ青々とした頬を撫でながら、誰に聞かせるでもなくユグルは独語した。

 地吹雪という気象の条件は敵も味方もおそらく同じで、なおかつこちらの行く手は『下り』、向こうは『上り』。常識で考えれば後者の方がより兵が疲れやすいとはいえ、諏訪三千の兵を率いているのは、紛れもなくいくさ神なのである。よもやユグルらの知らぬ神通力で、人の眼を塞ぐこの地吹雪の壁を、易々と通り抜けてしまうのかも知れぬ。

 言うまでもなく、そんなものは確証のないただの不安だ。
 しかし、夜のうちから諏訪方が迅速に動き、辰野方の設けた拠点を潰しまわっていたということは、すべてにおいて、向こうはこちらを出し抜くために周到な用意を重ねているに違いないということ。攻め手が守り手より鈍重であると、いったい誰が決めたというのか。

 ノオリの心を繋ぎ止めれらなかった己の不徳を、ユグルは自嘲し、フと笑った。

 もし彼が未だに辰野方に属する将であったなら、斯様に伸るか反るかの勝負に出る必要などなかったのかも知れぬ。だが、今さらになって居なくなってしまった者を惜しむのは、ばかのやることだ。ここまで来てしまった以上、“道を突き進む”以外の手段は、もはやユグルに残されていないのだから。

 腰に佩いた剣の柄に手を掛けながら、ユグルはまた笑った。
 やはり自嘲の笑みであった。笑うごとに、どうしてか己が惨めさのようなものが、戦いへの意気で糊塗され見えなくなっていくような気がしたのである。

 ただ一方で――彼の笑みは周囲の将兵らには甚だ“猛々しい”ものに見えて仕方がなかった。ユグルの顔に浮かんでいる自嘲のための微笑は、図らずも、勝利の確信をつかんでいる証として皆の眼には映っていたのである。その皮肉な事実ゆえ、決戦を怖れて軍勢から逃げ出すような兵は、ついにひとりも出ることがなかった。


――――――


「霧が――地吹雪が晴れた。行軍を再開する!」

 ぼろの襟巻きを首元に詰め直し、ユグルは下知を発した。

 直ぐさま随行の将らが各々の部隊にその旨を伝える。
 雪を床として座り込んでいたせいで尻はすっかり冷えていたはずだが、皆の顔にはそれを苦にするようなところとてない。ユグルは「はて、な」と思う。特に何か訓示を下したわけでもないというのに、なぜか急に将兵らの士気が上がったように思えるのだ。

 あるいは、これは自分の錯覚だろうかと少年は思ったが、決戦を前にして天が授けてくれたひとつの幸運かもしれぬと考え直し、またも唇に微笑を浮かべた。今度は、自嘲ではなしに本当の自信の笑みである。兵と大将、ふたつの立場に訪れた偶然は、戦いに向けた不安をにわかに拭い去っていく。よもや兵がみな将たちの志に同心しているはずもないのだが、勝てるかもしれぬという思いがひとまずは起こりつつあったのは、やはり、辰野勢に訪れた幸運と言えるのかもしれない。

 静かに意気を昂ぶらせながら、四百の将兵は敵を探して進んでいく。

 良かれ悪しかれ山の天気は変わりやすい。
 途上にてはついに風がぴたりと治まり、濃霧めいて視界を覆い尽くしていた地吹雪も、今や跡形もなく静まっている。後に残るは、辰野の軍勢がざくざくと雪の原を踏み砕く足音であり、また、徐々に熱くなっていく息が冬の空気に取り込まれ、白い靄となって融け消えていく光景ばかり。彼らが進む先の道々には、寒さに葉を落として骨のように痩せた樹木が幾つも幾つも立ち並んでいた。枝と幹とは雌雄の蛇が今まさに睦み合っているかのように捻れ、絡み合っている。まるで、軍勢を迎えるひとつの門であるようにさえ思われる。

 地形からすれば、彼らはあの『坂道』に未だ到っていない。

 現在は、未だ城を出てしばらくの、多分の起伏ある場を進み続けているに過ぎない。しかし、方向としては“下山”の途上たる四百の辰野勢は、その身の感覚には確実に、ゆるやかながらも傾斜の度を増す感がある。すなわち、山の頂上側から見ての『坂道』には、もうかなり近づきつつあると言っても良かった。自然、指揮を執るユグルの足も早まっていく。進めば進むほどいくさが、死の気配がひしひしと近づいてくるというのに、彼の足取りはいちども鈍るということがなかった。

 遠いな。未だ遠いな。
 そんなことを、口中、ユグルは噛み締めた。
 彼の足取りがこの道の途中――ひときわ醜く捻れ、風に屈するみたいにその幹を歪ませた数本の木、その根を踏み越えたとき。少年の抱えていたものは、あたかも頂点に達したものと思われた。

「……物見!」

 ユグルは、行軍の一時停止を下知することもなく、ただひとことだけ発して部下を呼びつける。先頭近くを進んでいた彼が急に足を止めたものだから、軍勢全体が驚いて再び立ち止まる。それでも大将の意は直ぐさま下達され、物見役を請け負っている兵が二、三人、雪に足を取られぬよう気をつけながら、慌てて駆けだしてくる。言うまでもなく、辰野の兵たちの中では抜群に眼の良い者たちだ。

「いかがなされましたか」

 部将のひとりが、不安げに問うてくる。
 その顔には、雪中の行軍ゆえだろう、ほんの少しとはいえさすがに疲れが滲んでいた。
 が、ユグルはそれを一顧だにすることなく、物見の方をこそ真っ直ぐ見据えている。

「先ほど向こう側に、何かきらりと光るものが大勢、在るような気がした。ちょうど、われら目指す坂道へかけての場と思う。もしかしたら、敵がもう直ぐそこまで迫っているのかもしれぬ。おまえたちには、周辺の様子を検め、その次第を報せて欲しい」

 そんな命令を発しつつ、ユグルは息を呑むばかりの思いに駆られていた。

 向こう側に見える“きらめき”は、雪の白さに紛れるかのように進んでくる敵勢。
 そのように思って少し臆病なまでに動いた方が、このいくさでは機先を制することに繋がるかも知れぬ。一方、雪の地面に片膝ついて命令を受けた物見たちは、各々、無言にうなずいた。そして、坂道の方角を顎で示したユグルに改めて一礼をすると、本隊に先駆けていち早く雪道を駆け下りていく。彼らの姿は、延々と続く真っ白さのなかへと、あっという間に隠れて見えなくなってしまう。

 それから、少し。
 太陽が指先ほども傾きを増した頃合いに、物見は辰野勢の本隊に戻ってきた。

 皆、急ぎ山道を駆け上がって来たと見え、ぜえぜえと息を切らしている。味方に迎えられ、倒れ込むように体勢を崩しかけた物見たちに、他の者らはその腰に携えていた竹筒なり瓢箪から水を飲ませてやった。彼らの息が落ち着く頃合いを見計らって、ようやくユグルは「どうであったか。敵は近くまで来ていたか」と訊ねる。すると物見たちは口を揃えて、

「御大将の仰せの通りです。この向こう側近くまで、もう諏訪の軍勢が迫っています……!」

 と、言った。

「おお、でかした。で、数は。数はどのくらいか!?」

 ひとりの将が、胸倉につかみかからんばかりの勢いで訊ね始める。
 物見のうちひとりが、唇をぺろりと舐め湿らせてから、さらに答えた。

「三百、ないし二百。見たところ先鋒の軍勢かと思われますが、そのさらに向こうには二千以上の兵もあり。おそらくは、そちらの方が本隊かと。列を成す敵軍の“尾”は、なお麓に留まるか留まらぬかといったところ」

 その状況が報告された途端、兵らにどよめき、ざわめきがじわじわと広がっていく。
 決戦に当たっての武者ぶるいであったろうし、あるいは敵勢が自軍に数倍する規模であることを危ぶむ声でもあったろう。だがいずれにせよ、皆は矛や弓を握る手に、新たな力を入れ直した。

 一方のユグルは眼を剥いて――山々の連なりをじいと睨めつけていた。

 この向こうはもう、要衝たる件の坂道である。
 やはり見立て通り、敵はあの坂を陥れんと進み来たるものであろう。
 ならば、いつまでもここで四百の将兵を虚しく遊ばせているわけにはいかない。
 電子的な通信手段など影もかたちもない時代、隔たった場所同士で情報を遣り取りするには人馬の駿足に頼ったり、そうでなければ狼煙(のろし)を使ったりするほかない。当然、現場での事態の発生から情報の伝達までは、かなりの時間差が生ずる。ならば諏訪軍は、物見が実際にその眼で見たよりもかなり前進しているはずである。ならば少しでも早く進軍し、敵の頭を押さえる必要があるだろう。山中に敷いた味方の監視網が諏訪方の手に落ちていると仮定すれば、むしろこちらの動きもまた敵に読まれている危険すらあるとはいえ。

「聞け! まずわれらは敵に気取られぬよう息を殺して進軍し、坂の上側に陣取る。兵法によれば、いくさはまず高所を取った方がより優位に立つ。そのまま地の利を活かし、敵の先鋒にまたしてもひと泡吹かせてやろうぞ!」

 ユグルの言葉に、将兵は無言で矛を振り上げた。
しょせん、わずか四百の小勢。いくさ慣れしていない農民出身の者も多い。それでもなお、かろうじてと言うべきか、なけなしの勇気を振るって彼らは戦いに赴こうとしていた。

 それから将兵たちは、ユグルの命令をよく守った。
 呼吸はもちろん雪を踏み砕く足音さえ置き忘れてしまったかのように、ひたすら粛々と、傾斜を増しつつある下り道を進んでいった。小勢なのが幸いして見つからずにいるのだろうか、敵が飛び出してくる気配もない。彼らは祈りながら歩き続けた。敵が未だ姿を現さぬのが、何らかの策ではないことを。皆の口から吐き出された白い息が、中空に連なって進んでいく。

 そしてその道行きは、幾つ目かの小さな峠を越えたとき、ついに終わりを迎えた。

「……弓隊、前へ」

 総大将が、そのように命じたのである。

 程なくして、数十人から成る弓兵の部隊が軍勢のもっとも先頭に立ち並ぶ。
 半農半狩猟の生活を送っていた者が多い彼らとても、いま眼下にあるものはいかなる餓狼の群れをもはるかに凌ぐ脅威であったことだろう。諏訪軍の先鋒三百。息を切らしながら、矛を担いで懸命に坂を上って来るではないか。そして、どうやら向こうは未だこちらに気づいている様子がなかった。軍勢のなかほどに居る大柄な男が大将らしいけれど、彼自身、周囲を気にしつつもどこか散漫な様子。対する辰野の兵たちは、木々と岩と雪の陰に紛れ、笑いを殺したい思いすら抱いて、諏訪兵たちを睥睨している。

「矢をつがえよ」

 じわりと染むようなユグルの声。
 弓隊は、弓弦の擦れる音を立てることもなく、静かに矢をつがえた。

「まずは狙いをつける必要はない。宙へ向けて矢を放つのだ」

 まばらな、うなずきがあった。
 いち早く開戦の第一を仰せつかった弓兵たちは、言われるがまま、眼下に向けていた鏃(やじり)の狙いを翻す。

「未だだ、まだまだ」

 諏訪方はなお、赤子の這うごとく緩慢な動き。
 いら立ちと焦燥と緊張と。そのどれかひとつでも先走れば、矢を放つより先に人間の正気の方が弾け飛んでしまいそうなほど張り詰めた空気である。将も兵も、総大将のユグルも。いくさの始まりを見定めんとし、そして――――!

「今だ、……放てえぇッ!!」

 そのとき、偶然にも敵勢の先頭に立っていた兵のひとりと、ユグルの眼が合った。

 突如の号令に驚き慌て、声のした方を探ろうと四方八方に視線を飛ばす敵は幾人も居たが、そのうち辰野の総大将であるユグルと眼が合ったのは、その兵ひとりだけであった。だが、その彼の眼は直ぐに雪の冷たさを理解することになる。空中から飛来し、ちょうど首の付け根に突き刺さった矢は、一撃で彼の命を繋ぐ神経を寸断し、容易く絶命をもたらしたからだ。

 彼と同様、諏訪軍先鋒のなかでも先頭の辺りに位置していた兵たちは、ユグルの号令のもと辰野の弓隊が放つ矢の雨に貫かれ、何が起こっているのかも解らぬまま、いたずらに屍を晒すことしかできなかった。額といわず首といわず背中といわず、彼らの気づかぬ間に高所を取った辰野軍の矢は、瞬く間に数十もの“死んだ針鼠”を量産していく。そして彼らを殺す弓矢の攻撃は、高所から放たれることに加え、いったん宙を目掛けて飛翔したあと大地の引力に引かれて弧を描きつつ落着してくるのだ。

 物体の落下する位置が高ければ高いほど、落着した際の衝撃力は増加する。

 その極めて単純な物理上の法則は、空中を高々と飛ぶ鏃に対し、金属(かね)の甲冑をまとっている者の胴さえも易々と貫通させるほどの威力を発揮した。そして弓矢による攻撃が都合十度ほどもとくり返されると、辰野の弓隊の箙(えびら)は、粗方、空になっていく。矢の雨がすっかりと止んだ頃にはもう、坂道に残っていたものは、諏訪方の死者から溢れだした鮮血の雨ばかりであった。

「もはや窮屈に身を屈めることも要らぬ。皆、鬨を上げよ!」

 弓隊を下がらせたユグルは、自らも鉄剣を抜き放った。

 彼に応じて四百の将兵は、おう、おう! とうなりを上げる。
 鉦も軍鼓もない人の声だけの鬨である。しかし、もはやそれで十分なのだ。あっという間に数十の味方を虐殺された諏訪方の兵が、その顔にわずかな怯えを貼りつかせてこちらを見上げている。その事実に気づいた時点で、辰野の戦士たちの意気は天に限りがないごとく、一気に膨れ上がっていく。

「矛を構え、盾を掲げよ! いざ、進め!」

 再びのうなりは、これまででひときわ大きな鬨であった。

 総大将ユグルの号令一下、辰野の将兵は眼下に立ち尽くす敵勢へ向けて一直線に突撃を開始した。坂の上方から下方へ。速度と体重と、そして何より己のうちに燃えたぎる殺意を乗せた、鋭利きわまる坂落とし。兵たちの盾と盾の隙間から、鈍く光る矛が突き出、それが一気に坂を駆け下ってくる様子は、あたかも幾百の利剣の生えた壁のごとく諏訪兵の眼には映ったことだろう。一歩、また一歩。風よりもなお疾く(とく)とばかり、辰野方が築いた矛の衾(ふすま)は最初の矢の雨で混乱した諏訪軍へ向けて殺到していく。近づけば近づくほど相手の顔の細かなところまでも解ってくる。見れば見るほど、諏訪兵は辰野を怖れている。吼え、うなり、絶えず鬨を上げながら突撃する四百の辰野兵。その鋭い穂先は、ついに諏訪方の先鋒に喰らいつかんとする。

 敵と味方、互いの矛と矛とが交わる最初の一撃。
 辰野の山に、幾度目かの血の霧が舞った。


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