Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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「何だ!? 敵の向きが…………逃げるというのか」

 諏訪軍最前衛に身を置いていた神薙比は、唐突に手ごたえを失くした戦いに驚き、味方の肩を突き飛ばさんばかりの勢いで敵の姿を追い求める。しかし、彼の気づきも数瞬遅い。つい先程まで諏訪方の大軍相手に激戦をくり広げていた辰野軍は、すでに戦場から離脱しつつあった。突くべき敵、斬るべき相手を喪った矛と剣が、むなしく血の赤さのみを遊ばせる。斃すべき者を逃した神薙比は年甲斐もなく怒り、地面の雪を思いきり蹴り上げた。

「ええいッ! ユグルめ、臆したかッ!」

 怒ったのは、八坂神奈子も同じであった。
 後続の部隊を引き連れてようやく戦場に到着したというのに、敵は退却の体勢。
 勝ったのは自軍とはいえ、武人としての性質(たち)からすれば後味は悪い。なれど、そこはさすがの軍神である。雌雄を決すべき戦いを完遂できなかったことよりも、まずは敵の戦力を漸減させるべきだと直ぐさま思考を転換させる。未だ血に濡れぬ刀を翻し、神奈子は弓隊に次の指示を飛ばした。

「敵が逃げきる前に矢を射掛けよ! いま敵を射るは、山鳥を射落とすより容易きこと!」

 神奈子に率いられていた後続部隊から、間を置くことなく弓兵たちが飛び出してくる。
 弓弦を引くまでの時さえ惜しいか、神奈子の怒号じみた攻撃の命令が続けざまに飛び、坂道を疾く走る辰野兵の背を矢の雨が追った。相手は逃げることを第一としたため、反撃もなければ防御もない。後ろから射抜かれ、雪上に血の跡を残して数名の辰野兵が坂を転げ落ちる。しかし、それだけだ。高所を狙っての矢はさほどの損害を相手に与えることはできなかった。

 だが、そのとき。
 いったんは退却を始めていた辰野軍に、またも大きな異変があった。

 諏訪弓隊の攻撃で数名の兵が斃されるのを見計らったかのように、軍勢の最後尾、およそ百名余りと思われる数の者たちが、急遽、反転して坂を駆け下り始めたのである。そのとき諏訪の将兵らは、戦いがいったんは終わると思い込んでいた。だから鬨を上げるも忘れて、多くの者が疲れきった身体を引きずり盾も矛も構えてはいなかった。安堵と沈黙が広がりかけた諏訪兵たちの耳に、辰野軍最後の抵抗の雄叫びは、あたかも山の魔物の咆哮とさえ聞こえたかも知れない。彼らは再びおののき、震えた。辰野の殿軍が限界の近づく命の底から絞り出した絶叫は、それほどまでに怖ろしげに響き渡る。

「八坂さま、どうやら殿軍(しんがり)にございまするぞ」
「解っておる。最後の最後まで往生際の悪き者たちよ」

 合流した神薙比の言葉に、神奈子は奥歯を噛み締めて笑った。
 ほとんど歯を軋らすような、苦しげな笑みである。どこまでもこちらに退屈をさせぬ者たちだと、心中にそのような皮肉を思わずにはおれない。だが、それで彼女が臆することなどない。両軍の将兵に踏みならされ、すっかり平らになった雪に新たな足跡を刻みながら、抜き身の蕨手刀を握り締める神奈子。

 彼女は味方の兵たちを押しのけるようにして、自ら軍勢の先頭に立った。
 否、兵たちの方が、彼女から発される凛々たる闘気に畏れ、自ら道を空けたのかもしれない。そこに大地を震わし、辰野殿軍が最後の突撃を敢行しているのだ。そのもっとも先頭にある矛は、程なく諏訪軍を捉えようとした。狙いは――言うまでもなく軍神八坂。しかし。

「その意気、良し。ためらいのなさもなお、良し。だが!」

 自らに向けられた矛が、胴に達さんとするまさにそのとき。

「そなたらごときに我は殺せぬ。なぜならば、この八坂がいくさの神であるからだ!」

 彼女は辰野兵の突き出した矛先を、空手でぐわりと鷲掴みにしたのである。
籠手による防備を経ているとはいえ、勢いよく直撃すれば尖端が甲冑を突き抜くくらいの威力を持つはずの、鉄の矛をである。しかし神奈子の手はまったくの無傷。籠手にさえ傷や敗れはひとつもない。そして直後、並はずれた剛力か、それとも軍神の権能なのか、神奈子は辰野兵の矛の先を、一息に握り潰し、砕いてしまった。その破片の断面はどういうわけか――この一瞬で急速に錆びついたかのごとく、赤茶けて、ぼろぼろになっていた。

 自らの武器が破壊されたことに気づき、辰野兵の顔に汗が滲む。
 だが神奈子はそんな様子を一顧だにすることもなく、手にした刀を横薙ぎに一閃、その剣尖は相手の頸元を瞬時に抉り取った。断続的に噴き出す死者の鮮血……それを合図に代えて、再び戦闘が開始される。

 あっという間にひとりの仲間が斃され激昂したか、他の辰野兵はことさらに鬨を烈しくした。兵らにおいてもっとも必要なものは、死の恐怖を克服するための狂騒である。ならば彼らはいま、人が本来持っているはずの、死に対する怖れが完全に麻痺している。

 涙、汗、涎、洟、そして返り血。
 およそ人の身体がつくりだすあらゆる液体で顔中をまみれさせながら、諏訪の総大将たる八坂神奈子を取り巻こうとする。しかし、神奈子はまったく怖れず、綽々たる余裕の笑みを浮かべていた。その笑みへの応え(いらえ)がごとく、直ぐさま進出してくる諏訪兵たち。最初の戦いで疲弊した前衛部隊に代え、神奈子が率いてきた後続の者たちである。数ではおよそ四、五百はいたか、新たに現れた無傷の諏訪兵たちは神奈子の身を護るべく、――しかしその道を遮ることもなきよう、すばやく展開を完了する。盾を掲げるのさえもどかしいと言わんばかりに、間断なく矛を突き上げ、辰野殿軍を攻め始める。

 一方、少数の辰野兵は壁を形成して防ぐこともままならない。

 しかし少数ゆえの利点というべきか、ひとりひとりがわずかな隙間を縫って諏訪軍の戦列への果敢な侵入を試みる。むろん、諏訪兵たちもそれを黙って見過ごすはずがない。諏訪と辰野の二軍の戦いは互いの戦列を侵し合い、再び乱戦の様相を見せ始めていた。

 そのようななか、今度の神奈子は自ら血にまみれることを厭わなかった。
 右を見れば敵が味方と入れ替わり、左を見れば味方の位置が敵に取って代わられているという錯綜した状況下、一人目の敵の胴を突いて殺し、二人目の腿を斬って蹴り倒し、三人目の喉を抉って黙らせる。瞬く間に手のうちの刀は人間の血と脂で濡れ光る。さなかに神奈子は、はっきりと愉しみを覚えていた。自らの操る刃が敵の膚(はだ)に食い込み、血の筋を断ち、骨肉を斬り砕く感触。元よりよく似た鉄と血のにおいが、いよいよ境をなくしていくこと。これがいくさの愉しみだ、快楽だと。

 だが、それとても。
 すべては満足な武器を得、勝ちを得ればこそのもの。
 彼女の振るっていた蕨手刀は、おそらくは優れた鍛冶の業を受けてつくられたものであったろうけれど、その業の精密さゆえ、刃は通常の鉄剣以上に脆弱であった。幾人もの敵兵を屠るうち血と脂に洗われ続けた刀身は、やがて切れ味を鈍くし、脆くなっていくのである。

 幾人目かの敵の顔面を縦一文字に切り裂いた直後、八坂神奈子の蕨手刀は、突如……その刀身の中ほどからぽっきりと折れてしまった。露わとなった鉄刃の断面が、濃く煙る血とはまた違った真新しいにおいを放つ。

「神薙比、剣を! 代わりの剣をよこせぇッ!」

 新たに襲いかかってきた敵を足払いで転倒させ、即座にその金的を踏み潰しながら、神奈子は近くで戦っているであろう副将を呼んだ。神薙比は横目にチラと大将を見遣ると、にィと笑って自身の剣を神奈子に投げ渡す。

 中空から地に突き刺さらんとする剣を器用に受け取った神奈子は、別な敵の首筋に剣尖を突き刺してぐりと回転させ、内部から相手の骨肉を抉り、潰す。そして噴出する血も快しとばかり、後ろから迫っていた新手へ振り向いた。敵が剣を振りかざして斬りかかるよりはるかに速く、その手は兜に覆われた相手の脳天へ向けて躊躇なくつるぎを振り下ろす。

 いくさ神の膂力から放たれた一撃は鉄製の兜を砕いて敵の頭蓋にめり込み、木っ端微塵に粉砕させ、その頭部を完全に崩壊せしめてしまった。眼窩からは未だ筋で繋がったままの眼球がでろりと垂れ下がる。つい一瞬前までは脳であった柔らかな破片が、頭蓋を満たしていた体液と共にぐちゃりと辺りに飛び散っていく。そのうちの幾辺かは神奈子の眉を濡らした。骸から漏れ出た“中身”からは、かすかな湯気が立ち昇る。

 神奈子ひとりで斃した敵は、およそ十余りにも及んだか。
 百ほどの敵を相手に一割も損害を与えれば、軍神の面目躍如ともなろう。
 眉から垂れ落ちる血と脂、飛び散った肉や脳の破片を拭い、彼女は目配せのように戦場の様子を確かめた。

 いかに死兵の群れとはいえ、元より連戦で疲労しきっていた辰野殿軍はすでに壊滅状態であった。神奈子が斃した十余りに加え、他の将兵も次々と諏訪軍に討ち取られていく。それでも敵はなお食い下がり、ひとりがやられるまでのあいだに二、三人の諏訪兵を殺傷してから果てていく。しかしやはりその損耗は、部隊としての統率を喪うに十分すぎるのである。

 それでもなお矛を握りながら死んでいく彼らの敢闘は、一面では武の極致であり、またもう一面では惨めな死というより他にないものだ。そうしているあいだにも神薙比が、容姿の判別に困るほど大量の返り血を顔面に浴びながら、ひとりの辰野兵を殺していた。その手に握られた剣は、おそらく死んだ味方から取り上げたものだろう。

 神奈子は静かに手を掲げ、前進を命じた。

 もはや辰野殿軍に組織だった抵抗は不可能。ならば最後にこの坂を占領すべく、諏訪の兵で充溢させなければならない。半数ほどが残った辰野兵たちは、ほとんど病んだ獣が狩り出されるかのような有り様で、最後の一兵までも殺し尽くされようとしていた。決戦の終わりは目前である。

 だが、そのとき。
 わずかに残って抵抗を試みる辰野兵の中から、ひとりの将が躍り出てきた。

 誰もが疲れきって足下のおぼつかぬ辰野殿軍のさなかにあって、その将だけはしっかりと雪の大地に足取りを刻んでいる。彼は諏訪兵より突き出される矛に気づくと、直ぐさま柄の部分を剣で斬り落とし、地面に転げた穂先を投げつけて相手を殺す。続けざまにひとり、ふたりと諏訪兵を斃しながら、将は諏訪軍戦列の一瞬の動揺をすり抜けて、真っ直ぐに神奈子の元へと突き進んできた。

「軍神、八坂であろう」

 言うが早いか、辰野の将は剣を振りかぶって大上段から神奈子へ斬りつける。
 しかしいくさの神とて伊達にはあらず。襲いかかって来る敵刃を難なく自身の剣で受け止めて、その斬撃を跳ね返した。

「推参なり、何者ぞ」

 笑みともつかず、怒りともつかず。
 神奈子は剣を構えなおし、敵将の名を問う。

 相手の甲冑は拵えこそ簡素だが、決して粗末な武具というわけではないようだ。
 無用な装飾性を排して防具としての実用性のみ重視した、まさにいくさのための道具と言うべき物。それを身にまとうのは、およそ二十歳前後かという青年であった。一目で神奈子は、この男こそが辰野殿軍を率いているのだろうと察しをつける。将の方でも隠し立てするつもりは毛頭ない。眼にだけ笑みを滲ませながら、

「名をば、トルバ。辰野の総大将たるユグルどのの従兄にして、辰野豪族がひとり」

 と名乗った。

 トルバ――むろん神奈子が知る由もないが、先にユグルに退却を進言したあの男の名であった。彼は最初の斬撃を防がれたことでいっそう警戒し、神奈子から五、六歩の距離を取った。辺りでは未だ諏訪軍による辰野殿軍の掃討が続いている。

「そのトルバなる男がいかなる目論みか……否、我に向けられしそなたの剣を見て問うは、甚だ無粋というほかあるまい」
「解っておるなら話が早い! おれは命をユグルどのに捧げ、この場をこそ最後の戦場と定めた。ゆえに殿軍をもって引き返してきたのだ。兵たちはきさまらに討たれて死のう。そしておれも死ぬであろう。だがそれは惨めな屍を晒して、ではない」

 叫んだトルバは、ぐッと踏み込みを強くした。

 そこから弾けた勢いは、ほとんど飛翔にも近い跳躍である。
 彼のすばやさは、一歩の足で数歩分も距離を縮めるがごときもの。
その直後、神奈子へ向けて放たれた逆袈裟の斬撃は、しかし軍神の身体は愚か、鎧や武器をも抉ることはなかった。神奈子もまたトルバの出方を察し、後方へ飛び退いたのである。

 だが彼の剣尖は敵を見失っても中空に惑うことはない。
 直ぐさま主の手のうちで剣は構え直され、切っ先ばかりが遠く神奈子の頸元へと向けられる。してみればこの一撃は、初めから威嚇の目論見も混じっていたか。トルバは「ちッ」と大袈裟に舌打ちをすると、

「おれはただ屍を晒して死ぬつもりとてなし。どうせ死ぬならば八坂の神よ、おぬしの首を断ち落として、その後、冥き(くらき)死の世界に棲まう魔の物たちに、一等の勲し(いさおし)として見せびらかすまで」

 そんな様子に見得を切る。
 
 神奈子は、急に可笑しくなった。

 幾多の返り血を浴びて冷えていたはずの身体が、途端に熱くなっていく。
彼女は、嬉しかったのである。このトルバという男が望んでいるのは、つまるところは一対一の決闘だ。さっき八坂神と豪族ユグルが行ったかのような――否、あのような、互いの正当性を誇示して戦端を開く口実とするためのものではない。

 大儀も政も関わりのない闘い、戦士同士の命の遣り取りである。
 八坂神奈子は軍神ではあるが、同時に一個の武人でもある。
 一軍を率いて戦うことと同様に、己の力量を衒いなく試すことのできる闘いの機会をいくさに欲してもいるのだ。そしてこのトルバという相手は――彼女が久しく迎えることがなかった、そうした決闘の機会を用意してくれる相手。

 そう思えばこそ、拒む気持ちなど起こりはせぬ。
 トルバの放った仰々しい大見得も、称えこそすれ卑しむつもりはひとつもない。

 相手の剣がこちらの喉笛を狙い定めているのと同様、神奈子も己がつるぎを構えてトルバの――その眉間に尖端を向けた。両者の隔てはおよそ二間半ほどか。一歩や二歩、速く動いたところで勝負が決するというわけでもあるまい。しかしながら、より迅速に敵の懐に入った方が“勝ちやすくはなる”。

 瞬時のうちに、神奈子はそこまでのことを計算した。
 だが、それはトルバとて同じことであったはず。
 人の身ながら軍神への一騎討ちを挑まんとするその勇は、むしろ好むところであった。

「死の間際に神との対決を望むとは面白き男よ。ならばこちらも逃げはせぬ。相手にとって不足もなし。さあ、いざ」
「勝、負――!」

 二者の咆哮は、なお戦場を包む鬨に飲み込まれ、かき消えた。
 一息か、二息か。白く曇る吐息が幕となり、刀身を薄く覆う。互いの視界をわずかに遮る。瞬間、神奈子はいま飛び込めば、直ぐに決着をつけることができるのではないかと直感した。トルバは未だ警戒して動けずにいる。一気に間合いを詰めてしまえば、敵は防御も回避も虚しくするより他にない。

 ――――ひとつ、やってみる。

 その結論を思考が導き出すよりはるかに速く、ほとんど反射ともいえる勢いで神奈子は数歩の間合いを詰めた。そして斬撃一閃、彼女の刀身が反射する光の流れは、いちど瞬きをすれば見逃してしまうほど一瞬の出来事である。

 水が流れる、という現象がそうであるように、そのしなやかな挙動は、確かにトルバの右手側から抉り込むような軌道を描いていた。しかし、その刃に手応えはなし。骨肉の断ち切れる感触は幻。神奈子の斬撃は、かわされたのである。

 空振った鉄刃が宙を斬る。
 舌打つ一瞬さえ惜しむまま、眼だけをぎろりとトルバへ向けた。

 彼の顔は見えぬ。
 鉄の鎧をまとった胴だけが、日の光を遮る影となって神奈子の視界を染め上げる。
 トルバは上体をひねり、あと数寸で刃がぶち当たるというところで神奈子の剣を回避したのだ。

 ぎり、と、歯を軋ったのは神奈子かそれともトルバの方か。
 どちらにせよ、初撃がかわされた後、一転して不利に立たされるのは神奈子の側でしかあり得ない。じりじりと、殺意の本流が自らの頭上を焼くのに彼女は気づいた。ぎらりと光って見えた何かは、トルバが再び姿勢を入れ替えたがために、一瞬見えた日の光であった。だがそのときの神奈子には、トルバから漏れ出た凶気そのものの揺らめきとも映る。

 右の耳に被さった自身の頭髪の先に、ひやりとした感触が走ったことに彼女は気づかされた。

 未だ、眼はその『正体』の方へと向いてはいない。
 とはいえほとんど本能で、何があったか気づいてしまった。
“斬られた”かも知れぬ。神奈子が回避に出たのは、ほとんど賭けに近い有り様だった。相手に向け踏み込んだときの勢いをそのまま、流れを殺さずに身体を倒し、雪の原にどうと倒れた。とにかく、大きく身体の位置を変えねばつるぎの直撃を受けることになる。そのような判断ゆえだ。だが、結果としてそれは奏功したといえる。空手で彼女は、“斬られた”と思った右耳に触れた。血の流れる熱い感触はない。寒さで痛みが麻痺しているというのでもない。ただ、細かな髪の毛の破片ともいうべきものだけが、手のひらにくっついている。神奈子もまた、すんでのところでトルバの斬撃を避けたのだ。

 身を白く染める雪の塊を払うこともなく、彼女はすばやく立ち上がった。
 視線の向こうには、やはりトルバが剣を構えてこちらを睨んでいる。
 思わず、にやりと笑んだ。トルバもまた、同じ表情(かお)をしている。一筋縄ではいかぬ相手だと、互いに認め合ったのであろう。

 そして、ふたりが相手への評価を一新させ合った、直後。

 次に踏み込んできたのはトルバの方からだった。
 一歩、二歩、三歩。相手の隙を突いて瞬時に斬りかかる策ではない。
 徐々に距離を詰めつつも、一歩ごとに歩みを速めて近づいてくる。
 呼吸を整え、構えを新たにする神奈子。いま再び攻めるべきか、それとも敵の一太刀を受け止めるべきか。一瞬の逡巡はあったが、先だっての失敗は彼女にそのどちらをも選ばせなかった。否、選ぶ間もなかったというべきか。いよいよ神奈子の懐へ向けて駆けたトルバは、剣尖を自らの左上方へ大きく跳ね上げた。神奈子からすれば右手側を狙われていることになる。攻めるべきか、受け止めるべきか。結論もなきまま、雪を蹴って飛び退かざるを得ない。寸時、遅れて、追尾してきたのは、確かにトルバの斬撃であった。袈裟懸けに振り下ろされた一撃は、またも神奈子に喰らいつかず。

 だが、トルバは顔を顰めなければ舌も打たぬ。

 空振りして雪の地面すれすれを這った彼の凶刃は、いちどその位置を低めたぶん、さらなる殺気によってか速度を速めた。「ちッ、」と、神奈子の舌打ちより、鉄と鉄とがぶつかり合う音の響く方が先だ。今度は回避できぬと見て、神奈子は直ぐさま自身の剣を翻し、やはりぎりぎりのところで相手の攻撃を防御したのだ。上方より袈裟懸けに過ぎた一撃目に続き、トルバは刃の向きをほとんど返すことなく二撃目を放ったのである。先と後の攻めで、軌道はちょうど楔型。両刃の直刀なればこそ可能な、すばやい“手”であった。

 殷々と、互いのつるぎのぶつかり合う音が、二者の耳朶(みみ)にはこだました。
 周囲を押し包む戦場のやかましさも、今では沈黙も同然だ。鉄刃が震える重々しい衝撃。人を斬り、殺すときの生々しい感触とは違う。どこまで行っても武骨で、容赦のない緊張感だけが心身を充溢させていく。

「お、オ、ッ!」

 咆哮し、次は神奈子の方から仕掛けた。

 地面の雪をほとんど蹴り上げることもないのは、彼女が浮き足立ってはいない証。
 思わぬ強敵の出現を喜び、その強さにおののき、しかし未だ冷静さを喪ってはいないことの何よりの証。清澄の心で振るわれる苛烈な剣は、およそ三度か四度の打ち合いに及んだ。突き、横薙ぎ、逆袈裟。互いにいずれの攻めも、くり出すたびに防がれ、また防いだ。その度に鉄剣を通してびりびりと手に痺れが走る。神奈子とトルバ、どちらか一方でも並の使い手ならば、とっくに決着がついていてもおかしくはなかった。

 時の流れにすれば――それこそさして長く続いている決闘でもないのだ。
 しかれども今ふたりからは、剣を振るうたび身のうちに生まれる熱の象徴であるように、真白い湯気が立ち昇りつつあった。

 やがてどちらの口からともなく、冗句らしいものが漏れ始める。

「そろそろ、きついのではないか」
「それはこちらの申すこと。勇んで向こうてきた割には、いささか張り合いのない剣よ」

 勇を振るうというよりは、いささか虚勢じみた遣り取りだ。
 両者ともに、一撃ごとに多くの力を消耗しつつある。それなのに決着がつかぬでは、埒が明かぬというほかない。『決戦』の幕を下ろすのは、この『決闘』でなければならぬと、ふたりは共に念じていた。

 ならば、確かに『次』こそが、この闘いの最後となろう。

 トルバには気取られぬよう、努めて静かに息を整えながら――神奈子は彼我の位置の関係を確かめた。先ほどまでは、幾度か互いの位置を入れ換えながら打ち合ってきた。その結果、坂道の上方に神奈子、下方にトルバが立っている。風向きは麓側から山の頂上側へ。山肌を駆け上がるように巻き起こる小さな地吹雪の動きから、それと察しをつける。

 舌先をわずかに出し、片方の口角を濡らしながら。

 神奈子は『次』の訪れを窺っていた。
『次』を手にしたものが、この決闘の勝者となる。
 むろん、トルバもそれが解っている。だからこそ、むざむざと敵に『次』を渡さぬために、ふたりともが動けずにいるはずだった。

 逆巻くような風のなか……そのとき、トルバが剣の構えを変えた。
 自身の左側を、彼は、少し空けるように見えた。剣尖が揺らめき、右方を向く。
 ということは――神奈子からすれば、向かって左側から攻めかかるつもりということか。

 ――――今、こちらからなら。

 と、彼女は脳裏に直感する。

 ――――私の向かって右側、トルバの左半身に空白。
 ――――それはつまり“隙”があるということ。
 ――――隙を晒してまで、一擲の賭けめいた勝負に出るということだ。

 表情こそ変えることなく、神奈子は心中、ほくそ笑んだ。

 ――――ならばその勝負、乗ってやらぬわけにはいくまい。

 さらに、一瞬。
 湧き立つ闘気も隠さぬまま、神奈子は雪を蹴り上げ、吶喊(とっかん)した。

 狙いはトルバの左方、大きな隙が生まれた、かの空白である。
 先に刃を閃かした方が、勝ちをものにする。
 瞬きほど遅れて、ついにトルバも駆け始める。互いの視線が刃越しに交錯する。神奈子はぎりとつるぎの柄を握り締め、力の限り振り下ろす、が、しかし。

 にやと笑むトルバの顔を、神奈子は見なかった。
 坂道の傾斜をも勢いに加えて跳んできた神奈子の攻撃を、彼は難なく回避した。
 神奈子の斬撃は獲物を喪い、空を斬って雪の塊に突き刺さる。
 トルバは即座に剣の向きを変えた。いま無様に隙を晒したのは、紛れもなく神奈子の方。剣尖が雪に埋まる瞬時の隙を、彼は確かに見逃さなかった。すべては策であった。あえて隙を晒すように見せ、神奈子を自らの必殺の間合いにおびき出すための策であった。「勝った!」と彼は思った。また構えを変じ、神奈子の背へ向けて刃を振り下ろそうとする。

 だが、そこに。
 隙ではないほんの小さな、『慢心』が生じていた。
 およそ命の遣り取りというときにこそ、そうした『慢心』がすべての優劣を逆転させる。

 二者のあいだに、白く、小さな塊が飛んだ。

 地面を跳ね上がったその塊はなかば溶けかかったものではあったが、形状(かたち)を崩すことなく目標に衝突するには十分な強度を保っている。トルバは思わず眼を閉じてしまった。その剣も狙いを狂わせ、ただ震える。おそらく彼のその行動は、ほんの一瞬のことでしかない。しかし、その一瞬が――八坂神奈子が『次』を手にするためには、その一瞬さえあれば十分だったのだ。

 がちり、と、乾いた……同時に不吉な音がトルバの耳を打つ。
 それとほとんど同時に、その顔面に鋭い衝撃が走った。
 うめき声も発せぬまま、一拍遅れて後ずさる。寒さで麻痺していた感覚が戻ってくる。烈しい痛みが彼を襲った。眼を開けると――そこにはトルバの血に濡れた剣を手にした、軍神八坂が立っているのだ。

 数瞬の前、トルバへ向けた一撃を外した神奈子は、その剣尖を地面の雪に埋もれさせてしまった。しかし、それこそが神奈子の策だったのだ。剣尖で雪の塊を大きく跳ね上げ、それをトルバの顔面にぶつけることで怯ませる。そして生じた隙に神奈子は剣を翻し、トルバに『次』の一撃を与えたのだった。

 彼女の策は、紛うことなく図に当たった。
 トルバの兜の眉庇は、神奈子の鉄剣で斬りつけられたことによって大きく損壊していた。そしてそれだけではいくさ神の剣は防ぎきれなかった。彼の顔面は、左目の上から右の顎にかけて、斜めに縫うように大きな裂傷をつけられていたのである。とめどない出血がトルバの頬を真っ赤に濡らす。神奈子は、いちど血振りをした。赤い筋が剣から消える。その眼はあくまで、沈着、冷徹。勝負はもうついた、とでも言いたげに、愉悦の熱は鎮まりつつあった。

 しかし、それで収まりがつかぬのは、斬られたトルバの方である。
 血の止まらぬ傷口を手で必死に押さえながら、彼は吼える。

「雪をぶつけて眼を潰すなど卑怯な真似を! おぬし、それでも武人か!」
「ここは戦場。およそ刃握って命の遣り取りを行う場には、非情はあっても卑怯はない」
「詭弁を弄しおって――!」

 顔面の傷口から手を離し、トルバは再び剣を振りかぶった。
 義憤にも似た怒気が、雄叫びに変じて吐き出される。
 雪を蹴り上げながら、彼の足取りは確かであった。もはや技も策もない、力任せの一撃。神奈子はそれを自身の剣で受け止める。と、そのとき。

 血に濡れた顔のまま、トルバは、眼を、かッ、と見開いた。
 震える唇には、戦慄と恐怖が宿っていた。
 彼の剣は神奈子の剣と打ち合った瞬間、ぼろぼろと錆びつき、崩れ落ちてしまったのだ。

「化け物か、おぬし」

 トルバはもう、歯を軋ることさえできはしない。
 柄だけになった剣を取り落としながら、それでも逃げ出さぬのはやはり武人の矜持ゆえか。一方、神奈子はまた笑みを新たにした。
 
「化け物? 見当違いも甚だしいわ。我が首に代えて、我が名を冥界に持って行くが良い!」

 口角を釣り上げ、その眼を光らせ。
 神奈子はいまいちど、剣を握る腕に全力の技を込め直した。
 しばし自らを愉しませてくれた、寸時の勇者に報いるべく。

「我が名は八坂神奈子。我こそは神。軍(いくさ)の神よ!」

 横薙ぎに、真一文字。
 神奈子の剣で断ち落とされたトルバの首が、真っ赤な霧を吹き散らしながら宙に舞う。

 音もなく、鋭利な早業である。決闘は、ついに神奈子の勝ちに終わったのだ。
音もなく雪の上に転がった敵将の首を中心に、赤黒い血溜まりが広がっていく。制御を喪った胴体もまた斃れ伏し、両将のあいだには沈黙が戻ってきた。

 唇を伝って舌を濡らす返り血を、神奈子は舐めた。

 誰の血であったか、いま討ったトルバのものか、それとも他の敵のが今さら流れ落ちてきたのか。まるで見当もつかない。そして戦場の趨勢は、諏訪方が完全に掌握しつつあった。ユグル率いる辰野本隊は本拠地たる城砦へ向け退却。後を引き受けた百余りの辰野殿軍も壊滅、その将たるトルバも神奈子に斃されたのだ。

 溜め息ひとつ、大きく吐き出し、彼女は再び空手を上げた。

 頃合いを見計らって戦闘の停止、それから虜――捕虜となった者を集めるよう指示を下す。仔細を検めるべく、彼女は決戦場となったこの坂道を、端から端まで歩いてみた。雪に包まれてあれほど真白かった一帯は、両軍将兵の流した血の赤を吸い込み、斑に染まりきっていた。勝ったのは、八坂神奈子率いる諏訪方である。とはいえ、さしたる興奮はない。無数に横たわる敵味方の屍体を見れば、それも道理と言うほかない。およそ軍神らしからぬ感傷ではあるのだが。

「逃げ遅れて虜となりし辰野の兵、およそ三十ばかりにございまする」

 しばし後、神薙比が報告に訪れた。
 神奈子はそれに何も応えを発さず、黙ってうなずくばかりである。
 辺りには、敵味方問わず負傷者のうめきも数多い。彼女の沈黙は、そうした苦痛に喘ぐ声をさらに際立たせる結果となる。

「……敵と味方とに関わりなく、傷を負って助かる見込みのない者らに対しては、無用の苦しみを与えぬよう息の根を止めてやれ」
「は。八坂さま、それから」
「何か」

 眼ばかりちらと、副将に向ける神奈子。

「敵勢への追い討ちは、直ぐに行わぬのですか? 殿軍に阻まれたとはいえ、今からでも追いかければ十分に敵本隊の尻尾に喰らいつくことできるはず」
「いや、性急な追い討ちはせぬ。味方もいささか傷つき、疲れておる。それに、これ、この山道に晒された屍の多きを見よ」

 いくさの風に攫われた後の戦場を、神奈子は剣で指し示した。

「これだけ兵を損じれば、もはやいくさするに足るだけの力は辰野勢にはない。そのうちにこちらの後詰めも追いつこう。その後で道々を制圧しつつ、敵城を目指せば良い」

 新たな指示に神薙比は一礼をし、直ぐさま他の将兵らの元へ取って返した。
 神奈子は眼の端にもそれを追うことなく、ほう、と、深い息を吐く。

 諏訪方は――八坂神奈子は勝ったのだ、此度の決戦を制したのだ、紛れもなく。
 それと解っているのに、急速に意気が萎んでいく。いくさの司というのに、戦いの直後は常にこうだ。心躍る闘争が過ぎ去ったせいなのか、それとも骸の山にはただ己が武威も虚しくなるせいなのかは、神奈子自身にも解らない。もう幾度か深く息をし、彼女は、自身を待っているはずの者たちへと踵を返す。山中に諏訪方の勝ち鬨がこだまするのには、いま少しの時間が必要であった。


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