Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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 跳ね回る鞠を思わすほどの慌てぶりで、物見を終えた眼飛等が叫ぶ。

「神さま! 辰野の連中、あと四町とない所に来てますよ!」

 眼飛等は、敵勢との距離をそう伝えた。
むろん、目算である。あちこちが雪に覆われ真っ白になった山中では、彼我の距離は推し測るより他にない。だが、辰野に集結した三千六百の将兵のなかで、もっとも眼の良い男が行った目算だ。おそらく、限りなく正解に近い数字であろう。

 四町という詳しい数字を得て、山上に在る諏訪本隊二千の兵も、一瞬にしてその背をこわばらせた。震わせたと言っても良かったかもしれない。数の上ではこちらが優っているといえ相手はなお強く、これまでいちどとして負けを知らぬ。本当のいくさより先に、皆の心のなかでは勇猛さと臆病さが一足早い勝負を始めているに違いなかった。その惑いある眼で、誰もが坂の上を見遣った。爪の先にも満たなかった敵の姿が米粒大になり、またさらに豆の大きさとも、時を経るごとに思えてくる。

「みな、よう落ち着け。四町の隔てを経ては、いかに上方から矢を射かけられようが相手に届くことはない。未だ向こうも手出しはできぬ、ということ」

 眼飛等よりの報せを経て、自らは兵の人波をかき分けるようにして軍勢の先頭に向かいつつ――神奈子は幾度かくり返しそのようなことを伝えた。彼我の距離が近づけば近づくほど、実際に殺し合いをさせられる兵の緊張は否応なく高まっていく。それゆえ、先走られて無用かつ無謀の行為に出る者があれば、後に厄介の種となる。

「一町だ。敵味方の隔てが一町にまで詰まったとき、初めて弓を構え、矛の先を翻せ。だが、早まるな。わが下知あるまで、絶対に動いてはならぬ!」

 静かに、しかし確かに皆がその命令を呑み込んでいく。
 今はただ、神奈子の言うまま粛々と、前進して距離を詰めるばかりである。四町が三町に、三町が二町に。冬道に、巨大な百足が這った跡のように足跡が刻まれていく。ざくざくと、柔らかな雪が踏み砕かれる音、そして次第に高く早くなっていく息遣い。諏訪軍と辰野軍の距離――今まさに、一町。弓から矢を放てば、それが目標に届く限界の距離である。

「矢を射かけるには、今が頃合いにございまするぞ」

 神奈子に供をしていた神薙比は、腰にした剣の柄に手を置いている。
 何か起きれば直ぐに行動に移れるようにという覚悟の表れだろう。
 各将らは、すでにそれぞれ率いる部隊の元に戻っていた。
 副将たる神薙比だけが、最後まで神奈子のそばに在った。

 彼の進言は、まさしく火急のものである。
 弓矢の射程の限界が一町であり、同時に敵味方の距離もまた一町に迫っているということは、味方の攻撃が敵に届くのと同じように、敵の放つ矢もまた味方に届くということ。加えて、地の利は山の上方から下って来る辰野方にある。重々しく鋭い鉄の鏃(やじり)を備えた征矢(そや)が、高所から落下して目標物に突き刺さるときの破壊力――それは平地で放たれた矢を凌駕する。つまり、単純に攻撃の威力だけを取っても現時点では敵の方が上だ。そしてクジャンの先鋒隊は、まさしくこの破壊力によって出鼻をくじかれたのだ。

 これ以上、距離を詰めれば……いや、距離を詰めずとも、矢に射抜かれて殺されかねない状況ではないか。

 神奈子はその手で、主に代わろうとするかのように身を乗り出す副将を制した。
 やはりなお、彼女の眼には傲岸たる自信と自尊が宿っている。さすがに、敵の軍勢を間近く見ては、不敵の笑みも消えてはいたが。

「いや、未だ良い。さきほど申した通り、まずはこの我が軍勢の先頭に立つ」

 案ずるな、みな道を空けよ、と。

 総大将の言に、臨戦の態で組み上げられていた戦列が、およそ肉の塊に包丁を入れるごとく、左右に割れた。とはいえ狭い坂の上、少し窮屈そうに、神奈子は歩く。やがて彼女と神薙比とは、いよいよ諏訪本隊二千の先頭に立った。敵との距離は、もう一町を切っている。この距離ならば、よく眼を凝らせば敵の顔は判らずとも、その身が返り血で真っ赤に染まっているのがほの見えた。神薙比は、いまいちど神奈子に問う。

「矢を射かけぬということは。敵の本隊に向け降伏をせよと、直々に申し伝えるおつもりにございましょうか?」
「ふ、ふ! 見れば解る。だから、な。しばし手出しはしてくれるな」

 こう頑なでは、もう神薙比にはどうすることもできなかった。
 彼もまた大きくうなずくと、軍勢のさなかへとその姿を歿させていく。

 そして、二十歩、三十歩。
 神奈子ひとりが軍勢から離れ、雪のなかを敵に近づいていった。

 距離は少しずつ、だが確かに縮まっていく。
 はじめ四町ほどだった彼我の……というよりも神奈子と辰野勢との隔ては、今や三十間に前後するかせぬかといったところ。むろん、辰野勢にとって矢を当てようと思えば、どうとでも当てられるはずだ。八坂神奈子を挟んで、両軍にこれまで以上の緊張がみなぎった。しかし、それと同時に辰野の側には大きな困惑が見て取れた。突如として大将ひとりで、突撃するでもなく先頭に出てきた意味を判じかねているのである。弓隊の兵たちもまた、鏃を向けるべきか否か、決めあぐねているようだ。まさに神奈子の存在こそが、ふたつの軍勢の均衡を決定づける、一条の細い糸なのだ。

 そして――――。

「辰野人よ、聞け」

 相対する辰野の者たちへ向け、神奈子が口を開いた。
 大きく大きく、朗々たる呼びかけだ。
 何が起こるかと、相手は鏃を向けんと身構える。

 だが、彼(か)の軍勢のうち、あるひとりの将が、片手を上げて味方の行動を制止した。一部隊、一軍の将というには未だ小柄なものが残る体格と、兜を着けず、髻を冬風に晒した頭髪。そして返り血を拭った跡がありありと残りながらも、薄化粧をもってその衰えた顔色を隠せる少年。他の将兵を制する立場にある『彼』が何であるのか、神奈子は直ぐに察しがついた。そして少年自身もまた、数百の兵を直ぐ背後(うしろ)にしつつ、軍勢の先頭近くまで慎重に歩みを進めてきたのである。「辰野人よ」と、神奈子はあらためて呼びかけた。

「いまそなたたちの眼前を占める二千の兵と将帥、それらを統べたる我の名を知らざるか。知る者とてはただ畏れ、知らぬのならば聞いてのち畏れよ。軍神たるわが名をば、八坂の神という。はるか西方、出雲の地より、天孫の血受けし御方の大御心(おおみこころ)に従いて、この葦原の中ツ国を諸州一統の国家と成すべく、軍勢率いてこの科野まで参った者」

 両の拳をぐっと握り締め、脇をわずかに開き、こちらの姿も影も、ただその眼に収めるが良いと――そう言わぬばかりの神奈子の宣言であった。一瞬ばかり、辰野勢からどよめきが起こる。大将を名乗る者が、供も護衛も連れずにひとりで出てきた。降伏の勧告か、いや何かの罠か騙し討ちに違いない……。いずれも至極当然の疑問である。一方で諏訪方の将兵は、辰野兵らのどよめきを遠くに聞きながら、ことの成り行きを固唾を飲んで見守ることしかできない。他ならぬ神奈子の、「手を出すな」という命令であったから。

 味方からの無用の手助けも、そして敵からの妨害もないことを、自身、しばしの無言をもって神奈子は確かめた。彼女は、話を続ける。

「わが身のことは件のごとし。我は諸州に正義と安寧もたらさんがため、兵どもを率いて蛮夷に属せる異人異神を討ち参らせ、また王化に染む意ある者には、われらが国家の一員たるその座を与えてきた。わが方の目的は戮殺にあらず、また略奪にもあらず。ただ一君万民に基づく大安を招来せしむべく、万余の兵を率いて十年近くのいくさののち、この科野の地へと根を下ろした。苛政を恣(ほしいまま)にする豪族を廃し、民々を安んずるべく新たな政も整えた。然るに、そなたたち辰野人は、なにゆえこの八坂の神に逆ろうて、このたび、我に叛きしか。その胸にいかなる故の在りて、自ら“まつろわぬ”夷狄(いてき)のごとく振る舞い、この天下の理を汚さんと欲するのか」

 長々とした、神奈子の問いは――。

 つまりはここに及びて、ユグルら辰野勢の叛乱の動機を、いまいちど問い直しているのであった。むろん、斯様なことは政を執る神奈子自身がもっともよく知っている。知ってはいるが、叛乱の首魁と相対したことは未だなかったのである。彼女の『策』は、単純な好奇心の為せる技であろうか。未だこの場の誰も、その実を知り得る者はない。

 そして神奈子の仕掛けた問答に……辰野方の総大将は、乗ってきた。

「八坂の神に、わが意、お伝えする。わが名はユグル。伊那郡は辰野の邑(むら)に根を下ろす豪族がひとり」

 辰野の側近たちは、少年――ユグルを押し留めるような素振りを見せた。
 当然だ、辺りに伏兵が居ないとも限らない。しかしユグルの方でも、味方の制止を乗り越えるようにして軍勢の先に立った。諏訪の大将が、あえて危険を冒してまで名乗ってきたのである。辰野の大将もまた名乗り出なければ、卑怯者、臆病者の謗りは免れまい。そのような矜持のためかもしれなかった。もっとも、彼の直ぐ後ろには弓隊が控えている。話がこじれたとき、直ぐさま攻撃に移れるようにという備えだろう。名と誉ればかりで動いていては、一軍の将は務まらない。ユグルの行動にそのことを感じ取り、神奈子は無性に嬉しくなった。

「そなたが辰野の総大将か。これまで会うたことがなかったが、十四の少年というは、まことのようであるな」
「お初にお目に掛かりまする。八坂さまの見立てには何らの嘘偽りとてございませぬ。この身は、わが父より一族の血と辰野を継げるもの。……そう、あなたさまが政の次第によってわが父の功を無碍にも踏みにじり、奪わんとする辰野という地の子に他ならぬもの」

 二歩ほど、ユグルは雪を踏んでにじり寄った。

 背後で辰野の弓隊が蠢く。
 だが、将のひとりがまたも味方の軽率を戒めた。
 大将たるユグルの『覚悟』を汚してはならぬと。
 神奈子は遠目にそれを見、再びの微笑。
 一方のユグルはいら立ったように、眉の根に皺をつくった。

「何がおかしいというのです。わが父は出雲の軍勢が南科野に入って来たとき、真っ先に八坂さまに従うた。南にあっては伊那郡の大豪族たちの機嫌をうかがい、北を見れば諏訪豪族に郷里を蚕食(さんしょく)される危うさが常につきまとう……そのようななかで代々の土地と名跡とを守るには、たとえ西の方より現れた新しき勢力とても、あえて頭を下げて逆らわぬのが得策であったからにございまする。それですべて良きことなりと、諏訪豪族との戦いに駆りだされたわが父は、このユグルに後事を託し、命、落とした。だというのに、八坂さまは!」

 つるぎの柄にユグルは手を伸ばす、が、握り締めようとする寸前で指は宙をつかむに留まった。抜剣の寸前で、理性が彼を御したのである。彼が八坂神に抱いている怨みの深さからすれば、このまま斬りかかってもおかしくはない。そうなれば、自分は確実に殺される。しかし。どうせなら自らの思うところ、洗いざらい述べてから死なんと、そう少年は欲しているのかもしれなかった。

 ユグルは話の続きを、なかなか再会しなかった。

 これまでに起こったこと、流された血、受けてきた屈辱。
 そのすべてが少年の意識のなかで、ぐるぐると濁った渦を巻いているに違いないのだ。神奈子はそれを見、――自らの手で話を引き取った。

「そしてわが政の一策により、土地を追われると。そのように思うておるのであろう」
「その通り、に、ございまする!」

 怨敵を目前として、それまでまがりなりにも冷静さを保っていたユグルは、その声からして激していく。

「わが父は、自らの命まで八坂さまに捧げましてございます。其は、この科野に新しき政、新しき世の始まりを見ればこそ、大勢力に挟まれて右顧左眄(うこさべん)するより他になかったわれら小勢力とても、これまでの苦しみが報われると思うたからこそのこと! だというのにあなたさまは、その志をも、われら辰野の者らが舐めてきた辛酸を、塗炭の苦しみを知りませぬ! ノオリがわが陣営を離れて小県に移ると決めたは何ゆえか。其は土地を追われるとも、せめて辰野の血ばかりは後世に残さんとする苦渋の故にございまする」

 また一歩、ユグルは神奈子に近づいた。

「耕す田畑を持たねば農民が生きていけぬように、豪族とは土地あっての豪族。土地を失くした豪族は、根なし草の流民とその姿を違えませぬ。郷里に生きていた者が郷里を失するは、惨めにございまする。たとえ別の土地に移ったとしても、懐かしき地の記憶は“呪い”のごとく心を苛むに相違ない。だから……!」

 思い浮かんだことの大半を言い終えたのか、ユグルは未だ少し口の中でもごもごと何かを言いたそうではあったが、意味のある発言は出てこなかった。眼が潤み、汗と血で化粧が落ちかかっていた。肩で息をするのは、彼がそれだけ、八坂神への直訴にも近いこの問答に、己が力を注ぎこんでいたからであろう。

 しかし相対する神奈子の方は、さっきまでの微笑を、はや消し去ってしまった。
 その眼には侮蔑……否、むしろ憐れみに近い色が塗り込められている。自らもまた歩みを進め、ユグルとのあいだの距離を少し縮める。彼女はあらためて口を開いた。「何の考えもなく、そなたを追い出そうというのではない」と。

「科野の地には、未だ王化に染むこと良しとはせぬ、旧き異神も数多い。それらを宥め、この天地を安んずるには、旧き神に通ずる者の力こそ必要なのだ。だからこそ、かつて“諏訪さま”の神のもと政に携わっていた一族のダラハドを、辰野の地に据えようとしておる。だが、そなたが辰野に固執し続ければその策やぶれ、旧き異神どもは災いを起こそう。それらの討伐に兵火が燃えあがろう。さすれば、さらに多くの犠牲を民々に強いることになる」

 一陣の風が吹き、二者のあいだの雪を巻きあげる。
 宙に白い幕が浮かび上がる。この真白さのなかでは、敵の味方とを分かつ『垣根』はことごとく覆い隠されていくみたいだ。自らの顔が雪で隠されるのも構わず、神奈子は続ける。

「郷里を棄てるというのであれば、われら出雲人とて同じこと。幾百里も離れた東の方(かた)なる科野州を目指すは、地の果てに向かうがごとき旅であった。しかし、皆、そこで生き、死する覚悟で戦うてきた。否、科野にたどり着くよりも前、何処(いずこ)とも知れぬ山野のなかで命終えた者も数多い。郷里離れる苦しみ、それが解っておるからこそ、そなたらには新たな地を与えると言うた。どのみち人は、たとえ流民であろうとも、歩むための土から離れて生きることはできぬ。神でさえ、人が土から離れられぬごとく、人々から離れて在ることはできぬ。ユグル。そなた自身、それが解っておるからこそ、“勝ち目なし”としてノオリが陣営を離れるを、あえて認めたのではなかったのか」

 出雲人もまた、郷里を棄ててきた者たちである、と。
 そう示されて、ユグルはしばし反論に窮した。

 むろん、神奈子の言っていることが真実か否か、一地方の小豪族にとって確かめるすべなどない。確かめるすべなどないとはいえ、彼にも幾らかの動揺は走ったはずである。けれど少年は頑なだった。決して、その言が神奈子に従うことはない。

「されど、八坂さまは科野でのいくさに勝たれた。ゆえに、そのお言葉はすべて勝者の言い分に他なりませぬ。勝者なればこそ、己が行いの正しさを何とでも言い募ることができるというもの」

 両の拳を、ぎゅうと握り締めるユグル。
 その籠手には、未だ生乾きであったのだろう返り血の赤い筋が走っている。あたかもそれは、彼がその手を屈辱で切り裂かれ、それがために流す血であるごとくにも、神奈子には見えた。

「辰野のために命を棄てた者たちには、いま生けるわれらはいったいどのように報いよとの仰せなのか! 政のために郷里を追われんとし、またさらにわれらが諦めてしまったら、幾代にも渡って辰野のため戦ってきたこと、そのすべてが水泡に帰しまする! 皆の生きた証が何もかもなくなる! まったくの無駄死にではございませぬか!」

 少年の眼に、涙が宿ることはない。怒りでもなく、怨みでもなかった。
 在るのはただ、神奈子の不義理を睨みつける義憤というべきそれである。

「そしてそれをお許しになる八坂さまの政こそ、真に糾弾されるべきもの。いくさに勝って叫ぶ斯様な正義など、天意によりて悪や不正義として裁かるるに相違ございませぬ! たとえいくさ神であろうとも、この天地に生くる者である以上、悪や不正義を謗られぬ謂れとてあるはずがない!」

 肩を震わし、ユグルは叫んだ。
 神奈子は全身に――真摯ともいえるほどに――その訴えを受け、そして、白い息を吐いた。大きな、溜め息である。

「天意、か。なるほど」

 あらためて、神奈子は微笑んでいた。
 だがその眼は相手をからかうようでも、嘲るようでもない。
 餓狼が人らしい知性を備えたと喩うべきであろうか。神奈子の眼光は今まさに、斃すに値する敵を得たりと喜ぶ、いくさ神のものなのだ。

 歓喜に震えるその手が、自身の胸を甲冑越しに打ち叩く。

「では、ユグル。もし天地に満ち満てる意志がこの八坂神を悪神と断ずるのであれば、いま直ぐに天罰下ってもおかしくはあるまい。そなたの率いる辰野の軍勢こそ神使(つかわしめ)の役を担い、諏訪からの軍勢を滅ぼし、この八坂神の身を討ち参らせても不思議ではない」

 言うと神奈子は、――地べたに腰を下ろした。

 地べたとはいっても、むろん、雪が積もっている。そこに彼女は胡坐を掻いた。どっかりと、そして悠然と、座り込んでしまったのである。そして、両腕をぱッと真横に広げて見せた。まるで、田んぼの真ん中に立つ案山子(かかし)みたいな、呑気な格好。ユグルは驚いて言葉を失い、その背後に控える辰野勢もまた絶句した。一方で神奈子が背にする諏訪本隊はといえば、これまで以上に突拍子もない総大将の行動に、さすがにどよめきが広がっていく。

 両軍それぞれの動揺をよく噛み締めて、神奈子はいっそう笑みを深くする。
 あたかも美酒(うまざけ)に酔った心地よさを味わっているように、その頬は上気さえしていた。紛れもなく、この軍神は愉しんでいるのである。自らが演じて引き寄せた、この異常な状況を。

 神奈子は雪の中に座り込んだまま、再び声を張った。

「勝負をしようではないか、ユグル」
「勝負?」

 軍勢を突き合わせるいくさのさなかに、何を博徒めいたことを。
 とはユグルも思ったはずだった。彼はうなずきもしない。ただ剣の柄に手を掛けて、神奈子の意を探るようにして次の言葉を待っている。

「このいくさの正義がどちらに宿っているものか。我とそなたの勝負を致そう。そなたの後ろに控える弓隊に、この八坂を射よと命じてみるが良い。天が善悪の采配を握り、いくさを左右するのであれば、この勝負は直ぐに決着がつく。ユグルの側こそ正義なれば、辰野の者らの放った弓により、わが身体は全身に矢を突き立てられて息絶えるであろう。反対に八坂の方が正義というなら、一本の矢も掠りはしまい」

 諏訪と辰野、その双方の軍勢に一気に動揺が広まった。
 どちらの人々も、神奈子の言い出したことが直ぐには理解できなかったのである。

 弓矢の射程距離は、先にも記したごとく概ね一町程度だという。
 一方、いま神奈子と辰野勢とは三十間も隔てられていない。狙えばいかようにも狙って矢を放ち、標的を射抜くことができるはずの距離だ。加えて弓隊が数を揃えて一斉に、同一の標的へ向けて矢を射るとなれば、一本や二本ではまるできかない無数の鏃にその身を貫かれることになるだろう。この二重に不利な『勝負』を、神奈子は自ら持ちかけた。斯様な勝負なるもの、どう考えても彼女の方が不利である。

「神奈子さま、どうかお留まり下さいませ! 此度はさすがに危険が過ぎまする!」

 諏訪方の神薙比将軍が、堪らず諌めを叫び始めた。
 至極当然の言い分だ。この勝負、物事の是非を天に委ねるという意味では、先に麓で行った鉄片の卜占とよく似ている。しかし今回は、総大将が自らの肉体を賭けて、弓矢という凶器をもって行うのである。神奈子が『負け』れば確実に死ぬ。そうなれば、その時点で諏訪方はこのいくさに破れたも同然だ。人死にの出ぬ単なる儀式とは、わけが違うのだ。

 神薙比は声高に命じ、味方の弓隊を展開させようとした。
 また同時に、前衛の兵らも神奈子を連れ帰らんと駆けだし始める。
 しかし、当の神奈子が「やめよ、来るな!」と一喝する。「手を出すなと、先に申した。此は道義どちらに宿れるかと、それを証するための勝負ぞ! この勝負に無用の横槍を入れるは、善悪の采配を振るう天の意志にこそ叛くものと心得よ!」とさえ、彼女は言った。

 総大将の、――しかも人界に化身して在る軍神の言葉である。
 神ならぬ副将は、おとなしく引き下がるより他にない。直ぐにまた、戦場には沈黙が戻ってきた。一方の辰野方は、未だ決断を下しかねていたようだ。やはり、これは何かの罠なのではあるまいか。この八坂という者は、神を騙る狂者ではあるまいか。密やかな議論がしばし続く。そのとき、待ちかねた神奈子がまた叫ぶ。

「迷うことはない、直ぐに決着はつく。勇ある者は矢を放ち、わが額、頸、胸、どこでも好きな場所を射抜いてみよ。我は我の為すところのものをのみ、正義と信ずる覚悟ができておる。それをもって乾坤すべてを味方につけ、飛び来たる矢のすべてから逃れて見せようではないか」

 辰野の人々の眼という眼が、神奈子に向けて引き寄せられた。

「どうした。さあ、射てみよ! この“悪神”射殺せば、それこそが天に定められし正義の証。それを成した者こそがまことの正義であり、勇者(ゆうじゃ)であろうが! さあ、早く!」

 そのとき、ユグルは神奈子の放つ“何か”に気圧されて後ずさった。
 それが何なのかは解らない。ただ単に、優れた武人なればこそ持つ気迫だったのかもしれない。いや、しかし。決して眼には見えずとも、相対した者の身体を一瞬で支配するかのように動かしむる裂帛の“何か”こそ、あるいはいくさ神のみが放ち得る、一種の神気ではなかったか。

 ユグルは、ほとんど無意識のうちに自軍のただなかに引き返した。
 そして声音するどく弓隊を展開させ、弓弦に備わった数十の鏃を軍神八坂に向けさせた。
 弓隊は多数、標的はひとり。さらに運の良いことに、風向きは辰野勢にとって追い風であった。風に乗れば矢はさらに勢いを増す。何から何まで、ユグルにとって有利な条件が揃っている。

 彼は、いま、神奈子との勝負に乗ることを決めたのだ。
 それを宣する声はない。少年は、己の心に兆しつつある一抹の感情を押し殺すかのように、にやりと笑う。神奈子もまた、応えて不敵な微笑である。だがユグルの方は、決して気づいていなかったに違いない。自分のなかで確かに肥り始めたその感情が、八坂神奈子に対する底知れぬ『恐怖』であることに。

「弓隊、構え! 敵はひとり、こちらは多数。一本や二本を仕損ずるとて、それを怖れる必要はない。皆の箙があらためて空になる頃には、あの八坂神と名乗る狂者はわれらの矢に身体中を貫かれ、この辰野の山に屍を晒すのみだ!」

 狙え! と、下知が続いた。
 もはやユグルに迷いはない。否、迷わぬようにと求めていた。
 負けるなどとは考えたくなかった。この天地に正義がもし在るなら、この『勝負』に負けた瞬間、自分はどう足掻いても神奈子の力に屈するということになる。それだけは考えてはならぬ。一軍の総大将として、辰野の地を継ぐ者として。一方の神奈子は、やはり悠然とそのユグルを見つめている。そよとも崩れぬ涼しき笑みで、絶対の勝利を――自身の内にて揺るがぬ正義を確信している。

 互いに色を違えたふたつの正義が、いま、まさにぶつかり合うのだ。

「放てッ!」

 ユグルの号令一下、辰野勢の弓弦は一斉に震え、宿れる凶気を解き放った。
 数十の征矢は尾羽を鳴らし、風切る音さえもどかしいとばかりに、疾く(とく)、八坂神奈子に殺到していく。坂の上、明らかな高所から放たれた矢の群れは、あたかも引っくり返された鉢で子鼠を捕らえるごとく、その鏃に一寸のぶれも見せずに神奈子の影まで包みこんでしまう。

「勝った!」

 と、叫びこそしなかったとはいえ、矢を放った辰野勢の誰もが、自分たちの勝利を確信したに違いない。事実、ユグルの笑みは、矢を放つ前より明らかに違ったものとなっている。一瞬ばかりその眼に宿った光は、勝ち誇った者のみが持ち得る、驕りに近いものであったろう。彼はそのとき、自身のうちなる恐怖を――八坂神への恐怖を打ち斃した。そのはずであった。しかし。

「一本の矢も当たっては、おらぬというのか……!?」

 矢の雨が晴れたとき、ユグルは自らの眼を疑った。
 よもや自分までもが狂気に苛まれたのかとさえ思った。
 だが、これはれっきとした現実であり、疑いようもない事実である。

 ちょうど『鉢』の底に捕らえられた『子鼠』――矢の雨の前ではそのような矮小な的でしかあり得ないはずの八坂神奈子は、ひと筋の傷もなく一滴の血も流さず、相も変わらず涼しい顔で、辰野勢を見上げている。ユグルは息を呑み、神奈子の周囲を見渡した。雪の積もった冬の山道に、さっき確かに放った数十の征矢が、ことごとく突き立っている。それはあたかも、時季を忘れて咲いた花の花弁をも思わせた。

 一概に幸運と呼ぶには、不可思議至極なことが起こったのだ。
 ユグルが命じ、辰野弓隊が放った数十の矢は、三十間という決して遠くはない隔てを経てさえ、八坂神奈子には一本たりとて掠りもしていなかったのである。

「もう、終わりか?」

 勝ち鬨を上げるでもなく、神奈子はそれだけを言った。
 しかしながらその短い言葉こそが、相手にとっては挑発以外の何ものでもない。

 ユグルはぎりりと奥歯を噛み締める。
 こんなところで、こんな勝負で負けるわけにはいかないのである。
 一度の矢で斃れぬのなら、二度、三度も射かければ必ず当たる。そのはずだと彼は思った。恐怖は影を潜め、怒りといら立ちが少しずつ顕わになっていく。こんなふざけた幸運がそうそう幾度も続くはずがない。たとえ神が相手とはいえ、この地上を歩く限り、人と同じ運命を決して負わぬという道理はない。

「未だだ! 未だ皆の箙には矢が残っているだろう! あるだけ矢を放ってあの神を射止めよ! さあ、射よ。箙が空になるまで矢を放て!」

 震えた声で、ユグルは再び号令を発する。
 辰野弓隊は、……怖れを知らぬ死兵だったはずの彼らが、最初よりどこか怯えた手つきで矢をつがえ、放つ。放たれた矢は再び追い風に乗って神奈子に殺到する。

 しかし、である。

 数十の矢、また数十の矢。
 二度、三度、四度と放っても、そのうち一本として神奈子に命中するものはなかった。鎧の札や鋲のひとつ、髪の毛一本、あるいは一寸の皮膚(はだ)とて、軍神と軍神がまとう物に傷をつけることは叶わなかった。そして、五度の矢風が過ぎ去ったとき。冬道に突き立った征矢の『花弁』は、なお烈しく咲き乱れていた。その中心たる八坂神奈子は、依然、まったくの無傷。尋常の理なら、あり得ざることだというのに。

「何を……何をしておる!」

 五度も矢を放っておきながら、八坂神に傷ひとつつけられなかった。
 その事実はいよいよユグルを激昂させるに十分なものであったらしい。息荒く、しかし眼の色に再び恐怖を湛えながら、少年はまた自ら軍勢の前に飛び出て来た。その手には、弓兵のひとりから奪ってきた弓、それに矢が握られている。それに気づき、神奈子の顔もなお愉しげとなる。この勝負の最後にこそもっとも面白きものが始まると、彼女は気づいたのであった。

「斯様に幾度も矢を放って当てられぬなど、あり得ぬ! 否、あってはならぬことだ! 悪神が天に護られ、われら正義たる者の矢で傷ひとつつけられぬなど!」

 ユグルはすばやく矢をつがえ、神奈子へと鏃の向きを定める。
 引き絞られた弦が軋む。彼のいら立ちがそのまま武器に変わったかのごとく。

「此度の勝負受けたは、元より私だ。ならば最後の最後で、このユグルこそがあの八坂と申す狂者を射抜く。そして、このいくさの引導を渡してやる!」

 存外、少年は冷静であったはずである。
 否、冷静であろうと努めていたのだろうし、そうでなければならなかった。優れて彼の眼は的たる八坂神奈子をその向こうに捉え、鈍く光る鉄の鏃は今や遅しと獲物に喰らいつくのを待っている。けれど整えられた息の先で、ユグルはひと足先に自分を射抜くものがあることに気がついた。かたちなき『矢』――神奈子が放った、やはり神気のごときものであったろうか。相手の身体にひと筋の傷もつけることがなければ、血も流させない。ただ心を、魂をのみゆっくりと削り、殺す、必勝の『矢』。

 それに気づいた瞬間、もう、彼は一瞬たりとも耐えることができなかった。
 今すぐにこの神を除かねばならぬと、まるでそれが生き物の本能であるかのような烈しい思考を閃かせていた。その烈しさは、弦につがえた矢を放ってしまうにはあまりに十分すぎる。

 ひょおおう、と、殺意の込められた武器にしてはどこか間の抜けた音を立てながら、ユグルの矢は神奈子を目掛けて飛翔した。これがこの『勝負』の最後となる。敵味方となく、この場に集結したすべての人々がついに悟っていた。そして神奈子は自ら持ちかけた勝負に、最後まで真摯であろうとしたのかもしれない。ユグルが矢を放ったとき、彼女は眼を閉じ、神ながら何かに祈っているかのような仕草を見せ、直ぐにまた眼を開く。その間にも矢は一間、二間と距離を縮め、神奈子を射殺さんと迫ってくる。

 が、しかし。その一条の矢風が吹き抜けて、のち。
 矢は、ついに神奈子を捉えること叶わなかった。

 ユグルが放った最後の矢は、中空、突如として見えぬ手に叩き落とされかのごとく、その軌道を虚しくした。確かに過たず飛翔していたはずというのに、神奈子の頸まであと一寸という所を通り抜け、一片の傷とて与えることもなく、やはり雪の地面に突き立ったのである。『勝負』の決着はついてしまった、ユグルの負けというかたちで。

 負けたユグルは何も言えない。
 奥歯をがちと打ち鳴らし、手に残った弓を雪のなかに投げ捨てる。
 そしてつるぎの柄に手を置き、後ろ向きに味方の元へと戻ろうとした。
 少年が自らの目前とするなかで、八坂神奈子は立ち上がり、脚にくっついた雪を払う。沈黙する辰野の者たちとは正反対に、総大将の背を見守る諏訪の将兵は、またもどよめき始めていた。此が天の意志によるものか、あるいは軍神の権能かと、彼らにもまた決して推し量れるものではないのだ。

「皆も、確かに見たであろう。辰野の矢が、一本とてこの八坂神に掠りもしなかったのを」

 神奈子が、あらためて音声(おんじょう)を上げる。
 その手には、――はや、すらりと引き抜かれた蕨手刀である。

「天は諏訪と辰野とを秤にかけ、われら諏訪の側にこそ真の正義ありと思し召されたのだ。ゆえにこの身には傷ひとつなく、血のひと筋も流してはおらぬ! われらの為すいくさには、天より受けし大儀あり。其はこの科野の平らかなるを脅かす不埒者を退治するということ。見よ、いま眼前に在るは、まさにかくのごとく天に叛きし者どもである。断じてこれを討ち参らせるは、今このときを置いて他になし!」

 どう! とした波濤を思わせる勢いで、諏訪の将兵が鬨を上げた。

 弓矢の勝負における神奈子の勝利、それはまさに、天の采配によって護られているからこそもたらされた奇跡。そう確信した彼らにとっては、もはや辰野の死兵など微塵も怖れる必要がなかった。矛を振り上げ、盾を打ち叩き、昂揚する士気を恃みては叫び、唄い、そして神奈子の威をしきりに称える。彼女こそが真の軍神だと、その力こそがいくさ神そのものだと。

「各隊、弓兵を前へ!」

 口角をにやりと釣り上げ、神奈子は再び声を張り上げた。
 直ぐに諏訪の各将は大声でそれを復唱し、靡下の弓隊を走らせる。幾重かの足音が山を疾駆し、総大将たる神奈子を押し包むように弓兵たちが展開した。なおも後方に控える部隊は、天地どよもす鬨を上げながら、弓隊に続いて歩を進める。神奈子を狙いながらもことごとく外れた百数十余の矢の山を、何の遠慮もなく踏み潰しながら。

「よっく狙え! 今までの鬱憤を晴らすと思うてな」

 神薙比が、神奈子の命令を引き取り、激した。
 寒風のなかに、まずは諏訪弓隊の白い息が舞った。鏃が光り、弓弦が軋む。
 その先に在るのは……恐怖と驚愕に染まっていく、辰野兵数百の顔、顔、顔。
 すでに矢を射尽くした彼らにできるのは、矢の嵐が吹き荒れるのを恐々として待つことのみ。そして総大将のユグルの身を護るべく、盾を手にした兵たちが彼の周りに殺到する。だが、さすがにとっさのこととて、戦列の形成と呼べるだけ統制の取れた動きはできていなかった。矛の林も未だ整いきってはおらぬ、その隙を、むざむざ見逃す神奈子ではない。

「いっさいの遠慮は無用ぞ。いざ――――放てええッ!!」

 手にする刀を振りかざし、ついに軍神の号令が下った。

 三十間とない近距離から放たれた百数十を超える数の矢の雨は、分厚い寒気の膜をもぶち破る勢いを宿し、坂の上に固まった辰野の軍へと殺到する。諏訪軍の矢は低所から高所を狙ったものゆえ、本来なれば甚だ的に命中させにくいものだったはずである。しかし、やはりこのいくさは天が諏訪方に味方したのか、風向きが先ほどとは正反対に変わっていた。山頂から吹き下ろしていた鋭い風は、いま、麓から山肌を駆け登り殴りつけるような烈風と化している。その風は諏訪兵たちが蹴立てる雪の粒を巻き込んで、地の果てまで塗り潰すほどの地吹雪となり、辰野の山肌を侵していく。

 突如として巻き上がった烈しい風と雪は、一瞬ならず辰野方を怯ませた。

 そのためか――ユグルの身を護るべく少なくない数で固まっていた辰野兵たちは、雪風に紛れて飛来する矢の雨に対しての対処が遅れた。元より諏訪方が仕掛けてくるというのはとうに気づいていたはずだが、統率成らぬ軍勢など烏合の衆と言うほかない。強烈な地吹雪で足下の感覚を見失いかけ、また、雪の白さで視界を塗り潰されたために、辺りの様子を窺うさえおぼつかないのだ。誰かが盾を掲げるよう指示を下せれば未だ良かった。だが、総大将のユグルでさえ雪で眼を塞がれている。いわんや、ただ夢中で飛び出してきただけの雑兵たちに、いったい何ができるというのか。盾を掲げる動きさえまばらな彼ら。そこに襲いかかる雪、風、矢の嵐。追い風に乗って威力を増した諏訪方の矢は、防御の遅れた十数名の辰野兵を瞬く間に殺傷する。

 ぎゃああ、という悲鳴が猛風をもつんざき、立っていることのできなくなった者が次々に坂を転がり落ちていく。それでもなお、地吹雪は止まぬ。暴れ狂う雪の嵐のなかに、赤い霧がかすかに混じり始める。すかさず諏訪弓隊は二度、三度と矢を射かけた。的を絞っての攻撃ではなく、とにかく敵方に損害を与えて可能な限り戦力を削ぐための行動だ。だが、それゆえに念入りで、そして執拗であった。

 が、辰野方とて混乱はすれど愚かではない。
 諏訪方の放った矢の大部分はやがて辰野兵の盾で防がれ始め、敵に届かなくなっていく。しかし、“足止め”には十分すぎるほど時を稼ぐことができた。にンまりと笑う神奈子。地吹雪と矢とを怖れてその場から動けぬ辰野勢へ向け、諏訪の歩兵は矛の穂先をまず揃え、着々と距離を狭めていく。

 彼我の隔て、およそ二十間にもなるかならぬか。
 神奈子は再び自分のもとに集った軍勢をすばやく眺め、敵の未だ動けぬのを見越しつつ、次の命令を発した。宋襄の仁たる愚を晒すような彼女では、むろん、ない。

「弓隊、下がれ。代わって矛隊は前へ出、戦列を組め。この狭い坂道だ、小蟻の一匹とて踏み逃すでないぞ!」

 いくさ神の号令のもと、歩兵たちは鬨も上げずに駆け出した。

 弓隊と入れ替わるように前衛に立った部隊は、魔除けの目玉模様が描かれた盾を掲げ、各々、自らの左右に立つ兵と肩を寄せ合い、密集の度合いを強くする。無数の盾が連なって、巨大な一枚の防壁と化す。そこから突き出た無数の矛は、さながら獲物の訪れを待つ狩人である。それが一小隊ごと幾重にも連なって、ぎんぎんと滾る殺気を放ち始めている。

「進め! 兵の波で、やつらの影もかたちも攫うてやれ!」

 無言で陣形を展開したぶん、あらためて放たれた諏訪兵の鬨は、ひときわ大きな声の波濤であった。二千の軍勢は陣形と戦列に乱れを来たさぬことを第一に、ざく、ざく、と、着実に、一歩ずつ、雪を踏みしめ坂道を登っていく。その緩慢さを好機とでも見たか、辰野方は死んだ者、負傷して動けぬ者の身体を踏み越えて、ようやく自分たちも盾と矛とを掲げて戦闘の態勢を整える。総大将のユグルもまた、兵らのさなかで真っ直ぐに諏訪の軍勢を見据えていた。だが、彼は動かぬ。ひとことの下知も発さぬ。彼とても決して愚鈍ではなきがゆえ、気がついてしまったのである。幾列もの横隊を連ねた諏訪軍に対し、正面からまともに挑むことの厄介さを。

 だが、それでも少年は勇気を振り絞った。
 震える手が籠手のなかに隠れていることが、今は唯一の幸いだったに違いない。

「下らぬ小細工に心乱される必要はない……ひとつの鋭き矛のようになり、敵を迎え撃て!」と、彼は発した。短くも、しかし勇敢な鬨を上げ、辰野方は残った兵の配置を組み替える。ユグルの命じた“鋭き矛”――先頭に向かうほど鋭利に研ぎ澄まされた刃物のような、あたかも“矢印”を思い起こさせる縦隊の陣形だ。

 大兵力に恃んで多重の横隊を形成した相手に対し、味方もまた横隊では、数の少ない方が兵の層は薄くなり、いずれは押し負ける。ならば縦隊で勢いをつけてすばやく突撃し、敵の陣形を突き崩す。何枚も重ねられた獣の皮を、利剣でひと突きに突き破るごとく。それが、地の利を得た辰野方が取り得る、現時点での最善の戦術だとユグルは即座に判断した。

 いちど明瞭な統率を得てしまえば、命令が行き届きやすいぶん、むしろ小兵力の方が迅速に展開できる。辰野方はなに惑うこともなく、ユグルの命じた通り“鋭き矛”の陣形となった。少年は抜剣し、その切っ先を天へと向ける。そして頃や良しと見計らい、次の号令を下したのである。

「突撃! 一気に坂を駆け下れ!」

 辰野兵は山の果てまで響くような絶叫を発し、土も雪も一緒くたに蹴り飛ばしながら走りだした。彼らが踏む雪は、彼らの死んだ味方の血と混ざりあい、鮮やかに赤く染まっている。武器に使われている鉄のにおいか、撒き散らされた血煙のにおいか、境を失くした生ぐささが辺り一面を覆い隠していく。

 一方は緩慢に相手を待ち構え、もう一方は一瞬の決着を狙って突進する。

 志向するいくさは、まるで正反対である。
 そして大将同士の表情(かお)もまた。
 薄化粧など無きがごとくに、激昂のあまり染まっていくユグルの頬の赤さは遠くからでもよく見えたに違いなかった。自身も叫び、鬨を上げ、兵たちを先導せんばかりに坂を駆け下りていく彼。反対に、神奈子はあくまで冷静である。幾重もの兵の壁のうちにあり、そしてじいッと、彼我の軍勢がぶつかり合うのを待っているのだ。

 刀の切っ先を翻し、またも神奈子は号令を発する。

「走れ! 敵が坂を下りきる前に、押し留めよ!」

 応えて轟く諏訪軍の鬨は、辰野軍の突進に伴う猛烈な足音に紛れ、奇妙に間延びして響き渡った。そしてその直後、敵を待ち構えるかのように緩慢な足取りだった諏訪兵たちは、突如としてその前進を速めていく。ときおり雪に足を取られながらも、しかし、着実に皆は駆け始める。対する辰野軍からすれば、あたかも矛と盾の衾が急に眼前にせり上がってきたかとしか映らない。坂を下る側にとって、それは恐怖。そのさなか、ユグルは「自らも坂を駆け上がることで、こちらの突撃の勢いを殺すつもりだ!」と合点する。

「怯むな、このまま突っ切るぞ! 一気に敵の戦列を突破せん!」

 味方の尻か背かを蹴り飛ばすごとく、少年は果敢に走り続けた。

 もはや辰野の将兵の眼には勝利も死も見えてはいなかった。ただ命ある限り進み、身体ある限り矛を振りかざすということだけしか頭になかったに違いない。やがて互いの軍勢は、ついに相手の顔同士が見える距離にまで近づいた。一瞬、辰野方に慢心が兆す。このままの、坂落としの勢いならば――――と。

 だが、それを見逃す神奈子ではない。

「各隊、陣形を転換。戦列を“まっぷたつ”に割り、左右から敵を挟みこめ!」

 軍神の命令が響き渡る。

 瞬間、それに気づくか気づかぬか、頃合いと見て諏訪軍へ矛を突き出した辰野軍だったが、その先にほとんど何の手応えもないことに、皆、眼を見開いた。いや手応えなら、あるにはある。しかし、予想し得たほどのものではない。彼らが構想していたのは重ねられた革に刃を突き立てるごとく、多層を成す敵の戦列に縦隊で鋭く突っ込み、一気に突破する戦いだ。

 だが、その戦術の“当て”が外れた。
 それはかろうじて理解できる。突き出した矛で斃すことができた諏訪兵は、予想に反してわずか数名に過ぎなかったのである。では、狙いを外して中空をさまよった矛の行方は? それ以上に、横隊を組んで坂の上を見上げていた大勢の敵は?

 辰野の将兵は、その答えを自らの命を代価として知るところとなった。

「おのれ! ……囲まれたのか!?」
「魚は、上手く魚籠(びく)に頭を突っ込んでくれたわ!」

 悔しさに歪んだユグルの声と、歓喜に滲む神薙比の声とは、きっと同時に発されたに違いない。それぞれ最前線で指揮を執っていたふたりの将は、互いの声をはっきりと耳にしていたからだ。二将の顔は、どちらも笑みに歪んでいる。一方は皮肉な、そしてもう一方は勝ちを確信した笑みだ。

 前者たるユグルは、邪魔な味方の背を押し遣りながら自ら敵の目前に躍り出て、諏訪兵に一太刀も二太刀も浴びせて斬り倒す。返り血が彼の頸から上に筋を引く。後者の笑みたる神薙比は、ユグルをはっきりと眼のうちに見据えながらも自身で突出することはせず、数名ずつの小班となった兵を次々とくり出して、入れ替わり立ち替わり辰野兵を休ませることなく攻め立てた。猛攻に次ぐ猛攻。今のところ諏訪方の攻撃を辰野方もかろうじて捌いているぶん、形成は五分か。いや、しかし。この状況――諏訪軍による辰野軍の包囲がこのまま続けば、やがて大勢は決しよう。

 まさしく、戦況は神奈子の策した通りの結果となりつつある。
 自らもまた多数の兵と共に最前衛に向かいながら、彼女は頬の裏にてほくそ笑む。

 こちらが大兵力に任せて多重の横隊を組めば、兵力で劣る敵は同じく横隊で応戦する愚を悟る。そこで敵が採り得るのは、先にユグルが行ったごとく鋭利な縦隊によって相手の戦列の突破を試みることであろう。だが、八坂神奈子がそのような戦術をそうそう容易く許すはずはない。彼女が行った術策は、――、

「悪いがな、ユグル。此度はこちらの兵の多さに恃み、取り囲んで“すり潰す”やり方を取らせてもらった。横隊と縦隊で真っ正面から律儀に渡り合うつもりなど、我にはない」

 ――かくのごときものであった。

 味方の横隊に向け、縦隊を組んで突撃してきた敵勢に対し、真っ正面からぶつかることはしない。その代わり、彼我の軍勢がぶつかり合うというまさにそのとき、諏訪方はその軍勢をまっぷたつに開いて『谷間』をつくり、そのなかに辰野方を取り込み、……そして包囲したのである。坂落としで勢いのついた足取りが、異変に気づいたところで速度を緩めようとしてもそう簡単にはいかない。

 結果として辰野勢は、最後尾付近を除いてすっぽりと諏訪兵の波のなかに覆われるかたちとなってしまったのだ。もはやこうなってしまえば神薙比の言ったごとく、辰野の軍集団数百は『魚籠に頭を突っ込んだ魚』も同然である。軍勢の先頭に行くほど敵陣の真ん中に取り込まれ、逃げ場がなくなってしまうのだから。

 かくして諏訪兵に取り囲まれたわずか数百の辰野勢は、果実の皮を薄く薄く剥き取るように、あるいはやはり、捕らえた魚の鱗を時間をかけてていねいに取り去るようにと喩うべきか、ただでさえ少ない兵力を一層、また一層と、二千の諏訪軍によって擦り潰され、殺される羽目となりつつある。

 短い間に断続的に上がる悲鳴、絶叫。それらの多くは諏訪よりも辰野の者らであったし、雪と混ざって大地を鋤き返される血の色も、やはり辰野の方が色濃かったに違いない。確実に敢行される包囲と殲滅。それは、ちょうどジクイの率いる赤須の軍勢六百が、この山のなかで辰野勢に取り囲まれ、嬲り殺しにされたときの構図を、敵と味方の立場を変えてなぞっているかのごとき惨状であった。

 そして。

 命ある限り敢闘せんとする辰野の将兵の働きにより、初めのうちは五分と五分とであった戦況も、時が経つにつれ明らかに諏訪方の優勢へと傾きつつあった。それは、至極当然というべき次第である。これまでの辰野勢が、圧倒的に優勢な諏訪はじめ諸方の軍に三度も勝てたのは、山に拠って奇策奇襲を弄してきたからだ。その策のことごとくが潰された挙句、まず何よりも避けるべきであった正面からの対決という最悪の状況に導かれてしまったのである。そうなれば、戦力において数の多いことこそが正義であり、暴力であり、最強なのである。そしてまた、惨たらしいまでに躊躇なく、敵を罠にはめる覚悟さえ持つ方が勝ちいくさを手にするのだ。

 とはいえ。
 あらゆる武勇と軍略がそうであるように、そのときどきの天運がどちらに味方するかもまた、いくさの形勢を左右する。それは勝敗のどちらがどちらに与えられるかという大きなものでなくとも、細かな趨勢を動かすに足る諸々の偶然でさえそうなのだ。

 そのとき、ほんの少しだけ『幸運』らしい何か――否、むしろ一片の『偶然』とでも言うべきものがユグルの元にもたらされた。

「ユグルどの、いったん退こう。ここでこのまま戦うていても無駄死にするだけじゃ! 将兵皆殺しにされて無惨に屍と恥とを晒すは、おぬしとて本意ではないはず!」

 なおも小勢を指揮して奮戦するユグルの元に、そんな声を掛ける者があったのだ。

 敵味方の絶叫が山中にこだましてわんわんと響き渡るなか、その諌めはかろうじて、といったところでユグルの耳に入ってきた。彼は無視して再び剣を振りかぶろうとしたものの、声の主に半ば強引に肩を引っ張られ、味方の層の厚い所に引きずり込まれる。周りは盾を掲げた兵らで固められており、未だ幾らか敵の烈しい攻めにも耐えることができるだろうと思われる。ようやく、ユグルは敵味方の血にまみれた額を拭う。ひと段落とはもちろん言えないが、いくさのなかで、気持ちに少しの余裕を取り戻すことにはなった。

 味方の護りに隠れるべく、彼らは互いに頭を低くして――そうしてユグルに声を掛けてきたのは辰野の将のひとりであり、彼の母方の従兄にあたる男だった。その手にはユグル同様、敵の血肉の破片が張りついた剣を握っている。だが、存外に傷や返り血は少ない。従兄弟は、諏訪兵の盾も持っていた。斃した相手より奪った盾で巧みに敵の攻めを防ぎつつ、ここまでやってきたのだと知れる。

 二将はともに首を巡らし戦いの仔細を眺めんとした。同時に従兄の方は盾をかざしてユグルの頭を守ってやりながら、「聞こえておらなかったか? 退却の下知を発されよ」と、再び進言する。

 今度のは、確かにユグルの耳にもしっかりと届いた。
 しかし、彼は即座にかぶりを振って見せる。
 十四ともなれば、立派に一軍の将たりうるというのが一族の気風だ。加えて、元よりこの決戦で死ぬと定めた命である。この期に及んで退却など、断じて男のやることではないのだと。

「退却などあってはならぬ! 決戦の場に背を向けるはそれこそ恥以外のなにものでもない。皆で潔く死にに行くと、先にも誓うたであろうが! それが武人の誉れであろう!」
「少しは落ち着かぬか! 武人として死ぬると誓うたからこそじゃ! 死出の旅路に武勲もなしでは何の意味もなかろうに! そしてこの場に武勲はあるか!? 辺りを見渡せば、ただ味方の屍骸と敵の刃より他になし!」

 反論を新たにするユグルに対し、従兄はそれをもさらに上回るかのように激して、反駁(はんばく)を試みる。ユグルは、思わず肩を震わせた。敵と命の遣り取りをしたとき以上に怖れさせられる、そんな気迫だ。戦場で気持ちにいったん火がつけば、普段が温厚でも人が変わったように大暴れするというのはままあること。ユグルもまた、このいくさで剣を握り敵を斬りまくってきたせいで、すっかり気持ちが昂ぶっていたのである。ちょっとやそっとの諌めならば、撥ねつけて聞く耳を持たなかったであろう。しかし従兄の剣幕は、若さ――というよりも幼さゆえの血気に逸るユグルの昂ぶりをも、あっという間に萎ませ、そして冷静さを取り戻させるに十分なものだったのである。

 荒い息を整えながら、ユグルは周囲に眼を遣った。

 敵味方の軍勢に踏み荒らされた山道に、血黙りが幾つもできている。胴を斬られこぼれ落ちた臓物から、未だ湯気が絶えぬ者がある。目玉の飛び出た眼窩の穴に、雪が詰まっている者がある。斬り砕かれた己の指を、矛を棄ててまで探しに行こうとする者がある。屍体、屍体、屍体がある。折り重なり、力なく横たわる屍体の群れがそこにはある。勇気と狂気があり、何よりもまず怖気立つような死ばかりがある。敵よりも明らかに多く殺された、味方の死体ばかりがそこにはあるのだ。そしてまた、さらに死と血肉とを山に撒き散らさんとくり返される、凄惨な戦いの情景が続いている。

 少年の眼から、思わず熱い涙がほとばしった。

 理由は彼にも解らない。ただ幾つかの滴はユグルの目元で固まりかけていた返り血をじわりと溶かしたようであり――、気づいたときにはその眼から頬にかけて、真っ赤な筋が流れていた。あたかも、それは血の涙だ。

 そして彼は力なく、しかしはっきりと一度、大きくうなずいた。
 従兄の説得……退却の策を受け容れるという意思である。
「解った」と少年は呟く。ただ、そのひとことばかりを。おまけに絶えぬいくさの喧騒だ、まともに従兄の耳に届いたはずはなかった。それでも従兄は総大将の意図を察したのであろう、ユグルにうなずきを返して見せる。どこか、安堵を噛み締めた顔であった。

 しかし、退却するには問題があるのだ。
 ユグルはあらためて、そのことを問うた。

「だが退くと申しても、もはやどこに逃げ場が。前後左右どこを見渡しても、おぬしの申す通り隙間なく敵だらけではないか」

 幾度目か彼は辺りを見渡した。
 なおも味方の将兵は奮戦してくれているが、その防戦もいつまで続くか。
 辰野人の血にまみれた諏訪の矛の林は、ますますその勢い強く、辰野方を攻め侵しに掛かっているのだ。ゆえに包囲も着実に狭まっている。いくさの昂ぶりから醒めつつある今なら、それが解る。自軍が陥っている絶望的な状況を。

 そんなユグルの問いを一蹴するかのように、従兄は笑った。
 努めて明るい笑みに見える。

「確かに四方、敵だらけ。しかし、九分の勝機が失われているとはいえ、一分の逃げ時は未だ残っておる。どうやら敵もこの山道では、策を完全に成すことはできなかったのであろう。敵陣の右側の備えは、他に比べて兵の層が薄い。陣形が歪に見える。おそらくは道の狭さ、それに兵の多さゆえ、諏訪方は少しばかり動き損なったのだ。血路を開いて包囲を突破するなら、そこがただひとつの場所」

 誰にも気取られぬようにと特別に耳を寄せ、従兄はユグルにそう伝えた。
 奥歯を噛み締め、ごくりと唾を飲み込むユグル。
 確かに、よく眼を配れば諏訪方は多勢に恃んで辰野方を包囲しているのだが、陣形は“きれいに”成立しているとは言いがたく、左右のうち右の備えだけが歪。従兄の言うことに間違いはないようである。そして諏訪と辰野の二軍の位置を何かに喩えるなら、あたかも歪んだ木の枠型――諏訪の陣形――に、楔――辰野の部隊――を強引に嵌めこもうとしているかのようだ。会わぬ型に対して無理に物を嵌めこもうとすれば、いずれは傷つき壊れてしまうであろう。見れば諏訪方の右の備えは層が薄いばかりか、次第に兵たちの足並みが乱れ始めているようである。『傷』は、すでに生じているのだ。

「逃げるに適した機は見つけた。では、そのために何といたす?」

 ユグルは口ごもった後、

「……誰かが、殿(しんがり)の役を負わねばならぬ」

 と、口惜しそうに呟いた。

 現状、確かに諏訪方は陣形に弱点を抱えていた。
 そこを必死に突けば、辰野方は勝てはせずとも包囲からの脱出くらいはできる見込みはある。

 しかし、本隊が城まで逃げきるためには誰かに殿――軍勢の最後尾を担って盾となり、敵の追撃を防ぐ役を負わせなければならぬ。殿が必要となるということは、自軍が劣勢に立っているということを自ずと意味する。つまり、勝ちの勢いに乗って圧倒的有利を手にした敵に対し、さらに絶望的な戦いを強いられるのが殿、殿軍(でんぐん)というもの。当然ながら、生きて友軍と合流できる見込みは限りなく低いと言わざるを得ない。

 鉄剣を握り締める少年の手にいっそうの力が入り、籠手がぎりりと引き絞られる。

 嘆いているのは己の非才と無能、そして天運のなさであったろう。
 自分がいま生き延びるために、幾人もの将兵を犠牲にせねばならぬ。
それも、いずれは自身も必ず死すると解っているいくさのために。ユグルの身はそれでも良い。しかし、ユグルのために死ぬ者たちにも恋しき者、愛しき者、会いたき者は居るはずである。そのような願いすべてに、いま、死ねと命ずるときが来ているのだ。

「そなたの言に従い、私は生き残った兵とともに敵の右備えを突き、血路を開く」
「おう」

 従兄は、つるぎの輝きを鈍らす諏訪兵の血肉を、袖でもって拭き取った。
 その行いにユグルの眼が見開かれる。この男の覚悟を、察したのである。

「殿(しんがり)はおれが相努め申す。ユグルどのは血路を開き、生きて城に戻れ。このような惨き場ではなく、もっと良き死に場所を見つけるのだ」

 ユグルは、彼の言葉を直ぐに是とはしなかった。
「この数の敵を相手にしては、勝ち目ないぞ」
 死ぬ、とはあえて口にせぬ。それを言わぬだけの矜持は未だあったのである。
 しかし、従兄はそれには何も答えることなく、

「早うせねば、さらに敵の波が襲いかかって来るのだぞ。最前衛の部隊に囲まれただけでもこの有り様。あの憎き八坂の神が直に率いた軍勢加われば、この場より逃げ切ることさえもできなくなる!」

 また、しきりに促した。
 そのとき、味方の戦列の一端が崩れかけた。
 敵の列が二度、三度と殺到する。ぶち空けられた穴を埋めるために、辰野兵は敵味方の血にまみれながら矛を突き出し、剣を振り回す。ユグルも、もはやどの死者の物だったのか解らぬ矛を地面から取り、迫りくる敵に向け投げつけた。ぐげぇ、と、肥った蛙みたいな声を立て、敵兵ひとりが斃れ伏す。それを見た別の敵たちがおののいて、三歩四歩と後ずさる。しかしそれでもなお、屍体はまた両軍の兵に踏みつけにされ、なおもいくさは続くのだ。

 もう涙なのか血の筋なのか解らなくなった感触を頬から拭い落として、ユグルは言った。

「解った。殿の役は、おぬしの隊に任せる」
「おう。そうこなくてはな!」
「だが、むやみに命を棄てるような真似はしてはならぬ。ひとりでも多くの兵を連れて、おぬしも城に戻ってくるが最善」

 殿に対し――加えてこの勝ち目なき数の差に対し――生きて戻れとはもはや滑稽なまでに見当違いな言葉であった。ユグルも、その従兄も、そんなことはとっくに理解している。が、言わずにはおれないのだ。従兄はまた快活に笑った。およそ戦場にて殺し合いをしているとは思えぬような笑みだった。彼は、ユグルの言葉を首肯する代わりに笑ったのである。嘲りではなかったろうが、しかし、期待に応えようというのでもない。

 むろん、彼に、死ぬより他の道とてなし。
 ならば己の最期を武勲で飾るが、男子たる者の本懐か。

「なあに。ここまで来たらば音に聞こえた八坂の神の武勇というやつに、いちどは挑んでみたくもなる。たとえ負けて死んだとて、神の力と渡り合ったとなれば、誉れとはなっても恥とはなるまい」
「かも、知れぬ。では、どうかお許しあれ。……おぬしが一命、ここに置いていって頂く。名をば確かに持ち帰り、おぬしの妻子に伝えよう」
「何の。わが命もまた斯様な名もなき山道にではなく、おぬしの手元に預けるのよ。だからこそ殿ともなろうというのよ。どうか血の一滴、骨肉の一片に至るまで、余すことなく使いきらせてくれ」

 ふたりは同時にうなずきあった。
 そして従兄は自らの隊の元へ、一方のユグルはまたも血煙の坩堝たる最前線へと走り行く。少年は敵を斬り、突き、蹴り、殺した。そして血と脂にまみれた剣を振りかざし、雄叫びじみた声を放つ。自らの喉が焼き切れんばかりの咆哮であった。

「全軍、聞け! われらはこれより敵の右備えを突く! 動ける者は皆すべて、このユグルに続くのだ!」

 突如として発された新たな命令に、辰野将兵は一瞬ばかり身をこわばらせた。
 しかし、未だ失われぬ死兵の勢いか、あるいは叱咤にも似た大将の声にまたいっそう戦意が高まったか、わずかな数しかない生き残りたちは、なに惑うこともなく矛先を変えた。自ら兵らの最前列に躍り出たユグルを筆頭に、猛然と諏訪軍の右備えに突撃を開始したのである。

 さて、困惑したのは諏訪軍の方であった。

 今の今まで包囲され、防戦一方で後手後手の戦いを強いられていた辰野方が、唐突なまでに緒戦の勢いを取り戻した。のみならず少年とも思われぬ怒涛の雄叫びを挙げる総大将を押し立てて、果敢な攻めに転じている。よもや連中、ついに斬り死にの覚悟を固めたかと、諏訪の将は誰もが思った。文字通り、戦力の差において桁がひとつ違うのである。無理からぬ錯覚であった。

 それでも如何様な理由があれ、立ち向かってくる敵には全力で当たらねばならぬ。
 しかし諏訪方の陣はいま、辰野軍の突撃を押し留めんとする部隊と、逃がすまいとする部隊が互いに交錯してしまい、ほとんど乱戦の様相を呈し始めていた。こうなると、兵の多きはむしろ不利でしかない。隊長格の者や武将たちは、各々の部隊に統率を取り戻すべく盛んに指示を飛ばすが、敵味方の声が幾重にも入り混じり、兵のひとりひとりまで命令が届かない。指揮と将兵の動きとがそれぞれ乖離(かいり)し始め、諏訪方の攻めにわずかながらとはいえ綻びが生じ始めていく。

 だが、一方では。

 いったん後方に退いて指揮を執っていた八坂神奈子だけは、異変の兆しに気がついたのである。敵の動きが変わった、と、彼女は呟く。

「攻め手を変えたのか? 右の備えが手薄なことに気づかれた?」

 辰野の将が気づいた陣形の歪さを、いくさの司(つかさ)たる彼女が知らぬはずもなかった。机上で想定した戦法が常に通用するはずもなければ、兵法が説く通りの状況ばかりが訪れるとも限らない。実戦とはそういうものである。意図した包囲が完全なものでないのを知りながらそのまま攻めさせたのは、陣形の小さな瑕疵をいちいち気にするようでは、迅速な攻撃に移れないと神奈子自身が判断したからだ。どのみち敵は袋の鼠だという優勢が、あるいは軍神たる彼女の判断をも鈍らせてしまったのであろうか。辰野軍の猛攻撃を、玉砕覚悟の最後の突撃であると――他の将たちのようには考えなかった。

 その代わり――ほんの数瞬だけだったとはいえ――彼女は辰野軍の、その総大将であるユグルの意図を測りかねた。敵がこちらの右備えを突破しようとしていることは明らか。しかし玉砕せんとするのなら、数的劣勢でも突破できる可能性の残る諏訪軍右備えを、辰野軍がわざわざ攻める意味がない。戦力の多寡を考慮に入れれば、苦戦のさなかにあえてこのような選択をしたということは、むしろ何らか、起死回生の手段を講じているということではあるまいか。

 此度、よく発揮される死兵の勢い。
 二千の大軍勢を前に、未だ持ちこたえている辰野の兵の精強さ。

 そのように精強な部隊に手薄な右備えを突破されれば、兵の少なきを跳ね返して、辰野軍の方がある程度の有利を手にする危険がある。あるいは最前衛の囲みを突き破り、一気に味方の奥深くにまで攻め込まれることさえあるやも知れぬ!

 むろん、結論としては、神奈子が予想した辰野軍の『起死回生の手段』なるものは、単なる杞憂であった。辰野方の意図は、あくまで諏訪方の右備えを突破し、そのままの勢いで城まで後退するということだ。しかし、当たらずとも遠からじか、神奈子はその眼のうちに闘気の焔を新たにし、自らも主戦場へ向け疾く走ることを決めた。いずれにせよ、備えを破られてしまうのは、諏訪方にとって避けるべき事態でしかない。

「我らも前に出るぞ! 右の備えが破られる前に、後方の戦列も押し出させよ!」

 蕨手刀を天高く掲げ、神奈子はついに後続部隊への前進命令を発した。
 矛を高らかに突き上げ、いくさ神に直に率いられた兵数百は、乱戦続く戦場へと急ぎ駆けだしていく。自らを神兵と自負する彼らには、怖れるものなど何もない。激戦続くに連れ次第に濃く深くなっていく血の海を踏み、敵味方の骸を越え、ようやく主戦場へと近づいていく。

 だが、そこはすでに混乱の極みに達していた。
 諏訪方の陣形それ自体は未だかろうじて当初のかたちを保っているように見えるが、辰野軍が守勢から攻勢へと一気に転じたことで、『楔』を覆う『枠型』はその機能を果たせなくなっている。幾度も幾度も彼我の軍勢が互いの力をぶつけ合ったために、徐々に、ではあるが諏訪軍の戦列は削り取られ、穴を埋めるための次列からの兵の動きも鈍くなりつつあった。そもそも列の連なりが途切れかけ、ばらばらになる兆しさえある。兵の多さが完全に裏目に出たかたちであった。こうなってしまうと、もう立て直しは容易ではない。

 一方の辰野軍は、乱戦のなかでもかろうじて味方同士の繋がりのみは維持し続け――ひとりが死のうが十人が斃れようが、生き残った者がまた別の生き残った者を守り、命の続く限り矛を突きまくる。激戦のため、彼らとてその数を減じてはいたが、ゆっくりと、しかし確実に、乱れ切った諏訪軍に対し、深く深く喰い込んでいった。

「敵の次鋒が来る! 皆、備えよ!」

 もはや幾人の返り血を浴びたのかも解らぬほど、誰も彼も真っ赤に染まった辰野軍にて、総大将のユグルはぎりりと歯を食いしばる。少年の眼は、諏訪軍の矛の原の向こうに、確かに八坂神奈子の姿を見た。そして同時に、「頃合いだ」と直感した。彼らもまたどれほどの味方を喪ったか見当もつかぬ。しかし、必死の反撃によって策は成りつつあった。今の乱れ切った諏訪軍前衛部隊なら、右と言わず左と言わず、容易く突破できるに違いない。

 にィ、と、一瞬ばかり少年は笑んだ。
 その向こうには軍神八坂の顔がほの見える。
 神奈子もまた、遠くにユグルの姿を認めていた。
 しかし二者の視線が本当にぶつかり合ったか、当のふたりにすら解らなかった。

「“頭”の向きを巡らせよ! 敵の備えは突き崩した! これより諏訪兵どものあいだを抜けて、味方の城まで後退する!」

 雄叫びもなく、絶叫もなく。
 ただ粛々と鬨も上げずに、辰野方の将兵たちは、坂道のなかでぐるりと方向の転換を試みる。完全に戦列を喪った諏訪軍右備えに深く食い込んだ辰野軍は、ユグルの号令一下、戦場を囲む山肌へ向けて猛然と駆け始める。もはや諏訪方よりの妨害はなかった。いや、行かせまいと手を出す者は幾十と居たが、統率されることなく散発的に突き出される矛では、少数ですばやく機動する辰野方の動きをとらえ切ることができない。そして彼らは敵中を難なく通過すると、その最前衛が岩壁の手前でまたも急速に回頭、つい数刻前に進んできた上り坂を、全軍が力の限り駆け上がり始めたのである。


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