Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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「慌てるな! 列を乱すな! 無事な者は前に出よ。敵は直ぐに坂落としを仕掛けてくるぞ。こちらも盾と矛を掲げて迎え撃つのだ!」

 諏訪方の先鋒は、混乱に陥っていた。
 傷を負う者、負わぬ者、その別もなく歯の根が合わぬ怯えた様子で、次の体勢に移らんとする敵――辰野勢を、坂の上に見上げていたのである。

 軍勢のなかほどに身を置いて指揮を執る、先鋒部隊三百の大将、高井郡の豪族・クジャンは、そのいくさ慣れした大柄な身体をいっぱいに震わせた。そして持ち前の野太い声を限りにし、残存した味方に指示を飛ばし始める。雁股(かりまた)のかたちの飾りをつけた兜が、彼の放つ音声(おんじょう)のためかしきりに揺れた。

 同時にクジャンの顔は、「慌てるな」という自身の指示とは裏腹に、少々の焦りを滲ませていた。元より、北方の地より攻めかかる蛮人どもの軍勢を押し返してきた、歴戦の将たる彼である。なれどその華々しい戦歴と将才は、あくまで平地を中心にした野戦によって培われたもの。山岳での戦いにまでその経験が通用するという保証はない。

 ましてやこの戦い、自軍が位置しているのは坂の下方。一方の辰野方は上方だ。頭を押さえられればそれだけ不利となる。しかもすでに敵に先手を許し、矢の雨で数十の兵を一方的に屠られたのだ。後続の兵たちはすんでのところで無事だったとはいえ、ついさっきまで眼の前を歩いていた味方が、瞬きをした瞬間に屍体に変わっている様子は、極めて大きな恐怖である。

 抜剣したクジャンは兜の眉庇(まびさし)をわずかに押し上げ、坂の上から動きだそうとする敵勢に眼を向けた。見たところ、敵の規模はこちらと同じくらいか、あるいは少し多い程度。それほど極端に差があるわけではない。ならば兵たちの動揺を鎮めて陣形を再構築し、次の攻撃に備えるが第一。

 先に記したごとく、彼の将才は平地での野戦によって磨かれてきたもの。
 それがそのまま山での戦いに当てはまるとは限らない。
 しかし戦場がどこであれ、ただひとつだけ共通することが世のいくさにはあると、クジャンは確信している。それは、『先に士気をくじかれた側こそが敗者になる』、ただそれだけの単純な真理である。

 己が強さを何に恃むのかは軍勢によって違いがあれど、戦いを怖れるあまり兵らの腰が引けているような連中は、いかに数が多くても勝ち目を失う。逆に考えれば、常に勇気と戦意とを喪わぬ者たちは、小勢であっても大軍に勝利することがある。突き詰めればそれは、土壇場にあって兵たちの士気をいかにくじけさせぬかという命題であり、かつまた、いたずらに兵を怯えさせるような将は、将の器たりえないということだ。そのように、クジャンは意識していた。

 そして、だからこそ彼は焦りもしていたのである。
 兵の数が同程度であれば、なおさら戦意の高い方が有利になる可能性がある。
 だがわれら先鋒の高井勢は、最初の奇襲で幾ばくかの怖れを刻みつけられてしまった。これをどうにかせぬことには…………!

「何より、このおれに先鋒の役を仰せつけくださった八坂の神に、申しわけが立たぬ!」

 彼が呟くと、周辺の味方が一斉に――とはいえ一瞬だけだったが――振り向いた。

 自分の頬のなかでだけ呟いた、あくまで独りごとのはずであったが、彼自身の意気の高まりとともに、知らぬ間につい大きな声となって漏れ出てしまっていたようだ。

 だが、“八坂の神”という一語を耳にしたとき、怯えが先走っていた兵たちの顔に、一条の明るさが戻ってきた。

 たとえば今しも後ずさりをしてしまいそうな若年の兵が、決して逃げ出すことなく矛と盾とを握っていられたのは、未だしも八坂神が出陣前に見せた、あの『奇跡』のおかげだったに違いない。そして、それは他の兵たちにとっても同じだったのである。五十枚の鉄片を宙に投げ、そのすべてにおいて表側を出してみせる。その、人の手なれば決して有り得ぬことを、八坂神は確かに成し遂げて見せた。高井勢の兵たちを、不可能を可能にする神の力が後押ししている。ゆえに、彼らは背を向けて逃げ出すということをしなかった。

 見れば現在の戦況は、疑いようもなく不利である。
 しかし、初めからすべての勝ち目を失したわけでは決してない。
 そう、騎馬を擁する敵に、味方は歩兵で立ち向かったときのように。

 あたかもこれは、平原で騎馬の大群と相対したときを思い出させはしまいか。

 速度、重量、機動力、衝撃力、破壊力。
 そのいずれを取っても騎馬の兵は歩兵に優越する。
 人間よりはるかに大きな体躯を持つ馬という獣は、それだけで相手を威圧して止まない。騎馬の兵が数百もの規模で進軍する様を見れば、それはまるで大地の向こうから巨大な化け物が疾走してくるかのごとき脅威であった。だが騎馬が持ち得る何より強力な武器は、相手に恐怖を与えるというその一点。『高速で突撃してくる騎馬の兵に蹴散らされ、踏み殺されるかもしれぬ』。その強烈な想起が歩兵の心理に恐怖を植えつけ、戦わずして負けを認めさせ、結果として実戦にても敗北に陥らせるのだ。

 しかし、歩兵を容易に蹴散らし得る強力な兵種である騎馬にとって、最大の弱点もまた紛れもなく歩兵である。騎馬が持ち得る最大の武器が、相手を委縮させるほどの巨大な恐怖であるというのなら……騎馬への恐怖を克服すべく鍛錬され統率された歩兵にとっては、かくのごとき獣の力など何するほどのこともない。そのときこそ矛を並べた歩兵の戦列こそが、この地上において騎馬を狩り立てるにもっともふさわしき軍団と化すのだ。

 翻って、この戦場。

 雪を蹴立てて坂落としを開始し、高井勢へ猛然たる吶喊(とっかん)を開始した辰野の軍勢が、クジャンには、北国から攻め寄せて来る荒蝦夷たちの騎馬と同じようなものに見えていた。否、馬を擁さぬぶん荒蝦夷よりもなお攻め易き存在であろう。ここは坂道、一本道だ。ゆえに勢いこそ騎馬のそれに似通っているとはいえ、騎馬のようにその機動力を生かして別路から迂回、脇を突くという戦術など取れるはずもない。ならば、やはり。

 こちらも矛を構え、敵の勢いを押し返すほかに策はなし!

「……そうではないか。皆、忘れたわけではなかろうが。八坂さまがわれらに見せてくださった奇跡を。あれこそ神の御業。八坂の神こそは、負けを引っくり返して勝ちに変えてしまう御方!」

 最初の攻撃によって動揺していたとはいえ、乱れ切っていたはずの陣形の再構築は、当の将兵たちですら驚くほど迅速に行われつつあった。味方の骸を引きずり退かせ、高井の兵たちは盾と矛とを押し出して新たな戦列を形成し、坂の上からやって来る敵勢を傲然と睨み上げる。

「怖れることはない。徒歩(かち)の兵といえども、勇気を振り絞って立ち向かえば騎馬をも押し返すことができる。高井の地にては北方から襲い来る荒蝦夷どもと幾度も刃を交え、そして勝利したわれらではないか。まして此度は飢え疲れた辰野の者ども。荒蝦夷の騎馬に比べれば、斯様な軍勢、何するものぞ!」

 えい、えい、おう! ――と。

 たったいちどだけの鬨であったが、それだけでも、いったんは崩れかけた高井勢の士気が回復するには十分すぎた。いや、士気が元通りになりつつあったからこそ、それを保つための鬨であったのかもしれない。いずれにせよ彼らは、先手を取られたこの不利な状況にあって、やはり一歩として下がる気配を見せなかった。徐々に近づき、ぎらつきを増していく辰野勢の矛の切っ先を、自らもまた武器を構えた兵の壁となり、今か今かと待ち構えていたのである。

 どう、どう、と、地滑りか、あるいは山崩れもかくやという勢いで駆け下って来る辰野の者たち。この敵への怖れを完全に拭い去ることが成功したわけでは、きっとない。しかしそれでも、顔にわずかの怯えを含みながら、高井勢は歯を食いしばって耐えに耐えた。互いの一撃が最初に交わる瞬間、それを待ち続けた。

「来たぞ……! 押し返せえェッ!」

 大喝にも似たクジャンの号令のもと、先鋒の兵たちは腰をグンと落とし、後ろに吹っ飛ばされることなきように、半身に体重を込めた。掲げた盾の向こうから、大きな岩が爆発でもしたかのような衝撃が連続で伝わってくる。上目遣いに視線を動かすと、突撃してきた敵の顔がはっきりと見える。坂落としを仕掛けてきた辰野勢がその物理的な勢いに恃んで、高井勢が展開した『兵の壁』に、まさしく衝突した瞬間であった。――否、それはむしろ激突とした方がより正しかったであろうか。吐く息が互いの鼻先を濡らさずにはおかないような状況で、さらに加えて流れ出た血が湯気めいた白い靄を放ち始める。盾の防備を縫うようにして突き出された矛が、互いのもっとも最前列に位置していた幾人かの兵を突き殺す。

 しかし、両軍の激突はそれだけでは終わらない。

 出血に耐えて相手を押し返さんと踏ん張る高井勢に、盾の向こうの辰野勢は、さらに次の『衝撃』を与えてきた。二列目、三列目の兵が追いつき、後ろから味方の背を押し出すように攻めかかって来たのである。赤く濡れた矛の穂先が翻り、両軍の最前列の何割かがようやく地に斃れ伏す。続いて、その穴を埋めるべく次列以降の兵が押し出してくる。血しぶきと雪、その下にある土が混じり合い、泥のようにべったりとしたものと化していく。敵かあるいは味方か、胴を突かれ、首を斬られた者が瞬く間に膝を折り、坂の下方まで転がり落ちていく。盾と盾が執拗にぶつかり合い、くり返される攻防は、しばし一進一退といったところか。

 なれど両軍の雄叫びと絶叫が響き渡るなか、やがて着々と大勢を自らの手に引き寄せつつあったのは、辰野の側であった。

「怯むな、押せ! 押し出せ!」

 つるぎを振りかざし、辰野の総大将たるユグルが指図する。
 彼自身は矛も盾も持たぬ者なれど、果敢に高井勢の真ん前に踊り込む。

 衰えた顔つきを隠すように施されたその薄化粧は、大将首たる自らの存在を否応なしに誇示して止まぬ。むろん、高井勢も、この少年をこそ何らか地位ある将と見て襲いかかるが、直ぐさま現れる辰野の戦列に阻まれ、幾度も追い散らされてしまう。やがてユグルの顔は、敵と味方、どちらのをより多く浴びたのかも解らぬほど、真っ赤な返り血に染まりつつあった。

「踏ん張れ、押し戻せ! ここで負ければ高井人の名折れであるぞ!」

 しかしユグルが勇敢であれば、クジャンもまた一個の武人として怯懦(きょうだ)ということを知らなかった。なおも高井の兵たちは彼の指揮によく応え、決して押し負けるものかと踏ん張っていた。だが、時間が少し、また少しと立つにつれ、優勢と劣勢は次第にはっきりと分かれていく。なおも高井勢の懸命な防御を突き崩さんと、三度、四度とぶつかって来る辰野勢の前に、戦線はじりじりと押し込められていく。兵たちは必死に、力の限りと矛を突き出しはするのだが、味方の一撃に対して、敵は五度も六度も撃ち返してくるのである。白い雪を真っ赤に染める血煙も、今や辰野兵より高井兵の方がより濃くなりつつあった。戦列の穴を埋めるための兵たちの動きにも、徐々に陰りが見え始めてきた。ずるずると、蝸牛(かたつむり)でも這うように、高井勢はこの坂道より追い落とされつつある。

 やがて、戦列を支えていた一角が“ぐらり”と揺れた。
 その隙を見逃すほど、辰野勢も疲弊をしてはいなかった。

 盾をもって展開されていた高井勢の備えが崩され、その間隙から入り込むかたちで辰野兵が陣形の中ほどにまで侵入してくる。こうなれば、もはや高井勢の戦列は大水に晒された堤にも等しい。たとえいかに強固な堤であっても、針ほどの穴があれば水の勢いはそこを起点に暴れ狂い、やがては包みそのものを崩壊させてしまう。いま高井勢が陥っている状況はそれとよく似ていた。小さな穴から堤の全体に“ひび”が広がっていくように、いちど大きく乱された戦列は、容易に立て直すことができなかった。今まで決して、怖れからの後ずさりをしなかった高井勢の兵たちさえ、次々と踊り込んでくる辰野兵の勢いに押され、十歩、二十歩と押し戻され始める。

 もはや、乱戦という言葉でも足りぬ戦況であった。

 高井勢の備えは崩れ、ふたつの軍勢が正面からぶつかり合う戦いではなくなってしまったのだ。彼我の戦列が混じり合い、あたかも人々が波打つまだら模様。辰野の将兵は軍勢のかたちをした網のごとく高井兵を絡め取り、殺し続ける。

 そのようななかで、クジャンは自らもまた幾人かの敵を斃しながら、強く唇を噛んでいた。悔しさのあまり込められた力は唇の肉を噛み破り、だらだらと熱い血を流し始める。それは、さっきまで彼が斃してきた辰野兵より浴びた返り血と混じり合い、彼の顔と胴とを赤々と染めていく。

 攻防をくり返した末に、いくさは、味方の不利に傾きつつある。

 いちど構築し直したはずの戦列もまた、敵の猛攻の前にいま再び崩れてしまった。兵らは未だ持ち堪えてはいるが、それでももはや総崩れとならぬ方がおかしいほど。否、このまま戦いを長引かせては、それほど時を経ずして先鋒隊は本当に総崩れとなってしまう。それは考え得る限り、もっともあってはならぬかたちでの敗北であろう。
 
 今度は兜の眉庇を上げぬまま、彼は一瞬、天を仰いだ。
 決して侮りがあったわけではないはずだ。
 彼我の戦力は拮抗、味方の士気は高かった。
 それなのになぜ、われらは負けるか。

 己に問うことをしばしくり返すそのあいだにも、敵は絶え間なく攻め寄せてきた。
 部将たちが声を嗄らし、いちど崩れかけた戦線を回復せんと試みるが、やはり辰野勢の勢いは激しい。高井勢がこの状況を引っくり返すことは、ほぼ不可能に近い。高井兵の骸を踏み越え、またさらに同じ辰野兵の骸さえをも踏みつけて、敵は血みどろになった顔に狂喜にも似た戦意を昂ぶらせながら、なおも矛の切っ先を突き出してくる。冬の光を反射する静かな光はもはやその鉄の刃からは喪われ、鮮血で洗われたがゆえに鈍く紅く輝くばかりだ。その紅は、おそらく。この辰野の者たちの魂魄(たましい)を、隅々まで染め上げている色であったろう。

 ――――死兵、ということか。

 またも自分に向けて突きかかってきた辰野兵の攻撃をかわし、その首筋に一撃をくれてやる。返す刀にもうひとりの敵にも斬撃を浴びせながら、クジャンはただそのことに気づいていた。

 いくさが終われば、帰る郷里がわれらにはある。
 しかし辰野の連中にとってはこの地こそが郷里であり、この山こそ命棄てる場所。
 もはや何ら得るものも、喪うものもない者たち。死にに行くために矛を手に手に向かってくる軍勢。斯様な死兵の勢いを受け止めるには、尋常の人の業(わざ)では足りぬということか。

「おのれ。此度は……こちらの負けか」

 今度こそは、誰にも気取られぬよう小さな声でクジャンは呟く。
 今それを他の者に聞かれれば、最後のひと繋ぎとして残されたわずかな戦意さえ、完全に味方から喪われてしまう。かといって、このまま延々と戦い続けているわけにもいくまい。血刀を提げながら彼は必死に考える。

 高井勢に残された道はふたつにひとつ。
 己の面子を守らんがため、戦い抜いて玉と砕けるのか。
 命惜しさに敵に背を向け、おめおめと敗走するのか。

 このふたつの策を天秤に掛けるということは、ひとりの武人としての彼にとっては甚だしき屈辱というほかはなかった。クジャンにも数多のいくさをくぐり抜けてきたという誇りがある。八坂神から先鋒隊を任されたという自負がある。しかし己が将器を満たす清い水を、将兵の流す血で換えてしまうこともまた、決して許されることではない。

 武人としての己か、将としての己か。

 ぎりりと奥歯を噛み絞めながら、クジャンは大仰なまでに自らのつるぎから血振りをした。そして、鼻筋を垂れ落ち、固まりかけた返り血を空手の先でツと拭うと、新たな号令を発したのである。

「後退、後退せよ!」

 敵味方を問わず、束の間、戦場の注目が彼ひとりに向けて集まった。

「われら高井勢は、今より元来た道を後退する。なれど、これは断じて、命惜しさの敗走にあらず。諏訪の本隊が到着するまで、十分にその時を稼いだがゆえの後退である!」

 みずからも剣を振るい大将のそば近くで戦っていた部将のひとりが、クジャンのその言を聞いてうなずいた。「後――退! 急げっ!」と伝令も介さず命令が飛び交い、激戦のなかでかろうじて生き残っていた高井兵が、ある者は蹈鞴を踏み、またある者は矛を取り落としながら、坂道を下り始めた。蜘蛛の子を散らすごとく……という言葉が当てはまらぬほど整然として、秩序だった行動であることが、未だしも敗兵の群れとしてはひとつの救いであっただろうか。

 そして、クジャンは。

 味方の大半が坂を下りつつあるのを見届けたあと、斃した敵の屍骸から矛を奪い、それを敵勢の中心へ向けて思いきり投げつけた。敵の総大将であろう薄化粧の少年を狙ったものだったのだが、すんでのところで狙いは逸れる。代わりに、かの少年の側近であろう兵ひとりを討ち取ったことにのみ苦い満足を覚え、ようやく彼自身も味方の後を追う。

 敵味方の屍骸と血しぶきの跡が、雪の山道に濃いまだら模様をつくっていた。

 クジャンは剣を鞘に納めることもなく、その道を一散に駆け下りていく。不思議なことに、敵が追撃に移る気配はない。敗将ひとり討ち取るのにわけはないはずなのに。追撃を行うだけの余力がないのか、あるいは諏訪本隊との戦いのため戦力を温存するつもりか。返り血で赤く染まった唇から、寒さのなかに真っ白い息を吐いて。クジャンは自らの背後で鳴り響く勝ち鬨を、聞くともなくただぼんやりと聞いていた。


――――――


「お、お味方の先鋒、辰野勢に打ち破られ、こちらに向けて後退している様子!」

 雪に隠れた木の根につまずきかけながら、ひとりの男が神奈子のもとまで駆け寄ってきた。鏡のようにぎらついた眼と、爬虫動物を思わせる矮小な体格。神奈子に仕える舎人(とねり)のひとり、眼飛等舎人(まなひとのとねり)であった。このいくさにおいては、その人並み外れた眼の良さを買われ、物見として随っていたのである。

 その彼が神奈子に戦況を伝えると、事の次第を漏れ聞いた周囲の将へと瞬く間に動揺が広がっていく。しかし、それが直ぐさま兵たちにまで波及していくということはなかった。あくまで、眼飛等からの報せは将たちにのみ優先して伝えられたものである。決戦を前にして不吉な報せが伝われば、全軍の士気に関わるのだ。だから皆は溜め息を吐きはしても、おおっぴらに不平不満を言い表すことがない。

 とはいえ、誰の顔も暗鬱である。
 険しい目つきで、彼らは山上から下って来る人影の群れを睨んでいた。
 坂の下方からではよく確認できぬその影は、敗退する味方か、あるいは余勢を駆って進撃を開始した敵軍か。

 一方、諏訪本隊二千の総大将たる八坂神奈子もまた、「ん、御苦労であった」とは言いながら、眼飛等本人になど眼もくれずに山上を見上げている。彼女の視線は辰野勢を、そしてまた追い散らされた先鋒の高井勢を見、最後にまた、自らを取り巻く将兵に向けられた。

 ついと、彼女は頬をこわばらせた。
 将たちは、三度目の敗戦に疑いようもなく気を落としている。
 何せ出陣前に、麓で戦勝祈願の儀式まで行っておきながら――実態は単なるハッタリでしかないのだが――、その直後の戦闘が“この様”だ。ここで直ぐに気持ちを切り替えられる者が居たとしたら、むしろその者の正気が疑われる。軍神八坂とても、それは憂慮さるべき事実であった。

 しかし、である。
 人の世の尋常なる正気が問題となるのは、彼らがあくまで人だからだ。
 人を率いる八坂神奈子は、神である。
 神の正気は、人にとっての狂気でなければならぬ。
 ましてや戦争とは、生ける者どもを死に駆りたてる倒錯した行為。
 その狂った場に皆を導く神奈子こそが全き狂気を持たずして、どうして勝つことができようか。

 親を喪った仔犬のように、哀れとしか言いようのない顔、顔、顔。
 神奈子はそんな将兵に向け、むしろ呵々たる笑いを向けた。
 紛れもなしに、それは『狂気』によるものか。なれど。綿密な計画に裏打ちされた狂気なる存在は、『正気』をも超えるほどの才覚であるというのを、神奈子はよく知っている。ゆえに、彼女は声を発した。

「慌てるな! 先鋒が敗れたとは申せ、その後には二千から成るわれらが続いておる。むしろ、先鋒隊の働きによって敵方の動きを知ることができたと思えば良い。こちらの目論見通り、ユグル自ら辰野の本隊を率いて坂を下り、わが諏訪軍に向け進撃しているのだ。いくさの趨勢は、なおわが手に握られておる!」

 勝利は疑いようもなくこちらの手のなかに在る、其を疑うことなかれ。
 それを、よく皆に伝えんとする神奈子の意志であった。
 いくさの敗北は、惨めなものである。将兵の血は流れ、花のごとくに骸は群れ咲く。そればかりはどう足掻いたところで、変えようのない事実だ。だが、「少々の勝ち負けをいくら重ねたところで、それが些細でつまらぬものである限り、いくさそのものの大勢を左右するということはない」と、神奈子は続ける。要は、最後に大局の大いくさで負けなければ良いのであると。最後に大勝ちをすればこそ、死んでいった者らの命も無駄ではなしと。

「諏訪はこれまで政を動かし、辰野を支えていた流れのことごとくを断ち切ってきた。敵は、はや孤立無援に陥って久しい。いわばこの決戦、最後の総仕上げをしに行くに過ぎぬ。クジャンは、よくやってくれた。あの者が時を稼いでくれたおかげで、われら本隊が間に合うわ」

 すべては綿密な計算の元にあり、この敗北もまた八坂神の手のひらの上であると。
 彼女は、その宣言したのであった。

「次はこの八坂神自らが、――否、ここに居る二千の将兵が直に引導を渡しに行くのだ。勝つのはわれらぞ」

 唇を引き結びながら、側近たちはうなずいた。
 その口角は、しかし、余裕ある笑みのかたちに戻っていくように見えた。


――――――


 総大将みずから改めて士気を鼓舞したおかげで、皆の意志も多少は回復したようである。
 諏訪本隊二千の軍勢は、少しの休息を経て再び行軍を開始した。

 冬山の上り坂は、地形の険しさが雪の白さに覆われて見えにくくなること度々であった。足を滑らして転げ落ちそうになるたびに、別の誰かが手を差し伸べてやる。そんな光景が見られたのも一度や二度ではない。なるほど斯様な山上の戦いであれば、上方に陣取って頭を押さえられれば不利となる。あらためて、神奈子はこの山に城砦を築いたノオリに感嘆した。科野州がごとき辺境に彼のごとき将が居たとは。

 だが、そのノオリをもってしても、南科野の豪族たちが辰野から離反するのを防ぐことはできなかった。辰野にとっての不幸は時勢を読み切れなかったこと、そして洩矢諏訪子という奸策の徒を敵に回してしまったことなのだろう。その諏訪子が仕掛けた全体の戦略そのものは、むろん、さっき神奈子が将兵に示したごとく、諏訪方有利で揺るがない。が、しかし。戦略で優位に立っていたとしても、戦術で敗北を重ねていたのでは、やがて戦略にまで綻びが生じてしまう。神奈子自身それは重々に承知であった。あくまで、さっきの宣言は麓で行った卜占と同じく、皆の士気を落とさぬための“儀式”でしかない。

「逸勢」

 神奈子は近くを歩いていた伝令を呼んだ。
 逸勢舎人は、この場では護衛の役をも兼ねている。
 彼は、直ぐさま主の元まで駆けてくる。

「至急、山を下りよ。麓に後詰めとして残してきた諏訪子とノオリに、出陣をせよと申し伝えるのだ」
「は。……あ、いや、しかし」

 逸勢は、少し狼狽の態である。
 いつもであれば、直ぐさま目的地に向けて発つ彼なのに。

「どうした」
「先ほど、皆にはわれらの方が勝っていると。そのように仰せであったはず。それなのに、後詰めとして諏訪子さまとノオリさまのおふたりの軍勢に、出陣のお下知をなされるので?」

 神奈子は、フと微笑んだ。

 どうやらこの青年もまた、神奈子の言葉を額面通りに受け取ってしまっているらしい。つまり彼は、わざわざ後詰めを出すにも及ばぬ戦況と信じたいのだ。それはそれで神奈子が信望を得ているということではあるが、しかし、今はそういう場合ではない。ふたりは声をすぼめて話をしていた。会話の中身が漏れ聞こえれば、部下たちからの不審を招きかねないからだ。皆が盗み聞きなどしていないであろうことによくよく気をつけながら、神奈子は逸勢の耳に口を寄せて、告げた。

「万が一のことを考えてだ。こちらは二千。向こうは戦いで疲れた数百。よもや負けるなどとは思えぬが、地の利をつかんでいるのは辰野方であろう。ならば本当に劣勢となったときに備え、持ち駒は増やしておいた方が良い」

 つまり、『もしも』を想定した次善の策であると。神奈子は、そう言ったのである。

 それを告げられた逸勢は、直ぐに得心がいったようだった。
 何度か軽くうなずくと、将兵たちがつくる人波を通り抜け、元来た道を引き返していく。彼の駿足なれば、麓まではさほど時間を掛けずに神奈子の命令が伝わることだろう。少し離れたところで眼飛等舎人が、軍勢に逆行して走り抜ける逸勢の後ろ姿を、不思議そうに見守っていた。

「万が一のため、か」

 なおも皆と行軍の路を共にしつつ、神奈子は心中でだけ呟いた。
 初めから負けたときのことを考えて、次の策、次の次の策を用意しておくのは賢明だ。だが実際のいくさにおいて、負けると思って勝った者はない。勝つという気概こそが勝ちを生むのがこの世の掟だ。いかなる正気や狂気にても覆せぬ鉄則だ。あるいは似合わぬ弱気が兆したか。さすがの三度の敗戦には。

「何を、ばかな」

 神奈子は、ぎりと奥歯を軋る。
 そのとき、突如として軍勢の歩みが鈍くなった。
 先頭の部隊が、後退してきた高井勢と合流したという報せが届いたのは、それから間もなくのことであった。


――――――


「敵はどのようないくさぶりであった」

 退却――むろん、建前上は『後退』だが――してきたクジャンが報告のため謁しに来たので、顔を合わせるなり神奈子はそれを問う。笑いを向けたりはしないが、あえて叱責することもない彼女である。静かに高井の敗将からの答えを待っている。

 一方のクジャンは敵からの返り血、そして自身の汗で、すっかり顔がどろどろになっていた。いくら戦いの後とはいえ、この汚れた顔のまま大将に謁見を乞うはさすがに無礼と思ったか、途中で誰かに借りたのだろう布で顔を拭いながら、彼は眼だけでちらと神奈子を見つめ……そして、視線を逸らした。直ぐに神奈子の問いに答えるということはなく、無言である。眉根に寄った深い皺は、返り血と汗の不快な感触に向けられたものではないだろう。やはり、心中には敗北の責を負わんとしているらしい。神奈子は少しく狼狽した。いま聞きたいのは謝罪ではなく敵勢の様子であり、見たいのは詫びでなしに敵の手のうちだ。

「……水を。クジャンに水を飲ませてやれ。寒さのなかとはいえ、戦い通し、走り通しでは喉が渇く。喉が渇いては上手くものも喋れまい」

 ほどなくひとりの兵が、持参していた竹筒をクジャンに差し出す。
 大将からの“二重の”気遣いを受けてなお、それに応えぬではむしろ不義理なものがあろう。クジャンは神奈子にとも水をくれた兵にともなく、一礼を見せると、口の端から水がこぼれ落ちるのもいっこう構わず、がぶがぶと竹筒の中身を飲み干した。押しつけるごとく竹筒を返すと、口元を手で拭いながら、思いきり息を吐く彼。

「敵のいくさぶりは、いかに」

 再び、神奈子の問い。
 クジャンはあらためて頭を下げると、敗戦の詫びはさておいて、

「……此度の辰野勢は、まさしく“死兵”と申すべき勢いにございまする」

 と、己の思うところを包み隠さず述べた。

「死兵、か」

 ふン、と、神奈子は鼻を鳴らす。
 微笑とも嘲りともつかぬ、鼻からの笑い。
 むしろ、死兵とならざるを得ない状況にまで辰野の者たちを追い込んだことへの、幾ばくかの自嘲のためであったろう。荒かった息をどうにか整えつつ、クジャンはなおも報告を続ける。

「生還を期さぬ軍勢ゆえに、将も兵も猛っておりまする。ゆえに、強い。不覚を取って押し負けたそれがしの口から申すは、甚だ恥知らずかもしれませぬが、あの勢いを正面きって打ち破るは、――」

 容易ならぬものと、と。
 クジャンは、その言葉を言いたがっていたはずだった。

 しかし、彼の口からはその『続き』が出なかった。
 もしかしたら、総大将を前にしてそのようなことを正直に言うのは憚られたのかもしれない。水を飲む前と同じように、否、もしかしたらそれ以上ではないかと思えるほどに押し黙り、彼は唇を引き結んでしまった。唐突な沈黙に、諏訪本体を率いる将たちのあいだにも淡い困惑が走る。しかしクジャンが言わずとも、誰もが彼のその意を悟ることはできただろう。神奈子の演説で士気を奮い立たせられたことにより、かろうじて姿を隠していた弱気の虫が、困ったことに再び顔を出しているのだ。だが。

「なるほどなあ」

 神奈子ひとりは微笑を浮かべ、横目を遣って山上を眺めているだけだった。
 うぞうぞと蟻の列の這うごとく、黒い点々がまばらに山肌を下りているのがほの見える。おそらくは、こちらに向かっている辰野の軍勢であろう。

 とはいえさすがに各将、神奈子の態度には度肝を抜かれた様子である。
 後退してきた先鋒隊の大将であるクジャン自身が、もっとも驚いた顔をしていた。何せ神奈子は、これまで敗北の都度、怒りを露わにしてきたという。迂闊な口を聞けば自分もまた痛罵を受ける覚悟くらいは彼もできていた。が、労いはない代わりに叱責もない。もはやそのように些細な事柄にかかずらわってはいられない。そう言っているように、皆からは見えたに違いなかった。

「そのように怖れを知らぬ猛き者たちこそ、この軍神が力振るうに値する」

 にやりと、彼女は笑った。

 この日、夜が明けてから今まで、もっとも『不敵』――そう言うことさえできる表情(かお)だ。「良いか、皆」と彼女は、あらためて周囲の部将たちの顔を見回す。クジャンの報告を受けるべく、各部隊の将はしばし神奈子のもとに集まっていたのである。自分を取り囲む将たちに、神奈子は告げる。「新たな策をこれから伝える。死兵相手に取ることのできる最後の、そして唯一の策ぞ。心して聞け」。

 ごくりと、誰かが唾を飲み込む気配。
 それにもまたフと笑いながら、神奈子は言う。

「次に敵と相対したとき、この八坂を――兵たちの列をも越えて、軍勢のもっとも先頭に進ませよ。わが身ひとつで、いくさの流れをこちらに傾かせる」

 皆が、一斉に眼を剥いた。

「何を、ばかなことを申されます!?」
「ふふ。総大将の策にばかとはいかなることだ」
「ばかな策をばかと申し上げて、何が悪うございますか!」

 老体を押して従軍していた評定衆の一人、威播摩令(いわまれ)が、そのしわがれた声を限りに叫ぶ。唇から唾を飛ばしながら、しかしそれでも構わぬとばかり、彼は懸命に食い下がった。

「い、いかにいくさ神の化身とは申せども、御身、霊のみにあらず。肉の身体にございまする。つまり、其はわれら尋常の人と同じつくりをしておられるということ。矢で射抜かれれば血が流れ、剣にて斬られれば骨断たれまする。傷つけば命も落としまする。大将自ら戦列の先頭に出るとはそういうこと。そのような危うき場に、総大将たる八坂さまを送りだすなど!」

 威播摩令の言い分は、まったく何から何まで道理に適ったことだ。
 彼は彼で、この不利ないくさに向かう神奈子の身を案じているのである。将たちのなかでも、この老人の言にうなずく者が少なくなかった。常識で考えれば、神奈子の“策”なるものは、奇抜を通り越して阿呆の所業以外の何ものでもない。自ら軍勢の先頭に立って雄々しく敵を駆逐するというなら未だしも、先頭に立った自分ひとりで戦いの流れを変えるなど。

 だが神奈子にとっても威播摩令の小言は慣れたもの。
 彼女は総大将として、老将の肩に手を置きながら言った。

「申すな、とうに解っておる。だが、命を惜しんでいくさはできぬ」
「大将だからこそ、“臆する勇気”が必要なもの。率いる者を喪いし軍勢は、蜘蛛の子を散らすより無惨に瓦解いたしまする。むやみな突撃は匹夫の勇、厳にお慎みくだされませ」

 肩に置かれた大将の手を、威播摩令もまた自身の手で、いたわるようにして握った。神奈子は遠慮なくその手を振りほどく。わずらわしげに――ではなく、「心配はいらぬ」と、言外に安心させるように、穏やかな仕草で。

「忘れたか。勝ちはすでに、わが手のなかに――そして皆の手のなかに在るということ」

 そなたの手にも、むろん在る。
 そう言って、威播摩令の手を神奈子は握った。
 一瞬、涙を堪えるように威播摩令の顔が曇った。小言多き彼とても、十年以上も八坂神と苦楽を共にしてきた臣がひとり。斯様な山中にて自ら奉ずる神を喪うのは、耐えがたい悲しみというほかはない。だが、彼はようやく決意がついたらしかった。元より、あれこれと我を押し通しがちなのは神奈子の性情だ。それは神という以上に、彼女が人の姿に化身して生きているがため、ある意味ではひどく好ましいと思えるところではあった。

「…………何か異変あらば、威播摩令、辰野でのことはそなたに任す」
「は。承知いたしました」

 ついに威播摩令は、首を縦に振った。
 今ここに居る諸将のうち、もっとも格の高い者の言だ。他の人々もそれに逆らうわけにいかず、威播摩令の姿を仰ぐのだった。

「神薙比(かむなび)。万が一のときは、威播摩令の副将として動け」

 神奈子がもっとも信頼を置く将は、無言にうなずいた。
 がしゃりと、鎧の部品同士がこすれ合う。

「眼飛等!」
「はい」
「もういちど物見へ出よ。本隊は、ここで敵を待ち構える。いよいよ近づいてきたら、我に報せるのだ」
「解りました……」

 そう返事をするが早いか、眼飛等はまたも雪に足を取られながら、大急ぎで坂を駆け上っていく。何かが始まるのだと、山道に沿って縦に長く連なった各部隊の兵たちにも、いよいよ緊張が兆してくる。神奈子は軍勢のなかほどから、それを満足そうに見渡していた。

 彼女は“これ”が好きだった。
 いくさが始まる前の、緊張に満ちた一瞬、その積み重ね。
 それが壊れ、全力と全力のぶつかり合いが始まるのが。
 なればこそ、彼女はいくさ神なのだ。
 そして彼女のごとき神こそが、戦場を支配する『権利』を持つ。

「御武運をお祈り申し上げまする」

 そう言ったのは、神薙比であった。
 深々と頭を下げた彼をはじめ、威播摩令ら出雲人の将、また科野人の将らも等しく頭を下げていた。何を大げさなことを、とは言ってやらない。それもまた、神奈子の慈悲のような何かだった。


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