Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十一話

2013/12/19 22:12:44
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 諏訪方の行軍再開には、当初の予定より幾らか長い時間が必要であった。

 何ぶん、酒宴でばか騒ぎをしていた兵たちに規律と統率を取り戻すのに手間がかかってしまったのだ。とりわけ北科野から徴集された者たちは、辰野出兵以前から諏訪に留め置かれていた連中である。長く郷里を離れる不安と疲れから、いちど酒が入ればふるさとの懐かしさにはなおいっそうの拍車が掛かるというもの。神奈子は総大将として兵たちの動揺を静めるべく「辰野とのいくさで大勝利を経たのだから、恩賞をたっぷりともらって晴れ晴れと郷里に凱旋できる。そのときはもう直ぐ来る」というようなことを、兵たちに向け幾度か訓示せねばならなかった。

 だが彼らが山中に仮として敷いた陣を引き払い、行軍の体勢を整えるまでには、今ひとつ解決せねばならぬ問題があった。

「虜の数が多すぎまする」
「左様。まさか、ここに来て新たに城から逃げ出してきた者たちまで加わるとなると……」

 幾人かの将から出た、このような意見の通りである。
 神奈子と諏訪子は、顔を見合わせた。

 出陣直前の軍議の席であるが、いかにも憮然とした態度でいる者が数名。行軍を遅らせるべきと主張する将たちである。そもそもの起こりは、夜半に遡らなければならない。大勝利に湧く諏訪方の祝宴もいささか落ち着きを取り戻してきたかというとき、山頂から大挙して諏訪方に押し寄せてくる一団があった。

 すわ、酒に酔って寝こけたところを狙う敵の夜討ちかと諏訪軍の将兵たちはいきり立ったが、よくよく検めれば事情が違う。暗夜のなか、寒さに耐えながらふらふらと諏訪軍の元まで到ったのは、辰野方の城から逃げてきた人々だったのである。見れば大半の者は、武装もしていない。元の辰野兵たちでさえ、敵と見なされるのを怖れてか、武器も甲冑も身につけていなかった。

 むろん初めは諏訪の将たちとて、降るを装って諏訪の陣への“火つけ”でも行う作戦かと身構えたが、それにしてはあまりに人数が多すぎる。百は下らぬ規模の者たちが、いちどに諏訪の陣にやってきたのだ。火つけ程度にここまでの人数を割いてしまうのはあまりにも目立ちすぎるし、それにただでさえ後備えの脆弱な現在の辰野軍とって、百の規模の兵を出すなど城をほぼ空っぽにしてしまうということではないか。ここに到っては、どうやら諏訪方の将たちも、「城から逃げてきた」という言い分を信じないわけにはいかなかった。辰野勢の戦力は、もはや内から瓦解を始めているのである。

 それゆえ諏訪軍の陣に行き着いた者たちは、そっくりそのまま諏訪方の虜として遇されることになった。だが、それ自体が、辰野攻めも大詰めというときに新たな問題を引き起こす。

「こうまで多くの者が城から逃げ出すということは、ユグル一党にいくさらしいいくさをするほどの力は残っておらぬということに違いない。一気に進軍して片をつけましょうぞ」
「いいや、逆に考えた方が良い。味方に虜が増えるということは、その者らにくれてやる食い物も都合せねばならぬということ。ただでさえ備えの厳しい冬のいくさ、ひと月あまりのあいだにわが方の糧食も尽きかけておる。斯様な情勢で虜を引き連れれば、どうなるか。いくさに勝っても帰りの食い物がないでは、半分負けたようなもの」
「われらは諏訪王の軍、禁軍ぞ。食い物がなければ八坂の神の御名かざし、道々で集めてくれば良い」
「皆、何を申しておるのか。そもそも虜を生かして連れ回さねばならぬ法など、ないではないか。どうせ城を攻めればことごとく命落とすはずだった者たちよ。邪魔になるのであれば、今ここで皆殺しにせよ、皆殺しに!」

 ようやく酔いから醒め、落ち着きを取り戻し始めた兵たちを待たせながら、各軍の将たちは額を突き合わせて議論に徹する。敵が弱っている隙を見逃さずに叩くのは、兵法の常道といえる。だが同時に、糧食の備えなくして兵を動かすことを戒めるのもまた、兵法の大いに説くところである。喧々諤々、話し合いは続くが、このような些事でいつまでも手こずっていては、せっかく規律を取り戻した兵たちの士気がまたも弛緩してしまう。そのことに誰もが思い到っていたからこそ、いずれの将たちの顔にも焦りが浮かび始めている。

 と、そのとき。

 諏訪子が神奈子の袖を引き、ちょっと耳打ちらしい仕草を見せた。
 神奈子は諏訪子の言葉に対し、かすかにうなずく。だが眉間にわずかながら皺の寄るところを見ると、いささか渋面をつくるに値する策を聞かされたらしい。周囲の将たちは各々の意見の表明に忙しく、ふたりの様子には気づくことができないでいた。

 そこに、わざとらしく咳払いをする神奈子。
 鶴のひと声……でもあるまいが、総大将が何か言いたげにしているのを、将たちが無視できるはずもない。

「虜の扱いごときで何を延々と論議しておる。いっそ、軍勢を二手に分けよ。一方は城を攻め、もう一方は虜を連れて下山する」

 おお、と、将たちから納得の溜め息が漏れた。
 何も戦場にまで虜を連れ回して、邪魔くさいと罵りながら戦う必要もないわけだ。考えてみれば至極当然のことである。

 だが、それにはまた別の問題が発生する。
 それは、

「良案とは思いまするが、いったい誰が虜どもを麓まで送りだす役を担うので……?」

 ということである。

 またも将たちから溜め息が漏れる。今度のは、落胆の溜め息であった。
 いま彼らが居るのは、いくさをしに来たがゆえのこと。大勢は勝利に大きく傾いているとはいえ、ここで勝ち馬に乗って手柄を立てたい気持ちは誰しもある。だというのに、最後の最後で虜の護衛というつまらぬ役目でいくさを終えるなど……武人の名折れだ。

 八坂神奈子とて、一軍の将にして武人である。
 そうした気持ちが汲み取れぬはずもない。果たして彼女の顔に依然、浮かんだように思しい渋い何かは、武人の誉れに悖る策だからか、それとも人の道に外れる策だからか。直ぐに彼女は「ジクイ」と新たに名を呼んだ。将たちのなかに在った赤須の将は、びくりと肩を震わせる。その眼は再度の叱責かと怖れるものではなく、むしろ何か強力な自信を取り戻した光を宿している。一礼するジクイを見て「ふッ」と、短い溜め息を吐き、神奈子は続けた。

「は。ジクイ、御前に」
「うん。そなたの脚の、矢傷の具合はどうか?」
「八坂さまにおかれましては、お気遣い、まことに感謝いたしまする。おかげさまで、立ち歩くことくらいは。未だ、雪の上に引きずるような足跡を残す有り様ではございまするが。しかしこのくらいの傷、次の戦いにはいかなる差し障りのあるものぞと……」

 長々と述べ始める気配のジクイを、神奈子は手をかざして制した。
 先走った口ぶりを制されたジクイに、他の者たちから失笑が漏れる。皆、彼が緒戦で犯した失態を知っているのだ。だが当のジクイは眉ひとつ動かさず、なお神奈子と対していた。かすかな微笑には奇妙なことに卑屈さはなく、己に与えられるものに対する期待をよく心得ているようである。神奈子はうなずき、次を話す。

「そうか、それは何より。しかしいくさで足を引きずるようでは、元より命の方まで脅かされよう。肩を貸してくれる奴婢、傷の手当てをしてくれる女子のひとりも、居れば助かるのではないか」

 ちらと、神奈子は眼を逸らした。
 その向こう側には――辰野人の虜たちが身を寄せ合っている。
 諏訪方の兵たちから注がれる好機の視線のなか、その場から動かず沙汰を待っている彼らの様子は、あたかも天敵に襲われた貝が固く殻を閉じて中身を護るかのようだ。諏訪子もまた、そちらを見た。ただし神奈子ほどの渋面でもなく、「止むを得ざる仕儀なのだ」とでも言いたげな、諦観ある顔つきで。

「そうでなくともそなたの軍は、先の戦いで負傷した者が多い。そのような男たちを慰め安んずる女もまた、必要であろうが?」

 ジクイは神奈子の面(おもて)をまじまじと見つめ、そして口角を釣り上げると、大きく大きくうなずいた。

「“そういうこと”であるのならこのジクイ、虜どもを麓まで連れ帰るお役目、喜んで承りまする」

 言うとジクイは深く一礼、将たちから離れ、虜らを連れていくべく自軍の元へと足を引きずり引きずり、去っていった。下山の仕度である。神奈子もまた、ジクイが自らの提案を是としたのを受け、各将を順繰りに見遣る。

「以上だ。辰野からの虜はジクイに委ね、彼の者の軍は本隊から分かれて麓に向かってもらう。異存はあるまいな」

 取り立てて、将たちから異議らしいものとてない。
 しかしただ、そこにあるのは失望に近い何かであった。
 人身に対しての略奪と売買は、いくさの常なのである。天賦の人権という概念が発達する以前……まして古代の戦争ともなれば、亡国の民衆は殺されるか奴婢として売買の対象になるか、といったところがせいぜいだ。すなわち『人間』を戦利品として扱うことは、勝者の特権のひとつであった。神奈子はその権を、ジクイひとりに対していちどに与えてしまったということである。

 それが何を意味するか、神奈子と諏訪子が知らぬはずはない。
 恩賞の不公平は、一軍のなかにおいて不和と不信の種となる。緒戦で敗北してさしたる手柄も立てていないはずのジクイが、虜をまるごと手に入れるとなればなおさらである。それを考慮してのことか、諏訪子がすかさず口を挟んだ。

「皆、何か勘違いをしておるようだが。ジクイは赤須衆筆頭として、ユグルと繋がっておった商人オンゾの切り崩しに力を振るった。此度のことは、それへの恩賞である」

 諏訪子からの説明を受け、半ば不満を募らせていた将たちも、少しは合点が行った様子だ。それに戦いは未だ残っている。ユグルら大将たちの籠る城砦を落とせば、新たに大手柄も立てられようと。皆、そればかりを当てにしている者が大半らしかった。

「虜に関しての懸案は済んだ。では、皆、発向に向け仕度を急げ!」

 八坂の神の号令一下、将たちは一時に頭を下げ、それぞれ率いる軍に戻っていく。
 ややあってその場に残されたのは、神奈子と諏訪子という二将だけであった。

「ジクイはおそらく、未だ諏訪に心服まではしておりませぬ。ゆえに、辰野での緒戦でも軍律を犯してまで抜け駆けをした。恐怖をもって従わされた者は、その恐怖に耐えかねいずれは背くもの。面従腹背の者を心底からこちら側に繋ぎ止めるには、解りやすい利がなくば……」

 諏訪子は、あらためて策の要諦を諭した。
 周りに将の姿のなくなった神奈子が、よりいっそう渋面を深くしたせいであった。

「解っておる、そのようなこと。ただ……」
「虜の売り買いを軍議の場で云々するなど、いくさ神としての矜持がお許しにならない?」
「それもあろう。だが、諏訪子の言うことは前と後で辻褄が合わぬ。ユグルの来し方行く末を憂えるかと思えば、虜の売り買いについては堂々と話したり」

 諏訪子は、少しく口ごもった。
 だが、やがて諦めたような笑みを湛えて、言った。

「われら神なるものを産み出した人でさえ、善悪測りがたき生き物にて。ならばこの諏訪子に清濁の在ることを、いったい誰が止められましょうや」

 少女の声音は、どこか、悲壮であった。


――――――


 その後、およそ半日ほどか。
 山道に沿って長く長く連なり進んだ諏訪軍は、ついに山頂近くにまで到達した。

 やはり当初の予想通り、内から瓦解しつつある辰野軍には、もはや道々で防備や妨害を展開する様子もないと見える。諏訪の軍勢の道行きを阻むものといえば、ただ冬山にときおり訪れる荒天のみであった。しかし、それとても天の差配が八坂神奈子に味方しているのか、進軍の停止を長時間に渡って強いるというほど烈しいものではない。乾いた冬の空気のもと、洩矢諏訪子とノオリという後詰めの二隊をも加えた諏訪軍は、ようやくその視界に、ユグルの籠る城砦をはっきりと捉えたのである。

「あと少しだ。あと少しでこのいくさ、終わるのだ」

 剣の柄に手を掛けながら、神奈子は不敵に笑んで山上の城を睨みつけた。

 道中、辰野の天嶮ももはや八分を越えたといったところか。
 物見の見立てによれば、このまま何の障害もなく進むことができれば、あと半刻ほどで敵城にたどり着くことができるはずという。そのように勝利を目前とした状況で、しかし、神奈子の心にはどこか陰が差さぬでもない。幾多の外敵を寄せ付けなかったはずの辰野勢の城が、いま勝利を目前として、異様に陳腐な小城に思えてしまうからだ。否、実際、急造された小城に過ぎぬものではあったろうが、どうせ攻めるのならいくさ神としての力を存分に振るえるような城を攻めてみたいと、思わぬ神奈子ではない。

 とはいえ、このいくさの大元の目的は、諏訪王権のもとで南科野の情勢を安定させることにある。いくさ神としての私情を、諏訪王としての公の意に差し挟むは愚かであった。

「ユグル、……という少年か」

 愚かであるのは、十全に承知していることだ。

 しかし勝利が自らの手に近づくに連れ、自らの愚かと敵将の愚かとを同じものとして見ている自分にもまた、どことなく気づかされてしまう。自分がユグルと同じ立場であったなら、やはり矜持のために兵を挙げたかも知れぬ、と。人の上に立つ者は――神や王という者どもは、人々にそう望まれた通りに振る舞わねばならぬ。敵する者との戦いをこそ人々が望むのであれば、敵する者とどこまでもいつまでも戦わねばならぬのだ。

 だが、それを望んだ当の人々が神や王を棄ててしまったなら? 
 棄てられた側は、なお自らの生の意義と化してしまった戦いを、いつ果てることなく続けなければならぬのであろうか? 

「何と、恐るべきことではないか? なればこの八坂の神の為すべきことは、ユグル、そなたのいくさ、この辰野にこそ葬ってやることではないのか?」

 山中、新たに積もった雪を踏みしめながら、軍神はずっと自問自答を繰り返していた。


――――――


「諏訪全軍、城の周りにて、囲むことできる場所は余すところなく囲んでございます。もはや蟻の這い出る隙間もございません」
「御苦労。ま、こう寒くては、蟻も巣穴に籠って暖を取っておる頃合いであろうが……」

 神奈子が口にしたのはちょっとした喩え話のつもりだったが、側近の将は、それが辰野方の腰抜けぶりを嘲笑う冗談であると受け取ったらしい。「いやまったく。以前に諏訪子さまが降伏を説きに行った際は、負けを認めるくらいなら潔く斬り死にする覚悟と申しておったとのことですが、今やわが軍に取り巻かれて抵抗らしい抵抗もできぬとは!」。そう早口に言って呵々と大笑いする様子の将だったが、肝心の神奈子が険しい表情を崩していないのを見て自身の勘違いに気づいたのか、笑うためにぱっくり開いた口を、恥ずかしそうにまた閉じた。

「しかし、八坂さま?」

 と、そこへ、別の将が申し述べる。

「巣穴に籠った蟻の群れを、地の上に引きずり出すは至難の業にございましょう。何らか策を講じて土を崩さぬことには」

 軍勢のなかで、神奈子を始めとする将たちがいちどにうなずいた。

 大軍勢で攻め込めば、それこそあっという間に辰野の城を落とすことはできるかもしれぬ。事実、今朝の発向から城のぐるりを包囲するまで、一度として敵の妨害には合わなかったのだから、ろくな抵抗ができぬまでに辰野勢が弱体化していると見るのは不自然ではない。

 だが、それこそが敵が仕掛けつつある最後の計略かもしれぬという不安もある。
 無防備を装って、踏み込んできた相手を一網打尽にする辰野最後の作戦が。そのときをこそ、敵は本当の斬り死にのときと定めているのか。その危険を考慮に入れれば、城を完全に包囲したとて直ぐに気を緩めるは早計というほかない。

 神奈子は、“土を崩す”ことを提案した将に対してもういちどうなずきつつ、また別の将を振り返った。各軍の弓隊を統率する役にある男だ。

「解っておるからこそ、蟻の巣穴の具合を見極めねばならぬ。各軍、弓隊の備えはいかに?」
「は! そちらも万全にございまする!」

 弓隊の将は、自信満々といった風にうなずいた。
 箙に矢を満たし、ぴんと弦を張った強弓(こわゆみ)の腕利き揃い、後はもう、大将の下知を得るばかりといったところだろう。それにもうなずいた神奈子は、あらためて彼我の様子を見定めた。雪に覆われた急峻な地形に身を寄せ合って展開し、今しも辰野最後の拠点たる小城を落とさんとする諏訪軍の将兵。十重二十重に重なり合う人波の様は、あたかも岩場にへばりつく古き苔のごとく強固であり、また、無数に打ち立つ矛の林は、冬山に新たな植物の群れが半日にして生え揃ったかのような威容を成している。

 対する辰野の山城は、丸太を繋ぎ合わせて急造された城壁や城門といい、崩れかけた空堀といい、城砦としての姿をかろうじて保ってはいるが、あたかもその内にひとりの人も無きがごとく静まり返っていた。敵たる諏訪軍に取り巻かれても、いっこう、城兵は姿を現す気配もない。まるで山の妖怪が、人々を惑わすためにこの地に置いた幻の建物のような不気味さだ。

 見上ぐれば、耐火のために獣の皮を這った物見櫓にさえ、ひとりの兵とて詰めている様子がない。ふうむ、と、神奈子は腕組みをした。こうなると、なまじ軍神として兵法を知っているぶんだけ疑念が兆す。このような場合、辰野軍の側が採ることのできる策は、ふたつのものが考えられる。

 ひとつは。
 城内を手薄に見せかけて伏兵を潜ませ、入り込んできた諏訪軍を叩く。

 もうひとつは。
 あえて無防備さを強調して見せることにより伏兵の存在を疑わせ、諏訪軍を怖れさせて退却させる。

 どちらの策が施されているか判らぬからこその、『見極め』であった。
 もっとも――どちらの藪を叩いても、蛇が顔を出すなら全力で踏み潰すほかあるまい。

「全軍、弓隊の一番手を押し出せ」

 腕組みを解かぬまま、神奈子はついに下知を発した。

「まずは矢戦(やいくさ)を試みる。敵城に向けていっせいに矢を射掛けよ」

 直ぐさま各陣営へ伝令が駆け、今か今かと活躍のときを待っていた弓兵をさらに湧き立たせる。下知を受け取った一番手の弓隊が進み出、辰野の城へすっぽりと椀を被せるかのごとく、密なる備えを構築した。

「今や何の憚りもない。存分に乱声(らんじょう)せよ!」

 神奈子の雄叫びに応じてすかさず兵たちも鬨を叫び、鉦(かね)や軍鼓が打ち鳴らされる。もはや山道に身を潜める必要もなくなったとあれば、士気を鼓舞せんとする兵たちの騒ぎようもいっそうの強まりを見せていた。静粛としていた戦場は、徐々に生み出されつつある熱気と喧騒で塗り替えられていく。

「矢を番えッ……放て!」

 まさにその塗り替えにおいて“筆先”の役を担ったのは、いよいよ放たれた弓隊からの一斉射である。鏃を揃えた数百余りの矢が、弓弦を震わし山なりの軌道を描いて一瞬のうちに城壁へと到達する。空を覆って、束の間、薄暗さをもたらすほど密度の高い矢の雨は、尾羽に風を叩いて城壁に突き刺さる物が幾数十、しかし城壁を飛び越えて城内にまで飛翔していくものはさらに多い。城のうちに籠って出て来ぬつもりなら、まずは幾度となく矢を射かけることにより、相手を“燻り出す”策であった。

 しかし、そのような矢風に吹かれてもなお辰野方は沈黙を守っている。

 城壁の上に兵が立って反撃を試みる兆しさえない。城のうちから打って出る気配もなく、城門もまたいつまで経っても固く閉じられたままだ。その様子は、外敵から身を護るために殻の内側に籠る団子虫をさえ想起させる。

「さすがに、一度や二度、矢を放っただけでは動きませぬな」
「ならば三度、四度、と矢を射掛けよ」

 神奈子は抜剣をすることもなく、腕組みをしながらまた命令を下す。
 三度四度、五度六度、無数の矢が城へ襲いかかり、そのうちの何割かは確実に城内へも届いたはずだった。都合十度近くもの矢の嵐が過ぎ去った後には、諏訪弓隊の箙はほとんど空になっていた。それでもなお、辰野兵はひとりも姿を現さない。

「そうそう挑発に乗るような具合でもない、か。この期に及んで未だ少しは余裕があると見えるな」

 独語すると、神奈子は腕組みを解いた。
 深く吐き出した自らの息が白い塊となって、彼女の視界を過ぎていく。
 矢戦に応ぜぬとなれば、次の手を使うより他にない。
眉根に皺を寄せ、二つ目の手を打つことを決める。

「続いて矛隊! 敵の空堀を越え、城内への侵入を試みよ。破城槌の用意は良いか?」
「すでに控えてございまする」
「ようし。各隊、進め!」
 
 出番を終えた弓隊に代わり、盾と矛を携えた歩兵たちが軍の最前衛に進み出る。

 再び響き渡る鳴り物の音に背を押されるまま、猛々しき鬨と共に、諏訪兵たちは敵城の空堀へ向けて駆ける。そしてその先頭から、我先にとばかり堀へ向けて飛び込んでいった。しかし、ここでしばらく侵攻が滞った。堀を越えるのに兵たちが難儀し始めたのである。造りっぱなしで手入れもろくに為されていなかったと見える辰野方の空堀は、端々が崩れかけているとはいえ、未だ大人の背丈の大半を埋めるくらいには深かった。おまけに、内側には積もり積もった大量の雪が残されている。一見して浅く見えたのに惑わされ、勢いよく足を踏み込んだ者たちからずぶりと深みにはまってしまい、半身が雪に埋もれて身動きが取れなくなってしまう。

 そして、――まさにそのときであった。
 矢の雨を浴びて針鼠のようになっていた城壁の上に、辰野兵が音もなく姿を現した。

 数のほど、せいぜい三、四十足らずか。
 見ればそのうち、大半の連中が手負いの身体を押して戦場に立っている。
 負傷者ばかりの小部隊。まっとうな戦いなら、大軍相手にはあっという間に蹴散らされてしまうであろう。だが、諏訪軍最前衛として空堀の突破に四苦八苦していた兵たちにとっては、突如出現した敵は対抗しようのない脅威であった。恐怖と焦りに凍りつく諏訪兵たちの頭上から、弓弦の鳴り音が響き、次々と矢が浴びせかけられる。防御の遅れた者は盾をかざすことができぬまま雪のなかに血煙を撒き散らして死に、攻撃の兆しに気づいて防御に移ることのできた者たちも、次々と降り注ぐ矢の雨に釘づけにされて動くことができない。

 その様を後方から目の当たりにした神奈子は、しかし、未だ冷静さを崩してはいなかった。ただ口中にて小さく舌打ちをするに留まる彼女。やはり、挑発に応じなかったは策あってのことかと。

 辰野軍は、諏訪軍弓隊の箙が空になり、それに続いて歩兵たちが堀に差し掛かり、雪に足を取られて動けなくなる頃合いを見計らっていたのだ。雪で満たされた空堀に足を取られ、おまけに弓矢による援護も受けられぬ相手など、格好の的以外の何ものでもない。なるほどこれなら、貧弱な軍勢でもそれなりに大軍と渡り合うことはできるだろう。

 そのあいだにも、戦場の状況は刻一刻と推移していく。

 辰野兵たちは、手持ちの矢を射尽くして箙を空にしてしまっていた。
 瞬間、あれほど烈しかった矢の嵐がぴたりと止む。今が好機とばかり、諏訪兵たちは大量の矢が突き立った盾を棄て、攻城のための大梯子を城壁に掛け始めた。雪のなかからひとり、またひとり、と城壁に向けてよじ登っていく。しかし、続いて彼らに降り注いだのは矢ではなく大小の岩石である。顔面や頭部を潰された挙句、後続の連中をも巻き込んで、また元の雪のなかへと落下していく諏訪兵たち。

 先発した部隊に代わる次鋒の者たちは、空堀の中から負傷者を担ぎ上げ助け出そうと試みるが、次に襲いかかってきたのは何かただならぬ悪臭を発する、どろどろの液体であった。辰野兵たちは桶のなかに満たされたそれらを、いっさいの遠慮なく諏訪兵へ向けてぶち撒ける。経験したことのないような謎の攻撃に怯まされ、またしばし諏訪軍の動きが止められる。

 神奈子は、眼を見開いた。
 そして、予想もしなかった武器が用いられたことに、思わず苦笑を滲ませてしまった。

 辰野方が最後にばら撒いていたのは、どうやら屎尿や人糞だったのである。

 なるほどそれならば、人が生きている限り無尽蔵に調達することのできる『武器』だ。なおまた今日の我々が戦史を顧みれば、病死した家畜や人間の骸を敵陣に投げ入れ、疫病の流行を目論む戦術さえ見出すことができる。西洋において黒死病が広範に伝播した原因のひとつは、こうした、ごく原始的な生物兵器とでも呼ぶべきものが利用されたからという説もあるくらいだ。通常の生活においては忌避されるべき汚物でさえも、戦場にあっては有用な武器兵器と化すのであった。

 しかしながら、屎尿人糞さえも使うほどなりふり構わぬ辰野方の戦術に、感心ばかりしていては軍神としての神奈子が廃る。奥歯をぎりと軋りながら、彼女の戦いは次に移らんとする。敵が二番手、三番手の作戦を用意しているというのであれば、味方もまた同じく、隠し持っていた別の手を使うまでだ。

「全軍、矛隊をいっとき後退! 代わって弓隊の二番手を押し出せ。今度こそ連中を仕留めるのだ!」

 一時後退を伝える軍鼓の音を聞き、動くことのできる諏訪兵は我先にと空堀を抜けだして後備えの味方と合流する。彼らが海を知っていれば、あたかも引き潮のごとくと喩えられるほど鮮やかな動きである。代わって諏訪軍の最前衛に立ったのは、またも弓隊。しかし、その箙にはたっぷりと矢が詰まっている。最初の矢戦を担った一番手の部隊とは違う、二番手の弓隊であった。

「放て! ここから見える辰野兵のひとりとて、生かして城のうちに帰すなよ!」

 猛々しき号令一下、高い練度を誇る弓隊の動作はあくまで敏速。
 矛隊との交代も速ければ、番えた矢を放つのもまた速かった。
瞬きする間に矢風一陣、瞬くあいだにもう一陣。

 辰野方は、諏訪方がいったん退いたと見て気が緩んだのか、新たに現れた二番手の弓隊に対する対応が遅れた。もっとも早期に気づいたとしても、武器を使い尽くした彼らには、対抗のしようがなかっただろうが――ともかく、辰野勢の耳に新たな弓弦の鳴りが届くのと、草叢のごとく彼らの全身に矢が生えるのは、いったいどちらが先であっただろうか。悲鳴さえも気づきに取り残されるまま、四十の辰野城兵はそのことごとくが諏訪弓隊の第二次攻撃によって討ち取られ、あっという間に殲滅されてしまったのである。

 そして、もはや辰野軍には、後に続く戦力はなかった。
 寸時ほど待って、後続の敵兵が現れぬと見て取った神奈子は、迷うことなく果断する。

「今こそ破城槌だッ! 門をぶち破れ!」

 ひときわ高い鬨とともに、諏訪軍の陣容を突っ切るようにして出現したのは巨大な丸太――城門を確実に突破すべく先端部を鋭く削り込んだ、破城槌である。およそ十人ほどで担ぎ上げられた破城槌は、山地の傾斜をものともせずに一気に駆け抜け、味方の屍骸さえも踏み潰さんばかりの勢いで辰野城門に突撃した。

 破城槌にぶッ叩かれた城門から、瞬間、山の隅々までも震わすかのような大音が響く。だが未だ破れぬ、表面に傷がついた程度だ。それでも怯まず「えい、えい、おう!」との掛け声を発し、破城槌はもう二度、三度と城門を叩いた。多大な重量と勢いに任せて幾度も打ちすえられれば、いかに強固な門とて耐えられるものではない。三度目の攻撃でひび割れ、ひしゃげていた辰野城門は、四度目でついに破られた。次いで、先ほどの弓隊からの援護によって城方からの妨害を取り除いた歩兵たちが、ようやく大梯子で城壁を越えることに成功した。役目を終えた破城槌へ神輿のように乗り上げ、にわかに喜ぶ諏訪兵たち。城を占領せんと殺到する人々の大波は、あたかも山津波の荒れ狂うがごとしというべきか。

 とはいえ、未だ仕事は残っている。
 城のそこここから、最後の抵抗とばかりに辰野兵たちが湧きだしてくる。
その数、わずかに二、三十ばかり。だが、その身に傷なく逃げ出しもしなかったところを鑑みれば、その性は忠にして腕前は精兵と呼ぶにふさわしい者たちであろう。事実、彼らは強かった。圧倒的に優勢な諏訪兵たちと斬り結び、身体中を斬られ、突かれ、血まみれになっても、一人十殺というほどの勢いで執拗に立ち向かってきた。剣が折れれば刃なき柄で殴りつけ、弓弦が切れれば手で直接に矢を突き刺してくる。それもできぬとなれば、爪で相手の目玉を抉り、歯で喉笛を噛みちぎる。

 将も兵もなくみな勇敢であり、しかしそれでも、死は免れなかった。

 絶え間なく城になだれ込んでくる諏訪兵たちに取り囲まれ、連携を分断され、ひとりひとり確実に殺されていく。ある者は噛み破った相手の肉を飲み込んでから絶命する。またある者は首筋を切り裂く刃を押し返し、自分を斬った相手にも致命傷を負わせ巻き添えにしてから斃れ伏す。皆々、およそ斬り死にという言葉では甚だ足らぬほどの、壮絶な最期を迎えつつあった。

 だが、そのようななかで、総大将のはずのユグルひとりは、一見して姿を見つけることができなかった。城の大半を制圧しつつあった諏訪軍は、右往左往して大将首を求め続ける。だが先発の攻城部隊に次いで自らも城内に踏み込んだ神奈子は、戦場の狂騒のなかに、ひと筋、張り詰めた殺気が宿っているのを見逃さない。

 ユグルは逃げてなどおらぬ。
 あの少年は、紛れもなくこの城のなかで死ぬつもりである。
 ようよう鞘からつるぎを抜き放ち、致命傷を負いながらも果敢に向かってくる敵のひとりを斬り伏せながら、神奈子は懸命にユグルの姿を探した。

 と、そのときである。

 彼女に随伴していた側近の兵のひとりが、突如、どこからか放たれた矢を額に受け、斃れた。急に色めき立つ諏訪軍将兵。城はおおかた制圧しているにもかかわらず、なお矢を放つ者があるとすれば、それは――――!

「居たぞ、敵将だ!」

 辰野の兵がすばやく指を差す先、そこは城の屋根の上であった。
 おそらくは兵たちの詰め所として使われていたのであろう、その高床の建物の上に立っている人影は、紛うことなく辰野軍の総大将、ユグルであった。

 ユグルは屋根の上から弓を射て、地上の諏訪兵を次々と殺傷していく。
 周りには他に味方のない、最後の、孤独ないくさ。
 その狙いは極めて正確、限られた矢を一本、また一本と、一度として狙いを外すことはない。八坂の神をしてそれは鬼気とも神気とも思し召さるべきであろうか、このときのユグルには確かに、いくさ神をもおののかせるほどの力が宿っていたのである。

 神奈子は、瞬きほども、笑んでいた。
 彼女の眼に入ったユグルもまた、軍神に対して微笑を返しているように見えた。
 敵味方の総大将同士が、最初で最後に、好敵手と認め合った瞬間であっただろうか。

 やがてユグルは、自身の箙に残っていた最後の矢を番えんとする。

 だが、それを許す諏訪の弓兵ではない。
 神奈子を護るように展開した十人近くの弓兵が、ユグルが最後の攻撃に出る前に一斉に矢を放ったのだ。それに気づいたユグルもまた即座に屋根と屋根とを跳び移り、諏訪方の矢を回避せんとする。しかし。彼の身に宿れる最後の天運はまさに尽きたというべきか――諏訪方の矢の一本が、過たずその弓手に命中する。どうやら腕の筋を深く射られたらしく、もはやユグルに弓を握ることはできなくなる。

 悲鳴も上げずに弓矢を取り落とした少年に、第二陣の矢が飛び来たる。

 またも回避を試みるユグルだったが、今度は、数本がいちどに左右の腿に突き刺さった。彼が立っていた屋根は、雪の堆積を防ぐため急な角度で設置された切妻(きりづま)屋根。足場というには元より不安定だった。そのような場所で脚を射られてしまっては、思うように動けなくなるのは当然である。彼はずるずると屋根から滑り、雪の地面へ仰向けに落下する。
 
 いま地面に落ちた敵将は、この戦いで最上の手柄首。
 この好機を逃すまいと、諏訪兵たちは脇目も振らずに辰野方の総大将の元へと殺到する。

 未だ地に伏し喘いでいたユグルに戦闘はもはや無理かと思われたが、それでも彼は、最後の力を振り絞ってか這うごとくして立ち上がり、つるぎを振り回して諏訪方の攻撃を捌き続けた。しかしもうこの少年に、尋常の『戦い』ができるはずもなかった。できるのはただ、敵味方の血にまみれ、己の武人たるその一事に恃んで、本能のままにつるぎを振り回すことだけであった。

 そのような惨めな有り様が、いま少しだけ、続き――。

 騒乱のただなかに、ようやく八坂神奈子が飛び込んでくる。
 ユグルの周りは数間に渡って諏訪方の剣や矛の山が連なり、最後の敵を見据えている。
 そしてその貪欲な鈍色をした殺意たちを率いる軍神は、いま再び、束の間の好敵手となった少年と相まみえた。

「八坂の、神よ」

 苦しみ喘ぐ息の下で、ユグルが何かを告げようとする。

 それを邪魔立てしようと目論むものは、今の諏訪軍のなかにはただのひとりも居ない。静粛こそ、敗者へのせめてもの手向けであることを、末端の一兵に到るまでようやく気づいたのだ。屋根から落下したとき、どこかに擦って切ってしまったのか、ユグルの唇の端には真新しい傷ができている。武人の誇りたるべしと結い上げていた髻(もとどり)も、諏訪兵たちとの烈しい格闘でいつか解け、長い髪がばらばらと振り乱される状態となっていた。

「八坂の、神よ。……ようく、聞き届けられよ」

 神奈子は、大きくうなずいた。
 それを見届けると、ユグルは満足げな顔となる。

「このユグル。一命を八坂の神に捧げ奉るとても、わが魂ばかりは、この辰野に留め置かん。郷里たる、この辰野にこそ…………」

 それからまた、一言二言を呟いたようであったが、もはや彼の言葉を聞き分けることのできた者は、その場にひとりも居なかった。

 ややあって。

 ユグルは血に濡れた剣を手にしたまま、城の奥へ向かい、歩き始める。諏訪の大軍へは背を向けて、一顧だにすることなく。今度こそその息の根を止めんと身構える諏訪兵たちだが、神奈子は即座に、

「よせ!」

 と叫び、皆の短慮を制した。

「好きにさせてやれ。いま追うことすれば、あの者に余計な恥をかかすことになる」

 それだけで諏訪全軍は、シン、と静まり返った。
 勝ち鬨を上げる者はない。それには、未だ早いらしいのである。
 総大将たる八坂神奈子は、自らの剣を静かに鞘に納めた。
 そして誰にも聞こえていないであろうことを願いながら、ぽつりと、小さく呟いた。

「このいくさ神を向こうに回してなお、よくぞ、戦うてくれた」


――――――


「もう、すべて済みましたぞ」

 扉の向こうで待っていた人影たちに向け、ユグルは声を絞り出した。
 生の気配も死のにおいもしない、沈滞した薄闇だけがそこにはあった。しかしてその奥の奥には、濃密な『決意』のみなぎりだけが感じられる。深く烈しい決意は、空気をも軋ませるほどの気を放つ。

 ぎらりと、薄闇のなかで生々しく光るものがある。

 それらは幾つも連なって、少年の全身を舐めまわすように動きまわった。
 それが直ぐに解ったのは、静けさを阻む何者も現れはしなかったからだ。
 諏訪の将兵、ただのひとりも追ってはこない。最期のときに及んで、情けをかけたつもりであろう。ならば、返すあてのない“借り”として受け容れるべきか。この薄闇……辰野の本営には、最期を決するために集まってきた辰野方の諸将が、身を寄せ合って総大将を待っていたのだから。

「覚悟は良いか」

 痛む足を引きずり引きずり、ユグルはどうにか床に腰を下ろす。
 胡坐をかくこともできず両脚を投げ出した少年の周りに、将たちが続々と集まってくる。眼に涙を湛えている者は、ひとりとて居なかった。その一方、笑っている者もまた居ない。深々と、肺腑の奥まで染み込むような汗のにおい、そして耳打つ吐息の音ばかりがここにはある。状況極まりし今こそ、肉体の発するそれらの現象が殊更に解ってしまうのだった。

「皆、すでに」

 総大将たるユグルの言葉に、将たちはまばらにうなずいた。
 いよいよ、運命を是とすべきときがやって来たのだと。

 誰からともなく、それぞれの剣を握り締める。
 ふたりずつ将と将とで向かい合い、ある者は相手の首筋に、またある者は鎧を脱いだ腹に向け、刃を薄らと押し当てた。ユグルもまた、副将たる叔父と一対一となり、互いの首筋に剣の切っ先を触れ合わせた。ひやりとした感触。死の感触。だが、生きているからこそ理解できる感触でもある。死ぬことが、生を実感させるのだ。何という皮肉であったろうか。

「さらば。次は、冥界の奥底にて相まみえよう」

 静かな宣告とともに、十人近く控えていた将たちは、みな一斉に、少しの躊躇もなく、相手の身体に刃を突き刺した。断末魔のくぐもった声が幾つか漏れ、本営の静けさへ滲み、しかし直ぐに消え去っていく。それを感ずることを許してしまうほど人の命とは思いのほか強きものであり、ゆえに、直ぐに死ぬことはできなかった。

 だが、もはやユグルの身に痛みや苦しみは少しもない。

 為すべきことをすべてやり遂げたのだという、静謐な感慨だけが満ち満ちているのである。互いに刺し違えた叔父はもう、どう、という音を立てて床に斃れ伏している。ユグルの身体ががっくりと折れていったのは、その直ぐ後のことであった。自害を選んだ将たちから流れ出る血潮、その生の証だった濃密なにおいが漂い始める。ゆっくりと冷えていく身体から、最後の灯が消えていく。

 遠くから大勢の者がにじり寄ってくる気配があった、獲物を窺う野の獣のような。
 この本営に踏み込んでくるのなら、自分が本当に死んだ後であれ。
 そればかりが、十四歳の少年が最期に抱いた願いであった。

 ――――父上、私は、戦いましたぞ。正義のために、戦ったのです。

 とめどなく流れ出す血とともに熱を喪っていく唇で、ユグルは呟こうと試みた。
 それを聞き届けた者は、誰ひとりとして居るはずがなかった。


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