Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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「世話になったな、アザギ」
「お気を遣われるには及びませぬ。下諏訪御所は諏訪子さまの家にございまする。御身、お帰りを願いなされるときは、いつでもご還幸をお待ち申し上げておりますゆえ」

 未だ担ぎ上げられぬ手輿に乗り込みながら、諏訪子は苦笑をさせられた。
 過ぎた忠勤も、女々しさとすれば好きにはなれぬ。だがその甲斐甲斐しさを突き放すにはあまりに惜しい、神人頭のアザギなのだ。深々と辞儀をした彼に、「其許には、今後も苦労をかけると思う」と諏訪子は言う。顔を上げ、アザギは眼を閉じたまま微笑んだ。

「恐悦至極。そのお言葉だけで、眼の覚めるごとき思いが致しまする」
「其許の眼(まなこ)は、潰れて、もう無い」
「光なくとも、諏訪子さまの御尊顔を忘れることなど」

 思わず、噴き出した諏訪子である。

「そうだ、アザギはそういう男であった。女々しいまでに忠を尽くす其許だからこそ、諏訪子も安心して留守を任せられる。儂の居らぬあいだ、しっかりと頼むぞ」
「は」

 再びの辞儀を見せ、アザギは諏訪子の腰の前から退いていく。
 先導役の少年神人に手を引かれながら、足を擦るようにしてゆっくりと歩んでいく様は、未だ彼が諏訪子に仕え始めた幼年の――目明きであった――ころを否応なく思い出させるものがある。両手の指と指とを突き合わせて弄びながら、諏訪子はわけもわからず笑ってしまうのだった。たぶん、自分にもようやく故郷の名残を惜しむという感情が芽生えたのだろう。そんな風に納得し、御所のうちに集結した出雲人たちを見渡した。行幸に同道した高官たちはすでに出発の準備を終え、神奈子とモレヤもそれぞれの輿に乗り込んでいる。御所の門は未だ開くことなく、八坂神よりの出発の下知を待つ将士五百の軍勢の大半も、諏訪御所周辺に待機しているのである。ふと眼を転ずれば、矛にきらめく光が御所のうちまでも飛び込んで来そうにも思える。

 これから進む下諏訪から上諏訪、つまり諏訪御所から諏訪の柵までの道のりは、この度の行幸の最終行程であった。八坂神による科野各郡の視察を終えた後、堂々と諏訪の柵への帰還を果たして有終の美を飾る。これをもって、八坂神奈子が仕組んだ一連の政治的な『示威行動』とでもいうべきものは完遂されるのだ。

 アザギはじめ、御所と御料の管理経営を任せることになる神人たちとの最後の会見を、先述がごとく諏訪子は手輿の上から済ませることになった。とはいえ、方針の確認をする程度のこととて、証文をしたためたりしたわけではなかった。さほど時間もかかっていない。「話は済んだ。諏訪子の方も、出発の用意を終えたと八坂さまにお伝えせよ」と、伝令役の舎人にも程なくして命ずることになった。

「……進め!」

 諏訪子の“実家”での一夜を経てか、幾らか角の取れた印象の声で神奈子は命じた。
 いくさ神の号令一下、三人の王の輿が担ぎ上げられ、続いて諏訪御所の神人たちが門を開け放つ。やがて数十から成る側近の部隊を従えた神奈子たちは、門外で待っていた本隊と合流――行幸の軍勢五百は再びその姿を取り戻し、巨大な人々のうねりと成って、一路、諏訪の湖に沿う道筋を遡りつつ、上諏訪への最後の帰還の途についたのである。

 四人の屈強な兵に担われた輿の上から、諏訪子は次第に遠ざかりつつある諏訪御所の方を振り返った。まず視界に入ったのは、諏訪子の輿より少し離れたところで列に組み込まれているモレヤの輿だ。彼は昨晩の諏訪子との共寝が響いたか、あくびもせぬほどうつらうつらと舟を漕いでいる。そんな様子に苦笑をしながらも、いま諏訪子の心は一抹の寂莫が募っている。懐かしき自らの家と領地。しかして、その家において夫とは結ばれたのである。自らの領土でことを為すという、神としての本懐である。だというのに、この寂しさは、

「人に近く在りすぎたか、わたしも」

 と、自嘲を兆さずにはおれぬものがあった。
 それでも輿の上で頬杖を突きながら、彼女は懸命に今の自分を肯定しようと試みる。人のそばで生きるには、人のようでありさえすれば良いと。

 とはいえ。
 益体のない自問自答は、いつしか眠気を呼び起こすものだ。
 ここに来て一カ月の旅の疲れが出たか、諏訪子もまた、さして長くないはずの上諏訪への旅路の中途で、うとうととし始めるのであった。加えて、輿から伝わってくる振動がちょうど良く眠気を煽り立ててくる。頬杖突いたまま、次第に彼女の薄い目蓋は鉛で固められたみたいに閉じられつつあった。眼の端には、晩秋の日を受けてくすんだ金色を湛える諏訪湖の水面(みなも)が揺れている。しかしながら、沈みかかった意識にはそんなものはほとんど無意味な色合いだ。絶えざる眠気は口を閉じることさえ彼女には忘れさせ、半開きになった唇からは、ほとんど寝息と言って良い呼気が漏れている。

 道すがら――輿を担う兵のひとりが急に蹴つまずいたか、がたりと烈しく諏訪子の輿が揺れる瞬間があった。すっかり居眠りの体勢に入ってしまっていた諏訪子も、これにはさすがに覚醒させられずにはおれなかった。手のひらから頭がガックリと外れ、頬杖の姿勢も崩れてしまう。しまった、眠っていたかと、彼女は強く二、三度ほど眼をしばたたく。未だ諏訪の柵は遠い。日も天高くにある。だというのに、湖沿いに細く長く連なった軍勢を見渡すと、進軍を一時停止している様子なのである。どうやら……輿が急に揺れたのは、将兵が歩みを止めてしまったせいであるらしい。

 唇の端によだれでも垂れていないかと指でそれとなく探りながら、諏訪子は近くに待機していた将のひとりに眼を向けた。

「おおい」
「は、何か御用がおありでしょうか、諏訪子さま」
「なぜ急に行幸の列が止まっている。また誰かが前を塞いだか」
「はあ、あ、いえ。モレヤさまが、」
「モレヤがどうした?」
「木の根元に蛇を見つけたということで、輿をお下りに」

 何?
 と、諏訪子は小首を傾げて後ろを振り返った。
 モレヤの輿があったのは、諏訪子より十数間後ろという距離だ。諏訪子の輿とモレヤの輿とを隔てる数十人の将兵は、微動だにせずに再びの出発の下知を待っていたが、その向こう側――本来モレヤが身を置くべき輿は確かに空になっていて、兵らの手からも離れ、今は地面に鎮座している。蛇、か……と、諏訪子は小さく独語した。そういえば行幸への出発の日、諏訪の柵でモレヤの可愛がっていた白い蛟が姿を消したということがあった。木の根元に、彼が蛇の姿を認めたというのであれば、おそらくはその蛇のことであろうが。

「モレヤは、どこに行った」
「はい。あちらにございまする。あれ、あの。われら軍勢を挟み、湖とはちょうど反対側の一部落がございましょう。その近くの古木にございます」

 将に指し示された方角へと、諏訪子は視線を改めた。見れば、土地はすでに下諏訪を出で、上諏訪の端には到達していたようである。田畑の風景も部落集落の様子も、下諏訪にある諏訪子の御料とは異なっていた。そして諏訪の湖と向かい合うようにして、ちょうど反対側。興味深げに行幸の列を見守る部落の人々が、自らと出雲人とを隔てる境とするかのごとく定めて近寄らぬ、一本の古木が在った。部落集落の端に植わっているということは、山野を離れた里近くの樹木である。その樹木の根は、巨人の手足を束ねてくくったごとく巨大であり、あたかも一個の年老いた獣にも似た動的な生命の痕跡を感じさせた。部落の人々は、ちょうどこの古木を中心とする空間のみを避けるかのように、行幸の軍勢を見物していたのであった。彼らの態度にはこの木に対する敬意と、しかし、かすかな忘却が混じっているようにも諏訪子には感ぜられた。かつては――神の降り来たる依代として見られていたのだろう神籬は、根こそよく肥えてはいるものの、葉は大半が落ち切って樹皮も瑞々しさを喪い、ほとんど枯木のように老いさらばえていたからである。

 その枯木の根元に眼を遣ると、確かにモレヤがこちらに背を向ける格好でしゃがみ込んでいる。ちらと、その向こうには白い小蛇の姿も見える。幹に片手を突いて体勢を保ちながら、もう一方の手を差し伸ばし、モレヤはしきりに蛇のことを呼んでいる風だった。当の蛇はといえば、人の言葉が解っているのかいないのか、首を左右に動かして少年を翻弄しているようにも思われた。

「おお、……何やら一雨、来そうな気配」

 夫の様子を輿の上から観察していた諏訪子だったが――いつか、空気に湿ったものが混じり始めていることに気がついた。髪の毛がしっとりと重々しくなり、口のなかにも自分の唾とはまるで違う冷たさが入り込んできている。風の生ぬるさも、にわかに不快と呼んで良い域に達している。秋の日は変わりやすいものだ。諏訪土着の神として強い信仰を受ければ風雨を呼び起こし、豊作凶作を左右することもある諏訪子とても、秋の天候ほどに御しがたいものはない。さほど遠くもない諏訪の柵までの道のりとはいえ、途中で急な雨風に見舞われては、せっかくの行幸も格好がつくまい。

「兵たちよ、輿を下ろせ。諏訪子もあの木の所まで行ってくる」
「は、はあ。しかし……」
「雨が降りそうなのだ。連れ帰るものは早いとこ連れ帰らねばならぬ」

 地面に降りた輿から身を翻すと、諏訪子もまた将兵の人波をかき分ける。その後に、護衛として数人の兵が矛を手に続いた。古い神籬の根元を、兎か何かのように跳ねて進む諏訪子は、それほど労することもなくモレヤの元までたどり着く。「モレヤ」。声を掛けても、夫は諏訪子の方を振り返りもしなかった。

「お待ちください、諏訪子さま。もうあと少しで、蛇がついてきてくれそうなのです」

 おまえの言葉が通じているのか……と、冗談混じりに諏訪子は問おうとした。
 その間も、モレヤは蛇へ向けて愉しげに片手を突き出している。二又に割れた赤い舌をちろちろと動かしながら、白蛇は、やがて木の根を床とした“とぐろ”を崩しかけている様子であった。やはり赤い小さな眼が、モレヤをじいと見つめていた。次いで諏訪子をも。

「怖うはない、怖うはないぞ。またわれらの元に帰るのだ。さ、わが夫の手へ」

 促すように、諏訪子は説いた。
 ついに蛇は、とぐろを崩してモレヤの手へと這い始める。ふう、と、安堵の溜め息がふたりから漏れる。モレヤの指先を経て、手のひらから腕へと、身を落ち着けるべきところを蛇は探しているように見えた。

「これで良し。わたしは、ひと足先に輿に戻っているぞ。モレヤも急ぐのだぞ」
「承知しております」

 夫に背を向けて、諏訪子はまた将兵たちに分け入って自らの輿を目指し始めた。林立する矛の先に突かれたかのごとく、諏訪の湖のさらに遠くの山間を覆う雲には、割れ目が生じて見えた。そこから、烈しい金色の光が降っている。太陽ではない。稲光であった。鋭い閃光に数瞬遅れて、万軍のどよもす鯨波がごとき雷鳴が響き渡ってくる。あたかもそれは、天地に棲まう蛇の神が、巨大な雷に姿を変えて諏訪に降臨した光景であるかのようにも思われた。そして山々を覆う雲は、一瞬一瞬にその速度を速め、軍勢の真上にまでも迫っている。

 落雷があるということは、もうそろそろ、本当に雨が降りそうである。
 もう幾度か落雷が起き、稲光と雷鳴との感覚は短くなりつつあったくらいだ。諏訪子は、未だ行幸の列に戻らぬ夫を振りむいた。モレヤは、未だ神籬からそれほど遠く離れておらず、自らの腕に巻きついた蛇をなだめるごとく、しきりにその頭を撫でてやっている。

「諏訪子さま、お急ぎになりませぬと。本当に雨が降ってしまいます」
「解っておる。……モレヤめ、わが夫ながらに仕方のない子だ」

 くるりと、再び諏訪子は軍勢に背を向けた。
 心もち、さっきより幾らか早足になりながら、いっこう戻ってこない夫を呼びに行く。

「急げ、モレヤ。雷雨に見舞われてはわれらの旅も危うい。早く輿へ……」

 諏訪子が、夫に呼びかけたときであった。

 行幸の軍勢五百を覆っていた昏い雨雲は、いつしか太陽をまったく遮断し、数刻も早く夜が訪れたかのような薄闇をもたらしていた。その闇を切り裂いて、一条の閃光が来臨したのである。閃光の正体は、ひときわ巨大な落雷であった。あまり間近く起こった雷に、屈強な出雲の軍団もさすがに驚いて後ずさり、隊列をにわかに乱してしまう。落雷に伴う巨大な爆音は、しばしのあいだ人々の聴覚を狂わせ、互いの驚きの声さえ正常に認識させ得ぬものがあった。少女の姿に化身している諏訪子も、それは同じだった。眼前で炸裂した烈しい閃光と爆音は、ぐらぐらとその意識を揺さぶっている。それでもどうにか、ふらつく足取りで夫の姿を見つけ出したのは、妻としての一念ゆえだろうか。

 ともかくも、諏訪子は夫の元にたどり着いた。
 しかしあまりの事態に気を失ってか、モレヤは木の根元に倒れ込んで動きもしない。

「モレヤ! モレヤ、しっかりするのだ!」

 少年の肩を抱いて身を起こさせ、諏訪子はその顔を覗き込む。
 ふと、焦げ臭いにおいが鼻についた。辺りを見回し、直ぐにその源に気がつく。枯れかけた古い神籬は、火勢こそほとんどなくなっているものの、瞬間的に莫大な熱と光との直撃を受けたために、黒く焼け焦げていたのである。先ほどの落雷が撃ったものはまさにこの古木であり、モレヤはその際の衝撃で弾き飛ばされてしまった。そんな推測が、容易に成り立った。

「諏訪子、大丈夫か」
「八坂さま、……モレヤが」
「気を失うておるに違いない。とにかく、城へ急がねば」

 諏訪子に呼びかけられてもなお眼を醒まさぬモレヤに、見かねた神奈子までもが輿を下りて駆けだしてくる。彼女は、やはり数人の兵を連れていた。うろたえる諏訪子をなだめて止まぬ神奈子は、「モレヤを輿に戻せ」と冷静に命ずる。軽いうなずきだけ返すと兵たちは少年の身体を担ぎあげ、急ぎ輿へとその身柄を運び出そうとした。しかし。

「うあッ!」
「落ち着いてくだされませ、モレヤさま!」

 気を失っていると思われたモレヤが、急に覚醒したのである。
 どうしてか――彼は全身をばたつかせて暴れ出し、自分を担ぎ上げた兵たちを蹴り上げ、殴りつけ始めた。それが子供が駄々をこねる程度であれば、千軍万馬の出雲兵たるもの、直ぐに押さえこむことができたはずである。しかし、なぜかこのときの兵たちにはそれができなかった。相手が八坂神の後継者に指名されている少年だから、というのではない。事実、彼らは軽装とはいえ甲冑で防護をした身体なのだし、人数の上でも勝っている。だというのに、複数人でモレヤの手足を押さえこもうと挑んでも、容易く弾き飛ばされてしまうのだ。

「どうしたモレヤ! 錯乱したか!」

 呆然として動けぬ諏訪子を後に残し、神奈子がモレヤの元まで駆け寄っていく。
 すでに兵たちの拘束を完全に跳ね飛ばしてしまったモレヤは、次に神奈子に狙いを定めているように見えた。遠巻きに事態を眺めるしかできない諏訪子も、そう思っていた。彼女の夫の眼は、常軌を逸した色に染まっている。怒りと、怨みの眼だ。泥で汚れた着物の袖を翻し、果敢か無謀か、モレヤはその小さな身体をいくさ神に向けて突進させた。神奈子ほどの剛の者なれば、モレヤ程度の相手なら斃しはできぬまでも弾き飛ばすことは可能なはず。だが、彼女にもそれが叶わなかったのは、やはりいちどは自らの子と望んだ少年への躊躇だったか。攻めにも守りにも回ることなく、神奈子が選んだのは回避だった。すばやく身を翻し、モレヤの突進をかわして見せる。だが。

「しまった。……バカがッ!」

 舌を打つほどの間さえ忘れるほどに、神奈子が悪態を吐いたのは彼女自身のうかつさである。神奈子は確かにモレヤの突進を回避した。だが、モレヤの狙いは神奈子に体当たりすることではなかったのだ。地面を抉る古木の根に足を取られ、わずかに体勢を崩しかけた神奈子には一瞬だけ、しかし確かに隙が生じていた。モレヤはその隙を見逃さず、神奈子の元へさらに手を伸ばす。彼女が腰に佩いた、そのつるぎの柄へと。

 神奈子の腰にした鞘からは、モレヤの手によってするりと鉄剣が引き抜かれる。
 奪い取ったつるぎを握り締め、その切っ先を、彼は神奈子へと突きつけていた。

 とはいえ、すでに神奈子の方では危険を察して飛び退くことには成功し、ある程度の距離をモレヤとの間に確保している。再び十分な助走と跳躍を得なければ、子供の身体で神奈子へ剣を突き立てることは不可能であろう。解決しようのない緊迫が、何もできずに事態を見守る将兵たちを押し包んでいく。同時にそれは、行幸の軍勢を見物していた周辺の民衆たちへは強い疑問となって立ち現われてきた。いったい、あの方たちは何をしておられるんだ……。そんな訝りが、諏訪子の耳に入ってくる。突如として仲間割れを始めたがごとき八坂神とモレヤ王。このままこの状態が衆目に晒され続ければ、言うまでもなく大きな醜態。八坂政権が被る重大な汚点ともなりかねない。

 人に絡みつくような木の根で足を滑らせぬよう注意を払いながら、諏訪子は、対峙する神奈子とモレヤとを見守った。見守ることしかできなかった。だが――遠くから眼を向けていたからこそ、彼女にだけ気づけたことがある。

「八坂さま」

 諏訪子は、神奈子にささやいた。

「何だ」
「モレヤの姿を、ようくご覧くださいませ」

 促されるまま、神奈子はモレヤの姿を見た。
 ようやくふたりの視点は、同じ一点に注がれ始める。
 気を失って倒れたときに泥で汚れたモレヤの着物。その茶色い染みのなかに、しかし、ほんのわずかな齟齬があった。泥汚れと混じり合うように、赤い染みが広がり始めている。その染みは、やがて布の汚れを離れ始め、赤い筋として少年の手首に伝い始めた。血であった。それはモレヤの流す血であったのだ。そして傷をつくっているであろう腕を覆う袖のなかから、あの白い小蛇の尾が覗いている。

「なるほど。……読めたわ」

 声にだけは勝利の笑みを滲ませながら、しかし、神奈子は悔しさに歯を軋らせた。
 一方で諏訪子の脳裏に、あの白く小さな蛟をモレヤが連れ帰ってきた日のことが思い起こされる。夫が、神奈子と狩りに出た日。帰途についた彼らを導いたのが、あの白蛇だったという。神奈子はそれと吉兆と見、モレヤは蛇を飼うことにした。だが、それこそが罠だったのだ。あの白蛇は吉兆などではない。いまモレヤの腕に噛みついて血を流させ、正気を失わせたあの白蛇は、紛うことなき化生の存在。

「貴様、いったい何者か! 八坂の神を前にして、己が道理も氏素性も明かすことなく襲いかかるという卑劣きわまるその振る舞い。土地の神霊として理を重んずるつもりあらば、堂々と名乗りしうえで打ちかかるが良い!」

 朗々と、神奈子はモレヤへと――否、モレヤを依巫として憑依した『白蛇』に告げた。
 固唾を飲み、将兵も住人たちも、そして諏訪子も『白蛇』の返答を待っていた。
 すると、『白蛇』はモレヤの身体を動かし、神奈子へと向けていた剣の切っ先をだらりと下げた。幾らかの安堵が溜め息へと変わる。けれど、その安堵をことごとく踏み潰すかのように、モレヤの喉から重々しい声が漏れ出てきたのである。

「道理知らぬはいったいどちらか。理を重んぜぬは果たしてどちらか。八坂の神よ、そちの口がいちどでも吐いて良い文言では、道理というものはまったくないわ。……」

 声は、確かにモレヤという少年のものに違いない。
 だというのに彼にみなぎりほとばしる、烈しい憎しみ、怒り、そして怨みとしか称せぬような感情は、モレヤをモレヤからまったく遠ざけてしまっている。それはまさしく、彼に憑依した『白蛇』の表出する意思であった。

「我が道理を知らぬ者と言うか。この八坂神は、旧弊に囚われし諏訪へ新たなる王法を敷かんと志す者。それも解らぬ輩が、」
「黙れッ! そちの王法なるものこそが、われら諏訪の神霊を旧弊と断じ、悪神と罵り、われらの棲みかを、人々よりの信仰を――根こそぎ奪い取りつつあるものを! ……」

 神奈子の弁明をも遮って、モレヤの身体を借りた『白蛇』は怒る。
 ここに至って冷静な判断力を取り戻したか、幾人かの将兵は矛や弓を携えて『白蛇』を取り囲む構えを見せた。だが、『白蛇』と対峙する神奈子自身が片手をかざし、臣たちの浅慮を制して見せた。『白蛇』が、刃をモレヤの首筋へと近づける仕草を見せたからである。

「あやつめ、人質のつもりか」
「云々するまでもなく人質であろうよ。……諏訪子」

 うめく諏訪子をちらと振り向き、神奈子は命ずる。

「行幸に同道せる辟邪の兵たちを集めておけ。化生相手に正道のいくさは分が悪かろうよ」
「しかし、到着には時間がかかるやも」
「私が時を稼ぐ」
「……承知いたしました」

 神奈子の命ずる通り、諏訪子は集まっていた将のひとりに目配せをした。事態を察した彼は、声も発さずその場から走り去っていく。そんな一連の行動を許すだけの余裕があるのか、それとも出雲人の戦力を推し測っているのか。『白蛇』は、ふたりの会話が終わったのを見計らったかのように声を上げた。

「よッく聞け、出雲のいくさ神。われは……否、“われら”は、そちに棲みかを奪い去られた諏訪の神霊である。……」
「なるほど。わが友の夫に取り憑き、その肉体を奪いしは、諏訪の怨霊というわけか」

 答えて――ことさらに自らの余裕ぶりを見せつけるごとく、神奈子はにィと笑ってみせた。自らの威と強さを演出して相手の心を折ろうと試みるのは、交渉事の基本とも言える。かてて加えて神奈子の下知ひとつで、屈強な出雲兵はいつでも動くことができる。だが、やはりそれにも増して人質の価値は重かった。神奈子の威嚇めいた口ぶりなど何ら意に介することもなく、『白蛇』はなおもモレヤに語らせる。少年の手が握ったつるぎは首により近づき、刃が肌にごくほっそりとした傷をつけた。新たな血の色が、モレヤの身体に膨れていく。

「怨霊とな? なるほど、自らを中心に置いてものを見たがる出雲の神らしい物言いよ。われら神霊の恨みは、正当なもの。怨霊などという浅ましき言の葉にて貶められる謂われはない。……」
「では、言い替える。貴様たち古の神霊は何が望みか。われら出雲人は、怨霊を怨霊のままにはしておかぬ。そなたたちが祭祀を欲するというのであれば、新たに祠などこしらえさせ、この地を守護する御霊とも為そう」
「笑わせるな。そちたちの行う祭祀は、しょせん出雲人の祀り。出雲人のための祀りではないか。出雲人の結びし注連縄が、森の獣たちの息を縊り殺した。出雲人の備えし鳥居が、磐座を踏み潰して大地の気を乱れさせた。出雲人の打ち立てた神殿が、幾歳(いくとせ)もの長きを生きた神籬の群れを枯れさせた。その出雲の祀りで、われら諏訪の神霊の怨みが癒されるとまことに思うのか。思うておるゆえ、片腹痛い。われらが望むものはただひとつ。……」

 モレヤの首筋から刃を離し、『白蛇』は再びつるぎの切っ先を数間先の神奈子へ向けた。

「この地より出雲の人も神もまったく消え去り、正しき諏訪の天地を取り戻すこと。……」

 お、おおッ!
 そのとき、モレヤが吠えた。
 少年の肉体を依巫とした『白蛇』は、肩といわず脚といわず、彼の全身を震わせて吠え続けた。『白蛇』の怒りに呼応するごとく曇天は鳴き騒ぎ、再び幾度かの雷が山向こうへと落ちていくのが見える。顔を顰めて、神奈子は『白蛇』を睨みつける。舐めた真似を、と、小さく彼女は呻いていた。

「諏訪の地はわれら諏訪の神々が地。西方の異神ごときに一木一草、虫魚禽獣、その一片たりともくれてはやらぬ! ……」
「その意気や神として良しと言おう。だが神霊よ。この八坂神は政を行ううえで、当地の豪族たちと血の盟約を交わしたのだ。われら神や王は、人に担がれねばどうあっても起てぬ身の上。血盟を無碍に踏みにじるは、諏訪に新たな騒乱呼び起こそうぞ」
「詭弁を。騒乱も太平もあるものか。諏訪はただ、そちたち出雲人に侵されるより以前の天地に戻るだけだ! ……」

 大きく息を吐き出して、『白蛇』に操られたモレヤは、駆けた。
 木の根で足取りを阻まれることなど始めからあり得ぬかのように、否、その行くところ、大地の意思が味方してあらゆる障壁が自ら避けていくかのように、その突進は駿足である。依巫とされたモレヤ自身の本来の身体能力さえ逸脱させて、『白蛇』は八坂神奈子へと突き進んだ。爆発的な跳躍の様は、落雷の閃光がそのまま人のかたちに変じて凶器を手にしたかにも似ているのだ。あまりのすばやさに、数十もの出雲兵たちも対処が遅れた。彼らが一歩踏み出したときには、すでにモレヤが二歩先へと進んでいる。両手で剣の柄を握り締めたモレヤの身体は、何ためらうこともなく一直線に神奈子へと襲い掛かった。

「死ねッ! ……」

 避けきれぬ、か――。
 とっさにそう判断した神奈子は両腕を顔の前で交差させた。だが、これとてもほとんど意味を為さない防御策であろう。九つの少年の身体能力さえ大幅に増幅させるのが『白蛇』の怨霊の神通力なら、刃が神奈子の両腕を貫通し、首の真ん中でも突かれてしまうのが“落ち”だ。もはや間に合わない。神奈子自身でさえ諦めかけていた。しかし。

「お立ち退きください、八坂さま!」

 木の根を踏み越えて、諏訪子が神奈子の身体を突き飛ばしたのである。
 不安定な足場ゆえ、諏訪子より体格の大きな神奈子といえど、全力の体当たりを受ければ簡単に体勢を崩してしまう。蹈鞴を踏んでよろけた挙句、彼女は木の根に足を引っかけて思いきり尻餅を突いてしまった。一瞬にその様子を横目に容れた諏訪子は眼前に迫りくる『白蛇』の刃を受け止めんと、両手を一気に差し伸ばした。『白蛇』――モレヤの両眼が、驚愕に見開かれる。瞳の奥には、土着神の頂点に刃を向けてしまうことへの明確な躊躇が光っていた。

 その躊躇が、ついに幸いしたかたちか。
 洩矢諏訪子の手のなかで、『白蛇』の刃はついに動きを止めた。両の手のひらが熱くなり、次いで痛みが諏訪子の肌を焼いていく。烈しく血が流れ出る。切っ先こそ、諏訪子の身体のどこにも突き立てられることはなかった。しかし、突き出されたつるぎを両手で受け止めてしまったがために、彼女の手のひらはひとつずつの深い裂傷を負ってしまっていたのである。

「“諏訪さま”。……」

 諏訪子の古い呼び名を、『白蛇』はモレヤに語らせる。

「あなたまでもが、われら古き神霊をお裏切りなされるか。……」
「聞き分けのない駄々っ子が、わが膝元には多いようだ。時勢を知れ、神霊よ。異人異神の胸を借りようが、生き残るすべはきっとある」
「聞けませぬ。すでに幾千幾万もの同胞(はらから)、やつらに縊り殺されておるのです。この期に及びて安穏とするは、何よりその同胞への不義。……」

 諏訪子への忠より、同胞への信義を取るか。
 呟きも、諏訪子はしなかった。『白蛇』はモレヤの手から力を失わせ、幾分あっさりと剣を棄てさせた。自らの手のひらに食い込んだ刃を外し、改めて彼女は神奈子のつるぎを手に取り、柄の部分を持ち直した。モレヤは、数歩ほど後ずさる。彼の肉体を支配する『白蛇』は、諏訪土着の神々の頂点である諏訪子が自分の敵に回ったのを見て、完全に心が折れてしまったのであろう。怨霊の側の、敗北であった。

 そのとき、ようやく弓を担いだ辟邪の部隊が到着し、将兵の人壁を押し退けて諏訪子の周囲に展開した。矢をつがえぬまま行われる鳴弦の音は幾重にも重なって、混乱の極みに達した場を鎮めんとするかのごとくくり返される。空弓を射ることは、すなわち魔除けのための霊的な武力だ。弓弦の音に苛まれてか、モレヤに憑いていた『白蛇』は、彼の着物のうちから緩慢に這い出てきたのである。そして最後にモレヤの口を借りて、言った。

「どれほど出雲の異神に心寄せようとも、“諏訪さま”はわれら神霊と郷里を同じくする御神。いずれはわれらが元にお戻りなされる定めなのだ。人は一生、己を生みだしたものに縛られ続ける。人の畏れより生じたる、神や霊とて同じこと。あなたはあなたの祟りをもって、八坂神の驕りに報いるときがきっと来る。……」

 八坂の神に、祟りと滅びあれかし!

 モレヤの口から最期にそう叫ばせてから、『白蛇』は完全に姿を現した。その姿は怨霊の化身というにしてはいやにちっぽけで、やはり、ほんの小蛇に過ぎない影である。しかしその影が、今は最後の拠り所を得んとするごとく、諏訪子の足下に擦り寄ってきた。彼女は、小蛇の心を察してしまった。もはや、かすかな命しか持ち合わせていないこの神霊の、思考を完全に読み取ることは諏訪子にもできそうにない。だから、せめて諏訪子は、『白蛇』が抱えているであろう最後の望みを叶えてやることにする。敗者に対する、勝者の責務だ。手のひらの痛みに耐えながら、剣を逆手に持ち替えて。

 ずぶりと白蛇の胴を断ち切り、洩矢諏訪子はこの『謀叛人』を処断したのである。
 気絶して倒れ込む夫の姿も、今は彼女の眼には入らなかった。


――――――


 神奈子は立ち上がり、自身の着物の泥も払わぬまま諏訪子に歩み寄った。

「助かったぞ、諏訪子。大事は……あるな。手のひらを切っておる」
「大した傷ではございませぬ。それより、つるぎをお返し致しまする。わたしの血で汚れてしまいましたが」

 気にするなと言わんばかりに、神奈子は諏訪子の手から血まみれの剣を受け取り、再び鞘に戻した。「神の身といえ、傷は治さねば身体に障るわ」。溜め息まじりに言うと、未だ目覚めぬモレヤの元へと駆けていく。神奈子の後に続いた兵たちによってモレヤの身体は担ぎ上げられ、今度こそ輿の上に横たえられた。事態の終息を確かめてか、将兵も各々の持ち場に戻り、行幸の軍勢は再びその威容を取り戻していく。後には呆然と立ち尽くす諏訪子と、その肩に手を置く神奈子。

「疾く、帰ろうではないか。私は疲れた。なにぶん、此度のような騒ぎに巻き込まれたのは初めてだ」

 ぽんぽんと諏訪子の肩を叩き、神奈子もまた自らの輿へと戻っていた。
 諏訪子だけが、そして最後に残される。未だ、自分はこの場に留まらなければならない。そんな妄念にも似た何かが思考の中枢に流れ込み、諏訪子の脚を焼け焦げた神籬の元から動かしてくれない。ぽつぽつと、分厚い雲はついに雨を降らし始めた。重々しい霧のような、未だかすかな雨だ。それでも裂傷に熱を帯びた諏訪子の手のひらは、瞬く間に冷却され、痛みを強くしていく。

「祟り……?」

 そんな風の、訝る声音が聞こえてくる。
 事態の一部始終を遠巻きに見つめていた、近在の部落の住人たちである。
 諏訪子が自分たちの方へと眼を向けることにも何ら遠慮をすることなく、彼らはひそひそと噂を続ける。諏訪子の耳に逐一その内容が伝わってくるのは――いつからか彼女の元に集結していた、ミシャグジ蛇神たちの群れが『中継』をしているからであった。

「祟りじゃあ……。あれ、見たであろう」
「おお、見た。八坂の神さまを信ずると、元いた諏訪の神さまがお怒りになる」
「聞いたか。あの蛇は、最後に諏訪子さまの御名を出したぞ」
「蛇といえば、諏訪の御神ではミシャグジさまよ」
「では、お怒りなさるはミシャグジさまか」
「諏訪子さまでなければ、ミシャグジさま方を鎮めることはできんと聞く」
「なればあの蛇は、ミシャグジさまの化身であろうかよ」
「祟りが起こる。ミシャグジさまの、祟りが起こるぞ」

 呆けたようになっていた諏訪子は、一挙に理性を取り戻す。
 眉根に皺を寄せながら、辺りのミシャグジたちに問いただすことをした。

 ――――どういうことだ。さっきの白蛇は、其許たちの差し金か。

 悪びれる様子もなく、ミシャグジたちは口々に話し始めるのだった。

 ――――違う。しかし、八坂の神への怒りは諏訪の神霊たちの総意。
 ――――あえてミシャグジたちが、祟りを止める理由はない。
 ――――神霊たちは、あまり古くて自分の形さえわすれてしまった。
 ――――だから、ミシャグジの姿を貸し与えた。
 ――――すなわち“これ”は、諏訪の神霊の怒り。
 ――――そしてミシャグジたちの怒り。

『白蛇』とさして姿を違えない蛇神たちは、常人の眼には決して見えぬその霊気の身体を、歓喜に震わせているようだった。『白蛇』がモレヤの口を借りて最後に語らせた言葉……「八坂の神に、祟りと滅びあれかし」。その呪詛を、何度も何度も反芻しながら。諏訪子のなかにはもう、彼らの怒りを鎮めるだけの言葉がなかった。すべての大事なものが零れ落ちていったかのように、唇を引き結び、奥歯を噛み締めているだけだ。もう、手のひらの傷の痛みも解らない。

 ぽつぽつと降り始めた雨は、やがて烈しい秋雨となった。
 その雨音は、古の神霊たちによる怨々たる憎悪の叫びであるように、諏訪子には聞こえていたのである。その怨みの影をひしひしと垣間見ながら、彼女のなかにはある自問が芽生え始めていた。それは、懸命に己がうちに封じ込めようとした、そんな疑問であったはずだったのに。

 諏訪のために八坂神奈子を殺すことが、洩矢諏訪子には本当にできるのだろうかと。


――――――


 しのつく雨は、颶風(ぐふう)の兆しであったらしい。
 科野全域で風雨相次ぎ、土地によっては川の堤が破れた所もあったという。科野中部に位置する筑摩郡も決して例外ではなく、普段は穏やかに水面を光らせる筑摩川も、このときばかりはにわかに水嵩を増し、数ヵ村の田畑に泥を流し込んで黒々と染め上げる結果となった。

 その筑摩の端。
 吉蘇路(きそじ)は県坂(あがたざか)、濃州と境を接する里のうちに、簡素ながらも邸宅と呼び得るだけの建造物があった。邸宅が据えられた土地は、筑摩川より数里離れている。それゆえ水害の影響を直に受けることはなく、ただ風雨にのみ耐えることが強いられていた。とは申せ、天空を支える背骨がごとく連綿と連なる山脈から、今は颶風の子たる暴風暴雨がやって来ている。麓に開けた数ヵ村からは雲突く山々の様子が見えるのが常だったが、数日止まぬ風雨のときに、あえて山を見物しようとする者もない。

 だからか。
 いま、この邸のうちに在る人々が見るものは、風雨に押し流されんとする山肌の様子ではなく、四人姉妹の傀儡子女たちであった。

「……“東には女は無きか男巫(おとこみこ)、さればや神の男には憑く”」

 三人の姉たち――瑠那佐、梅琉藍、李々香の歌と楽の音に彩られながら、四女の黎蘭が袖を翻して広間に舞う。広間とは言ってもさして大きくはない邸のこと、四人組の傀儡子女である虹河の一座と、さらにはその舞楽を観覧するふたりの男を容れてしまえば、あとはほとんど空間が埋め尽くされてしまう。山のものが主となった簡素な料理が膳には並び、その皿々に箸を伸ばしながら、粕の浮いた濁酒をすする。宴の主は、筑摩の地に移封させられた豪族トムァクである。そして、招かれた客は。

「降り続きますな、ギジチどの。今年もまた筑摩川が氾濫を見たと聞き及んでおりますし……もう一日、ご滞在の日取りを伸ばされてはいかがか」

 長い黒髪を背まで垂らした豪族商人、ギジチであった。
 けれど彼は、トムァクの問いにはうなずきもせず、ただ、じいと傀儡子女たちの歌舞を見つめているばかりであった。感情の色のないかのごとき彼の眼は、たとえ美女を見つめていても好色そうな気配を一片たりとて放ちはしない。トムァクにとっては、それが不可解だった。まるで無性の人間に相対しているかのような戸惑いを、五十過ぎた彼も覚えずにはいられない。

「しかし、御辺(ごへん)も労多き身。商品の買いつけと称してトムァクの元を訪れはしたものの、ちょうど颶風のころに行き当たってしまったとは。……ま、そのおかげで、ギジチどののお連れなされた虹河の一座の舞を、こうして幾日も愉しめる」
「此度のようなことには慣れております。あなたが、お気になさることではない。しかし」

 酒をちびりと口に含みながら、ようやくギジチは声を発した。
 相も変わらず感情のない、しかし烈しい意志の在ることを感じさせる。そんな声だ。

「“商品の買いつけと称して”という物言いは、甚だ人の不信を買う。私は、正真、商品の買いつけを行うべく筑摩までやって来たのです。トムァクどの、あなたの元にだ」

 にやと笑んで、トムァクは自分の土器(かわらけ)に、瓶子から酒を注ぎ込んだ。
 
「そうでしたな。われらの勝利を」
「さようにございます。まずはこの、」

 と、トムァクは杯を人差し指の代わりにして、眼前で歌い舞う一座を示した。

「虹河の一座をもって」
「おお! かくも良き策ではございましたわ。まこと、商いせし者は各地の情報に精通しておるもの。科野国中に斯様に優れた傀儡子女が居ったことなど、トムァクはギジチどのに示されるまでまったく知らなかったのです。八坂、洩矢、両神の歓心を買うに、これ以上のものはなかった」

 あからさまな追従である。
 しかし、それを耳にしたトムァクはまたも黙り込んでしまった。まがりなりにも愉しんでいたらしい酒も、杯を手のうちに抱いたままで、しばし口をつけなくなる。いかがなされたか、と、トムァクは訊ねた。さらなる阿諛を打ち出すがごとく、ギジチへ酌をせんとする仕草さえ見せて。しかし、であった。

「トムァクどの、あなたは短慮だ!」

 突如、ギジチは感情の在りかを示すがごとく、激したのである。
 びくりと、傀儡子女たちも驚きに肩を震わせる。だが芸事を旨とする者の本能か、ひとまず舞楽に戻らんとした。

「お、落ち着きなされよ、ギジチどの」
「トムァクどの。このギジチが、なぜ虹河の一座をあなたに貸し与えたかは、あなた自身がよくご存知のはず。トムァクどのという豪族は、洩矢の神からも八坂の神からも警戒されている。その警戒を解いて取り入るべく、まずは諏訪御所の宴にて傀儡子女の歌舞を献上する。そういう策だったはず」
「憶えております。事実、そのようにした」
「結果だけを見れば。だが、あなたは半分ほど事態をしくじったのだ。いかに八坂神の新政に所領を取り上げられたことへの遺恨ありとは申せ、宴の晩に御所の門前で郎党たちに乱闘を起こさせるなど、まったくもって理解しがたい!」

 トムァクは途端に阿諛も追従も忘れてしまう。
もはや軽口を叩くほどの余裕もなく、ギジチへ酌せんとして持ち上げた瓶子も、いささか惑った様子で元へ戻す。

「これは、相済みませぬ」
「短剣は懐に隠し、毒酒は美酒(うまざけ)と信じ込ませなければ、われらの志は成り申さず。まずは八坂神が膝下(しっか)にて表向き忠勤に励み、政の中枢深くに食い込んで信を得る。それを隠れ蓑として、粛々と事を進めるべきだ。埋伏の毒は、然るべき“そのとき”がやって来るまで身を隠さねば。……下手をすれば、われらの策は初手から失敗に終わるところだった。以後は、かくのごとき軽挙妄動は慎まれよ」

 素直に、トムァクは頭を下げた。
 改めて、彼は瓶子を手に取る。今度はギジチの方でも土器を差し出した。とくとくと、粕酒が杯に満たされていく。杯に満たされた酒は鏡面のように輝き、ふたりの顔を代わる代わるに映しだす。荒天の日で太陽も隠れているとはいえ、未だ昼間なので油を節約すべく、広間には灯明も灯されていない。雨除けのために蔀も閉めた部屋のなか、絶えず騒がしい雨音をかき分けるように、なおも傀儡子女の舞楽は謡う。

「ひとつ。……朗報がござるぞ」

 膳に箸を伸ばしながら、トムァクが呟いた。

「朗報」
「モレヤ王のことにござる」
「あの少年が、どうなさった」

 こりこりと、山菜を噛み砕いて彼は言う。

「上諏訪の外れでの一悶着、ご存知か」
「無論です。噂は私の耳にも入っている。モレヤ王を依巫と為し、八坂神の政の不当なることを訴える、諏訪の怨霊が出現したと」
「さすがにお耳が早いですな、ギジチどのは。怨霊は、こう告げたそうにござる。八坂の神に祟りと滅びあれかしと」

 ふぅッ、と、溜め息まじりに微笑をし、ギジチは杯のなかの酒を一気に呷った。最後の一滴がごくりと喉を通過し、直後に酒の香が彼の息と共に吐き出されてくる。感情を表に出すことの少ない彼らしからぬ、人間くさい仕草であった。

「噂話はいかな軍勢の進軍よりも足の早きもの。水内にまでもすでにその話は届いています。おそらく、現在では科野国中至る所に。そして、噂が諏訪以外の土地にまでも広がりつつあるということは」
「民人たちが、八坂神を信ずることによる古の神霊からの祟りを、怖れ始めているということか」
「その通り」

 今度は、ギジチが瓶子を取った。そして、トムァクに酌をする。
 がたがたと、風で蔀が鳴り騒いだ。

「思いのほか……われらの目論見が当たるときは早まるかもしれませぬな。人心の離反さえ起これば、八坂神の政を瓦解させるは案外と容易いものと覚える」
「その考えが軽挙に繋がるというのです。用心されよ。しかし、……怨霊というわれら常人の眼には見えぬものを味方につけることもまた一策。つまり、これは神を味方に引き入れるということ。ところで神といえば、トムァクどの」
「は」
「諏訪御所での宴の席では、洩矢神から八坂神、そしてモレヤ王への王権の継承が宣言されたのでしょう」
「おお、確かに」

 瞬間、ふたりは眼を逸らす。
 虹河一座の歌舞は、そろそろ終盤に差し掛かっている様子である。歌も楽も舞も、次第に落ち着いた印象のものへと変化しつつあった。大きな波が少しずつ凪ぎ、心地よい小さな波へと切り替わっていく。しかし、その波は今ふたりの男に飲み込まれて、野心という巨大な波に変じつつあるのだった。

「モレヤ王が八坂神の子に――養子になるというような、そんな話はありませんでしたか」
「いいや、ありませんでしたな。徹頭徹尾、八坂神は後見役として在るおつもりのご様子」
「僥倖、なり!」

 突如、彼らしからぬ烈しさにとらわれて、ギジチは叫んだ。
 杯にまた酒を注ぎ、ぐいと一気に呷ることをした。それを二度三度とくり返し、唇の端に歪んだ笑みを浮かばせる。トムァクは、そんなギジチの顔を呆気に取られて眺めていた。この怜悧な男のどこに、こんな烈しい感情が眠っていたのであろうかとでも言いたげに。

「八坂神がモレヤ王を自らの子とせぬつもりなら、王権の継承はあくまでも洩矢氏の血に関わる事態ということ。なればこの科野の地において、王を称するに八坂の神の意は必ずしも必要ではない。王権を譲り渡すべきわが子が居らぬというのであれば、誰か“ふさわしき者”が跡目を継ぐことになる」
「では、何と致す。また子女を送って婚儀を取り結ぶか……」
「いいや。矢はすでに手の内にある。後は、弓弦につがえてどう放つかです」

 矢とは……?
 トムァクは、心底から不思議そうであった。事実、彼にはギジチの策なるものが理解できてはいなかった。あくまで、ふたりは反八坂という利害の一致でのみ繋がった同志である。互いの心根までも知り尽くした友とは、言いがたい仲であった。

「矢は、すでにある。八坂神へ対抗するにふさわしいだけの威を備え、人民と怨霊たちの怒りと不安の器としてもっとも適当なるお方が」

 にい、と、ギジチは皮肉げな笑みを浮かべていた。

「其は洩矢神。前国主、洩矢諏訪子」
 
 表情を失って何も言えなくなっていくのは、今度はトムァクの方であった。
 自棄(やけ)になったかのごとく、ぐいと杯から酒を呷る。このごろ、ようやく彼の舌にも馴染んできた筑摩の酒。それが今は、やけに苦々しい味に変わったとしか思えない。そんな彼の思いとは裏腹に、傀儡子女たちはなおも歌い舞う。東国の人々が天地に抱く、素朴な信仰を主題とした勇壮な節を。

「“神ならばゆららさららと降りたまへ、いかなる神か物恥はする”……」(続く)
作者の体力が続けば、第六話が出ると思います。
こうず
http://twitter.com/kouzu
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コメント



0.490簡易評価
6.100名前が無い程度の能力削除
これは本番シーンのあっちへの投稿が待ち望まれますね……
10.100名前が無い程度の能力削除
プリズムリバーと虫料理が出てきたところは、思わず声を上げて笑ってしまいました。
後の出来事を知りつつ往時を読むという意味では、この作品は歴史小説ですね。
続きを書けるよう、体力維持されることを期待しています。
11.100名前が無い程度の能力削除
今回もお見事な出来栄えでした。これだけたくさんのキャラクターや因縁を描いて文章と物語を破綻させない筆力は、まさに感嘆の一言です。虹川姉妹の登場やら当て字にも笑わさせていただきましたw。そして是非とも続くよう、作者様がご健勝でありますように。
12.80愚迂多良童子削除
虫はなあw そりゃ初めてじゃあ手も付けられん。
諏訪子がモレヤに手を出すのが意外に早かったのが驚き。もっとあとになると思ってた。
虹川が今後どう言う風に絡んでくるのか、そこがちょっと気に掛かる。
13.100名前が無い程度の能力削除
この界隈は狭いですね。
これだけの物を書いても閲覧数は100人を越さない。
同人活動とはそう言ったものかも知れませんが、……少し寂しい。
筆力があるのは判っていた事ですが、長編物でここまで文章に翳りが落ちないのは何故?

一応書いときます、
主体表記で、「諏訪子」であるべき所を「神奈子」と記していたり、「諏訪」と表記するところを「出雲」としたり。
そういった誤字が一から五話でまでに、四、五箇所はあったかしら?あったと思います。たぶん。
14.90名前が無い程度の能力削除
独自の世界観の構築がすばらしいだけに
途中で出てきた虹河から強烈に異物感を感じたのが残念。

15.100名前が無い程度の能力削除
良作を長さゆえに敬遠していた・・・素晴らしい、続き待ってます!
18.90r削除
行幸出発前 3P目
>萩の庭の向こうに、腕組みをした諏訪子がこちらをじいと見ているではないか。
諏訪子→神奈子

8P目
>しかし、それを耳にしたトムァクはまたも黙り込んでしまった。まがりなりにも愉しんでいたらしい酒も、
トムァク→ギジチ

完走期待しております。
19.100非現実世界に棲む者削除
虫料理は一度試してみたいが、それ以上に古き日本の宴会に参加してみたいです。
今回はかなり壮大でしたね。
それでは続きを読みにいきます。
この先どうなるのか、雲行きが怪しいようですが...
22.100名前が無い程度の能力削除
原作のキャラが生まれ変わって生きているのが印象的でした。
ヤマメが特にお気に入りです。