Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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「“お前に参りては、色も変はらで帰れとや”……」

 傀儡子女の四人姉妹が、声を重ねて歌う。

 皆それぞれの担うべき音をよく心得て、ひとりとしてその領分から外れることはあり得ない。彼女たちの細い声は重なり合って幾つもの層を成すかのようであり、少年から少女、女から男、かと思えば翁から媼(おうな)の再現と、場面に応じて次々とその音の響きを巧みに変化させ、使い分けていく。囃子方による伴奏は、さほどまで豪勢と呼ぶには能わない。あくまで簡素。瑠那佐の琴、梅琉藍の横笛、そして李々香の締太鼓(しめだいこ)の三種しかない。しかし歌の要所に併せて的確に挿入される奏楽は、聴く者の感情を明から暗、あるいはその逆へと幾度も幾度も揺り動かし、その晩の宴に集った者たちの息づかいさえをも、一場の歌舞へと織り込もうとするみたいな力があった。

「……“峯に起き臥す鹿だにも、夏毛冬毛は変はるなり”」

 鳥獣を愛でる歌、猥歌、あるいは世の太平を言祝ぐ歌。そして今は恋歌だ。
 虹河の一座が奏し奉った歌は幾つもあった。そして、そのいずれにも例外なく黎蘭の舞が付されている。白粉と紅で飾った顔には、御所の門前で乱闘騒ぎの血なまぐささにおどおどとしていた歳若い少女の面影はない。自らの舞を、神楽に代えて神前に供えるということに悦びを感じているようである。いやむしろ、舞うということを純粋に愉しんでいるのかもしれなかった。その証とでも見るべきか、処女雪を踏もうとする純朴な子供のようなものが足取りには宿っていた。しかし同時に浮かべる微笑は、見る者にどこか猥らな空想をさせてしまうほど艶めかしい。

 長い袖と飾り紐で彩られた衣装が、明々と光の萌える灯明のかたわらで、いつ果てるともなく幽玄な影をつくっていた。その影に光との境を描き加えようとするかのように、細い手指を伸ばす黎蘭。哀調ある切なげな歌声と相まって、彼女の舞は中空に、久しぶりに会った女を突き放す酷薄な男の輪郭を、あたかも刻々と描き出していたのである。――ふと、彼女が身をひねって袖を翻すと、一瞬、袖の部分だけが宙に浮いて静止したかのごとく、衆人の眼には映った。“そこ”には袖の動きを遮る何ものとて存在しないはずなのに、神奈子や諏訪子にさえそう見えた。

 野の鹿の毛が生え変わるほどにも逢瀬を喜んではくれない、恋人の酷薄さ。
 そんな現実を嘆いて眼を背けながらも、彼に抱き締められることへの名残を惜しむことなど、少しであろうとできようか。翻した袖は、一瞬ばかり恋人の肩に触れ、また直ぐにずり落ちる。そういう悲恋の情景が、容易に想像され得る。囃子は少しずつ音を小さくする。さめざめと泣いて眠りについた、女の心そのものみたいにだ。

「“そよ、君が代は、千代にひとたびゐる塵の、白雲かかる山となるまで”」

 一転して恋歌の演目を終えると、もはや今晩の歌舞も佳境であろう。

 じんわり染むような悲恋の残響だけを残して、囃子方の瑠那佐、梅琉藍、李々香は演奏を終えた。――あなたさまの世は、千年にいちど塵を置き、それが積もって白雲のかかる山となるまで続きましょう。ただひとりの踊り手である黎蘭は、自ら無伴奏のままそんな意味の歌を誦すると、それを潮としてひざまずいた。彼女と同時に、瑠那佐たち三人も恭しく頭を下げる。しばし、場は感嘆が支配していた。沈黙を受け容れることができないとでもいうように、皆、互いに目配せをして。

「結構、結構」

 それでも沈黙を破ったのは、諏訪豪族の長であるトムァクその人であった。
 少々、大げさとも見える身振りで拍手をし、感心深げに何度もうなずいて、ことさらに傀儡子女たちを称賛の態。

「実に面白いものを見せてもろうた。長き歳月を重ね、骨の髄まで染み込むほどにひとつの道を極めれば、人の身にしてそこに神気の宿らざることはなし。芸事とて同じことであろう。今後も精進するが良い」

 一方で、微笑みながら神奈子も言った。
 次いでモレヤが拍手をし始めると、諏訪子や他の豪族たちまでも、盛大な拍手を四姉妹に向ける。彼女たちはひれ伏し、ひたすらに恐縮の格好だった。黎蘭の顔は心なしか、白粉越しにも判るほど、ほの赤くなっていたかもしれない。

「わたくしたち姉妹の未熟な芸、皆さま方のお目に入れるもためらわれ、またせっかくの宴においてはお目汚しともなりましたものを」
「そんな風に申されますな。とても、良い歌と舞でした」

 謙遜する瑠那佐に、モレヤが声をかける。
 虹河一座は改めて深い辞儀をし、静々と宴の場から退出していった。後には、未だ歌舞を目にしたことの興奮と感嘆の冷めやらぬといったところの豪族たちが居並んでいる。トムァクのかたわらには、血の汚れをきれいに拭き取って着物を替えた長子のガトの姿もある。ほか、コログドやトライコなど、先だっての除目で諏訪の所領を召し上げられた豪族含め、周辺の主だった領主たち十数名が諏訪子主催の宴の招きに与っていた。あたかも、諏訪子還幸を祝するかのごとき列席者たちである。一方で、上座に席を占めるのは神奈子が中心、その左右に諏訪子とモレヤ。トムァクは豪族方の筆頭として、改めて三人の王に向き直った。併せて、他の豪族たちも上座を見据える。

「科野が王なる八坂さまはじめ、諏訪子さま、モレヤさま」

 幾度か息を吐き、神奈子たちへとトムァクは言ったのであった。

「この度はひと月近くの科野行幸を無事に成し遂げられ、まずは祝着至極に存じ上げ奉りまする。本日、お招きに与りしわれら豪族一同、心より言祝ぎを申し上げ奉るものであり、また、かつていくさの場においては無謀にもそのご威光に逆ろうた前非、これを殊勝に悔い、もって御新政発足の儀についてのお祝いとさせていただきとうございます。……まことにもって、おめでとうございまする!」

 ――――おめでとうございまする。

 彼らの眼に込められたものは、果たして純粋な祝福か、それとも嫌味や皮肉の類なのか。
 ともかくも、宴はトムァクの挨拶から始まった。彼が恭しく頭を垂れると、引き続いて豪族たちも同じく頭を垂れる。心のなかにではいかに疑いの気持ちのあれど、今だけは諏訪子も神奈子も何も言わなかった。未だ口をつけてもいない酒の香が、ふたりをほんの少しだけ酔わせていたのであろうか。

「面を、上げよ」

 そのように命じたのは、神奈子ではなく諏訪子である。
 
「今宵は宴ではないか。宴の場に無粋な物言いは不要」

 ちらと、興味深げなトムァクの視線。

「無粋を忘るるには、古来から酒がいちばん良いと決まっておる。そうであろう、トムァク」
「はあ」

 にィと、諏訪子の笑みである。

「酌をせぬか。この諏訪子の杯に」
「は、……いや、それは。さすがに畏れ多いことにございまするが」
「此度の宴をもって諏訪はじめ、科野は太平の御世となる。太平の御世では、下は上を支え、上は下に情け深く接することをしなければならぬ。多年に渡りて諏訪の政に参画してきたそなたの酌を受くることに、何ぞ不都合やあらん。いや、あるいは、」

 細められた彼女の眼は、あたかもミシャグジ蛇神そのもののようだった。

「諏訪子に酌をせぬことこそが、われら君臣の仲にては、水が低きに流れるごとき政の道理であったかな」

 トムァクは、もう何も言えなかった。
 表情ひとつ変わることはない。しかし、多年に渡って諏訪子の政を奪ってきたほどの彼なのだ。今この場で自分の置かれている立場、行うべき振る舞いが解らないほどに愚かなはずはなかった。こころなしか、その指が震えているように諏訪子には見えた。何を追及してものらりくらりとかわそうとしてきた彼らしからぬ、いら立ちの表れなのだろう。

「……承知いたしました。では、ご無礼ながら奉賀のための祝杯として」

 立ち上がり、上座近くまで歩み寄ると、トムァクは諏訪子のかたわらに供されていた瓶子を手に取る。諏訪子もまた、朱塗りの杯をずいと掲げて酌を受ける構えだった。居並ぶ諏訪の豪族たちの眼は、ひどく残酷にか、ふたりの様子を見つめている。今日このときよりは、誰が上で誰が下か。どちらが主でどちらが部下か、確かめようとするように。

 とくとくと、諏訪子の杯へと濁り酒が注がれていく。
 やがて器の縁近くまで注がれると、そこでトムァクは瓶子を差し戻し、また自らの席へと着座する。眼の端で確かめれば、なお彼の表情には憮然である影さえない。さすがに、諏訪子も感心せざるをえないのである。そうなれば、次は彼女が責任を果たす番だ。微笑を含んだまま、諏訪子は豪族たちを見回し――ゆっくりと、見せつけるようにして杯に唇をつけた。それから。

「どうぞ、八坂さま」
「おお」
「諏訪の、科野の天地は、諏訪子から八坂さまに受け継がれしもの。この杯に注がれた美酒(うまざけ)のごとく、政の道も繋がっていく。諏訪子よりの杯、お受けくだされませ」
「元より。是非もないぞ」

 諏訪子から受け取った杯に、神奈子もまた唇を触れる。
 しかしすべてを飲み干すことはない。残った酒の行き先は、むろん決まっているのだ。神奈子は、かたわらのモレヤを見遣る。

「次は、モレヤだ」
「はい」
「やがてそなたが長ずれば、神奈子の後を襲う次代の王として……そして洩矢諏訪子の夫として、この科野を治めていかねばならぬ」
「存じております」
「諏訪子から八坂、八坂からモレヤへと移るこの杯は、いわばわれらの絆を取り持つ固めの杯。飲み慣れぬ酒ではあろうけれど、心して口にするのだぞ」

 神奈子から杯を受け取っても、モレヤはしばらく躊躇していたようである。
 少しばかりか眼が泳ぎ、杯につけるべき唇も、開いたり結んだりをくり返している様子だった。けれど、諏訪子と神奈子の視線、そして豪族たちの注目が集まっていることに否が応でも答えなければならないのが今の彼だった。酒より先にごくりと唾を飲み込んでから、ようやく杯のなかのものを口に含み、一気に喉まで流し込む。瞬間、祝いの席には似合わないしかめっ面をモレヤは見せた。わずかに荒くなった息を整えながら、「苦い! 酒というものは、ひどく苦うございます!」と、何だか泣きそうな声だ。

「おや、これは。子供の舌には、未だ甘酒の方が好ましかったか?」

 そう諏訪子がからかうと、神奈子も豪族たちも、どッ、と笑い出さずにはおれなかった。
「いやいや。ともかくも、これでモレヤさまもひとつ大人にお成りあそばしたということ」「さよう。それに初めて飲む酒とは得てして不味いと感じるもの。何度も飲むうちに、美味いと思えるようになりまするぞ」と、何人かの豪族はモレヤの面目を慮ってか、すかさず気遣いの言葉を掛けるのだった。

 いつしか緊張の度合いも薄れ、ようやくの和やかさを夜は取り戻していく。
 どこかぎらついていた人々の眼の光も今は落ち着いた。代わりに、阿諛(あゆ)とも皮肉とも違う愉しさが宿っているようにも思われた。豪族たちのうち、ひとりがふと神奈子へ声を掛ける。「八坂さまとモレヤさまは、見れば親と子のようにも。ということは、モレヤさまが八坂さまよりの薫陶を受けるは、さながら御子が父君の背を見て育つがごとし」。

 見かけから受けた印象をただ述べたか、もしかしたらちょっと頭をひねった追従の類だったのか。いずれにせよ瞬きほどのあいだだけだが、その言葉を受けたは神奈子は、どうしてか眉間に皺を寄せる。そんな彼女の表情に気がついたのは、たぶん諏訪子ひとりだけだったのではないだろうか。友人の顔が見せた不可思議さについて、とっさに彼女は問いたかった。――が、今度は神奈子の方でそれを察したかのように、

「そうか。そのように見えれば、嬉しいとも思う」

 と、どこか濁した言葉を語ったのである。

 …………思い過ごしか、わたしの。
 深々と、諏訪子は息を吐く。それから新たにつくった微笑は、客人に対して饗応の責を負うためのものだ。すでに待ちきれぬとばかり、出席した豪族たちは次の言葉を待っていた。あくまで冷静に、しかし威厳を示しつつ。今日のこのときに備えて何度も心のなかで唱えてきた文句を、ようやく吐き出す時が来た。

「さて、ようやく皆の坐した席も温まってきたころであろう。ここで改めて申し述べる。本日は、この洩矢亜相諏訪子の宴によう集まってくれた。余興の歌舞を見て気ぶりを高めたうえは、酒もまた格別の味わいとなるはず。併せて此度、ささやかながらも諏訪子からの馳走を用意した。酒肴として、愉しんでもらえれば幸い」

 言えば言ったで、久しく忘れていた熱が身のうちに蘇ってくるような感じもする。拝殿の一角に設えられた広間には、傀儡子女の披露する歌舞を鑑賞しているのとはまた違った熱気が現れ始めている。一夜の酒食を悔いなく愉しもうとする、貪欲な熱とでも言えようか。ここまで来れば、もう誰かに憚ることもないのだろう。すでに酒宴の参加者全員の前には高坏(たかつき)と懸盤(かけばん)が置かれ、料理も行き渡っている。神奈子もモレヤも、豪族たちも、一礼するとめいめいに料理に箸をつけ、瓶子を取って杯に酒を注ぎ始める。

 諏訪子もまた、――今度は誰に酌を受けることもなく――二杯目の酒を喉に容れた。ひと息に飲み干して、軽く息を吐く。会場には、早くも酒の香が爛漫と花開く様子である。しかし、そのなかにひとり、トムァクだけが眉の根に皺を寄せて酒を飲んでいることを諏訪子は見逃さなかった。

「そう憮然とするな」

 あくまで小声で、呟いた。

「門前で郎党たちの暴れる様を見物するより、こうして酒を飲む方がよほどに愉しいではないか。トムァク、そうは思わぬか」

 彼女の声が聞こえていたのかいなかったのか、トムァクは諏訪子の方になど少しも顔を向けることなく、薄い苦笑いを張りつけているだけだった。


――――――


 酒宴を愉しむことに、いちいち指示が必要なわけもない。
 各人の膳に供された料理にも、思い思いに箸が進められていく。

 大根と里芋、茸と鹿肉を煮詰めた羹(あつもの)は未だほんのりと湯気を保っているし、猪肉の焼き物は、実りの秋を経てよく肥えた肉の旨味が噛むごとに滲み出てくる。ワカサギの膾(なます)は、未だ少し旬には早いものを用いたためか小ぶりな魚ではあったけれど、さっぱりとした酸味が、口のなかに残っていた肉の脂を胃の腑の奥まで快く送ってくれる。モレヤはひたすらに肉ばっかり食べ、諏訪子は膾に箸をつけては酒を飲み、酒を飲んでは膾を食べていた。豪族たちもみな好きなものから口にし、席の隣り合った者同士は酌をし合う。何ということはない、ごく平穏な酒宴の風景ではあった。

 強飯(こわいい)に合わせて、茄子や蕪の草醤(くさびしお。野菜などを原料にした発酵食品。“漬物”の起源ともいわれる)を突っついていた神奈子は、やがて膾を食べ終えた諏訪子に眼を向け、「よう漬かった草醤よ……」と、驚きの滲む声を掛けた。

 酒が入ってくると、心にいかなるものがあれ、ひとまず気分が開放的になってくる。豪族たちの顔も次第に赤らみ、口数が多くなったりする者が出始める。酒に基づく猥雑な快楽が混交し合い、会場はざわめきの度を増していく。神奈子ひとりがひっそりと語りかけても、諏訪子以外には気づかれないほどには。モレヤはモレヤで、舌を火傷せぬよう気をつけながら羹に口をつけていた。

「山国に塩は産せぬもの。ゆえに、その地の人々は商いを経て塩を手に入れねばならぬものだ。草醤ひとつつくるにも、海を臨まぬこの諏訪ではどれだけの手間がかかるものか」
「だからこそ旬の蔬菜(そさい)を塩に漬け込んだ草醤をたらふく食べることは、われわれ諏訪人にとってはみな憧れ。こうした酒宴に饗されるときでもないと、各地の首長(おびと)ですらそう易々と口にはできませぬ。此度もまた、良き塩を手に入れるために幾らの財を投げ打ったことか」

 なるほどな……と、神奈子は再び草醤を箸で摘まんだ。
 厚切りにされた蕪は表面に塩の粒をきらめかせ、まるで、いま削り出したばかりの玉(ぎょく)のようでもあった。この輝きが内陸の小国である諏訪では、ひいては科野諸州では、文字通り万金の価値を持つ。そのように、彼女は確信したに違いない。蕪を口に容れ、こりこりとじっくり時間をかけて咀嚼し、その味を愉しむ。いつしか神奈子の眼は、宴会の場には似合わぬような熱意が宿っている。

「うむ。私はな、諏訪子。この科野国中の者たちすべてが、斯様に美味い草醤を日ごろ食せるように、力を尽くしてみせようぞ。そのためにはまず国の懐を富ませ、商いを強くせねばなるまい。人多きところにて市は立つから、各郡に最適な場所を選びだして市を管理する。各地の領主どもに任せても良いかも知れぬ。次に、人々の行き来を易くするよう各地の街道に普請を進めてだな、それから……」
「宴に無粋は無用と、そのように言うたはず。ことさらに政の話ばかりするのもまた無粋。今はただ、遠慮なく酒をお召し上がりくださいませ。草醤は飯の友としてだけでなく、酒の肴としても良いものゆえ。ああ、ほら。それからこっちの乾しわかめも。これもまた海のものゆえ酒宴における贅沢にございます」

 半ば強引な動作ながら、諏訪子は神奈子の瓶子を取った。
 そして、相手が慌てて杯を手にするのを面白がるかのように、とくとくと酒を注いでいく。しかし、いつの間にか瓶子の中身はだいぶ少なくなっていたらしい。器の半分ほどまでしか、白い濁り酒は満たされなかった。おや……、と、諏訪子は目を丸くする。そんな彼女をよそに、神奈子はグイと注がれた分の酒をひとまず飲み干すことをした。

「これは失礼を。人を遣って新しいのを持って来させましょう」
「おお、頼む」

 宴会場として使われている拝殿の一角の広間は、廊下に面したその一部に壁を持たず、必要に応じて蔀戸(しとみど)をはめ込み空間の境を仕切るつくりになっていた。秋風寒い旧暦十月のこと、蔀はすべて閉じられていたが、その向こうには誰かしら神人が指示を待って待機しているはずである。廊下の方に顔を向け、「誰か、ある」と諏訪子は声を掛けた。それほど待たされることもなく、若い神人が馳せてきた。

「お呼びにございますか」
「八坂さまの酒が切れた。新しいのを持って来て欲しい」
「は」

 諏訪子の命を受け、彼は頭を下げると足早に広間から出て行くのだった。
 と、彼と入れ替わるようにして直ぐさま別の神人が入ってくる。自身も草醤に箸をつけかけていた諏訪子だったが、箸先を中空に静止させたままその報告を聞くことにした。

「どうした」
「はい。次のお料理が出来上がりましたゆえ、お報せに上がりました」
「おお、やっとか。なるべく早く持ってくるのだ、みな待っている」

 そう諏訪子に急かされると、二人目の神人も頭を下げて退出していった。
 不思議そうな顔をするのは神奈子の方だ。「このうえ、未だ何か贅を凝らした趣向があるのか?」と、指先で杯を弄びながら小首を傾げる彼女。

「むろん。秋の実り豊かなることを諏訪にて祝うのなら、決して欠かすことのできぬ料理にございます」
「ほう。それは」

 自慢げに胸を張る諏訪子に応えるかのように、神奈子は杯を置くのだった。
 やがてそれほど間も置くことなく、新しい酒と料理が運び込まれてきた。給仕役の神人たちは、各人の膳へと料理を並べ、また神奈子の元へは酒の快い重みで満たされた瓶子も一本が加わる。料理は、言うまでもなく出来たてであるのだろう。絶えず湯気を放ちながら塩気ある、しかしどこかほのかな甘みを含んだ芳香を発していた。品目は、二種。豪族たちは――憮然と酒を飲んでいたトムァクですら、このときばかりはいささか機嫌良く――、二種の料理に箸をつけ、また良い肴だわと杯に酒を注ぎ始めた。

 ……が。
 そのなかで八坂神奈子だけは、どういうわけか料理に箸を伸ばさない。
 新しく運ばれた酒を杯に注いでは飲み、飲んでは注ぐ。まるでヤケ酒だ。それから、彼女は左右の諏訪子とモレヤを振り返った。ふたりとも、すでに料理に箸をつけて美味そうに食べている。「今年のは、ことのほかよく肥って食べ応えがある」と、諏訪子は顔をほころばす。けれど正反対に、神奈子の表情は色を失って固まっていくのだが。

「おや、どうされました八坂さま。ご遠慮は無用。どうぞお召し上がり下されませ」

 いっこうに箸の進まぬ神奈子を不思議がり、諏訪子はそう促す。
 しかし、相手の方は「ああ……」とか「うん……」とか生返事ばっかり返してきて、話も飯もまともに進む気配なし。それでも、神奈子はどうにか箸を手に取った。そして一皿目に盛られた料理を摘まみ上げながら――、引きつった顔で諏訪子に訊くのだった。

「な、なあ諏訪子」
「はあ、何か」
「この料理とやらが、まことに諏訪の秋を祝うものなのか」
「はい。此度これなる二品こそ、諏訪での秋の祝いに相違なく」
「これもまた、そなたと豪族たちが示し合わせた余興……ということはないのか?」
「まったまた! 何を仰せられまするか。こんなに美味しいものをつかまえて!」
「いや、まあ。諏訪で生まれ育ったそなたたち諏訪人には馴染みある料理であろうが……一応、出雲人としては訊いておきたい。この、料理二種は、何というのだ」
「蜂の子の蒸し焼き、それに蝗(いなご)の炒り物にございます」
「蜂の子に蝗! や、やっぱり虫かっ!?」
「いずれも美味しうございますよ。何せどちらも今宵の宴のために丸々と肥えたのをたくさん用意させ、御所に仕える料理人たちが腕によりを掛けて御食(みけ)として奉ったのですから」

 膳の上の虫料理と諏訪子の顔を交互に見比べながら、神奈子はわなわなと唇を震わせた。とっさの大声に豪族たちもちらと彼女の方を見たが、何があったかとさして気にするでもなくまた自分の膳へと向き合うのみ。「く、食えるものなのか……?」と呟いたのは、神奈子の本心だったことだろう。一応、蜂の子をひとつ、箸で摘まみ上げてはいる。唇近くまで持ってくるが、それでもやっぱり未だ食べるには至らない。

「食えるものか、とはまたご無体な。諏訪子はじめ、皆々先ほどからよく味わっている通りにございまする」
「あ、いや、済まぬ。悪気はなかった。ただ、その……虫を食ったことは、今までいちどもないのでな」

 震える手で、箸先の蜂の子と向かい合う神奈子。まるで睨めっこである。

 昆虫を料理して食べる食文化は世界各地に見られるという。日本の場合、海に面していない内陸の土地に済む人々は、秋になると蝗などの昆虫を捕まえて調理し、貴重品である海産物の代わりに蛋白源としていたのだ。とはいえ、昆虫食の文化が根づいていない土地の人が、さも当然のごとく虫料理での饗応を受ければ、やはり驚いてしまうに違いないだろう。そして、神奈子が見せたその『驚いてしまう様子』をじいと観察する諏訪子の眼は、いつしか面白いおもちゃを見つけた悪ガキ以外の何ものでもなくなっていた。

「ほう、それは! では今日この日この時こそ、八坂の神が虫料理を味わう折! さあさあご遠慮はご無用! 蜂の子の柔らかな頭から、身のよく詰まったぷりぷりの尻尾の先まで! 香ばしく炒られた蝗の翅から、噛み応えある六本の足の付け根まで! 舌の上から喉の奥に至るまでを余すことなく駆使し、それはもう垂れ流れる汁の一滴まで、存分に味わっていただきとうございまする!」
「ええい、変に詳しく具合を述べるな! よけいに食べにくい!」

 とは言いながら、いちど箸で摘まんだ蜂の子を皿に戻すことはしない神奈子であった。諏訪子が饗応に負った労を無碍にはしたくないという、そんな気持ちがあったのかもしれない。が、八坂神奈子本人の気持ちはどうあれ、普段なら傲然にして冷静である彼女が慌てふためく様は、やはり妙に情けない。そのうち、諏訪子と神奈子の遣り取りを横から見つめていたモレヤが「八坂さま」と、呟いた。

「ん、何だモレヤ」
「八坂さまは、いくさ場での粗食に慣れるべく、何でも好き嫌いせず食べよと常々の仰せにございました。それなのにその八坂さまが、蜂の子ひとつ食べるの食べないのでこんなにも大慌てだとは……」
「しかしだな、世の中には慣れるものと慣れぬものがあって、」
「モレヤは八坂さまより杯を受け取り、慣れぬ酒を飲みました」

 こうまで言われては、八坂神奈子ももはや形なしである。
 食い物の好き嫌いがどうので面目を潰すという事態が、まさかいくさ神として人々を導く彼女に許されて良いはずもない。

「解った、解ったわ! 郷に入りては郷に従えということだ!」

 意を決して蜂の子の蒸し焼きを口のなかに放り込むと、次いで蝗の炒り物を二つ三つも食べ、強飯をかっ込むのであった。同時に酒も三杯四杯と飲み干して、また虫料理の皿に箸を伸ばす。果たして味の方が口に合ったか合わなかったか、隣で苦笑する諏訪子はついに聞けずじまいだった。


――――――


「……さてこそ。そこでわれらはにわかに一計を案じ、敵の裏をかくべく軍勢率いて山中をひた走りましてございます。しかし、ここで一大事。敵勢の移動せるを物見より知らされ、当てが外れたと急ぎ取って返して、いざ次こそは決戦に及ばんと……」
「はッ、たわけめ! 何が一計を案じてだ。夜中に松明掲げて山中を突き進めば、どこに敵勢が潜んでいるかは子供でも解る。伏兵が伏兵の用を為しておらんではないか」
「何をう! その後の戦いで、おぬしの軍はわしの軍に敗北したではないか!」
「そのときはそのときじゃ! 結局、水利を巡っての小競り合いだったゆえ、他の首長たちの仲裁を経て事は収まった。それを、そんな風に自らの戦勝としてことさらに誇示するなど、片腹痛いわ!」

 酒が入って両人ともに気が大きくなっているのか、ふたりの男は今にも互いにつかみかからんばかりの剣幕だった。ふたりともが顔を赤らめ、ろれつが若干回らなくなっているが、本当に殴りかかったり杯が投げつけられたりしないのは、この酒宴の場には諏訪の王が列席しているという一応の規範意識によるものだろうか。

 ともかくも、軍神八坂を上座に戴く宴では、豪族たちの口から、かつて経験したいくさや戦いの様子が得意気に語られ始めている。外来の王である八坂神を威嚇するのが目的であろうか。否、そんな手段で面目を保つことに窮々とするつもりなら、端っから、戦いに参加した者たち同士が、酒の勢いとはいえ往時の勝敗について喧々諤々の議論を戦わすはずもない。要は、純粋に自らの勝ちを誇りたい連中が、我先にと口を開いているに過ぎない。酔っ払いの吐く酒くさい息は、使い古された武勇伝にさえも塗り込められていくのである。

 運ばれた料理はその大半が皆の胃の腑に収まった今、酒の肴になるものといえば、誰からともなく話される艶話、それも飽きたら武勇伝である。膳の上には、食後の菓子として栗や胡桃、柿などが乗せられていたが(“菓子”という言葉は、古くは木の実や果物を意味していた)、酒の供にするにはいささか心もとない味わいなのか、依然として杯を手放さぬ数人は、菓子を食そうという様子も未だなかった。

「おふたりとも、口を慎まれよ。仮にもいくさ神の御前で自らの戦勝を誇るなど。井の中の蛙が、己の棲む井戸の広さを自慢するようなものではないか」

 列席者たちの末座から、豊かな白髪を後ろ頭に結った老人が、武勇伝で盛り上がる豪族ふたりをたしなめる。彼もまた酒宴の招きに与った豪族中のひとりである。酒はもう飲まず、先ほどからは菓子にも手を伸ばしていない。彼の言葉が鶴の一声とでも思ったか、勝利と戦功について言い争っていたふたりの豪族は、一斉に上座を向き直った。その眼の先には、栗の実を食べる八坂神奈子。

 彼女は、やれやれといった風に肩をすくめる。
 酔っ払いの仲裁に巻き込まれるのは、彼女とて面倒であるのだろう。「夜間、敵勢の背後に回って奇襲を狙うは、確かに良き策とは思う。しかし、慌てるあまり松明を掲げたままでひた走るというのは感心しかねる。せっかくの伏兵も、直ぐに見破られよう」。

 ほら見ろ! と言わんばかりの顔で、用兵の杜撰さを嘲った方の豪族が膝を叩く。
 直後、歯噛みしかかるもうひとりの豪族の方へ、神奈子は話の続きを向けた。

「どうせ松明を燃やすのなら、むしろ明かりの数を増やし、実際以上に味方の軍勢が多いと見せかけることで、戦わずして相手の戦意をくじくという手もある。このように敵の判断を誤らせるやり方を、兵法にては樹上開花の計という。憶えておくと良い」

 今度は、不機嫌な方が正反対に逆転する番だった。

 それからまたしばらく、豪族たちはいくさでの手柄話や武勇伝に打ち興じる。
神奈子と――それに諏訪子もモレヤも、菓子を摘まみながら聞き入っていた。ひと通り話の種が尽きてくると、べらべらと戦功を並び立てていた数人も、やがておとなしく菓子に手を伸ばし始めた。けれど、あの白髪の老人だけはやはり何の菓子にも手をつけない。そうして、神の身である諏訪子や神奈子を除けば、この場に集まった者たちのなかでもっとも年嵩である彼は、しみじみと息を吐くのだった。

「若い者らは、なるほどいつの時代も血気盛ん。変わったのはこの身が老いたことだけにござる」
「そなたも、昔はいくさを駆け回ったか」

 と、神奈子が指先に残った栗のかけらを舐め取りながら訊いた。

「若き日には、……ということにございまする。やはり老骨に、いくさはことのほか“こたえ申す”。この歳になると馬の手綱や弓の弦を引くよりも、先の余興がごとく、女子の舞い歌うておるを見る方が愉しい」
「聞きようによっては、いくさを離れてもなお女からは離れられぬと、そう申しておるように思えなくもない」

 横から茶々を入れたのは、神奈子ではなく諏訪子だった。
 いや、決してそのようなつもりでは……と、恐縮する老人たちを尻目に、会場はにわかに笑いで満ちていく。そして笑いの収まるころ。ひとりの男が笑みもせずに呟いた。

「女、か。男たるもの、確かに女からは離れがたい。其は、いくさ愉しきと並んで毒のごときもの」

 皆の眼が、にわかに男の方へと集まった。口を開いていたのは、トライコである。
 おお、――と、何ごとかを期待するかのような溜め息が漏れる。あたかも、道理ではあった。彼の口から、面白い手柄話が聞けると思ってのことであろう。トライコは、豪族方として諏訪の政に参画してきた者たちのなかでは、断然の『武闘派』である。いかにもいくさに備えているといった風な筋骨隆々といった体躯が、着物の布越しにもよく知れる。先の豪族たちの戦功自慢に対しても、その大柄な身体をいちばんに乗り出して耳を傾けていたくらいだ。

 だが、その表情はどこか冷笑的であった。
 戦功自慢や手柄話に興じようという者のする顔では、到底ない。
 おかしいな、と、最初に気づいたのは諏訪子だった。

 彼女が知る限り、トライコという男は確かに強い。ミシャグジ蛇神の統括者である諏訪子を除けば、彼は個人の武勇でも軍を率いさせても諏訪豪族中いっとうの勇士であろう。だが、天がその強さと引き換えにしたとでも言うべきか、惜しむらくはいささか浅慮のきらいがあった。トライコの勇猛さは、蛮勇と紙一重である。トライコ自身もその軍も、練度は高い。だがその練度の高さは、策の良し悪しなどお構いなしに、真っ先に敵勢へ斬り込んでいくことによる損耗の大きさをも抱えている。それが、諏訪子の持つトライコへの揺るがしがたい評価だ。

 だからそのトライコが、いかにも彼好みの戦功自慢に冷笑ばかり差し向けるというのも、何か不自然な話ではある。少し癖のある髪の毛を鬢付け油(びんつけあぶら)で後頭部まで撫でつけ、額や顔の全面をよく見せるようにしたその髪形とも相まって――彼の表情に浮かぶ不穏は、より鮮明さを増しているように思えてならなかった。

「ところで、女といえばだが。率爾(そつじ)ながらトムァクどの」

 答えなき疑念を弄ぶ諏訪子に気づくことなく、トライコは豪族たちの筆頭へと話を差し向けた。冷笑は、いつか嘲り混じりのものになっているように見えた。彼が頭を動かすたび、鬢付け油の芳香がことさらに鼻を突く。

「何であろう、トライコどの」
「俺はいくさ好みゆえ、歌舞音曲のことはよう解り申さぬが。今宵の宴に引き連れてきた、あの虹河の一座とやら。いったいどこでお目をつけられた」
「何と。歌舞のことが解らぬと言いながら、斯様な問いを」
「ほんの疑問だ。おぬしは諏訪豪族の筆頭ゆえ、これまでも諸所方々の豪族、首長を自らの館に招いて宴を催された。……が。そのときはいちどとして、あの虹河の一座が舞い歌うておったことなどない」
「解らぬなりに自分も欲しうなられたか、歌舞で興を添えることが」

 トムァクは、くだらぬ冗談を受け流すかのように言いきった。
 隣で、彼の長子であるガトがくつくつと笑いを堪えている。明らかにトライコへの侮蔑を含んだ様子であった。だが、侮蔑されている方であるトライコは、いっこうに意に介する素振りも見せない。上座からトライコとトムァクを見下ろす神奈子は、膳の上の柿に伸ばしかけた手を止めた。酔客たちの吐く息で淀んだ酒宴の空気が、愉しみ疲れたというのとはまったく別種の重々しさで満ちていく。いやな予感が、諏訪子はしていた。

 己の前に供された懸盤と高坏をずいと押しのけて、トライコはトムァクに向き直る。
 ちょうど、ふたりは差し向かいの位置関係であった。トライコの動きは、豪族たちの戦功自慢に身を乗り出していたときよりも、幾分はげしい。

「斯様にうつくしき女ども、いったいどこから見つけてきた。そして、いかにして抱き込んだかが気になる」

 う、う、ふふはは……!
 呻くような笑い声をガトが上げた。
 ことの成行きを静観していた豪族たちは、にわかに胸をなで下ろしたみたいだった。末席の老豪族が、しきりに唇を舌で舐める。やはり嘲笑混じりに、「何かと思えば、やはりトライコどのは女が欲しいと仰せられる」と、父の代わりにガトが答えるのであった。

「だが抱き込むというのは、少々、人聞きが悪い。おれども一族の財を投げ打ち、今日この日の宴のために雇ったに過ぎませぬわ。もう直ぐ筑摩に放逐される身、せめて諏訪での暮らしの名残を惜しむ最後の機会こそ、科野国中第一という歌舞を見てみようと思うたがため」

 にンまりと、トライコが歯を剥きだした。
 その言葉を待っていた、とでも言いたげである。傍から見ているだけでも、言い知れぬ不快感を諏訪子は覚えた。おそらく、神奈子も同じ気持ちであったのだろう。ごく小さな舌打ちの音が彼女の方から聞こえてくるのを、諏訪子は気づいてしまったから。ぱん、ぱん、と愉しげに膝を叩き、トライコは何度もうなずく。ガトは何を言えば良いのか決めあぐねていた。トムァクは無表情に相手を見据える。そして、息子の後を引き取るつもりか、ようやく重い口を開くのだった。

「……先ほどから、ひどく持って回ったようなその物言い。言いたいことがあるのならはっきりと申されよ」
「これはこれは。諏訪豪族の筆頭たるトムァクどのに対してとんだご無礼を。いや、なに。おぬしたち一族は、諏訪の地にあってはことのほか謀(はかりごと)に長けておいでだ。生国の知れぬ傀儡子女や巫(かんなぎ)、祝(はふり)。そういう女たちを館のうちに招くのと同じように」
「相も変わらず、話が見えませぬな」
「別段、深い意味はないが。……いや、強いて申せば。その祝もまた、おぬしの“お手つき”ではなかったか。そのように思うてしまったのでな」

 にやと笑むトライコの顔は、ただひたすらに嫌らしいものがある。けれど一方のトムァクは、その嫌らしさのなかから、自分を突き刺す『何か』を察した気配である。さッ、と、彼の顔に朱が差した。瞬間的な怒りが血を上せているせいに違いなかった。わずか声を震わせながら、しかし目元は少しも変わらず冷ややかに、トムァクは答えた。

「何を、ばかな。気は確かか、トライコどの。仮にもこのトムァク、諏訪豪族の筆頭として、累代に渡りて諏訪の政に参画してきた者。そのような素性卑しき者を――」
「その素性卑しき者の御子がよ、今は素性卑しからぬ伴侶を得て然るべき場所に着座しておるではないか」

 ちら、と。
 その瞬間、確かにトライコは上座に眼を遣った。
 じいと見つめていたわけではない。ほんの一瞬ばかり、自分の意図する相手を確かめるための視線であったのだろう。普段であれば、何ということはないつまらぬ仕草であると、心のうちで言いわけをつけることも可能であったはずだ。だが、その場の誰にもそんなことはできるはずもなかった。諏訪子にさえもできなかった。トライコの眼が指し示したものを、豪族たちもまた見、そして直ぐに視線を逸らした。

 あろうことか、諏訪子までもがトライコと同じものを見てしまった。
 彼女の夫である少年が、モレヤが、必死に唇を噛んで皆の好奇に耐えているのを。
 トライコは、なおも話を止めようとはしなかった。もはやトムァクをあげつらうのか、それともモレヤの出自を糾弾しているのか。議論の目的は迷走し、彼自身もまた歪んだ熱に囚われてしまっているように見える。「顧みれば、……」と、トライコは早口に言う。

「顧みれば、これすべておぬしの考え通りのことではござらぬか。自らの手より政が奪われても、自らの血を継ぐ男子が諏訪の政に関わる。少なくとも、これでトムァク一族の面目が喪われることはない」
「トライコどの、口が過ぎようぞ! 諏訪の筆頭豪族に向かって!」
「俺の口が過ぎようとどうしようと、事実でなければ否と申されれば良いことではないか! それとも何か。此(こ)は俺の讒言でなしに、まことの話とお認めになる御所存か? だが、おぬしたち一族が諏訪の筆頭豪族であったのも、今となっては昔の話よ。政が奪われたから、せめても新政に自らの血を残さんと、人質として祭祀の王を送り込んだのだ!」
「御婚儀は洩矢諏訪子さまの御叡慮に基づきしこと。それを今さらつかまえて……」
「はッ。今宵、トムァクどのが諏訪子さまに酌をしたときから、筆頭豪族の権威など地に墜ちたのよ。御婚儀は御婚儀として、トライコも今は認めよう。だがな、トムァクどの。おぬしのひねり出した人質の策など、実を申さば始めからこの俺は好かなんだわ! 諏訪という地の始まって以来、諸豪族が合議の上で神や王を立て、政をするというのが古よりの習わしであったはず。それが見神の才あるとはいえ、どさくさ紛れにおぬしの子ひとりが王となるなど……」

 トライコと、そして父を護るかのようなガトの議論は、議論というよりも醜聞を暴き合う卑しい争論へと色を変えていった。他の豪族たちは、呆気に取られてどちらを諌めることもできなかった。いや、それは。心のどこかで、トライコの『讒言』と同様の疑惑を多かれ少なかれ抱えているということの、迂遠な証なのではなかったか。いま諏訪子の夫として宴の場に着座している九つの少年は、政の都合で王に祭り上げられた。そして、その父親は――。

 激昂した両者はいま直ぐにでも飛び出していきそうなほど、ぎらついた怒りをたぎらせていた。諏訪御所に帯剣禁止の掟があったことは幸いであった。今この場に武器があれば、間違いなくトライコとガトの斬り合いになる。そして、流血の事態となるまで周囲の者たちも止めようとはしないであろう。しょせん、それがこの宴の根底に流れる“腹の探り合い”の行き着く帰結でしかないのだろうから。

「――もう、止せ! 止さぬか、其許たち!」

 気づけば、諏訪子は力一杯に腕を振り上げていた。
 かたわらに在った空の瓶子の首をつかみ、宴の場に向けて投げつけていたのである。
 ひゅッ、と、空中を舞った素焼きの酒器は、にらみ合うトライコとガトのちょうど間に『命中』する。がしゃんと低い割れ音が響き、瓶子は粉々に砕け散った。大小の破片は、容器の内側で酒に触れていた部分が灯明の明かりに照らされて、朧に濡れ光っていた。

「両人ともいま直ぐにその口を閉じよ。聞かぬようなら、疾く、諏訪子の面前より消え失せよ!」

 その叫びで、皆、静まり返った。
 怒りと熱に支配されていたトライコとガトも、身を乗り出すことを止めた。ふたりとも、ばつが悪そうに眼を泳がせる。息子の浅慮を戒めるごとく、トムァクは苦々しげにガトに横目を遣っていた。トライコは眉根に皺をつくると、「口は閉じまする。閉じまするゆえ、酔客のした戯言と思うて、お見逃しくださいまするか」と、急な弱気――あるいはそれも演技みたいなものだろうか――である。

 諏訪子は何も答えない。
 彼女自身、もうどうして良いか判らなかったのだ。自らの主催する酒宴をぶち壊しにされたことへの怒りでも、この期に及んで意地汚く政争をくり広げる諏訪豪族たちの醜態へのいら立ちでもない。脳裏にあったのは、トライコたちの言葉で辱めを受けたモレヤのことだった。洩矢諏訪子のことは、この際、もはや云々はせぬ。ただモレヤの屈辱を、この場で雪いでやることが彼女にはできない。宴の主催者は諏訪子である。だが諏訪の、科野の王は八坂神奈子なのだ。諏訪子の独断でことを為せば――祟りを下すのなら、何より神奈子の面目を潰すことになる。今はただ、黙することしか諏訪子にはできない。

「無粋なものを見せられて……いっぺんに、酔いが醒めたな」

 静まり返った広間に、最初に人の声を蘇らせたのは神奈子である。
 幾分かわざとらしい溜め息を吐きながら、酔って朱の差す頬を掻く。

「酔うた末での諍いというのであれば、未だ許せもしよう。だが、此度のこれはちと酷い。そうは思わぬか。それとも、いちど決まったことを後からあげつらってどうのこうのと揚げ足を取るのが、諏訪における政の“しきたり”か?」

 語調は至って冷静だ。
 酒気を帯びた思考で話をしている神奈子とも思えない。
 だが底の部分に根を張る怒りを諏訪子はつぶさに感じ取っていた。自分の面目を護るための怒りなのか、それともこちらの思いを代弁してくれているのか。今は解らない。解らないながらも諏訪子にとっては、神奈子の言葉こそが寄りかかるべきただひとつのものだった。その言葉をかたわらで口にする神奈子こそが、モレヤと共に寄りかかるべきただひとりの人だったのだ。

 諏訪子と、モレヤと。
 それから会場の諸豪族をゆっくりと見回しながら、神奈子は深く息をする。溜め息ではなかった。東国の王として宣下(せんげ)を、一柱の神として託宣を賜う、そのための息に他ならない。

「この際だ、改めて皆に伝えおこう」

 手のひらで両の膝を叩き、八坂神奈子は宣言する。

「この八坂神の王権は、洩矢諏訪子より受け継がれしもの。そしていずれ、わが後を襲うてモレヤが次代の王となる。いかなる者を母に持とうが、いかなる血を父より受けようが。これよりのちは、ふたりのあいだに続くであろう“洩矢”の血が諏訪の王となるのだ」

 人々の眼は神奈子へと釘づけになる。
 さすがに、千軍万馬の兵(つわもの)たちを率いるいくさ神であった。衆人の耳目を惹きつける声ぶりは、彼女の口にする意見それ自体を超越して、正当性を訴えかける威厳と魅力とを持っている。あるいは、それもまた八坂神の権能であるのかもしれないのだが。

「それ以上に、何を欲することやある。科野、諏訪の地に、そなたたちはいくさ続かせることなおも望むか」

 むろん、――綺麗ごとだ。
 野心に任せて権勢の拡大を、また往時の勢力の復古を目論む者たちは方々に蠢いているはずである。アザギの話も、あながち見当違いと言い切ることはできぬと諏訪子は思う。何を名目にして、誰が争乱を引き起こすか知れたものではない。だからこそ、頼らなければならなかった。八坂神奈子と、彼女が演出するその政権による強力無比の安定をだ。

「八坂の神の、仰せの通りにございまする」

 真っ先に頭を下げたのは、トムァクであった。
 その息子ガトも、差し向かいのトライコも、その他十数名の列席者たちも、みな一様に神奈子に向かって頭を下げる。つい先ほどまで、各々の胸のなかにただならぬ疑念を燻ぶらせていた者たちだとは、到底思えぬ殊勝ぶりであった。「皆、このことをよう心に留め置けよ。諸氏の志を一(いつ)にすることなくば、誰が王になろうと天下(あめのした)の乱れは収まらぬ」と、神奈子は訓戒を垂れた。

「この話はこれまでと致そう。と思うが、諏訪子」
「えっ。え、ええ……」

 唐突に話を振られて、諏訪子は妙にうろたえてしまう。

「今宵の宴を催したは、そなたではないか。事態を先に進めるのも、そなたの責であろうよ」

 あ、なるほど。
 と、つい彼女は無言にうなずいた。
 改めて豪族たちへ顔を向け、咳払いをひとつ。

「トライコ、ガト。此度は酔った勢いでの発言、宴の席での悪い酒と思うて“目こぼし”を賜おう。が、憶えておけ。二度目は、きっとないぞ」
「承知つかまつりました」
「……まことに、舌禍。浅慮のほど、よくよく反省いたしまする」

明らかに不本意な様子であるが、ふたりの豪族はそう約したのである。

「さ、さてさて! 皆さま、騒ぎも落ち着きましたところで! またあの傀儡子女の歌舞を見とうてならぬとは思えませぬか!?」

 末座の老豪族が、歳に似合わぬ素早い動作で立ち上がり、皆に向かってそう言った。続いて、口では傀儡子女たちの歌を口ずさみながら、身振り手振りは舞をしきりに真似ている。むろん、素人の真似ごとが本物に遠く及ぶはずもない。懸盤に足の小指を思いきりぶつけて、突然のことに「い、痛っ」と転げるのが関の山だった。

 彼の間の抜けた仕草に、冷たく沈鬱としていた空気もどうにか当初の熱を取り戻していくようであった。諏訪子も、老豪族の拙い気遣いを素直に面白いと思った。他の者たちと共につい吹きだして、声を忍ばせながらも笑ってしまう。

「老身に無理をなさるな。だがそなたの熱演を見ていると、我までも虹河の歌舞が恋しくなる。諏訪子、」
「はい」
「人を遣って、またあの四人を連れてきてくれ」
「承知いたしました」
「そなたが投げつけた瓶子の片づけもな」

 冷静に考えれば、口論を止めるために瓶子を投げつけるなど不作法きわまりないやり方だ。そのことに気がついて一瞬言葉に詰まりつつも、ひとまず諏訪子は神人をひとり呼びつけ、虹河の一座を再び広場まで召し出すよう申しつけた。彼が駆けだしていくのも待たず、人々はまた各々の立場の会話に打ち興じている。一時は収まっていた酒の香も、再び高らかに漂い出していた。あの老豪族は、末座にてまだ下手くそな舞の真似ごとを続けている。

 諏訪子は、しかし、そんな宴の情景にはもう興味がなかった。
 自らの夫に、モレヤにどんな言葉を掛けたら良いのか。そのことばかりが喉の“つかえ”のように、彼女の意思を塞いでいる。わずかに身を乗り出し、神奈子の向こうに席を占めるモレヤを見ようとした。泣いてなどいなかった。彼は耐えきったのだ。子供とはいえ、今日の屈辱を腹に据えて。その彼に、神奈子が何かを語っている。耳をそばだてて聞いた会話の断片は、八坂神奈子への嫉妬――否、それよりも、純粋な羨望の気持ちだけ、洩矢諏訪子に思い出させる。

「案ずるな。まことの父が誰であれ、そなたは確かに諏訪子の夫。そしてこの八坂の子も同然だ。斯様にくだらぬ謗りを、気に病むことはない」


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