Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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 このたびの行幸の目的は、第一に八坂政権の威を科野の民衆、および諸豪族に見せつけることであった。しかし同時に欠かすことのできないもうひとつの目的が、科野諸州の国情視察である。各地の農事に商事、土地の利用、河川の護岸や田畑の灌漑(かんがい)、政の実態を、王のその眼でつぶさに観察するのである。

 軍勢は諏訪を抜けると東に進路を取り、八ヶ岳の威容を臨みながら佐久郡に入った。その後、小県と埴科の二郡を経由し、高井郡では、たびたび国境を侵すという北方の荒蝦夷たちとの戦いに備えて築かれた城を訪れた。当地の豪族に、軍神八坂を祀ることへの許しを与え、加護と戦勝とをもたらすことを約すと、道筋を折り返して水内郡へ抜ける。その後は安曇と筑摩を通って更科へ。そして幾度も氾濫を見てきたという筑摩川(ちくまがわ)の様子を確かめ、後々のために護岸の普請を計画すると、伊那を通って再び諏訪の湖を見たのであった。

 旅程は、実に二十日ほどもかかったであろうか。
 その間、どこの郡を見ても八坂神に対する叛乱ひとつ起きなかったのは、実に奇跡的なことだったかもしれない。むろん、神奈子がこの結果に満足しないわけがない。自らの思うところの政が確実に執行されつつある証であると、彼女は大いに喜んでいる。そんな風に、同道した洩矢諏訪子には見受けられたのである。

 ひと月近い旅を終えて諏訪に戻ってくると、秋が深まったというよりも、冬がひたひたと近づいてきているといった方が良かった。もう九月は過ぎ、十月(旧暦十月は太陽暦の十一月に相当)も頭に入っている。田に波走る稲穂の刈り入れも終わり、山々の紅葉の盛りも終わりかけだ。風寒く、思わず自分の肩を抱いてしまいそうなほど。ときに十月は諸国の神が出雲に集って語らうとされる『神無月』であるけれど、この年、行幸のために諏訪の神無月は九月であったとするべきかもしれない。そして十月に入ったことで神奈子と諏訪子が共に帰還し、当地は再び『神在月』の地ともなった。

 旅の終着点は、言うまでもなく政所たる諏訪の柵である。

 しかし城に帰りつく数日前、一行が宿所として入ったのは洩矢諏訪子直轄の御料であった。かねてより計画されていた、新政発足を祝する宴のためだ。諏訪の湖を挟み、諏訪の柵をおよそ南方に見る北縁の土地に諏訪子の御所はある。将兵は土地の民家へ宿を借り、あるいは野営へ。即席づくりの竈(かまど)から立ち上る煙は、冬近い諏訪の夜にたなびく温かな狼煙(のろし)のようである。けれど――、諏訪子たちが身を置いたのは、兵たちと同じ場所ではなかった。諏訪御料のうちには彼女の御所がある。すなわち、洩矢諏訪子が人質として諏訪の柵に留め置かれるより前に身を置いていた、紛れもない『古巣』なのだ。

「まこと、お久しうございまする。以前と変わらぬご健勝ぶりを拝察いたし、祝着至極に存じ上げ奉りまする」

 ようやくの諏訪入りを果たした諏訪子に、懐かしい臣下は深々と頭を下げた。
 謁見の間で、王の占める席として一段高く据えられた上座を、諏訪子自らが温めるのはほとんど一年ぶりだ。だというのに、着物の裾や袖で擦るごみや埃さえ座にはひと粒も落ちてはいない。床に張られた板を見れば、いま張り替えたばかりというようにぴかぴかに磨き上げられていた。臣下たちが、ただ漫然と自分の帰りと待っていただけではないということが、諏訪子は純粋に嬉しかった。

「諏訪子さまが囚われたと耳にしたとき、一時は自害さえ考えておりました。しかし何につけ、時節の到来というものは耐えて待つべきであるのかも知れませぬ」

 よく落ち着いた声には、何かしっとりと濡れたようなものがある。自らの主――洩矢諏訪子の帰還を、彼もまた喜んでくれているのであろうか。しかし嬉しさのあまりにせよ、彼は涙を流さなかった。「面(おもて)を上げて良い」と諏訪子に命じられた彼の両目は、貝の殻か礫(つぶて)のかたまりのように、固く閉じられていたのである。

「久しいな、アザギ。そなたもまた、相変わらずの健勝ぶり。わが御所に仕える他の神人(じにん。古代から中世の日本において、神社に仕えて神事や雑役に携わった下級の神職)たちにも、特に変わりはないか」
「何の変わりもございませぬ。ただ、諸方の豪族方より名代(みょうだい)として遣わされていた祭祀の者たちは、八坂の神による御新政発足のみぎり、御所を放り出してさっさと郷里に逃げ帰ってしまわれましたが」
「ほう。……しょせんは政を手にするべく、形のみ神を祀っていたに過ぎぬ者たちよ。居なくなってくれた方が、わが家も多少は広くなるというもの」
「その広くなった御所のうちで、神人たちは今宵の宴に向け、みな忙しう立ち働いております。諏訪子さまが八坂神の城に御身を置かれているあいだにも、正式の祀りでこそないながら、われら一同、祭祀を絶やすことなくあなたさまのお帰りをお待ち申し上げておりました」
「それは何より。儂が御所を離れているあいだ、色々と苦労もかけたことであろうが、今日まで大過なく過ごしてこられたは幸いであった」

 諏訪子の言葉に、アザギと呼ばれた神人は再び辞儀の仕草を見せた。

「で、だ。さっそくではあるが、御料のうちにて田畑(でんばた)の具合は、今年、どうか。行幸のために科野諸州を経巡るあいだ、具合を知ること叶わなかったが」
「は。大いに豊作にございまする。農民みな喜びて、一日たりとて豊年祝いの傀儡子囃子が鳴り止んだ時もなき有り様。供御として御所に貢納される分を除いたとしても、米の出来高は昨年より多く見積もられておりまする。この分なれば、冬を間近く控えて一、二回は諏訪に市が立つかも知れませぬ」
「市か……今回は米を介した商いとなろうな。とすると、何か適当な祭りを催した方が人は集まろう」
「すでに各村の顔役たちより懇請の声が幾つか。祭りの口実としては諏訪子さまご帰還の旨か、あるいは豪族方からの“解放”を祝うものが良いかと思案を致しおる次第にて」
「なるほど。しかし後者なれば、出雲人とも折り合いをつけねばなるまい。それをやったのは、八坂の神であるのだから」

 アザギはやはり眼を閉じたままで、唇だけで笑んでみせた。

「今の八坂神の政は、諏訪子さまを諏訪の豪族方より助け出したという建前の上に立っておりまする。なれば、われらが諏訪子さまの解放を祝う祭りは八坂神の“正しさ”を証する絶好の機会。向こうにこれを断る理由はございますまい。此度の行幸でも、科野各地でたっぷりと“施し”を行うて来たのでございましょう」

 言って、再び軽く頭を下げたアザギであった。
 今度は諏訪子が唇に笑み、どこか皮肉げな顔をする。

「相も変わらず耳早き男よ、アザギ。われら行幸の行く先、どこで見ていた」
「ご冗談を。あなたさまにこの両眼を潰されて以来、眼にてものを見ること能わざるわが身なればこそ、耳を研ぎ澄ますことが神人の頭(かしら)としてのアザギの生業」

 眼か……と、諏訪子は思わず指先で自分の目尻を撫でてしまった。

 彼女がアザギという男を盲(めしい)にしてから、もう十一年近くにはなろうか。
 彼女のなかにも、アザギの視力を奪ったことに対する罪悪感がないではなかった。
 神に仕える身なればこそ、尋常の人と同じ肉体、同じ感覚をしていてはいけないのだ。だからこそ諏訪子は、アザギが七つの歳だったとき、彼の眼を潰した。盲人となって俗界を見ること適わなくなったとき、代わりにその潰れた眼で幽世(かくりよ)を垣間見ることができるようになると期待して。だが、結局アザギには何の霊感も備わることがなかった。ミシャグジ蛇神の声を聞けるようにもならなかった。彼は祭祀者としては何の才能にも恵まれず、どこまでも無能だったのである。いかに実務に優れ、諏訪子に仕える官吏として神人頭に取り立てられても。

 アザギという男には、荒削りな聡明さがあるのだと諏訪子は思う。
 学問を積んだり帝王のすべを身につけたとかいう、洗練された聡明さではない。
 生きる場所を得ようとし、自らの力で生きんと欲し続けた証とでも言うべきもの。ある意味で、アザギは諏訪子にとって『わが子』とでも言うべきものであった。それが、幼いころから傍においていた寵臣への純粋な親愛か、それとも彼の眼を潰すために手にした針の痛々しさに抉られる、負い目の発露であったか。諏訪子にも、よくは解っていなかった。

「アザギ」
「は」
「其許は、いま幾つになったか」
「十八にございまする。年明ければ、十九」
「そろそろ、嫁取りを考える気はないか」
「盲のアザギを婿にして嬉しい女子など……」
「いやいや。人の心は変わり易く、移ろい易きもの。はじめは盲を嫌うていても、心改めてそなたに一生を捧ぐ女子は、きっとどこかに居ると思うが」
「さあ、それは。私は“眼なし”の分、耳の良さについては自負しておりまするが、そのような快き噂はいちども聞いたことがございませぬ」

 アザギという臣下は、諏訪子が何を問うても直ぐに答えてみせるのだ。
 政から他愛のない冗談までも。
 彼の口ぶりには、淀みらしい淀みもなかった。数え十八の少年であるその顔を見れば、きりと鼻筋の通った顔は確かに年相応に若々しく、瑞々しい精気のほとばしりがあった。しかし、声を聞くならまったく老成しきった五十路の男と思えるところもある。顔つきに不釣り合いであるその奇妙な声が、彼を単純な意味での美男子からひどく遠ざけていた。後ろ頭に流し、紐でひとつ縛りに結び留めているその長い髪の毛は、彼が諏訪子の言葉に返事をし、うなずいたりするたびに少しずつ揺れた。ただ同時に、彼の両の目蓋は諏訪子に何を訊かれても、どんな答えを返しても、いつまでも閉じられたままだった。まるで、肉と肉とが融けてくっついてしまったかのように。

 アザギに嫁取りを勧めたのは、ほとんど償いのようなものである。こうして、御所のうちに設えられた謁見の場で近臣と話をすると、今まで意識もしていなかった過去の負い目や何かが思い出されてしまうのだ。それだけ、自分はこのアザギという男と距離を置き過ぎてしまったのかもしれないと諏訪子は思う。

 逃げるようにして、彼女は冗談を続けた。

「誰か気の合う者と手を取り合うて、夫婦となるは良きことぞ。この諏訪子も、モレヤという伴侶を得て蒙の啓かれる思いであった」
「なるほど、諏訪子さまはアザギに向けて惚気を仰せになりたいのですな」

 にッ、と、アザギは唇を歪めた。

「己が伴侶を持てば、自ずと他人(ひと)の惚気も愉しうなろう」
「モレヤさまと仲良きこともまた、祝着にございまする」

 諏訪子もアザギも、込み上げてくる可笑しさを堪え切れずに、微笑を交わし合うのだった。ひとしきり笑った後、「モレヤさまは御所のうち、すでにご自分の宿所にお入りになっておられる由」と、アザギはつけ加える。

「九つの御子には、二十日近くの行幸は疲れも溜まりましたことでございましょう。諏訪の柵への再びのご登城まで夫婦うち揃いてご逗留され、旅の疲れを癒してくださりませ」
「なぁに。わが夫モレヤも、あれで八坂さまに武芸を鍛えられておる。そうそう弱音を吐くこともあるまい」

 お、そうだ……と、諏訪子は膝を打った。
 今の今まで忘れていたことを改めて問うみたいにして、彼女はアザギの顔を見る。

「八坂さまも、すでに宿所でお休みか。あの方も、そうそうジッとしてはおられぬ性質(たち)。暇を持て余せばあちこち歩き回られ、御所修築やら宴の指図を自ら取ると仰りかねぬ」
「ご心配なく。八坂さまも、すでにご自分の宿所にお入りにございまする。未だいちどもお部屋からお出にはならぬという話でございますから、きっと政についてあれこれと考えておいでなのではと」
「ならば良いが。諏訪子が神なら、八坂さまもまた神。よくよく粗略なきように心掛けよ」

 再び、アザギは深々とひざまずいた。
 この場で話すべきことは、みなすべて話し終えたと諏訪子は思う。アザギとのあいだの奇妙なぎこちなさも、再び御所を出で諏訪の柵に帰りつく日までには、少しは元通りになってくれるだろうと考えながら。

「久しく会うておらなんだ其許と話をするは、愉しかったぞ」
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じ上げ奉りまする」

 諏訪子は、おもむろに立ち上がった。
 なおもひざまずくアザギの真横を通り、自ら扉を押し開いて謁見の間より出ようとする。ぎい、と、木の扉が軋むと、一日の短くなった秋の日差しが、ゆるやかに彼女の視覚を撫でていく。眩しさに思わず手をかざす。

「秋とはいえ、空を見上ぐれば日差しは眩しい……」

 と、諏訪子は独語した。
 そのとき。

「日の光の眩しさが解らぬ盲でも、眩しさゆえに追いすがること叶わぬものがございまする」

 そのように、アザギが呟いたのである。
 名残を惜しむような、自分を置いて遠くに行ってしまう親を探す子供のような、――悲痛な声色。心のうちに泣き濡れているのか、とは、諏訪子には訊けなかった。

「何の話だ、アザギ」
「“眩しさ”の話にございまする。追いつくこと叶わぬ眩しさの」

 何か……秘密を持っているな。
 そう思い、いちど押し開いた扉を再び閉じた。自らの座には戻らずその場で振り返り、アザギの姿を検める。彼もまた姿勢を変え、諏訪子とは正面から相対するかたちになっている。

「辺りに誰かが居る様子はない。……申したきことがあるのなら、この際だ、申してみよ。諏訪子とアザギの仲と思うて」

 アザギのもとに歩み寄り、膝立ちになって諏訪子は訊いた。
 神人頭は微動だにしない。けれどその代わり、少しだけためらいが走っているようでもある。ごくりと、アザギが唾を飲み込む音が聞こえた。汗をかいている様子もないが、どうやら、かなり緊張しているらしかった。

「今から申し上げることは、不遜きわまる讒言(ざんげん)のごときものにございまする」
「ばかめ。今から讒言をすると称して行われる讒言がどこにある」
「諏訪子さまがそのように仰せであっても、此は疑いなくアザギの口による讒言。それでも、諏訪子さまはお耳に容れる覚悟がお有りでございましょうか」
「くどいな、アザギ。讒言と明かしての讒言など、諫言(かんげん)とさほども意味を違えるまい。不遜であっても、不忠ではないと思うことにする」

 再び、アザギは唾を飲み込んだ。
 今度の彼はひざまずかなかったが、代わりに見せた仕草は首肯であった。
 何があるかと諏訪子は思う。だがいずれにせよ、アザギは幼少から自分に仕えてくれた第一の近臣なのだ。わざわざ自らの言葉を『讒言』とまで称するうえは、よほど深刻な意図があるに違いないと察せられる。

「諏訪子さま」
「うん」
「あなたさまはいったいいつまで、八坂さまにつき従うておられるおつもりにございまするか」

 瞬間、――諏訪子は自らの息が止まったかのように思われた。
 いかなる意味か、という言葉を、口に出す寸前でどうにか飲み込む。うかつに何かを話すことさえも、この場では不適当ではないか。そんな怖れが兆したためであった。

「アザギ、其許は……」
「先に、アザギは讒言を口にすると申し上げました」
「しかし、その意図が見えぬでは」

 ぎゅうと両手を握り締め、諏訪子はアザギの正面に座り直す。
 もう上座と下座もない。王も臣下もどちらも同じ床の上に座り込み、己の思うところを腹蔵なく晒し合う。そういう構えであった。そして最初の腹のうちを見せたのは、アザギの方である。

「諏訪子さま。諏訪の柵をお出になり、こののちは以前の通り、この諏訪御所に御身置いていただくことは叶いませぬか」

 む……と、唇を尖らせる諏訪子である。
 確かにこの地は諏訪子直轄の御料、その中心たる府は古よりの政の中枢であり、“諏訪さま”を祀る神殿であった。いわば諏訪子の本当の郷里、本当の実家みたいなものである。懐かしき土地柄、懐かしき人々もたくさん居る。諏訪の天地を恣(ほしいまま)にしていた豪族たちの力が削がれつつある今、一時的な『里帰り』というだけで帰ってくるには、確かに心に在る郷愁はひどく鮮やかと言うほかない。しかし。

「……確かに、儂もわが御料、わが御所を眠りのうちに夢見る晩とて幾度もあった。しかしここに至りて、帰りたいと駄々をこねてそう容易く帰ることのできる場所でもない」
「なぜ」

 と、アザギは膝を乗り出した。
 諭す声音で、諏訪子は続ける。

「洩矢諏訪子は、すでにして前諏訪王(さきのすわおう)。いま諏訪の――否、科野諸州の政を握っておられるは八坂の神。その八坂さまの城こそが、現今の政の府であり、神殿なのだ。それに、この身にはすでに御新政に加わるための“亜相”の官をも帯びている。それなるわが身が、古巣たる御所にばかり身を置いていては、いずれ政に障りがあろう」
「先ほど諏訪子さまは、御自身も神、八坂さまもまた神であると仰せになりました。ということは、諏訪の柵が神殿であるなら、この諏訪御所もまた神殿であることは同じうしていると申し上げねばなりますまい。物事の道理から申さば、むしろ異邦の神であらせられる八坂さまの方からこの御所に足をお運びになり、諏訪子さまを拝する礼を取らねばならぬものを」
「だから、諏訪子に帰ってこいと申すか。……いつからか、屁理屈が上手くなったのう、アザギ」
「おからかいなされますな。私は心底から、諏訪子さまが“まことの諏訪王”としてお起ちあそばされる日のことを考えているのです」
「まことの……諏訪王?」

 いよいよアザギの腹は読めなかった。
 眉間にしわを寄せながら――今度は諏訪子の方が、彼に向けて膝を乗り出す。

「どういうことか。昔日の諏訪子や今の八坂さまは、まことの王者に値せぬと申すつもりか」

 諏訪子の問いを引き取って、アザギの眉がぴくりと震えた。
 その下では固く閉じられたままだった彼の両の目蓋が、ようやく意思のままに動き出す様子もある。彼は彼の眼のなかで、彼だけに見える光、諏訪の行く末を照らすものを感得しているのかもしれなかった。アザギは、まったくの盲目である。けれどその顔は、確かに諏訪子を正面から見据えて止まない。見えないはずの眼が、目蓋の下から諏訪子を確かに捉えている。

「王者の呼び名に値せぬ王者……なるほど確かに、豪族方に祭祀を握られ、政を奪われしはまことの王とは呼べぬものだったかもしれませぬ。しかし、今もまたどうか。諏訪というひとつの天をふたりの王が治むるは、尋常の事態ではございませぬ」

 ぎりと、諏訪子は奥歯を噛んだ。

「アザギ、よう聞け。……今の諏訪は、まったく八坂さまおひとりのお力によって成り立っているわけではない。科野の諸豪族と御新政とを結びつけているは、利害の一致に過ぎぬ。そして彼らに帰順を促すものは、この洩矢亜相諏訪子が第一に御新政に参じているという明々白々たる事実そのもの。砂上の楼閣は、砂ひと粒さえも土台より取り除かば崩れ始めよう。諏訪子ひとりが御所に帰っただけでも、御新政へ叛き奉らんがための行いであると、天下(あめのした)には見られる怖れもある。それを思わば……」
「それはアザギもまた承知のうえ! しかし、神がいつまでも自らの神殿を空にしたままでは、人々に示しがつきますまい。諏訪子さまが御身におかれましては、やはりこの御所を真なる城と据え、御料において御自身の政にお力を振るわれるべきかと存じ上げ奉りまする」

 細く、絞ってあるアザギの声。千余の針を意識のうちに突き刺されるかのような、痛々しい衝撃が諏訪子を貫いた。科野行幸が始まった日、ミシャグジたちが神奈子への怒りを露わにし、侵略者と烈しく糾弾していたことが、否が応にも思い出されてくる。アザギのような第一の近臣が、幼いころから面倒を見ていた彼のような男が、やはり八坂神奈子への静かな怒りに燃えている。思わず、諏訪子は舌打ちをしてしまった。けれど向かい合うアザギは幾らの不快も見せず、また意に介する様子もない。いつも通り、静かに口を開いた。

「人の心は変わり易きものと、諏訪子さまは仰せになりました。なるほど、未だ事は諏訪という嫁が、誰が行う政のもとに婿入りするかの瀬戸際と呼ぶべきかと心得まする。今でこそ科野の豪族、諏訪の民人は、八坂さまの政に靡いております。しかしながら、それは利害を同じうし、また苛政より解き放たれたという熱気が招いたもの。人々がそうした熱から醒める日が、いつか必ずやって来ましょう。そうなれば、今までのごとく何の滞りもなく出雲人の政が行われるとは限りませぬぞ」

 何も言い返さず、諏訪子は黙ってアザギの意見を聞いていた。
 彼の言うことにも一分の理はあると思ったからである。八坂神の新政権は、ここひと月ほどのうちに本格的に発動したばかりのもの。それが、人々に受け入れられるものとなるかどうかは未知数と呼ぶべき部分の方が大きいのである。未だ計画の段階にあり、実行に移されていない施策や政策も数多あろう。その帰結、その趨勢(すうせい)が定かならぬ今、後々のことを考えて行動を起こすのは、まったくもって正しいことだが。

「ともすれば、どのような不満や不安を口実にして、いつ何どき叛乱が起きるか判りませぬ。もしそうなったとしたら、あなたさまもまたいくさに巻き込まれる怖れがありまする。いや、場合によっては諏訪人民がため、御新政に弓引く事態になることさえ有り得る。ゆえに諏訪子さまにおかれましては、なるべく早き日を選びて諏訪御料にご還幸(かんこう)あそばされ、いかなる政変や叛乱、戦火にも耐えうるだけの地盤を固め直さねばならないのです」

 何につけ、アザギの言うことにはいちいち理があった。
 洩矢諏訪子という王が、未だ諏訪王として在り得た時代であれば、彼の献策には一も二もなく同意したであろうと考えるほどには。けれど、と、“今の”諏訪子は思う。洩矢諏訪子と八坂神奈子――どちらか一方が王道を誤ったときには、もう一方が討つ。確かに、ふたりはそう約束をしたのである。それを……神奈子に対する人心の離反を見越して諏訪子の方から動けとは、それこそ友に対する最大級の背信ではないか。

 諏訪子は、アザギを叱りつけたかった。
 心の有りようというものが、道理や正しさだけで動くものではないのだということに、人も神も関係がないではないか。けれど、彼女にアザギを叱ることはできないのだ。一柱の神としての責務と、ひとりの少女としての誇りが心のなかでせめぎ合い、古びた糸のようにほつれ、互いに絡みつき、どんどん形を喪っていく。彼女は、だから、うつむいて声を絞り出すことしかできなかった、

「御新政に弓を引く、とはな。いちどは放逐に成功したトムァクたち豪族どもと再び手を結び、八坂さまに対抗せよと申すのか」
「否。豪族方の勢力がこの諏訪から駆逐されつつあるからこそ、諏訪子さまは新たに王としてお起ちあそばされねばならぬということ。豪族方にも出雲方にも与することなき、まことの諏訪王国を築きあげるために」

 アザギの声は、熱意が籠っていた。
 彼の言うことが単なる讒言や中傷ではなく、彼なりの知見を持っての進言であるということは、もはや疑うべくもない。しかも蛇神たちほどの殺気をまとった意見ではないにせよ、確かな論拠を持った批判である分だけ、アザギの進言ははるかに峻厳なものがある。峻厳が過ぎて、痛々しさまで感じるほどに。彼は、確かに盲目であった。諏訪子と諏訪子を王とする国家のみを夢見、それ以外は見ようとしない、盲目なまでの忠臣であった。

「確かに……確かに諏訪子も、いつの日にかあのお方の膝下を出で、自らの政に復帰する日を幾たり夢想したことか。しかし、それはもう昔のこと。今はただ、一心に科野州の政の平らかなること、人心の安らかなることを願いながら、八坂さまをお支えする前諏訪王というに」
「何というお弱きお言葉か。洩矢諏訪子さまは……いいえ、“諏訪さま”こそは永代に諏訪の王なるお方。“諏訪さま”の前に諏訪王なく、“諏訪さま”の後にもまた諏訪王なし。八坂の神とても、ご夫君たるモレヤさまとても!」

 にわかに激するアザギの声音には、かすかな嫉妬の色が混じっている。
 相手が盲目の彼ゆえに、自分の顔が嫌悪に染まっていくのが気取られないことがさいわいであると、諏訪子は思わないではいられなかった。付き合いがそれなりに長いからこそ、アザギの感情の機微というものを彼女はよく心得ている。どうしようもなく嫉妬に駆られてしまったとき、自らの激情が抑えがたくなってしまうという彼の悪癖のことまでもだ。

 議論を重ね、アザギが激すれば激するだけ謁見の間の空気に重々しい澱(おり)が沈み、どうしようもなく淀んでいくような気がしていた。一刻も早く、諏訪子はこの場から逃げ出さなければいけなかった。早くモレヤに会いたいと、ただそれだけを考え始める。退出の意思を言外に示すかのようにゆっくりと立ち上がると、彼女はもういちどアザギを見下ろした。彼の方でも足音を耳にしてそれと察し、諏訪子へ向けてグイと面を上げていた。

「諏訪子さま、この両の眼をよう見てくださいませ。あなたさまが御自らのお手で潰された神人の眼を。いっさいの光を喪うて、それでもなお諏訪子さまのお姿だけは見んとせねばならぬ、このアザギの眼を」

 がちがちと上下の歯の列を打ちつけながら、アザギは絶えず震えている。
畏れか? 否、憧憬なのだ。眼の前に確かに諏訪子が立っていると知りながら、決してその姿を見ることはできない。だからこその憧憬である。

 彼の両眼は今ようやくはっきりと開かれ、目蓋の下に在る眼の珠が諏訪子の顔を見上げていた。とは言っても、盲人である彼に諏訪子の姿が見えているはずはない。赤黒く不揃いな形をした花弁のようなもの――かつて彼の瞳だった器官を取り巻くように、アザギの眼には膜にも似た白い濁りが張りついている。年月の経過を経て半ば黄ばみ始めてさえいるその濁りは、見えぬ眼ながらも過つことなく、自らの神を見上げていた。

「この眼が潰れるより前、私が最初で最後にご拝顔叶いし“諏訪さま”のお姿は、今でも脳裏に焼きついて離れることありませぬ。“諏訪さま”が洩矢諏訪子となり、今こうして御自らの御所に帰りつかれてもなおあの八坂の神と歩みを同じうすると申されるのなら、もはやアザギの記憶から、“諏訪さま”のお姿は見えなくなりまする。あまりにも、その背が眩しすぎるがゆえ」
「ならばその腰にしたつるぎで、儂を斬るか。自らの意に沿わぬこの諏訪子を、“裏切られた”と泣き叫んで斬り殺すか」

 自らの腰に提げるつるぎの柄に、アザギは手を掛けんと試みる。
 歴史上、神人という階級は社頭や神事の警備を行う関係から、武器を身に帯びる権利が認められていたという。主である諏訪子の面前にまかり出るときであってもなお、こうして帯剣を許されているという事実そのものが、アザギに対する諏訪子の信任の表れであろう。同じほどにアザギも諏訪子を信仰し、それがために彼は諏訪子をただひとりの諏訪王に据えようとしたいに違いなかった。

アザギは手のひらも指先も震えきり、抜剣はおろか柄の在りかを突きとめることすら難儀しているのである。それは、彼が盲であるからという理由だけでは、きっとなかったはずである。大きくいちど、息を吐いて、彼は言った。

「……殺せませぬ。アザギには、殺せませぬ。私は裏切ることをしたくない。たとえ諏訪子さまに裏切られようとも、自ら裏切るということは」

 彼は、幾度目かひざまずいた。
 アザギの醜態を見下ろす諏訪子の軽蔑は、いつか憐れみに変わっていく。
 この憐れみは、もう何度も彼に対して抱いたものだ。かつて恋だったかもしれない、しかし、恋というにはあまりにも不完全に過ぎる情愛だった。彼女は、薄らとだが思い出す。かつては、あれがわが夫になるのだろうかと思っていた時代もあったが。しかし、今となっては詮無き思い出。神霊の姿を見ず、神霊の声を聞けぬアザギは、神と契り、神との子を成し、神の血を継がすには相応しからざる男であった。だが、――だが彼は。今もなお、諏訪子を恋うているのだ。眼の見えぬ自らの標となる、ただひとつの光明として。

「アザギは盲にございまする。ただの、盲にございまする。この眼に神の姿を見、神の声を聞きさえすれば、私の心の一片も諏訪子さまに伝わったかも知れませぬものを。しかし、それは叶わぬこと。叶わぬことゆえ、こうして政の場にて、この命果てるまであなたさまにお仕えする道を選んだのです。その私が、何ぞ諏訪子さまを裏切ることができましょうか……!」

 一度、二度。
 両手を握り、また開いて、諏訪子は言った。

「其許のな、アザギ。……そういう女々しいところが、儂は嫌いなのだ」

 くるりとアザギに背を向けて歩み――部屋と廊下とを隔てる扉に諏訪子は手を掛けた。扉を開くと、さっきまであんなにも眩しかった太陽に、霞ほどにも薄い雲が群がって、地上への光を弱めている。

「許せ。諏訪子が追い求める光と、アザギが欲する光は違う」
「構いませぬ。しかし、よくよく憶えておくべきかと存じまする。八坂の神の御新政が破綻を迎える“その日”がやって来たとき、諏訪子さまの選ばねばならぬ道はふたつにひとつ。異邦の神に殉ずるか、諏訪のために矛を取るか」

 諏訪子は、もう何も答えなかった。
 ひとことも返すことなく謁見の間を出、十月の諏訪の空を見上げていた。
 懐かしい色をしているはずの秋の空は、今日だけひどく重々しい。アザギの示したふたつの道が、その心に否応なく圧し掛かっているからであろう。

 廊下を歩きながら、諏訪子は己に問い続ける。

『その日』が――諏訪の御新政の破綻する日がやって来たとき、果たして諏訪人民を救うために八坂神奈子に刃を突き立てる覚悟が、自分には本当にあるのだろうかと。


――――――


 諏訪御所は、かつて諏訪における政の府にして、同時に洩矢諏訪子を祀る神殿であり、また王宮でもあった。下諏訪一帯を肥沃の地と証する数多の田地田畑が、もし大樹から伸びる若い枝葉であるとするのなら、政のうえでも人々の信仰のうえでも、土地の中心として年経た幹の役を負っているのが諏訪御所だったとでも言えるかもしれない。

 拝殿は謁見の間と諏訪子にとっての私的な居住空間をも含み、また御神体の保管される本殿を、ぐるりと取り囲むようにして造営されていた。一方で、客人たちのための宿所もまた拝殿において、蛇がとぐろを巻くごとく幾房かの連なりを見せている。機能を大別するなら拝殿は公という『外』に向けての、本殿は聖所として『内』に向けられた空間ということにでもなるだろうか。

 拝殿が公の空間なら、諏訪子とて王らしく威厳ある振る舞いというものをしなければならないのだろう。しかし、いま彼女の足取りにはいら立ちとも寂しさともつかない、じわと染むような不安が詰め込まれていた。ひと足踏み込むごとに、廊下の板がみしりと不快な軋みを上げる。まるで逃げ出しでもしたかのような気分だったのだ、謁見の間より出た彼女は。

 懐かしい古巣、自らの城。

 出雲人との戦いで損壊した箇所を修築する槌音の高きも、年ごとの豪雪に耐えるために備えられた急峻な切妻屋根も、庭先へ小虫を啄みに飛び来たる雀の群れも、ここにあるものはみなすべて自分の掌中に等しいものだというのに。それなのに、奇妙な疎外感に襲われる。自分ひとりの心さえ、いずれままならぬものだという事実。時局と利害を最優先すべき政の場において、より正しきを見据えなければならないという王者の宿命。諏訪の地で政の実権を握っていた豪族たちの専横も、今や昔日のものとなりつつある。しかし、いざ自分の元に政が帰ってくると――それは重々しく、鋭い棘で満ちているのだ。

 殺せるのであろうか、わたしに、八坂神奈子が。

 盟約は、盟約だ。
 どちらか一方が誤った道に進んだとき、もう一方が刃を振るうのだと。
 しかし……とも、諏訪子は自嘲する。ふ、と滲む笑いを、拝殿の廊下で神人に見られ、すれ違いざまに怪訝とも驚きとも取れない顔をされてしまう。もし“間違った”のがわたしの方だったら。そうであるなら八坂神奈子は、この首に過たず御剣の鋭きを喰らわせることができるだろうか。

 本当に、そうなら良いと諏訪子は思った。
 急速に吹きだし始めてしまったものは、このひと月のあいだ上手く御しきれていたはずの、神奈子への一方的な嫉妬の念だ。モレヤが、いずれ養子として彼女のものになってしまうのではないかという。そして諏訪子自身、今はそのモレヤの元へ向かおうとしているのだ。自分の夫が、疑いようもなく自分ひとりの夫であると確かめたいかのようにであった。そして、神奈子にはそんな意地汚い諏訪子を罰する権利があるのだと思う。否、あって欲しいと、彼女は願ってさえいるのかもしれなかった。

 自分の嫉妬は、それだけで神奈子を殺すことができるほどの鋭さではない。
 政のためという大義の助けを借りなければ、ろくに物も斬れない、なまくらの刃だ。振りかざす正義を鋭利なものとする砥石の正体が、己の嫉妬であってはならない。けれどその嫉妬を除いたとき、洩矢諏訪子には八坂神奈子を誅殺するに足る正義が、本当に残っているのだろうか。そして、それは残っていても良いものであろうか。

 しょせんは無為な思索である。
 まだ『天下のために神奈子を殺すか否か』という瀬戸際になど、立ってもいないのだから。だというのにミシャグジたちといいアザギといい、周囲の声は自ら思うところの理想の長に諏訪子を据えようとしているのだった。心中を占めていたものが取り払われると、また別の何かが膨れ上がってわが身を押し潰そうとしているかのように。ともかくも、今だけ諏訪子はひどく逃げ腰だった。土着の神の身なる彼女のこと、郷里である諏訪から極端に遠く離れた旅路ではなかったとはいえ、土地ごとの信仰の多寡が違うせいで、少し疲れているのかもしれなかった。

 思考の飛躍に追いつこうとするかのように、重かった足取りもようやく軽くなっていく兆し。拝殿のぐるりを端から端まで歩いた場所に、モレヤにあてがわれた部屋はある。道々、手指で髪の毛を少し梳きなどしつつ、何を話してやるべきかと、諏訪子は頬のうちでは笑んでいた。

 巡る廊下の向こうには、あと十数歩で目指す部屋がある。
 心なしか歩みも少し早くなり始めた彼女だったが、――そのとき、モレヤの部屋の扉が開いた。

「ん……諏訪子か」
「おや、八坂さま」

 モレヤの部屋より出て、こちらに歩いてきたのは、八坂神奈子その人である。

 短く言葉を取り交わすと、諏訪子は軽く頭を下げる。
礼を示しているというのももちろんあったけれど、本当は、神奈子の顔を素直に見るのが怖かったからだ。彼女の顔を見ると、否が応にもその首や胸に刃の突き立つ悲惨な想像が頭のなかに立ち現われてしまいそうで。嫌な想像を打ち消すように、大きく深い息を吐く。モレヤを巡る嫉妬も、政の趨勢がいずれもたらすかもしれないふたりの王の相克も、生ぬるい息と一緒に棄ててしまうことができれば、きっと幸いであった。

 今は同盟者として友人として、努めて朗らかに接しようと諏訪子は思う。
 できる限りの明るい声で、彼女は問うた。

「モレヤの宿所に居られたものとお見受け致しましたが、何ぞ急なるお話でも」
「いや、なに。……宴の刻限まで、ただ部屋でジッとしているのも飽いたゆえな。あの子に、独楽(こま)遊びでも教えてやろうかと思うたのだ」
「ほう。八坂さまが独楽を回すに秀でるとは、これは初耳」
「いくさ場で駒を乗り回すもまた、得意であるが」

 と言って、神奈子は微笑む。

「ところで。今宵の宴は諏訪子の御所で行わるるゆえ、そなたの主催だが、用意の方は滞りなく進んでおるのか。人手など足りなければ、幾人か人を呼びにやろうか」
「ご心配には及びませぬ。わが神人たちには前々からよく申し伝えておいたことゆえ。ひと月近くの行幸にてお疲れの折、八坂さまにおかれましては、この諏訪子の懐で旅の垢を落とすとでも思うて、ごゆるりとお過ごしあれ」
「うん、ならばそうさせてもらう。これもまた前々からの約定の通り、御所修築にもつけ宴の仕度にもつけ、われら出雲人からも財を出しておるからな。期待しているぞ」

 さても生ぐさきことを仰せになる神もあったもの……と、からかうと、神奈子は呵々と笑って自身の宿所へと引き上げていった。やがて彼女の背も廊下の向こうに見えなくなると、諏訪子は息を整えて、モレヤの部屋の扉を押し開くのだった。


――――――


「そうれ、わたしの勝ち!」

 盤上、最後の白石を自らの陣にまで移動させて上がりを見ると同時に、諏訪子は高らかと告げた。いやに得意気な声である。普段の彼女だったら、たぶんそんな愉しげな声は出さなかったに違いなかった。単純に遊びが面白いからなのか、それともわざと愉しげなところを演じて見せているのであろうか。

 いずれにせよ、遊戯盤を挟んで対座するモレヤの悔しげな顔を眺めていると、自分の笑む様にもどこか拍車がかかっているということを自覚しない諏訪子でもない。盤双六(ばんすごろく)に神がもし棲んでいるというのなら、今日のところその気まぐれは、彼女の方に運気を授けたということだろう。諏訪子とモレヤの双六対決は、三度連続で前者の勝利であった。

「むう……」
「どうした、モレヤ。そんなにも双六盤を見つめて」
「諏訪子さま、もしやどこかで“ずる”をしておいでではございませぬか。三度も連続でお勝ちあそばされるなど」
「何を申す。賽の目の出方にずるも何もあるものか。今日はモレヤに運がなかったのであろう」

 諏訪子はからから笑う。
 とはいえ、モレヤの方はなおも納得がいかない様子である。負けず嫌いめ、とはからかわずにおいてやった。それでもどうにか諦めがついたのか、モレヤは無言で幾度かうなずく。ふと諏訪子は妻として安堵を覚えた。さいころの出目の良し悪しを天意に任せるほかない以上、盤双六は『賭博向き』の遊びである。変に夫の負けず嫌いが高じて、将来、賭け事に耽溺されるようになっても堪らない。

「どうかな、モレヤ。もういちど諏訪子と勝負するか? 言うておくが今日の私には、どうやら双六の神やさいころの精でも味方しているらしい。再び負けたら今度こそおまえは赤恥であろうな」
「……悔しうはございまするが、今日は諦めます。引き際を見て、時機の到来を待つが肝要ということもある」
「賽を振るに時機や何かがあるかは解らぬが、諦めの良さもときには大事であろう。良い子だ、モレヤ」

 手を伸ばし、諏訪子は夫の頭を撫でようとする。
 けれど、モレヤはすばやく自分の手を伸ばして諏訪子の手を払いのけた。唇を真一文字に引き結んだ顔からは、勝者に迎合なんてするものかという彼なりの意地がほの見える。急に可笑しくなって、笑い出さないわけにはいかない諏訪子だった。やがてモレヤも釣られてしまったか、仏頂面に隠しきれない笑いが滲んでいく。しばし、夫婦は揃ってけたけたと笑い続けていた。

 ひとしきり笑いから晴れてみれば――ついさっきまで双六勝負に熱中していたせいで蓋をされたみたいになっていた感覚が、再び明々と蘇ってくる。物が色々と散らかった部屋の真ん中で、双六盤の上で互いの陣地に入ることを待つ白と黒の駒だけが、整然と並んでいる有り様だった。客人のために設えられた宿所は、いますっかりと夫婦の私室のようでもある。

「モレヤ。わが家を……この諏訪御所を、そなた、気に入ってくれたか。かつて出雲人が諏訪に攻め入りし折は、御所に身を落ちつける間もなく山野に拠っていくさをしていたのであろう」
「まだ御所のすべてを見て回ったわけではないゆえ、はっきりとは判りません。ですが、こうして諏訪子さまと遊ぶことは愉しいと思います」
「そうか。ならば、諏訪の柵に帰りつくまでのあいだ、よくよく見ておくと良い」

 そう言うと、諏訪子はモレヤの視線を導くかのように、部屋のつくりを自らぐるりと見回した。従うごとく、モレヤもまた同じところを見ようとする。

 風雪に耐えるべく剛健で簡素なつくりをしているところは、いくさ第一で建てられた諏訪の柵にも似ているが、宿所として不自由なきよう各種の調度類が揃えられている点は、やはり宮殿らしいとも言えた。文机には筆と硯が備えられてあるし、小さな香炉は汚れひとつなく火が入るのを待っている。脇息(きょうそく。肘掛け)は、いま諏訪子が借りて身を持たせかけているが、代わりに円座(わろうだ。蒲などを渦巻状に円く編んだ敷物)に尻を落ちつけているのはモレヤの方だった。彼の宿所は神奈子にあてがわれたものとともに、遠方からの客を容れるために諏訪御所に設けられた部屋としては、最上級のものだったのである。

 が、いまふたりを取り巻いているものは調度類というよりかは、種々雑多な玩具や遊戯盤の散らかりだ。独楽にお手玉、碁に弓遊びのための小さな的。大半が各地の豪族たちからの献上物である遊び道具で、今の今まで取りとめもなくふたりで遊んでいたのであった。部屋の隅の唐櫃(からびつ)にしまい込まれていた双六盤は、とくに埃を被っていた風でもない。神人たちの手で、よく手入れが行き届いているおかげだろう。

 夫婦が共に部屋を見回して、そして改めて互いに見つめ合ったとき。
「憶えているか」と諏訪子は問うた。盤上に転がったままのふたつの賽を、その指先でもてあそびながら。

「憶えているか、モレヤ。初めての日を」
「憶えているとは……。いったい、何をです。初めての日とは」

 と、モレヤはひどくとぼけた顔で諏訪子を見る。
 すっかり目を丸くした彼は、それと解っていて嘘や冗談を言っているようにも思えない。ということは、本当に自分との約束ごとを忘れてしまったのであろう。諏訪子はそう当たりをつけ、着物の袖で口元を覆いながら苦笑をした。やはり、モレヤはきょとんとしたままでいる。

「忘れられるとは、寂しい限り」
「申しわけございませぬ。私の至らぬことにて、諏訪子さまにご不快の念を」
「怒っているわけではない。何せ一年も前のこと」

 努めて柔和な笑みをつくると、諏訪子は黄金の髪を揺らしてモレヤの顔を覗き込んだ。
 ついさっきまで事態が飲み込めずに呆けていたモレヤは、突然、自分の『妻』の顔が近づいてきたことに少し驚いたようである。別段、顔が赤くなったりしているわけでもない。が、とっさに眼を逸らしてしまったところを見ると、ひどく照れているらしかった。そんな彼の照れをくすぐるいたずらの心地で、わずかに声をすぼめる諏訪子。夫婦だけが知っているふたりの秘密が、今ここにあるのだと伝えるかのように。

「一年前。諏訪子とモレヤが、初めて相まみえたときのことをよ」
「ああ、……あの諏訪の柵でのことにございますか」
「うん」

 微笑に、諏訪子の両目が細められる。

「われわれ夫婦は、まず出会いからして政のうえのこと、謀(はかりごと)の一端。賽の目は振り筒のうちにあるとき、誰にも見えぬ。盤上に放られて初めて目の数は解る。そして遊戯する者は出目の数に沿い、いかにわが意に反することと思えど、駒を進めねばならぬのだ。……思えば、モレヤ。おまえをわたしの元に引き入れるもまた、怖々と賽の目を覗き込むに等しきことであった。諏訪子は自らの白石をすべて動かし、入り勝ちをしたと思いたい。が、おまえはどうか、モレヤ。おまえの黒石は、諏訪子の白石に阻まれて陣地に入れぬまま、立ち尽くしているのではないか」

 諏訪子の語る喩え話の意図を、モレヤはずっと考えていた。
 再び唇を引き結び、うつむき加減になりながら。少し、喩えが解りにくかったか。と、彼女は改めて説明をしようとする。『モレヤは、もしや諏訪子と夫婦となったことを悔いているのではないか』と。

「わたしは……」

 と、諏訪子は口を開きかけた。
 しかし、直ぐさまはモレヤはその言葉を遮った。「皆まで仰せになるには及びません」と。

「私は悔いてなどいません。賽の目が見えず、また自らの黒石が思い通りに動かなくとも、諏訪子さまと双六を遊ぶことができるのなら」

 ――どうやら。
 モレヤは諏訪子の喩え話を読み説いたというよりも、文字通りに解釈して返答をしただけのようである。つまりは彼の勘違いだ。けれど、今の諏訪子にはその勘違いが妙に嬉しい。

「ふ、ふ。頼もしきこと。妻として鼻が高い」

 どうしてか泣きそうにさえなりながら、諏訪子は答えた。
 ついさっき嫌がられたのに、彼女はまた手を伸ばし、夫の頭を撫でようとした。モレヤは照れ、そして笑った。もう彼も抵抗はしなかった。ひと月近くの行幸のあいだ、伸びた髪の毛のさらさらとした感触が諏訪子の手のひらには心地よかった。未だ九つの少年の髪の毛は柔らかく、どこか懐かしい感じがした。遠い昔にも、こうして幼い少年の頭を撫でてやった気がする。だがそれは甘やかな思い出などではない。むしろ今の諏訪子自身の境遇が、それを痛々しい棘に変化せしめている。そして、モレヤとのこともいずれはそうならないという保証はないのだ。ぎり、と、彼女は奥歯を噛んだ。軋る記憶は、いま彼女の眼の前にある幸福な現実と、酷薄だった昔日の自分との齟齬がもたらすものであったのかもしれなかった。

「おまえも、もはやちびの“なり”をしながらに、ひとかどの男ではないか。そのうち、背の高さでも諏訪子を追い越すことであろうな。……少々寂しいが、モレヤの顔をわたしの方から見上げる日の来ること、愉しみでならぬ」
「もったいないお言葉です。しかし八坂さまの仰せられることには、モレヤはまだまだ鍛錬の途上。早く諏訪子さまの夫としてふさわしき男と成れるよう、今後もいっそうの精進を重ねよと」
「そうか、……そうだな。八坂さまの仰せらるることにも、また一里あるか」
「男たるもの、犬猫のごとく飼い慣らされぬだけの気概を忘るるな、と。八坂さまは」
「犬猫のごとくに、な」
「諏訪子さま……?」

 モレヤが心配げに問うた。

「お加減が悪うございますか」
「いいや、何でもない。ふとな、昔のことを思い出してしまった。こうして、モレヤの身の温かきに触れていると」

 夫の頭を撫でていた手を引っ込めると、忌々しげに諏訪子は舌を打つことした。

 わが手に残るこの温かさ、心地よさ。それは、富貴に任せて犬猫を飼い、その頭を撫でることといったい何が違うのだと。モレヤと、そしてアザギと。ふたりの少年を手の内でもてあそぶかのようにすることに、何の変わりがあるだろうかと。奇しくも、と言うべきであろうか。今この場には居ない八坂神奈子への思いは、どこか諏訪子のなかの暗闇を加速させていくかのごとくであった。それはやはり友人への嫉妬であり、劣等感なのかもしれなかった。しかしそれ以上に烈しいものは――、その実、洩矢諏訪子が洩矢諏訪子自身に感じるいら立ちに近い何かである。しょせん、モレヤもアザギと同じようにか、自分は掌中の珠としてのみ彼を傍に置いておきたがっているのではないだろうかと。

「そうだ。勝負を変えようか」

 唐突に、諏訪子は切り出した。
 その声は、われ知らず震えているのである。
「はあ……」とだけ答えるモレヤの顔に、彼女の記憶の奥底で重なり合っていくものがある。未だ目明きだったころの、幼いアザギの姿。奴婢(ぬひ。古代の日本に存在した奴隷)の子として野垂れ死ぬはずだった彼を『所有』するのは、ひどく容易いことだった。その眼を潰し、光を喪った彼のなかに“諏訪さま”への憧れを封じ込めれば良いだけだったのだから。では政のために、いつか殺されるかもしれなかったモレヤを夫にするということは。それは、やはり諏訪子が彼の命を『所有』しているということではなかったか。

 これなる縁(えにし)は、まことに恋か。
 モレヤは盲いてもなお、自分を好きでいてくれるか。

「次は何を。蹴鞠でしたら、ちょうど佐久郡の豪族テナガどのが献上あそばした、鹿皮でつくった鞠の上等のがあったはず。それとも投壺(とうこ)か、独楽でしょうか。あるいは弓遊びですか。弓ならば、八坂さまより稽古をつけて頂いているゆえ、おもちゃであれ的の中心を射ることには自身があります。碁は、諏訪子さまにどうしても敵いませぬが……」
「違う、違う。もっと単純なことをしようと言うている」

 にいと笑みをつくって、諏訪子は双六盤に手を伸ばす。
 そして、見せつけるようにしてふたつの賽を振り筒に放り入れた。

 三、四度――振るたびにからからと鳴る音は高くなる。
 双六盤の中心に筒を向ける頃には、雀の群れが騒ぐかのような、いやにやかましいさえずりになっていた。転がり出た賽の目は、一と五であった。彼女の意図を読みかねて、モレヤは無言でいた。すると諏訪子は急に身を乗り出した。盤を挟んで対座する夫の片手を取ると、そこに振り筒を握らせる。モレヤの側に抵抗はない。何か言いたげな彼の息づかいが、静謐な部屋の空気をほんのわずかに震わせていく。

「互いにさいころを三度振り、出目の数を足して、より多かった方が勝ちとしよう」

 こくりと、すばやく彼はうなずく。

「そんなにも簡単で良いのですか」
「良い。だが……」

 夫の手がしっかりと振り筒を握り締めているのを確かめると、諏訪子は元の姿勢に戻る。
 もはや彼女に躊躇はなかった。つまらない冗談もくだらない諧謔も介することなしに、本心から続きを告げるのである。

「ただの勝負ごとでは面白うない。ここは何かを賭けようではないか」
「賭け、にございますか」

 眼の端でだけ諏訪子を見ながら、返答をするモレヤ。

「わたしが勝ったら、わが夫にふさわしき装いをしてもらう」
「ふさわしき装いとは」
「モレヤの両の眼、諏訪子がもらう」

 賭けを提案されたときにさえ止まらなかったモレヤの手が、ぴたりと止まった。
 ふたつの賽を摘み上げた少年の指先は盤の直ぐ上で静止し、次の挙動を完全に忘却してしまったかのごとく見える。それでも、がちがちに固まってしまった身体をどうにか平常にまで押し戻し、彼は振り筒へと賽を投じた。だが、直ぐに筒を振ろうとはしないのである。「諏訪子さまのご冗談は、少し、難しい」と、小さく声が漏れた。

 彼の声を耳にし、

「冗談や酔狂でなど言うてはおらぬ」

 と、きっぱりと諏訪子は告げた。

「けれど、さいころ遊びに人の目を賭けるなどは……」
「忘れておったか。洩矢諏訪子は――“諏訪さま”は崇り神ぞ。人獣の血肉を得て神徳を人の世に施し、人獣の血肉を欲して祟りを人の世に降らす」

 にわかに、彼女は雄弁である。

「いつかわたしはおまえに言うたな。諏訪子はモレヤの“心”を欲すると。心のうちに諏訪子への信仰のあらば、勝負に負けて眼の珠捧げても、惜しくはあるまい。人の身でありながら神と対座して遊戯するという僭越は、つまりはそういうことなのだ。すべからく、見神する者はその才において“神遊び”につき合う務めを果たさねばならぬ。そして、神とは気まぐれに人の命さえ奪いかねぬもの。ことに、天地自然の酷薄さから人の耳目が見出した神々の場合は」

 ひどい屁理屈のごときものだと、内心に自嘲した。
 血肉を、生贄を、欲する原始の神として、振りかざす論理は決して間違いではないのかもしれなかった。しかし、その論理を塗布された彼女自身の感情は、ひどく私的な利己心であることもまた、間違いではなかった。彼女はモレヤが欲しかった。その思いが間違ったことではないと確かめたかった。

 否、もっと正確なところは――自分と同じほどにモレヤの心もまた、洩矢諏訪子に傾いているという証が欲しかった。この酷薄な勝負を彼が受けてくれること、そしてもし負けても自分の傍近くに在り続けてくれることを、祟り神としての諏訪子は強く願っていた。アザギが神人として自分を恋い得るごとく、モレヤは夫として自分を想っていて欲しいのだと。

 ふッ、と、安堵させるように諏訪子は笑む。

「そう怖れることはない。要はモレヤが諏訪子に勝ちさえすれば良いのだ。それに、賭けというからにはおまえが勝ったとき、何を得るかを決めても良い」

 そこまで言って、ようやくモレヤは賽を振るだけの気力を取り戻す気になったらしい。
 この勝負に掛けるだけ掛けられる気力を充填しているかのように、幾度も幾度も振り筒を動かし続けている。見かねて、諏訪子の方から問うた。

「嫌か?」
「いいえ、受けます。受けて立ちます。それが祭祀する者の務めであるのなら」

 筒を振ることを止め、モレヤはようやく諏訪子の顔へ向き直る。
 諏訪子もまた、勝負に臨む夫の顔を真っ正面から見据えた。どこか虚ろな眼の中に、一片の勇気をモレヤは宿している。賽の出目で勝ち負けを決めることに、勝算も戦法も関係がない。あるのはただ、ひたすらに自らの天運を信じて賽を振ることだけである。子供とはいえ、それが解らぬほど幼い頭でもないはずだ。あくまで、モレヤは気丈であった。

「では、モレヤもまたひとつ、賭けを致します」
「申してみよ」

 再び振り筒を動かしながら、少年は深々と息を吐く。

「諏訪子さまとのお約束、モレヤが勝ったら果たすことに致します」

 そんなことを言われても、諏訪子は直ぐに思い出せなかった。
 小さく首を傾げると、淀みもなくモレヤはつけ加えた。

「八坂さまの行幸に同道する日、諏訪子さまは仰せでした。モレヤの知っている戯れ歌を、いつか教えよと」

 ああ! と、彼女は思わず膝を打つ。
 確かに科野行幸の出発前、自分たち夫婦は約束していたことがあった。諏訪の柵の庭からモレヤの白蛇が居なくなったとき、いつかあの蛇も帰って来ようから、それまでに戯れ歌を教えておいてくれと。あたかもそれこそが、ひと月の旅路を締めくくるための儀式であるようにと決めたみたいに。

「歌で良いのか、賭ける物は」
「構いませぬ」
「解った。賽を振るが良い。勝負だ」

 モレヤは、もう諏訪子の顔を見なかった。
 双六盤の中心へ向け、彼は振り筒の口を力強く叩きつける。かこン、と、木と木のぶつかり合ういささか間抜けた音が響く。筒を持ち上げ、ふたりで賽の目を覗き込む。そこに転がっていたのは――。

「二と四」
「先の諏訪子さまの出目は一と五、合計で六。モレヤも六で、今のところ引き分けにございます」
「ふうん。さいころの精も、直ぐに勝負がついては面白うないという思し召しであろうよ。では、あと二度、続けるぞ」
「望むところです」

 モレヤから振り筒を受け取り、今度は諏訪子が賽を投げた。
「からから」とも「ころころ」とも聞こえる音と共に、盤上に顔を覗かせたのは二と六。間もなくモレヤも筒を振り、今度の出目は四と四。合計は八で、またしても引き分けであった。

「天運、未だ定かならず。さいころの精も気まぐれが甚だしい。祟り神と祭祀の王、どちらに良い顔をしても自分の沽券に関わるとでも思うておるのか……」

 軽口を叩きながら、諏訪子は三たび筒を振る。
 転がる賽の眼を確かめて、――モレヤの顔はにわかに色を失っていく。それとは逆に、諏訪子は唇いっぱいに喜色を塗り込める有り様であった。

 洩矢諏訪子、今度の出目は六と四。合計は十。
 次に賽を振って十以上を出せなければモレヤの負けだ。
 この盤双六の賽は、一から六までの目を持つ六面のものが二個。つまり、モレヤが勝つには『五と六で十一』か『六と六で十二』を引き当てなければならなかった。ないしは、『六と四で十』『五と五で十』を出して再び引き分けに持ち込むか。しかし、そう何度も幸運が続いてくれるわけもないだろう。この他愛もないさいころ遊びは、先手の出した出目が大きければ大きいほど、後手が勝つために出さなければならない出目の数が限定されてしまう。むろん、先手の出目の多い少ないはどこまでも運頼みの事柄だ。策とか勝ち方の定石と呼ぶほどのことではない。けれど、このさいころ遊びにモレヤの気を向けさせ、先手を取った時点で、半分だけだが運は諏訪子のものになったと言えなくもない。さいころの精の気まぐれは、未だ彼女に味方しているのかもしれなかった。

 ここに至って、ようやくモレヤも自分が勝ち目の少ない勝負に引きずり込まれていたことに気づいたらしい。賽を拾い上げるはずの指先も、一瞬、行き先を見失って無為に震えているように見えた。

「どうした。賽を振れ、振らぬか」

 モレヤは、唇を噛み締めて何も言わなかった。

「振らぬようなら、モレヤの負けだ。勝負を棄て神に不敬をはたらいた咎によりて、おまえの眼はわたしの物になる」

 声音はもはや露悪のそれ、いたずらというにはひどく黒い意を諏訪子は振りかざす。
 彼女の夫は、なおも黙り込んだままでいる。爪先で賽を弾き、勝負から逃げ出すことも彼にはできる。それでも、モレヤはモレヤ自身にとって最悪の選択肢である『逃避』を選ぶことはない。――と、諏訪子の内なる、それは確信である。信頼と言っても良いのかもしれなかった、彼女がモレヤのために持つ情愛は。

「振りまする。モレヤは、賽を振りまする」
「ほう。……出目が十より多からずば、おまえの両眼はなくなるぞ」
「いかに意に沿わぬ出目であっても、それに従って駒を進めねばならぬ時があると。先ほど、そのように仰せられたのは諏訪子さまです」

 からからと、筒のなかで賽の振り音が鳴った。
 少年ひとりの運命を決するものであるにしては、いやに軽々しく、滑稽な響きだった。

「眼を取られようが取られまいが――私は、私の“出目”を呑んでみせます」

 盤上へと、決着の賽はついに振られた。

 諏訪子は脇息からぐッと身を乗り出し、小さな賽のその行方を凝視する。
 一方のモレヤは決死の覚悟で筒を振ったせいか、知らずと強く強くに目蓋を閉じてしまっていた。からころ、と、賽の転がる音が幾たりか。代わってふたりの耳を漠々たる沈黙が弄した。振り筒はモレヤの手から離れ、胡坐をかいている彼の膝にぶつかり、転がり落ち、唐櫃にぶつかって止まる。双六の盤上に、モレヤは一瞬だけ空の手のひらを押しつけていた。その手のひらが滑り落ちた後に残った汗の痕跡が、鈍くぎらついていた。

「いかがに、ございますか」
「負けだ」
「は……。では、私の両の眼を差し上げなければならないと」
「いいや、違う。わたしの負けだ」

 沈み込むようにして、再び脇息に体重を預ける諏訪子。
 がたり、というその物音に呼応するごとく、モレヤはようやく眼を開く。彼の表情は勝利したことへの喜びというよりも、どうしてこんなことがあるだろうかと、そんな純粋な驚きに満ちている。

 夫婦は額を突き合わせ、改めて双六盤を覗き込んだ。
 確かに、さっきモレヤの振ったふたつの賽がその姿を見せている。
 出目は六と五、足して十一。対する諏訪子は六と五、足して十だった。
 先手である諏訪子の出目は、合計で二十四。
 後手であるモレヤの出目は、合計で二十五。

 なるほど、神は気まぐれであると、神である諏訪子自身が改めて噛み締めた。
 さいころの精とやらがもし本当に居るのなら、このとき最後に味方したのは、祭祀の王の方であったらしい。


――――――


「負けは負けだ。負けたのだから、モレヤの眼は取らぬ。その代わりにおまえの知っている戯れ歌、遠慮のう聴かせてもらうぞ。さ、唄え」
「勝ちは勝ちです。勝ったのですから、では遠慮なく。どうか、ご静聴のほどを」

 言われて、諏訪子は口をつぐんだ。
 息を吸うさえ遠慮するほど、彼女は沈黙を呑む構えだ。
 一方のモレヤは改まって歌声を発することが恥ずかしいのか、それともひとつの勝負が終わって緊張の糸と集中力がすっかり緩んでしまったのか、眼が泳ぎ、唇は閉じたり開いたりをくり返して、まるで飢えた魚みたいだった。すでに双六盤は唐櫃の中に戻してしまい、そのためふたりのあいだには互いの姿を遮るものは何もない。今まで盤で隠されていたせいで諏訪子には見えなかったけれど、モレヤの手は指先で自分の動揺をこねくり回すかのごとく、せわしなく動き続けているのだった。

 ふふッ! と、諏訪子は思わず噴き出さずにはいられない。
 さいころ勝負の最中、九つの子供の身にも似合わず格好の良い啖呵を切っておきながら、いざ勝って気が抜ければ“これ”なのだから。着物の袖で口元を覆うこともなしに、白い歯を見せて、彼女はしばらく笑い続けた。

「ご静聴をお願い申し上げたはずです、諏訪子さま!」
「いやいや。相済まぬ。……たかがさいころ遊びとはいえ、勝ったのだからもっと傲然に振る舞えば良いのにと思ったまで」

 唇を『へ』の字に曲げかけたモレヤだったが、諏訪子の態度はいつも通りの捉えどころのないものだと察したのであろう。やがて落ち着きを取り戻してくると、泳いでいた眼も真っ直ぐに相手を見据えるものになっていた。

「……今ので少し、落ち着いたような気がいたします。これでようやく歌えると」

 何も言わずにゆっくりとうなずき、歌えと促す諏訪子であった。
 モレヤもすばやいうなずきで応え(いらえ)を返し、背筋をぴんと伸ばす仕草をした。その身体いっぱいに息を吸い込むと、戯れ歌を弄ぶにしてはいささか大げさとも思えるような張りのある声で、彼は歌った。


――――――


ひと、ふた、み、よ
いつ、む、なな、や
ここの、たり
ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ


――――――


 優れた歌い手は、その美声で聞く者の感覚だけでなく大気までも大いに震わせ、建物の梁(はり)に乗った塵までも宙に飛ばしてしまうことができたという。

 いずこかで耳にしたことがあるそんな故事とも噂ともつかぬ話を、とっさに諏訪子は思い出した。それだけ、件の『戯れ歌』はうつくしい――いや、うつくしいというよりも、どこか不可思議な呪力霊力が人の声に乗って飛び来たっているように感じられてならない。歌詞は、単純である。無何有の郷や人の心の安穏たる様子を美々しく飾る歌とも思えなかった。それでもなぜか、土の下を寝床と定めた死人(しびと)までもが、もはやその身に存しない耳をそばだてでもせぬものかとも思しい。祭祀における神詞か祝詞にでも似たゆったりとした律と響きの組み合わせは、聴く側だった諏訪子の心のうちを優しく撫でてゆき、ささくれ立っていた感情をひどく落ち着かせる効能でもあるかのごとく、で、あった。

 しばし、彼女は自分の夫にかけるべき言葉を失っていた。

 そうして、モレヤという少年は斯様に歌の上手であったかと疑いもした。
 だが、実際に歌を耳にして驚いた心がようやく平常に戻ってくると、それはいささか贔屓目による錯覚だったかとも苦笑する。息遣いの巧拙も声量の多寡も、モレヤの歌唱にまつわるそれらは、やはり世間並みの九つの男子の域とさほどに変わるものではないだろう。となると、やはり元の歌の奇妙な霊力めいたものが、面妖とも言い得べきその影をよけいにはっきりと現してくる。

 いつか呆けた様を見せていたような気になって、諏訪子は慌てて微笑をした。

「……うん。面白き歌であった」
「ご清聴、まことに感謝いたしまする」

 指先で自分の顎を撫でながら、続けて彼女は問いかける。

「しかし、先の歌は不可思議なものではないか。詞のみ見れば数え歌であるやにも思われるが……いずこともなく神気に触れたような趣もある。母御(ははご)の歌うておられたものよな」

 やがて彼女の指先は、モレヤの『戯れ歌』が未だ離れることのない自らの耳の縁(ふち)をゆるゆるとなぞり始めるのだった。そんな諏訪子の仕草に見惚れているかのように、夫の返答はどこかたどたどしい。

「確か、そうであったと憶えています。しかし、最後に母から先の歌を聴いたはもうだいぶ昔のこと。未だモレヤが母の背に負ぶわれて、諸国を旅せねばならぬ年頃だったころのこと」

 なるほど、子守唄の代わりのようなものであったらしい。
 とはいえ、本人の言う通りだいぶ昔のことである。モレヤ自身が憶えておらぬとなれば、歌の出所をこれ以上探ることは無意味かつ不可能だ。耳の縁に触れていた指を引っ込めると、諏訪子は「ん、ん……っ」とうなって思いきり背伸びをした。元が神とはいえ少女の姿に化身して、今は普通の人間と大差のない肉体だ。眠くもなれば疲れもする。しばし脇息にばかり体重を預けていた身体は、ぽきぽきと背骨を鳴らしていた。

 そうして彼女は立ち上がり、モレヤを振り返りもせぬまま部屋の扉に顔を向ける。

「行幸の直前に姿を消した蛇も、先の歌を聴けばおまえの声を懐かしがって、いつかひょッと顔を出すかも知れぬ」
「そう、だと良いのですが」

 未だ少し、夫の声ぶりは不安げだ。
 諏訪子にもある旅の疲れが、モレヤにないとはさすがに思えなかった。とは申せ、彼にあるであろう疲れのうちの幾つかは、諏訪子との勝負のためであっただろうか。それを繕うかのごとく、彼女はことさら明るく語りかける。

「あ、そうだモレヤ。御所の庭はもう見たか。わが庭に植わった梅の林は、諏訪子にとっては自慢のひとつ。春になって梅の花の咲く頃ともなれば、件の白蛇もその香を好んで這い出るかも。そこで歌えば、なお良きことかも」
「少し、お気が早うございます。未だ今年の雪さえ降っていないのに」
「そう言うてくれるな、モレヤ」

 振り返ると、モレヤは笑っていた。
 愉しげに笑っていた。追従か何かの類でもなく、本当に親しみある闊達な笑みだった。

「豪族たちに諏訪の政を奪われておった頃、御所のうちに押し込められた諏訪子の愉しみは、山野の色の移り変わりを愛ずることを除いては、数えるほどしかなかった。こうして次に花咲く木々、次の次に色づく季節のことを考えるよりほかには、行うべきことなどなかった」

 自らの夫のかたわらへと、諏訪子は歩み寄った。
 しゃがみ込み、横目にこちらを容れるモレヤと視線を混じり合わせた。彼は眼を逸らさない。ほんの少しだけ、赤くなっているのは彼の肌の内側とでも言うべき所だったのだろうか。

「モレヤとこうして共に在るなら、いま新たに解る。芽吹き花咲く木々の色も、独り見るよりは鮮やかになるかも知れぬ」
「しかし諏訪子さまは、花の色を見るための目をモレヤよりお取り上げなさるおつもりでもありました」
「もし私が勝って……おまえの眼をもらっていたら、モレヤは諏訪子を嫌いになったか」
「目明きでも盲でも。モレヤは、諏訪子さまにお選びいただいた夫です。夫は、妻をしあわせにせねばならない……と、思います」

 何も答えず、諏訪子は夫の手を取った。
 もう十分すぎると思ったからだ。もう、自らの利己心と所有欲に身を任せて、ただひとりの夫を試すような真似はすまいと思った。酷薄な神の姿をモレヤに見せつけるような『神遊び』などは。たとえ世間並みの、誰でも当たり前に口にすることのできる夫としての心構えであっても、それをあえて口にさせなければならないだけの試練を課したことが、申しわけなくもある。諏訪子の取る、モレヤの手のひらの皮は固い。弓の弦と馬の手綱は、九つの少年の手さえ確実に武人のそれに近づけていく。しかし、それで良いのかもしれない。今だけは、彼の手のぬくもりを手に入れているのは――世界の誰でもない、洩矢諏訪子ただひとりである。その結論さえが手に入りさえすれば、彼女はしあわせなのではなかったか。

「しばらく部屋のうちに在っては、身体がなまったことであろう。夜の宴までは未だ時間がある。それまで共に御所のうちを散策しようではないか」
「宴は愉しみですが、科野の方々で慣れぬ歓待を受けたゆえ、胃の腑は諏訪の飯が恋しいと先刻から騒いでいます」

 互いに笑みを交わしながら――諏訪子は、モレヤの手を取ったまま彼を立ち上がらせようとした。けれど、相手は立ち上がらない。胡坐を組んだまま、モレヤの腰は微動だにしなかった。強風にしなる木の枝みたいに、少年の上半身だけががくがくと諏訪子に引っ張られている。これは、おかしい。さては、顔に出しておらぬだけでやはりへそを曲げていたのか。諏訪子はにわかに不安になる。

「どうした。……何か都合の悪きことでもあるのか」
「膝が」
「膝……?」
「それに、腰も」

 蚊の鳴くような、モレヤの声だ。
 仔細に、諏訪子は夫の姿を観察する。
 あ、……と、彼女は溜め息まじりの声を発しないわけにはいかなかった。

「立ち上がれませぬ。膝が震えて、腰が抜けて、モレヤはいま直ぐ立ち上がれませぬ!」

 自分の腰まで抜けてしまったみたいに、諏訪子は再びしゃがみ込む。
 それから頭の先から爪先まで、改めてよくよく夫の姿を観察した。モレヤの膝は絶え間なくガクガクと震え、腰はと言えば骨が丸ごとすっぽ抜けてしまったかのように、ずっと力の立たぬまま。さては勝負と歌とで身のうちの気勢、すべて使い果たしたか。可笑しいなとも思ったけれど、諏訪子は決して笑わない。夫の膝が震えているのも、腰が抜けて立てずにいるのも、きっと諏訪子自身にその原因の大半があるのだから。彼は、洩矢諏訪子の夫としてあくまで気丈さに努めて振る舞ってきた。しかし、その実は決して急には変えようのない未だ九つの子供でしかないのである。

 モレヤへと過大な恐怖を抱かせた自分に、諏訪子はようやく罪悪感を覚え始める。
 そして、子供ながらに『神遊び』を完遂した彼は、確かに自分の夫なのだという確信があった。モレヤという少年が盤双六の駒のごとき都合良き相手でも、犬猫のように繋いで愛でるべき者でもない。洩矢諏訪子の、ただひとりの夫なのだ。

「立てぬのであれば、しばらくそのままで居ると良い」

 と、諏訪子は困ったようにはにかんだ。

 それから、今のモレヤが腰が立たぬせいでまともに力も入らない状態にあることを目ざとく察すると、今まで片手で取っていた夫の手を、今度は両腕を伸ばしてつかみ――それから、自分の方にまで彼の身体を引き倒した。仰向けになった諏訪子の胸のうちへと、少年の頭が倒れ込んで来る。子供とはいえ、人の身体だ。上に乗られればもちろん重い。けれど、諏訪子はその重さを払い除けようとはしなかった。否、むしろ自ら進んで腕を交い、無礼をはたらいてしまったと思ってその場から逃れようともがくモレヤの身体を、ひしと抱き留めようと試みた。今だけは未だ、自分より小さな夫の身体をである。

 幾重かの色の襲を見る諏訪子の着物の襟元に、かろうじてモレヤの視線は這っている。顔を上げ、真正面から妻の姿を見ることはさすがに気が引けたらしかった。もう彼は逃れようとはしない。しかし、自分から能動をもって諏訪子に抱きつく素振りもまたなかった。そうやって、いささか消極的に諏訪子の腕のなかに抱かれて丸まっていることが、彼の重々しい務めのひとつででもあるかのようだ。

「本当は、怖うございました。いかに諏訪子さまの仰せられたこととはいえ、眼を潰されるかも知れぬのは、とても……とても怖うございました」
「もう、良いわ。わたしも少しからかい過ぎた。――だが、モレヤ。おまえの眼が在ろうとなかろうと、諏訪子は永劫、おまえの妻よ」

 何も答えず、モレヤはぎこちなくうなずきを返す。
 互いの着物がこすれ合って、絶え間ない衣擦れの音が部屋の空気を満たしていく。胎児に戻ったように身体を曲げ、震えるモレヤの足先が、やがて諏訪子の腿をなぞった。互いの熱い体温も、落ち着き払った言葉とは裏腹に鼓動を速めてしまう胸も、みなひとつに融け合ってしまう。あたかも、それは久遠の似姿。

「今は未だ、諏訪子はモレヤの妻であり、そして母御の代わりともなろう。けれど……けれどいつか、おまえの背が諏訪子を追い越したら。そのときは、モレヤが抱きしめてくれ。夫として、そうしてくれ」

 約束、ぞ。
 
 互いが互いに声も発さず、うなずきも返さず。
 かといって戯れに指切りをせがむでもなく。
 夫婦は、やがてどちらからともなく眠り始めた。抱き合ったまま、体温を交わし合って。これが――果たして恋というやつだろうかと、諏訪子はまどろみのなかでぼやりと思う。異性への上手い気の引き方も知らない。心を燃え立たせる誘い文句のひとつさえ、夫も妻も、どちらも知らない夫婦だった。だから、彼女たちはこうして抱きしめ合うしかできないのかもしれなかった。こうして互いの息の触れあう近さで、半分ずつの安らぎが、いつの日にかひとつの安らぎとしてまっとうされることを約束するしか、今は未だ。

 わたしは、おまえと生きたいと思ったのだ。
 洩矢諏訪子は、モレヤの命尽きる日まで。

「……ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」

 快く落ちていく意識のなかで、諏訪子は歌った。
 モレヤが教えてくれた、誰のものとも知れぬ、あの不思議な歌を。
 自分の胸にかかる少年の寝息まで逃すまいとするみたいに、彼女はいっそう強く、わが腕に力を込めるのだった。


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