Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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 諏訪は九月を迎え、村々では稲の刈り入れもいよいよ今が盛りである。
 旧暦九月は、太陽暦では十月に相当する。二十四節季に寒露(かんろ)と霜降(そうこう)の二者を見るこの時季は、そう遠くなく訪れる冬に備えるべく、百姓各々もよくよく張り切る季節であった。
 
 軍事優先として峻嶮な山腹にその威を構える諏訪の柵も、豊年の秋には麓に広がる田の群れを十二分に眺め渡すための展望台のようなものであろう。諏訪の地に土着を始めた出雲人の将兵は、いくさでの遺恨など初めからなかったかのように、麓に幾つかの小さな村を築き、田畑を拓いていた。小集団が複数できれば、いずれは別の小集団と交わり始める。やがて彼らの田畑に実った五穀や平和のために持て余した色々の武具を、諏訪人たちと交換するためのごく小さな市が――不定期かつごく散発的なものであったにせよ――、あちこちにその影を見せるようになっていった。土蜘蛛たちが出雲人たちに供給した鉄の農具は、この小さな交易を得て少しずつ諏訪人たちの手に渡っていく。そして出雲人から手に入れた刀剣を融かし、新たに農具としてつくり直す。代替として使用されていた鉛製の農具や、ごく原始的な石鎌や石包丁を使用する仕事からは、ようやく彼らも解放されようとしていた。

 日常と、そこに根差した生活は、戦いという悲惨よりもはるかに強いものである。ほとんど怪物的と言っても良い。要するに人は飯を食わなければ、夜は眠らなければ、生きていかれないのだから。いつまでも戦いの遺恨という昔のことを引きずっているよりは、昨日までの敵をして生活の糧を得る相手にしていかなければならない。そういう、やむにやまれぬ事情もある。だから、いま諏訪の地に興りつつある村々は誰の政によるものでもなく、民衆が求め民衆の手で築き上げられる、民衆のためのものであった。

 ときに、今や小さな『城下町』とでも呼べそうにはなった諏訪の村々に、その足跡を一時たりとて留めることのない集団がある。十人か、二十人か。歩けば歩くほど山なみから新たな人影を吸収して未だ増えるとも思える。彼らはみな子供の落書きをそのまま写し取ったような乱雑なつくりの仮面で顔を隠してはいるが、その仮面はどうやら猿や犬や野鳥といった、色々な動物を模したものらしい。首から提げた古ぼけた鉦(かね)を一心に叩き、やはり古ぼけた鼓をぽんぽんと景気よく叩いている。様式のまちまちな笛たちの音は、一聴すれば不協和音になりかねない色があったけれど、そこにその集団の歌声が合わさることで、ようやく一場の音楽として認め得るだけのものにはなる。

 彼らが掲げる、神輿というにしてはいささかみすぼらしい神輿の上には、男根を象ったと思しき石像が極彩色の飾り布に包まれながら、天を指して真っ直ぐにそそり立っている。それを囲む仮面の男女は互いに腰を振り、一心に押しつけ合う仕草のような踊りを幾度もくり返した。仮面の下から、一定の律に彩られたうめき声が漏れだす。ことさら卑猥に卑猥にと凝縮したような、共寝する男女の滑稽な戯画がうち続く。

 稲の刈り入れに勤しむ百姓たちは、その集団の陽気な歌を耳に容れ、呑気に歌なんかうたって……という顔をするのである。しかしその一方で、どうしようもなくばかばかしいその仕草に堪え切れずに笑いを漏らし、鎌を握る手の疲れをついと忘れてしまったりもする。

「お、客人(まろうど)どのが歌っておるよ」
「今年もまた、豊年の祝いに芸でも見せに来たのかね」

 憧れの人の名を呼ぶさえ恥じらうように、あるいは浮世離れしたことに陰口を叩くように、女たちは身を屈めたまま『集団』に眼の端を向けていた。皆の眼には、いつでも『集団』への畏れが宿っている。今夜の村の集まりで、あの客人たちが見せてくれるのは猿回しか火吹きの芸か。それとも化け物退治の物語を演じるのか。その後は暗闇のなかで、村の男女が一夜の恋に耽るのだ。だが、皆は知っているかい、豊年祝いに客人たちが訪れた翌朝には、若い女が行方知れずになるらしいってことを……。

 何処(いずこ)から来て何処へ旅立っていくのか。
 誰も知らない神のごとき客人たちへの、それが人々の抱く感慨だ。

 彼らのような者たちが――やがて『傀儡子(くぐつ)』と呼び習わされるようになる漂泊の職業芸能者たちの、もしかしたら祖となっていったのかもしれない。稲刈りに励む百姓たちを鼓舞するかのごとく、歌い踊りながら田畑のあいだを練り歩く諏訪の傀儡子たち。豊年の来たるを無邪気に喜び、また来年の豊作をも祈念する彼らの姿は、神事というよりもどこか遊びに近いかたちを伴っていた。後世、傀儡子たちの芸能は豊作祈願の神事に由来する田楽や猿楽とも繋がり、ときには権力者の庇護のもと、観阿弥と世阿弥の親子によって大成された能楽のように、芸道として文化として確立されていく。けれど、そのように高度に様式化される以前の傀儡子の技は、もっともっと放縦であり、民衆が泥くさい生活を経て到達する『ハレ』の日に根差した、生きることの喜びを露わにするものだったのではないだろうか。

 糧を得るべく稲刈りに励む農民たちと、遊びと一体となった祈りを土地に捧げる傀儡子たち。一見して正反対とも思えるふたつの属性が、何の矛盾もなしに混じり合って存在しているという太平は、この平穏な秋がいつまでも続いてくれるものと誰にも思わせるだけの、しあわせな幻想であったのかもしれなかった。


――――――


 傀儡子たちがあちこちの村を余さず経巡るとき、その奏でる囃子(はやし)はごく一部だけとはいえ、麓に充溢する賑やかさとして諏訪の柵にも届いてくる。諏訪子はいつともなく、その愉しげな音を懐かしんでいた。

 未だ出雲人が諏訪にやって来るより前、御所のうちに逼塞していた彼女の身にとって数少ない愉しみのひとつが、秋になるとどこからともなく耳に入って来る傀儡子囃子の響きであった。豊年の秋、供御として饗された柿の甘みは単なる毒のように、かつて諏訪子の舌を侵したものである。けれど、その甘い毒を美味しいものとして気持ちを慰めてくれたものが、あの傀儡子たちの歌でもあった。

 いま諏訪子の手に、誰かから献上された柿があるわけではない。
 ただそれでも、やはりあの傀儡子たちの歌へと朧に耳を傾けることをすれば、御所のうちに在るばかりの飾り物でしかなかった自分を慰めてくれた小さな甘みが、ほんの少しだけでも思い出されてくる。

 城中を歩きながら、諏訪子はいつともなく鼻歌を発し始める。

 自分が知っている限りの、諏訪という郷里を美々しく称える歌。あるいは子供のような戯れ歌だ。遠く響く傀儡子たちの歌に対する、彼女なりの返礼のようにであった。だが、その小さな歌は彼女以外のどこにも届くことはない。一方に鬨(とき)を上げる意気軒高さ、一方には儀式に臨もうとするがゆえの厳粛さ。そんな、相反するふたつの空気が城中には同居している様子であった。行幸への出発を目前に控えた諏訪の柵は、慌ただしさという慌ただしさがひと通り居座ってしまったかのような様相を呈していた。供奉として選抜された五百の将兵は軍装を整え、出陣は未だかと矛をぎらつかせながら待ちわびている。一方、今日からの行幸が政のうえにどんな意味があるかを知っている官吏たちは、その成功を一心に祈って部屋々々に姿を隠し、今後の科野州の情勢あるいは展望について互いの予測を取り交わしている様子であった。

 将兵の集結している城の東側も、官吏たちがお喋りに余念のない扉の向こうも、共通しているのは『気もそぞろ』という一事なのだ。唇を変なかたちに歪ませて、諏訪子は笑いが抑えきれない。普段はさも理を頼みに振る舞っているように見える出雲人たちが、――行幸の直前とあっては傀儡子の歌を耳にして、今夜の恋の相手に思いめぐらす若い男女のような熱気に包まれているのだ。握っているものは違えど、発するところはやはり同じ人間と見えた。そういう、どこか“うわついた”空気を呑むのが、やはり諏訪子は好きだった。それは、祭礼のときを控えた人々だけが持つ熱気だからだ。明日ハレの日、ケの昨日という言葉が、なぜだかふいに思いついた。昨日の時間にまで押し遣られた日常の上を歩いているような感覚だからこそ、ついと鼻歌も愉しくなる。

「……っと。こうしてはおれぬ」

 つい、独りごとがまろび出る程度には諏訪子の気も急いていた。
 ふんふんと上機嫌に鼻歌ばかりうたっているわけにもいかないのだ、何せ行幸の軍勢は出発直前である。棟梁である八坂神奈子の下知ひとつあれば、直ぐにでも道行きは始まろう。しかし、そうはならないだけの理由がある。

「モレヤ、仕度は未だか」

 傀儡子囃子と城中の熱気、そのふたつを愉しむためにわざと遠回りをしながら、夫の居室を訪ねた諏訪子であった。すでに神奈子と諏訪子、そしてモレヤが乗り込むための三つの輿も用意されている。けれど、それに乗り込む人が居ないから神奈子も出発の下知を下せずにいる。遅れていたのはモレヤひとりである。「済まぬが、モレヤを呼んできて欲しい」と神奈子は言った。腕組みをし、当てどのない迷い犬みたいに軍勢の周りをぐるぐると数周した末の、諏訪子への頼みごとである。

「遅いぞ。もう二度も人を遣って呼びに行ったが、もう直ぐ向かうと返ってくるばかりでいっこうにやっては来ぬ。よもや居眠りなどしているのではあるまいか」
「しかし、なぜそこで諏訪子が」
「拗ねているのかも知れぬ。妻が直に呼びに行けば、機嫌も直ろう」

 そういうやり取りがあって、諏訪子が直接にモレヤを呼びに行くことになった。モレヤが何を気にして拗ねていると神奈子が言ったのかはよく解らないが、出発前のうわついた空気のこと、彼女自身がもっともそれに呑まれていたのかもしれない。

 ともかくも、諏訪子はモレヤを呼びに行った。
 ただし、傀儡子囃子の聞きたさに、わざわざ遠回りの道筋を選んでだが。

 あんまり帰りが遅いと、今度は神奈子の方が拗ねる番だな……と思いながらも、閉め切られたモレヤの部屋の前に立ち、扉を目前にして彼女は何度か夫を呼ばわった。侍女や扉番の舎人が、近くに控えている気配はない。人手が足りないのか、みな別の仕事に駆りだされているらしい。誰に取り次いでもらうこともなく、何度もモレヤの名を諏訪子は呼び続けなければならなかった。

 ん、――と、ふと彼女は考える。

 これはまるで侍女たちの噂によく聞く、男女の『逢い引き』というやつに似てはいまいか。そんなことを思って、いつか顔が熱くなってくるのを諏訪子は感じた。女はその慕う男を待ち、男は恋する女のもとへ通うのだ。互いの家に行ったり、どこかの野山で抱き合ったりと、侍女たちの話の中身はその度ごとに違っていたような気がしたけれど、ただひとつ、『他の人たちの眼が届かない場所で』というのは共通する。忍ぶ恋ほど、当人たちのあいだでは大いに燃え上がるものがあるらしい。そういえば、みな忙しいゆえに侍女も舎人もここには居ない。まさに、ふたりが忍んで逢うにはうってつけの状況だ。男と女の立場は、噂話のなかとは逆転してしまっているが、さして大きな問題とも思われない。

「モレヤ、どうした。眠っておるのか。は、早く行かねば、八坂さまが拗ねてしまうぞ……」

 行幸の備えとして念入りに梳かしたはずの髪の毛を、気づけば手指を櫛としてまた梳いてしまっていた。が、この場に鏡ひとつないのはちょっと惜しい。声が上ずってはいないか、どれほど自然に振る舞えているか。彼女の頭のなかからは、神奈子からの催促を仰せつかったことはにわかに消え去ってしまっている。すでに夫婦となっているのだから、逢い引きがどうのの意味はなかろうとも気づいているが、それとこれとは別である。要は、“真似ごと”とはいえ当たり前の男女のつき合いができるかもしれないという、初々しい期待なのだから。

 ――しかし。

 何度、扉の向こうで夫の名を呼ばわっても、モレヤが出てくる気配はない。
 誰何(すいか)の声さえ返ってこない。
 意地悪いことを、と、諏訪子は焦れる。
 みたびも手櫛で髪を梳きつつ、またも彼女は侍女たちの噂話に聞いたことを思い出した。男たちのなかには、女と逢う日と日をわざと長く取り、気持ちを焦れさすことで恋を繋ぎ止める手管があるとか。よもや、と、思いはしたが、子供とはいえいたずらのような心地で知らずとそういうことをしてしまっているということも、もしかしたあらあるのかもしれない。かくれんぼを遊ぶような心地で、である。

 もしそうだったら……と考えると、モレヤを呼ぶ声がほんの少しだけ揺らいでいく。顔も余計に熱くなっていくし、胸打つ鼓動の音もいやに耳に障るような気がしてくる。扉の向こうの暗がりで、自分を待ちながら笑みを浮かべているに違いないと。

「モ、モレヤよ。其許が部屋から出てくるつもりがないのなら、扉を開けてこちらから入るぞ。良いか」

 やはり、誰の返事もない。

「何も答えぬということは、同意したと考えて良いのだな。で、では、行くぞ。本当に行くぞ!」

 扉を開けた瞬間、部屋のなかから夫が飛び出してきて、急に抱きついてきたら如何にすべきか。いや男とはいえやはり彼は未だ子供なのだから、そんなことはあり得まい。しかし、子供とはいえ男だからこそということもあり得る。そのときは妻として振る舞えば良いのか、それとも母や姉のように振る舞えば良いのか。そんなときの女の側の心構えまでは、さすがに侍女たちの噂話にも上らなかったが……。思案をするにも気持ちだけが焦れて行き、考えがそれに及ばなかった。数度ほど扉をトントンと叩く手の甲まで、顔と同じく真っ赤になっているような気がしていた。

 だが、あれこれと考えるよりは行動に移した方が事態は解決するというものだ。行幸の軍勢とともに神奈子も待っているし、『案ずるより産むが易し』と俚諺(りげん)も言っているではないか。

「ええいっ!」

 まるでいくさで剣を振るう兵士か、あるいは戦勝の鬨の声を上げるように、諏訪子は勢い込んで扉を押し開いた。
 
 ――実にあっけなく、何の抵抗も感ぜずに部屋の扉は開いてしまった。

 モレヤの部屋は、格子戸も蔀(しとみ)もみな閉じられてしまっていて、外からの光は入るまい。むろん、夜ではないから灯明に火も入っていない。ずっと、薄暗いままである。すわ、夫はどこに隠れているのかな、と、胸をかき抱きながら部屋のなかを見渡す諏訪子。空気は澱むことなく、ほこりのひと粒さえも床に伏して動かぬかのような有り様だ。ただ、彼女の胸のうちだけがどきどきと鳴り続けているのだが。

「居ない。……誰も居ないではないか!」

 部屋は空っぽ、モレヤはおろか侍女も舎人も誰も居ない。
 まさに諏訪子の独り相撲、完全なる恥ずかしがり損であった。


――――――


「モレヤ! ……どこに行っていたかと思えば」
「あ、諏訪子さま」
「早う、出発の仕度をせよ。急がねば八坂さまがご機嫌を損ねるぞ」
「あのう」
「ん、どうした」
「ご機嫌を損ねておいでなのは、諏訪子さまの方では。お声ぶりに、少し棘があるやに見受けられます」
「何でもない。何でも、ない!」

 釘、というよりもつるぎの切っ先を刺し込むかのように、重々しく言う諏訪子であった。

 モレヤが自身の居室に居ないことが解ってから、諏訪子はいっそうに気を急いた。
 足早に城中を探し回り、最後にたどり着いたのが小さな庭である。かつて、諏訪子がモレヤのために花を植えさせた場所だ。この秋に見たいと思い、以前に植えさせていた萩は今を盛りと咲き誇っている。諏訪の柵は元が山野のなかであったゆえ、萩の花も土を好むか気ままに桃色の花をつけていた。その花々のなかに、モレヤが居た。花弁の群れを覗き込むみたいに身を屈めながらも、今は顔だけ上げて諏訪子を見る。けれど、妻が少しばかり不機嫌そうな理由について直ぐに察しをつけることができるほど、彼も未だ心の機微を読むことには長けていないのかもしれない。

 ともかくも、と、諏訪子は呟いた。
 そして、すッ、とモレヤの鼻先に手を差し出す。早く立って、行幸に参ろうという合図である。しかし、夫は曖昧に笑むばかりで立ち上がらなかった。いよいよもって不思議である。唇をかすか『へ』の字に曲げ、諏訪子は「む、む」と唸りだす。

「なぜ動かぬ。今日の行幸が大事なること、よくよく八坂さまより聞いておろう。それに、あのお方のこの事業への熱の入れようも」
「解っております」
「ならば、早う。土や花と戯れるも悪くはないが、今日のために仕立てさせた絹の着物が汚れれば何とする」

 モレヤは、やはり曖昧に笑うばかりだ。
 ただ、何か言いたげではあったけれど、唇をもごもごと動かすばかりで言葉らしい言葉はいっこうに出てはこなかった。そろそろ業を煮やしてきた諏訪子とて、これ以上、自分の唇が『へ』の字に曲がっていくのはよろしい事態ではない。かといって、無理にモレヤを立ち上がらせる気にもなれず「萩の花なれば、帰って来てからでも幾らも見るに良いではないか……」と言いかけて、夫の近くにしゃがみ込んだ。彼が何にこだわって動こうとしないのか、探らなければなるまいと思ったからである。すると。

「蛇……あの白蛇か」
「そうです。萩の花のあいだにて、なかなか動いてくれませぬゆえ」

 ――モレヤが、いつの間にか自分の部屋を空けてまで執心の対象としていたもの。
 それは数月前、彼が神奈子と山へ狩りに出、その帰り道で見つけて連れ帰ったという一匹の白い小蛇であった。諏訪の柵までの帰り道、彼らを導いてくれたという白蛇である。蛇は、その真白い鱗を澄んだ鏡のようにきらめかせ、モレヤの細い指先をたどり、手のひらから手首まで懸命にその身を登らせようとしているかのようだ。世の蛇という生き物がそうするごとく、いかにも獰猛そうに鎌首をもたげて見せるということもない。『飼い主』であるモレヤの肌をなぞることが自身の喜びであるかのように、少年の手首に二又の真っ赤な舌をちろちろと、時たま這わせていたのであった。

「十数日のあいだとはいえ、モレヤは諏訪の柵を空けるのです。蛇にも人の情を解する余地がありましょうか。萩の庭に身を伏せたまま、私の手より離れてくれません」
「それで、蛇が別れを惜しんでいるように見えると」
「そうですが……」

 別れを惜しむのは、白蛇ではなくモレヤの方ではないのだろうか。
 ということを、諏訪子は口にしなかった。試しに彼女が指先を蛇に向けて伸ばしたとき、意識的にか、それとも無意識のうちか、モレヤは蛇の胴体を弱く握り締めたように見えた。まるで、自分の身を護るための御剣を他の誰にも――それこそ婚儀を結んだ妻にさえ渡さないと、そう決意しているかのようにだ。かすかな違和を、諏訪子は感じた。あるいはモレヤという少年への同情だろうか。少し前まで、祭祀の王の立場どころかその命までも、政の趨勢ひとつで奪われかねなかった境遇なのだ。森のなかで自らの道を導いてくれたという白蛇に、何らか神気のごときものを窺い見てしまうのも、当然といえば当然かもしれない。

 しかし、蛇可愛さで大事な儀式を先延ばしにするわけにもいくまい。
 子供をだまくらかすようで少し気は引けるが……適当な口実を設けて、モレヤを丸め込み立ち上がらせようと諏訪子は考える。ちょうど、城に通じる道近くを傀儡子たちが通りかかっているらしい。鉦と鼓の音、老若男女を問わぬ数十人の愉しげな歌声が、距離の隔てを無効にするかのように、やけにはっきりと耳に飛び込んでくる。すッくと、諏訪子は立ちあがり、言った。

「永年に生きた獣は、神気妖気を帯びて獣ならざるものに成るときがある。なるほど、その白蛇もまた神のごときものであるなら、人の情を見知ることもあろうな。しかしあるいは、人の歌を好むのかも。傀儡子囃子の賑やかさを聴いたか、モレヤ。よもやその蛇もまた、傀儡子の歌を聞きたがっているのかも知れぬぞ」

 モレヤは、不安な顔になった。

「しかし傀儡子らの歌を聴かせたいあまり、行幸に蛇を連れていくことはできません。里の子供らが見れば、面白半分に打ち殺してしまうやも」
「だから、早いとこそなた自身が行幸に赴くのだ。傀儡子の囃子のこと、帰って来たときにでも土産と思うて聞かせてやるが良い」

 しばし、モレヤは何も答えなかった。
 萩の花の群れに身を伏せる蛇と、諏訪子。双方をちらちらと見、それからようやく、

「解りました。仰せの通りにいたします」

 と、折れてくれた様子である。

 ずっとしゃがみ込んでいたせいで足が痺れてしまったか、モレヤが立ち上がる動作はいやにゆっくりであった。そうして立ち上がり背筋を伸ばすまでのあいだに、人差し指の先で蛇の頭を撫でてやる。蛇の方は承知したとでもいう言葉を飲み込んだのか、その瞬間だけは舌を見せることをしなかった。そしてまた、にょろりと土と花々のあいだに身を伏せるのである。

「では、参ろうか」
「はい。……あ、ああ!」
「ん。どうした、モレヤ」

 夫の手を取るでもなく、彼に背を向けた諏訪子は元来た方向に踵を返そうとしていたところであった。しかし、今度はモレヤの方から諏訪子の手を取り、自分の方に引き寄せる素振りを見せた。少しのあいだ忘れていた恥ずかしさが、またにわかに諏訪子のなかに戻ってくる。

「あと、もう少しだけお待ちください。傀儡子たちの愉しげなる歌を聴いて、ずっと考えていた頼みごとを思い出しました」
「頼みごと……諏訪子にか?」
「はい」

 笑む、というよりもモレヤの顔ははにかんでいる。
 自身の不安や期待を、他人に託したいがための気持ちであろうと諏訪子は見た。自分の手を握るモレヤの手に、空いていたもう片方の手を重ねてやった。ちょうど、諏訪子が両手でモレヤの手を包みこんでいるような格好だ。子供の体温は、高い。しかしそれ以上に、今は諏訪子の心も熱いような気さえする。

 モレヤの眼は泳ぎ、惑っていた。
 すでに夫婦となったふたりというのに、また改めて自らの恋を告白するかのようにだ。

「いつか、諏訪子さまはモレヤに、この諏訪の地の戯れ歌をお教えくださいました」
「……そうだな。そんなこともあったよ」
「その御礼を致しとうございます。諏訪子さまが、モレヤに歌をお教え下さった御礼に、モレヤの知っている歌もまた、諏訪子さまにお教え致しとうございます」

 少し、諏訪子は拍子抜けした。
 あらたまって頼みごとと言うから、どんな無理難題を押しつけられるかと、内心では緊張していた彼女である。けれどそれが、モレヤが自分のことを信ずるに値する者だと思ってくれているという、そんな証なのだと思いたい諏訪子も居た。出し抜けな冗談を向けられたかのように、しばし、彼女は肩をすくめる。そして、モレヤからの頼みに首を縦に振る代わりに、彼の手を包みこむ自分の両手に、少し強く力を込めた。

「傀儡子たちの囃子を耳にして、自らの知るものを思い出したか」
「私の知るものは、諏訪子さまにもまた知って頂きとうございます。歌は、母の歌なのです。わが母がモレヤをその背に負いながら、よく口ずさんでいた歌」

 するりと、諏訪子の手のなかからモレヤの手が抜けた。
 未だ彼の温かみの残る手のひらを動かすことなく、諏訪子はその『歌』に耳を傾けようとした。萩の花のなかから、白蛇が、紅く小さな珠のような両眼をこちらに向けてきたのが解った。だが諏訪子がそちらに意識を向けると、蛇は興味を失ったかのように首を他に向ける。今しも歌うために、モレヤは喉の奥まで息を吸い込もうとしている。諏訪子の未だ知らぬ彼の歌が、もう直ぐ耳を震わせるのだ。けれど――。

「遅い、遅いぞ! ふたりとも!」

 聞こえてきたのはモレヤの歌声ではなく、いつも以上に張りのある神奈子の音声(おんじょう)であった。いくさの場の声を、人を呼ばわるためだけに持ってきたのかと思えるほど彼女の声はよく通る。瞬時に、諏訪子もモレヤも息を呑み、声のした方をぐるりと見遣った。萩の庭の向こうに、腕組みをした諏訪子がこちらをじいと見ているではないか。腰に提げた御剣の柄が「がちゃり」と鳴ったが、唇を『へ』の字に曲げた顔つきは、武器を帯びているにも関わらず、妙に子供っぽい色がある。

「や、八坂さま」
「夫婦の話が色々とあるのは解る。だが、今日からは行幸ぞ。さ、急げ。輿の用意もできておるのだ!」
「申しわけございませぬ。……いま直ぐ向かいますゆえ」

 とは言ったが、神奈子はふたりの行動を待たなかった。
 腕組みを解き、彼女はずんずんと萩の庭に――もちろん、花を踏みつけないようにしながらだが――踏み込んでくる。諏訪子も、モレヤも、秘密の話を聞かれたかのようににわかな緊張を覚えてしまう。こころなしか二歩三歩、少しずつふたりのあいだも離れていく様子であった。

 仕方あるまい、時も時なのだから諦めが肝要だ。
 そう思い、神奈子の方へと諏訪子は歩みを向ける。「話は、また後で改めて、と致そう。モレヤ」。ちらと夫を振り返ると、モレヤもまた、ひどくこの機会の名残を惜しんでいるようではあったけれど、惑うことなしにこちらへと向かってくる。だが一瞬、彼の意識は萩の庭へと向けられたようである。ん……、と、諏訪子は思わず小さく鼻を鳴らした。萩の花を見る夫の顔が、少しばかりかなしげなものになり始めているからであった。

「どうした、モレヤ。早う……」
「居りませぬ」
「何が」
「あの白蛇が、どこにも居りませぬ」

 まるで泣き言のような弱気な響き。
 歩くことはしながらも、モレヤの足取りは緩慢だった。足先で萩の花をかき分けるようにし、地面に眼を落としながら進んでくる。白蛇が居ない……と聞けば、諏訪子もまたその言葉に釣られて探すのを手伝いたくなってくる。夫婦は、幾度も辺りを見回した。しかし、白蛇はもはやどこにも見えない。神奈子が庭にやって来て、二言三言も交わしているうちに、まるで初めから霞の身であったかのように、何の痕跡も残すことなく消え去ってしまったのである。

 むろん、モレヤは落胆する。
 彼とて、子供ながらに男であることを自認しているのだ。蛇一匹がにわかに姿をくらましたところで泣きはしなかった。けれど、今の今まで可愛がっていたものが――まるで逃げ出すかのように――居なくなってしまうということに耐えられるほど、彼の忍耐はまだ完成されてはいなかった。どんよりと曇った表情で肩を落とす夫に、諏訪子はひとまず思いつく限りの慰めを与えることしかできないのである。

「あの蛇が居なくなったのは、にわかのことではないか。並(な)べて禽獣(きんじゅう)とは気まぐれなもの、それは蛇もまた然り。後々で試しに床下でも攫ってみれば、またひょっこりと姿を現すかも知れぬ」
「はい。……モレヤもそうは思いますが」
「行幸の前に幸先の悪きことと思うておるのか。なに、心配は無用であろう。蛇とても、きっと八坂さまが突然現れたことに驚いて、どこかに姿を隠してしまっただけと思うぞ」
「そうでございましょうか。八坂さまが現れたために」
「そうだ。八坂さまが現れたために」

 ……と、夫婦はじィと神奈子を見た。
 ひどく湿った、ベッタリとした視線だ。はっきりと責めているのではもちろんないけれど、言うなれば「何ということをしてくれたんだ」とでも言いたげな眼である。神奈子は神奈子で、「うう……」と呻いて後ずさる。

「な、何だふたりして! なぜそんな目で八坂を見るのだ!」

 ばつが悪そうに小走りで駆け去る神奈子の後ろ姿を見ながら、諏訪子は再びモレヤの手を取る。突然のことにわずか驚いた様子のモレヤだったが、逆らうこともなく諏訪子の手を握り返していた。「……それにしても、少し八坂さまをからかいすぎたな」と、諏訪子が苦笑すると、モレヤも同じく笑んでみせる。束の間のこととはいえ、蛇が居なくなったことへの気は紛れたらしかった。彼がそうなら、八坂さまに“犠牲”になってもらった甲斐があるなと諏訪子も思う。さすがに、後で謝らなければならないかもしれないが。

「蛇は、帰ってくるでしょうか」

 と、モレヤは問うた。
 すでにふたりの足取りは萩の庭を抜け、先行する神奈子の背を負う。

「行幸の十数日を過ぎれば、きっと帰って来よう。それまでにな、モレヤ。諏訪の戯れ歌も、傀儡子たちの豊年の歌も、其許が母御より聴いたという歌も、きっと憶えておこうではないか」

 そう言い、諏訪子は夫の手を強く強く握り締める。
 馬の手綱を引き、弓の弦を弾いてすっかり固くなった『男』の手だ。この、小さなたくましさをつくり上げてくれたのは、確かに八坂神奈子である。けれど、ただひとりこの手を自ら抱くことができるのは、この世に自分だけなのだと諏訪子は思いたかった。

「行幸の終わるまでに、どこかでモレヤの歌を聴きたい。帰ってきたら、ふたりであの白蛇に聴かしてやろう」

 急ぎ走ることで、弾み始めた互いの息を感じている。
 諏訪子は、いちども振り向いて夫の顔を見ることがなかった。

「はい!」

 と、返事をするモレヤの微笑みが、はっきりと脳裏に思い浮かんでいたからだった。


――――――


 巳の刻も半分を過ぎたころ(午前十時ころ)。
 八坂神奈子の企図した行幸の軍勢は、予定より少しだけ遅れて諏訪の柵より進発した。

「出発!」という神奈子の下知のもと――この日のために、出雲の精兵一万余のなかから見目良き者として選ばれた総勢五百の将兵は、一斉に鬨(とき)の声を上げ、矛を振り上げる。その行進は身のうちの歓喜によって、大地を断ち割らんとしているとも思われた。まずは道行きに待ち構えるであろう魑魅魍魎を除くべく、行幸への同道を仰せつかった辟邪(へきじゃ)の部隊が魔除けの空弓(からゆみ)を打ち鳴らす。それが終わると、次いでやはり魔除けの紋様を朱で描かれた盾を掲げ、真新しく美々しい軍装に身を包んだ一般の部隊が、爛々とみなぎらせた自信とともに、続々と門をくぐって行くのである。

 軍神八坂の主導によって発足した諏訪の新政権は、その成立からして洩矢諏訪子からの禅譲(ぜんじょう)ではなかった。実際としては放伐(ほうばつ)……武力討伐の色彩を濃くしながらも、諏訪子自身を斃すことはなく、やがてその政権内において彼女を重く用いるというものである。ために『禅譲』と『放伐』の境で矛盾する八坂神奈子の大義を折衷させるものが、

『奸臣たる諏訪豪族によって奪われていた政を洩矢諏訪子の元に取り戻すことを、八坂の神が手助けした。諏訪子はそのことに恩義を感じて、八坂神とともに国家を運営していくことにした』

 という建前である。

 恃む(たのむ)ところである自らの武威と、新王であり諏訪救国の神であるという喧伝。さらには御いくさの大義名分を誇示せんがためであろうか、行幸の中心である三人の王は、輿の形式からして序列がつけられていた。現在、実質的な諏訪の指導者である八坂神奈子が座しているものは、ごく簡便なつくりとはいえ輦輿(れんよ。屋根のある輿)である。一方、洩矢諏訪子とモレヤは屋根なしの手輿(たごし)である。この二種類の輿は、前者が肩で担ぐものであるのに対し、後者は腰の高さで手で持って担ぐものだ。当然、目線の高さでは神奈子の方が上になる。

 そして兵らに担われた輦輿の上で、神奈子の表情には自信がみなぎっていた。
 諏訪の地を攻略したいくさ神としての自信、今日まで国つくりをしてきた王としての自信。否、あるいは矜持のかたまりとでも言えようか。ぐるりと視線を巡らす彼女の先には、九月の諏訪を彩る黄金色の稲穂の海原がいつ果てるともなく広がっている。そして、そのほとりを進む五百の軍勢は、鎧の鳴り音を響かせながら一心に足を動かし続けた。

 遠くから眼を凝らし、民衆たちはこの軍勢にただひざまずいた。

 その感情には始めて目の当たりにする異邦のいくさ神への、畏怖と尊崇が入り混じっていた。彼らにとっては、確かに八坂神奈子は“諏訪さま”の王権を侵していた諏訪豪族からの解放者であった。その眼には、噂話をする声には、このよく知らぬ王への無邪気な期待がよく宿っている。沿道には、稲刈りの鎌をいっとき手放した農民たちの群れ、群れ。そのひとりひとりが好奇の心と期待とを持って、ちらちらと自分に眼を向けたがることを、神奈子は決して咎めなかった。

 やがて軍勢は、諏訪の国土を穿つ湖(うみ)を間近く臨み始める。
 道々の人家の数はさほども変わらないながら、糧を得るべく行われる営みは、田畑に向かう百姓たちの仕事から、湖に舟を浮かべる漁師たちのそれへと変じていく。その日もまた、湖には変わることなく舟が浮かんでいた。ただ、湖岸を進む軍勢にはまるで眼もくれず、黙々と漁に勤しむばかりである。そのとき。

 ――――不遜よ。
 ――――不遜の極みよ。

 という声を、手輿の上で諏訪子は聞いた。

 懐かしき声だと、思わず顔がほころんでしまう。
 しゃがれたような、しかし同時に幼児が無理に老人の声を真似ているような、そんな不思議な声音である。声の源である微細な気配はひとつでなく、幾千もの群れとなって軍勢と並走をしているらしい。五百の将兵誰ひとりもそのことには気づかぬし、輦輿の上から民人を睥睨(へいげい)する神奈子もまた同様である。もしや、と思って、諏訪子は自分の後ろ側で別の輿に担われているモレヤにちらと眼を遣った。しかし、彼もまた緊張でがちがちに固まってしまっているらしく、この『声』があることも、その主が自分たちの直ぐ近くに居るということも、まるで気づいていない。いや、あるいは。『声』たちの方で、諏訪子にだけ語りかけているのだろうか。

 心ひそかに苦笑し、諏訪子は念じることをした。
 声の主は、ひとりではない。それぞれに意思を持ち、幾千の情念の奔流となり蠢く者たちへ向け、ひとりひとりに対して確実に声が届くよう、真摯に念じることをした。

 ――――不遜とは、如何なることか。答えよ。

『声』たちは、諏訪子からの返答が行われたことに歓喜を表明しているらしい。
 姿なき彼らの意思が、その観想のうちにおいて蛇体を取り、喜びのあまり跳ね回っている情景が諏訪子の脳裏に流れ込んでくる。

 ――――諏訪の地にさきわう、われらミシャグジが神霊数千、怒りを覚えている。
 ――――はるか西の果てより、諏訪が国土を侵し掠める意図によりて現れたいくさ神。
 ――――いくさ神、われらが主上たる“諏訪さま”を自らの下としている。
 ――――これ不遜なり。われらが地に対する許しがたき凌辱なり。
 ――――“諏訪さま”は負けぬ。“諏訪さま”は敵なし。“諏訪さま”は必ず勝つ。
 ――――さあ、お命じあれ。われら今すぐ、あのいくさ神の頸に牙を突き立ててくれる。

『声』は、口々に怨みを言い立てる。
 あたかも幼子のそれにも似た、純然の憎しみであった。
 懐かしきミシャグジの蛇神たちは一年前とまるで同じく、自分たちの為す祟りを諏訪子が振るうことを期待し続けている。そのひとつひとつを吟味してやるほどの暇もなく、次から次へと声を発し、ミシャグジたちは戦いの継続を懇願し、八坂神奈子に祟りあれかしと唱え続けた。だが、彼らはひとりひとりではごく微弱な力しか持たない神霊であった。ミシャグジたちの能くする祟りを統御し、行使することができるのは諏訪子ただひとりである。しかし。

 ――――ならぬ。ならぬぞ、ミシャグジたちよ。
 ――――八坂の神は今や盟友。手出しすること、まかりならん。

 その諏訪子は、はっきりとミシャグジたちの要求を跳ね除けた。
 首を横に振る仕草も見せなかったが、念じるほどに彼女の意思は蛇神たちへと波及し、その答えが彼らをひどく落胆させていく。

 ――――なぜか! “諏訪さま”は怖気づいたか! それともミシャグジを裏切ったか!
 ――――“諏訪さま”は出雲人の城に囚われていた。
 ――――そのあいだ、ミシャグジとは話もできなかった。
 ――――やつらがミシャグジを穢れと称し、城の内外(うちそと)を隔てたからだ。
 ――――ゆえにどれほど、今日のこの日を待ちわびたことか。
 ――――そして“諏訪さま”のご帰還を待ちわびたことか。
 ――――それなのに、なぜ“諏訪さま”はあのいくさ神に味方する!

 蛇神たちのいら立ちの情が、どッ、と押し寄せてくるのが解った。
 平穏な田や湖の情景とは似ても似つかない、意思と意思のぶつかり合う巨大な嵐が、いま諏訪子とミシャグジたちの霊の交感では吹き荒れている。

 ――――怖気づいても裏切ってもおらぬ。
 ――――気づいたのだ。干戈(かんか)交えるばかりがいくさではないと。
 ――――ならば諏訪子は自らの矛と、八坂神のつるぎを併せて振るえば良いのだと。

 ミシャグジたちのいら立ちは高まり、いよいよ怒りとなって暴れ出した。
 ただし、それはやはり諏訪子以外には見えぬらしい。唸り、吼え猛り、言葉らしい言葉をにわかに失った神霊たちの嘆きが、ぎんぎんと彼女の感覚を刺激する。肉を越えて霊に直接作用するやかましさは、いくら耳を覆っても少しも衰えることがないのだ。しかし、諏訪子の心は澄明であった。久方ぶりに配下のミシャグジたちと取り交わす霊感の言語が、その魂を研ぎ澄ましていたせいかもしれなかった。

 ――――よう聞け、ミシャグジたち。
 ――――われらがいくさするは、民の命を使うということ。
 ――――戦い長引けば、人の心は離れ行くのみ。
 ――――心が離れ行けば、われらは神でなくなる。王でもなくなる。

 情念の集積したごとき存在であるミシャグジに、理非理屈を説いたところで理解してくれるとは限らない。未だ言葉を解すことのない赤子に政の要諦を説くようなものである。ただそれでも、ある程度は蛇神たちを抑制するための方便となってくれたことに、諏訪子は僥倖を見る。主の言と思って耳を傾けるあいだだけ、ミシャグジたちは落ち着きを取り戻してくれたからだ。数千の意思と声は、依然として不満を秘めながらも、どうにか鎮まってくれている。しかし。

「何ごとか! 行幸の列を塞ぐとは!」

 そんな怒声が前方から響いてくると、いっとき大人しくなっていた蛇神たちは、再びざわめきを取り戻してしまう。ミシャグジたちに向けていた感覚を瞬時に現実へと引き戻し、諏訪子は輿の上から辺りを見回した。軍勢の先頭で、どうやら何ごとかが起こったらしい。粛々と進んでいた行軍は停止し、兵たちがひそひそと話を取り交わす。それを叱る将たちの声も聞こえる。列の先頭を進む騎馬がにわかに落ち着きを失し、いななきが幾つも聞こえてくる。諏訪子も、辺りの声々を吟味した。最初に叫んだ声は、確かこの列の先導を仰せつかっていた神薙比(カムナビ)の将軍のものである。

「おい、いったい何があった」
「は。どうやら、列の先頭を土地の百姓が塞いだとかいうことのようですが……」

 手輿を担ぐ兵のひとりへ向け、諏訪子はこっそりと訊いてみる。
 声を潜めた会話だったが、聞こえにくいということはない。

「何者かが襲いかかって来たということではないのか」
「未だよく解りませぬ。しばし、お待ちを」

 溜め息をつき、彼女はまた元の姿勢に戻った。
 しばし待つ……とはいえ、ことの次第が解決するにはどれほどの時がかかろうか。それまで何も事態が見えぬというのはひどくもどかしいものがあった。いら立たされるわけでもないが、諏訪子とてせっかちになってしまうことがある。

 すると、彼女の内心の焦りをつぶさに見抜いたかのように、ミシャグジたちの一部がいっそうざわざわと騒ぎ始めた。数千からなる蛇神たちは、行幸の軍勢をはるかに超えるだけ長く連なり、諏訪子に付き従っている。あたかも、群れ自体が一個の大蛇であるかのごとくにだ。その大蛇の『頭』の部分……行幸の列の先頭に場を占めていたミシャグジたちが、その霊感を遠く広げ、諏訪子の認識に繋げてくれた。彼らの有する『眼』と諏訪子の知覚。そのふたつの感覚を共有する、彼女の有する神通力のひとつであった。こんなことでさえ、“諏訪さま”の歓心を買う手段として使わなければならないほどの、蛇神たちの健気さは、諏訪子とて認めぬわけにはいかなかった。

 いま脳裏には、ミシャグジたちの見る情景がはっきりと浮かび上がってくる。

 髭面の神薙比は、騎馬の上から土地の百姓だという少女を見下ろしていた。
少女は、歳のころ十二、三といったところであろうか。裾の擦り切れた着物を着、少しだけ垢じみた手には穂のくずらしいものが細かく張りついている。稲刈り仕事の途中で、慌てて軍勢を追いかけて来たのだろうということが容易に想像できた。彼女のかたわらには、麻の布で覆われた荷がひと包みある。とは言っても、さほど大きなものではない。せいぜい、握り拳が三つ分くらいか。

 輦輿に座する八坂神奈子は、少女の真正面に相対していた。
 というよりも、少女の方が神奈子の面前に引き出されて来たのであろう。ひざまずき頭を垂れる少女を、いくさ神は傲然に、そして冷厳に見下ろしている。

「周辺の、百姓の娘と申したな」

 感情の色のない声で、神奈子は問うた。
 はい、と、少女はいやにはっきりと答えた。
 畏怖と緊張が混じり合い……しかしその一方で、神奈子に対する親しみが、小さな希望として根づいている感もある。

「此度の行幸は、この八坂神の政において極めて大事なる意味を持つこと。その列を塞ぐは、無礼以外の何ものでもない。相応の責を負う覚悟は、むろん、あろうな」

 尊大な態度と口ぶりである。
 少女がごくりと唾を飲み込む音まで、諏訪子には知覚された。遠くからミシャグジを介して見ているだけの自分までが、唾を飲み込んだかと錯覚してしまいそうなほどであった。ちらと、少女は幾度か神奈子の顔を窺おうと視線を上げる気配を見せた。だが、依然として冷厳さを崩さない神奈子の様子に気がつくと、また直ぐにひれ伏してしまった。

「無礼なのは、わ、解ってます。でも……」

 少女の、たどたどしい口ぶり。
 きっと、身分貴き人に対してどんな口調で語りかければ良いのかが、解っていないのだろう。それもまた、礼儀を失していよう。だが、少女自身はそんなことにまでは気が回らないらしかった。かたわらにあった麻布の包みに手を伸ばすと、必死に結び目を解き始める。しかし、緊張のあまり手つきまでがたどたどしい。周りの将兵は、「すわ、暗殺のための武器か!」と身構える。けれど、神奈子自身がそれを制した。「待て。最後まで聞いてみよ」と。

 幾度かの失敗の後に、ようやく包みを解かれた荷物。
 そのなかからごろりと現れたのは、三つの柿である。
 山々の紅葉の色を幾重にも閉じ込めたような、紛うことなき柿の実であった。

 麻布で包み込むように、膝立ちになった少女は三つの柿を持ち上げた。
 将兵たちは、彼女の意図が読み取れずに、ただただ呆気に取られている。と、そのうち、「供御として、献上致したいということか……?」と問う者が、ひとりだけ。神薙比の将軍であった。

 自分の思うところが伝わった!
 と示すように、少女は微笑みながら幾度もうなずく。
 その動作が、まるで壊れた人形を見ているみたいでひどく可笑しい。将兵たちはつい吹きだし、神奈子も唇の端を吊り上げた。諏訪子もまた、思わず肩を揺らしてしまう。

「あ、あのう。色んなものを差し上げるための、詳しい決まりごとは難しくてよく解りませんけれど……。神さまたちは、これからあちこちを旅されるんだと聞きました。だったら喉が渇いていたらいけないと思って。それで、柿をお持ちしましたのです」

 そこまで言うと、少女はまた頭を垂れる。
 膝立ちのまま後ずさり、神奈子から沙汰が下るのを待つという体勢である。

「いかが致しまするか、八坂さま」

 と、馬を輿まで寄せ、馬上から神薙比が神奈子に問う。

「たださえ、行幸は遅れ調子。このうえ、さらに土地ごとの民人から斯様に贈り物を受け取っていては、諏訪に帰りつくまで幾日かかることか」

 神奈子は、顎に手を当て思案した。
 けれど、その眼の光を窺えば、それが単なる演技でしかないというのが諏訪子には解る。彼女のなかで、すでにこの場をどうするかの結論は出ているのであろう。ただ、自分を奉ずる将兵に慮っているだけで。

「水が欲しいと言うて水を乞えば、直ぐに出てくるということもあるまい」
「は……?」
「潤すことできるときに、喉の乾きは潤しておくに限る」

 柿を、と、神奈子は命じた。
 その言葉の意味を解しかねているのだろうか、将兵たちは呆気に取られて動けずにいる。「聞こえなかったか。その娘から柿を受け取れ」と改めて命ぜられると、供奉の兵のひとりが麻の包みごと柿を受け取った。そして、それを恭しく神奈子の手元まで奉献する。

 着物の袖で柿の皮を軽く拭くと、神奈子は何の躊躇もなしにかぶりついた。
 それほど熟れているわけでもない柿の実は、未だ少し固いものであったらしい。神奈子がその白い歯を突き立てるたびにしゃくしゃくと音が鳴り、その内にあった果汁が彼女の指を伝って手のひらを濡らしていく。そうして一個の柿を食べ終えるまでに、さほど時間はかからない。瞬く間に、献上された柿は一個、“へた”を残して八坂神奈子の胃袋へと収まってしまったのである。

「美味い柿であった」

 兵から受け取った布で手と口を拭いながら、神奈子はようやくはっきりとした笑みを見せる。応じて、少女の方も朗らかに笑った。もはや無礼か否かを気にする暇(いとま)もないほどに、彼女も嬉しかったのであろう。

「だが、柿の美味きとそなたの無礼は別の問題よ。改めて、沙汰申し渡す」
「はい。……それは、解っております」

 返された麻布を握り締めて、少女は唇を引き結び、身を縮こまらせていた。
 柿で潤った喉に思いきり息を吸い、神奈子は宣した。少女の姿など意に介することもなく。あたかもそれが当然のことであるとでも言うように。厳然と、自らの威を示すごとくにである。

「そなたは、此度、行幸の列を塞ぐという無礼をはたらいた。これには、相応の報いを受けねばならぬ。そなたとそなたの家を、柿の実を献上する供御人として任ずる。毎年九月には、必ず此度のごとく柿の実三つを諏訪の柵まで届けるのだ。それこそが、そなたの負うべき報いと心得よ……」

 ……。

 そこで、ミシャグジを介した情景は途切れた。諏訪子の眼前には、依然として進行を再開せぬ行幸の列が延々と続いているだけである。密かに、彼女は額に滲んだ汗を拭った。よもや神奈子が行幸の列を塞ぐ無礼をことさらに咎め、あの少女をこの場で殺すのではないかと思っていたせいだ。だが、結局は取り越し苦労に終わってくれた。安堵の混じった溜め息を吐くと、先頭の方からひとりの兵が急ぎ走ってくるのが見える。彼の手には、さっき少女から神奈子へと献上された柿がある。

「申しわけございませぬ、亜相どの。直ぐに行軍を再開致しますゆえ」
「いや、構わぬ。ところで、その柿は」
「はい。土地の者から献上されたとの由。八坂さまにおかれましては、亜相どのとモレヤ王がこの柿をお召し上がりになり、喉の渇きを潤してから出発するとのこと」
「そうであろうな。見ていたから、大方は知っている」

 はあ? と、兵は狐に摘ままれたような顔をした。
 その可笑しさに吹きだすことを耐えながらも「いやいや、何でもない。儂も、ちょうど喉が渇いていたところだ」と、諏訪子は柿を受け取った。すでに後方の輿に居るモレヤにも、彼の分の柿は行き渡っている。自らの手に取った柿の実は案外に大ぶりで、よく中身が詰まっているのが何となくわかる。神奈子に倣い、着物の袖で皮を拭いてから思いきりかぶりつくと、懐かしい甘みとともに強い香気が口いっぱいに広がった。確かにこれだと、諏訪子は思う。御所のうちに逼塞していた昔、数少ない慰めのひとつとなってくれた、諏訪の柿の味であった。いつか彼女の顔は、われ知らずほころんでいた。

 ――――“諏訪さま”! 斯様に柿を食するなどあってはならない!

 またぞろ騒ぎ出すミシャグジたちの声も構わず、諏訪子は柿を平らげる。
 
 ――――前例なきこと。民人が神へと直に供御を差し出すなど。それを認めるなど。
 ――――神は神、人は人。あのいくさ神はその境を破らんとする。
 ――――諏訪の秩序を破らんとする。

 しかし、もう何かを進んで答える彼女ではなかった。
 ほどなくして、軍勢はこの椿事(ちんじ)を思いがけぬ休息としたかのように、再び歩み始めた。

 行軍を再開した行幸のうちにあって、自分自身でさえ何のかたちも見出せないような、取りとめのない考えに憑かれている諏訪子であった。そんな彼女をなおも説き伏せんと試みるごとく、姿を隠したミシャグジたちは、軍勢に併走し続ける。「其許たちは、諏訪を出るまで諏訪子について来るつもりか」と蛇神たちに問うた。しかし、今度は彼らの方で何も答えることはない。神霊にも曲げるだけの“へそ”はあろうかと、諏訪子はまたも苦笑した。

 ――――良いか、ミシャグジたち。今の諏訪は、かつての諏訪にあらず。

 蛇神たちの注意がこちらに向けられたことは、なお幸いである。
 彼女は、念じる。

 ――――“諏訪さま”も、かつての“諏訪さま”ではないのだよ。
 ――――豪族どもの言うなりにされ、盲(めしい)のごとく祟りを為した頃とは違う。
 ――――今のわたしは、“洩矢諏訪子”だ。

 その宣言に……ミシャグジたちは一斉に牙を剥き出した。
 相手が諏訪子でなければ、直ぐにでもその御赤口の奥から呪詛と毒とを無間に吐き出し続けたことであろう。
 
 ――――ミシャグジ以外にも、あのいくさ神を怨む者多い。
 ――――いくさ神は神域の山野を踏み荒らした!
 ――――奴らは儀礼と称し、鳥居という汚らわしき門で諏訪の霊気を閉じ込めた!
 ――――奴らは祭祀と称し、注連縄という醜き鎖で諏訪の神霊をくびり殺した!
 ――――棲みかを侵され殺された神霊たちは、火の燃えるごとく奴らを怨む!

 怨みに思うていたは、わたしも同じだ。
 しかし世は変わる。人の心も変わる。神や霊だけがその例に属せざること、まことと思うか。

 その言葉を、諏訪子は堪えることしかできない。
 幾百年、幾千年――ミシャグジ蛇神たちは諏訪子に仕え続けてきたことであろうか。諏訪守護のためにその霊気を削ってきたことであろうか。忠烈なその存在は、人の身に例えれば痛々しいまでの報国である。自身の志とミシャグジたちの意、このふたつを繋ぎ止める確かな楔とは、いったい何であるべきか。

 田の群れから軍勢の歩みが遠ざかるに連れて、豊年祝いの傀儡子囃子もまた遠ざかっていく。しかし今の諏訪子には、ミシャグジたちの訴えよりも、傀儡子の人々の歌の方がよほどにはっきりと聞こえていた。一年近くの時を経て、諏訪子という神は人の心を知り、人に近い者になろうとしていたのかもしれなかった。だからこそ蛇神たちの怨みもまた、丸のままに受け止めること叶わないのではないかと。

 輿の上にて思いは揺れる、身も揺れる。
 金色の稲穂に覆われた地平の果てもまた揺れ続けて見え、いっときも留まるということがない。諏訪子は、何かから逃げ出すように遠方の稲田に眼を走らせた。その時であった。

「諏訪子さま!」

 と、遠ざかりつつある田の方角から、彼女の名を呼ぶ声があった。
 ひとつ、ふたつではない。男も女も、老いていると若きとを問わず、近在の農民たちが皆こぞって、稲穂の海のなかに立ち上がっている。手輿の上から、諏訪子は身を乗り出した。息を呑み、眼を見張る。人々はそれに気づき、両腕を高々と掲げて手を振るのだ。畏まらずひれ伏さず、彼らの顔にはただ一個の歓喜がみなぎっていた。自分たちから奪われていたまことの神が、王が、求めていた尊崇がようやく帰って来たという確信に満ちた、熱い悦びであった。

「諏訪子さま! 八坂の神さまと一緒に、諏訪をよい国にしてくださいませ!」

 それを言ったのは、柿を献上したあの少女なのだ。

 何を、彼らは勝手なことを言う。
 皮肉げに笑んだ顔が、人々からは遠すぎて見えなかったことをさいわいと思う。嬉しかった。ひたすらに、諏訪子は嬉しかった。素直に喜ぶことができないほど、諏訪の民人に対して、いつか後ろめたい気持ちを抱いていた洩矢諏訪子が居たのだ。諏訪豪族たちの大義名分のために祀り上げられ、政の権をその手に持たない飾り物の神。だというのに人々は、その飾り物でさえ自分たちの頭上に輝くに値するものと信じ続けてくれていたのだ。

 そのとき初めて、諏訪子は直に民衆の姿を見た気がする。
 ミシャグジの眼を介してではなく、臣下から知らされる報告としてではなく、真に自らの肉体に備わった、自らの両眼で。これが、今まで自分の名のもとに虐げられていた人々なのだ。これが、わたしが護り導いていかなければならない人々なのだ。

 ――――ミシャグジたちよ。何を怖れることやある。
 ――――“楔”は、直ぐそこにあるではないか。

 輿の上で傾いた姿勢を戻しながら、諏訪子は、人々に応えるべく、高々と右手を掲げて見せた。


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