Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第四話

2013/01/18 15:26:27
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 このところの日暮れは、井戸に釣瓶を落とすみたいに早い。
 
 すでに城のあちこちには兵たちの手で火が篝っている。それが、秋に立って寒さを少しずつ増し始めた夜に細い暖かさを灯していた。除目と論功行賞が終われば、後は大半、普段通りな諏訪の柵である。とは申せ、厳格に厳格にと事が運ばれていたものの後だからか、将も兵も、皆いつもよりも気の抜けていたようなところがあった。火に当たりながらくしゃみをしている者の声が、どこからともなく響いてくる。

 開放された諏訪の柵の城門付近からは、途切れ途切れに人影が這い出ていった。

 徒歩(かち)か馬上か輿を使うかを問わず、沈みかけた日がつくる長細い影は、人の姿を一様に地を這うものに見せてしまうのである。やがて次第にまばらになっていく影たちの群れのなかに、じっとその場に留まる者も幾つかあった。未だ日は沈みきっていないが、帰路、完全に夜になったときのことを見越して、供回りの者に命じて城内に松明をもらいに行っている。そういう連中だ。その松明を待つ人々のうちのひとりに、もうひとつ、肥り肉(ふとりじし)をした影がゆっくりと近づいていく様子があった。どこか弛緩しているこの夕暮れのなかでは、その接触に気づく者は当人たち以外には誰も居ないのである。

「ギジチどのか」
「は、その通りですが。あなたは」

 細身の男は、自らを呼ぶ声に気づいて振り向いた。
 馬の轡(くつわ)を取っていた部下は、何があったかと不思議そうな顔をしている。
 振り向くと言っても馬上からのことで、そうすると自然、声のした方を見下ろしてしまうことになる。ギジチ、と彼の名を呼んだ男は、夕暮れの闇のなかに肥った身体をねじ込むようにして、所在なさげに彼の姿を見上げていた。「そういえば……」と、ギジチはふと考える。この男、除目が始まる前はやたらと傲然な立ち居振る舞いを見せていた気がする。それが何ぞ、あの八坂とかいういくさ神にやり込められてからは、熟れすぎて萎んだ木の実のように憔悴の様(さま)に憑かれているではないか。ギジチの観察は、それと男を見据えていた。果たして、彼の名は何だったか。確か、この諏訪の豪族のなかではかなりの勢威を持っていたはずだが。

「馬上より失礼をつかまつる。あなたは確か……」
「トムァクにござる」
「ああ。やはり今日の除目でお会いした、あの、」

 八坂神に所領を召し上げられた御方か。――とは、むろんギジチは口にしない。するはずがない。人には、各々触れられたくない領域というものが必ずあるものだ。何となれば衆目の前で新王八坂に大恥をかかされたトムァクという男の、そんな部分に触れて何の得があるはずもない。

 適当なあいさつか、それとも新たに水内一郡を賜ったおれへのご機嫌取りか。
 だがいずれにせよ、あまり関わりを持ちたいと思う相手でもなかった。

 そう判断し、ギジチは顔を背けて眼の端だけで応じるようにした。ただでさえ下馬しないうえ、さらに加えて非礼である。けれど、トムァクの方では怒りもかなしみもする様子がなかった。ただにこにこと、老いた顔を笑ませているだけに過ぎない。いよいよ不自然であった。見るからに血筋と家格を笠に着ているかのように思われたトムァクという男が、非礼を咎めもせずに、しかも彼自身が八坂神の面前で弄した弁を借りれば『ぽッと出』の新興豪族の自分に、何の用があるものか。

「ギジチどのは、諏訪の柵に今晩の宿は取っておられないのかな」
「はあ。遠方より参られた方々は、城に宿を取っておられるご様子ですね。私は、この近くに少しつき合いを持つ家があるゆえ、今晩はそちらに宿を取っている」

 と、ギジチはちらと城内を振り返った。自らの馬を繋いでいた厩(うまや)はすでに暗闇に没している。その向こう側には篝火か、灯明か、茫々とした黄金色の明かりが飽和して、いつ耐えるでもなく夜に立とうと揺らめいているのである。決して少なくはない人数の嬌声と笑い声が、ときおりかすかに響いてくる。そして諸所方々の地方の歌らしいものと、それを鮮やかにする酒の香と。

「諏訪の柵に宿を取らぬというは……あのような宴、ギジチは好かぬというのもありましてな。上に立つ者が清廉であっても、下から支える者たちはどうしようもなく澱んでいることがある。八坂の神は酒を好む豪放な方と聞き及んではおりまするが、その膝元とは申せ斯様な乱痴気騒ぎに興ずる者たちと肩を並べるは、気が重い」

 はじめて、ギジチはトムァクに微笑を見せた。皮肉な笑みである。家の当主の座に就き、十年余りか勢力の拡大に努めてきた己の来歴を白々と思い出す。その間、ギジチを利用しようとする者、擦り寄る者も数多あった。彼が自ら今晩の宴席を固辞したのは、八坂神の引き立てを得た自分に対し、宴を通して接近しようとする者が少なからずあるだろうという危うさを見越してのことであった。友情と融和の宴であるということを、除目の後に八坂神は強調していた。だが、それは方便だ。政において行く末を見定めるということは、竹馬の友同士が将来の夢を語り合うことと同義ではない。もしそこに友情とか絆とか呼べるものがあるのだとすれば、それは互いの利用価値を模索する腹の探り合い、権力闘争の始まりにすぎない。

 さてはこのトムァクもその類かと、ギジチは心ひそかに身構える。
 だが、顔つきだけはあくまで柔和にと努めて。

「しかし。まことに失礼ながら、トムァクどのもまた宴にはご出席なさらぬのですか。元は諏訪における豪族中の豪族、宴の作法もようく心得ておいでではないかと思われるが」
「いや、なに。他の者たちの面前で八坂さまに辱めを受けた自分のようなものが、しゃあしゃあと宴に加わることなどできるはずもなかろうよ。ゆえに、私のような爺はおとなしく邸に帰ろうと決めたまでにござる。その邸も、どうせ御新政とやらに取り上げられることが決まっている。ならば、今のうちに名残を惜しんでおこうとな」
「なるほど。……道理か」

 ふンと、ギジチは嘲るように鼻で笑った。

 眼の端にさえトムァクを留め置くことをやめ、それから部下に命じて馬を歩ませようとした。相手を突き放すための演技みたいなものである。が、「いや、待たれよ!」とそのトムァクが呼びとめる。眉間に皺を寄せながら、再びギジチはトムァクに顔を向けた。誰そ彼(たそがれ)の昏い逆光に、彼の顔は、はっきりと相手に見えなかったに違いない。

「ときに同じ科野人士とは言うても、御辺(ごへん)の住まう水内の郡は遠かろう。そちらさえ良ければだが、宿に帰りつく前に我が館で酒など酌み交わしながら、少し語らいなどしてみようではないか」
「これはまた、急なお誘いを」
「トムァクは爺にござる。しかし、爺もまた男。ギジチどののごとき若人がいかにして猟犬に己が出世を狩り出させたものか、その武勇伝を伺うてみたいものと」

 口角をクイと上げ気味に、トムァクは言った。

 こいつ、少し“あからさますぎる”ぞ。つい噴き出しそうになる己をどうにか御しながら、少しのあいだ思案した。なるほど、八坂神の定めた王権のうちにおいて各々の地位を占めた豪族たちは、互いの利害を考えて敵味方を見定め、接近と離反を試みるはずである。武力に頼ったいくさが終結してしまった以上、これからは少しでも多くの権限と権力を手に入れるべく暗闘が始まる時期なのだから。大きな力を持つ者と昵懇(じっこん)の間柄になっておくのは、決して悪い策ではない。八坂神に近づいたギジチ自身がそうであるように。

 おそらくはトムァクもそうなのだろうと、彼は直ぐに思い至った。

 だが悲しいかなこのトムァクという男、八坂神からは心底嫌われていると見える。八坂神の主催した宴席に出席するということは、取りも直さず、『その支配下において』権力拡張の道を模索するということに他ならない。除目の場で領地召し上げと余所の土地への鞍替えを命ぜられたトムァクが、その宴とやらに加わりたがらないのは、彼が八坂神に抱いているであろう恨みの深さからすれば当然のことでもあろうが……。

 寄らば大樹の陰という言葉もある。
 洩矢諏訪子にも八坂神にも阿り(おもねり)利用することができなくなったから、代わりにこのギジチに近づいてきたというわけだ。

「私は、決していくさを得手とする者ではない。武勇伝など」
「話せるのなら、何でもよいのです。酒の肴になるならば」

 馬上と徒歩で――ギジチとトムァクは睨みあった。
 ふたりの男それぞれの胸中に、それぞれの思惑が渦巻いていたはずである。
 天に没落を約されたかのごときトムァクに肩入れしても、自分にはほとんど益などない。そればかりか、八坂神に叛意を疑われるかも知れぬ。むろんギジチは、当にその事実に気づいていた。気づいてはいたが、彼の性はやはり本質的に商人であった。ある一方では無価値に近いものが、他方においては万金にも勝る値打ちを生み出すこともある。今や諏訪新政に表立って反抗する力を失ったトムァクたち諏訪豪族も、使いようによっては、あるいは。

「ときに、宴というのなら馳走がつきものかと。このギジチ、少しばかり舌の肥えた男でしてな。此度、トムァクどのは酒に加えて、“諏訪の馳走はどれほどまでご用意してあるのでしょう”」
「……“決して少なくはない。諏訪の田畑、山川より獲れるもの、大抵のものは供することができまするぞ”」
「だが、諏訪の地は今や八坂さまのもの。トムァクどのの宴において、何もかも好きにできるほどのものですかな」
「だからこそ。だからこそ、ギジチどのにお声がけをしたということ。トムァクも五十路ではござるが、未だ世情に疎いところもある。諏訪の地より外へ外へと見聞広めるためにも、ぜひギジチどのお若いお力をお貸し願えればと。さすれば、諸国の“珍味”も手に入ることありましょうぞ」

 ふうむ。と。
 わざとらしく、ギジチは顎に手を当てがって、難しげに考える“ふり”をした。
 なるほど、おおよその器は知れた気がする。佞臣、奸物の類ではあるが、家格に見合うほどの男ではない。他人を自らの策に抱き込みたければ、相手が力を貸しても惜しくないと思うほどの『旨味』を提供しなければ話にならない。互いに旨味を交換し合う、それが損得を交えた交渉というものであろう。長期に渡って関係を保つつもりであれば、なおさらのこと。だが、今のこのトムァクという男はどうだ。政も、最大の基盤となっていた諏訪の地も召し上げられて、彼の権勢は風前の灯ではないか。聞くところによれば、切り札として八坂神の元に送り込んだ人質の少年王もまた、洩矢諏訪子を娶ったことで策が破綻したという。

 斯様な老人が今後に望みをかけたところで、おれには足枷にしかならぬ。
 ならば、そうだ。
 肚をくくって手を結ぶには、未だ弟の仇である八坂神の方がふさわしい。

 手のひらで隠した手の下で、ようやくギジチはほくそ笑んだ。
 そして、顔に滲みでてくる嘲りの感情を薄闇のなかで努めて隠しながら、

「遠く水内から出てきたせいか、私はひどく疲れている。せっかくだのお誘いが、遠慮をいたします」

 と、早口に言った。

 トムァクは、隠すべくもなく渋い顔をする。
 宴の誘いを断られた顔――その実は、自らの策が破綻したときの顔。
 小物が、と、ギジチは内心に嘲った。だが小物なればこそ、手の内で取り回すことは容易であろう。トムァクは同盟者としては適さない。しかし、『懐に隠し持つ武器』としては適当かとも思われた。利用するなら、それしかない。

 ギジチは、にわかに下馬した。
 轡を取る部下も、そしてトムァクも、眼を見開いて驚いたようであった。夕暮れはいよいよ深く、夜がいよいよ押し寄せてきていた。こころなしか、トムァクは背を低めた姿勢となっていたように見える。彼に対して頭を下げることもなく、ただ怜悧なまま、ギジチは言った。

「筑摩の地にても、諏訪とは赴きこそ違えど美味き馳走はございましょう。トムァクどのは、それをギジチにお教えくだされば良いのです。また、科野各地に鞍替えを命ぜられた諏訪豪族方々も同じこと。さいわい、ギジチは商いをする者にて。商いで各々の土地を結ぶことできれば、さほど不自然でもなく、“互いの欲する旨味を知らせ合うことができましょうぞ”」
「ほう、それは……!」
「そういうことです。これ以上は、ここで話すべきことではない。美味い食べ物は、宴のとき供されてこそ本当に値打ちがある」

 ひらりと身を翻し、再び馬上の人となるギジチである。
 やがて、諏訪の柵からはもうひとりの部下が松明を持って駆けてきた。
 ギジチのかたわらにトムァクの姿があるのを認めると、部下は浅く頭を下げ、列の先頭に立って暗闇を照らし始める。そのかすかな明るみを逃すまいとするごとく、トムァクは声を掛けたのである。

「ギジチどの。御辺の催す“宴”の日、愉しみにしておりますぞ」

 振り返りもしなかったし、返事すらもしなかった。
 それでもギジチの脳裏には、トムァクのあの皺の刻まれた醜悪な笑みがはっきりと浮かび上がってくる。「宴か」と、彼は頬の真裏に言葉を転がす。

 トムァクは、しょせん八坂を突き殺すための密かな懐剣に過ぎない。
 となれば、その切れ味が鈍らぬよう研ぎ続けることをしなければならない。
 一方では八坂神の臣として寵を得つつ、もう一方では僻地に追いやられた諏訪豪族どもを密かに結びつけ、八坂神に対する恨みを焚きつけ煽り立てる。これは、商人として人と物と金の道で各地を結びつけることのできる自分だからこそできる策だと、ギジチは強く確信していた。どうやら忙しくなりそうである。何より、己の手を汚さぬよう細心の注意を払わなければならないのだ。深入りはせず、かと言って相対するふたつの勢力の手綱はしっかりと握っておく。

 ――考えれば考えるほど、忙しい。
 ――イゼリよ。八坂の神が死なせたわが弟。兄は必ずや、おまえの仇を討ってくれん。


――――――


 誰そ彼時――黄昏時は、古く『逢魔が時』とも言ったという。

 人間の時間である昼が終わると、再び太陽が顔を見せるまでのあいだ、夜の化身である魔のものが地上を跳梁する。かつて夕暮れの時間は、まさにその魔のものたちが人のあいだに混じって現れ始める時間、境界の魔と信じられていたのであった。しかるに、いま諏訪を包む逢魔が時が呼び起こしたものは、超常の魔では決してなかった。二柱の神の膝元にあっては、生半可な魔は屈服させられてしまうことだろうから。だからこそ、今ギジチのなかに芽生えていた八坂神奈子への憎しみは、畏れるべき神にあえて挑戦しようという野心、つまり人間特有の魔の発露であるのかもしれなかった。

 決意のままに憎しみを噛み締める彼の姿は、果たして諏訪の夜に跋扈する悪霊か。


――――――


「さあ、洩矢王。ご遠慮は無用にございまする。まずは一献」

 勧められるままに杯の中身をぐいとあおったが、別段、美味い酒でもない。
 努めてそんな思いは隠そうと無表情を貫くつもりの諏訪子だったが、ちらと横目で見遣った男の顔は、不満げなものがちくちくと浮き出ていた。それでも彼女は不快ではない。上手く感情を隠しきれなかった自分の不手際を恥じて、残りの酒を口にするだけである。いつでも物思いに耽っているときは、何を飲み食いしようがその旨味は意識のなかに溜まってはくれない。ただそれだけのことなのだが、――洩矢の氏を賜ったひとりの王という立場は、そんな諏訪子個人の取るに足らぬ現実をさえ、本物以上に大きな意味があると、周りには錯覚させてしまうのかもしれなかった。

 男――彼もまた、神奈子の新政に参じた豪族のひとりなのだ――は、その毛むくじゃらの手でわしづかみにした瓶子を差し出しながら、にやと笑んだ顔を向ける。とはいえ、彼の媚びはいささかぎこちない所もある。洩矢王のご機嫌を損ねてはならぬと、内心ではびくびくしっ放しといったところか。

「聞き及ぶところによりますれば、洩矢王は婦女の身なれど八坂神に近づき、機を見て襲い掛かり一気に討ち取らんと策を巡らしたことがお有りとか」
「うん。以前、そういうこともあった」
「おお、やはり! いや、お勇ましき限りのこと。そういうところに八坂神も惚れ込まれ、今日がごとく重んじられるきっかけになったのでございましょうな。その豪胆さ、わが一族の者たちにも見習わせとうございまする」
「そこまで大きな話でもあるまい。そもそも、身を棄つる覚悟の勇ましさというのであれば、尋常のいくさこそがもっとも道理に適うているのだ。儂が策を弄したは正道のいくさにあらず。見様によっては卑怯者のそれよ」
「いやいや。ご謙遜など似合うておりませぬ。おおいに誇って良いのですぞ。策を弄すると弄さざるとを問わず、いくさは勝たねばならぬもの。それこそ人は己の領分を尽くし、後は神に天命を委ねるほどのつもりで。私もまた、王が“洩矢”の氏を賜ったごとく、八坂神の加護を是非とも賜りたく……」

 耳に痛いほどの賛辞の羅列である。
 神奈子ではないが、これには諏訪子も耐えがたい。

「済まぬが、少し酔うた。風に当たって酔いを醒ましてくる」
「あ、あの、洩矢王? いずこへ行かれるのです? 洩矢王!」

 世辞とおべっかをひたすらに塗りつけられるのは、酔えない宴では毒になるだけだ。

 しきりに勧められて断りきれずに口をつけてしまった酒など、やはり不味いだけだった。豪族の方では、何か諏訪子による神奈子への口利きを頼みたい様子だったが、ほとんど何も聞くつもりになれなかった。すッ、と逃げるように立ち上がり、部屋の柱に背を預けて座り込み、溜め息をつく。そんな感傷じみたことをしているのは、たぶん、当夜に諏訪子だけなのだ。

 酒宴の騒がしさのなかからは、各人がみな遠慮も会釈もはるか遠くに放り投げているのがよく解る。その端も端に、彼女はひとりきりで居る。さっきの豪族は、もう追いかけても来ない。きっと諦めてくれたのだろう。

 諏訪子――改め、洩矢諏訪子は、誰と酒を酌み交わすでもない。
 ただ眉の根に皺を寄せて、しばしの時間をやり過ごすばかりだった。
 杯に代えて、いま手のなかに在ったのは、懐から取り出した一枚の紙。昼間にあった除目のとき、八坂神奈子が読み上げていた、諏訪の豪族たちの処遇を記した文書である。いかにして諏訪と科野を正義のいくさが解放したか、どういう理由(わけ)と由来をもって八坂神の新政は豪族たちに土地の鞍替えを命じたか、実際の処遇は如何……そういうことが書き連ねてある。

 今は出雲人に臣従の立場を取っているとはいえ、諏訪子はやはり諏訪の者。

 神武東征がどうとか、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がどうとか、出雲人の神話と歴史には疎いと言わざるを得ない。だから、神奈子が命じてつくらせたその文書に実際はどれほどの正当性が存在しているのか、知れたものではない。そして除目の後の祝いの宴で、自分ひとりがこんなつまらぬことにかかずらわって、酒にも料理にもまともに口をつけていないわけも、今いちよくは解らなかった。

 今晩の宴に招かれた豪族たちは、しかし、諏訪子とはまるで対照的である。

 瓶子と杯があちこちで飛ぶかのように交わされ、時に興奮した客同士によって文字通り投げ渡され、宙を飛んでいく。酔って赤くなった顔を突き合わせた男たちが、いくさでの武勇伝や、愛妾を何人囲っているかという自慢話に花を咲かせている。かと思えば、美男子に妻を寝とられた男を主題にした、卑猥な歌を面白がって歌い始める者もある。各々の土地を実効支配して政を行う豪族たちとはいっても、しょせんは土地からの“上がり”を財産とし、それを元手に武装して力を蓄えた豪農という起源に依拠する彼らでしかない。未だ武士とか公家とかいった社会制度や身分の仕組み、それぞれの階級が準拠すべき規範などがはっきりしていない時代と地域にあっては、誰もがみな己に饗せられた快楽に対してあまりに率直であり、上品さなど望むべくもないのかもしれなかった。とはいえ多分に野卑で粗暴であるとは言いながら、同時に人間が自らの快楽をなに恥じらうこともなく肯定することのできる古代の酒宴の姿が、そこにはあった。

「何だ、諏訪子。酔わぬのか」
「八坂さま……」
「そなたも酔うて、存分に祝え。われら新政の発足を」

 宴のために開放されていた練兵場からやって来た神奈子が、無遠慮にどっかりと腰を下ろした。諏訪子の真向かいである。その手には未だ温かみの失われていない獣肉の料理がひと皿と、それから瓶子が新たにひとつ。ちゃぷちゃぷと、酒の揺れる音がする。彼女のやって来た方を諏訪子は見た。練兵場は開放され、座に入りきらなかった者たちのための臨時の席となっている。豪放な王としての神奈子は、こういう宴会のときほど仕事が多くなる。方々に出向いて酒と料理を振る舞い、飲めよ歌えよ、存分に楽しめと盛り上げてやらなければならない。それが、この場に人を集めた者の責のひとつとでもいうように。

 辺りに転がっていた土器(かわらけ)を適当に手に取り、諏訪子は神奈子の酌を受けた。さっきまで眼を通していた文書は少しばかり乱雑に折り畳み、元の持ち主である神奈子へと突き出す。

「見たところ、八坂さまも酔うてはおられぬご様子」
「私が真っ先に潰れては、今宵、集まった者らに顔が立つまい」
「なるほど」

 微笑しながら、濁酒で満ちた杯を引き取る。
 ぐいと飲み干すと、甘い疼きが喉を過ぎ越して腹に染みるのがよく解る。
 それを見つめる神奈子は、やはり、酒を欲する気配も見せなかった。

「酔わねばならぬのはな、しかし、実を申せば諏訪子の方であろうよ。そなたが浮かれ騒いでくれればこそ、此度の除目が正しかったことが人の眼にはよう映る」
「酒の席でまで政の話にございますか」

 笑いだす諏訪子を見つめながら、「酒の席なればこそよ」と、神奈子ははっきりと言い切った。神や王の権威もお構いなしに、好き勝手に飲み、喰い、歌う豪族たち。一方、彼らを冷ややかに見、ときおり含み笑いを交わしながら密かに語り合う豪族たち。どちらも同じ、科野州の豪族たちだ。彼らにぐるりと眼を走らせ、溜め息をひとつ。

「宴もまた政。しかめっ面をしておるよりは、酒でも喰ろうて浮かれ騒いだ方が、政としては未だ易しいからな」
「しかし、そのために各地の豪族たちに世辞をぶつけられるのは、いささか骨が折れまする」
「さっき、そなたに酌をしていた男のことか」
「いかにも」
「権力の座にある者は、とにかく“もてる”。あの男の名は、クジャンと言うてな。高井郡(たかいごおり)の豪族なのだ。近ごろ、北方の荒蝦夷たちが国境(くにざかい)を越えてかの地を侵すことおびただしく、豪族たちは対処に手を焼いておるらしい。だから連中が欲しいのは、いくさ神であるこの八坂との強き繋がり、そしてその助力よ。宴席であるのを良い機会と見、諏訪子を通じて私に取り入ろうと考えたに相違ない。軍勢の派遣か、あるいはこの八坂神を祭祀して戦場での加護を得たいという陳情か」
「“将を射んとせば先ず馬を射よ”と」
「だが、此度は将も馬も射止められなかったようだがな」

 皮肉げに、唇の端を歪める神奈子である。

「まあ、向こうもよほどに切羽詰まっておるのだろうし、宴の席でのことゆえ無礼講と思うて許してやるが良い。私は酒も宴も好きだ。ハレの機を呑んで、斯様に大騒ぎをする連中を見るのも好きだ。だが、当夜のごとき宴は、堂々と腹の探り合いをすることが許されるだけの場でもある。誰が敵で、誰が味方かがぼんやりと見えるな。酒は人の心を洗い、互いの思うところをより鮮やかに見せる。相対した者同士の目論むところまでも。それが、政の絡む宴というものよ」

 と、諏訪子から受け取った除目の文書を自らの懐に押し込む神奈子。

「まるで群がる蟻を相手にするようなものではないか。彼らはみな、より甘い蜜を自らの巣にまで引き入れるべくこの場に居るのだから」
「それは……やはり、われらふたりも同じということにございましょうや」
「かなしきことだがな」

 神奈子は、首を縦には振らなかった。
 代わりに、ようやく杯に酒を注いで一杯飲み干す。諏訪子には、それがこの友人が見せた最大の肯定であるというのがよく解る。

「よう見ておくべきでございましょう。誰が誰と親しく歌を歌うているのか、誰が誰と美味い酒を飲んでいるのか」

 眼の端でだけ、諏訪子と神奈子は宴席を見渡す。
 ふたりの王の視線に気づく者も、わずかながら居たらしい。口の端ににやと笑みを浮かべながら、互いに辞してまた別の相手と話をしに行こうとするのである。座を入れ替え、酒の相手を取り替えながら、諏訪の柵の宴はいよいよたけなわであった。

「今日、この場での腹の探り合いをせぬ者は、果たして敵なのか味方なのか」

 フと諏訪子は問う。
 神奈子は、片方の目蓋をゆっくりと持ち上げるように開いた。

「この場に姿を見せぬ者たちのことを、言うておるのだな」
「むろん、そのことにございます。……失礼ながら除目の文書を勝手に拝借し、改めて諏訪豪族たちへの処遇を確かめさせていただきましたが、」

 杯を床に置いて指を折り始める様は、数の数え方を覚えたばかりの子供にも似ている。何という意味もない諏訪子の仕草である。折られた指の一本一本に、除目において所領を削減された諏訪豪族たちの存在が浮かび、ぼんやりと重なっていく。

「コログドは安曇郡(あづみごおり)の北辺、トライコは伊那郡(いなごおり)の南端、そしてトムァクは筑摩郡の山間(やまあい)。いずれも、政の府たるこの諏訪より離れたる土地にございます」
「そうだな。否とは言えぬ。それが、われらの狙いだったではないか」

 神奈子は、実に平然としていた。
 武力、財力、生産力、経済力。土地の大小がそこを治める者の力の強さを決める以上、諏訪新政にとって最大の障害である諏訪豪族の力は、彼らをその基盤たる広大な所領から切り離すことで削減されなければならなかった。八坂神奈子と協調連帯する道を選んだ以上、諏訪子もまた豪族たちの切り崩しには少なからず手を貸してきた。それは、確かにある。しかし。

「此度の処遇、少し厳しすぎでは」
「何を。今さらになって、守旧の臣下に憐れみが湧いたか。あれらを奸物よ佞臣よと言うていたのは他の誰でもない、諏訪子その人ではないか」
「連中を憐れんでいるのではございませぬ。つまり……」

 再び杯を手にし、今度は諏訪子自身が酒を注いだ。

「あまり厳しくすると、反感を持たれるのではと」

 次は、神奈子の方が杯を置く番であった。
 箸を取り、皿に盛られた猪の肉の焼きものを二つ三つと口に運ぶ。「塩気が足らぬ……」と早口に呟く。

「今もっとも怖れるべきは、政を侵す恐れのある諏訪の豪族どもが再び力を結集し、互いに示し合わせてわれらに弓引くことではないか。それを防ぐためには、やつらをその勢力の源となっていた土地から切り離し、各々が容易には手を結べぬよう科野各地に新たな所領を与え、距離の隔てをもって“散らばして”しまうことだ」
「しかし、急にこれでは反発を招きかねない」

 なおも食い下がる諏訪子に、酒をグイとあおってから神奈子は続けた。

「だから、あのギジチという男のような新興の豪族たちを使う。要は古き獣と新しき獣とを互いに喰い合わせ、わられはそれを高みから見下ろすのが良い。新興豪族を上手く飼い慣らせば、守旧の豪族たちに対する番犬となってくれよう」
「果たして、そう上手くいくでしょうか」
「元より、内外に対してわれら新政の威を示すことは遅かれ早かれ必要だったのだ。従えば益を賜い、逆らえば害を被るとな」

 ただ、それだけのことではないかよ。
 呟く神奈子は、何か少し寂しげな影がある。酒にも料理にも飽いたかのように、諏訪子もまたぽつりと応えることをした。

「――まこと、政とは人を祟るものにて」
「祟られておるのは、私と諏訪子かもしれぬ。政なるもののなりふり構わぬ様は、神さえも絶えず病ませよう。……だが、なに。今度も上手くやってみせる」

 神をも蝕む『政』という病。
 あたかもそれは、神慮叡慮と呼ばれるものが、人の世の安寧を願う素朴な信仰の場から遠く離れた極点において、ただひたすら為政者の欲する“正しさ”を与えるだけのものに堕する道筋ではなかったか。それを思い、諏訪子は慄然とさせられる。かつて自分の名を利用して好き勝手な政治を行っていた諏訪豪族たちと同じものに、いずれ自分もまた変わってしまうのではないだろうかと。

 取り越し苦労に、終わって欲しいが。
 だけれど八坂神奈子というやつは、神たる自らの身が政のためのものに堕してもなお、それを糧として生き長らえるすべを知っているのではないかと思わせるところもある。その見立てが称賛なのか、それとも侮蔑に当たるのか、解らないから諏訪子は黙り込むしかできなかった。

 そして「はあ」とも「ほう」とも聞こえる息を吐いたのは、神奈子であった。いつか思慮のうちに呆けていた諏訪子に気つけを与えるかのように、少し芝居がかった溜め息だ。

「酒の席が政のひとつというなら、男女の婚儀も家と家とを結びつける政よ。……諏訪子、このめでたき席にそなたの“夫”の姿が見えぬではないか。大きな宴の席で、酔っ払いどもの御し方やら捌き方を覚えるも、立派な政の鍛錬と言えようものを」

 にやりと、下世話の色を含んだ神奈子の笑み。
 少し「むッ」としたかたちで頬を膨らませながら、今度は諏訪子が息を吐く。

「子供にございますよ、未だモレヤは。酒だって口に含みさえしたことがない。飲み食いをしているうちに眠くなったと申して、今はもう寝所まで下がっております」
「何だ、つまらん。そなたたち夫婦(めおと)は、未だ閨(ねや)さえ共にしてはいないのであろう。こんな酒くさい所で豪族どもをもてなすは八坂の仕事、諏訪子は早いとこモレヤに抱かれに行くが良い」

 それとも、諏訪子の方がモレヤを抱くかな。
 そう言って目蓋を細め、神奈子は愉しげに笑う、笑う。
 中身は女というのに、声音は卑猥な歌を放吟する豪族親父どもとそっくりである。

「八坂さま。いくら酒の席とはいえ、口にすべきではない冗談というものはございましょう」
「嫌いか、あの子のことが」
「そうではございませぬ!」

 着物の袖を振り回しながら、恥ずかしさを繕うようにして諏訪子は叫んだ。さいわいか、酒宴の騒がしさゆえその声は方々の大騒ぎに吸収されて消え去っていく。神奈子は、なおもにやにやと笑んでばかりいた。

「好きでいようと、諏訪子は思うておりまする。祭祀の長としてのモレヤではなく、ひとりの人としてのモレヤを」

 今度の神奈子は、笑わなかった。
 自分から卑猥な冗談をけしかけておきながら、返ってきた答えは望むものとは違っていたらしい。「左様に“むずがゆい”答えを示すような仲か……」と、彼女は言う。

「むずがゆい、とは。可笑しなことを仰せになる」
「まあ解ってはいるのだ、八坂とて。そなたたちはもう夫婦だ。ふたりの営みをあれこれできる立場では、私は、もうない」

 諏訪子も神奈子も、ふッと微笑をしていたのである。
 けれど、ふたりともの視線がそれぞれまったく違う方向を向いていた。そのせいで、互いが互いに笑んでいたことを、とうとうどちらも気づかない。

「私は、モレヤをひとかどの男として鍛え上げたいよ。しかしそれは、あの子が諏訪の王となるからという大きな前提に立ったうえでの話なのだ。だから八坂はな、とうとうモレヤを祭祀の長、人界に数多ある王以上のものとして扱うことはできぬのかも知れぬ。なれば、モレヤをモレヤとして扱うことできるのはよ、やはり諏訪子だけと思う」
「王たるもまた、モレヤという少年を成す一部。われらは、いわば共にあの子を縛っているに他ならない」

 ひとりは夫として、ひとりは祭祀者として。
 二柱の神は、それぞれの意味合いでモレヤの生を規定する『共犯』である。
 白い膝を抱える様子で、諏訪子は続けた。己が身に秘めた罪なるものを洗いだすかのように。

「しかし、あの子が王でなければ、今のごとく繋がりを持つということもなかった。挙句の果てに、諏訪新政において祭祀の長とは。女子たる諏訪子よりも今は小さきあの双肩に、一国の祭事としてわたしと八坂さまを祀るだけの権が与えられたとは」
「元より、人の世にて神を頭に戴く王とは祭祀の長だったのよ。それを衆目に照らし、正しう布告したというだけ」
「けれど政のうえにては、あの子がただの傀儡ではなくなったということ。諏訪子と八坂さまを祀る者として。そして、わが夫として」

 除目のことが、数刻も前の出来事というのにはっきりと思い出されてならない。
 八坂神奈子から直々にその身の沙汰を言い渡され、モレヤは人質でも仮初めの王でもなくなった。洩矢諏訪子の夫であり、新たな政においては八坂と洩矢という二柱の神を祀るという大役を下賜された、正しく祭祀者の長なるモレヤ王となったのだ。諏訪子には、あらかじめそれと予想されていたことではあった。自らの夫たる、かの少年の地位と立場から危うさを取り除いてしまうには、これ以上の良案はない。政治というものの比重において神の存在が重きを成す世界観のなかでは、神の声を聞き、神を祀る者こそが、王者の条件にはもっとも近いのだから。

「もうひとつ、」

 と、神奈子は言った。
 ちらと、次に出るはずの言葉を諏訪子は待つ。

「そなたと私の後を襲う、次代の王としてもな。宴の場はつるぎなきいくさの場よ。ひとつ、われらも談合と致そう」
「談合……?」

 訝しげに眼を細める諏訪子へ、

「モレヤをこの八坂神の養子として迎え、もって神系に連なりし子と位置づけておきたい」

 と、神奈子はひっそりと言った。

 指先が震えるのが、諏訪子自身にもはっきりと解った。
 神奈子に対する怒りではない。ただ純粋な驚きのためである。

「わが夫を、八坂さまの養子と……」

 また、なぜか。
 諏訪子からの言葉の続きを待たずに、神奈子は続けた。

「考えてもみよ。ミシャグジ蛇神と人々との間を調停する諏訪子と、見神の才持つモレヤが夫婦となる。それは、それで良い。科野人士も納得しよう。だが、出雲人はどうなる。“後見”という立場は――便利なようでいて、その実はひどくあやふやだ。しかしモレヤを八坂神の子ということにしてしまえば、すべてが丸く収まる。要は出雲人の子が、諏訪の神と婚儀を結ぶという体裁さえ整えることできれば良い。そうすれば、私はモレヤの父として、あるいは母として、モレヤと諏訪子を後見するという大義名分も立つ」
「しかし! ……しかし、それでは」
「どうした」

 ほんの少しためらいながらも、疑問を述べる。

「それでは、モレヤの身を政の道具にせんとした諏訪豪族たちと、同じ穴の狢(むじな)ではございませぬか」

 ふッ、と神奈子が鼻で笑って応じたところは、子供のたわごとを相手にしているかのような色を持っている。諏訪子の過去に言ったことを、もしかしたら嘲っているのかもしれなかった。元はと言えば、『モレヤを養子に』と言ったのは諏訪子の方だ。彼女がモレヤの妻になると言ったとき、武器庫のなかで神鹿の御頭を前にしながら、神奈子にそう伝えた記憶が確かにある。しかし、――とも、諏訪子は今になって思う。あの言葉は、神奈子を説得するためにその場でひねり出した方便、いわば“ものの喩え”のつもりだった。それを、まさか実行に移すなど。

「八坂さま、諏訪子が“モレヤを養子に”と申したは、あれは、その場の勢いというか、要は喩え話で……」
「その喩え話にも、よくよく吟味するだけの値打ちはあったのだ。諏訪子、私はな。何も自分の政のためだけにモレヤを養子にすると申しておるのではない。これは、諏訪の行く末を考えてのことでもある」
「行く末?」
「うん。いま諏訪を中心に科野諸州を握っているは、この八坂神が率いる王権、つまりは出雲人の政。その政を次代の者たちに引き継がすとなったとき、いきなり諏訪人の子らにすべてを明け渡せば、出雲の者らに示しがつくまい。……それを考えれば、“モレヤは八坂神の子である”という体面だけでも整えておけば、少なくとも王権の継承を滞りなく行うことはできる。どうだ」

 喧騒を遠ざけるみたいにしてしばらく黙りこんだ後、「本当に、……神奈子さまの眼には、モレヤが数多の諸王のひとりとして映っていると見える」と諏訪子は呟いた。

「ずいぶんと嫌味なことを申すのだな。だが、われらは王ぞ、諏訪子。王という位に縛りつけられた者ぞ。だからこそ王は王の責を果たさねばならぬ。情愛も親心も、衆生とそのかたちを同じくするというわけには、決していかぬのだ」
「われら夫婦の仲に政を噛ませることが、情愛であり親心と?」
「そうだ。洩矢諏訪子とモレヤ、そしてその子や孫を富み栄えさせるために仕掛ける、百年の大計だ。ましてやわれらは国を背負うておるではないか。そこに棲む幾千幾万という民人(たみびと)の命を」
「斯様な謀を巡らさずとも、神と人のあいだに子が産まれれば、その血筋は尋常のものとは異なるものとなりましょうが。それだけで民人を護り導くことができるとはお思いではないのですか」
「一方のつるぎが朽ちたとき、もう一方のつるぎがあれば、さらに長く戦い抜くことできよう。モレヤを八坂の御子とし、諏訪子との婚儀を行わせる。これで、ふたつのつるぎが揃うのだ。名のうえでも血脈のうえでも、次代より後の諏訪の王権は、より強き“正統”を持つようになる」

 未だ酔いが回らぬことにいら立ちながら、さらに諏訪子は思案する。
 長考を経なければならなかったのは、確かに幾つかの点で神奈子の案は理に適っていると思えたからなのであった。

 いかに見神の才を持つとはいえ、血筋のうえでは、しょせんモレヤは生国(しょうごく)さえはっきりとは判らない祝(はふり)の子である。むろん、才あれば国と人とを統治するのに何の障害もあるはずはない。けれど実際の能力云々以上に、世の人々は為政者の血筋や毛並みという所にこだわりたがるきらいがあるというのを、諏訪子もやはり知っていた。

 劉邦は、一介の侠客という卑賤な身分から身を起こし、楚漢争覇の戦いを制して項羽を斃し、漢王朝の高祖となった。その劉邦の母は夢にただならぬ瑞兆を見、その後で劉邦を産んだそうである。

 そういう話を、諏訪子は稗田舎人から借りた書物のなかで読んだ記憶があった。むろん、事実かどうかは判別のしようがない。しかし権力の正当化のためには、常に『神話』が必要なのだということはこの故事からもよく伝わってくる。天に愛され神に護られることこそが、帝王を帝王とする“仕掛け”のひとつとして。

 モレヤが、形ばかりも八坂神の子ということになれば、諏訪子との婚儀が外に向けて特に聞こえが悪いということもなくなるはず。そして、八坂神の養子たるモレヤがミシャグジ蛇神の統率者たる諏訪子とのあいだに子を成すことさえできれば、以後の子孫は紛うことなき神系の血脈として、その歴史に『神話』を内包し続けることができる。家が存続する限り、神話に基づく王権もまた存続することができる。その可能性に、神奈子は強く賭けているのだ。

「人に信じられることなくば、神なるものはいずれ消える。王なるものも同じことよ。人からの信義なくば、必ず廃れる。ならばその血のうちに天命宿し、人の世を永世に治めていくだけの連綿たる“流れ”が必要になる。神よりもさらに強く、神よりもさらに人に近き“流れ”が。われらを祖として仰ぐ“流れ”が」
「それを、諏訪子とモレヤが産み出すことできるとお考えか」
「だからこそではないかよ。モレヤに神が子としての立場を与え、神を娶らすことで神の血を引く子を産ませる。後世、諏訪王の始祖と目される子を」

『洩矢』の名と血を受け継ぐ一族を!

 力強く、神奈子は宣した。

「まったく、わが身を諏訪の弥栄(いやさか)を産み落とすための、借り腹と見なすがごとき言い草」

 少なくなった瓶子のなかの酒をちょろちょろと注ぎつつ、いつか諏訪子は衣越しに自らの腹を撫でていた。未だ何ものをも宿したことはなく、何人(なんぴと)の侵入さえも許したことはない少女の肉体を。その場所を初めて犯したのは、何処(いずこ)からの男でも女でもない。ただ、政という行為のままならなさであったのかもしれなかった。

「そなたには、八坂を恨む権利があるのだ」

 予想だにしない、神奈子の言葉であった。
 ちらと顔を上げると、諏訪子は酒を口にするのも忘れてしまった。

「そこにいかなる思いあろうと、諏訪子とモレヤが夫婦となる……たたそれだけで立派に政は成ってしまう。結果として、政はそなたたち夫婦のあいだに踏み込むことになった。ましてや、これからのち王の座を受け継ぐことになる血筋に、“洩矢”の氏を与えたのはそういうことだ。氏は、ただそこに在るだけの名ではない。数多の同族たちの上に君臨し、その棟梁たる血筋を保つ証として名乗るべきもの。モレヤが諏訪子に子を産ませねば、何の意味もなきもの」

 決然とした口調の神奈子に、依然として諏訪子は動揺をさせられる。

 古代の倭国において『氏』(うじ)という概念は、今日の『名字』よりもはるかに重大な意味を持っていたという。それはある血族、同族集団のなかでもっとも優れ、力ある者たちこそが名乗ることのできる称号がごときものであり、ためにその血筋は氏族として、他の同族集団とは一線を画す存在となっていたのである。ヤマトの王権が、その支配域の豪族たちに対し、忠誠の度合いに応じてやはり氏を下賜して恭順を誓わせたとされるのは、むろん懐柔のためもあろうけれど、つまりはその領国を任せるにふさわしい血族であるということを、王権において保証したということに他ならなかったのではないだろうか。そして、その各々の氏族血族に依拠した地方統治・地域支配を行ってきたという家筋の矜持は、倭国が『日本』へと脱皮して中央集権体制を志向し始めた後の時代においてもなお、中央から国司として派遣されてきた官僚と、ときに対立や相克をくり広げるといったかたちで受け継がれていくのであった。

 翻ってこの諏訪という地は、神と神を祀る豪族たちによって治められてきたのである。
 その地に人と神の混じり合った血脈を持ち、それを証するための氏を掲げる一族――洩矢氏という真の諏訪王家とでもいうべきものを、八坂神奈子は打ち建てようとしているのだ。

 むろん、政のうえではそれが正しいことなのだろう。
 正しさを信じるからこそ神奈子はその策を採り、諏訪子もまた『洩矢諏訪子』となった。
 事態は過つことなく進み続け、しかし、放たれた矢のごとく元に戻ることもない。政という荒野にすべてを投げ打つ覚悟をしているように、神奈子の姿は諏訪子には見えた。だけれど同時に、それがどうしようもなく下手くそな演技であるようにも、また見える。論理のうえではすべてが整っている。後は、当人たちの感情次第であった。

「子を産むことなければ、すべての策はむだに終わる」

 唇を真一文字に引き結ぶ、神奈子。

「上手くいってくれなければ、私の恋をモレヤに譲った意味もない」
「未だ、引きずっておいでなのですね」
「われながら、未練がましうて笑いしか出ぬ。われら初めて出会った晩、“そなたの心までも服せしめてみせる”などと、勢いづいて言うてしまった手前はなあ」

 諏訪子に茶化される道をあらかじめ塞いでしまうかのごとく、神奈子は呵々と笑った。

「八坂神奈子は、もはや睦み合うたのよ。誰を相手にするでもなく、しかし、この諏訪なる国の行く末と。その果てに産まれたのが諏訪子とモレヤという夫婦だ。そなたたちの血が脈々と続くことこそが、私の子や孫が天下に満ち満てることと同じ」

 少しのあいだ、ふたりとも何も言わずに黙り込んでいた。
 するとやがて沈黙に飽いたのか、神奈子は料理も酒もその場に残したままで、突然に立ち上がる。背の高い神奈子の顔は、諏訪子の視界からわずか外れる。何処からともなく、八坂さま洩矢さまと、ふたりを呼ぶ者たちの声が聞こえてきた。二柱の神と懇意の仲なることを取りつけんと欲する、幾多の豪族たちからの誘いの声。生の快楽と政をかたちづくる謀と、ふたつものが洩矢諏訪子と八坂神奈子の手を引こうと、秋の諏訪を照らす灯明の向こうに絶えることなく浮かび上がっていた。今は未だ燻ぶっているだけのかすかな野心を、いったいどこで燃え上がらせようかと思案しているように見える。

 天下に満ち満てる、子や孫か――――。

 わが身とわが身に関わるもののおそらくすべてが、政の趨勢(すうせい)という天秤を傾かせるだけの重石なのだと諏訪子は思う。ならばその重石が秋の田を奔る黄金色の稲穂のように、うつくしく価値あるものとなることはできるだろうか。わたしはモレヤと、モレヤとのあいだに産まれるであろうわが子を、何の打算も謀も介することなく、妻として母として、愛することができるであろうかと。

「然るべきときが来たら、きっと。諏訪子も、母となりましょう」

 と、諏訪子は向こう側の人の輪に加わりかけていた神奈子の背中に声を投げた。
 聞こえていたのかは解らない。何せ、不断の喧騒である。少女ひとりの声など届かない方が当たり前である。けれど、きっと聞こえているという確信はあった。神奈子はその場に立ち止まって、どこに歩みを進めようともしていない。

「しかし、今は未だそのときではないのです。諏訪子は妻として、モレヤのそばに居ようと決めました。しかしあの子は……モレヤは、御年九つ。年明ければようやく十。男子(おのこ)とはいえ恋のひとつも未だ知らぬ童。斯様な童の行く末を、いつの日か産まれてくるであろう子の父としての運命によって、縛りつけるのはまことに許されることなのか」

 ゆっくりと――神奈子は再び諏訪子を振り返った。
 しかし、正面から顔を合わせようとすることはなく、眼の端でだけ、諏訪子を見遣る。

「斯様にあの少年の身を思うこそ、諏訪子がモレヤを好いておるということよ。そしてそれが恋というならよ、すべては“まこと”、許さるるべきことではないか」

 溜め息を吐きつつ、うなじから髪の毛の生え際を指先で幾度か撫で、彼女は答えた。
 子供を相手にしているときのままならなさを、やはりどこまでも神奈子は見せているのかもしれなかった。

「恋のひとつもせぬ者は、男であって男ではない。しかし初めての恋の相手が、モレヤにとっては洩矢諏訪子なのだ。世に、これに勝るしあわせというものが他にあるか。こればかりはな、政云々の話ではないぞ。この八坂が、本心からそなたに贈ることのできる言葉だ」

 その言葉の最後の方は、誰かが瓶子を蹴倒す音に阻まれて、諏訪子の耳には届かなかった。


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