Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第四話

2013/01/18 15:26:27
最終更新
サイズ
95.33KB
ページ数
4
閲覧数
2986
評価数
9/17
POINT
1260
Rate
14.28

分類タグ




「水内郡(みぬちごおり)の豪族、ギジチ」
「は……」

 神奈子に名を呼ばわれても、彼は面を上げることがなかった。
 王の御前ということで、必要以上に畏まっているのであろうか。歳の頃は三十前後と思しく、背は高いが体格は細い。少なくとも武芸とかいくさの“におい”を感じさせるような身体つきではない。長い髪は総髪にしていて、その背中まで垂らされている。ずっとひれ伏したままでいるこの男の顔色を、誰も直ぐにはうかがい知れなかった。

「そなたには、此度、水内一郡を与える」

 神奈子がそこまで伝えることで、ギジチはようやく顔を上げる。

 薄い口髭は不精の結果としてまばらに生えているのではなく、他人(ひと)には見目よく映るようむだなく形を整えられているものだ。感情の色の見えない表情からは、烈しい勇ましさというよりかは、何よりもまず如才のない利口さみたいなものの方を持ち合わせているような所が、何となしに見える。

 やはり薄い眉毛の下から覗く眼は怜悧だが、――しかし不思議なこと、表情の無色さとは裏腹に、どこか反骨の色に燃える思いを抱いている風でもある。隠しきれない叛意にも似たものが。『野心』であろうか、あるいはそれは。尻尾を出すまで突っついてみるかとも、神奈子は心のうちにてほくそ笑む。他者の心底(しんてい)を覗いてみたいといういささか下卑た好奇心は、神たる彼女にもないではなかった。

「ギジチよ。そなた、元は水内の郡のうち、さらにその数ヵ村を治めるのみの小領主に過ぎぬと聞いていた」
「さようにございまする」
「郡(こおり)といえば、国の一角を成す広き土地。此度、そなたに与えたはその郡の司という大役。その努め、何か不平とか不満はあるか」
「なぜ、急に斯様な問いを」
「そなたの顔には、“自分には何か秘める思いがある”と、そう書いてあるぞ」

 野心強き者は、嫌いではないがな。
 と、そんな神奈子の冗談にさえ、ギジチは愛想笑いも返さなかった。

「元よりこのギジチは蚕を飼い、絹の商いを行うて参りました一族の出にございまする。さいわいその仕事にて財を蓄え、人々より心を寄せられること幾代か。雀の涙ほどとはいえ自ら治めることのできる土地を得、当代の家長たる私は今こうして新たなる王の御前にまかり出、その御尊顔を拝するという破格の栄誉を賜っておりまする」

 言葉の流れに淀みなどまったくない。
 自らには一片の私心もないのだと、その意をよく織り込んだかのような弁明である。

「また、今では一族栄え、わが家に仕える郎党の数も増えました。諸国の品々を損ずることなく留め置くべき場所、分家宗家を問わず新たに根を下ろすべき土地、いずれも足りぬと思うていたところにございまする。そこにおいて八坂さまの御意思たる此度の御差配。たかが小村の主ごときが郡ひとつを賜るという過分な引き立てを得、そこに何ぞ一片の不平も不満も抱く余地がありましょうや」

 神奈子は、顎を撫でる。
 抑揚のない話し方は、単にこの男の癖なのか。それとも努めて感情を隠すべき理由があるのか。彼女の洞察をもってしても直ぐにそれとは計りかねた。だが、それ以上の事情において、八坂神奈子にはこのギジチという豪族を手放しがたい理由がある。できることなら犬を飼うごとく、首輪と鈴をつけて飼い慣らしでもしたいだけの。

 それならば良いと、彼女もまた何かを覆い隠すような声を上げる。

「が、一郡を賜ると言うても。水内郡における政の何もかもが、そなたの思い通りになるというわけでもないのだぞ。この八坂の意によりて領主となるうえは、科野州が中央の府から特に政令発したるとき、直ぐに従うてもらう。解っておろうな」
「むろん」
「土地における徴税の権はそなたに一任する。が、租税の幾らかは我が政を営むための糧とすべく、滞りなく納めてもらう」
「それも、心得てございまする」
「政と徴税とが正しく行われているか確かめるために、八坂が直轄する屯倉(みやけ)を除いた各地の領主たちの元には、出雲人の監察吏を目付として送り込むことになっている。その者らに叛くことあらば、そなたは直ぐに叛逆者よ」

 幾分か、意地の悪い声音の神奈子であった。
 相手が自分に逆らわぬのを分かっていながら、あえていたずらのようなやり口を仕向ける。そういう気持ちが今の彼女にはあった。が、転じて――裏を返せば、八坂神奈子という新王の政治基盤が、それだけの脆弱性の上に立っているのだということをも意味していたのかもしれなかった。

 屯倉(王権の直接支配が及ぶ公領地)以外の土他は、新政の土地配分策に依るかたちで、各豪族の私有が許される領域として分配されることになった。それが、諏訪子との合議のうえで出した神奈子の結論だ。ただし、各領地には公からの代官が送り込まれ、常に政情と徴税について確認を行うことともした。いわば、神奈子の科野政権は自らの直轄地を除き、各地を各豪族に任せて間接支配をするというかたちである。

 天皇をその中心と戴く日本国が、隋や唐を参考にして中央集権体制と律令国家体制の整備を試み、まがりなりにもあまねく日本全土を公領とする制度をつくり上げようと考え始めたのは、推古天皇の時代からだという説があるそうだ。それによると聖徳太子が成し遂げた数々の国政改革は、未だ揺籃(ようらん)のそれを出なかったとはいえ、日本における律令制度の先駆けと解釈することもできるらしい。

 だが、それ以前。

 ヤマト王権の支配が地方にあっては未だ定かならざる旧い時代にあっては、中央集権体制を全国に敷くことは至難であったことだろう。公領と私領を分ける別においては、各々の土地に元いた豪族に対し、彼らが地縁血縁によって蓄えた力を決して軽視できない部分もあったはずである。元より、ヤマト王権に服属した地方の豪族に諸国の統治を任せ、国造(くにのみやつこ)としてそのまま任ずるという古代日本の状況は、中央から官僚として役人を派遣して、それでたやすく統治ができるほど、地方における朝廷の威光も権力も確立されていなかったということの傍証ではないのだろうか。つまりは、当時の朝廷が選択した、やむを得ざる妥協のようなものだったのかもしれない。

 加えて、この諏訪を中心とした科野国の統治は、八坂神奈子を頂点とした地方の分国のようなもの。ただでさえ大王なるものの権勢に組み込まれて日が浅いこの国では、いきなりすべての権力を取り上げれば当地の豪族連中の反発しか招くまい。だから名目上だけでも私領を与えてやり、その統治が神奈子の意に適うものとするため、各地の領主となった豪族たちの元には出雲人の代官を任ずる。そういう腹であった。

 つまり、神奈子は科野各地に王の眼として王の耳として、自身の名代となる目付を走らせようと考えている。むろん、このギジチという男の元にまでも。

「八坂さま」

 それまでとは一転、ギジチは声に力を込めた。
 ふと驚き、わずかながらも眼を剥かされる神奈子。

「よもや、われらふたりのあいだに甚だしき遺恨ありと見て、斯様に幾つもの問いを発されるのでございまするか」

 ギジチから逆に問われても、彼女は何も答えない。

「怖うございまするか」

 ふっ、と、そのとき見せた微笑が、ギジチが初めて見せた笑みであった。

「怖いか、だと。そなたのことがか」
「ひとかどの武人らしい、気力のみなぎったあなたさまのお顔。しかしながらそのお顔には、はっきりと書いてありまする。“ギジチという男、喰い殺すには幾分持て余すゆえ、水内一郡とその司なる首輪をつけて飼い慣らさん”と」

 そんなはずはない……と思い、瞬間、神奈子の視線は左右に泳いだ。それから、また直ぐにギジチを見ると、彼はよりいっそう笑みを深くしてこちらを見つめているではないか。鎌を掛けてきた――わけでもあるまいが、自分の役者ぶりなど、まさしく上に『大根』とくっつくそれでしかないのだと、彼女は苦々しく思わずにはいられない。

「あなたさまが、何ゆえ私のごとき小村の主に郡の司という大役をお与えになったか。此(こ)は特に詮議にかけるまでもなく明々白々かと覚えまする。わが一族の蓄えし米、絹、鉄。それを介して行われる諸国との商い、取引。その結果として手に入れる各地各人の財物、情勢、人脈。それらは、新たな益となって次の商いを生む基となる。それらの値打ちが八坂さまの政に占めるところは、決して軽きものではない」
「そなたが持つ諸々の財の力を、我が怖れていると申すのだな」
「ふむ。……よう考えてみますれば、“怖れている”という言葉は似合うておりませぬ。あなたさまのまことの心底は、このギジチを――否、ギジチが蓄えた財、そして財を蓄えるに及ぶ商いの道筋を“欲している”ということにございましょう」

 目ざとく何かを察知したか、ギジチはどこか唐突な能弁家ぶりを発揮し始める。笑みはいつか消え、初めと同じく無表情な彼であった。だが、同時に。とても、これがついさっきまで抑揚のない話し方しかしていなかったのと同じ男であるとは、神奈子にはしばし信じることができなかった。

「わが一族が財を投げ打ち、北国の蝦夷たちを通じて手に入れし猟犬や駿馬(しゅんめ)。その価値の高き次第は、わが進物をお受け取りになられた八坂さまご自身がよく御存知のはず」

 思わず、両の拳を握り締めた。
 今日の除目での差配は、その進物に少なからず心動かされたからだ。そういうきらいもないではないから、神奈子は否定も肯定もしなかった。神奈子の無言を一定の肯いと見て取ったか、ギジチは再び笑みを浮かべる。今度のは、狐のように細められた眼がついてきた。

「八坂さまは、まずもっていくさ神にございまする。なれど、いくさ神がいくさ神の力をもってただいたずらに四隣を侵し、政をかすめ取るのみの御方なれば、ギジチはじめ科野諸州の豪族輩(ごうぞくばら)は、今日、こぞって諏訪に集まりなどしなかったことでございましょう。すべては八坂さまのお志に賛同いたし、また、忠を持って参ずるにふさわしき御方であると、そのような確信に至ったがため」
「そなたの言う八坂の志とやらが、そなたの財を欲すると?」
「私もまた、あなたさまが何を目指しておられるかというお噂は、かねがね聞き及んでおりまする。八坂の神は出雲におわす大王なる現人神に従いて、倭国一統の世を天下に敷くべく、ここ科野にまで参られたと」

 聡い男だ。
 と、神奈子は苦笑させられる。
 怖れている以上に、確かに彼女はギジチの力を欲してもいる。
 貨幣として流通可能な米や絹や砂金。いくさには不可欠の武器兵器。彼たる商人の源、養蚕の技術者たち。そして絶えざる商いをもって構築された、多方面の人々との人脈や交易の道筋。それらは皆すべて、諸国諸州との商売で蓄えた『財物』に他ならない。神奈子が国を富ますには、この財物の力が必要なのだ。土地の配分は、軍を養い徴税を綻びなく行うための基盤である。だがそれはやはり、あくまで『基盤』に過ぎない。大元を整えたのなら、そこから手に入る“もの”を次の段階に役立てなければならない。つまりは経済の発展であり、自らの膝元において金廻りを早め、人集めをするための方策である。栄えている所に人は集まる。人が集まれば、物売りもやって来よう。物売りがやって来れば諸国の品が国には溢れ、さらに富み栄える。それは農民たちが汗水垂らして土を耕し、その結果として得たものを徴税と称して漫然と貪るのみの怠惰な権力には、決してできないことだ。民草が独自に行うだけでも莫大な利益を生む商業を、政の意を反映するかたちで運用する。それが神奈子の最大の目的に他ならない。

「国がひとつになれば、誰に頼まれずとも人は動きたがるもの。人が動けば、いずれどこかで群れ集まるもの。人が群れ集まれば、そこには生きることの営みが生まれまする。人の営みは、何かを喰ろうて別の何かをつくるということ。そこに、ものを商う余地が生まれる。されば国つくりとは、ただ、つるぎと矛とをもって大地の果てまで平定することにあらず。商うことを網の目もかくやというほど国中に広げ、それによって人々を富ます。人々が富めば、国も富める。八坂さまはその第一歩、この諏訪より始めんとお考えであると、ギジチは見ておりまする」

 大きくうなずき、神奈子は唸った。

「商人たるギジチには、わが目論見はとうにお見通しか」
「誰が何を必要にしているかを見極め、適度な利を与えねば人は動かず、またこちらの益ともなりませぬ。わが力を八坂さまが欲する理由(わけ)、解らぬようでは物売りの機微もまた解らない」

 にいと唇を歪ましたのは、神奈子とギジチ、いったいどちらが最初だったか。
 ギジチという男、話が解ると言うよりも、神奈子の目論見をそれと知りながらあえて接近を遂げようとする思惑が見える。武人にして武神たる神奈子好みの猟犬や駿馬を贈って寄こしたのもそういう意図があってのことだろうし、その結果として引き立てを得れば、自分に課せられるものは『八坂政権』からその財を利用されるということ。そこまで、すべて神奈子の考える通りの施策をギジチは言い当てている。またそれは、八坂神との関係を強化すればその庇護を受け、王の御名を錦旗(きんき)として、自らの商いを拡大できる余地があると見越してのことでもあろう。つまり神奈子とギジチの連携は、この両者にとって多大な益をもたらす可能性がある。ギジチという男は、それを言っている。

「では、この八坂がそなたに与えし益は、まこと、ギジチにとって必要な利たり得るか否か」
「とは。……そのお言葉は、私には解せませぬが」

 眉根にわずか、皺を寄せるギジチ。

「先ほど、そなたは適度な利を与えねば人は動かぬと申した。水内一郡はそなたに与え、そなたを動かし得るものとして釣り合いが取れているか。この際、確かめておきたい」

 たわんでいた糸がピンと引っ張られたように、男の視線はぐいと引き上げられる。堂上に座した出雲人の高官たち、その中心に収まる八坂神。彼らを順々に見回すと、大きく息を吐きながら、

「イゼリの、ことにございまするか」

 と、言った。

 しばしの沈黙を噛んでから、「いかにも」と神奈子は答える。「やはり」。というギジチの声は、初めて感情の波に濡れていた。涙が出ない分、声でのみ泣くことの真似をする。そんな風に。

「犬養部(いぬかいべ)のイゼリ。あの者はそなたの、」
「末の弟でございました。未だ世間を知らぬゆえ、八坂さまの元にて修行を積ませんと、猟犬を献ずる際にその身を送ることをした、わが末の弟にございました」

 彼の目尻には、何か濡れ光るものがあるような気がした。
 着物の袖口で頬に触れ、ツと撫でるような仕草をするギジチ。あまり瞬間的な動作ゆえ、場に満ちる出雲人も諏訪人もそれとは気づいている様子が見られない。いつか彼の眼は地面に向けて下がり、神奈子を見ることもなくなっていた。

「そなたの弟が……イゼリが死んだは、元をただせばこの八坂が催した野駆けの際、彼を供奉(ぐぶ)のひとりとして連れ歩いたがためのことであった。イゼリについては、いくら頭を下げたところで未だ足りぬと思うている。本来なれば、水内一郡を与えて収まりがつくような話ではなかろう。さぞ、我を恨んでいるであろうな」

 いかにも哀れっぽい調子で、神奈子もまた声を震わせる。
 だが、心底にはやはり謀りの気が燻ぶっている。ギジチが自分を値踏みするように、自分もまたギジチを新たに値踏みする必要があると、彼女の警戒心が鳴き騒いでいたのである。イゼリという少年はギジチの実弟だったのだ。そのイゼリが諏訪の柵までやって来たということは、ギジチが神奈子に恭順を誓ううえでの人質である。だから、たとえ狩りのさなかの事故とはいえそのイゼリが死んでしまったというのなら、それはギジチが約した恭順の意を一方的に反故(ほご)にしたにも等しき事態。

 ……神奈子にとって、ギジチという商人豪族の持つ人脈と財力は手放しがたい。

 だが、彼の弟を死なせてしまったという事実は、不幸な事故という一語のみでは片づけられない政治的問題を呼び起こす恐れがある。人質の死と水内一郡の司の役職。このふたつを天秤に掛けて重みの釣り合いが取れるのを図らなければならないのは、ギジチの恭順と叛心、いまどちらが向けられつつあるのかを確認するための『踏み絵』に他ならなかった。

「……イゼリの命と釣り合わせるべく八坂さまの御首、所望致しても、ギジチの側に正義ありと、世人は考えるものか否か」
「未だ、解らぬよ。あるいは後世、そなたは弟の仇を討つべく義戦の旗を揚げた男として、神にも英霊にもなるかもしれぬ」

 わざと、相手の自尊心をくすぐりそうな物言いを選ぶ。
 これでギジチがどう出るか。政における自らの利を取り、おとなしく眼前の王に服するのか。実弟を奪われたことへの怒りを取り、与えられた役を蹴って公然と刃向いの言を吐くのか。だがどちらにせよ、神奈子にとっては有利をもたらす。前者なれば今後行う政に大きな益となるであろう。後者なれば叛乱者として抹殺し、新政の不安要素を取り除く大義名分が手に入る。自らの大根役者ぶりを自認する神奈子だが、こと狡猾さにおいては数多の戦いを駆け抜けたがゆえに、少なくとも凡庸というわけではなかったのかもしれない。

 うつむいたまま、ギジチは思案し続けた。
 いま彼のなかでは、損得というよりも激情と冷静がぶつかり合っているのだろう。彼の長い髪が風に揺れ、よく櫛の通って整えられていたところが少しばかり乱れてしまっていた。それを気にする風でもなく、――やはり抑揚を失した声で、彼は答える。

「人ひとりの命と一郡の土地。このふたつを天秤にかけた際、双方の目方は決して同じとは限りませぬ。ときに人ひとりの命の方が、自ら手に入れることのできる土地よりも重きときがございまする。その意味では、ギジチは未だ八坂さまを、イゼリの仇と憎んでおりまする」

 やはり、己が叛心に従うか。
 ごくりと唾を飲み干して、神奈子は腰の御剣に手を遣った。柄に指先が這い、まさにその重みを容れんとしていたとき。そんな彼女の動きに対する最大限の威嚇となる、そんな瞬間を見計らっていたようにして、「なれど」とイゼリの声が決断所に響き渡った。

「なれど、わが弟イゼリの命と水内一郡を比べるとき。水内の側に科野諸州の太平を加えれば、自ずと天秤は後者に傾きまする。なぜならば、そこには数多の人民の命と、彼らが等しく浴するべき平安の重みが加わっているからにございまする」

 深く深くひれ伏して、ゆっくりと言葉を吐く。

「冬にはありふれたものであるはずの雪や氷を、夏に得ようとすれば莫大な財が必要になるごとく、ものごとの値打ちというものはその時々によって流転するもの。かなしきことではございまするが、人の命もまた時局によっては」

 つるぎの柄に置きかけていた手を離し、神奈子はギジチに向けた眼をすうと細めた。

「それに。いかなる遺恨ありとは申せ、狩りやいくさの場にては何が起こるか判らぬものとも、よう心得ておりました。この科野州における新たな政の糧になったとなれば、わが末弟イゼリについては、兄としてもわが一族としても、これ以上なき誉れともなりましょう」

 褒めることも、罵ることもできない神奈子であった。
 むろん、ギジチが面従腹背を決め込んでいるという推測も容易に成り立つ。
 神奈子がギジチを疑えば、いくらでも疑うことはできるのだ。
 だが少なくとも。多くの者たちの面前でこうして頭を垂れ、実弟の死をも政の糧と称して恭順を誓う相手に対して、こちらから疑いの言を発すれば、面目を潰してしまうのは間違いなく神奈子の方である。彼女は諏訪を中心に科野州を手に入れた王だ。人々に推戴される神なのだ。そこには、人民の支持が常にはたらいていなければならない。狭量さばかりを示してはならない。八坂神奈子が除目の場に集まった者たちを見下ろしている以上に、各地各郡の豪族たちは八坂神奈子をよく見上げ、また観察してもいる。今はひとまず叛心のあるであろう者をも受け容れる態度を見せ、この件を収める必要がある。

 武張って力を振りかざすばかりが、強者の条件では決してない。時にはわざとらしく見えるほど度量の大きさを示してやり、大衆の支持を得なければならない。しかし死んだイゼリの哀れさまで武器とするという酷さ(むごさ)を選んでおきながら、その実、退路を塞がれたのは八坂神奈子の方であった。

「あい解った」

 と、彼女は宣する。

「遺恨の有無をも踏み越えて、わが政に参じてくれたギジチの忠節。何よりありがたく思うぞ。今後は水内郡を預かる頭(かみ)として、その腕を振るうが良い」

 ギジチは、今まででいっとう深くひれ伏した。


――――――


「そなたからは、諏訪郡(すわごおり)の領地いっさいの召し上げを命ずる」

 神奈子と対峙した諏訪豪族の長は、五十を過ぎて肉のつき始めた身体を震わせ、そして唇を噛み締めた。堂上、決断所の奥に座した神奈子に向けている彼の――トムァクの眼は、紛うことなく憎しみのそれである。いや憎しみというよりも、自身に降りかかった理不尽について問いただす。そういうものにも、どこか似ている。

 これまで神奈子の御前にやって来た者たちと同様、彼は地にひざまずいていた。だが、片膝は少しばかり前に突き出され、激昂に任せていま直ぐにでも飛び出して行きそうな気色を持っている。決断所の周囲に展開する警護の衛兵が手にした矛のぎらつきが、遠く自身の顔まではね返ってきてもまるで気づかない。トムァクは、それほどまでいら立っているように見えた。

「トムァクとトムァクの一族が元より治めていた諏訪の領地については、一部を洩矢諏訪子が御料のうちに加え、残りを屯倉として王権が治めることとする」
「では、代わりにいったいいかなる地を」
「筑摩郡(ちくまごおり)は、吉蘇路(きそじ)の県坂(あがたざか。現在の長野県鳥居峠という)近くに、新たに三ヵ村を与えることとする」

 いよいよトムァクは両眼を見開き、神奈子をじいとねめつけた。
 だが、彼女の方では微動だにしない。ピンと背を伸ばし、手指では豪族たちへの処遇が記された文書をゆっくりと折り畳んでいるだけである。しばし、二者のあいだには沈黙があった。紙を折ることを終えた神奈子が、かたわらの高官のひとりにそれを手渡した後、どこか大儀そうに口を開く。「不満でもあるか」と。

「ふ、不満など……!」

 今しも立ち上がりかけたトムァクだったが、寸前で理性がはたらいたらしい。衛兵たちだけでなく、他の豪族たちからの視線までもが自身に注がれているのだ。彼とて、元は押しも押されぬ諏訪の大豪族である。衆目を前にして恥をかくことを怖れるだけの面子はあろう。だからなのか、指先で眉間に噴き出た汗をぬぐうことしかできはしない。

「しかし、いったいどういうことにございまするか!? 県坂は濃州(のうしゅう。美濃国。現在の岐阜県南部)との境に近く、向こうの国との諍いもたびたびと聞き及びまする。加うるに当地は山深き土地柄。田畑を営むにせよ人を使うにせよ、難儀がついてきましょうぞ。しかも、諏訪の地にては十数ヵ村からを治めていたこのトムァクが、わずか三ヵ村とは。これなる御差配では、私はどう一族郎党を養っていけば良いのか!」

 今しも、食ってかからんばかりの剣幕であった。握り締めた拳は、肌の色が白くなるほど力が入っている様子だ。だが怒りを露わにするトムァクとは、神奈子はどこまでも対照的である。面倒な相手だ……とでも言いたげに、決断所の奥で頬杖を突いてみせる。あくまで冷厳に、冷酷に。

「何も一族根絶やしにしようとか、この科野州から追放せよなどと申しておるわけではない。この八坂の王権が新たに科野州を治めようというとき、わが政にもっともふさわしきかたちで諸方の豪族たちに土地を分け与えた。その結果が、そなたに与えた筑摩郡三ヵ村というだけの話だ」
「御新政における中央の府は、依然としてここ諏訪ではございませぬか。つまり八坂さまの政に、このトムァクが占める席はないとの仰せか!」
「それも違う。政なれば、この科野各地を預かる皆の話も聞かねばなるまい。そうした用あらば、トムァクの話も聞く用意は十全にある」

 姿態はどこか力を抜きながらも、声だけはいつもの張りを失っていない神奈子。聞く人によっては甚だ残酷かもしれない布告を、つるぎの切っ先を突きつけるような気力で彼女は口にしているのだ。むろん、それが酷い一撃となるのはトムァクである。くぅッ……! と、いら立たしげに噛み締めた歯のあいだから唾のしぶきを漏らしつつ、老人はなおも怒りを盛んにしていた。

「トムァクよ。そなたひとりにのみ領地の召し上げを命じておるわけではない。……諏訪が新政にあっては、出雲人と諏訪人が融け合うて暮らしていかれるだけの地が必要なのだ。諏訪の豪族に対しては、諏訪よりは離れたとはいえコログドにもトライコにも新たな土地を与えたではないか」
「詭弁にございまする。それとても、元より治めていた諏訪の土地に比べれば猫の額ほど。他方、昨日今日になって新たに興った“ぽッと出”の豪族どもにその土地を分け与える、これは道理に適った行いであるとはとても思えませぬぞ。そもそも、古来から“諏訪さま”の政に参画して参ったわれら諏訪の豪族は、血筋からして数多の者たちを導き、土地を営む資格というものが備わっているはず。だというのに、そのために必要な父祖伝来の所領を、八坂さまは無慈悲にもお取り上げなさるか。其(そ)は、あまりにも横暴なお振る舞いと申し上げざるを得ない!」

 顔中の皺と言う皺に怒りを刻ませながらも、一転、トムァクは哀調を伴った声音となる。泣き落としというのでもあるまいが、ただむやみに突っかかっても『勝ち』はあるまいと、彼はそう悟ったらしかった。だが、神奈子はかすかにも揺らぐ様子を見せなかった。……いや、もし仮に彼女の心がいま揺らぐとすれば。それはトムァクをも凌駕する怒りであった。

 あぐらをかいていた彼女は、握り締めた拳を自らの膝に叩きつけた。
 瞬間、がたりと腰のつるぎの鞘が鳴り、周囲を取り巻く高官や舎人が目の端でちらと様子を窺ったほどである。

「その血筋とやらの上に思うさまあぐらをかいた政が、諏訪の地に諸弊をもたらしている」

 神奈子は、静かに激していた。
 いくさの場で弓矢を手に取っているときと、おそらく感情の種類は似通っていよう。自らの正義を信じ、敵する者を討ち滅ぼす者の持つ怒りだ。だが今日のそれは、いくさに必要なものよりも幾分か鮮やかでさえあった。義憤とも呼ぶべき、公に奉仕する者としての怒りである。

 指差すことも、剣を抜くこともしない。
 が、周りの臣下たちがみな一様に彼女を畏れる様子で、こころなしか姿勢を低くし始めるなか、神奈子自身は何ひとつ介することなく怒りを吐き出し続けた。

「“諏訪さま”に納めるための税の礎と称しては、公領からさえ人を引き抜いて私領の田畑を耕させ、その実、土地からの“上がり”の大半をわが物とする。王を招く館の造営や修築を名目に、時期もわきまえず農民たちを徴用しては無用の労役を課す。そうして建てた館は“諏訪さま”に寄進するでもなく、あくまで私有のものとし、自らの権勢を誇示するかのごとく贅を尽くした宴を盛んに催す。そなたたちの手管は常に“諏訪さま”の御名を介して行わるるゆえ、人々は命令を公の意と信じるしかできず、逆らうわけにもいかぬ。農繁期に人をよそに取られることが農民たちにとってはいかなる痛手か。トムァクが邸のうちから人を使うばかりの男でなく、いちどでも土と向き合ったことがあるのなら、誰に言われずとも解ろうものをよ」

 語れば語るほど、神奈子の心はむしろ澄明さを取り戻していくかのようであった。
 固く握りしめていた拳が少しずつ解かれ、手のひらが膝を覆っていく。

「加えて、諏訪御所のうちにあっては神にして王なる諏訪子が、人民からの信仰と擁立を享けねば存続できぬことを逆手にとり、かの者の御名を錦旗とし、自らの思う政を綸旨と称して押し通す。この八坂の意を横暴と言うのであれば、それに先んずるトムァクたち諏訪豪族の王を王とも思わぬ振る舞い、これをおいていかなる横暴が世に行わるることあるか。答えられるものなら答えてみよ」

 いよいよ強く歯噛みをしながら、トムァクは神奈子を睨みつけた。
 つるぎをもって襲いかかることも、軍勢を率いて押し潰すことも今はできない。少なくとも、諏訪豪族たちがモレヤを人質として八坂神奈子に差し出した時点で、神奈子とトムァクのあいだには君臣の関係が発生している。今日は、その関係がひとつの結実を見るときであった。そして、その場に集まった誰もが心底から思う。この矮小な老人が、かつては神に対する祭祀の権を手中に収め、思うさま政を振るっていた佞臣(ねいしん)の正体であったのだろうかと。

「異邦より来たる王であるこの八坂が、何も知らぬとでも思うたか」

 激したものをすべて吐き出し終えたか、一転して神奈子は苦々しげな笑みを見せた。

「神の前にはすべてが見通しと言いたいところだが、此度のことは誓約(うけい。古代の日本で行われた占い、神明裁判)に訴えてそなたの生死(しょうし)に訊くまでのこともない。古く悪しきこと取り除かねば、国をつくることなどできまい。新たに科野各地の検地を行ううえで、すべては知れたことなのだ。トムァクたちの私領からは、本来“上がり”として諏訪御料に納むることのできるはずの税が、明らかに滞ること頻々と見られたとな」

 決断所は、種々の裁判や裁定のためにつくられた施設だ。
 ならば神奈子のこの布告は、衆目の面前でトムァクが政に犯してきた数々の罪科(つみとが)を告発するにも等しい宣言であった。誰もが薄らと気づいていながら、断罪されることのなかった旧来の支配者の『悪』が、確かに暴き立てられてしまったのである。あるいは、それもまた神奈子の目論むところの政治的意図を含んだ一場の“劇”であったのかもしれなかった。今から行われるものは『善』であると、この場に集まった各勢力の人々に示すための。

「此度の措置は、温情ぞ。この八坂神が諏訪に国建てるうえは、新興の豪族も臣、旧来の豪族もまた等しく臣。幾代にも渡りて諏訪人たちを治めてきたそなたたち豪族の力は、異邦の神たる我とても賛辞を送るに値しよう。その功を思えばこそ、わが王権にも旧来の諏訪豪族が占めるべき座を残した。だが、同時に考えてもみよ。そなたたちは公の権威を笠に着ることで、諏訪子の名を長きに渡りて弄びすぎたのだ。それは、何よりもまず一臣下としての正道、政の正道を自ら踏み外すにも等しき行いではないのか」

 トムァクは、やはり何も言えなかった。
 彼のうちにある屈辱は余りあろうと、神奈子ももちろん気づいている。神を祀り、一国の政を握ってきた家の男なのだ。その誇りが、血筋と家格の上に築かれてきたあらゆる矜持が、一年かそこらで諏訪を掌握した異神と、その異神に引き立てを得た新興の豪族たちの存在によって踏みにじられているのだから。

「血筋に政の正当を求めるのが悪しきこととの仰せであれば、なぜ八坂さまは諏訪子さまに洩矢の氏をお与えになったのか」

 息を失いかけた魚のように、喘ぎ喘ぎ、トムァクは絞りだした。
 あたかも、それは敗者である彼が自らに残された最後の一線を護るための、弱々しいいくさであるようにも思われる。

「解せませぬ。まったく解せませぬ。神の血に連なりし者たちが、人の世に善き政を敷くとなぜ言い得るのか」

 神奈子は思案し、そして唇の端を噛んだ。

「神も王も、人にそれと信じられねば在ることさえできぬ。人が人の力のみにて生き、神の御名“のみ”を崇め奉るよりは、はるかに良い」

 彼女らしくもなく、歯切れの悪い物言いであった。


コメントは最後のページに表示されます。