Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第四話

2013/01/18 15:26:27
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「ああ、……酔うた」

 独りごとは、かすかな風を孕んで夜闇のなかに飛び去っていく。
 乱れた前髪を指先で梳く素振りをしつつ、しかし酔っているとは言いながら足取りは乱れなく確かなものを保ったまま、城中、諏訪子は夜の廊下を歩いていた。

――――ではな。養子の件、よう考えておいてくれ。

 頭のなかで、ぐわんぐわんと鉦を叩き鳴らすかのように、別れ際の神奈子の言葉が響いている。酔うた、とは呟きながら、彼女は全然酔ってなどいない。それなのに酔ったと独語したのは、ちょっとだけでも酔ったと口に出してみれば、何となく本当に酔うことができて、それでこの難題から一時的にせよ逃げ出せるような気がしていたからだった。神奈子は、未だ宴席に居る。諏訪子とのあいだで行われたさして長いとも言えない談合のことなど、初めからなかったのだとでも言うように、変わらず酔いの回った豪族たちを盛り上げている。

「恋のひとつもせぬ者は……か」

 何とも“臭い”台詞を平然と吐くものだと、すっかり呆れてしまっていた。

 神奈子が豪族たちの人波のなかに融け込んでいってから、いくら酒を飲んでも諏訪子がまるで酔えなかったのは、神奈子のそんな言葉が酒よりもはっきりと意識の中枢に喰い込んでしまったせいかもしれなかった。いつか宴席にも居づらくなって、誰に断ることもなくその場を辞してしまう。誰も、彼女を引き留めようとする者もない。前王を蔑ろにしているわけではない。宴の興奮は、少女ひとりがこっそり抜け出してもまったく気づかれない程度には高まっていたというだけのこと。ただひとり神奈子だけが、談合の締めとして「ではな。養子の件、よう考えておいてくれ」と、早口に伝えてきた。こくりと、諏訪子はうなずきひとつ返してきた。

 夜の風を呑めば、ほんのわずかに冬の切っ先が突き出されてきているのが彼女にも解る。諏訪に産まれ、諏訪に育った諏訪子なのだ。郷里の風を読むことに関してなら、いくさの風を嗅ぎ分ける神奈子にだって劣らない自身がある。とたとた、と、裸足での足取りが当夜初めておぼつかなかったのは、寒さで身体がこわばりでもしたためなのか。酔えもしていないせいか、身体もさほど熱くない。秋の寒さが身に染みる。それでも直ぐに自分の寝所に向かう気にはなれない。かといって、再び宴席に戻るつもりもない。あてがわれた宿所に向かう豪族たちの声や息づかいを避けるように、夜の城中をふらふらと、諏訪子はいつまでもさまよっていた。風の吹き向かう先がどこなのか、必死に見つけだそうとするみたいに。

「恋のひとつもせぬ者は……か」

 もう幾度か、諏訪子はそう独語した。
 モレヤは未だ恋を知らぬ。むろん、女を知っているはずもない。
 だが――だがそれは、諏訪子とてもほとんど変わらなかった。
 ミシャグジの眼を通して、人々の営みと生き方はよく見知っている。いかにして人は人と交わり、人の子が産まれるのか。その痛みと快楽、悦びの様。解っているからこそ、彼女は少女の姿に化身しているのだ。洩矢諏訪子は、誰とも交わったことがない。だが清らかであるということは、決して無垢と意味を同じくしていないのである。諏訪の地にあって、諏訪の人の生き死にのすべてをわれとわが身にもたらすすべを、確かに諏訪子は知っている。それが彼女の権能なのだ。祭祀の儀式で生贄の獣たちが血を流すとき、眼前にくり広げられた苦痛と、昂揚した罪悪感の共有という快楽が弾ける瞬間、神と会衆とは魂のうえで確かに合一する。人が人と結ばれ人の子を産むということは、いずれわが死を受け容れ、子供たちにすべてを託すということに他ならない。儀式が呼び起こす快楽も、それと似ていた。信仰は、いずれ死すべき運命にある人々が放出する、生命の賜物である。それを受け取る洩矢諏訪子は清らかでありながら、決して無垢ではあり得ないのだ。

 だから無垢でない自らのうちに、無垢なるものを見出すために――自分は恋を探しているのか。たとえ、それが政のためであってもか。

 むろん、答えの出ない問いである。否、答えなど存在しない問いとした方がより正しかったかもしれない。稗田舎人も、神薙比の将軍も、八坂神奈子も、決してその答えなど知っているはずはない。諏訪子自身にすらよくは理解できない心の在り様を、そう簡単に他人(ひと)にすくい上げられてたまるものかとは、彼女自身が考えている。あたかも、少女のうちに根差しているひとつの矜持であるかのごとく。

 当夜、諏訪子は孤独であった。
 宴席のうちにあっても孤独であったし、宴席より辞してもなお孤独だった。その身を内よりずきずきと疼かせるものは決してみだらな衝動ではなく、ただ誰かに寄りかかりたいという寂しさの故なのかもしれなかった。今や、孤独が何であるかを知ってしまった洩矢諏訪子にとっては、自身を襲う境涯にすらも、はっきりとした輪郭を見出せるようになっている。

 だから、なのだろうか。

 衝動か、劣情か、――いずれにせよ孤独の埋め合わせが必要なのだということが否応なしに迫ってきたせいだ。いつの間にか、モレヤの寝所にまで歩を進めてしまったのは。

「モレヤは居るか」
「は。扉の向こうからはいびきひとつも聞こえてきませぬ。ぐっすりと、よくお休みになっておられるご様子」
「そうか。少し、入るぞ」

 部屋の扉の前で宿直(とのい)をしていた雑掌役の舎人は、自ら寝所の扉を押し開こうとする諏訪子の前にその身を割り込ませた。彼の狼狽ぶりに、諏訪子は少し可笑しくなる。が、あえてからかおうという気も今はない。舎人の肩に手を置いて、押しのけようとする“ふり”だけした。

「いけませぬ、亜相どの。申し上げました通り、モレヤさまはご就寝中にございまするぞ。ご談合の儀なれば、その旨、言(こと)づけていただきますれば、明朝にでもわたくしがモレヤさまへお伝えしておきますゆえ……」
「そんな堅苦しい話をしに来たのではない。それとも何か、其許(そこ)は儂(み)とモレヤが夫婦であることを知らぬのか。妻が夫の寝所に夜な夜な忍んでいって、いったい何の障りがあろうかよ」

 そのひとことで、舎人は『合点』がいったらしい。
 これは、大変なご無礼をいたしました! と、額が床を削るほどの平伏を見せ、直ぐさま諏訪子に道を開ける。「ついでに、人払いの方もしておきまする」と、要求してもいない働きぶりを見せ、大急ぎで引き上げていった。今の諏訪子には――未だモレヤと契る気などない。だが、自らの職掌に頼んでしつこく食い下がってくるであろう舎人を体よく追い払うには、こうやって嘘をつくことも必要だ。

 さっきの舎人が引き下がると、沈黙の度合いはなおも強まった。
松明や篝の火も遠く、寝所の周辺には衛兵の姿も見えない。いささか不用心過ぎるほどだが、この祝いの日にわざわざ暗殺や襲撃を試みて八坂政権に喧嘩を売りにくる阿呆が、たとえひとりでも存在するとは思えなかった。ひとまず、そうやって安心しておく。

 ぎいと軋む扉の向こう――すでに明かりの伏せられた寝所の真中に、モレヤは枕を据えていた。ほとんど、何もない部屋だ。弓矢は武器の蔵に、祭祀のときに必要なつるぎや祭具もまた別の蔵にある。せいぜい、読みさしで丸められているらしい竹簡が数条。遊びたい盛りであろう少年の部屋とも思えない。殺風景な寝所であった。

 足音を立てぬよう、ゆっくりゆっくりと諏訪子は闇を進む。
 ふらふらとさまよい歩くうちに、今夜の暗さにはもう眼が慣れた。モレヤの身を押し包む掛け物の端に足指の先が触れたことに気づき、しゃがみ込む。ふわりと、着物の裾が舞った。

 自らの『妻』がやって来ているというのに、『夫』たるモレヤはまるで眼を醒ます気配がない。未だ幼いからなのだと、諏訪子は思いたがっていた。現実よりも、夢のなかに遊びたがることが是とされる年頃の子なのだからと。微笑みかけるでもなく、夫の眠りに乗じて唇を重ねるでもなかった。何度も寝返りを打ったせいで乱れた掛け物をまたきれいに直してやり、それから少年の額に滲んだ小さな汗の粒を、着物の袖を使ってぬぐってやる。しあわせは、ささやかなものである。だが今の彼女はそれで満足だ。恋を知らぬ童を夫とした、恋を知らぬ妻にすれば。これが自分に許されたしあわせなのかもしれないと、そうであることを、密かに願い始めていた。

「モレヤ。おまえがこの諏訪子に、恋とは何であるかを教えてくれるのか?」

 どんな夢を、見ているのだろう。
 恋せぬ者は、恋する夢を見るのだろうか。
 いかに問いかけても、眠るモレヤは決して答えなどしないのだ。政が穢れた手によってのみ行われるべきものだとするのなら、すべてのしがらみから解放されて眠る夜だけは、誰にも許された無垢の時間。それを解っているかのごとく、少年はただ寝息を立てる。きっと世の中に恋が何であるかを知っている者などひとりも居らず、ただ自らのうちでだけ答えを出すことしかできないのだろう。諏訪子にだって、薄々と感づいていた“本当のこと”だ。この夜の輪郭をなぞるということは――それはつまり、自分のしあわせが、モレヤという少年が安堵して眠る姿を見ることにあるのかもしれないと、確かめることでもあった。それが自分の恋の始まりであることを、いつか諏訪子は望んでいた。

「八坂さまがな、おまえを養子にしたいと仰せであったよ。そうしたらモレヤは、神の御子となるのだ」

 宴のさなかで一刻(いっとき)ほど、件の提案を吟味し続けたか。
 彼女の結論は出ていない。未だ出してはいけないのだ。その話を受けるにせよ断るにせよ……きっとどこかで、洩矢諏訪子と八坂神奈子と、そしてモレヤという三人の関わりが、今までとは決定的に違うものになってしまう。そんな不安がぼんやりとして在る。すべてを曖昧なままにしておいた方が、このしあわせは長く続く。そう告げる直感が神としてのものなのか、少女としてのものなのか。己自身が未だ解らない。

 けれど、今。

 いつか湧きあがりかけているものに気がついて息を吐いたとき、その鋭さは見えない針のように闇を突いた。掛け物のなかに自らの手を突き入れて、モレヤの手を探り当てる。九つの歳を経た手のひらとそこから伸びる指は、諏訪子の知らぬ間に固く皮を張り、幼いながらも確かに“いくさする人”の手に成りかけていた。その手は、諏訪子にはつくれぬものだ。だから確かめなければならない。この小さな、汗ばんだ手が、確かに自分の夫のものであるということをである。

 洩矢諏訪子は、はっきりと嫉妬していた。
 この手につるぎの振るい方を、馬を捌くすべを、弓を引く力のほどを教え込むことのできる八坂神奈子に、強く強く、嫉妬の念を覚えていた。その思いは染むごとく彼女の心を焼く。たとえ養子としてとはいえ、わが夫を神奈子に差し出すことに、烈しい不快を向けなければならないほどに。

「嫌な女だな、このわたしは」

 それを尋ねたところで、答えてくれるはずのモレヤは眠っている。
 諏訪の夜に生じた姿なき空谷(くうこく)だけが、少女のさなかに小さな汚穢(おわい)を波立たせる。いつか諏訪子の手のひらにも汗がにじみ出、モレヤのそれとの境を失くし始めていた。(続く)
作中に登場した用語についての補足ですが、『除目』(じもく)という言葉・行事が使われるようになったのは、本来は平安時代からだそうです。
よって、言うまでもなく考証としての正確性はアレな感じです。
作者の根性が続けば、第五話が出ると思います。
こうず
http://twitter.com/kouzu
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コメント



0.360簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
モレヤと神奈子と諏訪子のなんともいえない関係にドッキドキ。
新政権発足で早速ドロドロなものが。この先どうなるか楽しみです。
2.100名前が無い程度の能力削除
毎回長文なのに纏まっている文章力に感服、続き楽しみにしてます!
4.100名前が無い程度の能力削除
作者様の根性が続きますように。
5.100愚迂多良童子削除
ギジチが渋い。利より情で動く俗人らしからなさがまた良い。てっきりトムァクがなにか謀るのかと思いきや、イゼリの方がフラグだったとは。
諏訪子のモレヤに対する情は恋でないなら所有欲の類なのかな。嫁心つくときはいつになるんだろう。神奈子も、愛した相手に妬まれるとは・・・色々と、複雑怪奇な縁模様になってきた。次も待ってます。
7.100名前が無い程度の能力削除
「除目」に限らず、明治以降に造られたり広まったりした言葉が多く出てきているので、今さら気になさることもないのでは。
このシリーズの愛読者です。是非続きを読ませてください。
8.100名前が無い程度の能力削除
続きを待っています
9.100名前が無い程度の能力削除
根性だけじゃここまで持たんよ。じゃあなにって言われても分かりませんけど。力強い作品にはパワーをもらえます。ぱわー。
13.100名前が無い程度の能力削除
もう最後まで付き合うしかないね。
14.100非現実世界に棲む者削除
真の政はこれから始まる。
今後の三人の関係はどう変化していくのでしょうか。
今後の展開が楽しみです。