Coolier - 新生・東方創想話

火ノ粉ヲ散ラス昇龍

2018/12/10 02:56:50
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 第五章『時は来た、それだけだ』


 時は過ぎた――。
 辛辛軒が人里に現れておよそ1クール(およそ三ヵ月)、九月上旬、真夏のピークこそ過ぎたが、うだるような暑さはまだ幻想郷を去ってはいなかった。夏休みは終わっても、夏はもう少し続く。
残暑に見舞われる中、人里はありとあらゆる激辛料理に支配されていた。例の激辛担々麺『地獄一丁』に敗北した人間達は辛辛軒の亭主、辛神に恐れをなし、地獄一丁に挑戦しようとする、通称『反乱軍』はことごとく壊滅に追いやられた。
 そして始まったのが――恐怖の甘党狩りである――ッ!
「おい貴様! 袖に何を隠してやがるッ!」
「やめろ、やめてくれッ! これは我が家に残された最後の甘栗なんだッ! これを持っていかれたら――ッ」
 辛神の魔術により、精神を操られた妖怪達、通称『辛辛帝国軍』が人里を跋扈していたのである。帝国軍は罪もない人々から税をむしり取るように「甘い食べ物」を徴収して回っていたのだ。
 今、幻想郷は人里を中心に階級が設けられていた。ある程度の富と権力を持つ者は『プラチナ辛党』、一般階級は『ノーマル辛党』、そして貧民層は『たんぽぽ組』と呼ばれていた。幼稚園みたい。
 ノーマル辛党までは一般的な食事が許されているが、たんぽぽ組は食事まで辛辛帝国軍の幹部によって管理されているのだ。
 現在の時刻は夜中の七時――。
辛神に心を支配された人間や妖怪達により編成された帝国軍により、人里の住民達は大通りの一角に呼び出された。そこには小さなステージのような物が設置されていた。
「これより、恒例の『激辛討論、朝までそれ正解!』を開始する!」
 帝国軍兵長である人間が叫んだと同時に、群衆の脇から大物ゲストと呼ばれる二人が現れた。一人は、幻想郷の湖畔にひっそりと佇む紅い屋敷、紅魔館の当主であるレミリア・スカーレットであった。身体を縛られ、帝国軍に引っ張られる形で壇上へと上がった。
「ちくしょーッ! 離せえ! 私を誰だと思ってんだテメーら全員食っちまうぞクラァ! 咲夜ァ! このへっぽこメイド! ご主人様を助けろーッ! うわぁーん! 助けて咲夜ぁッ!」
 そしてもう一方は、妖怪の山に存在する神社、守矢の神霊、八坂神奈子であった。二人共手錠を嵌められていた。神奈子は呆れ顔というか、全てを諦めたような顔でステージの上に立つ。
「……一体、この茶番はいつまで続くんだ……」
 紅魔館も守矢神社も経済的に潤っており、幻想郷の誰よりも税、もとい「甘い物」を納めている勢力という事で、両者は辛神から『プラチナ辛党』の称号を与えられていたのである。影響力があるというだけで無理やり連れてこられた二人であった。
「見ろよ……プラチナ辛党だぜ……」
「すげぇ、上流階級ってやつだ……憧れるなぁ……」
「そんな変な称号で憧れられても嬉しくないわぁ! 咲夜さぁああん! 私、大ピンチですよぉッ! どこいんのおおおッ!?」
 ちなみに、レミリアの従者である十六夜咲夜と、守矢神社の巫女である東風谷早苗は一体何処にいるのかというと、二人共、今夜はTVでドラ〇もんスペシャルがあるので大人しく家にいました。
 レミリアと神奈子は、このまま朝まで「これからの激辛料理」について討論をしなければならないのである。これがプラチナ辛党に与えられた責務であった。何これもう拷問に近い。
 まさに恐怖政治であった――ッ!
 そんな中、人目を避けるように人里の細い裏道を走り抜ける少女の姿があった。彼女はマントを深く被り、自身の顔を隠しながら寂れた民家へと駆け込んだ。その民家は何と――、過去の栄光は何処へやら、辛神の支配と共にガサ入れを食らい、そのまま廃業へと追い込まれた甘味処『ヒヤシンス』であった。
「尾行はされていないだろうな?」
「大丈夫よ……それより、永琳先生に伝えたい事がある……」
 そう、そこは過去に地獄一丁に挑み、そして敗れてしまった者達で形成された反逆軍のアジトだったのである。少女は家内へと入り、そのままマントを脱ぐ。彼女は新聞記者、射命丸文であった。
 例の情報漏洩事件の後、文は同族の失態を永遠亭組に詫び、そのままレジスタンスへと加わっていたのだ。
 内部には主に永遠亭のメンバー、そして、『ヒヤシンス』を営業していたチルノとミスティアをはじめとするバカルテット組、そして部屋の隅には萃香と勇儀が静かに鎮座していた。
「ここのメンバーも、だいぶ捕まってしまいましたね……」
 文は周りを見渡し、寂しそうに呟いた。そして、部屋の奥で懸命に地獄一丁の辛さに対抗するための特効薬を生成しようとしている永琳の姿があった。だが、新薬開発のための機器をほとんど没収されてしまった今、その苦労が報われる事は無いだろう……。
「永琳先生、本日刷られた『辛辛。新聞』です……」
 文はその手に持っていた新聞を永琳に渡した。事実を大きく捻じ曲げられた、辛辛帝国発行の新聞であった。異変が起こってから既にタイムリミット近くまで時が経とうとしている。そろそろ辛神から何らかのアクションが起こされてもおかしくない。
 新聞の一面記事の内容はこうであった。
『謎の反逆者? 白銀のサムライ少女の情報求ム!』
「白銀のサムライ少女ですって?」
 永琳の表情には疲労が目立っていた。無理もない。ここ数日はロクに睡眠も取らずに研究を続けていたのだ。そばにいた鈴仙がフラフラと永琳の傍へと歩み寄り、ひそひそと耳打ちする。
「妖夢……? あの白玉楼で庭師してる子ね? まさか、このサムライ少女の正体が妖夢って事……?」
「その可能性が高いです。しかし、現在妖夢さんは消息不明。しかも白玉楼も理由不明のまま機能停止している状態です。さらに幻想郷の賢者である八雲紫も行方知れず……。今は彼女の式である藍さんが懸命に辛神と交渉している最中です。これは、私の記者としての勘ですが……この二つの事件が偶然の出来事とは到底思えません……きっと、『何か』があったに違いありません……」
 ちなみに紫も幽々子も現在は幻想郷の一大事などつゆ知らず、福岡観光を満喫していた。太宰府天満宮とかにも足を運んでいた。
「……幻想郷の有力者である二人が、この土地の危機を前にして姿をくらます訳がない。卑怯な手を使われて……二人共、辛神に囚われている可能性があるわ……」
 ちなみに、本日の紫と幽々子の夕飯はもつ鍋であった。中央区赤坂に良いお店があるんですよ。何やってんだこの二人。
「どう思う、霊夢老子?」
 永琳が部屋の隅に座っている老人(?)に声をかける。
「……ふむ、これは……嵐が起こる前触れじゃな……」
 霊夢老子は意味深な事を呟き、その深く鋭い眼差しで虚空を見つめていた。その正体はどう見ても白い付け髭を装備した霊夢であった。幻想郷の巫女という事で、霊夢は辛神から多額の懸賞金をかけられ、その身を隠すために一時的に老人の恰好をしてこのアジトに潜伏していたのである。ボロボロのローブを着て、何か取っ手の所が意味不明にぐるぐるしている木の杖を持っていた。
「昔から、サムライ美少女キャラ現れる所、乱ありと言うてな、その時のノリで刀を持った侍ガールキャラを無理にシナリオに登場させると作風が乱れて話の展開に困る事が多々あるんじゃよ」
 今の無し。
「妖夢は半人半霊じゃ……そのポテンシャルと、さらに、我らとは違う天性の格闘スキルが備わっておる……あの娘なら、地獄一丁の攻略の糸口を見つけられるかもしれん。あの忌まわしい辛神はそれを察し、妖夢との全面対決を望んでおるのじゃ……」
 ふぉっふぉっふぉと霊夢は笑い、そのまま静かに深い瞑想へと入った。何やってんだこの紅白巫女。
「ちなみに永遠亭のお姫様、蓬莱山輝夜さんは何処に?」
「ああ、姫様なら「今夜はド〇えもんスペシャルがあるから」とか言って永遠亭に帰っちゃいましたよ」
 帰っちゃったんですか! と文は驚嘆の声を上げた。幻想郷の住民はみんなドラえ〇んが大好き。緊張感の欠けらもない。

 ――その時、幻想の世界に砂塵が吹き荒れる。

「……ほれ、嵐の足音じゃ……」
 霊夢が白い付け髭をもさもさと弄りながら不敵な笑みを浮かべる。そして、アジトの外で群衆がざわつき始めた……。
「おい、あれはまさか命蓮寺の連中か……?」
 幻想郷の主な勢力が次々と辛神の軍門へと下っている中、命蓮寺組だけは、主に宗教上の理由で異変に干渉しないという条件のもと、この激辛争いには不参加であった。中立を保っている筈の命蓮寺が人里へと出向いたのはこれが初の事であった。
「おい、辛神様へ伝えろ……っ! これはただ事じゃないぞ……」
 それもそのはずである。命蓮寺組は全員、武装をしていたのだ。武装と言っても安全第一と書かれたヘルメットを被り、ゲバ棒を持っているだけなのだが……いや、見た目的には十分に危険である。
 先頭になっていたのは勿論、命蓮寺の長である聖白蓮であった。何となくヘルメットとゲバ棒が似合う。流石ガンガンいく僧侶。
 命蓮寺総出でここまで目立つ出で立ちをしていたら、人里を牛耳っている辛辛帝国軍の監視も黙ってはいない。聖たちは瞬く間に帝国軍の兵達により囲まれてしまった。
「命蓮寺と我々は互いに不可侵の条約を結んでいる筈だ! 何をしに参った? 事と次第によっては容赦はせんぞ!」
周りから兵長と呼ばれるその妖怪は動じながらも鋭い剣幕で聖に武器である「暴君ハ〇ネロ銃」を突き付けた。聖のいつも通りの笑顔は変わらず、そのまま兵達にも構わずに前へ進もうとする。途端に兵達から「止まらないと撃つぞッ!」と凄まれるが、聖達は意に介さず、笑顔のまま足を進める。不気味な表情であった。
 皆が銃口を聖に向け、躊躇なく発砲した。辺りに渇いた銃声が響き渡る。放たれた暴君〇バネロ(何じゃそりゃ)は聖の顔面に命中する……事はなかった。寸前で、キャプテンこと村紗が手を伸ばし、ハバネロを掌で止めていたのだ。いきなり王将が取れると思ったら大間違いだと言わんばかりの目つきで兵士達を睨んだ。
「……響子さん、打ち合わせ通りに」
 聖が、隣に並んでいた山彦、幽谷響子に小声で告げる。響子は半笑いでへらへらと笑いながら相槌を打った。がっさがさの武骨な装備をしている命蓮寺組の連中の中でも、響子は現在ミスティアと組んでいるパンクユニット、『鳥獣伎楽』で使用しているライブ衣装に着替え、真っ黒くて厳ついサングラスを着けていた。
「すぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」
 響子は空気をその肺いっぱいに吸い込んだ。明らかに常人の肺活量ではない。彼女の手には、鳥獣伎楽として参加したライブのスタッフパスステッカーが無数に貼られた、ズタボロの拡声器が握られていた。命蓮寺組の皆が一斉に耳栓をする。その瞬間、響子は拡声器を掲げ、人里に向かって爆裂の一撃を放った――。

「殴り込みじゃボケええええええええええええええええッッッ!!」

 山彦という名のシャウトが、幻想郷中に轟いた。骨が震える程の絶叫であった。ハウ(ハウリング)りっ放しの叫び声が人里のオレンジ色の街灯で照らされた夜空を駆け巡る。この地で眠っている全ての「生命」を叩き起こすほどの「大音響」がそこに「居た」。
 彼女達を取り囲んでいた妖怪達は堪らずに耳を塞ごうとしたが、その一瞬の動きすら許さず、響子の絶叫は彼らの脳を揺さぶった。拳を頬に一発食らったような衝撃であった。その場に立っていた妖怪達は皆一斉に目を回して地面に倒れ伏してしまった。
 雷鳴さえ砕くような破壊の音に、何事かと人里の住民達が民家から飛び出してくる。一瞬にして辺りが喧騒に包まれた。響子は拡声器を離さず、今この場に立っているギャラリーに向かって咆哮を続けた。再び大通りから辛神に操られている兵士達がやって来た。
「一体何の騒ぎだ! 滅茶苦茶デカい音出しやがって!」
 すると、今度は聖が一歩前へ出た。その手には「果たし状」と書かれた紙に、一本のマイク――。聖が高らかに宣戦布告を述べた。
 とりあえずそこら辺は省略。要約すると――。
「殺ってやるから、クビ洗って待ってろボケ」
 聖のような温厚で優しい人がこの台詞を言うのがどれほど恐ろしい事か。周りにいた兵士達が小さく悲鳴を上げた。全世界のどよめきがそこに集約したかのように、辺りは騒然となった。
 しかし、その騒動をかき消すような、響子の叫び声に勝るとも劣らないほどの轟音が人里から響き渡る。歪なサイレンの音であった。
「聖、見ろよアレ……」
 村紗が人里の奥の通りを指差す。轟轟と燃え盛る火の海のように煌びやかな明かりがそこにあった。神々しく闇夜を照らす永遠の不夜城の光景であった。それは、一軒の店である。
『超・辛辛軒』
 眩いネオンで派手に装飾された看板であった。数多く存在する幻想郷の勢力を一気に制圧した事により、辛辛軒、つまり地獄一丁がこの土地で最も力のある者として認定されたのだ。辛さのみで富も権力も掌握した担々麺に、誰もが逆らえないでいたのである。
 店の前に、腕組みをして立っている店主、辛神の姿がった。明らかに挑戦者を待ち構える姿勢であった。
《ついに、来てくれましたか……》
 辛神には予感があった。あの娘は、必ずまた現れると。彼はすぐに聖達を取り囲んでいた兵達に退くように告げた。代わりに、彼女達の道に赤色のカーペットが敷かれたのである。
「おいおい妖夢、ずいぶんな待遇じゃないか?」
 村紗が、後ろの方で顔を深く伏せたまま待機していた妖夢にからかうように言う。顔を見せないまま、妖夢はクスクスと笑った。
 その時、里の何処からか、一筋の光が空へと昇っていった。夏の夜空に、花火が咲き乱れた。大輪の焔に照らされた幻想郷に、人々が驚嘆の声を上げた。一体何事かと住民達が空を見上げる。
 それを合図に、妖夢が皆の前に姿を現した。
 皆が夜空の花火に夢中になっていたが、そのレッドカーペットの上に、妖夢という名の銀色の花が咲いた瞬間、皆が一斉に彼女に釘付けになった。誰もがその姿に息を飲んだ。
 彼女は般若の面を装着していたのだ。
「一つ、人の世、生き血を啜り……」
 妖夢が仰々しく、以前から考えていた決め台詞を口にしていく。
「二つ、不埒な悪行三昧……」
 とある世代の人ならこの時点でピンと来ていると思いますが、とりあえず最後までやらせてあげましょう。せっかく妖夢がこの日の為に準備してきた台詞なので……。
「三つ……醜い浮世の鬼を……」
 そこまで口上を述べ、妖夢は満を持してその顔に着けていた般若の面を取り、群衆の中へと投げ飛ばした。歓声と罵声が入り混じる真夏の里にて、妖夢は目を爛々と輝かせて敵を見据えた。
「退治てくれよう……ッ! も」
 ここ、カットで。
その言葉を合図に、上空に一際大きな閃光が上がり、一瞬の静寂の後、幻想郷を覆い尽くすが如く、花火という名の火炎の向日葵が爆裂の雄叫びを上げて咲き誇った。
あとこれは余談ですが、妖夢はこの登場シーン、前日に一度命蓮寺でゲネプロを行っています。妖夢ったら真面目なので。
 そんな中、この騒ぎに乗じて、フードを被っている一団が妖夢の前に現れた。元甘味処を拠点にしていたレジスタンス、永遠亭の連中である。一斉に妖夢の元へと駆け寄る。絶対君主とまで言われた担々麺、地獄一丁、そいつに異議を唱える者が現れたのだ。今宵、幻想郷のカーストは全てがゼロへと戻った。人里を支配している辛神の御触れにより、彼に操られている兵士達も迂闊には動けないのだ。今ならレジスタンスの一行が命蓮寺と接触しても問題はない。
「鈴仙、それに永遠亭の皆さん……」
先頭には、鈴仙の姿があった。前に見た時より痩せ細っていると妖夢は思った。心配そうな顔をする妖夢に、鈴仙は力なく笑ってみせる。そして、雑な文字が書かれた紙きれを妖夢に手渡した。
――勝ッテ、ヨウム――。
以前、あの担々麺に挑戦して以来、鈴仙は未だに喉の調子が良くない。故に、こういう手書きの言葉でしか応援する事が出来ないでいた。しかし、妖夢と鈴仙は永夜異変以来から親友であった。友からの激励は、この紙きれ一枚だけでも十分に伝わる物だ。
鈴仙の瞳を見つめながら、妖夢は力強く頷いてみせ、鈴仙が正体を隠すために自身の口元に巻いていたタオルを優しく解き、リストバンド代わりに自身の腕に巻いてみせた。妖夢の咄嗟の行動に鈴仙が呆気にとられたその瞬間、周りから歓声が巻き起こる。鈴仙のタオルの裏生地には、永遠亭の象徴であるヤゴコロ印がプリントされていたのだ。妖夢はその腕を高らかに上げて周囲に見せた。
これにより、自身のバックにはスポンサーとして永遠亭が付いている事をこの場で大きくアピールしたのだ。先の情報漏洩の失態から信用を失い続けていた永遠亭の名誉を、この一連の動作で挽回したのである。
すると、そのすぐ横から灰色のローブを被った白髭の霊夢老子が現れた。まだこの変なコスプレをやってんのかこの子は。
「……後光がさしておる……」
 霊夢は腕を妖夢の前にかざし、変な言葉を残して後退った。
「一体何をやっているんですの霊夢」
 霊夢の珍妙な出で立ちに、妖夢は思わず苦笑してしまった。
 その時、レジスタンス一行の中から、責任者である永琳が現れた。
「ごめんなさい……どうにかして、あの担々麺の辛さを無力化する薬を生成しようとしたのですけれど、不可能でした。……ですので、後はあなたに全て任せます……」
 そう言いながら、永琳は弱々しく妖夢の手を握る……と見せかけて、密かに小さな錠剤を一粒だけ手渡したのである。去り際に、永琳は妖夢に顔を近付け、小さな声で耳打ちする。
――これは、一度だけ使える魔法です――。
妖夢は握らされた一錠のカプセルを見た。これは、永琳が生成した、地獄一丁へ対抗するための薬……ではない。永琳はその薬の用途を妖夢だけに説明し、最後に「意識を失う前に使え」とだけ付け足し、そのままギャラリーから離れてしまった。この土壇場まで、永琳はこの薬の存在を隠匿するために、例の情報漏洩事件から今の今までずっと無能を演じていたのである……。
 妖夢は振り返り、後ろに付いて来てくれている命蓮寺のみんなを見つめた。言うなら今しかない――。
「皆さん、数えきれないほど迷惑をかけたと思います。皆さんがいてくれなかったら、私は何処かで潰れてしまったと思います。皆さんのおかげで、私は迷いを捨て去る事が出来ました。今から、その恩返しをします。……ですから、何と言うか、その……」
 みなまで言うなと、聖が口ごもる妖夢を制した。本当は「ありがとう」と言うつもりだったのに、いざ口にしようとすると、感謝の想いが弱くなってしまう気がして、声に出せなかったのだ。
 言葉を上手く発せない妖夢の代わりに、聖が手短に挨拶する。
「オッケー、全部伝わった。はよ行ってこい」
 手短過ぎやしませんか聖さん。あまりにも乱暴であっさりとした旅立ちに、一同は腹を抱えて笑った。だが、師が弟子を送り出すのには、このくらいが丁度良いのである。
「……勝負の間、あなた方に、私の魂を預けます」
 妖夢はそう言って、身に着けていた二本の刀、楼観剣と白楼剣を聖に向かって差し出した。今まで、鍛錬の時も寝る時も肌身離さず持っていた、剣士の魂である。それを、預けると言うのだ。
「大丈夫です。生きて、帰ってきます……」
 聖は何も言わず、それでも慈悲深い笑みを浮かべて妖夢の意志を汲み取り、そっとその手に握られた日本の刀を受け取った。
 妖夢はもう一度敵を見据え、一人でゆっくりと歩き出した。そして、もう仲間達の方へ振り返る事はなかった。「ありがとう」の言葉は勝った時の為に残しておこうと、妖夢は心に決めた。
 ふと、妖夢は辺りを見渡した。
 あれから決して短くない月日が経ったというのに、幽々子から連絡は一切なかった。正直な話、追い出されてから、妖夢は何度も白玉楼へ足を運ぼうとした。だが、中途半端のまま自身の主に顔を見せるわけにはいかないと自分を律し、今まで幽々子には一切の便りも送らずにいたのだ。ひょっとしたら、この戦いを見に来てはいないかと人だかりを見渡していたのだ。だが、姿は無く……。
 野次と歓声が飛び交う赤い道のりを、妖夢は一瞬の怯みも見せずに歩く。その姿は威風堂々のそれであった。辛神は一脚の椅子とテーブルを用意し、ゆっくりと調理の準備を始めていた。そして、妖夢は何も言わず、ただ辛神と、その店である辛辛軒に向かって姿勢良く首を垂れた。今一度、勝負をさせていただきます、と。
『……らっせーい。お待ちしておりましたよ……』
 本日の辛神は気合だけでなく、服装も違った。真っ黒のTシャツに、白いタオルを頭に巻いていた。そう、ラーメン屋の正装だ。
『それでは、少々お待ちください……』
 その言葉と同時に、妖夢は音も立てず静かに席に座る。人里、いや、この幻想郷中に存在する全ての人妖がこの場に集まっていた。百鬼夜行、第一次月面戦争でさえ真っ青になるような妖々跋扈がそこにあった。しかし、その場を支配しているのは恐怖ではなく、期待と不安のその二種類。しかし、いや、まさか……。
 もしかしたら自分達は、この間違いだらけの世界を覆す革命の証人になれるかもしれない。歴史が動く瞬間に立ち会いたくて皆が皆固唾を飲んでその場に立っていたのだ。
 その間、妖夢は目を閉じ、合掌したまま微動だにしなかった。この世で最も静かな聖域、精神統一を行っていた。妖夢だけではない。彼女の後方で、命蓮寺の皆も同じように座禅を組んでいたのだ。聖が透き通るような声でお経を読み続ける。妖夢の健闘を願う内容である。その声は周囲の歓声によって呆気なく掻き消されたが、それでも、妖夢の耳ではなく、心にはちゃんと届いていた。その不思議な繋がりは気恥ずかしくも温かかった。
 それと同時に、辛辛軒の内部からも、目には見えない不思議な気迫が自身の精神に流れ込んでくるのが分かった。命蓮寺の皆とは正反対の、どす黒い灼熱の焔のようなオーラ、純粋な殺意である。
 嬲り殺してやる――、言葉にせずとも伝わってくる。
 しかし、それは辛神も一緒である。調理をしながら、妖夢の方から溢れてくる眩い凄みに威圧されていたのだ。
 喰い滅ぼしてやる――、彼女の覚悟の眼差しがそう囁いていた。
 数々のスパイスを調合し、具材へと絡ませていく。そして、ついに、あの火炎を身に纏った怪物が姿を現した。
 火炎龍、地獄一丁の辛さの根源とも言える魔の調味料である。キャップを開けた瞬間、パンドラの箱が開かれたかのように世界が暗転したかに思われた。誰もがその小さい驚異を察した。
「な、何だ……今の……寒気は……?」
 辺りが瞬時にざわつく。
「おい、見ろ! 空が……ッ!」
 その時、誰かが上空めがけて指を差した。皆が一斉に空を見上げる。そして、瞬時に騒然となった。
 紅霧であった。夜空が血の色に染まっていた。紅魔郷の再来である。しかし、今回のそれはレミリア・スカーレットが起こした異変とは違った。遊び心も、良心が介入する余地さえも無い、完全無欠の悪意の紅(くれない)であった。
 世界の終わりだ、誰かがそう口にした。その真っ赤な夜空は、この世の最後を描いた地獄絵図のそれであった。誰もが顔を真っ青にした。地に膝を付き、空を仰ぎ見て拝みだす者もいた。お終いなんだ。みんなもう、これで……、そんな悲観が辺りに充満した。
だが、その運命に異議を唱える者が、その残酷な決定に蹴りを入れようと目を爛々と輝かせている者達がいた――。
妖夢の事を知っている者達だけは、その悪夢のように紅い空を見つめる事はなかった。それが世界の終わりだとは、微塵も思っていないのだ。皆が、妖夢の事を信じていたのだ。
 期待と不安、絶望と希望、相対する白と黒、陰と陽の渦巻く幻想郷の中心で、妖夢は鎮座していた。そこに言葉は存在しない。あるのは沈黙と、ただ一つの曇りなき決意であった。
『おまちどうさまです……』
 暴君を滅ぼす時間が来た。妖夢はカッと目を開き、敵を見据えた。あの時の、あの姿のままであったが、地獄一丁、辛さも美味さも改良され、更に鋭さを増してその姿を現した。
『ここからは変則ルールで行きましょう……。この戦いに、時間制限は設けません。完食するか、ギブアップするかです……』
 辛神は壊れたストップウォッチをその場にかざして見せる。妖夢は無言で頷き、ゆっくりと地獄一丁の器の中を覗き込んだ。
 火炎龍の濃さも、それを引き立たせる具材の美味さも桁違いである。器の中で火花が散っている。マグマのようなスープがドロドロと輝き、獲物が足を滑らせて墜ちてくるのを待っているかのようだ。旨味の主成分である筈の肉そぼろも、まるで悪魔を宿した隕石のようにメラメラと燃え続けている。そして、以前辛神がハンデという名の罠として使用していた半熟卵が無い。小細工無しの真剣勝負という事だ。地獄の釜の蓋が開かれたその匂い、旨そうな香りと、戦いの燻りが交互に辺りに漂う。
 妖夢が箸とれんげを手に持つ直前、辛神がマイクを手に持ち、二人をじっと見つめている群衆に向かって叫んだのである。
『ここが、事実上の最終決戦である。彼女の肩には、この里の未来が懸かっている。君達の、希望の象徴だ――だからこそ、敢えて言おう……私の担々麺は、誰にも完食されはしないと……ッ!』
 それは『真・地獄一丁』と命名された。激辛担々麺の究極中の究極、最終形態である。八大地獄を宿したその怪物を前に、皆が恐怖の表情を、そして、絶望の顔を見せた。周りの者達の悲観の表情を見渡しながら、辛神は満足げに笑ってみせる。
 その時であった――。
「おい、あの半霊娘を見ろ……ッ!」
 群衆から聞こえたその言葉に、辛神はさっと振り返って、視線を妖夢の方に移す。
 ――妖夢がれんげを手に取り、一切の躊躇もなくスープを啜っていたのである! 開始の合図すら無いまま、彼女は間髪入れずに戦いを始めてしまったのだ! これは皆も絶句した。地獄の一口である。それを、何の恐れも示さず、普通の食事のようにあっさりと口に含んでいたのだ。途端に驚嘆の声が方々で上がる。
その真っ赤なスープをすすり、妖夢は表情を変えないまま席を立った。辛神の方まで歩み寄り、マイクを寄越せとジェスチャーをする。その平然そのものである妖夢の様子に唖然としながら、辛神はそっとマイクを妖夢に手渡した。
「言い忘れていました……『いただきます』」
 そう言って、妖夢は箸を持ち、わざとらしく辛神の目の前で手を合わせ、鋼のような視線でメンチ切った。その行為は宣戦布告でもあった。そのあまりにも大胆不敵な態度に、会場の張り詰めた空気がガラリと変わった。大歓声の嵐である。誰も予想すらしていなかった事態に狼狽える辛神を余所に、妖夢は再び席に座り、改めてれんげを握り、スープを啜った。拍手喝采であった。その行為を他に例えるならば、悪の権化の顔面に拳を入れたような物である。
 勢いが増した。追い風に乗るような軽快さで、妖夢は箸を手に取り、真っ赤な地獄のスープの中から、黄金とルビーのような色で彩られた麺を掴み上げ、群衆に向かって高々と掲げて見せ、それを一気に啜ったのである。まさに快調な滑り出しであった。
「妖夢さん、絶好調じゃないですか……これなら……っ」
 人ごみに紛れて観戦していた文が誰に言うでもなく呟いた。その通り、本日の妖夢のスコヴィルコンディション、すこぶる良好である。すると、文の独り言を隣で聞いていた永琳がそれに答えた。
「ええ……ですがあの担々麺、地獄一丁は時に予測不可能な動きを見せます。まるで追い詰められた猛獣のように鋭く、雄々しく。妖夢ちゃんの体力が尽きた時、恐らく地獄一丁は真の姿を現すでしょう。あのままのペースだと……下手したらあの子……」
 永琳が杞憂の言葉を口にする。確かに、この場において楽観的な考えは軽率である。永琳が危惧している事、それは妖夢のスタミナ切れと、地獄一丁が秘めている未知の脅威である。その二つがかち合った時、はたして妖夢は衝撃に耐えられるのか――。
(辛いけど……ッ、イケる……ッ!)
 妖夢は冷静を装っているが、彼女は今現在、正真正銘「必死」であった。その様子を見ている会場は盛り上がっていたが、目の前で妖夢の奮闘を見据えていた辛神だけは、彼女に余裕がない事に気付いていた。我武者羅に地獄一丁の面を頬張りながら、少しずつ地獄の火山を掘り進めていく。そして、気付かされる。
(これは……)
 この日を迎える前に、妖夢は我流で地獄一丁攻略のイメージを脳内で繰り返していたが、食せば食すほど、戦いの仮想と現実の差に打ちひしがれそうになるのである。
(箸を進める度に、この地獄一丁の旨味が見えてくる……。だけど、それはかなり危険な事だ……)
 それは裏を返せば、今まで気付けなかった地獄一丁の脅威が明らかになってしまうという事である。まさしく、諸刃の剣である。
 命蓮寺での修行によって己の舌に白い獣を宿した妖夢であった。あの舌を持ってから、今までとは比較にならないほど味に敏感になっていた。だが、それはデメリット無しというわけではない。
 妖夢の口の中で、紅の牛鬼と白虎が交差し、激しい死闘を繰り広げていた。熱と痛みと旨さ、そして辛さが雷鳴となって内臓の奥底まで轟く。五臓六腑に火花の嵐が吹き荒れた。発汗し、荒くなる呼吸。激しい動悸に耐えながら、妖夢は自身の額から滲み出る汗を拭った。甲子園決勝九回裏を迎えた高校球児のような表情をしていた。生命が溢れていた。真夏の太陽よりも強い眼差しであった。
『心、折れませんか……しかし……』
 この場にいる観客全員が早すぎる勝利に期待を膨らませていた。きっと、あの少女は化け物を退治してくれるだろうと。
 だが、その甘い幻想を誰もが抱いている時、地獄一丁がその本性を現し、牙を剥き出しにして妖夢に襲いかかったのだ……ッ!
「うう―――――ッ!」
(来た……地獄一丁の、辛さの壁……ッ!)
《――さぁお嬢さん、そっちは地獄の二丁目だぜ――》
 真・地獄一丁、フェイズ2である! 
 この担々麺の辛さは八段階に分かれている。より奥に進めば進むほど、その威力は増す。かつて、鬼の星熊勇儀が、伊吹萃香が足を滑らせた第一の壁、初手の辛さが等活地獄であるならば、その壁はさらに先、黒縄地獄へと繋がる灼熱の門であった。今までと比べて、その辛さはおよそ十倍にまで跳ね上がる。当然、妖夢も今までのように平然としては居られなかった。途端に目つきが変わる。目の前に焼け野原が広がる。合戦の跡地のように凄惨であり、どす黒い死の香りが容赦なく充満していた。黒縄地獄のスープを箸で掻き分けながら、妖夢はさらにその先を目指して泳ぎ続ける。
 鬼の舌を凌駕した辛さの海で、妖夢は懸命にもがいた。苦悶の表情を浮かべながら、更に待ち構えているであろう第三の壁に向かって一手、また一手と着実に攻め続ける。
 すると、自然と攻めのスタイルが変化していく。妖夢自身は気付いていないが、先ほどまでと比べて動きが保守的になっているのだ。攻めに転じる為の守り、分析という名の攻撃である。
(あれは……まさか……)
 その妖夢の今までとは違う攻め方に、最初に気付いたのは、永遠亭組のレジスタンスに混ざって戦いを見ていた星熊勇儀であった。
(間違いない……あの探り方、あの構え、アレは……)
 妖夢は、先の鬼と地獄一丁の対決を見ていたわけではない。だが、彼女の攻めのスタイルは、奇しくも、あの時の勇儀と全く同じだったのである。妖夢の本能が、この場における戦い方の最適解を導き出した。それが勇儀の戦法、パーフェクト・プランである――。
「あいつ、勇儀の動きを――ッ?」
 隣にいた萃香も、妖夢のフォームチェンジに気付いた。そして、それが「不完全」である事も。確かに、戦闘センスの面で妖夢は他の人間よりも優れている。だが、まだ勇儀の戦法を模倣するには隙が多すぎるのだ。穴だらけのプランは時として己を滅ぼす蛇に化ける。妖夢自身も、それは痛感していた。
必死に舌の上でスープを転がし、寸前で辛さの弾丸を交わしていく。だが、体力の消耗があまりにも激しい。ここでペースを乱せば、いずれ戦闘不能になってしまう。――しかし、その不完全なプランをカバー出来る唯一の存在が、ここにいた。
「白髪娘ェ! 麺だ! 麺を絡ませろ!」
 辺りの歓声をねじ伏せるような怒号が響き渡る。それは勇儀の声であった。妖夢がハッとし、その言葉通りに箸を動かし、麺を絡め取った。スープが急激に染み込んだところを一気に口に含む。
 その瞬間、兆を超える針の山が口の中で爆発した――が、麺を噛む事により、痛みを防御する事が出来たのだ。麺単体の弾力、もちもち感が担々麺特有の酸味の衝撃を和らげていく。この時、妖夢は地獄一丁攻略の一歩を踏みしめたのだ。
「ここで辛さを真正面から受けようとするな! 麺をその箸から離さず、隙を作らずに口へ流し込め!」
 妖夢は勇儀のアドバイスに従い、滑らかな舌使いで担々麺の辛さを受け流し、見る見るうちに平らげていく。あの時の、勇儀の戦法は間違っていなかったのだ。攻めと守りの乱打である。盾である麺はいつしか武器となり、最大の防御と昇華したのだ。
 黒縄地獄の果て、新たな地獄へと続く道のり、辛さの猛威が、最後の悪あがきのように襲いかかって来る。
(いや、躱せる。お前なら、この波を――)
 勇儀は確信した――。彼女は最早、この地獄の道に恐れなど抱いていないと――。勇儀は立て続けに妖夢の背中に指示を飛ばした。妖夢は勇儀の言葉を一字一句漏らさずに吸収し、それに合わせて箸とれんげを駆使し、地獄を突破していく。前回はこの時点で息も絶え絶えになっていたのに――今回、妖夢は傷一つ負う事なく、軽い足取りでフェイズ2を突破してしまったのだ――ッ!
(これが……パーフェクト・プラン……ッ!)
 妖夢の半霊としてのスキルと、勇儀のこれまでの戦闘経験が生んだ戦略的頭脳が見事にシンクロしたのだ。
 妖夢は、心の中で勇儀に礼を言った。彼女の、守りのスキルが無ければ、この地獄一丁フェイズ2を無傷で突破するのは不可能だった筈である。勇儀は何も言わず、自然と笑みで綻んでいく口元を手で隠し、隣にいる萃香にさえ聞こえないような声で呟いた。
「――完璧(パーフェクト)、良い子だ――」
 鬼が、満足げに笑っていた。
《まさか……こうも容易くフェイズ2を超えていきますか……》
 しかし、そこから先は以前、妖夢がこの地獄一丁に挑戦し、タイムオーバーで敗北してしまった領域である。禁断のフェイズ3、第三の地獄、衆合地獄の門が立ちはだかっていた。
 味の変化は、すぐには訪れなかった。だが、妖夢はその感覚を知っている。ここは、既に衆合地獄の内部だという事に気付いた。あの時、タイムアップのアラームによって集中力を乱してしまったから気付けなかったが、この地獄は、自覚出来ない恐怖が眠っていたのだ。辛さの度合いは先ほどの黒縄地獄のままであるが、妖夢には予感があった。この地獄には、何かが眠っていると――。
 皆が妖夢の一挙手一投足に目を見張る中、永遠亭の永琳だけが仄暗い不安を抱えながら戦局を見つめていた。永琳は一度、地獄一丁の辛さの分析を行っている。だから、妖夢が予期している「アレ」の正体を理解しているのだ――。
(気をつけなさい、第三の地獄には、アイツが潜んでいるわ……)
 妖夢が警戒しながら箸とれんげを持ち替え、ゆっくりとスープを口に流し込んでいく。血のスープの湖畔に波紋が生まれる。
その時、アレがその正体を現したのであるッ!
 辛さには通常、波という物が存在する。基本的に、辛さの波は「揺れ」の初期微動と本震の二段階に酷似しているが、妖夢の身に起こったソレは、明らかにただの波ではない。
 今まで口内に蓄積していた辛さが音高く爆発していく。今まで妖夢は、硫酸の溜まった水風船を口に含んでいるような状態であったのだ。その脅威が、ここに来て容赦なく暴発し始めたのである。妖夢は俊敏な動きで何とか辛さを躱していくが、その四方八方に飛び散る激辛の弾幕は無限に広がっていく。異変時、自機(シューター)としても活躍する妖夢だ。全ての攻撃を間一髪でグレイズし、何とか次の辛さの入り口を探そうとするが――。
 それは大海原のど真ん中、漆黒の夜の世界で見舞われる暴風雨のようであった。妖夢は咄嗟に左手で持っていたれんげを離し、器の淵を掴んだ。この手を離したら、宵闇の海へ振り落とされてしまう気がしたのだ。彼女は今、衆合地獄の暗黒の海で、小さなボートで漂流している状態である。そう、迷子である――。
 何処に進めばいいか分からない状態で、これまで蓄積していた辛さの大波が襲いかかってきたのだ。それでも、進まなければならない。灯台の明かりを目指し、新大陸を探さなければならない。
 恐怖に打ちひしがれてしまうような状況であった――が、妖夢はここで機転を利かした。冷静に呼吸を整え、今まで過ごしてきた辛く厳しい修行の日々を思い出す――。
 ・・・
「姐さん……妖夢はもう限界だ……ッ!」
 それは、妖夢が風呂上りに命蓮寺の廊下を歩いている時、台所から偶然聞こえてきた会話であった。
 台所には聖と村紗がいた。最初は妖夢も盗み聞きするつもりなど無かったのだが、自身の名前が聞こえてきたからにはこのまま素通りするわけにもいかない。
「姐さん、知っているか? 妖夢は最近ようやく味覚の濃い物を食べても何とか意識を保てるようになった。修業が終わった後、みんなに内緒でオリジナルの特訓をして、無理やり身体にダメージを覚えさせているからだ!」
 それは、白虎の舌を手に入れた後、舌の感覚に身体がまだ順応していない時期の事である。妖夢は照れ臭くなって顔を赤らめた。いつも夕飯前に舌を鍛えるため、誰にも言わず一人で辛い調味料を使用し、少しずつ舌を慣らしていたのだ。しかし、まさか村紗に気付かれていたとは思わなかった。
「確かに、持久力トレーニングのおかげで徐々にスタミナも付いてきている……だが、……だが、流石にこれ以上はもう無理だぜ! 妖夢のヤツ、戦いの前に身体を壊しかねない!」
 聖は何も言わず、村紗の訴えに耳を貸していた。己を信じてくれている聖に、そして気遣ってくれる村紗に感謝せずにはいられなかった。思わず目頭が熱くなってしまい、妖夢はその場から駆け足で逃げ出した。そして、部屋に戻って自身の考えをまとめていた。
 強がっているつもりでいたが、村紗に限界を見抜かれてしまっていた。そう、先ほど村紗が言っていた事は全て図星だった。
(……村紗さんめ、痛いところを付いてきたな……)
 村紗の言う通り、現在、確かに妖夢は肉体的に限界を感じていた。白虎の舌が持つ驚異的な能力をいつまでも完璧にコントロール出来ないでいる。精神的な負担も相まって、いつまた倒れてもおかしくない状態であった。確かに――、このままではまずい。
 その時、頭の片隅に辛辛軒での勝負が蘇った。
その一瞬の記憶が、一つの閃きへと繋がった。
「何? 偵察に行きたいですって?」
 後日、妖夢は早朝から聖の元に駆け寄り、自身の考えをそのまま伝えた。最初は聖も難色を示していたが、妖夢の手詰まりな現状を鑑み、渋々とした表情を浮かべて悩んでいた。
「伝家の宝刀もいざという時に使えなければただの棒ですよ。地獄一丁攻略のヒントも欲しいですし、勝負の前に敵の事も詳しく知っていれば、作戦も練れます! なので、なのでっ」
「はぁ、わかりました……ですが、あの地獄一丁に挑戦するのはまだ時期早々です。相手に奥の手を知られる訳にはいきません」
 ――なので、お目付けを付けます。そう言うと聖は星を介し、無縁塚にある掘立小屋に住んでいるナズーリンを呼び出した。
 そして、無事に聖の承諾を得た妖夢とナズーリンは、夕暮れ時に人里へと向かう。夕食時、人里はいつものように華やかな屋台や飲み屋の灯りで彩られていた。その中でも、異彩、というより異常なオーラを放っている店が一軒あった。辛辛軒である。
「なるほど、周りの食べ物屋の香りでかき消されているが……」
 ナズーリンは鼻を利かせた。この人里に、微かに「殺人鬼」の香りが充満している事に気付いたのだ。
「おい妖夢、お前の敵は、お前が思っている以上に凶暴だぞ……見てみろ、私の仲間(ネズミ達)が怯えている」
 ナズーリンの後をトコトコと追っていたネズミ達が彼女の尻尾に着けられたバスケットの中に引きこもってしまっていた。
「ここに来たのは良いんですが、地獄一丁に挑戦出来なければ来た意味がありません……無駄足だったかなぁ」
 現在、妖夢とナズーリンは裏路地から双眼鏡で辛辛軒の様子を窺っていた。現在、辛辛軒は店内ではなく、軒先に席を置いていた。屋台のような形式であったが、これはある意味簡易型の見せしめである。敗北する姿を周りに晒されるのだ――。
「いや、そうでもない。地獄一丁を食った奴らのリアクションを見ているだけでも十分に情報収集だ」
 確かに、辛辛軒には何人か客が来ていた。しかし、目は虚ろであった。皆、地獄一丁に勝てなければ、幻想郷の食べ物が全て激辛に変えられる。それを恐れ、住民を代表して立ち上がった者達であった。……まるで監獄へ連行される囚人達のような表情である。
 彼らの地獄一丁を食する際の表情をじっと観察してみると、苦しみ方に段階があるのが良くわかる。
(実際にアレを食べた時に気付いたけど、地獄一丁は最初の一口から辛さマックスって訳じゃない……上手く立ち回るには無鉄砲に食いつくだけじゃなくて、ペース配分もちゃんと頭の中に入れておかなくちゃいけないって事だよね……)
 しかし、今はまだ地獄一丁が持つ辛さの最大出力も想像出来ない。とにかく、食ってみない事には始まらないのだ。奥の手である白虎の担々麺との相性も確かめたい、妖夢はそう考えた。
(聖さんには止められているけど……自分の力を試してみたい)
 妖夢は思わず一歩踏み出し、辛辛軒の席に座りたいという欲求に駆られた。何者かに肩を掴まれたのは、その時である。
「あ、あなたは……鈴仙?」
 妖夢の背後に立っていたのは鈴仙であった。
 鈴仙は「ついて来い」というジェスチャーをして見せ、そのまま一言も喋らずにスタスタと歩き出してしまった。妖夢とナズーリンは顔を見合わせ、良くわからないと言った様子で首を傾げた。
 鈴仙はそのまま一軒の店の前までやって来た。看板には丸っこい字体で『ヒヤシンス』と書かれていた。そう、永遠亭の医療班を匿っている甘味処である。二人は裏口の方へと案内された。
 裏口からは厨房へと入り、二階へと上がっていく。すると、そこには永遠亭のウサギ達が数名、そして、因幡てゐがいた。
「鈴仙、そいつらは?」
 てゐは真っ赤な液体の入ったビーカーを持ちながら鈴仙に問いかける。何だか招かれざる客のような気分で居心地が悪い。ちなみに、チームリーダーである永琳は不在であった。鈴仙は一言も喋らずに身振り手振りだけでてゐに説明する。
「なるほど……妖夢だったっけ? あの地獄一丁に挑戦しようと思っているんだね?」
 どうして伝わるんだよ。
「……実は一度、あの担々麺と戦った事があるのですが、ボロクソに負けてしまいまして……リベンジの為に地獄一丁の研究をしていたのです。出来ればもう一度、あの担々麺を……」
「駄目だ」
 妖夢の言葉を、隣にいたナズーリンがバッサリと切り捨てた。
「だけど、だけどナズさんッ!」
「駄目ったら駄目だ。お前はまだ修行中の身、今のコンディションであの担々麺に挑戦する事は自殺行為に等しい。まずは自身のキャパシティーを把握しない事には始まらないだろう、それに……」
 今ここで、敵に妖夢の奥の手である白虎の舌を露見させる訳にはいかない。ナズーリンはそう言って腕を組んだ。妖夢は反論したい気持ちをグッと抑え、冷静に自分を律した。ここでナズーリンが止めてくれなかったら、無鉄砲なまま、感情のままにあの辛辛軒へ足を運んでしまっていたかもしれない。もしそうなっていたら、再び敗北してしまうのは目に見えている……。
「ほう、それなら……丁度良いものがあるぞ」
 そう言いながら、てゐがラボの奥にある冷蔵庫から一杯の丼を取り出した。そこには毒々しい真っ赤な担々麺が入っていた。まさか、地獄一丁がここに……と、妖夢は一瞬ぎょっとした。
「これは地獄一丁、ではない……?」
「その通り、これは地獄一丁のスープから生成したレプリカさ。味はそのままだが、辛さの方は本物よりかなり軽減されている。これなら妖夢の良い練習相手になるんじゃないか?」
 確かに、これなら無茶をして辛辛軒に出向く必要はない。妖夢は横目でナズーリンの方をチラと見る。
「ふむ……これなら大丈夫か? ただし、一杯までにしておけ」
 お目付け役の許可も出たところで、妖夢は目を輝かせて頷いた。温めなおした地獄一丁のレプリカを前にし、妖夢は自身のまだ知りえぬ力の前に高揚が抑えられなかった。
「それではさっそく、いただきまーすッ!」
 妖夢は箸とれんげを手に取り、迷わずレプリカに食いついた。
(うぅ……相変わらず辛い……ッ! 辛い、けど……?)
 しかし妖夢のリアクションは、以前本物の地獄一丁を口にした際とは明らかに違った。前回は最初の一口の時点で息も絶え絶えになっている所であったが、白虎の舌を持った今、地獄一丁が持つ本来の旨さに気付いたのだ。辛さの横に鎮座した美味しさを知る事により、辛さの痛みに耐える事が出来ていたのだ。
(おお! これはイケる! 箸が進む!)
 妖夢は嬉々として麺を啜り続けた。だが、レプリカとは言え、これはあの地獄一丁の悪魔のようなスープから作られた物である。当然、好調のまま食い続ける事は容易ではない。
 それは突如やって来た。簡易版、地獄一丁フェイズ2である。その途端、妖夢は口の中で破裂した地獄の火柱に思わず喉を抑えた。その様子を見ていたナズーリンはある事を考えていた。
(なるほど……レプリカとは言え、流石は『地獄』。妖夢のウィークポイントを的確に捕らえ、執拗に責める……それによって、白虎の舌ではなく「妖夢自身」の本来のスタイルが浮き彫りになるな)
 妖夢も負けじと何とか麺に食らいつくが、見る見るうちに口内に辛さが蓄積していく。鳩尾がギシギシと悲鳴を上げる。まるで火を噴くガスバーナーを無理やり口の中に突っ込まれたかのような激痛である。このまま食せば、確実に身体がズタズタになる。引き際を見極め、妖夢はすぐに箸を置いた。
「うう……すいません。ギブ……です」
 白虎の舌にも慣れていない状態である。前回地獄一丁に挑戦した時の事が嘘のように、呆気なく敗北した。隣で見守っていた鈴仙がすぐさま冷えた牛乳と濡れタオルを持って妖夢を介抱する。
「無理もない。あの担々麺は文字通り地獄の権化だ。何の準備も無いまま「勝てる」って考える方がどうかしている」
 てゐは何処までも冷静に妖夢に吐き捨てた。妖夢は返す言葉もなくそのまま机に突っ伏して項垂れてしまう。
「はぁ~、ダメだぁ……身体が全然持たない……」
 妖夢のその一言に、今度はナズーリンが口を開いた。

「体力の問題じゃない。妖夢、今のは戦法に欠点がある」

「私の、戦法……?」
 妖夢が反応した時、そばに立っていたてゐも思うところがあったのか、妖夢の代わりにナズーリンに問いかけた。
「辛さに対する戦術か……ぜひ意見を聞かせてくれ」
「……妖夢の場合、オフェンスに関しては悪くない。だが、肝心な辛さに対する防御が疎かになっているように思えたぞ。特に辛さの段階が上がった時、フォームが明らかに崩れていたからな」
 その言葉に、妖夢はレプリカを食していた時の事を思い出していた。確かに、妖夢は無意識のうちに目の前の担々麺を完食する事ばかりに気を取られ、スピードばかり意識してしまっていたのだ。これでは辛さが変化した際に上手く対応出来る筈がない。
「箸とれんげ、つまり麺とスープの切り替えが遅れ、それにより攻防がどっちつかずになってしまっていた。お前に足りないのは、場面毎に攻め方をチェンジする際のレスポンスだ」
 ナズーリンの考えを聞いて、てゐは驚きの表情を浮かべた。
(確かに、妖夢の動きには違和感があったが、たった一度戦闘を見ただけでそこまで見抜くか……流石、賢将と呼ばれる事はある)
「とりあえず、ちょっと箸とれんげを貸してみろ」
 すると突然、ナズーリンが妖夢の食べかけである地獄一丁のレプリカを自分の方へ寄せ、小さく「いただきます」と呟き、丁寧に手を合わせた後、何とそのまま麺を絡め取って口に含んだのである!
「なっ、何やっているんですかナズさん!」
 これには妖夢も驚嘆の声を上げた。妖夢の場合、これまで肉体的に接近戦を繰り返してきたことにより、それなりに衝撃に耐えうるだけのフィジカルを持っているが、ナズーリンの場合は違う。彼女は弾幕勝負なら出来るが、肉体による戦闘は不慣れである。地獄一丁の辛さに耐えるだけの身体が出来ていないのだ。しかし――。
「――確かに辛いが、口の中で上手く調整すれば、私にだって戦える相手だ。要は状況によって立ち回り方を変える事だよ。……まぁ確かに、戦いにおいて『無鉄砲な根性論』が必要になる時もある」
だかね、それ以上に大事なのは『知略』だよ――。
 そう言ってナズーリンはハンカチを取り出し、上品な仕草で口元を拭った。額に少し汗をかいているが、ダメージは全くのゼロだ。
「うぅーっわ何これ! めっちゃ辛ッ! 馬鹿じゃねぇの!?」
 箸を置いた途端、ナズーリンが涙目になって椅子から転げ落ちた。がぶがぶと牛乳を飲み、一呼吸、落ち着いたところで――。
「ただ闇雲に食べ進めても勝てないって事ですね……」
「……その通りだ。辛さの度合いによってスタイルを変える。まずはそこを念頭に置いてもう一度挑戦してみろ」
 自分で言っておきながら、ナズーリンはある事に気付いた。
(そうか……妖夢が白虎の舌を使いこなせずにいたのはこれが理由だったのか! 身体が舌に追いついていないんじゃない。上手く攻めと守りを切り替える事が出来なかった事により、無駄に体力を消費して、スタミナ負けしてしまっていたんだ……ッ!)
 妖夢の、激辛フードに対する弱点に気付く。ナズーリンの忠告により、妖夢自身も己の欠点に気付いた。妖夢の脳内で地獄一丁の辛さのパターンが光の速さで羅列していく。再び、妖夢は息まいて食いかけの担々麺に手を伸ばし、れんげでスープをすくい、勢い良く啜った。だが――。
「ぶえっほっほっほげぇっひひぃ」
 勢いが良すぎた。辛さが口の中に飛散しまくり、催涙ガスのような威力を持って妖夢の喉奥に襲いかかってきたのだ。今まで出した事のないような声が出た。
「他者の助言一つで戦況を逆転出来るなら誰だって英雄だ。幸いにもタイムリミットまではまだ時間がある。まずはコイツを――」
 ・・・
 妖夢は我に返った。あの時のナズーリンの言葉を思い出していたのだ。人里で地獄一丁の模造品を食べた時に知った己の弱点、妖夢はその克服のために更なる修行を自分に課した。
 その結果、妖夢の脳内には『対地獄一丁』の攻略法が構築されていた。そのパターン数はなんと二億個(本人談)である!
 だが、妖夢は戸惑いを隠せないでいた。今のこの状況を打破する為の最適な答えが見つからないのだ。いくら脳内に検索をかけても全くヒットしないのである。二億個(本人談)もあるのに!
 現在の地獄一丁の辛さステージは3――、衆合地獄、妖夢は担々麺という名の真夜中の大海を彷徨っていた。気を抜くと辛さが荒波となって襲いかかって来る。必死にもがきながら、辛く厳しい修行の日々を思い浮かべる。その時――。
「おい、半霊のお嬢ちゃんの動きが止まったぞ……?」
 辺りが一気に不穏の声を上げる。なんと、戦いの最中にありながら、妖夢は自身の刀とも呼べる箸とれんげから手を離し、目を閉じたままその動きを止めてしまったのだ。
《これは……試合放棄か? いや、まさか……》
 突然の妖夢の奇行に、横で勝負を見据えていた辛神も思わず疑いの念を持ってしまう。この場において、妖夢のそれは試合放棄と見なされても文句は言えない行為なのだ。だが、妖夢の全身から発せられる凄まじい闘気がそれを許さない。
「この光景……前にも見た事があるぞ……」
 遠巻きに観戦していた永遠亭のメンバー、てゐが口を開いた。そう、この静寂、この緊張感、人里の住民達は一度、この光景を見た事がある。それは星熊勇儀と伊吹萃香が地獄一丁に挑戦した時の事だ。萃香が一度、勝負の最中にも関わらずに静止してしまった時の事だ。あれは、萃香の極限に至る程の精神統一である。
「まさか、あの時の鬼と同じ状態なのか……?」
 気付けば人里だけではなく、幻想郷にいる全ての生きとし生ける人妖達がこの場に集まっていた。先ほどまで野次馬の最後尾から遠く「見えねぇぞー」と罵声が飛び交っていたのだが、妖夢のその異常に気付いた瞬間、皆が一斉にざわつき始める。そして、その喧騒はすぐに白波のように静かに消え去っていく。妖夢は、この場に参集した全ての怪物達を、そのたった一度の沈黙で黙らせたのだ。これだけの人がいるのに、誰もが妖夢の姿に畏怖し、敬服し、心を奪われ、口を閉ざしてしまう。
 反応、全ての感覚を研ぎ澄まし、相手の変化に合わせてスタイルを変える。ナズーリンの助言が頭の中に刻み込まれる。今のこの現状で最も有力な手を模索した末に、妖夢は萃香と同じ構えを取ったのだ。暗黒に対する答えは沈黙――。巨大な迷路の中に取り残された妖夢は、ジタバタしたり闇雲に彷徨ったりすることはせず、敢えてその逆を張ったのだ――ッ!
何千、何万の眼が妖夢を一点に見つめている。あれだけ激しかった野次が途端に止んだ。その場に立っていた辛神は思わず辺りを見渡し、そのあまりにも「幻想的」な光景に恐れ慄いてしまった。
八百万の種族が一堂に会しながら、この場に聞こえるのは不気味な息遣いのみである。そう、それは、今現在妖夢を苦しめている激辛の嵐の海とは全くの対極、波一つ立たぬ、寂寂たる暗黒の中の水面である。宵闇の中で、幻想郷の住民達の、鬼火のような眼が無数にギラギラと燃え盛っている。静寂の闇夜に、常世から忘れられた者達の熱く凶暴な鼓動が音高く鳴り響いていく。松明の光が轟々と燃えている中、幻想郷は、妖夢ただ一人を見据えていた。
 その先頭に、萃香が立っている――。
「妖夢、お前は……」
 あの絶無を自分の中に生み出そうというのか?
 ハッキリ言って、それは危険な行為である。萃香はあの精神統一のリスクを知っている。あれは鬼の強靭な精神力だからこそ成せる技なのだ。自我を絶ち、空となった自分の身体に虚無を作り出す事で一時的に辛さの衝撃を回避する、言わば自己暗示のような物である。だが、この技は激辛料理との勝負では諸刃の剣ともなる。
あくまで「一時的」な効果でしかないのだ。前回、萃香はその技に溺れ、勝負に敗れた。そして、この精神統一の怖さは「自己の忘却」という点にもある。仮に常人が精神を研ぎ澄まし、極限まで自分という存在を「自身の中」から消し去ってしまった場合、自己を保つ事が困難になる。それは完全なる自我の滅却、精神の崩壊である。今すぐ止めるべきだと萃香は思った。
(頭では理解している……だと言うのに、この予感は何だ?)
 萃香は根拠のない期待を抱いていた。あの娘なら、妖夢なら、乗りこなせるのではないか――と。
 その時、不気味なまでの静寂の里に、突然感嘆の声が上がった。ジッと目を閉じて鎮座していた妖夢の身体が眩く銀色に輝きだしたのだ。彼女の持つ霊気がその身体に収まりきらず、光となって体外へと溢れ出ているのである。凍土の世界で吐く白い息のように、妖夢の口から凄まじいほどのエネルギーが放出される。妖夢のその姿に、先頭に立っていた萃香は魂魄の白い虎を見た。
「何だ……あれは……ッ!?」
 妖夢は、意識を自身の舌に集中させていた。先ほどの勇儀の戦法を模倣したように、今度は萃香の技を自分の中でアレンジしているのである。萃香ほど高密度に集中する事は叶わなかったが、戦うには十分すぎるほどの機能を有していた。妖夢は虚ろな目で、自身の腕に巻かれていた永遠亭のタオルをおぼつかない手付きで外し、自身の額に鉢巻代わりに巻いたのである。
「見ろ……半霊のお嬢ちゃんの影が……」
 誰が叫んだのかは分からないが、皆が揃って妖夢の影に注目した。住民達が持っていた松明のオレンジ色の光によって生じた影、鉢巻の結び目が――まるで鬼の角のように揺らめいていたのだ。
(この娘……ッ)
 鬼ヶ島から、鬼を引き連れて凱旋してきやがった――ッ!
 萃香の横で、勇儀が息を飲んだ。拳を固く握りしめ、己の内から溢れ出る高揚を抑えるのに必死であった。悪鬼さえも魅了する銀白の少女、その姿に釘付けになってしまっていたのだ。
 妖夢の視界には依然として未知の宵闇が広がっているが、萃香の戦法、究極の集中、究極の無、それによって生まれた完全無欠の暗黒にその身を投じた事により、妖夢は辛さの宇宙から一筋の光を見つけ出す事に成功したのである。
(見つけた……きっとあそこに、第四の扉がある筈――ッ!)
 箸を一点に集中させ、スープの中を鋭く突き進む。あの光を見つけたのだから、もう迷わない。その果敢な様子を見て、辛神は、自身が張り巡らせた防衛壁が既に突破されている事に気付いた。
《……凄いですね……。ついに地獄一丁の第四ステージまで上がってきましたか……まさか、ここまでとは……》
 妖夢は灯台の灯りを見つけた。全てを覆い隠してしまう程の闇の中に一筋の閃光が突き刺さるように光り輝いている。妖夢は舌だけでそれを感知した。ナズーリンが感心したように口笛を吹いた。
「答えを見つけたか――素晴らしい知略だよ、妖夢……」
妖夢は吹き荒れる風を味方につけ、荒波を切り裂いた――。地獄一丁第三ステージ、衆合地獄を見事に突破したのだ。
「次ィッ! 第四ステージッ!」
 辛さの変化を舌で感じ取った妖夢は、瞬時に精神統一の構えを解き、みんなに向かってガッツポーズして見せた。その突発的なパフォーマンスに、今まで沈黙を保っていた観衆達のボルテージが一気に跳ね上がった。緊張によって生み出された静けさが弾け飛び、火山が噴火するように熱く盛り上がった。地鳴りがするほどに……。
「お、おい……何だこの揺れ……?」
 歓喜の叫び声を上げていた住民達が、急に狼狽の表情を浮かべた。ここに集まっている人々の盛り上がりのソレとは明らかに関係のない異変であった。確実に、地が揺れている。
「オイなんだァ! 地震かぁッ!?」
 その瞬間、妖怪の山の方角からとてつもない爆音が鳴り響いた。
 皆がざわざわと騒ぎ立てていると、上空から緑色の髪をした少女が飛んできた。守矢神社の巫女、東風谷早苗である。

「大変ですッ! 妖怪の山が……噴火しましたッ!」

 な、何だって――――ッ! 
皆が騒然となった。百年ほど前から妖怪の山は常に静かな煙を燻らせていたが、最近この幻想の地に住み着いた者達はその煙を河童や天狗達の工場から吐き出された煙と勘違いしていた。そう、妖怪の山は、元々火山なのである!
「見ろォ! お山が……お山が燃えている……ッ!」
 皆が目を疑った。妖怪の山がここまで激しく焔を吐き出す様など、数百年に一度有るか無いかである。
「おい早苗ッ! ウチはッ! アタシん家はどうなったッ!?」
 レミリアと二人で意味わからん会議に参加させられていた神奈子が即座に早苗へ詰め寄った。守矢神社は妖怪の山の頂上にある。もしかしなくても被害を受けたに違いない。
「はいッ! それについてなんですが、良いニュースと悪いニュースがあります! どっちの方から聞きたいですか?」
 こういう場合の良いニュースは大して良いもんじゃないし、悪いニュースは絶望的に悪いニュースだから堪ったもんじゃない。
「じゃ、じゃあ良いニュースから……」
「えっとですね、諏訪子様が能力を使って何とか噴火の被害を最小限に抑えてくれています……ッ!」
「じゃあ、悪いニュースってのは……?」
「もう既に大体分かっているかと思いますが、私達のマイホームは現在進行形でファイヤーしてます! 泣いていいですか!」
 もしかしなくても火事確定である。
私の家がああああああッ! と叫びながら神奈子はその場に泣き崩れた。このままでは守矢神社が全焼してしまう! 
「畜生! 河童達の消防隊を集めろ! ふざけんな畜生!」
 神奈子と早苗は号泣しながら妖怪の山へと向かう。永遠亭の皆も何人か救護班として山へと向かった。そして、勝負の最中にある妖夢も今回ばかりは落ち着いていられなかった。勝負は一時中断するか? 目線で辛神にそう伝えようとした時、辛神の表情に邪悪な物が混じっている事に気付いた。今妖夢は、地獄一丁、『叫喚地獄』のステージ、つまり、折り返し地点に立っている。
『……どうやら、「火炎龍」がお怒りのようだ……』
 辛神のその言葉に、妖夢はある予感を抱いた。地獄一丁、第四段階に入った瞬間に器の中から溢れ出る雰囲気が明らかに変わった。妖怪の山の噴火はそれと同時であった――。
「まさか……噴火は、この担々麺が招いたというの……?」
『くっくっく……そのまさか、ですよ!』
 そんな訳あるか。と言いたいところだが、妖夢はその紛れもない事実にただ困惑する事しか出来なかった。そうこうしている内に再び山の方から爆発音が響き渡る。こうしてる間にも被害が広がり続けている! 人が、妖怪が、神々が愛したこの土地が、邪悪な火の手によって苛まれていく。
『地獄一丁の第四段階……叫喚地獄は、悪魔の領域だ。君は勇敢か愚かか、そこに足を踏み入れた。それにより、地獄一丁に宿った火炎龍が怒り狂い、この地に具現化しようとしている……』
「何ですって! そんな滅茶苦茶な話あってたまるか!」
 これ以上ないくらいの正論をぶつける妖夢。だが、今この瞬間に起こっている事は紛れもない現実である。力無き者達が逃げ惑い、力のある者達はこの危機に対し、我先に立ち上がる。だが、噴火の勢いは増すばかりである。平和の象徴である人里に火の粉が降り注ぐ。死を運ぶ風が吹き荒れようとしていた。
『見なさい……人妖達の理想郷であるこの土地が燃えている。まさに地獄絵図の顕現ですよ……くっくっく』
 妖夢は真っ青な顔色で辺りを見つめていた。子供が泣き叫んでいる。母親とはぐれた子供が何処に逃げればいいのか分からずに喚いている。妖怪達が結界を張って被害を抑えているが、妖怪の山から吐き出された火の弾丸が無数に飛び交っており、どう頑張っても全範囲はカバー出来ない。終焉が、訪れようとしていた。
「そんな……私達の郷が……幻想郷が……」
『くっくっく! はっはっはァッ! 燃えろ、全部燃えろ! 火炎龍よ! 怒り狂え! ブート・ジョロキアーーーーーッ!!』
 ブート・ジョロキア(唐辛子)って。
「霊夢ッ! 今すぐ術式を!」
 何処からともなく八雲紫の式神である九尾の狐、八雲藍が現れた。紫の式ほどの妖力の持ち主なら百人力である。霊夢も共に結界を張れば、この人里だけでも何とか護りきる事が出来るだろう。幸いにも、幻想郷のほとんどの住民は人里に集まっている。
「そうね……っ! いつまでもこんなコスプレしてられないわ!」
 灰色のローブを着た老人がまるで女性のように甲高い声を上げて真の姿を現せた。なんとその正体は、博麗霊夢だったのだ!
 霊夢だけではない。この地で名の通った実力者達が人々を誘導し、被害のあった民家の消火活動に急いだ。
「待って霊夢! 私も……ッ」
 堪らず妖夢は霊夢に叫んだ。皆が必死になっているのに、自分だけおめおめと椅子に座ってなんかいられない。
『逃げるのですかッ!』
 しかし、辛神は無慈悲に言い放った。ここで席を立てば勝負はお流れ、つまり、自動的に妖夢の敗北が決定してしまう。
「勝負なんて言ってる場合じゃないわ! このままじゃ……」
 それでも、妖夢に躊躇は無かった。愛すべき自分の郷が悪の炎に焼かれようとしているのだ。妖夢は迷わずに席を立とうとする。
 だが――。
「立つな妖夢! アンタはアンタの戦いを優先して!」
 振り向かず、厄災の火の雨によって今まさに切り裂かれようとしている幻想郷をじっと見据えながら、霊夢が叫んだ。
「でも、霊夢……ッ!」
「いいから聞きなさい妖夢! ここで災害から幻想郷を守れたとしても、誰かがあの担々麺を完食出来なかったら結局は私達の負けなのよ! 誰かが戦わなきゃいけない! 誰かが食わなければ、この世界に未来は無いの! でも私じゃ勝てなかった! どう頑張っても私じゃ勝てない! 私じゃ完食出来ない! だけど! だけどアンタならそれが出来るの! 妖夢! アンタなら勝てる!」
 ――全て飲み干してこい、魂魄妖夢!
 霊夢の必死の叫び声に、妖夢は一瞬だけ躊躇した。その瞬間、妖夢の代わりにその場に残っている人間達が叫び返した。
「戦え妖夢! その地獄をぶちのめしてくれ!」
「お前なら出来るさ! 勝て! 勝ってくれ!」
「迷わず行けよ! 行けばわかるさ!」
 そこには、命蓮寺の皆もいた。これだけ大規模な火災である。命蓮寺の方角にも被害が及んでいるだろう。だが、聖達は誰一人としてその場から離れようとしなかった。ただじっとその場に座し、妖夢の為に祈りを捧げていた。彼女達は、勝負が終わるまで妖夢の傍にいるつもりである。その光景に、ようやく妖夢は目を覚ました。
 勝負はまだ終わっていない。正しさを見失っていた妖夢は、自分を応援してくれる皆の目を見つめた。そこで思い知った。もう、この勝負は自分だけの戦いではない事に。そして、自分は孤独のまま戦っている訳ではない事に。焦燥感に支配されていた妖夢の心に熱が舞い戻る。心臓の音が身体中に響き渡っている。妖夢は拳を固く握り、目をつむって、皆に咆哮した。
「……勝ってやるさ……ッ! たとえ相手が、地獄でも……ッ!」
 覚悟を決めた妖夢は、再び、テーブルに向かい、箸を掴んだ。何の力も持たない人間達、彼らが生きるこの里を守るために奮闘する妖怪、幻想郷の住民達の想いが、妖夢の肩に預けられた。
 妖夢の決心を見届けた霊夢は、覚悟の眼をしたまま一歩踏み出し、瞬く間に空高く飛翔した。歓声が巻き起こる。それぞれの戦いが始まる。各々が信念を持ってこの場所に立っている。そこに、種族も身分も存在しない。あるのはただ一つの想い。この幻想郷を守りたいが為の固い祈りであった。
果たして妖夢は無事に担々麺を完食出来るのか? 幻想郷の明日はどっちだッ! そして何よりも、今現在も燃え続けている守矢神社は一体どうなってしまうのか――ッ!?

戦え、妖夢! 吠えろ、妖夢――ッ!!


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