Coolier - 新生・東方創想話

火ノ粉ヲ散ラス昇龍

2018/12/10 02:56:50
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第四章『愛を叫んだ獣』


「拷問だああああああああ!」
 命蓮寺にやって来て一週間、妖夢は音を上げた。
彼女に与えられた修行内容はシンプルである。これから先、何があろうと「甘い物以外を食べない」という物であった。身体に悪すぎる。しかし超絶便利な事に、妖夢に出される食事は聖の特殊な魔法によってコーディングされており、妖夢の健康面には何の影響も出ないように細工がなされているのだ。これで糖尿病の心配もない。
修行開始一日目、朝食に出て来た食べ物は〇セイバターサンド、昼食は軽くチョコレートバー、そして、夕飯は聖お手製の落雁であった。まさに砂糖の塊のような食事メニューである。飲み物はコーラのみ。まさしく拷問である。それだけではない。妖夢は常に口の中に甘い物を詰め込みながら、肉体と精神を鍛えるために滝行、筋トレ、タイヤを背負って階段ダッシュなどをやらされていた。
「お助けください! これ以上は無理です! お助けください!」
 妖夢は口に朝餉である「ちんすこう」を突っ込み、泣きながら聖に縋りついた。しかし、聖は悲痛な顔をしながら首を振る。
「今は試練の時、耐えるのです。自分に打ち勝つのです」
 妖夢はじゃりじゃりとちんすこうを噛み砕きながら、溢れる涙を拭う事もせずに聖の膝に蹲った。こうしておけば、「もう十分です」と言って、この辛く苦しい修行が終わると思い込んでいたのだ。だが、聖は妖夢に手を差し伸べる事はせず、彼女の震える手に「ス〇ッカーズ」を握らせ、何も言わずにその場から立ち去った。
「お、鬼! アンタは鬼だ! ううう、うわああああんッ!」
 普段は礼儀正しい妖夢も、この時ばかりは理性をかなぐり捨てて、立ち去る聖の背中に思いつく限りの罵声をぶつけた。だが、その僅かな反抗も虚しい物であった。口内と脳みそを甘ったるくしながら、妖夢は下を向き、重い足取りで滝行へと向かった。
 ・・・
「ひえええええっ、冷たいよぉ!」
 水垢離のための白衣を着て、さらに口の中には甘さたっぷりのチョコバーを含み、妖夢は命蓮寺の付近にある滝に打たれていた。
 丁度良い納涼になりそうなものだが、真夏と言えど川の水温は低い。滝口から吐き出される極寒の水が、妖夢の華奢な身体に容赦なく降りかかる。妖夢は半泣きになり、鼻水を垂らしながら、それでも果敢に滝の衝撃に耐え続けた。だが、彼女の頭の中は疑念だらけであった。本当に、この修行に意味はあるのかと。
 すると、その場に虎柄の少女、寅丸星がやって来た。それは今日の滝行終わりの合図である。救いの手を差し伸べられたような心境で、妖夢は慌てて滝つぼから上がる。
 命蓮寺に来てから、妖夢は村紗や一輪と仲良くなった。毘沙門天から監査役として遣わされているナズーリンとも何度か話をしている。しかし、何故か星とだけは一度も会話らしい会話をした事が無かったのだ。その為、妖夢は何だか気まずいと思った。
すると、星は何も言わずに川岸で火を熾した。妖夢はすぐに火へと近付き、冷えた身体を温める。ふるふると身を震えさせる妖夢を見て、星は無言のまま彼女に熱々の「中華まん」を手渡した。真夏に食べる物ではないが、それでも凍えきった妖夢には有難い差し入れであった。しかし、中身は肉ではない。ぎっしりと甘い餡子が詰まっている。こんな状況でも甘い物しか食べさせてもらえないのだ。
「うう……ぐすん、塩辛い物が食べたいよう……」
 とにかく、身体中の細胞が「甘い物以外」の食べ物を欲していた。一週間も甘―い食べ物ばかり食べているのだ。妖夢はすっかり落ち込んでしまった。その時――。
「まずは、君の中にある煩悩を捨て去る事。話はそれからです。君はまだスタート地点に立ってすらいない」
 突然、星がその重い口を開いたのだ。妖夢は目をぱちくりとさせながら、その何を考えているか分からない星の顔を見つめた。
「何か、良くわかんないですけど、初めて口を利いてくれましたね」
 妖夢が弱々しい口調で呟くと、星はこれまた良くわからない表情を浮かべ、さっと腰を上げてその場から立ち去ろうとした。
「……君がこの修行を一週間も耐え続けられるとは思わなかった。だから、ちょっと興味が湧いた。……それだけ」
 星はそう呟き、そのままスタスタと歩いていく。妖夢は何だかとてもこそばゆい気持ちになり、少しだけ笑顔を浮かべた。
妖夢が滝の付近に設置された脱衣所で服を着替えていると、星と入れ替わりで村紗がやって来た。
「さっき、星さんと初めてお話ししました。なんか変な感じ」
「はは、まぁ……あいつの良さは十年もしないと分からないよ。身内以外にはあまり関心を示さないというかさ。話しかけてきたって事は、妖夢を命蓮寺の一員として認めたって事だよ」
 改めて妖夢、命蓮寺へようこそ。村紗はからかうように言って、そのまま妖夢に砂の入った重い袋を渡してきた。十キロくらい。
「村紗さん、これは一体何なのさ?」
「新しいトレーニングの道具だよ。これを背負って坂ダッシュ。夕暮れまでに十往復出来たらご褒美にアイス奢ってあげるよ」
 結局甘い物じゃないですかーやだーっ!
 とは言え、妖夢にとって肉体的なトレーニングは大して苦痛ではなかった。彼女は物心ついた時から幽々子の剣術指南役として鍛錬を行っている。一日も欠かさずに己の肉体を鍛え上げている妖夢にとって、命蓮寺で課されるトレーニングは良い気晴らしであった。
「く、苦しい……甘くて……苦しい……」
 だが、耐えられなかったのは、とにかく甘い物を食べ続ける事である。妖夢は四六時中、口に何かしらの糖分を頬張らなければならない。重さ十キロの砂袋を抱えながら、妖夢はキャラメルをべっとりと舌の上で転がしていた。甘さのせいでせっかく気持ちの良い運動が台無しである。そこで、妖夢はこの修行の本当の恐怖を知った。
 甘味が、自分の身体の一部になりつつあるのだ。人は甘い菓子だけでは生きていけない。そんな生活は一日と経たずに破綻してしまうだろう。妖夢がこんな身体の悪い生活を続けていられるのも、聖の魔法のおかげである。しかしそれにより、妖夢の中で不気味な変化が現れた。口の中に何も入れていないのに、甘さを感じるのだ。
それは五感ではなく、ある種の影のような存在であった。肉体のすぐそばに甘さが寄り添っているかのような、魂の中に余分なスペースが空き、そこにベタベタとした甘い砂糖菓子の塊が詰め込まれたような、人間がその身に纏うオーラに、甘い味や香りが染み込んでしまったような感覚であった。
「うう……うぅ、おえええ……」
 砂袋の重みを感じながら、妖夢は眩暈を覚えた。胃の中が逆流しそうになる。溶けたキャラメルが腹の中で暴れている。戻しそうになるのをグッと堪え、妖夢は再び坂を駆け上がろうとした。
 だがその瞬間、視界は真っ白く朧げとなり、妖夢は平衡感覚を失ってその場に倒れこんでしまう。
(だ、駄目だぁ……これ以上はもう……)
 肉体の疲労などではない。血反吐が出るような鍛錬も、凍てつくような滝行も、妖夢にとってはさほど苦ではないのだ。
 彼女を襲ったのは、甘い物を食べ続けた事による精神的なダメージであった。食事と睡眠は人間にとって必要不可欠な儀式であるが、それらはバランスを著しく崩す事により人体に悪影響を及ぼす猛毒となる。妖夢にとって、今の食生活がまさにそれである。
 もはや、口の中ではなく、脳みそが甘くなっているような気さえした。吐き気と頭痛が止まらない。頭の中でジュースのように甘い脳汁が溢れ出ているようであった。
(助けて……誰か……誰か……)
 これが最後であるかのような眠気が妖夢に訪れた。瞳を閉じる瞬間、妖夢の瞼の裏に現れたのは、白玉楼の主、幽々子であった。
 ああ、幽々子様、たとえ夢でも、最後に貴女に逢えて……私はとても幸せです……もう、ゴールしてもいいよね……?
 妖夢は目を閉じ、涙を流しながら、幻覚である幽々子に向かって微笑みかけた。すると、幽々子は優しい顔で――。
 ――妖夢、お土産は、『博多通〇もん』よ――。
 ・・・
「夢の中でも甘い物じゃないですかーやだーっ!」
 妖夢は堪らずに飛び起きる。しかし、そこは先ほどの坂ではなく、命蓮寺の宿舎であった。時刻はすでに深夜。ここに来た時とほぼ同じシチュエーションである。妖夢は、途端に自分が恥ずかしくなった。命蓮寺には世話になりっぱなしである。それなのに、自分は修行の途中で折れてしまい、再びこうやって助けられている。そんな自分があまりにも情けなくて、妖夢は声を押し殺して、泣いた。
 そんな夜に限って、誰も妖夢に声をかけてくれる者はいなかった。いつもなら村紗や一輪がUNOとか持って遊びに来る筈だが、今夜は誰も来ない。二人共、妖夢に気を遣って訪ねて来ないのである。だが今の妖夢は、とにかく人が恋しかった。
 誰か、私を叱ってください。
 しかし、戸を叩く者は現れない。何をする事も無いまま、時間だけが過ぎていく。時刻は深夜の二時、妖夢は泣き腫らした目を擦りながら身支度をして、簡単に部屋を整理した。
 決して多くはない荷物を抱え、妖夢は静かに外へ出る。本当はとっくに気付いていた筈だが、妖夢はずっと己を騙し、この一週間の修行に耐えていたのである。彼女の心は、折れていたのだ。
(もう、ここには居られないよ……)
 最後のけじめとして、妖夢は置き土産を残す事にした。妖夢は卓袱台の上に食べかけのチョコバーを置いてきたのだ。あのチョコバーは、修行を諦めた事を聖に知らせるためのメッセージでもある。食べかけの、あの無様なチョコバーを見たら、聖も愛想を尽かすだろうと考えたのだ。あの優しい住職の事だ。こうでもしないと、聖は見放してくれない。妖夢にとって、それは苦痛でしかないのだ。
「私の事など、忘れてしまってください……」
 本当に、すいませんでした。妖夢はそう呟き、門をくぐろうとした。その時――。
「……泣きながら、家に帰るつもりですか?」
 妖夢の背中に、この世の何よりも優しい声がかけられた。妖夢は咄嗟に振り返ってしまい、そして瞬時に後悔した。そこに立っていたのは、聖であった。あの食べかけチョコバーを持っていた。
「聖さん……ごめんなさい、ごめんなさい……私は、」
 しかし、妖夢はそれ以上言葉が出なかった。聖が妖夢の方へと歩み寄ってくる。彼女の慈悲深い表情から目を背けてしまう。
「少し、話をしませんか?」
 聖はそれ以上何も言わず、本堂を出て静かに歩いて行ってしまう。妖夢は迷ったが、気が付けば彼女の後を追ってしまっていた。
 しばらく夜道を歩き、辿り着いた場所は妖夢が毎日早朝に滝行を行っていた川であった。夜闇を切り裂くような轟音が上流の方で響いている。聖は川の畔に座り込み、隣に座るようにと妖夢に示した。妖夢はそのまま聖の隣にちょこんと座り、二人でそのまま川の流れをじっと見つめていた。どのくらいそうしていたのか、しばらくして、聖が呟いた。川のせせらぎに負けそうなほど小さな声であった。
「前に、人に恋した妖怪の話をしましたね」
 そう言われ、妖夢は命蓮寺に運び込まれた日の事を思い出した。今まで人の肉を食らい続けた妖怪が、人に恋をし、人を食うのをやめるために聖を訪ねてきたという話であった。
「その妖怪は、結局、どうなったのですか?」
 妖夢は思った疑問をそのまま口にしていた。聖は遠い目をして、そして、その懐かしさに頬を緩ませながら言葉を続ける。
「私が与えたのは、味覚を狂わせる修行でした。人肉の旨味を忘れさせ、人間と同じような食物も口に合うように……それは、今の貴女に与えている修行と全く同じものですよ」
 一週間、鍛錬をしながら口に甘い物を入れ続ける。聖はその修行の意味を妖夢に詳しく説明していないのだ。先の分からない事を延々と続けるのは不安である。しかし、努力が実ると信じ続けて己を鍛える事も修行の一つだと聖は考えていたのである。
「その妖怪は、私の修行に耐えました。人間の肉ではなく、普通の食材も問題なく食べられるようになったのです」
 その話を聞いて、妖夢はますます混乱してしまった。自分の目的は、激辛担々麺を完食する事である。果たしてこの修行、本当に自分に適しているのだろうか。
「勿論です。この修行の肝は、味覚を狂わせる事ではありません」
 味覚と嗅覚は最も記憶に残る物である。風景は忘れてしまっても、その場所の匂いだけははっきりと覚えているという事はないだろうか? 聖の修行、通称「激甘地獄」は身体の中に染みついている味と匂いの記憶を消し去り、味覚をリセットする事が出来るのだ。
「この修行を完遂すれば、貴女の味覚は生まれたばかりの状態へと戻ります。『最も零に等しい舌』を、貴女は手にするのです。その舌を使えば、貴女が挑戦しようとしている担々麺、地獄一丁の「辛さの向こう側」へと辿り着く事が出来るでしょう」
「辛さの、向こう側……?」
 そこまで言って、聖は付近に落ちていた小石を手に取り、ひょいと川へ投げ落とした。水面に小さな波紋が生まれる。
「それについては、自身で理解しないと意味がありません。ですので、今一度、貴女にお聞きしたい事があります。本当に、このまま諦めるつもりですか?」
 妖夢は途端に心細くなった。妖夢の、従者としての性分であった。妖夢は剣士、守る事だけが自身の存在理由だと理解している。そう、とどのつまり、彼女にとって敗北とは死に等しいのである。好機は何度も訪れない。そう、勝負とは生きるか死ぬかの二択である。妖夢は一度、あの地獄一丁に敗北しているのだ。
「私に、再戦する資格はあるのでしょうか?」
 問いに対し、いつまでもウジウジと悩み続けている妖夢に、聖はその優しい表情を徐々に歪ませていく。そして――。
「おい白髪娘、ちょっと歯ァ食いしばれ」
「……え?」
 その瞬間、聖は妖夢の方に向き直り、何の躊躇もなく、浮かない顔をしてばかりの妖夢の顔に思い切りビンタを食らわしたのだ!
「ええぇえぇえ! 何だッ! ふざけんなババア!」
 いきなりの体罰に、妖夢は思わず汚い言葉を使ってしまう。
「資格があるとか無いとか、そんなもん知りませんよ。鬱陶しい事ばっか考えやがって気色悪い。思春期もいい加減にしろバーカ!」
 ついに聖がブチ切れたのだ。温厚な人が怒るとその恐ろしさは倍増する。大人になって立派に働いている元ヤンキーがふとした拍子に見せる特有の威圧感と似ている。しかし、それでも妖夢は臆する事無く聖に睨み返した。こうなってしまえばもう戦争だ。
「いきなり殴りやがって! アンタに私の何が分かるんだよこのババアッ! ふざけんなババアッ! ババババババババアッ!」
「殴られた方より、殴った手の方が痛いんですよ! あと、それ以上ババアって言ったら流石に私だって本気で怒りますからね!」
「うるせぇババアッ!」
 聖は妖夢をもう一発、さっきより強めにぶん殴った。こうなってしまえばもう戦争だ。殴られた拍子に妖夢は躓き、その場に転んでしまう。そして、顔を真っ赤にして涙を流す。
「何だよぅ……何だよぅ……ッ」
 妖夢はもう限界だった。今まで心の中に溜め込んでいた鬱憤が、既に彼女の許容量を越えようとしていたのだ。このままでは、妖夢は壊れてしまう。しかし、甘えは許されないと、妖夢は自分を律してしまっていた。その妖夢の在り方に、聖は腹を立てたのだ。
「たった一度の敗北で折れてしまうようなプライドだったのでしょう? しょうもない、何様ですか貴女は。何で一回の挫折だけでそこまで自分を追い込めるんです? 変な意地張りやがって」
 聖の言葉によって、妖夢の中にある一番堅く清らかな部分に亀裂が走った。今まで、自分の心情を吐露する事は出来ないと決め込んでいた。甘えちゃダメだと思い込んでいたのだ。
「うう……ちっくしょう、つらいよう……何だよう……どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだよう……ッ」
 ――幽々子様のッ、バッキャローッ!
 五年に一度、あるか無いかの、妖夢の「バッキャローッ!」が出た。あれもこれも、全ては幽々子が妖夢に突然「出ていけ」宣言をした事が発端である。ちなみに、前回このバッキャローが出たのは、幽々子が誤って妖夢の大事にしているス〇シカオのCDを割ってしまった時だ。半日くらいギスギスして、幽々子が泣きながら謝ってきたので、ようやく妖夢は許したのだ。半分に割った赤いリンゴの歪な方を妖夢が貰う事で、二人は大概上手くいくのである。
 だがしかし、今回の突然の「追い出され騒動」は流石に妖夢も許せなかった。もう一週間は口を利いてあげない事にした。
「私の事なんか、放っておいてください……もう良いんです。私なんて……もう、良いんです……」
 顔を俯かせながら、妖夢は弱々しく呟いた。それを聞いた聖は、ほんの少しだけ微笑んだ後に、何も言わずその場から立ち去った。
(本人は気付いていませんが、妖夢さんは芯の強い子です。この様子ならすぐに立ち直ってくれるでしょう。きっとまた、命蓮寺へと戻ってきてくれるに違いありません……)
 あの子は、途中で何かを諦められるほど、大人ではない。聖はそう考えながら一人で命蓮寺へと戻り、本堂へと続く門をくぐろうとした。すると――。
 数分も経たないうちに、妖夢が息を切らしながら、聖の後を追いかけてきたのだ。聖は少し驚いた表情を浮かべる。立ち直るにしたって早すぎる。妖夢自身、何も考えず我武者羅になって走ってきた様子であった。しゃっくりを上げ、静かに涙を流していた。妖夢は真っ直ぐ聖の顔を見つめ、たどたどしく呟いた。
「……その、あの……」
 聖は、何も言わない。他でもない、自分自身がアクションを起こさなければ何も変わらないし、何も取り返す事が出来ない。妖夢は意を決し、己の中にある「ただ一つの答え」を聖に告げた。
「……もう一度、頑張ってみても……良いっすか……?」
 半端者の、これ以上ないほど無様な願いであった。聖はそれを柔らかく受け止めた。すっかり打ち負かされた少女に優しく微笑み、そっと命蓮寺の中へと導いた。世界中にあふれているため息と、君とぼくの甘酸っぱい挫折に捧ぐ。あと一歩だけ前に進もう。

 ・・・
 
「まずは、自分の中にある雑念を全て取っ払え。口の中にある甘さだけに集中して。余計な事は何も考えるな。無になれ」
 一週間が経った。何度も挫けそうになりながら、それでも妖夢は激甘地獄の修行を耐え続け、再びあの滝つぼの前にいた。そして、今日は何故か初っ端から星が隣にいたのである。
 今日の甘い物は黄金飴、素朴な甘みだがこれまた脳の裏側まで甘くなってしまうような濃厚さであった。
「うぬぬ……意識が、持っていかれそうです……ッ」
 甘い物を摂取した際、妖夢は軽度の幻覚を見るようにまでなっていた。妖夢にとって、砂糖とは白い悪魔である。危険な薬物のような存在となっていた。舌だけではなく、精神まで参ってしまう。
「この修行を始める前、聖に何と言われた?」
 自分を見失うな――、聖のその言葉を思い出し、妖夢はまず朦朧としている脳の中で「私は魂魄妖夢」と三回唱えた。深呼吸を繰り返し、身体をほぐしていく。白衣に着替え、心の準備をして冷たい水の中にその身を浸していく。数千本の針に刺されるような感覚であった。滝の轟音により引き起こされた耳鳴りで目を回しそうになる。そのまま、妖夢は滝の中へと入る。口の中では黄金飴が程よい具合に溶け始めていた。口の中に甘い蜜が広がっていく。
『幽々子様の、バッキャローッ!』
 滝の轟音の中から微かに声が聞こえた。妖夢はぎょっとして辺りを見回すが、勿論誰もいない。川岸で星が独りじっと妖夢を見守っているだけであった。しかし、再び何処からか謎の声が聞こえる。
『ごめんなさい、幽々子様、ごめんなさい……』
「ううう、黙れ! 何も聞こえない、何も聞こえない!」
 口の中で飴を懸命に転がしながら、妖夢は両耳を塞ぐ。甘さが広がるにつれ、その幻聴の音が大きくなっていく。
「助けて……助けて幽々子様ぁッ!」

 一方その頃――。

「はぁ、疲れた~もうこのまま眠りたいよぅ」
「何言ってんのよ、幽々子。もうすぐ夕食時よ。せっかく博多に来たんだから屋台行くわよ、屋台。豚骨ラーメン食べに行きましょう」
 ヤフ〇クドームで行われるコンサートの前日、紫と幽々子は博多にあるホテルで、くつろいでいたのである……ッ! 
あと関係ないけど、長浜ラーメン美味しいですよね。
 そして、妖夢は――。
「ぐわあああッ! 助けてくれええ!」
 妖夢の絶叫も虚しく、滝の奏でる爆音によってかき消された。妖夢の耳に鳴り響く幻聴は強くなるばかりである。
「考えるな! 何も考えるな! 自分の中を無にしろ!」
 その時、誰かが妖夢の手を掴んだ。それは星であった。服が濡れる事も躊躇わず、星は妖夢と同じように滝つぼの中へと入ってきたのだ。唖然とする妖夢の手を必死に握りしめながら、星は自身の額を妖夢の額へとくっつけ、ほぼゼロの距離でありったけ叫んだのである。無論、その声はしっかりと妖夢に届いていた。
「し、星さん……」
「目を閉じろ! 何も考えるな! 雑念を取っ払え!」
 星の声により、妖夢は我へと返った。そして瞬時に好機と理解した。精神が最もフラットになる瞬間はここしかないと。妖夢は黄金飴を舐めながら自身の手の平を合わせ、合掌のポーズを取った。
 剣術の鍛錬の際、妖夢は必ず自分の気配を自然へと一体化させるイメージをする。我は風、我は地、我は空、そこに肉体は無く、魂のみ存在する。我は魂魄、我は存在せず――。
 その瞬間、妖夢の中に未知の感覚が広がっていった。まるで、自分の中には「甘味」しか存在しないような気がしたのである。

(これは……コイツは……ッ!?)





 妖夢の精神の中に、一匹の化け物が出現したのである。白い体躯に、白い牙、その姿はまるで悪魔を思わせる風貌であった。人間の身体に、恐ろしい虎の首を持っていた。白虎を想起させるその雄々しさに、妖夢は無意識のまま、その場に跪きそうになった。

 虎は一切言葉を発しない。
 だから、妖夢は一方的に叫んだ。

 ――倒したい敵がいます。あなたの力を借ります。




「ぶふぉおおおおおッ!」
 途端、妖夢は自身の精神内部に発生した空間から解放された。この短時間でそこまで精神を酷使したのである。その疲労は計り知れない。即座に立っていられなくなり、妖夢は水面に倒れそうになった。その弱々しい身体を、隣にいた星がひしと抱えた。
「……出会ったのか、白虎に……?」
 妖夢はほとんど気を失った状態で川岸へと引きずられ、焚火でその冷めきった身体を温められる。意識は朦朧としていたが、それでもはっきりと分かった事がある。幻聴が止んだという事だ。
「修行の成果、出てるんじゃないか?」
 意識がはっきりした後、星にそう言われ、妖夢は今まで影のように纏わりついていた砂糖の副作用が無くなっている事に気付いた。
「確かに、もう幻聴は全く聞こえないですし、頭痛や吐き気も収まりました……。これは一体……?」
 そこで、これまでの不調とは別に、自分の舌に変化がある事に気付いた。先ほどから、やたらと「空気」が美味いのだ。
「それは恐らく、舌にあの白虎が宿ったんだ」
 星が静かに呟いた。妖夢は先ほどの精神世界を思い出した。やたらと眩しい光景であった。虎の首を持った、白い化け物。――しかし、その世界は砂糖を延々と摂取し続けなければたどり着けない筈の領域である。
「どうして、あの虎の事を知っているんですか?」
 妖夢の問いに対し、星は一瞬だけ戸惑いの表情を見せたが、少し考え、そして決心した目つきで応えた。
「私は元々、ただの人食いの妖怪虎だったんだ」
「ひょっとして……」
「ああ、お前が思っている通りだ。聖に頭を下げ、私は一度、お前と全く同じ修行をした事がある……だから、お前の辛さは知ってる」
 そう、聖の言っていた「人を愛した妖怪」とは、目の前にいる星の事だったのである。妖夢は息を飲んで星の表情を見つめていた。
「人を、愛したというのは……」
「ああ、大昔の話だよ。山の中で怪我をして動けなかった事があるんだが、その時に運悪く人間達に見つかってしまってな……だが、そいつらは私を退治する事はなく、助けてくれたんだ」
 その時、人を食う事をやめようと誓った。星は淡々と語るが、今の幻想郷のように人間が妖怪と相容れる事など普通はあり得ない。妖夢は驚いた様子を見せた。妖夢のその顔を見て、星は少しだけ笑って見せて、身体が完全に乾いた事を確認し、そのまま立ち上がって一足先に命蓮寺へと帰っていった。
 妖夢は、先ほど星が言っていた「白虎が宿った舌」の具合を確かめるために、今日のお昼のために持ってきていた激甘チュロスを口に頬張った。すると――。
「んんんんんんううううッ!?」
 それは妖夢にとって、今までの人生でも味わった事のない衝撃だった。チュロスを口に入れた途端、妖夢の脳内に、到底読み切れないほどの情報が飛び込んで来たのである。
(何だこれ……ッ! 甘い……だけじゃない……ッ!)
 サクサクとした食感の中に、甘味の海が広がった。甘い味の中にも無数の種類が存在するのだと理解した。通常の人の脳ではその処理が追い付かず、ただ「甘い」としか認識出来ないのだ。しかし、今の妖夢の舌はその甘味の全てを感じ取る事が出来たのである。砂糖で作られた宇宙が広がった。妖夢は目を見開きながら、その眼前に広がる甘味の星々を眺めた。恍惚、多幸感に包まれながら、妖夢は口の中でチュロスを噛みしめた。その瞬間――。
(うお……味が変化した……ッ!)
 目の前に広がる砂糖の宇宙空間で、星々が爆発した。舌の上でチュロスが七色に変わっていく。その轟音は、まるで銀河が歌っているようかのように美しい旋律であった。口の中で甘味が浸透していく。目の前に、新たな惑星が誕生する。妖夢は、祝福するかのように手を組み、目に見えぬその命のカルマに祈りを捧げた。
「ハッピーバースデー、ギャラクシー……ッ!」
 妖夢は、心の底から泣いていた。生命の誕生に、食材への感謝に、全ての生きとし生ける者の尊さに――。
 ・・・
「白虎の力、最も零に等しい舌を手に入れたのですね……」
 妖夢は聖に本日の修行の報告をした。
「はい……ただ、その代わりに疲労感半端ないって。筋肉痛半端ないって。後ろの脹脛めっちゃこむら返りするもん」
 言っといてぇやと泣きながら妖夢は自身の足をさすっていた。
「湿布や……全部湿布や……また足攣ったしもう……」
 こむら返り痛いなぁ……どうやったらこの痛み止めれんねやろ……と泣き言を漏らす妖夢に、聖は筋肉痛に対する特効薬「アン〇ルツタテタテ(何それ)」を手渡しながら告げた。
「恐らく、それは味覚の処理に対してまだ身体と精神が追い付いていないからでしょう。今のままでは、地獄一丁の勝負中に体力が尽きてしまう可能性もあります」
 あなたに残された使命はただ一つ、その舌に耐久出来るだけの体力をつける事です。聖がそう言った時、村紗達が台所から今日の夕飯を持ってやって来た。食べる事も修行の一つ。だが、今日はいつもと違った。妖夢の分のお皿も用意されていたのだ。
「えっ、今日はカレーライス食っていいのか!?」
 今日の夕飯は肉無しジャガイモ多めの家庭的なカレーライスであった。しかし、今日は妖夢の分の夕食、つまり甘い食べ物がない。白虎の力を持った事で、甘い物を食べ続ける理由が無くなったのだ。
「ああ、しっかり食え……」
 聖は優しい笑顔で妖夢の皿にカレーライスをよそおった。聖のその言葉に、妖夢は先ほどまでの筋肉痛の事を忘れ、満面の笑みを浮かべてそのカレーを口に含む。
「……ッッッ!」
 カレーの程よい辛さが快楽の波となり、妖夢の身体の全神経に流れ込む。ググらないとわからないようなスパイスの名称が頭の中で羅列していく。その一つ一つが美味の根源へと繋がっていた。妖夢は高揚し、顔を赤くしながら一皿のカレーを食べきった。
 いやいや……これはもう、アレですよ……セックスですよ。
 何の変哲もない食事の筈であったが、今の妖夢にとってこれはもはや性交に等しい行為であった。息を切らし、恍惚とする妖夢の表情は事後のそれであった。男とそういうアレに発展した経験など一切皆無である妖夢でも、何となくそれがセックスだと理解出来た。
「おかわりもいいぞ!」
 村紗がカレーの入った鍋を持って妖夢に叫んだ。あの極上のカレーを、あの快感を、あの宇宙を……おかわりしていいのか?
「遠慮するな。今までの分、食え」
 その言葉に妖夢は、「うめ、うめ」と泣きながらそのカレーを食い続けた。その一口は、延々と続く陶酔へと妖夢を誘った。今なら、今ならどんな物を食べても泣いて喜ぶほど美味いに違いない……。
 だが……その時であった!
「ただいまより『何かめっちゃ痛い』訓練を開始する!」
 妖夢が二皿目のカレーを完食した瞬間、聖が高々と叫んだ。その瞬間、妖夢の身体に激震が起こった。身体中の骨が軋んでいるような気がした。全身を重く殴られるような痛みが走る。妖夢はたまらずに悲鳴を上げ、その場でのた打ち回った。
「耐えろ妖夢! この感覚を体で覚えるんだ!」
 すぐに村紗と一輪が駆け寄り、痛みで身体を強張らせている妖夢の手を握った。妖夢は、痛みによってそのまま気絶した。
 だがその表情は、久々に甘い食べ物以外の物を食べる事が出来たという喜びに満ちていた……。
 ・・・
 妖夢が命蓮寺へ来て四回目の火曜日が来た。
 日に日に鍛錬の内容も過酷になっていく。ダンベルの量も、走り込む回数も増えた。ソレとは別に、妖夢は風呂に入る前に自発的に竹刀を持って中庭で素振りをしていた。それは聖に与えられた修行とは別の、妖夢の日課であった。しかし、それでも妖夢は音を上げる事はなかった。だが……。
 そんな妖夢も、食事(鍛錬)だけは絶叫を堪える事が出来ないでいた。敏感になり過ぎた自身の舌を制御するために、ひたすら肉体と精神を強靭な物に仕上げなければならない。
明確な目的が出来た今、妖夢に迷いなどなかった。
「妖夢は、どうしてそんなに頑張るのさ」
 夕刻にもかかわらず炎天下、強い日差しの中、妖夢は木陰で水分補給をしていた。すると、そこに暇を持て余した村紗がやって来たのである。口の中で塩飴を転がしながら喉を鳴らして水を飲む妖夢に、村紗は何となくといった様子で質問を投げかけてきたのだ。
「そういや、何でだろ?」
 妖夢はうんうんと首を傾げて答えを探したが、特にしっくりとくるような答えは見つからなかった。生まれながら従者の身である妖夢にとって、彼女の行動原理は限られている。自身の主である西行寺幽々子が望めば……人だって殺す。だが幽々子が関わらない場合、妖夢は基本的に無欲な生き物である。
「やっぱ妖夢って、星に似てるよ」
「……私が、星さんに似ている?」
「そう、まだ妖怪だったころの星……」
 妖怪だった頃、という言葉に、妖夢は一瞬だけ眉を歪ませた。
「大昔の事だけど、星には明確な目的があって、今の妖夢と同じ修行を受けていたんだ……正しい食事が出来るようにって」
 妖夢はあの夜、聖に聞かされた星の昔話をぼんやりと思い出していた。確か、修行によって星はまともな舌を手に入れたのだ。
「本当はね、星は、目的を達成する事が出来なかったんだよ」
「え、でも確か星さんは私と同じ舌を持ったって」
 星はそれによって人間と全く同じ味覚を手に入れる事が出来たと、聖はそう言った。
「どうして味覚を人間に合わせたいと思ったのか……つまり星には、共に生きていきたいと思えるような人間が居たんだよ」
 ――だけど、星の修行が終わったと同時期に、その人間は流行り病で亡くなったんだ――。
「確かに、今の妖夢と同じように、星も一度、その白虎の舌を手に入れて、普通の食事が出来るようになった。だけど、その目的を作ってくれた人は、もうこの世にはいなかったんだよ……」
 つまり、星は修行を終えたが、その目的であった本懐を遂げる事は出来なかったのである。その話を聞いて、妖夢は言葉を失ってしまった。きっと、星は必死に妖夢と同様の修行に耐えたのだろう。しかし、その努力を成就させる事は叶わなかったのだ。妖夢は、星のその悲しみを自身の境遇に置き換えて想像してみた。
「どうやって乗り越えられたんですか……星さんは……」
「そりゃ泣いたさ。星は、何日も何日も、心を閉ざしてさ。もう二度と、星はちゃんと笑う事が出来なくなるかもしれない……なんて思ったよ。だけど、それでも星は立ち直って、笑えるようになった。星がその過去をどうやって乗り越えたかなんて知らんよ。死ぬ事だって考えた筈だ。何もかも投げ出して、もう一度ただの妖怪に戻る事だって考えた筈なんだ。それでも、星は前に進む事を選んだ。そこに訳なんかいらないさ。あいつは良い奴、それで十分だよ」
 妖夢は何も言えないまま、村紗の話に耳を貸していた。以前、滝の中での星との会話を思い出しながら。
「きっと星は、過去の自分と、今の妖夢の姿を重ねて見ていたんだろうね……。そんで、改めて聞きたいんだけど」
 妖夢が頑張る理由って、一体何なのさ?
 そんな話されて、改めてそんな問いをされると言葉に詰まってしまう。しかし妖夢は、星があの川岸でふとした拍子に見せた切なそうな笑顔を思い出し、何も言わずに立ち上がった。
「ちょっと妖夢、今日の修行はもう終わりでしょう?」
 村紗の言う通り、本日の筋トレメニューは終了であった。にもかかわらず、妖夢はストレッチをして、走り込みの準備を始めていた。
「すいません、夕飯までには帰ってきますので」
 とだけ告げて、妖夢はしゅたっと命蓮寺の階段を下り、いつものランニングコースを走りだしたのである。
 こういう時の為に、人間には「運動」という行為が与えられているのだと妖夢は思った。頭の中で何かがごちゃごちゃと渦巻いている。主に、先ほど村紗から聞かされた星の話である。村紗も言っていた通り、それは星本人だけの事情である。他人がどう言おうと、どう思おうとそれは何の意味も成さない。それなのに――。
(何で、こんなに、切ないんだ……ッ)
 真夏の夕暮れ、ひぐらしがないている。沈みゆく夕日を背に、妖夢は咆哮して畦道を疾走した。瞳から零れそうになる涙を跡形もなく吹き飛ばすために、妖夢は世界を切り裂くつもりで走り続けた。いつものランニングコースを外れ、妖夢は何処に行くわけでもなく、目指す場所があるわけでもなく、ただ我武者羅に走り続けた。
「ううっ、うわぁああああぁあぁ―――ッ!!」
 夏が、止まらない。幻想郷が夕日で真っ赤に染まる。そんな血だらけのような世界を、白銀の少女は閃光のように走り抜けた。今すぐに答えなんて出せないけれど、そこには一つだけ真実があった。
(私の夏は、もう、止まんない――)
 少女は叫んだ。
運命に裏切られた、一匹の獣のように。
……。
 気付けば日が暮れ、既に幻想郷は夜の闇に包まれていた。このままだと夕飯の時間どころか就寝時間にも間に合わない。
「確か、就寝時間を破ったらペナルティーだったよね……」
 ペナルティーは、次の日ずっと聖に冷たくされるという内容であった。地味に辛い罰である。我に返った妖夢は辺りを見渡す。想像以上に遠くまで来てしまっていた。というのも、妖夢は走りながら延々と自問自答を繰り返したのである。なぜ自分は頑張っているのか、頑張ったところで何が得られるのか、自身の心に問いを投げかけ続け、無我夢中になり時間を忘れてしまったのだ。
妖夢が駆け足で命蓮寺へと帰ってくる頃にはとっくの昔に就寝時間は過ぎていた。途端に足取りが重くなっていく。
「ひええ……みんなもう寝ちゃってるかなぁ……」
 恐る恐る境内へと足を踏み入れた時、妖夢は、本堂に誰かが明かりも付けず、静かに正座して待っているのに気付いた。
 妖夢はバツの悪そうな顔をして、そのまま俯いてしまう。そこにいたのは、今この瞬間妖夢が一番会いたくない人、星であった。
「し、星さん……」
 妖夢は帰りが遅くなった言い訳を必死に探したが、星が纏っている、静かで厳かな雰囲気に何も言えなくなってしまっていた。
「ふふ、妖夢は、本当に心配をかける人なんだね……」
 叱責されると思っている妖夢の怯えを察し、星は姿勢を正したまま、ぎこちなくも穏やかな表情を浮かべて妖夢に語りかけた。
「……星さん……あの、その……」
「ああ、村紗から、私の話を聞いたんだろう?」
 妖夢が抱えている物の正体をズバリ言い当てられ、妖夢はいよいよ言葉に詰まってしまう。恐らく村紗は、星の昔話を勝手に妖夢に話してしまった事を後ろめたく思い、星に詫びに行ったのだろう。
「星さんは、どうやって、悲しみを乗り越えたんですか?」
 これは村紗から話を聞いた時、妖夢がずっと胸の中で思っていた事だ。妖夢は半人半霊であるが、心は紛れもなく「人」の側の存在である。そんな妖夢だからこそ思わずにはいられなかった。ここまでの悲劇を目の当たりにして、どうして優しくあれるのかと。
「確かに……私が経験した修行が、報われる事はなかった」
 だけど、無駄だったとは思わないよ。星があまりにも簡単に言うもんだから、妖夢は思わず「え?」と声を上げてしまった。
「先に行っておくが、私は今でも、人が憎いし、怖いとも思う」
 命蓮寺に出入りしている者達は一度外界の人間達により迫害を受け、存在そのものを否定された妖怪達がほとんどである。命蓮寺組の中には今でも人間という種族に嫌悪を抱いている者だっている筈だ。故に、寅丸星が「人」に対して好感を持っていなくても不思議ではないのだ。――だけど。
「そんなんでも、人を信じたいじゃないかよ」
 こんなんでも、人を好きでいたいじゃないかよ。
月明かりが照らす本堂の中で、星がまん丸の満月のように笑って見せた。その溢れんばかりの笑顔に、妖夢は思わず息を飲んでしまった。きっとこれが、星の『本当の笑顔』なのだろう。
「私は人間を好きになれない。だけど一度、一度だけ、人を好きになった。人と共に生きていたいとも思った。今は、守りたいと思える人だっている。それだけで、私の辛く厳しい修行も報われるんだ。きっと……頑張る理由ってのは、それで良いんだよ」
 その明るい笑顔の裏に深い悲しみを背負っている星を見て、妖夢は自身の中にある頑固で意地っ張りだった部分が柔らかくほどけていくのを感じた。彼女は、妖夢にはない強さを持っていたのだ。
「強いですね……星さんは……」
 その通り、私は強いんですよ。と、星は軽く言ってみせる。だが、笑ってその言葉を述べるのに、一体どれだけの歳月が必要だったのか、どれだけ苦しんで、どれだけ泣いて、どれだけの夜を越えてきたのか。頑張る理由――。昼間、村紗に問われたまま、妖夢はずっとその答えを出せないでいた。しかし、目の前で笑う虎の少女の儚げな笑顔を見て、思い出した事がある。
「あの担々麺を完食出来なかったら、この幻想郷に存在するありとあらゆる食べ物が激辛に変えられる――らしいです」
 我ながら後付けのような理由で、妖夢は不覚にも笑ってしまった。
「私にも、大事な人がいます。その人に、いつもと変わらずに、美味しいご飯を食べてほしいから、私は頑張るのでございます」
 その人を笑顔にするために、私は頑張るのでございます。
 妖夢の言葉に、星は思わず吹き出してしまう。その笑顔を見て、妖夢は自身の心に刺さりっぱなしだった棘が音もなく溶けていくのを感じた。星の笑顔を見て、ようやく気が楽になった。
「私は、あの担々麺を完食します――必ず勝ちます」
 妖夢は本来の暢気な笑顔を浮かべ、軽く宣言する。それに対し、星もまた気楽な表情で返した。ああ、やっちまえ、と。

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