Coolier - 新生・東方創想話

Wlii  ~其は赤にして赤編 13

2016/06/01 00:38:22
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    第十四節 正直者の憧憬

 夕日の中で青い女と出会った。
 夕日に青なのだから赤に青が混ざれば紫や紺や勝になるのが当然の筈だが、道梨の思い描くその女は青色をしている。詰まるところ、詰まるところは記憶の齟齬であり、青が深くなれば紺になる事を知らない幼少時に抱いた印象を記憶が引きずり続けた帰結である。当時の事は女の色合いを含めて時間の遥か後方に捨て置かれ、後にはただその時に抱いた印象が残るのみである。
 夕日の中でさえその女は青。深く澄み渡った海の様な青。深く深く潜り落ちた先に一体どんな恐ろしい物が待ち受けているのか分からない、深海の様な青。
 道梨の記憶と当時の事実を綯い交ぜにして書いていくが、まずはじめに言うべきなのは、道梨の記憶に残った強烈な印象を持つ一場面において青い女は主演であるけれども、それに比して、事実における青い女は特別何をしていた訳では無いという事だ。
 青い女はカフェのテラスで道行く人人を眺めていた。それだけだ。秋も深まった冷たい夜気に通り行く人人が身を竦めていたのにも関わらず、青い女は尚も寒空の下のテラスに居座っていたのはおかしいと言えばおかしいが、寒さなんて気にならなかった少年時代の道梨はそれをおかしいものだと思わなかったし、おかしいと言ったって大した異常では無い。
 青い女はただ夜気が浸し始めたテラスに座って道行く人人を眺めていた。
 それが事実だ。
 それなのに道梨はその青い女が恐ろしくて目が離せなかった。
 それも事実だ。
 記憶の中で道梨は歩道に立っている。道を隔てた向こうには青い女の座るカフェがある。道梨と女の間を夕闇で陰った人人が往来する。道梨の視界の端から現れた人人が道梨の視界の外へ消えていく。次から次へと様様な姿形の人間が現れては消えていく。青い女もそれを見ている。
 ぼんやりとそれを見つめていた道梨から次第に現実感が失われていった。何もかもが曖昧になっていく様に錯覚しだして、終いには視界の端に消える人人が、実は単に見えなくなったばかりでなく、自分の目の届かない所で夕暮れの闇に飲み込まれて溶けていってしまっている様に思われだした。不安に思って辺りを見回すが、往来する人は数え切れず、どれが自分の目の前を通り過ぎた人で、どれが通り過ぎなかった人か、どれが消えてしまった人なのか全く分からない。消えていないとは思えず、誰かが消えてしまったに違いないという不安を抱き、その消えてしまう瞬間を見つけてやろうと一層激しく首を振って辺りを見回すが、どうやっても人が消えるのを見る事が出来無い。
 もしかしたら自分が見ている前では消えないのかもしれない。それなら誰かが消える前にそこへ視線を送って、誰も消えない様にしよう。自分が皆を救おうと決意を固めるが、幾ら首を振っても限定された視界では全てを見つめ続ける事が出来ず、自分の力足りずに刻一刻と誰かが消えていっているのではないかと、喉の奥から悲しみが込み上げてきた。
 そこではたと、青い女に目を戻す。彼女も道梨と同じ様に道行く人人を見つめている。もしかしたら仲間なのかもしれないと思いかけたが、そうではないという予感が頭をもたげた。誰あろう、道梨の視界の外で人人を消し去っているのは青い女なのかもしれない。そう考えて、道梨は尚も人人を救う為に視界をあちらこちらに彷徨わせながら、油断無く青い女の様子を伺っていると、何やら青い女は敢えて道梨の見ている方とは別の方角を見ている様に思える。そう気が付いた瞬間、道梨の中を何にも増して恐怖が支配した。道梨の視界の外で人人を消していたのは青い女だった。道梨が見ている方角と別の場所を見ているのがその証拠。道梨が人人を守る視線を持っているのだとすれば、その青い女は人人を消し去ってしまう視線を持っている事になる。それが恐ろしい。夕闇に呑み込まれるという想像よりも遥かに、女の視線が人人を捉え消し去っているという想像の方が恐ろしかった。
 いやそれどころか、青い女が単に人人を消しているとは思えない。単に消えるなんかよりももっと恐ろしい目に遭わせているのかもしれない。恐ろしさに身を震わせて、傍に居る筈の母親を求めようとして気が付いた。傍に居た筈の母親は居なかった。母親が傍に居ると思っていたからこそ、恐れながらもそこで立ち止まっていた。母親が居ないと知ると、道梨は心細さから涙が込み上げてきて思わず泣き出しそうになった。
 涙が零れそうになった時、青い女と目が合った。
 青い女が道梨の事を見つめている。青い女が他の人人と同じ様に自分の事を消し去ろうとしている。
 瞬く間に心細さは消え去り涙も引っ込んだ。恐怖が体中に浸透し、道梨は女の目から逃れたい一心でその場から駈け出した。
 やがて何処だか分からない何処かの街角で立ち止まり、自分が最早元の場所に戻れない程に遠くまで来てしまった事に気が付いた。自分の居た世界へ戻れない悲しみと、あの青い女が追いかけてくるんじゃないかという恐怖に涙がこぼれてくる。やがて悲しみは堰を切り、人目も憚らずに泣いていると、やがてやってきた警官に抱き留められる。
 子供の頃の出来事で諸諸が酷く曖昧ではあるけれど、その警官の笑顔は今でもはっきりと思い出せる。心細さと恐れを一息に吹き飛ばしてくれた頼もしい笑顔は強く強く印象に残って、道梨に影響を与えた。警察に入ったのも、月並みではあるが、かつて自分を助けてくれた警官の様に自分も優しい浮かべて誰かの頼りになりたいと思ったからだ。

 目を覚ました道梨は、自分の腹に載った誰かの足をずらして起き抜けた。スカーレット事件という未曾有のテロ対策本部が急増された所為で、ここのところ警察署の仮眠室は満杯になっており、一つの布団に二人や三人当たり前に転がっている。気詰まりして溜息を吐いた道梨は、息抜きに外へ出る事にした。
 署内の廊下を歩きながら、自分は何をやっているんだろうと自問自答する。
 警察を志す切っ掛けとなった過去の夢を見た。夢の詳しい内容は既に霧散しかけているが、迷子の自分を救ってくれた警官の笑顔はいつだってはっきりと思い出せる、あの笑顔に励まされ、人生で辛い事があっても頑張ろうという気力が湧いた。自分もそんな存在になりたくて、こうして警察になった。
 それがどうした事だろう。
 自分は今、何をやっている?
 辛い学校での訓練を終え、ようやく警官になってからの数ヶ月は交番に勤務して、まさに憧れていた存在になれたと思えた。理想とは少しずれていて、困っている人を助けたり悲しんでいる人を励ましたりというより、酔っぱらいやら失せ物やら喧嘩やら厄介事の解決が主だった気もするが、それでも自分が人人の生活を支えられているんだという実感があった。
 だがある日、突然刑事という異例の抜擢を受けた。警察を目指していれば、誰だって一度は刑事に憧れる。話を聞いた時は、身近なお巡りさんという存在でなくなってしまう事に一抹の無念を覚えたものの、刑事になればフィクションの中でそうである様に、人の生活を脅かす悪者を退治出来るんだと、新たな熱意を胸に刑事になる事を受諾した。
 だけど、そうしてやってきたこの場所は一体何処だ?
 昨日道梨は不動や射命丸と共に病院へスカーレット事件の調査に行った。
 その事を思い出した道梨は立ち止まり顔を両手で覆う。
 未知の薬物によって、人が正気を失い、人外の力で暴れ回るスカーレット事件が病院でも発生した。その現場で道梨は見た。今まではニュースや噂で伝え聞くだけ、画面の中だけであった、事件の姿。
 幼い少女が突然警官に襲いかかった。少女は逃げ出したが後に死体となって発見されたという。病室で複数の人間が切り裂かれて死んでいた。血で赤黒く染まった病室に身が竦んだ。初めて嗅いだ大量の血の臭いは思い出すだけでえづきそうになる。
 だがそれより、なにより恐ろしいのは、不動という先輩刑事が何の躊躇いも無くその少女の四肢を拳銃で撃ち抜き、その上拷問めいた事までしてみせた事だ。
 信じられなかった。
 優しい爺さんだと思い込んでいた不動が、少女を傷めつけ、痛みに泣き叫んでいる少女を組み伏して尋問するなんて。道梨は警察が正義だと信じていた。だけどあの姿は正義どころか悪者のそれだ。悪者どころか悪魔の所業だ。
 その後に発見された物言わぬ少女の亡骸の、虚ろな目が思い出される。その目が道梨には、泣いている様に、恨んでいる様に、無念を募らせている様に見えた。少女が亡くなった原因は薬の効力が切れた為だと予想されていたが、それは薬の効力が切れる前に致命傷を負っていたからに他ならない。ならば少女をあんな風にしたのは不動だ。他の刑事達もはっきりとは言わないが、言外に不動を非難する態度を取っている。
 道梨は昨日まで自分が警察に所属している事に誇りを持っていた。それが今、揺らいでいる。道梨が警官になったのは、警察が正義だからだ。いや正義という言葉では少し強すぎる。もっとあやふやに、道梨にとって警察は良いものだった。かつて迷子の自分を救ってくれた警官がそれだ。困った時、泣きそうな時に助けてくれた正義の味方。それが幼少時の道梨にとっての警官であり、そんな警官が所属している組織だからこそ警察が道梨にとっての良いものになった。あくまで道梨にとっての警察は、かつて自分を救ってくれた警官が所属していた組織に過ぎない。それでも、実際に入ってみた警察は上司先輩同僚に恵まれ、良いものだという評価が変わる事は無く、また警察学校での教育や交番での勤務を通して、自分達が一所懸命に人人の平和を守っているんだという自負を抱くに至った。そう、子供が泣いていれば優しい笑顔で安心させてあげられる、そんな頼れる存在なんだと誇らしかった。
 それが崩れた。
 警察が優しい人物だけでない事を知った。かつて救ってくれた警官とは違う。自分と仲良くしてくれた優しい同僚先輩上司とも違う。人人の平和を守る正義の味方とも違う。痛みに呻く子供をも尋問する様な、冷酷非情な者が警察の中に居る事を知ってしまった。
 警察が絶対の正義だとは元元思っていない。でも少なくとも、泣いている子供に拳を振り上げる様な警官が居るなんて思っていなかった。いやそれどころか、今までの人生の中で、道梨がそんな人間に遭遇した事は無かった。
 不動が子供に銃を突きつけている姿を思い出して、道梨は大きく溜息を吐く。
 道梨も不動が間違った事をしたとは思っていない。スカーレット事件の薬物中毒者は常人を遥かに超えた怪力と耐久力を獲得する。個人差はあるが、例えば小さな子供がトラックと正面衝突しても起き上がりそのトラックを持ち上げて投げつけたという話もある。だから不動が病院で撃ったあの子供は一時的に怪物とでもいうべき存在になっていた。それを止める為に已む無く銃で撃った事を頭から間違った行為だと道梨は思えない。だけれど正しかったかと言えば、子供を銃で撃ち、尋問した行為を正しいだなんて言う事は出来無かった。それが職務の上での正しさであろうと、感情はそれを否定する。
 他の捜査員にしてもそうだ。子供の遺体が見つかった時、あるいはその後の捜査会議で、子供が死ぬのなんて当たり前みたいな態度を取っていた。実際に、スカーレット事件が発生している今、子供の死なんて当たり前なんだろう。だけど殆ど全ての捜査員が子供の死を割りきってしまっている事が、道梨には信じられなかった。不動にも他の刑事達にも恐怖を覚える。
 総じて、次の一言に尽きる。
 何故自分はここに居るのか。
 この警察という組織は自分の居て良い場所じゃない。己まで殺しかねない冷酷さが無ければ、警察として生きていく事が出来そうに無い。だが己を殺して、子供の死に平気で慣れ、子供を泣かせ、痛めつける様な事出来る訳が無い。
 だから道梨は思う。
 どうしてここに自分は居るのかと。
 まるで迷子の子供が見知らぬ町や素知らぬ他人に覚える感情と同じ様に、警察という周囲の環境や刑事達は疎か、刑事である自分という存在にも、よそよそしさを覚える。
 かつて夕暮れ時に迷子になった時の様に、知らぬものばかりの袋小路に迷い込んだ心細さを覚える。
 異例中の異例で刑事に抜擢された時に感じた喜びは消え失せている。むしろ自分がこの得体のしれない不気味な場所に連れ去られてきた事への違和感が増した。思えばどうしてまだ警察に所属して一年にも満たない自分が刑事に抜擢されたのか。普通ではあり得ない。その異常が、何か自分を薄気味の悪い靄が取り巻いている様に不安を煽る。
 あの夕日の中で通行人を次次と何処かへ送った青い女の様に、何か恐ろしい存在が自分の事を何処だか分からない何処かへと連れて行こうとしている気がする。
 それが杞憂に過ぎないと分かっていても、道梨はかつて迷子になった時と同じ様な気分になり、そしてかつて助けてくれた警官が再び自分の事を救ってくれないかと無為に願ってしまう。
 勿論幾ら願ってもそう都合良く救いの手が差し出される訳も無く、道梨は電灯に照らされた廊下を、窓の外の暗闇を見つめながら歩く。もうすぐ夜が明ける頃だろうが、曙光はまだ見えない。だが間違い無くこの夜はいずれ明ける。なら自分の夜はどの辺だろうと道梨は考える。すぐに明けるのか。あるいはまだ宵の入りなのか。いずれ夜が明け、悩む自分は決着するのか。それは分からない。
 警察署を出て近くのコンビニに入った。別に何か用事がある訳でも無く、気晴らしがしたかっただけだ。コンビニには先客が居た。捜査本部に集められた刑事の一人だ。顔は見覚えあるが名前は思い出せない。取り敢えず挨拶をすると苛立たしそうに睨まれた。問題を起こした不動の部下という立場な上に、何も知らない新人が大抜擢で刑事となり重大事件の捜査本部で仕事をしているという異常、付け加えれば捜査の進展が思わしくないという刑事達に渦巻く苛立ちもあり、周りからの視線が冷たいものになるのは道梨自身理解していた。
 刑事は一睨みしただけで、道梨をすれ違う。一先ず文句や嫌味を言われなかったので安堵しつつ、無為にお茶を選んで店を出た。元気と笑顔で乗りきれない場面は嫌いだ。どうして良いのか分からない。
 署に戻っても仕方無いので、しばらく散歩する事にした。
 街灯がある為光量は十分だが、空に掛かる真っ黒な夜空が、何だかのしかかってくる様で、薄暗く感じる。この町で現在起こっている事件を思えば、物陰からいつスカーレットの中毒者に襲われるかも分からない。思わず背筋が震える。だがそれは同時に心地良さでもあった。自分の隣に危険が蠢いているという強い恐れが、自分の悩みを覆い隠してくれそうな気がした。不動に感じた恐怖も、捜査員達に抱いた違和感も、疎外感から来た悲しみも、そんな自分の体中にこびりついた妄想全て、春の入りの寒気と物陰に抱く恐怖に全身を震わせれば振り払われて、自分の身が真っ更になる心地がする。
 沈鬱が幾分か払われて、多少は軽くなった足取りで夜道を進んでいくと、道梨の耳が何かを捉える。それが歌だと気が付いて、思わず足を止めた。優しげな歌声が何処からか聞こえてくる。こんな夜中に誰かが風呂場で歌っているんだろうかと、何となしに歌声へ向かって歩いていると、やがて道の向こうに人影が見えた。遠く暗く、はっきりとは見えないが、歌声はその人影が発している様だ。
 てっきり歌声は何処かの家から漏れているのだと思っていたから道梨は驚いて再び足を止める。真夜中に道端で歌っているだなんてまともな神経だとは思えない。
 道梨は更に、人影が二つである事に気が付いた。
 声から女である事が分かる。歌は童謡だ。大小二つの影。親子だろうか。子守をしているのか。だが何故こんな時間、外に居る。
 疑問は尽きないが、警官だった頃の習性で、声を掛ける為、人影へ向けて歩み出す。
 近付くに連れて次第に細部がはっきりとしていく。陰って見えづらいが、大きな人影はやはり女、小さな人影は制服を着た少女の様だ。家庭で何か問題があったのだろうかと想像しつつ、更に近付く。
 その目鼻立ちがようやく確認出来る様になり、ぼんやりと薄れていた色彩もはっきりと捉えられる程近付いて、道梨は足を止めた。正確には足が震えて動けなくなった。
 青色の女が居た。
 近付いてはっきりと分かった。大きな人影の髪の色は、遠目では黒に見えていたが、よく見れば青色をしている。途端にかつての記憶が思い起こされた。夕暮れの中で、青い女が微笑む前で、往来する人人が次次に消えていく。もう二十年近く昔の事だ。だから目の前の若い女が、かつての青い女と同一人物な訳が無い。それなのに、重なる。かつての青い女と今の青い女から滲み出る得体の知れない不気味さが重なる。
 目の前の女が青い女だとすれば、傍らに居る少女はかつて連れ去られた人人の内の一人だろうか。
 道梨は少女の顔を伺うが、俯いていてよく見えない。
 どうやら歌を歌っているのは、青い女ではなく、制服を着た傍らの少女の様だ。
「芳香ちゃんはお歌が上手ねぇ」
 青い女が少女を褒めた。毒の様に甘ったるい粘りつく声だ。
 青い女の言葉を受けて、少女は歌を続けながら顔を上げた。
 その顔を見た事を、道梨は後悔した。
 額に紙を張られた少女の顔は、弛緩し切っていた。力無く開いた目と口、口と鼻からは赤い液体が流れ出ている。双眸は白く濁り意思は見えず、相貌は緩み切り表情が無い。これは死体の顔だ。昨日病院で見た遺体と同じ表情をしている。死体の顔をした少女は力無く開いた口から歌を紡いでいる。それを見て、道梨は悟った。かつて自分が抱いた恐怖は間違いでは無かったのだと。女に連れ去られた人間は目の前の少女の様に、死体の顔にされて連れ回されるのだ。
 道梨が恐ろしさで後ろに下がると、二人はその音に気が付いた様子で、道梨へと顔を上げた。青い女は道梨と目が合うと、笑みを見せた。通行人を消し去った時と同じ笑顔だ。一瞬で当時の光景をはっきりと思い出し、道梨は恐ろしさのあまりその場から駈け出した。必死で署まで逃げ帰り、裏口から中に逃げ込むとさっきコンビニで会った刑事達が居て安堵の息を漏らす。夜中に走った事をきつく叱られたが生きて逃げられた事に対する安堵の方が大きい。責めてくる刑事達を誤魔化して仮眠室に戻る。月明かりを頼りに自分の寝ていた場所へ戻り、誰かを押しのけて目を閉じ。だが目を瞑った暗闇の向こうから、あの青い女がまたやってくる気がして、じっとしていられず、結局仮眠室を出て、電灯の点いた廊下に座り込み、朝になるのを待った。

「道梨君、聞いていますか?」
 昨晩の出来事に沈思していた道梨は、慌てて顔を上げた。
「はい! すみません!」
「寝不足みたいですね。その分じゃ頼んでいた仕事も何処までしてくれたものか」
 道梨の謝罪に不動は苦笑を浮かべる。不動の態度は柔和だったが道梨は思わず身を竦める。一昨日までならこの程度のやり取りを気にはしなかったが、昨日不動の恐ろしさを知った今では自分の一挙手一投足が不動にどう取られるのかが気になった。銃で撃たれ脅された少女と同じ目に、自分も遭ってしまうのではないかという不安がある。
 道梨が怯えながら居住まいを正すと、不動は朝から続いていた捜査会議での内容をもう一度説明する。
 まずは道梨達が遭遇した病院での事件。スカーレット事件の中毒者が入院している病室へ無理矢理押し入ろうとした暴漢が居た。暴漢の襲撃により病室を警備していた警官が一名負傷。暴漢はまだ年端もいかない少女。押し入ろうとした病室に居た中毒者達は、少女が両親を失ったスカーレット事件を引き起こした犯人だったという。少女自身の証言に隠れば、本件前に病院の敷地内で何者かに両親の仇討ちを依頼しており、それが実行されたかどうか確認する為に、病室に入ろうとしたとの事。少女は静止しようとした刑事に両足を撃ち抜かれたが逃走し、その後病院の裏庭で発見された。この辺りは道梨も昨日の時点で知っていたが、今日は新たな情報が追加された。まず少女の証言が全くの出鱈目である事。いやもっと言えば存在そのものが判然としない。そもそも少女は本件発生の五時間前に死亡が確認されていた。病室の中毒者が起こしたスカーレット事件によって、少女自身も両親と一緒に横転した車の中に居た。両親は即死。少女も渋滞になり、昨日の病院に運び込まれていた。少女は治療の甲斐無く、本件の五時間前に死亡。しかしその死体が、医者と看護師が目を離した隙に消失していた。その後本件が発生し、植え込みの中で再度発見された。
 少女の死体を盗んだ犯人については、監視カメラからおおよその見当がついた。死体が消える直前、病院関係者ではない人物が死体の安置されていた部屋へ向かって歩く姿が映っていた。今回病室に押し入ろうとした少女と同じ中学校の制服を着た女の子で、関与は濃厚として、第一容疑者として調査中。
 という説明と共に見せられたカメラの映像に道梨は息をのんだ。その死体を盗んだ女の子に見覚えがあった。いやついさっき見たばかりだ。青い女と一緒に居た少女。映像の角度では人相が分かり辛いが間違い無い。青い女に芳香と呼ばれていた少女だった。
 道梨の変化を目敏く見つけた不動は、説明を一旦止めた。
「道梨君、どうしたんですか?」
「あの」
 道梨は逡巡する。というのも、自分の見た光景があまりにも現実離れしていたからだ。子供の頃に恐れた人攫いの事を考えていたら、夜道でその人攫いに出会ってしまい、しかも連れていた女の子が、たった今説明された死体窃盗の容疑者そのものだなんて、まるで自分の想像がそのまま具現化した様でおかしい。明け方に見た夢妄想の様な気がする。だから人攫いは歳を取っていなかったし、恐れていたタイミングで現れた。連れていた少女が容疑者に酷似しているのも、曖昧だった夢の記憶がたった今見た映像に飛びついて記憶を再構築しただけの可能性がある。
 要するに自分の勘違いなのではと悩んでいる道梨に、不動は笑顔で言った。
「どんな些細な事が事件解決に結び付くか分かりません。何か気になる事があるのなら言ってみなさい」
 表情も口調も柔らかかったが、発する気配に只ならぬものを感じて、道梨は急いで自分が見た光景を説明した。それを聞いた不動は端末を取り出し、何処かへ掛ける。
「道梨君の過去との繋がりは分からないが、まるっきりおかしな話だとも思えない。可能性があるなら当たるべきだ」
 そう言って、端末の向こうの誰かに向けて、容疑者の名前がよしかの可能性がある事を告げ、通話を切った。
「しばらくすれば結果が分かる。中学校と名前が特定出来ている、という事だから。まああちらが私達に報告してくれるか分からないけど」
 そう言って、不動は再び説明に戻った。
「さてそのよしかさんの捜査は向こうに任せるとして、道梨君、どうやら君は全く説明を聞いていなかったみたいだね。これの方が重大だよ。ちゃんと人の話は聞く。良いかい?」
 道梨は慌てて頷いた。不動を怒らせれば何をされるか分からない。
「じゃあ続きを説明するけれど」
 そうして不動は説明を続ける。
 病室を襲撃した少女の事件は、概ね先程の内容で説明しきった。少女にジュースを渡したというピエロの存在や少女が復讐を依頼した人物、スカーレットを摂取した経路等、分からない事はあるが、簡単には明かせそうにない。少女自身の話が全くの出鱈目であり、監視カメラに何も映っていなかった事から、とにかく少女の死体を盗みだした人間を捕まえて事情を聞く事が優先されている。
 さて昨日道梨が病院で遭遇した事件はもう一つある。それが問題になっている二つ目の事件だ。少女が押し入ろうとした病室の中毒者が何者かに殺されていた。監視カメラの映像では、室内に誰も侵入していないにも関わらず、突然中毒者達の喉笛を切り裂かれるという不可解なもので、原因の特定が出来なかった。
 というのが昨日の話で、今日の進展として次の事が分かった。まず監視カメラの映像で、中毒者達の首が割かれる時に、窓の外に一瞬だけ映った影が話題になったが、映像を詳細に解析した結果、それが布である事が分かった。中毒者達の首を切った犯人の衣服だと見られている。また喉笛の切断については、非常に鋭利な刃物によって成されたのだと判明した。専用の加工機でも使ったかの様な美しさで、通常の刃物ではまず不可能、鑑識は人間業でないと評した。遺体の切断面とは別に、窓ガラスが切られていた事も分かった。だがその切り方があまりに綺麗で、目視で分からないどころか、一度切られたにも関わらず、溶着してしまっており、余程注意して触れれば溶着の盛り上がり微かに分かる程度のものだった。この二つの事実が分かったものの、あまりの不可能性に匙を投げたくなる情報だ。瞬く間も無い程の速度で四階の窓の外を横切り、しかもその一瞬にも満たない間にガラス窓ごと被害者達の首を切り落としたと主張した捜査員が居たが、あまりにも非現実的な意見の為、明確に賛意を示す者は居なかった。現場の状況はあまりにも不可解だが、ともかく監視カメラで絞り出せた容疑者、特に魂魄妖忌という、凶器となり得る長物を携えて病院を徘徊し、しかもここ一年失踪していたという人物が怪しいと睨み、現在行方を捜索している。
 病院で発生した二つの事件に加え、もう一つ新たなスカーレット事件が発生した。ある小学校の塀の傍で、頭部を失った死体が崩れ落ちているのが発見された。壁には、丁度死体が直立した身長と同じ高さに、穴が空き、穴の周囲に大量の血液と頭部の破片による放射状の模様が描かれていた為、立った状態の被害者の頭を凄まじい力で壁に叩き付け、頭部を叩き割ったものと推測される。凶器は不明。目撃者も居ない為、手がかりが無い状況。被害者は死亡する五分前に別の場所でスカーレットの中毒による傷害事件を起こし逃走中だった。
「ふーん、おかしな話ですね」
 突然割り込んできた存在に振り返ると、目の前に射命丸の顔が現れて、道梨は驚いて仰け反った。仰け反っている道梨から捜査資料をひったくった射命丸は、一通り目を通すと、不動へと視線を向けた。
「スカーレット事件なんて何処かしらで起こっている事でしょう? 元にこの被害者も直前に事件を起こした訳ですし。それがどうしてこう特別扱いなんですか?」
「射命丸さん、関係者ではないものがここへ来るのは止めてくれないか?」
 辺りを見渡せば、捜査員の中に非難げに不動達を見つめてくる者達が居る。
「まあまあ。外で待ってたのに一向に来ないもので」
 不動は溜息を吐いて腰を上げた。
「道中で説明しましょう。道梨君も」
 不動が外に出ようとするので、道梨は慌てて書類をしまい、不動と射命丸の後に続く。
 車に乗ると事件のあった小学校へ向かう様に支持されて、道梨は目的地を入力し、発進させる。
「さっきの事件のあった小学校ですね。何か特別な事件なんですか?」
 射命丸がさっきと同じ問いをしたので、不動が答えた。
「事件自体は特に。勿論、目撃者も無ければ、手がかりも無いというのは厄介で、犯人の目星もついていない位ですから、軽んじていい事件ではありませんが」
「じゃあどうして?」
「今日の私達は、その小学校の方に用事があるんですよ。小学校の周りでは別の方々が捜査をしている訳で、その傍を通るのに知らん振りを決め込む訳にはいかないでしょう? 協力出来る事があるなら、力添えをしたい所です。だから最低限の知識はつけておかないと」
「昨日の様子だと、手助けなんか要らないって言われそうですけどね。縄張り争い強そう」
「まあ、そうだろうねぇ。だからと言って怠っていい事じゃない」
「左様ですか。ご苦労な事です」
 射命丸は呆れた様子で背凭れに体を預け、かと思うと再び身を乗り出して、運転席の道梨に水を向ける。
「どうしたんですか? 今日はやけに大人しいですね? 顔付きも元気が無さそうというか」
 それに道梨が答える前に、射命丸は誂う様に笑う。
「もしかして昨日の事で怖くなっちゃいました?」
 その言葉を聞いた途端、道梨の内に怒りや悔しさに似たやるせない感情に襲われた。
「怖く、ないんですか?」
 道梨の口からそんな疑問が突いて出た。それは昨日からずっとわだかまっていた、周囲全てへの疑問でもある。少女を拷問した不動、少女の死体を見ても平然としていた警察達、そしてそれ等の凄惨な現場を見ていたにも関わらず、それを怖いのかと笑う射命丸。道梨には、自分と周囲の人達の間に酷く深い溝がある様に思えてならなかった。
「怖くないんですか? あんな光景を見て」
 それは昨日の事件が恐ろしくなかったのかという質問以上に、何故不動の事を恐れないのか、もっと言えば、何故自分と違う考えを持っているのかという問いであり、また同時に、傍で聞いている不動に対して何故少女を拷問にかける様な事をしたのかと批難するものでもある。道梨からすれば、昨日から思い悩んでいた疑問に関わる真剣な問い掛けであり、また恐怖心を抱いている不動という恐ろしい存在に対して覚悟の批難だったが、それを聞いた二人の反応は鈍かった。
「まあ確かに恐ろしい光景だったかもしれないですね。私は記者ですしああいう場面はよく。道梨はまだ新人刑事さんですし、ちょっと当てられちゃいました?」
「道梨君、慣れですよ。慣れ。あまり気に病まない方が良い」
 まるで道梨に問題があるかの様な言い様に、道梨は何を言っても無駄だと悟る。二人は違う存在なのだと思い知った。不動は少女を拷問してみせた冷酷な人間だ。そんな人間に今更倫理なんて期待してもしょうがない。射命丸も見た目は人間と変わりないが、実際は妖怪という人間とは違う存在である。今回のスカーレット事件も妖怪が引き起こした事件らしい事を考えれば、そんなのに人間の感性を期待する方が間違いだ。二人をそんな風に判断した道梨は口を閉ざして車の行く先を見た。車のフロントウィンドの向こうには、何の変哲も無い町並みがあり、血生臭さとは無縁の普通の人人が歩いている。スカーレット事件が多発している今だから、人通りはやけに少ないし、道行く人人の顔には何処か不安や緊張が見られるけれど、それでも少女が惨殺された昨日の病院に比べたら、余程安心出来る日常だ。道梨にとってはこれが普通だった。けれど不動や他の刑事達にとっては違うのだろう。女の子が惨たらしく殺される様な異常を日常と受け入れているのが警察なのだ。
 そんなのが正しいかと問われれば、間違っていると道梨は答える。こんな警察なんかに染まりたくないと思う。自分だけは、こんな異常の中でもまともで居たいと願う。昨日酷い事をしでかしたのに、素知らぬ顔で、射命丸と談笑している不動の様な、女の子に銃を向けて脅す様な人間にだけは絶対になりたくない。
 道梨はそっとバックミラーで不動と射命丸の様子に目を向けた。昨日の病院での出来事、そしてスカーレット事件そのものについて、何処か楽しそうに話し合っている様に見えた。こんな風にはなりたくない。自分が同じ人種だと思われたくない。その為にも、まともな神経を持った人間として、不動や他の刑事達よりも早く自分が事件を解決してやろうと道梨は思った。
 車が目的の小学校の正門に近付くと、民間人ではない雰囲気を持った男が車の行く手を遮る様に立ちはだかる。
 先程不動が説明した殺人事件の捜査をする刑事だった。
「不動さんですか。この事件はうち等がやりますんで」
「ご苦労様です。あなただけですか?」
「ええ、もう現場検証は終わりました。他の奴等は撤収しましたよ」
 応対している刑事の他に誰の姿も無い。正門の向こうの校庭では、子供達が走り回り、殺人事件があった等とは感じさせない長閑な雰囲気だ。
「それは仕事が早い。それならどうしてあなたは残っているのですか? 娘さんのお見送り?」
 刑事が黙っているのは図星だからか。確かに殺人事件があった場所に娘が通っているとなれば心配の一つや二つするだろう。
「この事件は不動さんの力を借りるまでもありません。帰って下さい」
「私達がここへ来たのは、ここであった殺人事件とは別件ですよ」
「別件?」
「ええ、この学校の教師にスカーレットをばら撒いている疑惑があるもので」
「そんな話、聞いた覚えが」
「証拠のある確かな話ではないよ。あくまで疑い。聞き込み調査の一環ですよ。若い人間に薬が出回っている以上、拡散役は学生や教師が疑わしいってのは当初から言われている事でしょう?」
「まあ」
「こっちの捜査だ。管轄違いって訳でもあるめえし、あんたに止められる謂われはねえよな?」
 不動の言葉に、刑事は苛立ちの表情を隠しもせず、何処か大仰に敬礼をしてみせた。
「分かりました。ただくれぐれも変な事をしないで下さいよ」
「分かっていますよ。あ、そうそう、今朝ちょっとした情報が入りましてね。病院から死体を」
「昨日の事件の話ですか? 芳香って名前なんでしょう?」
「耳が早いですね」
「さっき連絡がありましたから。その芳香って学生はスカーレット事件に巻き込まれておっ死んでたらしいですね」
「え? そうなんですか?」
 そんな連絡を聞いていない不動は、驚いて聞き直す。
 すると刑事が小馬鹿にする様に笑った。
「不動さん、はぶられてるらしいね。日頃の行いですよ」
「巻き込まれたスカーレット事件というのは、どの?」
「えー、ちょっとど忘れしましたが、どっかの家で三十人位が殺し合ったとか」
「どの?」
「覚えてませんて。ちらっと知らされただけなんだから」
「思い出して下さい」
 不動が引かないつもりなのを見て取って、刑事は溜息を吐いた。
「分かりました。もう一度詳細を聞いて、後でお伝えしますよ」
「五分以内にお願いします」
「こちらにも仕事があるんですよ?」
「終わったんでしょ? じゃあ十五分。よろしくお願いしますよ」
 刑事は再び溜息を吐き、恨みがましく睨め上げる。
「分かりました。それについてはご協力致しますから、本当に頼むから、変な事はしないでくれよ。昨日あんたが銃使った所為で世間から酷く責められてんですよ」
「大丈夫大丈夫」
 不動が笑みを見せて道梨に合図した。裏口へ回る様に言われたので、車を裏手に進める。
「いやあ、嫌われてますねぇ、不動さんは」
 射命丸がけらけらと笑う。不動は苦笑して頭を掻いた。
「どうも昔から嫌われる質で」
「自分勝手ですもんねぇ」
「必要な事をしているだけなんですけどね」
「さっき、よしかっていう女の子に固執してたみたいですけど」
「ええ。何か聞き覚えがあるんですよね。それに制服がね、知り合いの学校ので。何か引っかかるんです。何か」
「ど忘れですか?」
「歳になるとどうも」
 裏門から入った車が駐車場に止まる。
「それで、さっき言っていた教師にお話を聞きに行くんですね?」
「そうだねぇ。スカーレットを配り歩いているのは誰かと考えるとやはり子供という輪の中に入り込める人間が浮かびます。そういう意味で教師というのは可能性の一つとしてありえる。そしてスカーレットという薬物、それがどんなものかは未だ不明な部分が多いですが、中毒者の様子が吸血鬼という妖怪の眷属に似通っており、しかもスカーレットが流行っているこの時期に当の吸血鬼が日本に来る、いえスカーレットが流行りだした頃に来日が決定していたというのですから、何らかの関わりがあるかもしれない。だから教師でしかも吸血鬼レミリア・スカーレットの熱心なファンというのは疑う価値のある人物です」
「ま、教え子と同じ位の見た目の少女に入れ込んでいるって時点で犯罪者みたいなものですよね。熱心さも、教え子にレミリアのファンになる様に強要して懲戒くらいかけたらしいですし」
「本人がネットで吹いていた事ですから、何処まで本当かは分からないよ。往往にして誇張が入るもんだ」
「誇張する様な内容ですか? 私は変態ですって声高に? そんなのが教師ってだけで犯罪ですよ。以前生徒に手を出した疑いで事情を聞かれたらしいですし」
「人格と犯罪は等価ではありませんし、過去の件は証拠不十分」
 不動と射命丸が軽口を叩き合っていると、道梨が口を挟んだ。
「だから銃を突きつけて脅すんですか? 無理矢理自白させて」
 不動は首を横に振る。
「そこまではしないよ。ま、世間話をね。スカーレット事件に関わっているかの探りもそうだけれど、レミリア・スカーレットがどの様な人物かも知りたい。あくまで妖怪側からの視点しか聞かされていませんし、熱心なファンから見たレミリアがどんな人物なのか。来週参加するファッションショーの前に出来るだけ情報を集めたいところですね」
 射命丸が口角を吊り上げる。
「不動さんがファッションショーを見に行きたいだなんて驚きましたよ。昨日の今日なのにもうチケットも取ってるなんて」
「必要な事をしているだけです」
「今日レミリアの事を探るって事は、ショーの当日に対決するんですか?」
「お話を聞ければとは思っていますよ。ま、構えられても困るので、アポイントメントの打診なんかはしていません。だから会って頂けるかは微妙なところですね」
「不意打ちなんか狙わなくても正面から攻めれば十分だと思いますけど。吸血鬼って言ったって、結局一人の女の子なんですから。それはともかく、そういう事情があるって事は、今日は件の教師を追及するより、レミリアの事を調べるのが主なんですね」
「何が主とかありません。出来る事を全部するだけです」
 不動がそう言って車を降りた。射命丸と道梨も後に続く。
「ちなみに、不動さん、ここの教師がスカーレットをばら撒いている可能性はどの位だと思いますか?」
 射命丸の問いに、不動は困った様に眉根を寄せる。
「低いと思ってますよ。可能性の高低はあくまで優先順位であって、どの位かを論ずる意味があるとは思わないですけど」
「低いのなら分からなくもないですけど。でも、もしもここの教師が犯人だったとしたら、大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「捕まえるだけの証拠は無いですよね。さっきの口振りじゃ連れ帰って自白を強要させるって感じでもないですし」
「勿論そんな事はしませんよ」
「じゃあ例えば教師が犯人で、怪しまれていると分かって証拠隠滅とかし始めたらどうするんですか? そこまでいかなくても、行動を控えて尻尾を見せづらくなったり」
「結構な事だよ。行動を控えてくれるのなら犠牲者が減る」
「そうではなくて」
「そういう事です。逆に聞きますけれど、射命丸さんはどうしたらこの事件を解決出来ると思います。薬の出処どころか、薬がどんなものかさえ分からない。誰がどういう繋がりで配っているかも、全く影も形も分からない。売人一人を捕まえて芋蔓式にとは思ってないよ」
「そうなんですか?」
「スカーレット中毒者の証言を聞きましたか? 誰も、どうやって薬を摂取したのか分からない。一人二人なら隠しているかもしれませんが、誰も自白しない。そんなに結束が固いのか? そうは思わないな。むしろ知らない。つまりそれが薬物だと分からずに摂取している、と考えられる。と思いませんか?」
「ええ、それは分かります」
「これはテロ行為ですよ。薬物で兵隊を仕立てて破壊活動に勤しむ立派なテロ行為。私はそう考えています」
「捜査会議でもそう言った意見があったんですよね。だからどうしたんですか?」
「つまり、この事件の目的はスカーレットをばらまく事じゃない。もっと大きく、派手な花火をあげようとしている。と私は想像しています」
「それなら尚更疑わしい人物には無理矢理聞くべきじゃないですか?」
「末端を幾ら捕まえても仕方がない。テロの最善の行動は組織自体を潰す事、次善はテロ計画を頓挫させる事。組織については全く分かっていませんが、テロ計画の方はある程度目星がついているじゃないですか。市長の視察とレミリア・スカーレットのショーが重なる来週がXデー。市長の視察の方は最初から警戒されていると相手も分かっているでしょうけれど、レミリアのショーまで警戒されていると分かれば少しは手が緩まるかもしれない」
「緩まるっていうのは、ショーのテロは止めて、市長の方に集中しようとかですか? えーっと、どうなんでしょう? 机上の空論というか、決めつけていません? だって、警戒されているからより巧妙にやろうとするかもしれませんよ? 相手に知らせずに警備だけ増やした方が」
「意味が無いね。一般人が突然発狂して暴れだすんだから。こちらとしては警戒のし様が無い」
「それならこちらが警戒している事を知らせたって同じじゃ」
「組織はそうだ。理詰めで動ける。でも個人は違う。恐怖心が入り込む余地がある。例えば今回の教師が犯人の一味で、警察が自分の事を疑ってきたと報告したとしよう。つまり組織の一部の人間の顔が割れているって訳だ。それが実行犯に伝われば、自分の顔もばれているかもしれない。警察も、会場全体の警備だけではなく、自分だけを狙って警戒しているかもしれない、と考えてくれれば、恐怖心が入り込む。本当ならもう一歩踏み込んでより被害を出せたかもしれない状況で、踏み出しきれずに被害が軽減出来るかもしれない。
「そう言えば、入り口で身体検査がある事を知って、中に入らずに外で自爆した爆弾テロとかありますもんね。少なくとも中に入るよりも被害は少なくなった」
「勿論防げる方が良い。射命丸さんの例で言えば、身体検査で爆弾が見つかって事件自体が起こらない方が良い。けれど犯人を捕まえる事に拘泥して、身体検査をそれと分からない様に行い、しかもその身体検査に引っかからずに、中で犯行が為されたら最悪だ。特に今回は、事前に封じ込める事が難しい。なら少しでも被害が軽くなる方に誘導した方が結果としてはよくなる。かもしれません」
「そう言われると、分からない事も無いですけど」
「見える形で防げる事件じゃないんだよ、この事件。後手の後手のそのまた後手に回っている今、出来る事は限られているし、想定されうる最悪を防ぐ為に出来る事は全てやるしかない」
「うーん、例えば、テロ事件とかそんな大それたものではなく、単にスカーレットって薬を広めたいだけの事件だとすれば、やっぱりここで犯人かもしれない人物に疑念を持たれるのは損な気がしますけど」
「さっきも言った通り、俺が恐れているのは最悪の自体が起こる事。調べた限りじゃ、レミリアってのは物凄え人気なんだろ? チケットは毎回売り切れで、しかも買えなかった奴も、一目でいいからレミリアの姿を見たいって、会場の外に集まるって聞く。小さい会場だが、それでも内と外を合わせて二万三万を超す群衆を狙われたら、どれだけ想像しても想像しきれない惨事になる」
「それはそうですけど」
 射命丸が悩ましそうに腕を組む。
「どうもさっきから逃げ腰というか後ろ向きというか、テロが起きて沢山の人が死んでしまうのはしょうがないって論調ですよね? そんなんで良いんですか? 最悪の事態を想定するって言っておいて、いざ最悪の事態が起きて防げないんじゃお笑いですよ?」
「誰も自信を持ってテロに当たってる奴なんて居ないよ。居るのならそれはそう見せてるだけだ。つっても、ショーの警備については、上も了解していて、市長の巡察も含めて最大限に警備を強化する予定だ。だが警察としちゃそれが限界だし、実際それ以上に出来る事なんて今の所無い。事件解決の目星も立っていないしな。もしも、警察という領分を越えたところで、俺に何かを期待しているならそれは間違いってもんだ。ヒーローならぱぱっと犯人をとっ捕まえて事件を解決出来るのかもしれないが、俺は一介の老人だぜ? ただでさえ警察内で冷遇されていて、一刑事としたって他の刑事より出来る事は少ない。出来る事なんて本当にたかが知れてるよ」
 不動が自嘲気味にそう言うと、射命丸は突然表情を変えて笑い出した。不動は目を丸くして射命丸が笑う様を見つめていたが、やがてその意味に気が付いて皮肉げに口の端を吊った。
「ご納得頂けたかい?」
「ええ。やけに自信がお有りの様に見えたので、八意理事長にお話を聞いたり、ショーのチケットを買ったり、どんな考えを持って操作しているのかと考えていたんですが。そうですか、何も考えていないんですね?」
 射命丸の言う事は全く間違っていない。今の不動はスカーレット事件を解決する手段を持ち合わせていないし、将来に渡って解決出来るとは思えない。今の派手な被害が次第に下火になってくれる事を祈るばかりだ。ショーで何かが起こると予想したって、その対策は持ちえていない。自分が現場に居て、何かしら役に立てないかと思い悩んでいる程度の浅はかさだ。勿論それを特段表に出そうとは思えないが、自信も方策も無いのに、有ると嘯いても仕方が無い。
「その通りだよ」
「それなら問題ありません」
「問題無い?」
「一体この混迷した事態をどう解決するのかと驚きというより恐怖を抱いていましたが」
「テロに解決なんて無いし止まりもしない。小康状態になる事はあっても、無くなりはしない。大事件の前後に騒ぎが起こって、しばらくしたら小康状態になる。それの繰り返し。一つ組織を潰しても、また新しい奴等が出て来て、騒ぎが起こる」
「その通りです。妖怪の世界も同じですよ。今回にしたって、ついこの間、吸血鬼が暴れ回ったってのに、また吸血鬼が来るなんて」
 不動の目が吊り上がった。
「また吸血鬼? どういう事だ? 以前にも吸血鬼が出たのか?」
 その質問に射命丸が笑みを見せる。不動にはその笑みが「待っていました」と言っている様に見えた。
「ええ。言ってませんでしたっけ? 以前にも吸血鬼騒動があったんですよ。その時には人間の方への被害は殆ど無くて、妖怪の間での騒乱でしたけど。いや、あれは酷かったですね。次から次へと感染して、本当に被害を抑えるのに手一杯で」
「その吸血鬼がレミリア・スカーレットなのか。以前にも日本に来た事があるんだな?」
「いいえ、違います。もっと老獪で、陰湿ですよ。顔を見せずに次次」
 あくまで吸血鬼は一種族であるのだから、レミリア以外にも吸血鬼は居るだろうし、それが騒ぎを起こしていてもおかしくはない。だが不動には、射命丸の口振りが何となく、殊更過去の吸血鬼事件をあげつらおうとしている様に聞こえた。何故このタイミングでそんな話を出してきたのか。単なる吸血鬼という繋がり以上の繋がりがある様に思えた。
「レミリア・スカーレットの親族や知り合いか?」
「いえ、違うと思いますけど」
 何か煮え切らない。
 曖昧な言葉に不動は苛苛とする。その苛立ちにはスカーレット事件の解決が程遠いという八つ当たりも含まれている。
「思うじゃまずいでしょう? 違うかどうかの事実を聞いてんだから。顔立ちで身内かどうかの想像は付くだろ。来歴や交友関係を洗えば親しい仲なのかも分かるだろ。吸血鬼が種族ってんなら、生息地域は限られるだろ。近い場所に住んでるなら何らかの繋がりがあるだろ」
「顔は、見てないので何とも。交友関係も、紫さんはそんな事言ってませんし。繋がりがあったら絶対に警告がある筈です」
「誰だ。その紫って」
「この町の妖怪のボスみたいなものです。厳密には違いますけど、調停者と言えば良いのでしょうか」
「何でそいつが何も言わなかったら、関係ねぇって事になんだ? おかしいだろうが、射命丸」
「紫さんを疑うって訳ですか? ならあり得ません。彼女は妖怪の秩序を守る存在です。それこそ、千年以上の昔から。それが妖怪の不利益になる様な事をするなんて」
 射命丸の言い分は到底承服出来無い。その誰だか分からない人物が違うと言っているから違うなんて通る訳が無い。
「前回の騒ぎってのはいつ起こった? 具体的にどんなのだ? 吸血鬼がやってきて、次次噛んで仲間にしてったのかい? で、噛まれた奴が自殺してくのか?」
「自殺はしていません。ただ無性に人の血を見たくなって、人を襲おうとしだしたんです。人間に比べれば耐性がありますから、すぐに発狂して襲い掛かるという事はありませんでしたが、我慢の限界が来たら、本人がやりたくなくても人間を襲おうとする。丁度人間が麻薬をやった様なものでしょうか。次第に理性を失って」
「人の血を見たくなるんだな?」
「ええ」
「嬉嬉として?」
「完全に狂ってしまえば」
「なら今回と同じだな」
「え?」
 射命丸は驚いてそれを訂正した。
「同族は殺していませんよ?」
「人間の血を見ようとしたんだろ? 一緒だ」
「まあ」
「同じだ」
「それは吸血鬼の眷属にされた症状だから同じでしょう?」
「吸血鬼だから一緒だと考えるのは早計だ」
「そうですか?」
「病院であんた等が言ってただろ。今回の事件の症状は普通の吸血鬼と違うって」
「ああ、そうですね。でも違いますよ。それは若さというだけでターゲットを選んでいたり、自殺したり、噛まれた後に元に戻ったりするからであって、以前には当て嵌まりません」
「前回は、無差別だったし、自殺はしないし、元には戻らなかったって事か?」
「無差別ではありましたね。法則性みたいなものは見られませんでした。自殺はしてません。人間を襲おうとしただけで。元には戻りました。ええ、しばらくすると落ち着いて、普通の妖怪に戻りました」
「無差別ってのは、例えば道を歩いていたらいきなり襲われんのかい? それとも人気の無い所に居たら襲われんのかい?」
「それは、分からないですけど」
「分からない?」
 苛立った様な不動の口振りに、射命丸もうんざりした口調で返す。
「ああもう、どこでどうやって襲われたのか分からないんです。今回もそうでしょ? いつどこでスカーレットの中毒になってるか分からない」
「誰もか? 襲われた奴も、どうやって襲われたのか分からないって言ったのか?」
「そうです。誰もはっきりとは分からなかった」
 射命丸の肯定を受けて、不動は乱暴に頭を掻いた。
「そんなんじゃ何の手掛かりも無いだろ。どうやって解決したんだ? いや出来たのか?」
「解決はしました。さっき言った紫さん達が捕まえたんです」
「どうやって?」
 状況は今のスカーレット事件と同じだ。その時の対策を聞ければ、今の対策にもなるかもしれないと不動は期待する。だが射命丸の答えは不動の期待に応えなかった。
「分かりません。紫さんは度を越えた力を持っていますから」
 全く要領を得ない。
 とにかくさっきから紫というのが出てきては曖昧にされる。まるで信仰における神の様に、問題に行き詰まったら神の名で無理矢理解決されてしまう。
「その捕獲する現場を見た奴は?」
「上の方の人は見たかもしれませんけど」
「あんた聞屋なんだろ? 調べなかったんかい」
「調べましたよ。でも誰も」
「さっき吸血鬼の顔も分からないって言ったよな? じゃあ聞き込みした限り、だれもそいつの顔を見てないって事か?」
「そうです」
 渋渋と言った顔で射命丸は端末を取り出し、過去の取材記録を確認する。
「藪蛇になったなぁ。仰る通り、以前の吸血鬼事件は怪しいですよ。もっと言やぁ、私が調査した時には誰からもまともな証言を得られなかったのに、しばらくしたら降って湧いた様に、事件の情報が集まり出しました。あまりにも綺麗にね。人間はどうか知りませんけど、妖怪の記憶は曖昧なんです。刹那的だから昔の事をあまり覚えていない。一週間すれば、同じ現場を見ていても証言が食い違う部分があったりします」
「人間も一緒だよ」
「それなのに、その降って湧いた証言には、齟齬が全く無かったんです。台本を読んでいるみたいにみんな一辺倒の答え。明らかに作為的な証言だった」
「そんなんじゃ誰も納得しないだろ。何にも分からないのと一緒だ」
「いいえ。これは妖怪の問題ですから。恐らく妖怪の上の方で色色とやり取りがあったのでしょう。上が決めたのだから、妖怪達はそれで納得している。妖怪の立場は吸血鬼の事件であると断定した。だから吸血鬼の仕業なんです」
「おかしいと思わなかったのかい」
「だから上がそう決めたみたいなんだから、下っ端の私が何言ってもしょうがないんです」
「ずれてんなぁ。そうじゃねえよ。その昔の事件単体の事を言ってんじゃなくてな。今回の事件と過去の事件に類似点がある事に何も思う所は無いのかい」
「ありえません」
 不動の言葉に射命丸がきっぱりと答える。
「何故?」
「妖怪の上層部は事を荒立てる事を好まない。落ち着く所に落ち着ける為に事件の情報を操作する事はあっても、火種を生んでそれを煽る様な事はしない」
「あんた、洗脳でもされてんのか?」
「何て事を」
 食ってかかろうとする射命丸を、不動は手で払った。
「その紫やら何やらが悪い事をする訳無いって考えが先に立ってんじゃ、話にならねえな。しか今の事件にも関わっていてそれに理由があるに違いないって考えるんじゃなくて、今の事件に関わっている訳が無いって考えているところが、本当に救い様が無え」
「なら今回の事件に私達側の妖怪が関わっているって言うんですか?」
「そうだって断言はしねえよ。ただその可能性は否定しきれんだろ。人間業じゃねえ事が多すぎる」
「根拠も無いのに」
「言おうが言うまいが関係無えよ。それは事実が決める事だ」
 ふと射命丸の口元が歪むのを、不動は目端で捉えた。それを見て、可能性を更に一つ書き加える。もしかしたらこの射命丸という妖怪は、敢えて人間に妖怪の上層を疑わせようとしているのかもしれない。それは何の為に? 人と妖怪を争わせる為か? それで射命丸はどんな利益を得る? 妖怪というネットワークの簒奪か? その為にこの事件を利用して人間に近付いてきた? だとすれば、この事件は射命丸側が起こしたのか? 射命丸を人間側へ遣わしたのは誰だ?
 一頻り答えの出ない疑問を思い浮かべてから、不動はその疑念を胸の内にしまい込んだ。
「妖怪って言やぁ、そもそもレミリアが疑わしい。日本に移住するって噂だが、それは何故だ?」
「両親が亡くなったそうですよ。だから縁を頼って紫さんにお願いに。レミリアのご両親が紫さんを後見人として指名していた様です」
「そんな困窮してんのか? モデルもしていて経済的に余裕がある筈だ。それに世界を飛び回ってショーやってんだろ? そういう意味じゃ拠点は何処だって良い訳だ。わざわざ生まれ故郷を離れて日本に移住するってのは少しおかしいじゃねえか」
「そう意味では、日本に来る事だっておかしくはないと思いますけどね。まあ確かに、レミリアの故郷での評判は悪くありません。妖怪である事を周囲に知られておりながら、良好な関係を築いていた様です。経済状況も家を存続させるには十分で、敢えて日本に来る理由は、やはり紫さんという後見人が居たからに他ならないと思います」
「紫と両親はどういう関係だったんだ?」
「私は存じ上げません」
「両親が亡くなったってのはどんな状況だ? まさかその紫が殺したんじゃ」
 どうも先程から、その紫というのが怪しい。あまりにも怪しすぎる。
「まさか。だったらレミリアの方が可能性は高いですよ。両親を恨んでいたそうですから」
「恨んでいた? 反抗期か?」
「反抗期で殺しはしないでしょ。以前屋敷に使えていた妖精に聞いた話です。レミリアには妹が居るそうですが、両親に幽閉されていたらしいんです。それをレミリアは恨んでいて、いつか両親を殺して妹を救い出すと周囲の者に漏らしていたみたいです」
「死因は何なんだ?」
「分かりません」
「その従者に聞かなかったのか?」
「亡くなるよりも前に辞めた者でしたので」
「亡くなった後に辞めた従者は? 例えばレミリアが両親を殺したのだとしたら、いや、そうでなくとも、家じゃなくて、その両親に仕えていたって意識の従者も居ただろう。当主が死んだから辞めるってのも居るんじゃねえか?」
「探したんですが、辞めた者は居ませんでしたね。全員レミリアについていっています」
「それは少し」
「ただ仕えているのは大半が妖精。妖精というのは、不動さんはご存知無いのでしょうが、究極の刹那主義者達です。忠誠心なんてありません。衣食住を与えられるのなら、親の仇にだって喜んで尽くす奴等ですよ。例外もありますがね」
「栄辱も礼節も知らんという訳かい」
「そうです。だから当主が死んだから辞めるなんて考えないと思いますよ」
「じゃあさっき話を聞いた元使用人ってのは何で屋敷を出たんだ?」
「壺を割って怖くなって逃げたみたいです」
「そうかい」
 段段と妖怪側の事情が見えてきた。いや見せられていると言った方が良いだろう。あくまで射命丸が伝えたい内容でしか無いのだから、完全に信用する事は出来無い。だが漠然と妖怪という一括りの岩でしかなかったものが、次第に表面の細部や継ぎ目が見える様になってきた。
 この事件に関わっているのは人間と妖怪という大きな二つの枠組ではなく、もっと細かな幾つもの勢力が関わりあっており、しかもお互いの利害は食い違っている。当たり前の事だが、今まではその当たり前の事が見えない程、漠然としていた。だから訳の分からない薬物を調べようなんて不毛な事をしていた。大事なのは何が使われているかではなく、誰が何をしているかだ。スカーレット事件について言えば、どの勢力がスカーレットという薬物を使って何をしようとしているのかを調べれば良い。それだって難しい事だが、妖怪がどうの未知の薬物がどうのという雲を掴む様な話よりもよっぽど地に足が着いている。
「不動さん、もう話は終わったんですか?」
 沈思していた不動に、道梨が冷たい口調でそう尋ねてきた。
 車を降りた状態から、随分と長く立ち話をしてしまった。道梨が不機嫌なのは、恐らく道梨は話に着いてこれなかったのだろう。今まで不動と射命丸が話していた事に興味を示した様子が無い。あまりにも突飛な話だったから仕方が無いと、不動は道梨を責めずに歩き出す。
「失礼。行きましょうか」
「早くしましょう。俺達が下らない事をしている間にも被害が広がるんすから」
 やけに遠慮の無い言葉に不動は面食らった。
 咎める気持ちよりも前に、やる気のある発言だと感心を覚える。
 昨日の事件で思う事があったのかもしれない。
 やる気が出てくれたのであれば、不動として言う事は無い。
「ええ、話は通っています。職員室へ直接来る様に言われたので、まずは職員室へ」
 道梨は返事をせずに不動の前を歩き出した。
 ちょっと性急すぎやしないかと訝ったが、その思いは端末が鳴った事で中断された。先程正門前で出会った刑事からだった。
「さっきのだ。道梨君、ちょっと待っていて下さい」
「先に行ってます」
 止めようとしたが、行っています。居場所は分かっているから良いかと、不動は立ち止まって、刑事からの連絡に耳を傾けた。
 先へ進んだ道梨は、振り返りもせずに、職員室へと向かう。間取りは分からないが、一階の校庭を見える側にあるだろうと、廊下を歩いていると程無くして見つかった。扉の前に経ってから、職員室と書かれたプレートを確認し、ノックをする。中から女性の声がして、扉が開いた。職員室の中には、教師と思しき数人が屯していた。
 扉を開けた女性が、道梨を見上げて笑みを見せる。
「えっと、刑事さんかしら? 随分若いのね」
「はい、道梨優です」
 道梨が手帳を見せると、何故か歓声が上がる。
「へえ、本当に刑事さんかぁ。ドラマみたいだなぁ」
「あいつも懲りないねぇ」
 目当ての教師の居場所を聞くと、先程怒った様子でぶつぶつと呟きながら歩いていたと言う。不穏当な証言だ。
「いつもそういう様子の方なんですか?」
「いえ。最近はようやくまともに」
「最近?」
「以前淫行疑惑があった時には色色と荒んで」
「それで教師を続けているんですか?」
「まあ疑惑だけでしたし、警察も来てましたけど、証拠が無いとか? 淫行の証拠っていうのもよく分かりませんけど。単なる中傷だっていう校長の執り成しもあって」
「校長に信頼されているんですか?」
「校長はどうせ学校に泥を塗りたくなかっただけですよ。人情なんて持ち合わせてない。おっといけない。校長には内緒にしといて下さいね」
 教師達が笑う。
 校内の何処かに居る事は確かだろう。
「彼が何処に行ったのか心当たりはありますか? 夕方ですしもう授業はやっていないですよね」
「元元春休みで授業はありません。だからみんな結構気ままに外出したりしていて、居場所ははっきり確認してないんですよ」
「春休みなのに皆さん出勤しているんですか?」
「まあ色色と仕事が残っているもので。部活なんかもありますしねぇ」
「昨日あんな事件があったので、一応午後は休みにしていたんですが。午後には警察も引き上げましたし。吹奏楽は再来月の大会に向けて力を入れている時期で。顧問が煩くてどうにも。結局開放してしまいました。外で運動部も頑張っているでしょう?」
「大変ですね」
「ほら、テロやら災害やらで人が減ったから、人口調整で最近は子供を増やしていて。だからどうしても仕事が増えちゃうんですね」
 やんなっちゃうと教師達がまた笑う。
「今日も飛び込みの新入生が来るって。もう試験なんてとっくの昔に終わったのに、今更入れてくれって。入れる校長も校長ですけどね。きっと良いとこのお嬢さんなんだろうなぁ。校長幾ら貰ったんだろ」
「違う違う。確か保護者が有名な学者なんだよ。八意製薬のお抱えだって。どうせ市長選でも見越してパイプ作っとこうってんじゃない?」
「子供をダシに? うわあ」
 放っておくと話が途方も無く道を逸れそうなので道梨は話頭を戻した。
「外には出ていないですよね?」
「え? ああ、あいつ? いやあ、どうでしょう? さっき見た時は一度出掛けて戻ってきたばかりみたいなんでまだ居るとは。鞄あるし、多分居ると思いますけど」
 そう言って皆の視線が一点に向かった。どうやらそこが目当ての教師が使っている机らしく、確かに椅子の上に鞄が置かれている。
「では少し校内を探してみます。構いませんか?」
「ええ、勿論。出来る限り協力する様、校長から言われてますんで。あ、一緒に着いて行った方が良いですか?」
「いえ、一人で探しています」
 対して考えずに道梨は申し出を断った。断った理由を付けようとすれば付けられるが、この時の道梨は単に、自分が事件を解決するんだいうと意気込みが強過ぎて、他人の力を借りようという考えがすっぽり抜けていただけである。
 謝意を告げて、職員室を出る。教師達の談笑が、扉を隔てた途端に小さくなって、静寂が一気にのしかかってきた。もう日の暮れで、廊下は薄暗い。夕闇に染まった廊下の赤黒さが不安を掻き立てる。
 今朝思い出した過去の恐怖が再び襲ってくる。夕暮れの中で青い女が道行く人人を品定めしている。認められた者は何処かへと連れ去られ、二度と帰って来る事は無い。
 今朝に見た光景は何だったのか。何故あの女が再び自分の前に現れたのか。あれは単なる夢なのか。それとも昨日の病院での惨劇を目の当たりにして、狂ってしまった自分の見た幻なのか。現実の事だとは思えない。青い女の顔立ちは二十年前と変わっていなかった。そんな事、あり得ない。
 夕闇に沈んだ廊下を進む。ふと視界の端にあの青い女が現れそうで、物陰から青い女に付き従っていた死体の顔をした少女が現れそうで、背筋を冷たい刃物で切りつけられた様な寒気を覚える。
 大人気無く立ち止まってしまいたかったが、道梨の中の正義感がそれを良しとしなかった。自分は警官であるという自負、人人を守る為の職務だという気概、自分以外の奴等には任せていられないという気負いが、道梨の足を、本人の感情とは無関係に、前へと進ませる。
 乾いた喉で唾を飲み込み、恐怖心を押し殺して歩き続ける道梨が、丁度一階を探し終えて、二階に上がろうとしたその時、凄まじい悲鳴が上の階から聞こえてきた。
 思わず立ち竦み、逃げ出そうとした感情を、必死で叱咤する。ありったけの胆気をかき集めた道梨は、勇気を振り絞って、階段を駆け上がった。
 二階へ駆け上がった時に悲鳴が消える。もう一つ上の階だと見当を付けて、三階へと駆け上がり、廊下を見回すと、奥に尻餅をついている少女を見つけた。
「どうした!」
 少女は怯えた様子で廊下の奥の壁に寄りかかっている。傍の扉が開いている。教室の中で何かあったのか。懐に手を当て、拳銃を持ってきていた自分に感謝しつつ、教室の中へ飛び込んだ。
 中は赤黒かった。
 資料室だろうか。雑多に物が押し込められた狭い部屋の中央に、首の無い死体があった。正確には辛うじて下顎の部分までは残っていたが、それでも口から上を潰された死体は首無し死体と形容して問題無いだろう。潰された顔のあった部分から、放射状に赤黒い染料が飛び散り、部屋を汚している。
 呆気に取られた道梨は、足元に白く滑った何かがへばりついているのを見つけ、それが元元は死体の眼窩に収められていた物だと分かって、飛び退いて転び、悲鳴を上げた。
 首なし死体の有様は尋常じゃない。普通の力で出来る様な事じゃない。こんなのが出来るのはスカーレットの中毒者位だ。
 道梨の背後で物音がした。恐怖で振り返ると先程の少女がこちらを覗き込んでいる。
 スカーレットの中毒者は若い人間ばかり。そうして今、この場には道梨と死体と少女しかいない。思考は今の状況からまっすぐに一つの結論を導き出す。
「まさか君が?」
 そう口にした瞬間、目の前に首無し死体を作った犯人が居るのだとはっきり実感して、恐怖がせり上がってきた。
 恐怖のままに銃を抜いて立ち上がった。
 道梨が銃を抜いた事で少女の顔が劇的に歪む。その恐怖の表情を見て、道梨は自分が何をしているのかに気が付いた。
「違う」
 銃を取り落としたのも気にせず道梨は少女へ弁明する。
「俺警察。怖くない。大丈夫」
 必死で少女を安心させようとするが、武器を取り出した男に何を言われたって安心出来る訳が無いだろう。それでも道梨は笑顔を見せようと顔を歪め、自分自身を落ち着けようと深呼吸しながら、銃を拾い上げた。恐怖は未だに強い。いつ襲ってくるか分からない少女が恐ろしく、思わず銃口を向けそうになる。それを必死でこらえる。少女に銃を向ければ、昨日の不動と同じ最低な人間に成り下がる。焦っている自分に気が付いて、必死で落ち着けようと心に念じる。
「大丈夫、安心して」
 再度深呼吸をしてから、少女へ近付く。意図して銃口は下に向け、当然引き金に指も掛けない。撃たないという意思表示をして近付くが少女は怯えている。思わず同情して、見逃したくなるが、やらなきゃいけない。人が死んでいる以上、刑事である自分の職務を行わなければならない。
 ここで何があったのか、目の前の少女がその犯人なのかを確かめなければならない。
「で、聞くけど。これは君がやったの?」
 そう言って指差した死体のあまりの惨たらしさに、道梨の内に再び恐怖がせり上がってきた。
 自分が今、恐ろしい殺人鬼を前にしているのかもしれないと改めて確認し、恐怖のあまり手が震えているのが自分でも分かる。
「私じゃない!」
 いきなり少女に叫ばれて、道梨は恐怖に身を引いた。
 何を切っ掛けに爆発して、殺されてしまうか分からない。
 手には銃があるものの、それが効かないかもしれない事は知っている。全く安心が出来無い。
 とにかく少女を安心させなければ捕らえるどころか、命すら危ない。
「分かってる。分かってるから、落ち着いて。まず話を」
 落ち着いてくれる様に宥めながら、油断無く銃を握りしめて近付いて行く。もしも隙を見せたら何とか拘束する為に、あるいは襲われたらすぐに逃げられる様に、身を沈めながら少しずつ近付いて行く。
 突然少女が立ち上がった。動かれた事によって、危機感が最大限まで跳ね上がる。
「待て!」
 逃げるなの意味か、寄るなの意味か、叫んでいる道梨自身分からなかった。恐れと責務が自分の中をどろどろと溶かし、焦がしていく。捕まえなければいけない。だけど怖い。逃げたい。けど今ここで警察である自分がやらなければ酷い事になるかもしれない。感情と感情がせめぎ合い、自分という器を飛び出して、単純な反応が剥き出しになる。
 その反応は、あっさりと道梨の決意を踏み越えた。
「動くなよ!」
 気が付くと、道梨は銃口を少女へ向けていた。
 向けたのは僅かの間で、慌てて銃を下ろしたが、反応は劇的だった。少女は恐怖を炸裂させて、悲鳴を上げながら逃げ出した。一方道梨は逃げ出した少女を追いもせずに、自分の握る銃を見つめ、そして自分のやった事を理解して叫び声をあげた。
「違う! 今のは違う!」
 たった今、自分は少女に銃口を向けた。
「こんな事しようとしない!」
 幾ら叫んでも事実は変わらない。
 つい今しがた、怯える少女に銃口を向け、一つ間違えば撃ち殺していた。
「こんな事、俺」
 少女に弁解しようと部屋を飛び出した瞬間、部屋に入ろうとした不動にぶつかった。
「どうした!」
 倒れそうになったところ、不動に胸倉を掴まれる。
 口を開く。
 ここであった事を説明しようとしたが、意思に反して先程から繰り返すのと同じ言葉しか出てこない。
「違う。こんなの違う。俺はこんな事しようとしてないんです」
 不動は部屋の中の惨状に気が付き、道梨の胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「何だその言い草は! お前がやったのか!」
「違います! やってない! 俺はやってない!」
「んなこた分かってんだよ! 何があったのかって聞いてんだ!」
「やってない! 俺は違う! こんなの」
 不動は要領を得ない道梨を部屋から引きずり出して殴りつけたが、道梨は涙を流しながら違う違うと呻くだけで役に立ちそうにない。
 道梨を正気に戻している暇も無いので、部屋の中を一通り眺めてから、応援を呼んだ。正門前で出会った刑事がまず始めにやってきて、後から続続と応援がやってきた。被害者の死に方が似通っている事から、正門前で出会った刑事が中心となって現場の検証や逃げた少女の追跡が行われた。
 結果その日の内に判明した点は三つ。一つ目は死体がその小学校の教員の一人であった事。不動達が詰問する予定だった教師と親しく、同じ様にレミリアの大ファンだった。二つ目は不動達が詰問する予定だった教師の死体も見つかった事。死体はプールの傍の草薮の中に隠されており、死後一ヶ月以上経っていた。三つ目に、現場から逃げた少女の身元が判明した。宇佐見蓮子という名前で、他県から最近移ってきた少女だという。保護者は書類上、八意永琳となっており、緊急に開かれた捜査会議では、八意永琳をすぐさま訪問して事情を聞くべきだとの意見が多数を占めたが、上からの意向で、善後策を講じてからしかるべき対応をする事になった。
 一つ目はそれ以上の事は無く、三つ目もあくまで上の思惑が露骨に嫌悪を呼ぶだけで事件とは別の問題であるが、二つ目だけは明らかな矛盾点がある。不動達が訪問する予定だった教師は一ヶ月前に死んでいたと検死結果から判明したが、それから死体が見つかるまでの間に当該教師は普通に暮らしており、しかも事件後の夕方に偶然捜査員の一人がその教師を駅で見かけた。教師は人混みに紛れてしまい、追いかけても捕まえる事は叶わなかったが、監視カメラにははっきりと死亡している筈の教師の姿が映っており、明らかに矛盾が生じている。
 昨日の病院での出来事もそうだが、死人が生きているかの様に振る舞う出来事が続いている。スカーレットによって死亡しながらもまるで生きているかの様に動いているのだと意見する刑事も居たが、致命傷を受けても一時的に生き永らえる事の出来るスカーレットでも、流石に死体を動かしたという事例は未だ無く、効力が切れて死んだ者の死亡推定時刻はほぼ効力が無くなった時間と一致、つまり動かなくなった時が死亡推定時刻として割り出されているという事実がある。また薬の効力も持続時間は数分であり、一ヶ月以上死体が動いていたという説明にスカーレットを持ち出す事は、それまでの事例からすると不適当になる。勿論未知の薬物故に、可能性は零で無いが、懐疑的な意見が多い。
 いずれにせよ、分からない事だらけのまま、事件は続く。不動が危険視するレミリア・スカーレットのファッションショーも刻一刻と近付いている。
 不動は、深夜になっても続きながらまるで進展しない会議に辟易しつつ、真剣に死体を操れる存在について考えていた。
 道梨が見たという死体を盗みだした芳香という少女。聞き覚えがあると思っていたが、ある筈だ。それは道梨の良く知る妖夢がつい先日失った親友の名だった。
 今日の小学校での事件の指揮が他人に移り、邪魔者扱いで追い出されてから、夜分遅くに無理言って芳香の家を尋ねたところ、死体が盗まれていた事が確認出来た。
 昨日の病院での事もあり、不動は死体を操る何者かが居る事を確信している。まともな考えでは無いから、会議の席でその可能性について論じる事は無いが、射命丸に死体を操る妖怪の存在を調べてもらっている。
 この事件を捜査するには、妖怪の視点が必要だ。妖怪の事を周知出来れば良いが、人間と妖怪、双方の社会に混乱を煽るからと、妖怪の存在を他者に漏らす事は禁止されており、この捜査会議でも触れる事が出来無い。だから捜査員の中で妖怪の視点を持っているのは不動と道梨のみになる。だから、殆ど唯一妖怪の視点を持った自分が、解決に最も近い場所に居るという不動の考えは変わっていない。射命丸と論じ合った時には、解決は不可能だなんだと言葉の上で言った。それはある意味での本心であったが、気概としてはやはり自分でこの事件を解決してやりたいと思っている。それは、桜の下で妖夢が泣いている姿を見てから持ち続け、病院で少女を撃ち、脅してから増増強くなった。
 一刻も早くこの事件を解決しなければならない。
 両手の拳を握り締めながら、不動は無為な会議を聞き流しつつ、これからの事について考えを巡らせ続けた。

 笑顔。
 それに憧れていた筈だ。
 自分が迷子になった時に助けてくれたあの優しい笑顔。それと同じ様に、子供達を、人人を恐怖や寂しさから救いたいと思っていた。
 だけどおかしい。
 だけど食い違っている。
 だけど噛み合わない。
 道梨は学校で首無し死体を発見した後ずっと正気に戻らなかった為、自宅へと返され、今は洗面台の前でじっと立ち尽くしていた。
 人を救う為に警官になった筈だ。
 憧れていた存在になろうと頑張ってきた筈だ。
 それが今日は何をした。
 自分の命惜しさに、怯える少女に銃口を向けた。
 それが自分の理想だったのか。
 目指した姿だったのか。
 そんな事を望んでは居なかった。
 そんな血腥い役割を望んでなんかいなかった。
 己自身への怨嗟と共に、何度行ったのか分からない嘔吐を再度繰り返す。もう口からは胃液と唾液しか漏れてこない。
 そんな事をしたかったんじゃなかったのに。
 あの夕暮れの中で自分を救ってくれた刑事の様になりたかったのに。
 涙と涎を水で洗い、顔を上げると、鏡には青白い顔が映っていた。一瞬自分の顔だとは思えず、そして自分の顔だと気が付いた瞬間に愕然とした。
 今、鏡に映っているのは紛う事無く、死体のそれだ。今朝、青い女に見つめられた者は連れ去られて死体の顔になると妄想したが、まさしくそれだ。
 自分は青い女に見つめられた。
 だから気がつかない内に、消し去られ、今朝に見た女の子と同じ様にされたのだ。
 だからこんな死体の顔をしている。
 だからあんな少女に銃を向けるなんて事をした。
 人の感情なんて感じられないこんな死人の顔をしているんだから、何をしたっておかしくない。
 こんな顔になったのだから、もうあの警官の様な笑顔を浮かべる事は出来無いだろう。
 気が付くと、道梨は笑っていた。
 ある意味でそれは喜びの笑いだ。
 今までずっと憧れていた警官の笑顔。それが実のところでは、道梨を縛り付け、あの警官の様にになろうと自分自身で敷いたレールの上を無理矢理歩かされていた。それから開放されたのだ。最早死人となった自分にあんな素敵な笑顔を浮かべる事は出来無い。たった今、道梨の重荷となっていた憧れが落ちた。
 心が軽くなった。
 だから笑う。
 そして言うまでもなく、これは悲しみの笑いだ。
 最早取り返しはつかない。少女に銃を向けた今日の経験はいつまでも纏わり付いて、責め苛んでくるだろう。幼い頃から人生の指標としてきた、ある意味自分の全てを今日裏切ったのだ。例え誰に許されようと永遠の呵責となる予感があった。
 これか何をしようと、一生付いて回る。幸せを感じればその度に今日の光景が思い出される。そんな予感があった。
 最早二度とまともに笑う事は出来無い。
 だから笑う。
 笑っていると、突然何処かからガラスの割れる音がした。間違い無く自分の部屋から鳴った音だ。
 道梨が驚いて洗面所から飛び出すと、廊下でピエロと出くわした。
 道梨はそれを特別不思議とも思わない。
 窓ガラスが割れた。ならば異常者が闖入してくる事に何ら不思議は無い。
 夢の中では往往にしてあり得る事だ。
 きっとこれは今朝からずっと見続けている夢の一つなのだろう。昨日の病院での事件でピエロの話を聞いたから、夢に出てきたのだ。青い女も同じ。ずっと夢を見続けていた。今日の事は全て。
 ピエロは道梨に笑顔をくれる。
 メイクで無理矢理作られた笑顔を見ながら、道梨は、ピエロの笑顔はその下の本当の表情を隠す為なのだという話を思い出した。ならばそれはとても良いと思えた。少女を撃とうとした事で自分はもう本当の笑顔を浮かべる事は出来無い。ならそこにピエロを被るのはとても良い。
 正直者に憧れる繊細な誇大妄想の夢想家に、それはとても相応しい末路だと思えた。
 ピエロに憧れる道梨へ、ピエロは手を差し伸べてきた。
 道梨は夢心地のまま深く考えもせず、差し伸べられたそれを手に取った。



続く
~其は赤にして赤編 14(秘封3)
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コメント



0.150簡易評価
6.70名前が無い程度の能力削除
関係するキャラが増えてきましたね。
これで風呂敷がきれいにたたまれたならすごいのですが……どうなるか。
次を待ってます。
7.100名前が無い程度の能力削除
いつも本当に面白い