Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十話

2013/10/03 22:14:06
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『伊那騒動・五』




「この愚か者め。……先鋒が攻め入るのは、わが下知を待ってからにせよと申したはずであろうが」
「も、申しわけございませぬッ!」

 敗戦の報せを受ける八坂神奈子は、無表情な顔のなかに静かな怒りを湛えていた。
 辰野勢が籠る城砦となお対陣続く、諏訪勢の本陣のなかでのことだ。
 
 床几(しょうぎ)に腰を下ろす神奈子の、ちょうど真向かいには伊那赤須の豪族ジクイがひざまずき、額の肉を土で削らんばかりに深々と土下座を見せていた。土下座とはいっても、片足を思いきり投げ出した彼の格好は、このいくさの総大将に対して不遜といえば不遜である。とはいえ、傷が痛んで尋常の格好が取れないとなれば止むを得ない。戦闘中に敵の矢で片足を射られたせいだと聞いているので、神奈子もあえてその辺の事情を咎めはしなかった。

 ジクイはすでに応急の手当てを終え、傷には“にかわ”を縫って白布を巻いてある。履き物を脱いで、傷を負った片方の足だけ裸足を晒して八坂神にひざまずくその姿は、敗戦の将の情けなさを一身に背負い、あわれであった。

「此度(こたび)、ジクイ、そなたの抜け駆けで、」

 背筋をぴんと伸ばしたまま、神奈子が改めて問う。
 かたわらには神奈子靡下(きか)の将たち、それに下諏訪勢五百を率いる洩矢諏訪子の姿が在った。彼らの姿を目端にとらえながら、神奈子の言葉はゆっくりと間延びする。諸方から召集された豪族たちは、未だ姿を見せていない。各々、自陣に留まっている。

「何人の兵が死んだ?」
「は。し、死傷者の数は……」

 ちらと上目を使うジクイだったが、神奈子の顔まで見上げるほどの勇気はない。将兵がひっきりなしに行き交うせいで、雪と土がかき混ぜられた茶色の地面に、彼は再び眼を落とす。声は、われ知らずすっかりと絞られたそれである。

「に、二百は下らぬ損害かと……」

 びくびくと、怯え気味に発されたジクイの返答にも、しかし軍神は色のない表情(かお)を決して崩すことをしなかった。ただ静かに腕組みをすると、その甲冑を構成する金属(かね)の擦れ音だけをかすかに響かせながら、大きな溜め息をひとつ、ついた。

「二度目だ」

 ややあって彼女が呟く。
 ジクイには、何のことか解らない。「二度目に、ございまするか?」と、神奈子への畏れを一寸は忘れて、思わず顔を上げ訊き返す。

「小城に籠ったたかだか四百の兵に、こちらはより多くの軍勢で立ち向かいながら二度も敗れた。一度目はわが将たる安和麻呂と嶋発のとき。二度目はジクイ、そなたのときだ」

 腕組みを解き、軍神は両の拳を、やはり甲冑で覆われた自らの膝に叩きつけた。籠手と札(さね)がぶつかる音には、何かしら不穏な感情が読み取れてしまう。彼女を取り巻く諏訪子ら諸将も、いつか眉根に皺を寄せた。さほど強い力で膝を叩いたわけでないとはいえ、あからさまなる不快の表明を神奈子はしたのだから。とは申せ、諸将にとっても神奈子の気持ちが解らぬではない。いかに四百の小勢とはいえ、ユグル率いる辰野勢を打ち破れるか否かが諏訪王権の南科野統治に絡んでくる。だからこそ、『たかが十四歳の少年が率いる』『たかが四百の軍勢に』『あろうことか二度もの敗北を喫する』は、恥の上塗り以外の何ものでもない。

 洩矢諏訪子にとってもまた、三千六百の大軍を背景にして万全に組み上げていたはずの攻め手が、一個の将の独断専行によって崩れ去るのは致命的であろうと解っている。ちらと友人に横目を遣れば、凛々と発されるいくさ神の闘気はジクイへの怒気へ、次第に置き換わっている気がするのである。異変ありとして将兵がざわつく早朝の諸陣の中心にて、神奈子が耳にした最初の報告が、『南科野勢六百が独断で朝駆けの奇襲を行うも失敗、死傷者多数につき退却』というものだった以上は。

 ともかく神奈子という軍神の尊大さは、これ以上の敗戦を決して許しはすまい。

 そのことは、この場の誰もが解っている。
 解っているからこそ、一度目の敗戦のときのように怒り狂ったりせず、ただ静かに憤っている神奈子のことを、諏訪子も将たちもひたすらに畏れていた。

「辺りに伏兵の有無を確かめ、不穏な動きあらば逐次潰す。それを怠ったがための此度の敗戦ぞ」
「返す言葉も、ございませぬ。――」

 ジクイからの言いわけはない。
 敗戦の責が自分の驕り、慢心にあるとはさすがに気づいているに違いなかった。かすかな冬風がばさばさと本陣の陣幕を揺らし、負傷した兵たちの苦しげなうめき声をも運んでくる。それを聞くだにジクイの顔は青ざめていく。無表情だった神奈子もまた、ぎりと奥歯を軋る気配くらいはさせていた。

「いかなる処断をも、受け容れる覚悟にございまする」

 ジクイの声は、あくまで小さい。
 処断――つまりは敗戦の責を負っての処刑。それもまた辞さずと言いたいのだ。
 抜け駆けをして敵中に身を投ずるほどの彼とても、責を負っての処刑はいくさとはまた別種の恐怖を感ずるものであるらしい。肩が震えていたのは寒さのためばかりではないはずだ。自らの身を責め苛む何ものかから逃れたいように、彼は投げ出していた片足をこころなしか引っ込めた。裸足が冷たい地面を踏んで、霜焼けにかすか赤らんでいるのもまた、敗軍の将のかなしみか。

 しかし一方の神奈子は、やはり直ぐに答えなかった。
 床几から立ち上がり、しばし陣中をうろうろと歩き回る。“行路”は、まるでジクイを取り巻いて円を描くみたいだった。やがて床几がある元の位置まで戻って来ると、

「いまジクイを殺すは易きこと。なれど、そなたを殺せば南科野勢を指揮する者が居らなくなる。ましていくさ終わりしとき、南科野をかたちづくる“力の図”とでも申すものの一角が崩れ去ろう」

 ジクイが、再びぱッと顔を上げた。
 両の目蓋が見開かれ、口元は震えつり上がっている。喜びの顔であった。片方の頬に走る傷も、それに伴って引っつり歪む。殺さぬという事実上の赦免を受けて、喜ばぬ方がおかしい。

「しかし」

 ところが、神奈子が続けて呟いた。
 ついさっきまでの歓喜を遮られ、ジクイは「は、……」と息を漏らす。

 彼のそんな応え(いらえ)ともつかぬ応えは、一顧だにされなかった。
 もはや再びこの赤須勢筆頭の面構えを目の端に納めることもない。神奈子は、自らが腰に佩く蕨手刀(わらびてとう)の柄に手を伸ばした。そして、すらりと刃を抜き放ったのである。曇り空から差し込むくすんだ金色の日が、刀身に反射してジクイの眼を刺す。幾度も輝きを吟味するかのごとく、つるぎに眼を走らす神奈子。それから「しかしな、ジクイ」と、念押しがごとく再び口に出した。

「この刃こそが、わが真実(まこと)の心と知れ!」

 ジクイの真ん前に剣が突き立ったのは、神奈子がその叫びを発した直後のことであった。

 ザクリという音とともに細かな雪の粒が中空に低く舞い上がり、ジクイの膝を点々と濡らす。その瞬間、彼は「ひッ――!」と悲鳴を上げ、傷を負った片足を引きずりながら、“いざる”かのように後ずさる。怖気にまみれたその眼は、自身に向けて投じられた蕨手刀へと向けられている。びんびんと、薄く鍛えられた鉄の刃が未だ神奈子の膂力(りょりょく)を宿したまま震えている。彼女の手から投げ放たれ地面に突き刺さったつるぎこそ、軍神の本意なるものに違いなかった。あと少しその狙いが鋭ければ、蕨手刀は本当にジクイ自身に向けて投げつけられ、彼の顔はざッくりと切り裂かれていたことだろう。

 うち続く恐怖から悲鳴を断続させ、肩を震わすジクイ。
 その目前にて地面に突き立つ蕨手刀を引っこ抜くと、神奈子は叱責を新たにする。

「わが命令を無視して下知を待たず! 軍規を乱して抜け駆けをし! みすみす敵中に味方の軍勢を陥れ! 無謀な攻めの果てに数多の兵を死なせた! これほどの暴挙が意味するところ、本来であれば死罪でなくて何なのだ!」

 もはや神奈子は、軍神としての威厳のうちに自身の怒りを隠すことをしなかった。
 剣尖に残る雪や土の欠片を払いもせず、その切っ先をジクイの首筋に沿わす。歯の根を打ち鳴らす彼の眼には、涙さえ流れてこない。

「相手が南科野の重鎮たるジクイでなくば、直ぐさまその素ッ首を断ち落とし、ユグルの城へ向けて投げ入れておるところだ! 自らの生まれと立場によくよく感謝し、死んだ兵らのことを悔いておれ!」

 言うと神奈子は刀を裏返し、その刃のついていない峰の方でジクイの首を叩いた。
 自身の意を伝えるための、あくまで軽い『脅し』の力だ。しかしジクイにとっては幾層倍もの激痛であるかのように感じられていたに違いない。重々しく沈痛なものが、じわりじわりと彼の顔に広がっていく。やはり痛む足を投げ出したまま何も言うことなく、もういちど神奈子へ土下座を見せる。謝罪か、それとも処刑だけは免れたことへの感謝か。いずれにせよ神奈子ももう、これ以上はジクイを追及することは避けたがっているらしい。今は早急に山上の城を落とさねばならぬというとき。敗将の責任を云々している場合ではまったくない。

 刀を振って切っ先に付着した雪と土を払うと、刃を鞘に納める神奈子。
 そして他には脇目もくれず、陣幕を除けて本陣から出ていく構えを見せた。
 一部始終を呆然と見守ることしかできなかった諏訪子ら本陣の将たちも、どうやら正気を取り戻す。ひとりが「八坂さま」と、軍神の背に声を掛けるのだった。

「どちらへ行かれるのです!? 敗戦なればまず軍議を行うて、よりいっそう慎重に攻め手を選ばねば……」

 至極当然の意見だ。
 しかし神奈子はその将の方を見もしない。
 ただ、

「頭を冷やしとうなった。少し馬で野を駆けてくるゆえ、軍議は帰ってから行う。諸将を集めておけ」

そう早口に命ずるだけであった。

「では、供回りをお連れくださいませ。何であれば、この諏訪子が」

 諏訪子が前に進み出てそう意見しても、

「誰も要らぬ。我ひとりで良い。今は甚だ気分が悪い!」

 と、吐き棄てるようにいら立ちをあらわにするばかり。
 いつもの彼女なら、まるで考えられもしない荒々しさで本陣を飛びだす神奈子の背中を、諏訪子たちは不安げに見つめることしかできなかった。


――――――


 手綱を握り、馬腹を蹴り、味方の陣を抜け出た神奈子は何の躊躇いもなく、薄雪に包まれた辰野の原を真っ直ぐに駆けた。しばし野を駆けていると、いつの間にかいら立ちも嫌なことも、風化して消え去ってしまうのがよく解る。

 山々はこの原をも含む伊那谷を遠く取り囲み、頂上に積もった白雪が上空の雲の白さと混じり合って、境を持たない霧のようになっている。その霧のように続く冬の様相から、ユグルらが籠る城砦の有り様はまったく切り離されているように見えた。峻厳な冬山の光景にまったくそぐわぬ人造の砦。小高い山の上に建てられたその城が、今はどれほど高く連なる峰々よりも、なお険しく三千六百の軍勢を陥れんと屹立している。

 そう考えると、普通であるなら背筋が寒くなるはずだ。
 冬の寒さに加えて、少数で多数を翻弄する強固な敵勢。
 この事実を呑みこみ、なおかつその者が正気であるならば。

 では、やはりいくさは一種の狂気に違いない。そう確信し、神奈子はにィと唇に笑みを滲ませた。白い息を吐きながら愛馬の体温を感じ、甲冑とつるぎの重さをわがものとする。そうして敵を臨む正面まで、たったひとりで駆けていく。弓矢はない。しかし、だからこそ彼女は心躍った。物見にもならぬこの無謀な道行きが、過剰に血が上った意識を冷たく冷ましてくれるような気がしていた。いくさへの期待と、いくさにおける冷静さは、決して相反するものではない。両立できるものであるからこそ、そこに狂気が生まれるのだ。こちらを圧倒する強さの敵に対し、ただ悦びのもと戦いを遂行しようとする意志が生ずるのだ。

 であるならば、私はやはりいくさ神であるに過ぎぬと、神奈子は皮肉げに笑った。「ふふ」と声さえ出かかった。今日のはひとりの道行きである。元よりこの冬風を除いて他に、自ら声を聞かせるに値する僚友も連れてはおらぬ。しかしその“独りごと”をつぶさに聞き届けたか、神奈子が手綱を握る馬だけは、興味深げに“いななき”を漏らし、どこか哀切ある眼で自分の主を振り返るのだった。

「なるほど。いかなる友とても、今、この神奈子の心をおまえほどには解っておるまい」

 微笑し、神奈子はそのたてがみに優しく触れてやった。
 気持ち良さそうに『彼』はまたいななく。何せ十余年も命を預けて足としてきた馬である。けだものだからといって八坂神と同じ狂気を、知らぬとどうして言えようか。

 二度の敗戦の屈辱も、烈火のごとく燃え立つ怒りも、そう思えばこそ自らの『つるぎ』を研ぐ石となってくれるだろう。もう神奈子の顔に険しいものはなかった。いつものように、尊大さと紙一重の余裕が取り戻されていた。

「次こそはその首、もらい受けに参上する」

 馬上でしばし手綱を離して、弓矢を射る“ふり”をする神奈子。
 彼女は自ら空想せる鏃(やじり)を山上の城砦に向け、ひと息に“放つ”ことをした。弓弦の震える感触もなく、思いのなかでだけ神奈子の矢は、分厚い大気や風の幕をも突き破って、確かにユグルの城砦へ届いたのである。そこにはきっと、鮮やかにして鋭い戦意が宿っているはずであった。


――――――


 味方の陣に戻って馬を下りるなり、諸将の姿も認めぬうちから、神奈子は矢継ぎ早に指示を飛ばした。

「残った兵をもういちどまとめる。各部隊には傷病者の数を調べ上げ、急ぎ報告させるよう伝えよ。同時に将らを本陣に呼び集め、改めて攻め手を探す。それから糧食に余裕があるうち、兵らにはしっかりと腹ごしらえをさせておけ。いざとなったときに腹が減って動けぬでは元も子もない」

 集結していた各陣営の伝令は、神奈子の命令を受けて慌ただしく走り去っていく。
 兵のひとりが持ってきた土器(かわらけ)に口をつけ、白湯(さゆ)を一杯飲み干して喉を潤すと、神奈子は本陣目指して足早に歩き始めた。諸方に新たな指示を与えたうえは、総大将である自分は本陣に身を置かねばなるまい。まずは軍議を練るに、人が集まるのを待つ必要がある。

 しかし、将兵ひしめき陣幕が風を受けてばさばさと鳴る道すがら、彼女はおかしなことに気がついた。何だかいつもに比べて、陣営が妙に騒がしいのである。三千人以上の人に加え、数百の軍馬が集まっているのだから、完全な静粛というのは元から不可能だろう。しかし今の騒がしさは、どう考えても落ち着きを欠いた群衆のそれだった。これから暴動や恐慌が起ころうというのではない。そういう状態でこそなかったものの、何かの疑念を抱えたような眼、眼、眼が兵らのあいだでは互いに取り交わされていた。

 まさか、また何か厄介ごとでも出来(しゅったい)したのではあるまいか。

 緊張のため、髪の生え際がじわりと汗で塗り潰されていくのを自覚しつつ、しかし神奈子は総大将として将兵に余計な不安を背負わせまいと、いつもの尊大な表情(かお)を崩さなかった。すれ違い一礼してくる人々に対し、普段と変わらず鷹揚に、余裕たっぷりといった風に接して歩く。

 だが、そのうち諏訪勢の本陣が近づいてくると、妙な気配はさらに高まっていった。
 将兵たちのただなかに、見覚えのない顔をした者がいる。そればかりか彼らの甲冑や軍装は、諏訪勢のものとして定めた者とは明らかにつくりが異なっていた。そうして彼らがその身で護るかのように取り巻いているのは、十数人の婦女に子供。みな涙の跡を頬に刻み、明日をも知れぬといったように沈鬱な顔だ。

 いよいよ、おかしい。

 思わず小さな溜め息をついてしまった神奈子の元へ、向こうから大男がわしわしと歩み寄ってきた。身の丈七尺、濃い髭で覆われた見慣れた顔つきは、確かに自らの副将たる神薙比(かむなび)の将軍その人である。一軍の副将といううえはそれなりの地位にある立場だが、今の彼は供や護衛をひとりも連れていなかった。ただ、神奈子のことをずっと探していたと見えて、その厳つい顔立ちにも似合わぬほどにこりと朗らかに笑んでいた。安堵の表情である。

 改めて陣中の喧騒を見回しつつ、神奈子は神薙比へ問うた。

「いったい何がどうしたのだ、この騒ぎは。おまけに見覚えのない将や婦女までおる」

 野駆けから帰っていた神奈子へのあいさつも忘れたか、神薙比は『いかにもその問いを待っていた』と言わぬがばかり、勢いづいて答える。

「は! 実は、辰野方からわれら諏訪方に降ってきた将がございまする。あまり突然のことにて、兵らは驚き騒いでおる様子」
「……今、このときにか」

 神奈子の眉間が、深い皺で切り刻まれた。
 はああ、と、思わず溜め息さえ吐いてしまう。
 今になって辰野方から降る者があるなど、おかしいと言えばおかしい話だ。
 出兵前の交渉では、ユグルは使者である諏訪子につるぎを突きつけてまで徹底抗戦を訴えた。おまけに実戦では、自軍に勝る規模の敵勢を相手に、奇策を弄して二度も勝利している。いわば現在の辰野方は、勝ちいくさによって大きく勢いづいているはずだ。常識で考えれば士気もかなり高まっていよう。そのような状態にある陣営の者が、なぜわざわざ二度も泥をつけられた相手に降るというのか?

 とにかく、これだけの話では何も解せぬ。
 神奈子は腕組みをし「降ってきたのは何という者だ」と、神薙比に先を促した。

「はい。辰野の豪族ノオリと申す者だとか。どうやら一族郎党みな率いて下ってきた様子」

 なるほど、これでひとつ合点がいった。
 さっき神奈子が眼にした“見慣れぬ兵や婦女ら”は、きっとそのノオリに率いられてやって来た者たちなのだろう。神奈子はさらに訊ねる。

「辰野のノオリか。そのノオリは、諏訪に降る理由について何と申しておるのか」
「それが、“とにかく八坂さまに御目通りしたい、御目通りしてそのときに話す”との一点張りにございまする」

 なに……と、神奈子は拍子抜けをしたような声を上げる。
 降将となって相手の陣営に抱えられるうえは、信用を得ねば話になるまい。というのに自らの意図を秘して現れる。言うまでもなく怪しい。

「よもや、降将を装ってこの八坂を害するつもりではあるまいな」

 どこか露悪めいた笑みを、神奈子は浮かべた。
 諏訪勢の総大将である八坂と面会し、隙を突いて暗殺すれば、頭目を失った諏訪勢はたちまち瓦解、烏合の衆となって退却せざるを得なくなる。三千六百の軍勢が、しょせんは諸地域から寄せ集めたものにすぎないと理解している者であれば、自らの命を賭して実行するに値する策だ。むろん、神薙比もそのことは重々に承知だったと見える。すぐさま彼は、神奈子の疑問に回答を与えた。

「そう思いまして、われらの手でつるぎも鎧も外させました。衣のうちまで調べさせましたが、元から腰にしていた物の他には、鉄の気ひとつも見出せず」
「ふうん。少なくとも、何らか害意あって面会を望むのではないということか」

 よくよく考えれば降将ノオリが暗殺を企てているとしても、おかしな点は残る。
 投降を装って暗殺を仕掛けるのあれば、まずは敵将に近づくべく、相手に取り入ることに細心の注意を払うはず。要は、警戒を解くために媚びておかなければならない。媚びておかなければならないのなら、投降の理由を明かさぬというのは不自然である。それに、わざわざ一族を引き連れて降ってきたというのも解らない。仮に暗殺が成功したとしてもその刺客の一族は報復の対象となり、たちまち皆殺しにされるだろう。同族や部下にそのような危険を背負わすなど、人の情あらば許せるものではなし。凶器らしいものが見つからぬという神薙比の報告は、そのような疑問を裏書きしているとも言えた。

「いかがいたしまするか?」

 とは――ノオリに面会するか、それとも会わずに殺してしまうか、という問いであったろう。件(くだん)の降将の命を握っているのは、言うまでもなく神奈子だ。顎に手を当て、少しばかり考えこむような仕草を彼女は見せた。ノオリなる者を殺そうが殺すまいが、いずれ城砦は落ちよう。しかしこのままでは、“それ”がいつになるのかは解らない。下手をすればいたずらに戦いばかりが長引くということも十分に考えられる。となれば、降将から引き出せるだけ敵方の内情を引き出して、攻撃に最適の時期を見出すということもできるはずだ。もし仮にノオリが本当に辰野勢からの刺客であれば、城攻めにおいて『報復ゆえの攻撃』というひとつの口実が手に入る。

「解った」

 と、神奈子は吹っ切れたような顔になる。
 そして、しばらく止めていた足をまた本陣に向けて歩ませると、この件についての処断を神薙比に命じた。

「会うてみる、そのノオリとやらに。この八坂にしか明かせぬ腹のうちがあるというなら、あえて退ける道理もあるまい」

 わざとらしいまでに、明朗な声ぶりであった。


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