Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十話

2013/10/03 22:14:06
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 すでに本陣の周辺には、いつも以上に堅固な兵の垣根ができていた。
 降将ノオリが何らか危険な挙に出ぬか、監視するためである。
 総大将不在の陣営に降将を留め置く以上、そうなるのも当然のことだ。さっき神奈子が通り過ぎに見遣ったノオリの一族郎党も、今は別の陣に集められひとまとめに見張りをつけられている。あくまでノオリという男は、未だ諏訪勢に“身を置いている”に過ぎぬ。その立場が鮮明にならぬ以上は、客というにしては少しばかり手荒な扱いになるのもやむを得ない。

 神奈子が本陣に帰還すると、各陣営の将らは未だ集まっていなかった。
 代わりに、諏訪子ひとりが幾人かの兵を連れて床几に座っている。神奈子の姿を認めると、彼女は椅子から立ち上がることなく一礼のみ見せた。

 神奈子自身もまた、床几に腰を下ろして諏訪子の隣となる。
 そして、じろと本陣のうちに眼を遣った。件の降将――ノオリを取り巻くごとく兵たちがぐるりと控えている。確かに降将は先ほど神薙比が言った通り、剣も鎧も身につけてはいなかった。ただ白衣(しろぎぬ)一枚ばかりという寒々しい格好で、二柱の神に跪いているのである。手足に一本の縄も掛けられていないのは、武器がないうえは直ぐさま狼藉をはたらく気遣いもないという楽観ゆえか。冬の日が兵らの手にする矛に鈍く反射し、そのうちの幾筋かが降将のあわれな背をするりと撫でた。

「諏訪子が詮議したのか」

 神奈子がふと水を向けると、諏訪子はゆっくりとうなずいた。

「詮議と申しても、ノオリ自身が八坂さまを除いては誰にも何も話さぬと申すゆえ。止むを得ず武器甲冑を外させるに留めておりまする」

 少しばかり顔を傾け、ほとんど横目を遣るように答える諏訪子。

 神奈子不在のゆえ、諏訪方における次席の彼女でも『ひとまず』の対応しかできなかったのであろう。神奈子はそうした返答にすばやくうなずくと、再びノオリに眼を向けた。ノオリもまた、顔を上げて何かを嘆願するかのように神奈子を見上げる。髻(もとどり)を解いた長い髪が彼の頬に掛かり、その顔の稜線を覆い隠している。しかし数月に及ぶ籠城の影響か、頬が“こけて”骨格が少々浮き出ていた。髪の毛越しにもそれが解る。その観察の通り彼は痩身で、決して大柄とは言えないものの、それでもなお武人としてのたくましさを喪わぬ体格は、どんな小さな樹木でさえ立派な根を大地に張っている、そういう事実を連想させる。

 そして何より――神奈子が注目を惹かれたのはその『眼』だった。
 強く熱い意志を宿した双眸が、真っ直ぐに敵の大将であった神奈子を見つめている。そこから眼を逸らすは甚だ不誠実にして武人の志にも悖る……そんな気持ちを起こさせるほどの、熱意ある眼だったのだ。

 ごくりと、神奈子は唾を飲み込んだ。

 何らか情報を引き出すとか殺害を命ずるとか、勝者として敗者をいじめたくなるような気持ちは微塵も湧いてこなかった。代わりに、ただ一個の客人としてこのノオリという男を遇しようという奇妙な気まぐれが心の隅に浮かんでくる。せいぜい――その心は、捕らえた蝶を殺すか逃がすかという程度の、ささいな心変わりに過ぎなかったとしても。

「冬の野で衣一枚とは寒かろう」

 神奈子は、ぽつりとそう言った。

「このノオリという者に、鎧とつるぎを返してやれ。少しでも暖かさが違う」
「しかし。つるぎ返さばこの者は暴れるかも。八坂さまのお身が危うございます」

 かたわらに控えていた兵のひとりが異を唱える。
 神奈子は苦笑した。道理は確かにこの兵の言う通り。何のつもりでこちらにやって来たのか知れぬ者にみすみす武器を返却するなど、自ら危険の度を高めるにも等しいこと。しかし今の神奈子には、その道理を越えてでも見極めたいと思えるものがある。彼女は兵を一瞥し、

「身が危ないのはノオリとて同じ。降将なれば、信用されずにその場で殺されてしまう恐れすらあるものを、この男は命を賭してわが諏訪方の陣まで参った。そのような勇者(ゆうじゃ)に対し、つるぎさえ取り上げたままにするは武人の意気に悖りはせぬか」

 と、たしなめた。
 
 直ぐさま、保管されていたノオリの甲冑と剣とが運び込まれる。
 応じてノオリは立ち上がり、諏訪方の兵らの助けを受けて再び鎧を身につけた。最後に腰につるぎを佩けば、もうどこから見ても諏訪方の将らにまったく劣らぬたくましさである。とはいえ再度の武装をしたとなれば、彼がつるぎを抜いて襲いかかってくる危険が生ずる。兵らのあいだに緊張が走る。しかしそのようななかでも、神奈子と諏訪子のふたりの将はあくまで落ち着き払っているのであった。そして、ノオリもまた彼女らの心遣いに報いるごとく深々と一礼し、腰に剣を佩いているのも忘れたかのように、鷹揚とさえした態度でまた地べたに座り込んだ。

 神奈子は、一部始終を見届けて実に満足げである。
 そして最後に、なおも緊張の糸ゆるまぬ本陣のなかにて、ひときわ明々とした声で命じた。

「人払いせよ。皆、しばし陣を出て、八坂とノオリのふたりだけにして欲しい。この男がいかなる狙いあってわれら諏訪方に降ってきたものか、とくと話を聞いてみとうなった」

 兵たちは武器を返せと言われた瞬間にも増して驚く様子を見せ、ノオリもまた予想だにせぬ事態に思わず眼を見開いた。しかし諏訪子のみはあくまで冷静であった。一も二もなく、神奈子ならばそうするであろうと解っていたかのように。

「……では、われらはしばし離れておりまする」
「おう。私が帰ってくるまでのノオリの詮議、御苦労であった」
「何の。されど、むざむざ暗殺でもされて、武功の代わりに恥ばかり残さぬよう」
「諏訪子がそれを言うか」

 幾つか軽口を叩くと、諏訪子は率先して本陣を出ていった。まるで木の葉がひらりと風に舞うように、つかみどころのない足取りだ。一方、ぞろぞろとおぼつかない足取りで兵たちが本陣を出ていく様は、あたかも諏訪子が示した範に渋々ながら従っているごとく思われる。それがおかしくなって、神奈子は少しだけだが噴き出してしまった。彼女と向かい合うノオリは、なおも呆気に取られた様子で無言であった。

 やがて、軍神と降将のふたりを除いては、本陣にはまるで人気(ひとけ)もなくなった。否、周辺には将兵が配置され、しっかりと聞き耳を立てているのであったろうが、少なくとも何らか会見を持つに不都合なほどではあるまい。ノオリはわれに返り、再び神奈子に一礼をした。これまででもっとも深い礼であった。

 彼が再び顔を上げるに伴い、神奈子も幾らか相好を崩す態で口を開く。

「さて、ノオリ。話を始めようではないか。そなたが何より所望せるという、いくさ神との話し合いをな」


――――――


「まずは、改めて名乗らせていただきとうございまする」
「許す。名乗れ」
「はっ」

 低く沈みながらも力ある声でうなり、ノオリは息を吸い込んだ。

「辰野の盟主ユグルと地縁を通ずる辰野人のひとりにして、此度のいくさにおいて彼の将につき従うた豪族がひとり、ノオリと申しまする」

 彼が深々と一礼をすると、地べたに長い髪の端が触れそうになる。
 再びの名乗りを経て顔を上げたノオリは、若い牡鹿を思わせるような澄んだ眼で神奈子を見つめていた。

「此度は深く御礼を申し上げまする。本来なれば、それがしのような寝返り者は信用ならずとして、直ぐさま命奪われても不思議ではないものを」
「そうであるが、」

 ありきたりな、しかし誠意ある声音で語られるノオリの言葉を、唐突に神奈子は遮った。
 は……と、降将は腑に落ちぬといった風な呻きを上げる。その困り顔を見下ろしながら、軍神はにやりと笑んだ。

「いかにも我は、さっきそなたに武器甲冑を返した。だが、其はあくまで、“まず話を聞いてみたい”と思うたがゆえのこと。その身から首が離れるか否かは、今ここからのノオリの身の振り方に掛かっておると、第一に心得ておくが良い」

 むろん、そなたの連れていた一族の者たちの処遇についても。
 最後に、神奈子はそう付け加えるのも忘れなかった。やはり、あくまで軍神は軍神であり、将は将であった。神奈子の慈悲は、少なくとも一対一でノオリの話を聞いてみようという点に掛かるものでしかない。何が起こるかは、話の転がる先が示すはずだ。

 とはいえ、これから話す相手にむやみに不安ばかり与えても仕方がない。

「ま、建前としてはそういうことである。いかに、もと敵であったとはいえ、こちらを頼って落ちてきた者をそうそう無碍(むげ)に殺さば、八坂の神には尋常の情け無しと世の謗りを受けることになる。それは望むところではない」とも神奈子は言った。それで幾らか警戒を解いたか――微笑したノオリの、わずか開かれる唇の向こうに真白い歯が光っていた。

「で、此度、ノオリはこの八坂神に何用あってここに居る。まさか二度も諏訪方を痛めつけておきながら、今さらユグルから和睦を乞いに来た使者でもあるまい」
「和睦ではございませぬが……」

 ノオリの微笑が、束の間、こわばる。
 何か後ろめたい気持ちでもあるのだろう。けれど神奈子はあえて追及することもなく、彼自身が続きを言うのを待った。

「それがしは、やはりただ諏訪方に降らんと思い、こうして八坂神の御面前に罷り出でたる次第にて。他に何の意図もございませぬ」
「それは――まあ、そうであろうな」

 ふんふんと鼻を鳴らす神奈子。

「では諏訪に降るにあたり、どうして我ひとりにのみ話をせんと望んだ。それでは何らかの謀(はかりごと)あるを怪しまれても仕方があるまい。たとえば先ほど兵らが申していたような、暗殺だとかの」
「それは……!」

 瞬間ばかり、ノオリの眼に苦渋が満ちる。
 強い意志に一点の曇りが――否、それはむしろ、自身の正義が本当に正しいのかという煩悶そのものだ――生ずる。鎧の札(さね)をこすれさせ、神奈子は少しばかり身を乗り出す。

「他の方々に、わが身の恥を見せたくはなかったからにございまする」
「恥、だと?」
「恥に、ございまする。ノオリは、勝ち目なきいくさであるのを知ったわが身のかわいさのあまり、本来であれば地縁にて味方すべきユグルを裏切り、今こうして諏訪方の陣に参じておりまする。これが武人としての恥でなくて何でありましょうや。ノオリも人の子、どうせ寝返り者よと蔑まれるのであれば、諏訪の御大将にてあらせられる八坂神お一方の御目にのみ、この無様な申し開きの姿を晒しとうございました」
「なるほど、ノオリひとりはそれで良いかも知れぬ。そなたひとりが己の意志を貫くのであればな。しかし、そなたと繋がる縁者や郎党たちの立場はどうなる? もしかしたら、こののち幾年にも渡り、ノオリの子孫らは寝返り者の血筋よ、武人の恥よと世の嘲りを受けることになるかもしれぬのだぞ。ならばいっそ、いくさにて華々しく散るを良しとした方がましとは思わなかったか?」

 おそろしく意地悪い、神奈子の問いであった。

 ノオリの決断は戦場を枕として討ち死にすることも、地縁を重んじて同盟者であるユグルを支える義理をも棄て、自分の一族だけが生き延びようとするものだ。見様によっては武人の風上にも置けぬ行為。しかしその恥を甘受してまで諏訪に降るとなれば、それなりの大きな理由があるはず。そして、それを披歴できぬとなれば信用には値しない。神奈子も、決して常なる優しさのもとに生きているわけではない。将だからこそ、非情に徹して物事を見なければならないことがある。

 ノオリとていくさの場に立つ者、それはよく理解していたであろう。
 それでも彼は、相も変わらず誠心を尽くすと言った様子で訥々と答えた。

「たとえ子々孫々まで恥を受けようとも、人は次の代、次の次の代にまで血を繋がねばなりませぬ。誇りに殉じて散ったとて、守るべき血の滅ぶれば元も子もなし。たとえ辰野の土地より追い遣られ、見も知らぬ他国を新たな家としようとも、血と命が――そこに人が生きてさえおれば根を張ることできまする。この身はその志がため、いま恥を忍んでまであなたさまの御面前に在るのです」

 きッ! とした顔で、ノオリは神奈子を睨みつけた。
 ほおう……、と、彼女は思わず笑んでしまう。眼前で訴えるこの武人には、彼の信ずる『男が果たすべき本分』とでも申すべき何かが、ありありと現れていたような気がしたからだ。曇りなく、愚直であった。一族の誇りのため、勝ち目なき戦いをしようという十四歳のユグルとは、根を同じくはしていても違う色を持っていた。

「その意を、ノオリよ、ユグルは知っておるのか」

 改めて、軍神は問う。
 ぐ、と、息を呑みこんで、ノオリが答えた。

「辰野方の陣を出る前に、ユグルと約して参りました。辰野の誇りはユグルが護り、辰野の血はノオリが繋ぐと」

 また少し、彼は躊躇った。

「十四の若者に誇りのための死を負わせ、壮年に至りしそれがしが血を繋ぐための恥を負う。本来であれば、このノオリこそが老骨として、ユグルの立場に代わるべきであるにもかかわらず。そこまで含めての、此度の恥にござる」

 言うべきことは、すべて言いきったのだろう。
 ノオリはまたゆっくりと一礼し、そのまま老いた亀のように少しも姿勢を崩さなかった。男の背中は震えていた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。昨日の今日まで敵として見ていた相手に、こうして頭を下げている。仲間を裏切った薄情者として、後々に他人(ひと)から笑われるかもしれぬという怖れを抱えてまで。それもすべて、辰野人の血を後世に繋ぐための仕儀なのである。たとえ自分たちは笑われようとも、自らの愛した故郷が存在した何よりの証である、生の血脈を残すために。

 ――――大きく、大きく、溜め息を吐き、神奈子は「そうであったか」と呟いた。

 ノオリのその決断を、称賛することも非難することもない。ひとりの男として武人として、汚名を受けてまで仕事を成し遂げようとする。それほどに勇気ある者を、どうして嘲り笑うことが許されるだろうか。

 もはや神奈子に詮議らしい詮議を行う気持ちはなかった。
 敵と味方、両者に対するノオリの誠意は刻々と伝わったからだ。
 ここから先は、あくまで実利的な『取引』を行わなければならない。志を云々するだけではいくさは立ち行かない。それは、辰野人の血を生き延びさせるという実利のためにユグルから離反したノオリこそ、もっとも解っているはずである。それを探るかのごとき「なれど、ノオリ」という神奈子の問い。

「其許が降将なればこそ――話に水を指すようではあるが――、もうひとつ求めねばならぬものがある。元居た陣営からの“手土産”を。いわば諏訪の勝利に繋がるような手柄を」

 あまり湿っぽい話の運びは、何より神奈子自身が望むものではない。
 ここまでの事態の流れを切り替えたいかのように、彼女は膝をぱんと叩いた。それを合図としてノオリは顔を上げる。険しい容貌には、目尻に涙を堪えた跡が残っている。その跡を隠したいのかしきりに瞬きをしつつ、答えるノオリ。

「手土産なれば、ございまする」
「何の手土産やある。兜首のひとつやふたつ、掻っ切って持ってきたようにも思われぬが」

 ノオリは、ふるとかぶりを振った。
 それらのものは持ってくること叶わぬという合図であろう。
 むろん、神奈子の方でも幾らか冗談めいた問いのつもりだった。この男の義理堅さからすれば、いくら敵方に降るとはいえ元の味方を殺してから参るなど、できるはずもないだろうから。

「辰野の方々の御首は、多少なりとも義理あるゆえ用意すること叶いませぬ。しかしわが頭のなかには辰野方の戦力や陣形の詳らかなること、多く留め置かれておりまする。何より、」

 ごくりと生唾を飲み込み、ノオリは神奈子へ向けて身を乗り出す。

「二度に渡る先の戦いを指揮し、諏訪方を痛めつけたは、他ならぬこのノオリの采配によるものにございまする。いわばこの身こそ、辰野の軍略そのものにて」

 降将ノオリが、すべてを告白し終えたとき。
 軍神八坂はようやく見えてきた勝利の兆しに、唇が釣り上がるのを抑えることができなかった。


――――――


 白い煙が盛んに夜空を裂くところを見て、ユグルは「いよいよだ」と呟いた。
 彼の率いる辰野勢が籠る山城からは、麓に展開する諏訪勢の、飯炊きの煙がよく見える。

 いくさをする軍勢なるものは、つまり人の集まりである。人が集まっているということは、比例して彼らの腹を満たすための飯が必要になるということである。そして、満足に戦うには何より腹がいっぱいでなければならぬ。それゆえこの数日、明らかに数を増やしつつあった煙の筋は、それだけ多くの戦力が次の戦闘に動員されるであろうことを雄弁に物語っていた。

「物見が戻ったのか」

 ざくざくと雪を踏み込む音に気づき、ユグルはちらと振り返って問う。

 近づいてきたのは、城方に属する伝令の兵だ。ユグル自身と幾らも歳の変わらぬその少年は、息を切らしながら二、三度うなずいた。雪に覆われた山肌の道であるから、伝令の息が上がってしまうのもやむを得ないことだろう。総大将はどこに居るのかと、懸命に辺りを探し回っていたに違いない。探されていたユグル自身はと言えば――しばし城を出、樹木群れ合う冬の茂みに身を潜めて、大将自ら敵勢の動きを窺っている。

周囲の木から伸びる痩せた枝を一本、ぽきりと折り、ユグルはそれをぶんぶんと振り回す。幼いころ、枯れ枝は玩具であり、『剣』にも『馬の鞭』にもなる万能の道具であった。それを十四になった今にもういちど振りかざすは、彼の心に生まれつつある不可思議な余裕によるものだったのかもしれない。死を覚悟しているということは、ときとして実に皮肉な現象を呼び込むものだ。

 一方、伝令はユグルのささいな“手すさび”は意にも介さず「諏訪方の陣では、その全域で飯炊きの煙が認められるようです」と早口に伝えた。「解った。叔父上たちにはもう伝えてくれたか?」「はい。ここに至るまでに、すでに」「ようし、御苦労」。

 今度は枝を肩に担ぐようにして、ユグルは再び麓の敵陣を睨む。

 先に攻め入ってきたおよそ六百の軍勢を山中で撃退してからというもの、敵方にはまるで新たな動きがなかった。せいぜい四、五日の睨み合いである。日数にすればさして長いわけでもないが、それでも飢えた熊のごとき大軍を前にした城方にすれば、敵方の撤兵の時期さえ定かならぬままいつ果てるともなく続く沈黙こそ、まず何よりの苦難であるに違いない。辰野勢を怖れて容易に手出しができぬのか、それとも新たな攻め手に入る最適の時期を見計らっているのか。とはいえいずれ、攻め寄せて来るなら戦うばかりである。

 だがそれ以上に重要なのは、さっき伝令が伝えてきた情報。
 飯炊きの煙が、敵陣全域に渡っていちどに上がっているという報せである。

 今までも幾度も物見を放って敵方の様子は探らせていたが、飯炊きの煙が上がる時間は各陣営ごとにばらつきがあった。日が沈み始めるとき夕餉にありつく所もあれば、とっぷりと暗くなってからようやく食事の支度を始める軍もあった。取りも直さず、それは全軍で攻撃を行う機会を定めかねていたからこそ、各軍の大将がそれぞれ思うときに食事を命じても何の不都合もなかったということだ。

 しかるに、今日は違う。

 諏訪方の諸軍はいずこの陣もいっせいに飯炊きを始め、夕餉の仕度にかかっている。皆が同時に腹を満たしておく必要があるということは、つまり彼らが、次には全部隊的に統一された行動を取る必要があるということ。早くとも今夜には何らかの動きありと見て差し支えはない。そう、ユグルは確信していた。

「おそらく、次こそ本当の総掛かり。城の皆に伝えてくれ。“決戦近し、用意を怠るべからず”と」

 なおもかたわらに控えていた伝令に、ユグルは改めて命ずる。
 命令を受け、伝令は再び城へ向けて駆け去っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、少年は重く苦い物を胸のうちに落とし込む。
 ここまで来てしまったからには、力の限りを尽くして戦うだけだ。
 それが、辰野人の血を繋ぐという大仕事をノオリに押しつけてしまった、自分の責なのだから。

 そのノオリは――と、ユグルは奥歯を噛んだ。
 ノオリは、無事に諏訪方にたどり着いてくれたであろうか。
 恥知らずの寝返り者として、諏訪方の連中に嘲られはしておらぬだろうか。
 城を発つ前、最後の義理立てとして諏訪方の先鋒を山中にて撃退するという大仕事を成し遂げてくれたノオリ。飯炊きの煙の多少で敵の様子を見定めるのも、彼が教えてくれたやり方だ。その彼が辰野勢を去った今、つまり辰野の軍略のすべてが敵に知れてしまったとも言える。戦えば、辰野勢が確実に負ける。

 だが、それでこそだ。
 それでこそ、自分たちは尊厳のために命を掛けることができる。
 尊厳を除いては命さえ、失って惜しむものではない。
 その果てとして、いくさ場を枕に一兵も余さず散ったとなれば、辰野の武人ここにありと世人は怖れおののくであろう。そのうえでノオリが生きて小県に移ってくれるなら、辰野人の血脈は繋がる。このいくさで大半の辰野人が死に絶えたとしても、百年も千年もかけて“勝つ”ことができる。

 それを思えば、枝を握る少年の手はぶるぶると震える。
 武者ぶるいと、そしてこれから死ぬことになる自分の境涯への悲嘆。
 ふたつの心がぐるぐると渦を巻いていたのであった。

「自らが死ぬ覚悟は、ようやくできたと思いたい。それならば、後は」

 敵の総大将に、こちらの心が伝わっているかどうか。
 八坂の神は腐っても軍神、いくさの場にて降ってきた者をむやみに殺すような不調法はせぬと思いたい。否、それは、その思いは。――と、ユグルは不思議な事実に気づいた。彼の心に兆しつつあるのは、八坂の神がこちらの意を汲んでくれるだろうかという不安でも、どうか意を汲んで欲しいという願望でも、もはやない。いま彼にあるものは、『八坂の軍神なればこそ、ノオリを生き延びさせ辰野人の血を繋がせてくれるだろう』という強い確信に他ならなかった。

 付け焼き刃めいた忌々しさのもと、彼は枝を両手でぽきりと折り、眼の前に広がる急な坂へと投げ落とした。折れて二本になった枝は、獣さえ通らぬ地面の雪に突き刺さり、鈍色の空に切っ先を向ける。もしかしたら、ユグルのなかにある八坂神への信頼は、死を前にした弱気が起こさせた、一種の錯覚ではなかっただろうか。今はただあの神の慈悲にノオリの生死を委ねなければならぬという事実が、父の仇にも等しいかのいくさ神への見識を誤らせたのではないだろうか。

 だが、と、ユグルは皮肉げな微笑を敵陣に向けた。
 溜め息に洗われた口角がかすかに釣り上がっている。

 八坂神への今の思いが、自らの気宇壮大なまでの錯覚であろうと、それですべては満足なのだ。本当に奇妙なことではある、敵を信頼するなど。なれど顧みればかの神は、十余年にも渡るいくさの末にこの科野にたどり着いたのだ。そこにいかなる野心のあれ、ひとかどの武人であることには変わりない。ならば政での行き違いさえなければ、もしかしたら師と仰ぐこともできたかもしれぬのに。

「だが、こうなっては仕方がないのだ。向こうにも強き意志があるごとく、こちらにも辰野人としての誇りがある。それなら、せめて」

 自分にも相手にも恥じることのない、全力の戦いをするまでである。

 木々の群れから、ユグルは離れた。
 そして、心に決めた一物を決して離しはせぬごとく、足早に城へと帰っていく。
 するとその途上、さっき遣わした伝令の少年とまたも出くわした。仕事がひとつ終わり、手持ち無沙汰といった風にその辺をぶらぶらと歩いていたらしい。

「あ、ユグルさま……」
「おお、ちょうど良い。先ほどの話は皆に伝えてくれたか」
「はい。確かに」
「では、もうひとつ頼まれてくれぬか」

 何なりと、と、伝令はうなずく。
 快く引き受けましょうとでも言いたげに胸を逸らした少年を前にし、ユグルはちょっと躊躇った風にして視線を惑わせた。けれど、ややあって――ついに意を決した風に告げた。

「髪を結いたい。準備をしてくれるよう、先に行って伝えてくれ」


――――――


 辰野勢の諸将は皆、ついに来たかといった風にうなずいた。
 ひしひしと高まりつつある決戦の気運、そして死への疾走。
 戦って、皆が死ぬのだ。皆が死んで、誇りばかりは護るのだ。
 悲惨ではある。悲惨ではあるが、誰の眼にも涙はなかった。代わりに熱意だけがある。この悲惨さをせめて華々しく、道理の外れた世に見せつけてやろうという。

 そして彼らのその期待は、いま自ら取り巻くひとりの少年に向けられている。
 伸び放題になっていた髪の毛には改めて鋏(はさみ)と櫛が入れられ、しっかりと髻が結われている。剃る気遣いさえ必要なかった無精髭も、剃刀負けの跡ひとつなく剃り上げられた。その下からは朝露に濡れた若葉のように若々しい頬が現れ、灯明の光を受けて輝いていた。何と美々しき若武者ぶりかよと、誰もが息を呑んだのである。

「終わりました」

 髪を結い終えた武将が、一礼をして少年の元から離れていく。

「御苦労であった」

 その少年――辰野勢の総大将であるユグルは、城に籠る前と同じか、否、それ以上に麗しくその身を整え、自分を取り巻く部将たちを見回した。しばし、誰からも何の言葉もなかった。長い籠城の果てに死のみ求め、身を装うことさえ必要なかった彼らにとって、大将として頂く若武者は、今あまりに眩しい存在であった。ひたすらに言葉はなく、しかし、確かに感じ入る気持ちがあったのだろう。眼の潤まぬ者とては、誰ひとりとして居らなかったのである。

「何か、不足などあるか」

 副将たる叔父が、改めてユグルに問いなおす。
 わが子を見るかのごとくの視線であった。微笑んで、ユグルはうなずいた。

「最後に、そうだ……唇に紅を差そう」
「紅?」

 思いも掛けぬ提案だったと見え、将らが不思議そうに小首を傾げた。
 しかし、ユグルはなおいっそう安堵せよと促すかのように続ける。

「こちらが全力で戦うのなら、長き籠城で衰えたこの面相、同じく全力で攻めてくる敵に対しての無礼に当たろう。今から元の姿を取り戻すにはまったく時が足らぬ。しかし、せめてもそれに近いように飾ることはできるはず。再び髻を結い、髭を剃ったのと同じように」

 ユグルがそう説くと、直ぐさま叔父は人を遣った。紅を探させようというのである。
 むろん、いくさのために城に籠っているのだから、化粧道具などそうそうあるはずもない。しかし大将が最後の戦いに華々しく出陣するとなれば事情は別であった。そう時間も掛けずに、唇に塗るための紅が見つかった。とある若い女が差し出してきたそれは、もともと天竜川の水運商人との取引のために持ち込まれていた、雑多な品のひとつである。底の浅い木の容器に入ったそれを受け取ると、ユグルは指先に紅を取って唇に塗り、よくなじませる。籠城で痩せ衰え色あせたはずの少年の唇が、今いちど溌剌たる若さと健康との証を取り戻したかのように、赤々と、鮮やかに、染まっていく。

「鏡を」

さッ、と、部下が銅鏡を渡す。
「ほう」と、苦笑いするユグル。「唇に紅など初めて引いたが、意外と様になっているものだ」。

 は、は、……と、皆が笑う。
 万骨枯る最後の瞬間を控えた者たちとしては、ちぐはぐなほど和やかな笑いであった。やがて満足すると、ユグルは銅鏡を返す。そして、――場に集った将らをまた一から見渡した。各人の名と来歴、勇敢さ、忠誠。皆が持つすべての属性のようなものを自らの心のうちにしまいこむようにである。それが済んで、後。ついにユグルは立ち上がった。佩いた剣の柄に手を掛けて、いつでも死にに行けるという覚悟で。

 総大将が一歩進み出ると、それを取り巻く諸将もまた膝を進める。

「此度の決戦。私は敵にも味方にも、恥となるようないくさはせぬつもりだ。何よりそれが、辰野人の意気示すことになろうからだ」

 大きく大きく、皆はうなずく。
 いずれ劣らぬ真剣な表情(かお)。
 満足げに、ユグルもうなずいた。

「ゆえにユグルは兜を身につけぬ。この首取れば百人の将、千人の兵に値する手柄であるのをよくよく諏訪の者たちに見せつけて、思う存分に暴れまわってくれる」

 鬨の声さえ上げることなく、皆は無言に腕を振り上げた。
 誰の目尻にも、涙の珠が光っていたのである。


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