Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第八話

2013/07/15 22:13:46
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 水内郡のギジチという商人は、元来、『水路』を持たなかった。
 自らの掌握せる商圏のなかに、有用な水運の道筋を有してはいなかったのである。

 一応――領域内を穿つようにして犀川というのが流れてはいる。流れてはいるが、これがなかなか厄介な代物で、雨期ともなれば水嵩を増して竜蛇のごとく荒れ狂い、周辺の集落部落を押し流してしまう。当然、渡し場を設置して水運にまつわる事業を継続するのは難しかった。

 古代の日本は、水路をよく活用して集落同士の取引を頻繁に行う交易国家だったという説があるそうだ。たとえば能登半島で発見された、縄文時代の集落跡である真脇遺跡からは、舟の櫂とともに、東北地方から輸入されたと見られる土器や玉などが出土しているそうである。またイルカの骨が大量に見つかっていることから、どうやら海で捕らえたイルカを交易品にして他の地域と取引をしていたらしい。海や河川を舟や筏(いかだ)で移動するというやり方は、陸路では輸送に手間がかかるような大きく重い品物――土器や金属器などをいちどに大量に、効率的に運べるという利点がある。陸路の商いの陥穽(かんせい)を突き、その限界を超えた巨利を生み出すがごとき仕組みだ。

 だというのに、ギジチはその水路を持っていなかった。

 一方で南科野へ眼を転ずれば、オンゾや当地の豪族たちは、水路を掌握して利益を上げていたではないか。かえすがえすも今まで失ってきた商機の多さが恨めしいとギジチは思う。犀川はやがて筑摩郡に流れ込み、最後には越州を超えて大海に臨む。見はせぬまでも商人同士の噂に聞くそのような話は、上手くすれば、大海の向こうに在るという未知の大国との交わりさえ得られるかも知れぬ……という夢物語をも彼に抱かせるのだった。

 だが、いま為すべきことは子供のように夢の世界に遊ぶことではないと、諏訪から岡谷に向かう途上にてギジチは思い返した。十一月も終わり近くなり、降る雪も多くなっていく。騎乗する馬の蹄が道中に踏む物は、雪か霜か。轡(くつわ)を取る部下、それに護衛として連れてきている十数人の供回りのざくざくとした足音が、奇妙にも、彼の意識を思考のただなかへと没入させずにはおかなかった。

 岡谷へ続く灰色の空と雲を眺め、ギジチは白い息を吐きだした。

 諏訪湖から発して南科野を貫く天竜川は、やがて遠州に至り、やはり果てを知らぬがごとく広がる大海へと流れ込む。遠州の海浜では藻塩をつくり、それを交易の要としている。藻塩は水運の商人らに買いつけられ、天竜川を遡る形でこの科野にも入って来るのだ。つまり、天竜川の水運交易を掌握すれば、塩の交易で巨利を得られるかもしれぬということ。

水運商人たちがユグルと結びついているいない以前に、そういう事情がゆえ、南科野の水運は商人たるギジチにとって、きわめて魅力ある存在と言わなければならない。それに、未だ係争続く伊那郡辰野は、肥沃の盆地たる伊那谷の北端に位置し、科野中央や諏訪周辺、伊那谷を結ぶ交通の要衝でもあるのだ。この地での騒動の鎮静化はオンゾ亡き今、諏訪から南科野にかけて商圏を広げるに際しては必須の条件。

 だからこそ、――『南科野の水運商人の調略』という八坂神からの命令を、ギジチが断る理由はなかった。二本の“毒矢”のうちの一本は、確かに彼の懐のうちにしまい込まれていたのである。

 内に抱える使命を良き薪(たきぎ)とするかのごとく、野心の火はますます黒く燃え上がる。吹きまくる冬風が自らの背を押す追い風であることを、ギジチは一心に願っていた。かくて彼を首班とする諏訪からの使者の一団は、十一月二十八日、堂々たる岡谷入りを果たしたのである。


――――――


 ギジチらが岡谷に居るあいだの宿所と定めたのは、かつてオンゾが経営していた商業拠点のひとつだった。諏訪の湖から発した河川の流れと、そこに設けられた渡し場にほど近い、一個の館である。渡し場までは、どんなに遠く見立てたところで十町ほどの距離しかない。川に向けて品物を運び込むには確かに易き土地であると、自ら入った部屋で旅装を解きながらギジチは思う。

 だが、その反面。

 この館には傷が多い。蔀は外れ床板は抉られ、矢傷の跡が残る柱といったら数え切れぬ。かつては数多の品物を保管していたのであろう高床の蔵も、今では無残に扉を破られて空っぽとなり、興味を示すのは巣を欲しがる鼠くらい……という有り様だ。ギジチ本人は一行の長という立場上、この館のなかでももっとも損傷の少ない部屋に入ってはいるが、供を承った連中は大穴の開いた部屋に雑魚寝を決め込むというのも少なくない。

 どうしてこんなにも館が傷ついているのかといえば、諏訪方に懐柔された南科野豪族と、オンゾの雇った私兵とが相戦った戦場がまさに“ここ”だったからだと、ギジチはそう聞いている。とはいえ館のすべてが破壊し尽くされているわけではない以上、戦闘そのものは小競り合いでしかなかったようだ。兵の骸や血の跡もきれいに取り去られている。豪族の一軍はしばらく駐留し、応急のものではあれ修築を施したと見える。

 それだけのことを、自分の部屋に入るまでのあいだ、ギジチは概ね観察した。
 観察したらしたで、不用意な好奇心めいたものがむくむくと鎌首をもたげてくる。部屋の一角に据え付けられた格子窓――こちらは壊れていないようだ――を少しばかり開けて外を見ると、供の者たちは各々で館の敷地内をぶらついたり、焚き火を囲んで談笑に興じたりしている。彼らが何らか煮炊きをする、良いにおいがギジチの鼻を突く。きゅうきゅうと、空腹に彼の胃も鳴いた。

「ほおう……」

 取り立てて意味のない呟きをもらすと、一度は解いた防寒の装いを再び身につけ、彼は再び部屋の外に出る。別に供らの料理のにおいに釣られたわけではなかったが、ずっと部屋に詰めて難しい顔をしているのも何だか気が進まなかったのである。ぐるりと、ギジチは実際に自らの足で館の敷地を一周した。するとその一角に在る、ひとつの櫓へと突き当たる。じいと、ギジチは櫓を見上げた。およそ数十尺はあろう高さか。いくさによる損傷は、見たところ免れているようだ。戦いに備えた物見櫓であるにしては、いやにつくりがしっかりしていて、四方の幅も豊かである。上に上がるための梯子はなく、代わりに簡素ながらも階段が据えつけてある。その階段を彼は上がった。階上の場は、地上で見立てを得た通り、なかなかの広さ。その気になれば、七、八人ほど集めて酒宴など催すことくらいはできるかもしれない。

 さて、オンゾが斯様な櫓をつくった理由がギジチにはついぞ検討もつかなかった。
 よもや自らの権勢を示すためでもあるまいが……などと思い、一方を振り返ったところが。

「なるほど。ここからなら、川の様子がよく見える」

 白い息を冬風に晒しながら、彼はようやく合点が行った。
 要するに、この館から出ることなく天竜川やその渡し場、さらには、渡し場に沿うかたちで広がる集落の具合を観察するために設けられた櫓だったのだ。十町先の集落は水運商人、さらには水運と関わりを持って暮らす人々の住まうものだろう。藁や茅(かや)で葺いた(ふいた)屋根の群れは、巨大な獣が群れて身を休めているかのようである。そのさなかを歩き回る人々は、ギジチの指先ほどにも小さく見える。渡し場に繋がれた舟に、しかし、今は未だ人影はない。

 そしてまた。
 櫓から下りようと地上を見下ろしたとき、ギジチは再び気がついた。
 ここからなら、この岡谷の館の全景を容易に見渡すことができるのだと。主が身を置く母屋も、本当なら人足たちが詰めるための場所だったのだろう離れも、そして今はまったく暴かれたままになっている高床の蔵も。むろん、焚き火を囲む部下たちの姿も見えた。館のうちで何らかの作業が行われているとき、この櫓の上から指示を飛ばすという手筈になっていたに違いない。

 さっき地上からひと回りに見て回った館を、今度は櫓の上からようく観察するギジチ。
 上諏訪の商館に比すれば少し小さいが、それでも使者の一行がしばらく寝泊まりするには何の不足もない。数基の蔵は、扉さえ直せば直ぐにでも使うことができるだろう。やはり所々に戦闘での損傷が残ってはいるものの、修築や改装をすれば立派に使うことができるはずだ。

 渇く唇を潤すようにぺろりと舌なめずりをしてから、ようやくギジチは櫓から下りた。
 早くも彼はこの岡谷に、第一の城を得たかのような心地になっていた。


――――――


 ギジチが館を出、水運商人の本拠地に向かったのは翌日のことである。
 冬ながらによく晴れ、風は強いが雪はない。人を訪ねるには好き頃合いと思われた。

 当地における、水運の元締めという人物に宛てた書状を懐にすると、数人の供を連れて馬上の人となったギジチ。帯剣はしない。こちらはあくまで話し合いのためにやって来たという、誠意の演出である。冬の寒さを除けば遮るものなど何もない十町の道のり。さほど時を掛けることなく、使者の一行は水運で栄える天竜川沿いの集落――散所にたどり着いた。

 馬上から辺りを見回すと、よその土地の者がいきなり馬で入り込んで来たにも関わらず、散所に住む人々はまるで驚く様子もない。子供たちは歪な形の風車をおもちゃにして愉しそうに走りまわっているし、人足たちは竿に引っ掛けられて寒風に曝されていた魚の干物を取り込むのに忙しい。冬場の風のおかげで、魚の身がよく引き締まるんだという声がギジチの耳に入る。荒々しい喧嘩の怒声が聞こえてくる。ふたりの男が人目も憚らず、道のど真ん中で取っ組み合いになり、殴り合っていた。どうやら博打でのイカサマがどうこうで喧嘩になったらしい。昼間から酔っぱらって顔を赤くした男女が、その喧嘩を近くで眺めて大爆笑をしている。脂粉と酒の香が、どこからともなく漂ってきた。茅葺き屋根の粗末な建物の群れは、竪穴に拠る川沿いの散所の者たちの住居(すまい)であるに相違ないが、どうやら賭場や酒場、船乗り相手に食べ物や道具を都合する商いの小屋、さらには身を鬻ぎ(ひさぎ)色を売る女たちの宿も、民家に混じって渾然と存在しているようである。道筋をひとつずれると、襤褸(ぼろ)をまとった辻占(つじうら)が、訳知り顔で女たちの運命を語って聞かせる。顔に朱を塗った旅芸人が、派手な格好をして火吹きの芸を披露している。見物客はわッと沸いて拍手をしつつ、芸人のそばに置かれた籠に貝殻――海浜の地域から川を遡って輸入されてきた、この散所での通貨ということだろう――を投げ入れる。

 人が多く、活気もあり、栄えている。
 しかしここには、色んなものがありすぎた。
 見ているだけで、くらくらとするような空間だ。

 岡谷の水運散所は人々の喜怒哀楽、そして欲望で満ち溢れ、ギジチひとりが入り込んでも決して気づかぬほど力強い場所であった。いや、それ以上に。この場所はさまざまな土地からの行商人、漁師、狩人、工匠、食い扶持を求める逃散農民や人足、あるいはやくざ者、遊侠に侠客、山師、芸人、乞食(こつじき)……とかく、ありとあらゆる者たちが居る。人間の坩堝(るつぼ)がごとき土地だ。

 さりながら、得てして。
『散所』(さんじょ)と呼ばれる場所は、そうした空間であったらしい。

 一般の社会や世間からはじき出されたはぐれ者、その職掌がゆえに賤民として蔑まれた人々は互いに寄り集まり、散所と呼ばれる局外者の集落を形成していったのだ。きっと天竜川の水運商人たちも、河川に沿ってあちこちの土地を移動するがゆえの『よそ者』の集団であったろう。そして彼らと交わるようにして発展していった散所の民もまた、同じくよそ者であったろう。しかし散所の民は、ある意味で世俗からまったく切り離された存在であるがゆえに、神に仕えることが可能であった。中には天皇に直属し、各種の特権を行使する者が存在したことさえも、歴史には記されている。

 時代が大きく下って鎌倉末期、後醍醐帝の霊夢(ここではもちろん東方Projectの主人公ではなく、神仏のお告げによって現れる霊的な夢のこと)によって見出され、元弘の乱で活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)は、その出自をただせば、こうした散所を支配して力を蓄えた豪族だったとも言われている。南科野の豪族たちが水運商人から河手を取り立てるというのも、そうした形式の支配だったかもしれない。

 さて、物語を本筋に戻して。

 ギジチの身は、いつの間にか明らかな不快にとらわれ始めていた。
 いま自分の身は、この散所を行き来する何百という人々の生の力に中てられてしまったのだと思いたい気持ちである。この狂騒は、まるで性質(たち)の悪い病ではないか。生来、騒がしい場所があまり好きではないギジチにとって、人多き散所の往来は苦痛をいや増しに高めるだけのものであった。水運の元締めに会って話をせねばならぬのに、早くも館に舞い戻ってしまいたくなる。こんな場所は水内の市塲にも、上諏訪の商館にもなかった。

 だからなのか、彼は訝る部下たちを半ば強引に制し、集落の裏道とでも呼ぶべき隘路に入った。そちらの方が、少しは静かだと思えたからだ。

「せっかく来たのだ、少し見物をしていく」

 そんな風に、もっともらしい理由を語るのも忘れなかった。
 とはいえ、「見物なら表の道の方が……」とか「あの女の子、可愛かったなあ」とか、そういう部下のぼやきは無視しながらだが。

 一行が進んだ先は、表の道とは一転して空気が変わる。

 まがりなりにも人が多くて華やかだった表通りとは正反対。湿った泥から立ちのぼるぬるさが冬風を穿ち、そこから漂う湯気みたいな何かは死にかけの病人の吐息めいて不可思議な悪臭を放っている。柱が折れ、梁が外れて傾いた家がある。小汚い土塀際を走りまわる鼠が、その歯に人間の小指らしいものを引っかけている。鼠がもと居ただろう所へ至ると、一組の男女の骸が筵(むしろ)を掛けられて横たわっている。情死したまま引き取り手もなかった者たちなのだろうか。

「もし……おまえさまがた。お花など、いかがじゃ」

 襤褸の布で頭を覆った媼(おうな)が道の切れ目から現れたのは、ギジチの心もようやく静まったかと思ったときだ。花売り――であるのだろう媼は破れかけの籠を手にしており、そのなかには数十本の花が並べられている。とはいっても、いざ眼を遣ってみると、売り物にするために栽培されたものであるようにも思えない。花弁は小さく、各々に不揃い。何とも知れない羽虫が憩うその茎は、途中からぷっつりと断ち切られたような跡がある。おそらく、その辺の野山から摘んできた花々であろう。おまけに、花とはいえど大半のものは萎れていたり枯れていたりして、みすぼらしい見かけとなってしまっていた。こんなものは他人(ひと)に売れぬということは、たとえ物売りでなくとも解りそうなものだ。

 汚い身なりといい、『品物』のみすぼらしさといい。
 ギジチに従う一行は「この媼、さては“これ”であろう」と、人差し指を頭の横でくるくると回す仕草をした。

「のう。お花は要らぬか。きれいなお花」
「ええい。どかぬか、この気違いめっ」

 無視して一行は通り過ぎようとしたが、媼はしつこく取りすがってくる。
 ギジチの馬の轡を引いていた男が、媼に手を握られる。
 垢と汗の混じり合ったねっとりした感触が気持ち悪かったか、男は腕を大きく振るって媼を弾き飛ばしてしまった。小さな悲鳴を上げて転ばされる彼女。驚いた馬がいななく。揺れる鞍(くら)の上から、「やめぬか……年寄りをいじめるなど見苦しい」と、ギジチは部下をたしなめた。

「しかし。この者は気違いです。まともに相手をしても疲れるだけでしょう」
「花を売りたいのであれば、買うてやれば良い」

 言うと、ギジチはすばやく馬から下りた。
 見れば老婆もまた立ち上がっている。地面に散らばった枯れ花を懸命に拾い集め、初めのようにまた籠に並べ始めた。何となく、あわれを誘う光景であった。

「のう、媼よ」

 ギジチは、自分より背の低い媼の目線に合わせ、幾らか屈んだ。

「あい」
「この散所の元締め――舟を操りて様々の品物を商う者たち、その頭領がいずこに居られるか、知っておるか」
「あい、知っております……」

 にんまりと、媼が笑む。
 かなしくも老いの果てに知性など失くしてしまったかのように呆けていた彼女だったが、その笑みだけは、まるで子供のように愛嬌がある。

「“水の蜂”さまは、川沿いの渡し場近く。たくさんの蔵とお舟を持ち、いっとう大きなお屋敷を構え、そこでお仲間と御一緒に」
「頭領は、“水の蜂”という御方か」
「あい」
「本当に?」
「間違うはずありませぬ。そのお父上は御身の若きみぎり、あたしを身籠らせておきながら、別の女に入れあげてあたしをお棄てなさった。その女に産ませた子が“水の蜂”さまじゃ。あの方は、父譲りの女好き。お屋敷に連れられる女がたに、婆はこうして花売りを……」

 そこから先は、よく聞こえなかった。
 昔を懐かしんで笑っているのだか、悲運を思い出してかなしんでいるのだか、判らぬ顔に媼はなった。ギジチは媼の意の真偽を問いただすことなく、自らの懐に手を入れると、

「花とともに良き買い物をした。取っておくが良い」

 と、小さな袋を渡した。

 中身は、小さな鉄の塊がいくつか。多く集めれば、金属器をつくる材料にもなろう。諏訪の工匠に繋がる人脈を通じ、手に入れたものだ。良き鉄は未だ貴重なものだから、小石程度の大きさでも通貨として不自由なく使うことはできる。媼の枯れ花と、それに彼女が教えてくれた情報に報いるだけの値打ちは十分にあるはずだった。

「手間を取らせたな。その花、ぜんぶもらおうか」

 しばらく手のひらで小袋を弄んでいた老婆は、何を言われているのかよく解らなかったらしい。しかし、自分が破格の利を得る取引をしたらしいことは、白痴ながらに伝わったようだ。「はあ、……そうですかあ」と、おずおずと花の積まれた籠を差し出してくる。それを両の手で、しっかりと受け取るギジチ。満足した老婆は一行に背を向けると、路地めいた細道に入り込み、姿を消してしまった。

「当てはついた。行くぞ」

 手にしていた花を供の者に任せ、ギジチは再び馬上に戻る。
 部下のひとりはその枯れ花を睨みつつ、「どうされるのです、こんな枯れた花なんて」と訝しんだが。

「先に、男女の骸を見たであろう。そこに供えでもすれば良い」

 ギジチは、部下を振り返ることもなくそう答えた。

 彼の言が通り、一行は道をいったん引き返した。
 そして筵で覆われた男と女の骸のもとへ、そっ……と花を置く。冬ゆえ、屍体は未だ本格的な腐敗には至っていないようだったが、よく肥った蝿が踊る死者の領域は、見ていて決して気持ちの良いものではない。顔をしかめる供の者らを引き連れて、早々、ギジチは裏通りを出るのだった。いま手綱を握る手には、媼から買った花の茎の感触が、未だはっきりと残っている。けれどその花がどんな種類で、何という名前なのかギジチは知らなかったし、興味さえまるで湧かなかった。


――――――


「諏訪の王権からの、使いだとう……?」
「いかにも。畏くも諏訪に政の府を開かれた八坂神と洩矢神は、その御叡慮のうちに伊那辰野の騒乱を鎮めんと思し召され、この一帯の水運散所にも力を貸してほしいとの仰せ」

 言い終わるか終わらぬかのうちに、十と幾つの視線がギジチの身体を貫いた。
 じろりとこちらを睨みつける屈強な男たちには、さすがの彼も肝が冷えるというもの。
 むろん、顔ではあくまで冷静さを保っている。しかし、背には冷や汗の流れる感触がある。荒々しい船乗りたちの、その頭(かしら)たちの寄合(よりあい)は、散所の道々で感じた『来る者拒まず』の空気とはまるで違うものを持っていた。どことなく、張り詰めて切れ味鋭いものを。

「つまり、何をしろってんだ。いくさのために税を納めろとでも言いてえのか」
「否。伊那辰野で城に籠り、抵抗を続ける豪族ユグル。今後は、その者との取引いっさいを差し止めて頂きたい。此度は、それを伝えるために参った」

 ギジチが来訪の真意を告げた途端、船乗りたちの眼がぎらりと輝いた。そのたくましい腕が伸び、それぞれの膝元に置かれた匕首を撫でる。柄に手を掛けはしない。しかし、その一事で彼らがギジチに抱いている感情は知れる。明らか過ぎるほどの『敵意』。匕首に触れるのは、つまり威嚇だ。多年に渡って船上にて櫂を漕ぎ、帆を張って働いてきた彼らの肌は、冬とはいえど日焼けの跡がまことに黒い。痩身で、かつ感情を表に出すことの少ないギジチとは、すべてが対照と呼べるであろう人々。その屈強な肉体の持ち主たちが露わにした怒りなるものは、矛を手にいくさを駆ける将兵とも、ほとんど違わない凶気のようである。

「ギジチとやら。あまりふざけたこと言ってくれるなよ」

 いちばんの下座であるギジチの、ちょうど向かい側。
 もっとも上座に当たる席で、この水運散所の元締めにして船乗りたちの頭領役、“水の蜂”が唸りを上げた。各々の頭たちは、ちょうどギジチと“水の蜂”を上下の頂点にし、そのあいだに二列の柱のように向かい合い、居並んでいる。

“水の蜂”の体格は、屈強な肉体を持つ頭たちのなかでも、ひときわ目立つ。
胡坐を掻いて座っている状態でさえ、他の連中より頭ひとつ抜け出るほど背が大きい。丸太じみた手足に走る幾本もの傷は、刃傷沙汰(にんじょうざた)の喧嘩をくぐり抜けてきた強者の証なのだろう。吐息を漏らす度にその首筋は大きく震える。獣が獲物を見定めて、呼吸を整えているような影を湛えているのだ。ぜんたい、人の形をした猪とでも呼べそうな魁夷の持ち主。

 一方に大男。一方に痩身。
 まるで対照の見かけをした者同士の、会見である。

 偉丈夫たる“水の蜂”は、濁酒で満たされた朱塗りの杯を片手にしつつ、もう片方の手では女をひとり、ひしと抱きしめる。遊び女(あそびめ)であった。遊び女は“水の蜂”の巨大な膝の上に乗せられると愉しげな嬌声を発し、紅(べに)と白粉(おしろい)で飾られた顔を男の髭面に擦り寄せる。ふへ、と、その強面(こわもて)に似合わぬ腑抜けた笑みを見せると、“水の蜂”は酒を一気に飲み干した。空になった杯を放り出し、空いた手を女の懐へと潜り込ませる彼。女の着物の袷(あわせ)がずれ、豊かな乳房が露わになった。誰に咎められるでもなく、“水の蜂”はその乳房を付け根から弄ぶ。

 ギジチは、そんな光景を黙って見つめていた。
 何て、ばかばかしいのだと思いながら。

 船乗りの頭たちが寄合を開いていると聞いて、訪ねてみればこの有り様だ。とても政の行く先を議する場とは思われない。実質、今のこの場所は政のための集まりではなかったのだろう。寄合とは言っても、しょせんは酒宴と同義のもの。事実、酒色を愉しんでいたのは“水の蜂”ばかりではなかった。各々の頭たちも、そばに侍らせた遊び女の色香に相好を崩している。しかしその一方で、ギジチに対してははっきりとした敵意で相対しているのだが。

 寄合の場である“水の蜂”の邸(やしき)――とはいっても、やはり竪穴式の住居の巨大なものでしかなかったが、その床には二、三の炉が据えられて鍋が掛けられ、煮炊きのにおいと煙が立ちのぼっていた。串に刺して焼かれる芋や魚の影が、人々のそれと混じり合い、住居の壁を絶えなく踊る。散所の道々とはまた違った狂騒と不快をギジチは感じた。

“水の蜂”は言う。

「ギジチ。おまえさんの言うことは、おれたちに商売を止めろと……そういうことだな」
「さにあらず。王権に叛き奉る不逞の輩に手を貸すことを、止めて頂きたいというのみ」
「不逞の輩ねえ」

 眉根に皺を寄せつつも、彼は遊び女の乳房をいじくり回すことに余念がなかった。その太い指が女の乳首を摘まんだとき、彼女はたっぷりの媚びを含んだ小さな喘ぎを漏らす。だが、“水の蜂”はそちらの方には注意を向けず、じいとギジチを睨みつけるばかりだ。歓心を引けないことがつまらなかったか、女はそばにあった瓶子の酒を口へ直に含み、“水の蜂”に思いきり接吻をした。互いの唇を介し、女から男へと酒が受け渡される。

 酒と唾液の混じったものを美味そうに飲み干して、それから。
 げええぇぇップ……と酒くさい息を吐いたかと思うと、

「そいつは、ちっと、できねえ相談だぜ」

 と、“水の蜂”はすげなく言った。
 今度は遊び女の乳房だけでなく、股座の割れ目にまでも指を遣りながら。

「おれたちはよ。天竜川を行き来する船乗りだが、同時に物売りでもあるんだ。辰野のユグルとの品物の売り買いを禁じられちゃあ、稼ぎのひとつがすっぽ抜けてなくなっちまう。王さまだろうが神さまだろうが、見も聞きも知らぬお人に命ぜられて“はい、そうですか”と従うわけにァいかねえな。それにな……」

 女を弄ぶ手が、ふと止まった。

「何か頼みごとがあるンだったら。それ相応の“誠意”ってヤツが要ると思うがね? その次第によっちゃあ、諏訪からの頼みだって考えてやらんこともないかもなあ」
「むろん、解っている。私もまた商いに糧を得る身。ただで協力せよなどと、道理に合わぬことを申すつもりはない。わが方の“誠意”、お見せしよう」

“水の蜂”の要求する『誠意』とは、――つまり、こういう場合は得てして賂(まいない。賄賂)や進物、何らかの利権や特権のことだ。ギジチも決して初心(うぶ)に非ず。ただ誠心を尽くして『お願い』をしても、相手が必ずこちらの意に従ってくれるものではないということぐらい、十分に解っている。まずもって彼自身が利権目当てに洩矢諏訪子に抱き込まれているのだし、まして、いま相手にしているのは散所の長として歴戦の荒くれどもを束ねる男。天竜川の荒々しい流れをたやすく乗り越える、手練れの船乗りたちの上に立つ“水の蜂”だ。その身の半分は、紛れもなくやくざ者と言った方が良いだろう。

「こちらを御披見あそばさるべし」

 その言葉と共に、ギジチは悠然と懐に手を差し入れた。
 ん……と、“水の蜂”は鼻を鳴らす。股の肉の割れ目に指を入れられ掻き回される女の喘ぎが、好奇心に満ちた彼の唸りに絡みつく。ぺろりと唇を舐め、「何の目録じゃ」と先を促す。ギジチが取り出したのは、一条の竹簡である。

「此は証文なり」
「証文……?」

 かすかな疑念で己が声に色をつけ、“水の蜂”は言う。
 左様、と、答えてギジチは竹簡を留める紐を解く。そして中身が相手に見えるよう、ぱっと開いて見せたのである。が。

「何のことやら。すまねえが、おれは文字ってのが読めねえんだ。おまえさんが代わりに読んで聞かしてくれ」

 文盲か、面倒な……と。
 心中、舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、ひとまずギジチは相手の要求を容れることにした。朗々と、竹簡の中身を代読する声が響く。

「水内郡の豪族ギジチ。右の者、商いに糧を得る者にして、諏訪王権に忠誠を誓う者なり。ために諏訪亜相、この者を神奴(しんど)と為し賜い、科野州における商いにて特にその権を認むる。以てこれなる一書、右の目的がための証とするものなり。諏訪亜相、洩矢諏訪子」

 この場の誰にも聞こえるよう、ギジチは、はっきりと文書の中身を読み上げた。
 そうして、文書の最後に押された赤い判を皆に示した。血判であった。ギジチの右手の親指には、一線、切り傷の跡がある。血判の主は、他ならぬ彼の指だということだ。

「これなるは、諏訪旧主にして亜相にあらせられる洩矢諏訪子さまの筆になる御証文。王権に仕えし商人こそ賜う御証文である。諏訪子さまは御自らにかしずく商人に特権を認め、科野諸州での商いを推し進めんとのお考え。他ならぬこのギジチもまた、かの御神に仕える神奴がひとり。“水の蜂”どの。御身もまた諏訪の王権に降れば神奴として遇され、その庇護の下に入ることができる。天竜川の水運商人として、他の者らに邪魔をされることなく商いを独占できよう」

 竹簡を畳み、懐にしまってギジチは続けた。

「こちらが示す“誠意”とは、かくのごときもの。諏訪王権のお墨つきで商いができる。悪い話ではなかろう」

 邸のなかの頭たちが、皆いっせいに黙り込んだ。
 杯を口に運ぶのも、串に刺さった魚を食むのもまったく動きを止めてしまった。
 彼らは互いに顔を見合わせて、各々にギジチを見つめ返した。賛同か? と、彼の心に希望が芽生えかける。

 しかし。
 返ってきたのは賛意でも称賛でもない。
 邸の隅まで埋め尽くすほどに大きな哄笑だった、また嘲笑だった。
 笑いすぎるあまり、その手から杯を取り落とす者まで居る始末。ついさっきまで匕首の柄を撫でて、敵意のままに任せてこちらを威嚇していた船乗りたちは、もはやギジチに怒ってなどいなかった。ものの道理の解らぬ子供が発した、面白い勘違いに腹を抱えて笑っている。そんな空気である。

“水の蜂”自らも各々の頭たちと共に爆笑し、巨体を前後にゆさゆさと揺さぶった。彼の膝の上で愛撫されていた遊び女も、事情を知らぬながらにくすくすと微笑を見せた。しばらく笑い続けた“水の蜂”は、少し落ち着いてきたかその哄笑を和らげる。そして女の股に挿していた指を引き抜くと、杯に注いだ酒で、ぬらりと濡れ光る自らの指先をすすいだ。

 その酒をぐううと飲み干し、彼は語る。

「良いか、ギジチ。おれたちはな。ずうっと長いあいだ、オンゾの爺に頭を下げ、ジクイのやつに河手を支払って舟を漕いでいたんだよ。やつらの下につくのは癪に障るが、払うもの払わねえと、連中、渡し場を占領して舟に荷の積み下ろしをできなくするばかりか、品物まで強引に持って行っちまう。だからおれたちは、どんなに大事な儲けを掠め取られようが、連中にヘイコラして舟を出させてもらうことしかできやしなかった」

 それぞれの頭たちが、その言葉にうなずく。

「それが今はどうだい。オンゾは死んで、ジクイどもはすっかり鳴りを潜めてやがる。もう誰に気兼ねすることもなく舟が出せるのさ」

 ぎらりと輝く、“水の蜂”の瞳。
 過たずギジチを射すくめる眼。
 ギジチは、緊張のあまりごくりと唾を飲んだ。唾を飲んで、自分がいま、窮地に追い込まれているらしいことにようやく気がついた。膝の上で、ぎゅうと両手を握り締める。脇の下に冷たく気持ちの悪い汗が流れる。

「だからこの寄合は、おれたちが本当に好きに商売をやれるようになったことを祝うためのもんなんだよ。あいにくだが、また誰かの下についてあれこれと妨げを受ける暮らしが戻って来るんなら、おまえさんに従うことァ、できねえよ」
「お待ちあれ。諏訪王権の方々は豪族たちとは違う。ただ己が利を得ることばかり是とするジクイらとは違い、諏訪方は河手を取ったとて、長き目で見て、のちのち渡し場や散所をも富ますために――」
「欲しいのは理屈じゃあねえ! はっきりと手に入る財なんだよ。いくら政がどうので格好の良いことを言っていても、当のおれたちが飯を食え、なおかつがっちりと儲からなきゃあ意味がねえ。ジクイたちに従っていたときよりも儲からなきゃあな」

 身を乗り出しかけていたギジチは、そのひとことで我に帰った。
 そして、今日の交渉が決裂してしまったのだということを急速に悟ったのである。
“水の蜂”に向かって辞儀を見せると、彼はふらふらと立ち上がった。鉛が詰め込まれたみたいに、両の脚が重々しい。この場で得るはずだった『勝利』に対して後ろ髪を引かれるような思いが、彼の屈辱を幾層倍も大きく煽り立てていた。顔を上げることができなかった。水運の頭たちが、揃いも揃って自分を嘲っているかのような気がして、怖ろしかったからである。

「……此度は、これで失礼をする」

 言って、ギジチは出入り口に掛けられた、扉代わりの筵へと向かう。
 さして広さがあるわけでもない竪穴の邸、彼の背中に向けられるくすくす笑いや噂話は、否が応にもはっきりと解る。擦り潰れんばかりに奥歯を噛み締めるギジチに向け、“水の蜂”が言った。

「ま、しかしだ。最初に言ったろうが。ちゃあああんとした“誠意”さえあれば、諏訪と話をしてみるのもやぶさかじゃない」

 うなずきながらも、ギジチは足を止めることがなかった。
“水の蜂”の言葉には、「……また後日、此方(こなた)へ参る」と答えるのがせいぜいだったのである。

 落胆する彼には、

「しかし、頭領。ジクイたちに河手を支払っていたからこそ、私らはよそ者に川を奪われることもなく、今までやってこられたんじゃあ……」

 という、頭のひとりから漏れたささやかな賛意の声を検める気力も、もうなかった。


――――――


 宿所にまで戻ってくるあいだ、ギジチは終始、無言であった。
 供として連れてきていた者たちにも首尾については何も語らなかったし、館に帰りついたときの「お帰りなさいませ」という部下たちからのあいさつさえも、ことごとく無視したのである。

 そして、帰って来てからの彼が最初に行ったことは食事を摂ることでも眠りにつくことでもなく、館の敷地に据えられた、あの巨大な櫓に登ることだった。

 誰もついてくるなと部下たちに厳命した後、足早に櫓の上へ至るギジチ。
ついさっきまで身を置き、そして恥をかかされた水運散所を仰ぎ見る。相も変わらず人の多きは十町離れたここからでも解る。豆粒か爪先かと思えるほど小さくなって見える群衆が、わらわらと冬風のなかを泳いでいる。くだらぬ連中……と、彼らを貶す言葉が心のなかに浮かんでくる。しかしそのくだらぬ連中が、彼の『策』を破綻させたのだ。自身の誇りを護るための方便が、今は痛々しい詭弁となってギジチの心を斬り苛んだ。

 懐の竹簡――“洩矢諏訪子の証文” なるものを取り出し、開いて中身を検める。
 末尾の血判と、自身の親指に刻まれた傷跡を見比べる。
 そして、ぎりりと歯を軋らせると、彼は手のなかの竹簡を思いきり櫓の床に叩きつけたのである。そのときの衝撃でか、竹片同士を繋ぎ合わせていた紐が切れ、竹簡はばらばらになってしまった。もと竹簡だったものを踏み潰し、蹴りつけ、しかし ギジチはしばらく無言だった。気の済むままひとりで暴れると、いちど大きく舌打ちをし、

「策を変えねば……!」

 と、独語する。

 旨味のある特権をちらつかせれば、水運の商人たちなど直ぐに靡くと思っていた。
 が、それはとんだ誤算だったのだ。多分に相手を侮っていたギジチ自身の慢心もあったとはいえ、何のためにありもせぬ神奴商人の制度をでっちあげたか。何のために洩矢諏訪子の証文とやらを偽造し、わざわざ自身の血判までも押したか。 すべては、まったくの無駄足ではないか。

 右手の親指を見れば、策が破綻した今となっては己が身を辱めているだけの傷跡がある。
 治りかけて、固く張り始めた肌のうちに臨む血の赤が、ぐるぐると渦巻くギジチのいら立ちを、どうにか整然としたものに組み替えてくれそうな気がしていた。


――――――


「お客さま……? いったい、どちらのお方?」
「何でもない。岡谷での仕事についてのこと」
「まあ、お忙しいのですね。このような夜更けになど」
「科野の政にも関わる。夜だからとて、追い返すわけにもゆかぬ」

 手っ取り早い安らぎを求めて女の膝を枕にしながら、ギジチは眠たげな声で告げた。
 寒々とした屋外から戻ってくると、薄暗いながらも人の気配の明るさを保つ館のなかは、ひどく温もりあるものと感じる。

 間延びした声の響きはあくびとよく似ていたが、彼は決して眠たいわけではない。むしろ、頭の中身はさっきの出来事のせいで冴えかえってばかりいる。着物の衣越しに伝わる女――愛妾の体温は、彼の身に染む茫洋とした疲れを確かに溶かしてくれはしたが、もっと骨身の根本に突き刺さった懸念までも完全に抜き取ってくれるわけではない。

 いや、むしろ。

 こうして女に甘えているぶんだけ、その気持ちの良さが“やすり”のようになって、ギジチの不安を鋭くさせる。まずは不調に終わった水運散所との交渉のこと。そっくりと無傷のまま人も土地も従わせようと思い、甘々の懐柔策を採ったのが間違いだったのかも知れぬ。どうせおれの交渉が失敗したら、諏訪は三千の軍勢を動員してむりやり岡谷を攻め取るつもりなのだからと。

 しかし、直ぐに「否」とも思い直す。“水の蜂”はじめ、水運の者らは――自らの腕前を安売りしたくないというのもあろうが――あれでいて、気位の高いところがある。他人(ひと)に頭を押さえつけられて従わされるかもしれないと知ると、余計に恭順を得にくくなるだろう。となると、今すぐに諏訪の軍勢の存在をちらつかせるのは、むしろこちらにとって不利になる。件の諸問題を解決する策は、昨日の今日では未だ思いつかぬ。

 これが不安のひとつめ。

「のう、黎蘭(れいら)」
「何でございましょう」
「意固地な爺を従わすに、おまえならば何とする?」
「それは、謎かけ?」
「違う、違う。傀儡子女(くぐつめ)の作法を知りたいと思うたまで」

 んん、……と、虹河の黎蘭はしばし悩む仕草を見せた。

 その間、ギジチは少し退屈だ。この黎蘭という女は彼が好きで手元に置いている者だが、芸はあっても学がない。学がない分を補うつもりか、何かを問うとやけに長考を要する癖があった。見様によってはいら立ちもしようが、ギジチはそれが好きだった。いじらしくて、可愛らしい。その可愛らしい癖のことを思えばこそ、彼は黎蘭の膝を枕とする自分の肩越しに、片方の手を差し出した。気づいて、直ぐに黎蘭も自らの手を差し出す。互いに眼を見交わすこともなく、ふたりの手指は合わさり、絡みあった。女の指が、もどかしいように男の指を愛撫し始めたとき。

「わたくしは……」

 どうやら黎蘭が答えを出したらしい。
 相手を見ぬまま、ギジチは次の言葉を待つ。

「この身は傀儡子女なればこそ、誠心によりて歌舞を奉り、どのような殿方のお心をもつかんで見せますわ」
「おれの心をもか……」
「意地悪い仰せ。舞わせていただきますれば、ギジチさまのその難しいお顔をも溶かすことができるかもしれませんものを」

 ふん、と、ギジチは鼻で笑った。
 嘲笑ではない。子供じみた強弁というか、傀儡子女としての意地みたいなものを黎蘭が見せてくれたような気がして、何だか面白かったのである。黎蘭の言葉に、「ありきたりな答えを申すな」とは、ギジチは言ってやらなかった。黎蘭はおれの心を覗くことはできておらぬとも、言ってやらなかった。彼なりの慈悲である。自らの庇護のもとにある傀儡子女、虹河の四姉妹のうち、ひとりだけ特別に目を掛けてやっているがゆえの優しさである。

 のそりと、黎蘭が膝を動かした。ずっと膝枕を強いられていては、次第に足も痺れてこよう。しかし彼女はギジチの頭が揺れて不快にならぬよう、最低限の動きしかしていない。黎蘭の、そのような些細な動きや気遣いでさえも自分の手のうちにあるのだと知って、彼は黒々とした満足感に満たされた。しかしその極北には、いま唯一、彼の思い通りにならぬものがある。否、“懸案”のことであれば光明めいたものは一筋ばかり、差し込んではいるのだが。

 つい先程のことである。
 水運散所との交渉成らず、という懸案の第一。
 そして彼の気を揉ます懸案の第二は、直接にこの宿所へと乗り込んできたのだった。

「水運散所の頭がひとり、“河城の丹鳥”(かわしろのにとり)と申します」

 と、その男は名乗った。
 船乗りらしくよく鍛えられた肉体であるのは夜の暗がりでもよく解ったが、背はあまり高くない。鼻は上から誰かに押し潰されたみたいに低く、そのせいか、子供っぽい顔つきに見えた。どことなく河に遊ぶ童を連想させた。

 ギジチは、はじめ彼を館のうちに招き入れようと思った。突然の来訪とはいえ、寒い冬の夜にわざわざ来てくれた客人だ。ずっと屋外で話をするのは礼にも反する。それに、何らか談合に及ぶ由なれば、建物のなかの方がいろいろと都合は良い。しかし丹鳥は、ギジチの誘いを頑なに固辞したのである。むろん、ギジチは訝る。その訝りにどうにか通り穴を掘り抜こうとするごとく、

「ギジチどの。私は、あなたの策に同心する」

 と、丹鳥は告げたのである。

「なに……?」
「さっき言った通りのこと。私は、散所が諏訪方の膝元に入ることに賛成しています」

 思わず、ギジチは瞠目した。

 この丹鳥という男、昼間、散所で自分に嘲笑を浴びせていた船乗りたちのひとりでありながら、今またギジチの示した懐柔策――根本はでっち上げだが――に賛同するというのか。なぜ、と、問いかけたものの、発言するまでもなく直ぐに言葉を引っ込めた。自分が“水の蜂”の邸を去るとき、確かひとりだけ賛意を表明してくれていた者が居たことを思い出したのだ。あのときは交渉が成らなかったことのいら立ちから、発言者の顔を確認する余裕まではなかったわけだが……その本人の方から、わざわざ足を運んでくれたということだ。

 得心がいった、と、ギジチが呟くのを見届け、丹鳥は大きくうなずいた。

「もともと、私は船乗りたちだけで独り立ちすることには反対だったんだ。ひと口に天竜川といっても、その流れは科野を出て遠州まで続く長い長いもの。途中で別の船乗りどもの根城近くを通りかかったとき。昔は文句をつけられて喧嘩になったり、積み荷の奪い合いになることもしばしばだったと、何度も聞いている。そんないざこざが、豪族の下について河手を納めるようになってからはぴたりとなくなった。川下の土地へ向けて睨みを利かしてくれるし、危ないときは舟に護衛をつけてくれたりもしたからな」
「なるほど、それも道理。……だが、大方の頭たちは河手を取り立てられることの方に懸念を抱いておるのでは?」
「厄介ごとに巻き込まれて、せっかくの儲けが“ふい”になってしまう方が怖ろしい。なれば、小事で損をしても最後に大事で勝てば良いのです。ギジチどの、あなたも……何でしたかね、あの、神奴として諏訪にお仕えしている身なれば解りませぬか」

 ふうむ、と、ギジチは顎に手を当て、うなり、考えた。
 この“河城の丹鳥”とかいう男、なかなか話の解る――少なくともギジチの意図からすれば――やつである。目先の損得にとらわれるあまり、最後の最後に失敗して総てを失うような者は、商いにも政にも向くまい。そう思ったとき、ギジチの心の奥に浅く火が灯ったのである。この男、何かのかたちで使えるかもしれぬ。今すぐに方策が思い浮かばずとも、丹鳥との関係を深めておいて損はあるまいと。商人としての打算と、豪族としての政の意識がぴたりと合致した瞬間だった。

 重ねて、ギジチは問うた。
 
「丹鳥どのの申したきことは解った。しかし、なぜ斯様な夜更けにおひとりで? 供も連れておらぬようだが……」

 弱々しい篝の火に照らされる向こうでも、冬寒き夜に丹鳥がたったひとりだけでギジチの宿所を訪ねてきていることは見えたのだ。不思議というより、不用心にも思える。宿所から散所まで、いかに十町かそこらしか離れていないとはいえ、夜陰に乗じて野盗の類が跋扈していないとも限らない。しかし、丹鳥は何の逡巡もなく答える。

「私たち天竜川の船乗りは、各々の散所ごとに仲間同士の絆というやつが強くてね。互いに助け合わなけりゃ食っていけねえという事情もありますが……。しかし裏を返せば、それは裏切り者には容赦しないっていうこと。この丹鳥があなたの元に行ったということがおおっぴらになれば、きっと後で半殺しにされちまう」
「なるほど……」
「それぞれの縄張りを持つ船乗り同士で、たびたび喧嘩や荷の奪い合いが起きるってのも、まあつまりはそういうことだ。仲間同士の繋がりは深いが、よそ者には手厳しい」

 つまりは、それこそが“水の蜂”を始めとする散所の頭たちが、豪族の下について河手を納めるのを苦々しく思っていた所以(ゆえん)であろう。そして最後に、丹鳥は言った。

「ともかく。私はあなたのやり方に賛成だ。今夜は、ひとまずそれだけを伝えに参りました。もしあなたが、岡谷の散所の上に立ってくれるんなら、この丹鳥が真っ先にあなたの下につき、必ずお力になる」
「しかし、他の頭たちが納得するまい。船乗りたちよそ者に手厳しいと、先に言ったのは丹鳥どの」
「いや。“モノ”さえあれば話は別なんです」

 声をすぼめる丹鳥に応じ、ギジチも耳を澄ました。

「あなたもご承知の通り……“水の蜂”どのは、小事にとらわれ大事の見えぬお人柄。いかに理で説いたところで、“財や女や酒がなければ、直ぐには首を縦に振らぬお人柄”」
「ほう」
「あなたが擲たれた(なげうたれた)財、“いずれこの私が万倍にもしてお返ししましょう”」

 ギジチは、深々とうなずいた。
 丹鳥はうなずきもしなかったが、にいと笑って踵を返し、散所に戻っていったのである。
 闇の中でギジチが思案するに――“河城の丹鳥”の狙いは、“水の蜂”に代わって水運散所の元締めとなることに違いない。だから、眼の上のたんこぶを切り取る刃物としてギジチを、否、諏訪の力を欲している。これを利用せぬ手とてもなし。

 しかし、いざ何かせんと思っても。
 政の策略は、自らが憩うための女の膝を求めて財を積み立てるより、はるかに難しいものがある。水運散所を内から切り崩せそうな光明――丹鳥との繋がりひとつがあったところで、それだけでは“細くて切れやすい糸”でしかない。

 問題は、その糸をどうやって強くするか。
 幾本もの糸同士をいかにしてより合わせるか。
 何より、“水の蜂”の強欲さはちょっとやそっとの賂では刺激されまいとも思うのだ。
 黎蘭の膝に寝転がってそんなことを考えているうち、ギジチはどんどん無言になっていった。こうなるとその意識はいま考えていることばかりに向けられ、愛妾である黎蘭の、その愛しい肌のぬくもりのことすらも、感覚からはまったく遮断されてしまう。

 しかし、そのとき。
 固い固い思考の殻に籠っていた彼は、他ならぬ黎蘭によって表に引きずり出された。
 彼女が、しきりにこちらの頬を指先で撫でていることに気がついたのだ。

「何をしておる……」

 と、ギジチは問うた。
 気づけば黎蘭は、ギジチの頬に薄らと生えた髭をなぞっているらしい。
 無精でもないが、一日の経過とともに生えてきたものである。産毛よりは濃く、無精髭よりは未だ薄い。

「お髭をなぞっておりまする」

 膝枕されるのを止め、ギジチは身を起こした。
 きゃっ……と、悲鳴めいた笑い声を立てる黎蘭。

「そんなことは解る。なぜ、おれの髭を撫でる」
「難しきことをお考えになっておられるようですから」
「どういうことだ」
「何かお悩みあると、ギジチさまはお髭が青々と生えてしまうのもお気になさらない」

 果たしてそうだったか? とばかり、ギジチは自分の癖を疑う心地で頬を撫でる。
 そんな彼の姿を見て、黎蘭は――少しためらいながらも――言った。
 
「ギジチさまはご自身の弟が……イゼリどのがお亡くなりになったときも、お髭を剃るのをお忘れでした」

 今は亡い弟の、その名前を出され、ギジチは少しく歯噛みをした。
 なぜそんなことを、と、黎蘭を糺そうと思った。が、止めた。そのような責めは詮無いことだし、何より黎蘭は自分を慰めるつもりであったのだろうと。しかし、代わりに。

「弟が死んだときと、政に難儀しておるときの髭が、一緒か」
「どちらも、同じギジチさまにございます」
「いや、違う。違うという気がする……」

 自らは答えを出せぬまま、しかし、黎蘭の軽口をいっとき封じてしまいた気持ちもあった。ギジチは黎蘭を押し倒した。彼女に抵抗はない。着物の襟元に手が掛かっても、自分の乳房が剥き出しにされても。ギジチがそこに顔を押しつけてきても。しかし彼の方は、急に燃え上がった情欲に身を委ねていながらも、心はひどく冷え切っている。

 ――そうだ、おれは。
 ――元はイゼリの仇である八坂の神を斃すためにここまで来たのだ。
 ――そのために諏訪王権での権勢を求めているのだ。
 ――だが、今では復讐と権勢と。どちらが元々の目的だったかまるで解らぬ。

 自身の肩にかかったギジチの、その長の黒髪に手を遣って、黎蘭は優しく引き寄せた。
 そうして顔を近づけて、男と女は接吻をしたのである。

「……終わったら、お髭を剃って差し上げましょう」
「いや、いらぬ」
「まあ」
「朝になってからで良い」

 おれは、果たして野獣か?
 死せる弟を利用して国家の政に地歩を得ながら、権勢を求める影で女に溺れているおれは? 黎蘭から唇を離し、ギジチは彼女の顔を見た。剥き出しの乳房と、乱れた髪が散らばるうつくしい顔。澄んで澱みない眼。その眼に、今の自分はどのように映っているだろうか。

 そのとき初めて、彼は『怖い』と思った。
 自らを政の表舞台に引き上げた運命の転変を。
 足るを知らぬ人の性を。
 だが、しかし。すべてはもう手遅れだ。
 彼はすでに“弓”を手にし、“矢”は放たれてしまったのだ。

「黎蘭!」

 と、彼は呼びかける。

「はい」
「おれは、おまえが好きだ」
「はい」

 ギジチの着物の帯を解きながら、わたくしも、と、黎蘭は何度もくり返す。

「ならば何があっても、おまえはおれのそばに戻ってくるか」

 黎蘭は答えない。
 その代わり、ただにこりと微笑んだ。
 十分すぎる答えである。
 答えて、にいとギジチも微笑する。
 同時にその頭のなかでは、次の策が組み立てられ始めていた。
 いつか土蜘蛛から買い受けた、附子(ぶす。トリカブトの根を乾してつくった漢方薬、また毒薬)が確かあった。元は野駆けの狩りで矢毒に使うもの。荒蝦夷との戦いに苦慮する高井郡の豪族にでも売りつけようと思っていたが。

 ならば、腹は決まった。
イゼリの死や“黎蘭の肉体をも踏み台にして”、ギジチはいっそどこまでも野獣のごとく生きようとも決めたのである。たとえ自分の女が、他の男と夜を共にすることになったとて。


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