Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第八話

2013/07/15 22:13:46
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「乱声(らんじょう)、乱声!」

 八坂神奈子の副将、神薙比(かむなび)が命ずると、各部隊に配された軍鼓や鉦が打ち鳴らされ、兵たちが鬨(とき)の声を上げ始める。風音の鋭さを除けば、数千の軍勢がいちどきに発するそれらの音々だけが、人々の耳を弄するに足るものだ。幾度かの乱声を経て意気上がる兵たちのさなかから、今度は鳥養部(とりかいべ)の舎人が進み出て檻を開け、中に捕らわれていた雉や山鳥の類を野に向けて放ち始めた。あらかじめ夏場に捕らえられ今まで官費によって養われていた鳥たちは、数月ぶりに手に入れた自由をその翼によく捉え、颯爽と空を駆け始める。
 
 やがて、鳥たちが軍勢からある程度まで離れると。

 馬上に預けた七尺近い身体を天突く柱がごとく伸ばし、神薙比は雲の切れ間を目掛けて一条の矢を射た。ひゅううるるる、と、どこか気の抜けたような音が響き渡る。狩猟の始まりを告げる鏑矢(かぶらや)である。一帯に響き渡った鏑の音を合図にして、集結した諸軍は各々に鉦を打ち鳴らし、軍鼓を叩き、獲物――先に放った鳥たち目掛けて一斉に移動を開始した。

 騎馬を先頭に押し立てて疾風(はやて)のごとく突き進む者たちあり、兵たちの勇ましい咆哮を響かせる者たちあり、まずは物見を放って様子を探る者たちあり、周囲に見せつけるごとく軍旗を高々と掲げてから動き始める者たちあり、猟犬を伴って真っ先に大将が先行する者たちもあり。同じ獲物を追うとはいえ、狩競の場は各々の将によってまるで違うやり方を見せる。彼らが動いて蹴立てた土が、冬風に乗って宙を舞う。さながら、塵芥と土埃は一場の勇壮な舞台を彩る、武骨きわまる装飾だった。

 そんななか。

 この催しの『本陣』である八坂神奈子の陣は、すべての軍勢とその展開とを閲することのできる、小高い丘の上に設けられていた。山野に林立するはずの木々は冬枯れて葉のほとんどを落としており、麓への見通しは意外なほど良いのである。それゆえ、本陣を置いて一帯を見渡すには最適の場所だった。少し立ち上がって眼光賜えば、諏訪湖のほとりの野を各軍勢が勢いよく駆けまわっている。そして、その光景を自らの手に重ねることをすると、まるで数千の将兵が、まるまる自分自身のものであるかのようにも実感できる。まさに、壮観と呼ぶにふさわしい。そこに顕れる快感は、軍事(いくさごと)に携わる者でなくとも同じであろう。

「そうは思わぬか、三人とも」
 
 髪の毛に引っ掛かりかけた木の枝を指先で除けながら、神奈子は振り向いた。

 彼女が語りかける“三人”――陣幕の内側で、諸将に混じって狩競見物に与るザムロ、ヌジロ、ジクイは、何のことか合点が行かず、首を傾げるばかりだ。その向かい側では、諏訪子がくッくと意地悪そうに微笑している。

 床几(しょうぎ)に座る身は、此度のことに同行した稗田舎人阿仁に至るまで――文官でさえも、そして軽装とはいえ――甲冑を帯びている。むろん諏訪子とても例外ではなかった。が、よほどに準備を急いだためか、歳若い少女に化身した彼女の身体にとって、身につけた甲冑は少し大きすぎたみたいだった。喩えるなら、幼子が父母の着物にいたずら半分に袖を通したみたいな不格好さだ。そんな諏訪子にちょっと可笑しげな顔をしつつ、神奈子はまたしばし狩競に眼を遣り、それからようやく陣幕の奥に在る自分の床几へと腰を下ろした。当然、彼女も鉄の鎧を身につけている。その腰には己が力のほどを誇示するごとく、高井郡の豪族クジャンからの献上物である蕨手刀(わらびてとう)を佩いていた。

「南科野の……ザムロ、ヌジロ、それにジクイと申したな。八坂さまが問うておられる。御奉答あるべし」

 意地悪そうな笑みをいっそう深くして、諏訪子は三人の豪族に問うた。

 この場にては、彼らだけが甲冑を身につけていない。当然だ、ジクイたちが諏訪にやって来たのはオンゾ赦免の件についてであり、狩競に参ずるためではない。帯剣ぐらいはしているが、本格的な武装を身にまとっているわけではないのである。外見(そとみ)にはまったくの場違いとも映ろう。

 神奈子への奉答の求めに、諏訪子からの「誰々が答えよ」との指名は特になかったが、ジクイが他のふたりに先んじて、己が内の緊張を吐き出すみたいに口を開く。

「まことに失礼ながら。何を問うておられるのか」
「解らぬか。……まあ良い。此度の狩競のこと」
「はあ」
「近ごろは政所(まんどころ)に籠ってばかりで、髀肉の嘆をかこっておるような気がしてな。ゆえに弓馬の鍛錬を兼ねて、雪積もる前に狩競を催さんと思うたわけだ」
「なるほど」
「だがな、」

 ジクイ、ザムロ、ヌジロの顔を順繰りに見回し、神奈子は自らもにやりと笑んだ。

「此度の狩競は、北科野の豪族らに対する閲兵も兼ねておる。稗田、集まった軍勢の内訳はいかほどであったか」
「は。水内郡より八百。高井郡より五百。安曇郡より四百。埴科より三百五十。小県より二百。佐久より百五十。これに洩矢亜相どのの拠出なされた諏訪勢六百が加わり、全軍の総数は三千にございまする」

 何ものをも検めることなく、稗田は諏訪に集結した軍勢の内訳をそらんじて見せた。彼が一礼を見せると、それに被せるかのごとくすばやくうなずく神奈子。

「聞いたか。この諏訪に、いま三千から成る軍勢が集まっておるのだ。加えて、」

 本陣の諸将の顔々を見回し、にいと微笑して彼女は語る。
 世の道理を何も知らない子供たちに、ようく説いて聞かせるみたいにだ。

「“三千の将兵は、この八坂神の命によって動く”」

 その言葉に、南科野の豪族たちは何かを察したようである。

 彼らは膝の上にしていた手へもう一方の手を重ね、しきりに擦り合わせているのであった。鳥肌が立っているのは寒さが厳しいから、だけではなかろう。いやむしろ、彼らの身のうちに走る感覚は粟立っていると言っても良かった。武器甲冑を身につけての大規模な狩猟。それを名目に、いまこの諏訪に武装した三千の兵が集まっている。ひとたび下知あらばその勢いをすぐさまいくさに転ずることも、十二分に可能だろう。加えて、いま眼の前で語っている人物の手に握られている“もの”は。

「北科野一帯の兵馬と、諸郡に配置した軍勢。これらを動かすということは、まさに科野の半分を自らの手で動かすということに他ならぬ。それを思えば、否応なしに胸の高鳴りを感ずるのだ。そなたたちも弓馬を嗜み、士卒を率いる立場であれば、少なからず理解の及ぶ心持ちであろうが」

 もし、北科野諸軍三千が一挙に南方へと矛先を向けたら。いわんや、諏訪王権の動員能力には、八坂神の御いくさにかしずく直属の軍を未だ連れてくるだけの余裕もある。……だが、その先は想像することさえも憚られた。南科野の豪族たちにとっての『敵』は、八坂神奈子と洩矢諏訪子を首班とする諏訪王権のはずである。しかし、事態はどういうわけか、南科野と北科野の戦いに持ち込まれようとしている。単純にどちらか一方を相手にするのであれば、しばらくは持ち堪えるだけの気概も余裕もあると豪族たちは自認していた。しかし、北科野と王権という二者合力のうえで南科野とのいくさになれば、勝ち目は限りなく薄くなる。それが解らぬばかではない。

 しかし、そのようななかにあってもヌジロだけは、奇妙な気骨を発揮した。
 持ち前の皮肉っぽさが顔を覗かせたか、毛のない卵頭を撫でながら、八坂神に横目を遣る。

「ほおう。では、まことのいくさに及ぶことあろうとも、“そうそう負けは致しますまい”」

 そんなことを、言ったのである。
 すると神奈子も片方の眉を吊り上げて、

「そうだな……もし、そなたたち南科野が飢えた犬のごとく牙剥いて噛みついてきても、そなたたちは“そうそう勝てはすまい”」

 と、応じるのだった。

「何を仰せになりたいので」
「他意はない。ただ、今この場にて北と南の軍勢が相戦うたら、どうなるかと思うたのだ」

 しばし、本陣は水を打ったように静まり返った。
 誰かの吐息さえもまるで聞こえてこない。沈黙という壁に何もかもが遮られてしまったかのようにだ。……けれどのその静けさが、かえって麓の狩競から響く音々を際立たせることになる。甲高い鏑矢の鳴り音が、二回ほど聞こえてきただろうか。獲物を仕留めた際に周囲へ知らせる合図として、あらかじめ取り決められていたものだ。それとほぼ同時に、いずこかの軍勢が歓声を沸き返らせる。軍旗がひときわ高々と掲げられ、自らの手柄が丘の上の八坂神によく見えるよう示しているのかもしれなかった。

 それに気づくと床几から飛び退いて、小走りに陣幕の外に駆けていく諏訪子。決して高くない背を伸ばしつつ、彼女は事の推移を見守っていた。

「今に伝令がこちらに駆けてくる。そうなると誰が何を射止めたの、褒賞をやるのやらぬので忙しうなる。その前に、話すことは話しておかねばなるまいよ」


――――――


「さて。此度はいかなる用件にて参ったのかな。わざわざ百以上の兵まで引き連れて」

 着物の袖で口元を隠し、諏訪子は大きくあくびをした。
 すでに床几に戻った彼女を、今度は退屈そうに見物している神奈子である。
 ふたりの王の退屈を差し止めんと試みるかのように――また、折れそうな心を支えるかのように――髭面のザムロが床几に腰を下ろしたまま、じりと進み出る。

「は。此度、諏訪に参ったは、南科野の商人たるオンゾの赦免を嘆願する由にございまする」

 二度目のあくび……らしきものの途中で、諏訪子は開いたままの口をぴたりと止めた。とはいっても、袖越しのことである。手のひらをすらりと動かして唇を縫い閉じるかのような仕草をすると、今度はその眼をザムロへ向ける。

「オンゾのな。あの男には、伊那辰野で叛逆せる豪族ユグルのと手を結んでいる疑いが掛かっておる。否、もはやその咎は明白にて、すでに王権に叛き奉る大逆の徒として弾劾状まで発しておるのだ。それを赦せと?」
「左様にございまする!」

 熱くなったか激昂したか、ザムロは大声を上げて立ち上がった。
 この冬の寒風のさなか、濃い髭越しとはいえはっきりと解るほど彼の顔は赤い。ひとりだけ頭から湯気でも上らせるかのごとき興奮ぶりであった。一方、突然のことに周りの諸将、諸舎人、衛兵たちはみな身構える。一気に注がれる視線、視線、に、さすがに痛々しいものを感じてしまったか、ザムロは小声で無礼に対する謝罪らしいものを口にすると、またすごすごと床几に腰を下ろした。

 代わって話を引き受けたのは、頬傷のジクイである。
 まあ落ち着かれよとでも言わんばかり、ザムロを片手で制しながら。

「おもんみるに、此度のことは讒訴(ざんそ)讒言(ざんげん)の類に他ならず。弾劾状――北科野の商人ギジチの申すことはわれらとて確認を致しましたなれど、此はまったくの言いがかりに等しきものと覚えまする。もし仮に、オンゾが諏訪より買い入れた品を岡谷まで運び、それが天竜川の水運商人に渡り、その後に伊那辰野のユグルの元まで達していたとしても、其はオンゾの責に非ず。ユグルに品物を売る水運商人にこそ帰すべき責ではございますまいか」

 柔和、の一語に尽きる態度であった。
 自身の頬傷が、見る者にどこか“やくざ”めいた印象を与えかねないことをよく心得ているのだろう。決して過剰な取り繕いではないほのかな笑み、それに少しの棘も感じられない穏やかな声である。ザムロみたいな熱っぽい態度では、相手に対していたずらに警戒心を抱かせるばかりだと、そのことに気づいている感じがする。加えて、話すことにもある程度は筋が通っている。むろん、諏訪子の立場からすれば『承服し難し』の一語に尽きるが。しかし少なくとも、この三人の豪族のなかでは、ジクイはそれなりに頭の回る方と言っても良いのかもしれない。

「なるほどな。一理ある」

 さも思案気に、諏訪子は手指の先で顎を撫でまわした。
 それから、どこかわざとらしく首を左右に動かし、ごきごきと骨を鳴らすかのような仕草を見せる。狩競の見物はとかく疲れる……、と、独りごとめいた呟きを彼女は口にした。そして。

「だが、ジクイ。ここにひとつ別の事実あり。其許たち南科野の豪族は、王権による水運の査察に応じなかったばかりか、兵をもって糾問の使者を追い返したとのこと。真に逆心なきを示すつもりあらば、王権の査察を受け容れて然るべきできであり、かつまた、水運の操業を停止せよとの仰せにも従うべきと思うが。其はつまり、水運商人の不正を暴くことに通じよう」
「……再三に渡って申し上げております通り、それでは河手が取れませぬ。天竜川沿いに土地を占めるわれら豪族は、水運の商人より徴収せる河手を財の柱としておりまする。それを考えれば、王権の糾問や査察を拒むはまさに断腸の思い。われらにも、われらの生活(くらし)がございますゆえな」

 そう言うジクイの顔は、少しうつむき始めていた。
 言葉通りの苦悩の果てとして、今この場に身を置いているとでもするみたいだった。いい歳をした男の仕草としてはいささか情けない、とも思える。だがその情けなさを見せつけることが、もしや憐れみを乞わんとする詭弁ではないだろうか。今度は指の骨をぽきぽきと鳴らしながら、諏訪子はなおもジクイに問うてみる。

「ふうん。だが、それでは先と後とで辻褄が合わぬ。其許たちの河手徴収の権を尊重すれば、水運商人の責がうやむやになる。水運商人を許すのなら、やはり其許たちが何かを隠していると疑わざるを得ぬ」

 ジクイがフと顔を上げ、諏訪子の方をちらと見た。
 少女と男の視線が交錯し、ぶつかり合う。

「三方のうち、どこか一方を引っ張ろうと試みれば、他の二方がそれを防がんとしてくる。それがため各々に気を遣えば事態は“なあなあ”となり、結局、辰野での騒動が長引くだけ。おかしくはないか? 責を水運商人に帰すればすべてが解決するにもかかわらず、王権がそれを為そうとして査察を行えば其許たちは兵まで動員して抵抗する。これで“裏”を勘ぐるなと申す方に無理がある。ひいてはこの混乱を隠れ蓑に……何らかのかたちでオンゾを庇い立てしておるのではないかと」
「そうは仰せられまするが。河手徴収を仮に花や木の実と喩えるのなら、水運はいわば日の光を受ける葉。そして水運に種々の品物を流すオンゾどのはすべての根にござる。かの者滅ぶれば、財の蓄えはおろか、種々の税を納むることすらもおぼつかぬものがございまする」
「つまり、オンゾと其許たちとは明確に利害を同じうしていて、万が一(まんがいつ)にもそれを侵すことあれば、終いには王権の支えすらも揺るがしかねぬと。そういうことなのだな」

 ジクイは否定も肯定もしなかった。
 ただ、にやと笑って肩をすくめただけなのだった。

 とはいえ、諏訪子の言葉にはふたつの“含み”があった。
 第一に、南科野の利権の構造を解体すれば、諏訪王権の柱石のひとつとして在るべき南科野からの税が滞ると。第二に、まずもって南科野の利権に切り込むことをすれば、おまえたち南科野は王権に背を向けるつもりなのだろうと。少なくとも、回りくどい手段を使って王権に揺さぶりを掛けるような連中ではある。諏訪側には北科野三千の武力があるとはいえ、余計な策を弄されて、逆に“こちら”が切り崩されるような事態になってからではすべてが遅いと、諏訪子もようく解っている。

 ふうむ、と、彼女は溜め息を吐く。
 だが、冷や汗ひとつかいていなかった。おもむろに床几から立ち上がると、くるくると歩きはじめる。ちょっとばかり、唐突なように周囲には見えたに違いなかった。行き場を失った野良犬が、当てどもなく徘徊しているみたいだったから。そして、彼女がちょうどジクイの真後ろに立ったとき。

「支え、な。幾千里の果て、海隔つる大陸の国家にては鼎(かなえ)という王器ありて、其は三本の脚を支えにしていたと聞くが――――ところで」
「はあ」
「其許たちは南科野から、如何様な進物を持ってきたのだったか? ……タダでオンゾを赦してもらおうとは、よもや思うておるまいが」
「先に提出せる書状にある通りにございまする。改めて御披見なされまするか」
「それには及ばず。さっきだいたい見た」

 稗田が、向こうでその『書状』に手を掛けるような仕草を見せる。
 が、諏訪子は着物の袖を翻し、それをも「要らぬ」と制すのだった。そして、また本陣のなかを歩きまわりながら、ジクイたちが持参した進物の数と種類をそらんじ始める。胴数十斤、翡翠二玉、塩三樽、絹布十数疋……諸々。それらは此度の嘆願にあたって、南科野の豪族たちが工面した進物である。ジクイたち三人が率いる軍勢は、彼ら自身を護るということに加え、王権に納めるための進物をも護衛するという仕事を帯びていたのだ。それら進物は、いま狩競の場にまで持ち込むことはできないため、先に諏訪の柵へと運び込まれているはずであった。

「これほどの進物を工面するには、数多の財を擲つ(なげうつ)必要に迫られたことであろう。斯様な忠心によって、この諏訪という王器の脚のひとつはできておるのかもしれぬ」
「恐れ入りまする」
「ところでその脚とやら……どうやら“四本目”があるらしい。しかもそれは、王器にひびを入れかねぬつくりとなっておるそうな」

 ジクイがすッと顔を上げ、諏訪子を探す。
 しかし立って歩くことにはもう飽きたのか、当の諏訪子は再び床几に。

「いったいいかなるお話であるのか、見当も……」
「では、見当がつくようにしてやろうと思う」

 思いきり眼を細め、唇を歪める諏訪子の笑み。

「王権は、南科野において不自然な武器甲冑の買い入れが行われていたとの見立てを得ておる。ジクイ、他ならぬ其許たちの土地においてな」
「不自然な武器の買い入れ?」
「うん。つまりは隙を見て軍(いくさ)の備えを行い、ユグルの叛乱に乗じて決起する腹積もりがあるのではないかと、な」
「なにを。なにを……ばかな。それこそ讒言にございまする。オンゾひとりに飽き足らず、われらにまでありもせぬ咎を着せるおつもりか!」

 今まで保っていた柔和さはあくまで仮初めだったか、ジクイは床几を蹴倒して立ち上がった。烈々とした声ぶりには、横で聞いていたザムロやヌジロですらも身をのけ反らせてしまうほど。向かい合って直に怒号を叩きつけられた諏訪子は、しかし、決して冷静さを崩さなかった。いや冷静というよりも冷徹とさえ思えるほどに、彼女の笑みは深くなる。

「近頃、諏訪においてはとみに鉄の値が上がっておる。夏から秋ごろにかけても王権は科野行幸がため軍装を整えねばならず、ために伴って値上がりはしていたが、その後も値は下がらなんだ。詰まるところ、出回る鉄の量が少ないためだ。上諏訪に商館が開かれ、他郡との交易が増えて以降はさらに上がった。本日、この諏訪子が狩競に拠出せる軍勢の装備においても、つるぎや矛を調達するに及んでいやに多額の金がかかっておる。備蓄せる米の四分の一を放出せねばならなかったほどにな」

 指先で宙を差し、ひとつひとつの段階を示すような仕草で諏訪子はさらに話を続ける。

「諏訪の鉄器は貴きもの、そうそう国外に売り出せるほど数に余裕があるわけでもない。それでも、冬になれば土蜘蛛衆が山にて鉄つくり、出回る量が増えて値は下がる。……普段であれば。だが、そうはならなかった。そしてここにまた、いまひとつの事実あり。ギジチが種々の商人から聞いて回ったところによれば、南科野、とりわけ天竜川沿いの土地々々では諏訪よりも鉄の値、とりわけ武器の値が安くなっておる。出回っておる品物の数が多いからよ。いかにもこれは怪しい。しかも、ジクイらの本拠地である伊那赤須をおおよそ過ぎた辺りから、また鉄器の値が上がっておるという」

 宙を差す指をそのまま滑らせて、諏訪子はジクイの顔の真ん中を差す。
 突然のことに、当のジクイは顎を引いて唇を尖らせた。ふ、と、空気の漏れ音のような矮小な笑い声が諏訪子の唇に宿る。そのままに、未だ彼女の追及は留まるところを知らず。

「加うるに、諏訪の鉄器は科野の外にまで横流しされておる様子。……人の繋がりなるものも侮れぬ。遠州磐田郡の行商人が、水運商人を介した取引は値を吊り上げられてしまうからと、わざわざ諏訪まで鉄器を買いつけに来ておったのだ。ここに及んでは、諏訪から天竜川、赤須、遠州という取引の道筋があることは想像に難くない。むろん、赤須の首長(おびと)たる其許が何らかのかたちで関わっておることも」

 と、言って下げられた諏訪子の指の向こう側から現れたもの。
 ジクイの、呆れたような笑みがそれであった。ふ、と、空気の漏れ音みたいな笑い声を上げたのは、今度は諏訪子ではなく彼の方だ。

「何を仰せになるかと思えば……みな品物の値の上がり下がりを根拠とするばかりの、確証なき詮議ではございませぬか。今この狩競の場において、其が真実(まこと)であると証する何ものがあると仰せられまする。どうか、お聞かせ頂きたい」

 しょせんは小娘の“たわごと”だ。と、ジクイの言い様にはそんな思いがありありと滲み出ているようである。心のどこかでは、すでに自身の勝利を確信しているに違いない顔つきだ。相対する諏訪子は思案らしい思案が尽きたのか、小首を傾げているばかりである。一方から、神奈子はいつしか腕組みをして事の推移を見守っていた。あくまで、見守っているだけであった。だがその一方で、腰の蕨手刀にちらと眼の端もくれてやる。何か起きれば、力ずくの処断は必要だと――そのことを確かめているかのように。あたかも、諏訪に三千の軍勢を召集したことを思い出すかのように。

 そんな神奈子の態度にも気づかずか、諏訪子は再び稗田の方を見た。彼女から顎で指された稗田は、直ぐさま浅い一礼を返す。ジクイにまでも向けて。諏訪子が再び口を開く。

「この稗田舎人阿仁という男はな。形(なり)は祐筆なれど、ものを憶えるについては一方(ひとかた)ならぬものあり。件の武器取引に関しての内容――帳簿や証文諸々、今ここでそらんじさせても構わぬのだぞ」
「斯様なことを仰せになっても、それがその場のつくりごとではないと、どのように証を立てるおつもりにございまするか。証が真実であるとまた新たに証を立てるなど、まったくもって本末転倒の事態」
「証な。そんなものは、先に閉鎖された上諏訪商館の帳簿、またさらに南科野諸所へ向けての取引の道筋を辿れば、“いくらでも出てくる。いっさいの言いわけが利かぬほど、いくらでも”。そうなれば、オンゾとか水運商人に責を帰するのみで話は済むまい。ジクイたち南科野の豪族たちまで、根こそぎ、大逆の咎を受くることとなる。いま麓の野を駆ける三千の軍勢、その威容を見忘れたわけでもあるまい」

 なに、と、ジクイは呻いた。
 ザムロは怒りのあまり髭面を掻きむしり、ヌジロは「はめられておったのか?」と、ぽつり、呟く。それきり、彼らは反駁を封じられた。否、自らの意で封じざるを得なかった。これ以上は諏訪子の言葉に逆らえば逆らうだけ、自分の首を絞めることになってしまう。彼らは気づかざるを得なかった。諏訪子は――諏訪王権は『本気』だと。諏訪に集結せる軍勢三千は単なる威嚇に非ず。諏訪の二神は軍勢を発し、南科野を蹂躙せんことをもすでに視野に入れていると。

「はめられた、か。うんうん。何とでも言えよう。だがな、ひとつだけ確かなことは」

 三たび床几から立ち上がって、諏訪子は豪族たちの面前に歩んだ。

「われらはすべてにおいて“口実”を持っておる。オンゾを大逆の徒と呼ぶための口実。其許たちの武器買い入れを糾弾する口実。……いやいや、この洩矢神の名にかけて、すべては事実であるがな。そしてもうひとつ。いま諏訪に在る三千の軍勢を、南科野に差し向ける“口実”。これだけは未だ定かならず。これだけは、其許たちの今後の態度に掛かってくる」

 全身から力が抜けたかのように、ジクイは床几に座り込んだ。
 いや座ったというよりも、『落ちた』とでもした方が正解だったのかもしれない。古びた人形が空中から取り落とされるように、彼はふらふらと床几に腰を下ろしたのである。

「われら三人の首を、差し出せとの仰せにございまするか」

 ジクイの代わりに、ヌジロが答えた。
 ザムロは、近く訪れるかもしれない自分の破滅を連想したのか、指先で首の付け根をフいとなぞるばかりだった。ふぬけたような三人の顔に――――諏訪子は春売る女にも似た媚びの笑みを送った。背を屈めて、上目まで遣って。だがジクイもザムロもヌジロも、喜ばしいようなところは少しもなかった。ただおののいて、身を引くばかりである。

「其許たちの首など欲しうはない。政に要らざる血を流すは愚かしき仕儀なり。それに水運を差し止められたくもなければ、河手徴収の権も失いとうはあるまい。三方の足の一方を引っ張れば、鼎はあっさりと倒れてしまう。だが、その失われるであろう足の代わりを王権が努めるとなったら? …………己が利得の勘定に長けた其許たちのことだ。何が得で何が損か、ようくようううく見通しがついておるとは、思うがなあ」

 そこまで言って、諏訪子は本陣を出る。
 狩競はすでに次の段階に入っているらしく、仕留めた野鹿を誇らしげに運ぶ兵たちの姿が遠目には見える。舞い上がっていた塵芥や土埃も、少しは晴れた。各軍の手柄を報告するべく山道を駆け上がってくる伝令の姿もまた、枯れ木越しにもはっきりと見える。すでに陣幕は冬風よりも、人々の吐く息によって多くはためいているようにさえ思われる。

「まったく。本っ当にろくでもない女だな、そなたは」

 伝令たちのやかましい戦果報告に耳を弄されながら、神奈子からの称賛とも嫌味ともつかない言葉にだけはフと気づく。ふふん、と、諏訪子は笑った。「お互いさまだ」と、そういうことは心の中でだけ叫んでおこうと彼女は決めた。


――――――


 狩競より二日と明けぬ、十一月十三日。
 諏訪の柵とその周辺は、にわかに騒がしくなった。
 とはいっても、諏訪においてまで何がしかの騒乱が起こったというわけではない。十一日の狩競を終えた北科野諸軍三千が、各々の本拠地に戻ることなく、未だ諏訪の地に留まり続けていたのである。そもそもが諏訪王権の指示によって召集された兵たちだ。今回の諏訪逗留もまた、やはり王権からの指示である。

 ひと口に『留まる』といったところで、――さすがに、諏訪の柵には元からの出雲人の軍兵に加え、このうえさらに三千の科野人たちをすべて収容するだけの余裕はない。城に入りきらなかった者たちは周辺の集落や村々に奇遇したり、縁戚の者を頼ったり、閉鎖中の上諏訪商館に入ったりした。あるいは下諏訪まで転じて諏訪子の御所とその周辺に落ち着いたりした者もある。部隊ごとによってまちまちではあるが、いずれにせよ、両諏訪のうちから出た軍勢はひとつもなかった。

「とはいえ北科野よりやって来た皆が、ひと冬を諏訪で過ごすことになるかは解らぬ。政の情勢によっては……」
「南科野の――伊那辰野へ矛先を転じるための備えになるかもしれない、と、考えても良いのでしょうか」
「その通り。ふうむ、おとなしう寝てはおらぬと思えば、少しは政を学んでおるようではないか」

 言って、諏訪子は自分の胸元にうずまるモレヤの頭を撫でた。

 幼子を撫でるような妻の手を、しかし、九歳の夫は頭を振って逃れようと試みる。子供扱いされることが嫌なのだろう。悪かったかと、諏訪子は手を引っ込めた。敷き布団の上に、ふたりは寝転がっている。今はちょうど、諏訪子がモレヤの小さな身体を後ろから抱きすくめるような体勢だった。昼間から特に何かしているというわけでもない。少女と少年の夫婦がじゃれあっているうちに、たまたまそうなってしまったというだけのことだ。掛け布団はふたりの足先で跳ね飛ばされ、あらぬ方向に転がっている。半分ほど水の入った桶が、その掛け布団に接してちゃぷちゃぷと水面を揺らしていた。

「ばかにしないで頂きとうございます。これでも、私は次代の王たるべき男です」
「解った解った。そう怒るな」

 今度は、諏訪子も無理にモレヤの頭を撫でようとはしない。
 代わりに、少しだけ強く夫の身体を抱き締めた。抵抗はなかった。母の乳を求めて泣き止む赤子を連想させる。とくとくとした鼓動の感覚が衣越しにも伝わってくるのは、順調に癒えつつあるモレヤの身体の健やかなる証なのだろう。反論とか軽口が叩けるようなら、なお上出来。この頃は、見舞いに来れば素直に寝ている方が少ない彼である。諏訪子は部屋の隅にまとめて置かれた竹簡をちらと見た。病身に武芸は嗜めず、ならばと思って政学軍学の書物を――解らぬなりにか――読んでいたらしい。重い咳病(しわぶきやみ)の病魔には、若さが最良の特効薬といったところか。もう、気持ちの悪い汗も熱も無きに等しかったのだ。

 そうは言ったところで、モレヤは未だ『病人』である。
 自身の寝屋から出ることは叶わない。ゆえに彼を見舞った諏訪子にとっては、最近の出来事をあれこれと語り聞かせるのがここしばらくの習慣と化していた。むろん、諏訪で大規模な狩競が挙行されたこと、諏訪子も軍勢を拠出したことをも話すことになる。集結したのは北科野三千の軍勢だと言えば、すると、その底に在る思惑をモレヤは言い当てた。狩競は単なる狩競に非ず。此は伊那辰野を中心とする南科野への威圧であり、ひとたび変事あらば直ぐに出動すべく画した軍勢でもあることを。なるほど、“格好つけ”の類で書見に勤しんでいたのでなかったことは確からしい。

「次は八坂さま諏訪子さまと共に、評定に出てみとうございまする。あ、それから、各地の豪族方との折衝なども。ちょうど多くの人々が参っているようですから」
「調子に乗るな。政はごっこ遊びではないぞ」

 そう言って、諏訪子は思いきり夫の脇をくすぐった。
 わッ! とモレヤは笑い声を立て逃れようとするが、諏訪子は一方の手でがっちりと彼の身をつかんでいる。ふたりのじゃれ合いで、元から乱れていた布団はさらにぐちゃぐちゃになっていく。

 ……と、夫とそんなふざけ合いをしていても、諏訪子の頭のなかには常に時局に対する冷静さが残っていた。いや冷静さが残っているからこそ、それを改めて認めるべくこうしてモレヤと一緒に居たがっていたのかもしれなかったが。さっき彼の言った通り、ここ数日の諏訪の柵は人の出入りがとかく多い。諏訪逗留の良き折と見てか、軍勢を率いて参上した北科野各地の首長が、ひっきりなしに神奈子と諏訪子に謁見を求めてくるせいである。この後も、むろんどこぞの豪族と顔を合わせる予定がある。さすがに諏訪子もちょっと疲れ気味、できることならこのまま夫と昼寝でもしていたい。

 すべては自分が種を蒔いた策とはいえ、こうまで花実が豊かになるとは彼女自身も今さらになって面食らっている感があった。再びモレヤを胸のうちに抱き留めて、かの少年が発する熱っぽい髪の毛のにおいに鼻の頭を押し当てながら、さてこの後は如何にすべきやと思案する諏訪子。

 神奈子は、自身の許しを得ずに商館閉鎖云々の措置に出た諏訪子の越権を、結局は追認していた。毒をもって毒を制するつもりになったのだろうか。自らが企図したことではあるものの、諏訪子自身、もっとも不思議に思うところではある。とはいえ結局、事態が一刻を争う状況では、諏訪子の策に従うのが最善と判断してくれたのには間違いなかった。
 
 身内の憂いを除いた後は、オンゾを餌として南科野の豪族――ジクイたちが釣り上げられるのを待てば良かった。『オンゾ』『水運商人』『南科野豪族』。この三者は利害の共有で繋がっているのだから、一方の“脚”であるオンゾを潰そうとすれば必ず豪族の方からしゃしゃり出てくるという確信があった。それは諏訪王権に対する謝罪か抗議か。いずれにせよ、連中には『南科野における武器の不正取引』というこちら側の切り札を突きつけて交渉に及び、それを大義名分として諏訪への反抗を封じ込めるのが当初からの“作戦”である。もっとも、やり口としては交渉というよりほぼ恫喝に近いのだが。

 そのための布石が、北科野諸豪族の保有する戦力なのだ。
 
 いかに諏訪子が不正糾弾という切り札を持っているとはいえ、丸のまま豪族たちにそれを突きつけるのはあまりにも無防備すぎる。相手は水運の利権を基盤とし、南科野に根を張る大勢力の首長たち。下手に刺激をすれば彼らの後ろに控える戦力で、諏訪の方が突っつかれる羽目になりかねない。

 ために、笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)。

 あらゆる交渉は――相手と笑顔を交わし合いながら、しかし、その手には匕首(あいくち)を隠し持って行われるべきものであると古人は言っている。いわんや、国政の場において軍事の担保なき交渉などほとんど夢想の産物に近い。有形無形の威圧を加えなければ、己がより優位に立つための落とし所の発見などできはしない。隠し持った匕首の役目を担わすに足るもの、とは、かの三千の軍勢に他ならなかった。

 最初のうち諏訪子は、北科野各郡に向けては『軍兵拠出の約束を取りつける』だけで済ませるつもりだった。幸い、北科野は北方の荒蝦夷との抗争に長年悩まされ、八坂神の加護を受けることで勝利したという首長も数多い。そういう者らはいま各地に祠や社を築き、熱心に神奈子を崇拝し始めているという。諏訪王権の首班は他ならぬその神奈子である。だから軍兵の拠出に際しては、北科野諸郡は渋ることなく手を貸してくれるだろうと。

 しかし、これに異を唱える者がひとりだけあった。
 むろん、諏訪子は首を傾げざるを得ない。反対者というのが、八坂神奈子その人だったからである。

「その策、採れぬ」
「なぜ!?」

 そう神奈子に食ってかかったのは、まさに諏訪子が越権の疑いありとして詮議を受けていた評定でのことである。

「“何かあってから”では、遅すぎる。仮に北科野の豪族たちが兵を出してくれたところで、諏訪に集結した諸軍に備えを割り振り、次の行動を命ずるまでには時が掛かろうよ。考えてもみよ、諏訪子。いかにわれらが北科野を味方につけ、事態を南北科野の戦いという図に持ち込もうと思っても、しょせん豪族たちの合力せる軍勢など烏合の衆に過ぎぬ。否、烏合の衆とまではいかずとも、其は国家の兵にあらざれば、ひとつとなって率いらるるに甚だ難し(かたし)。焦眉のときに当たりては、ゆえに一から軍勢を呼び集めるに同意はできぬ」

 評定堂の中心で、諏訪子はぐっと身を乗り出してさらに抗弁した。

「では、いかが致しまするか。矛たずさえぬ交渉など、幼子がおもちゃをねだるにも等しきもの。其は軍神(いくさかみ)たる八坂さま御自身がもっともよくお解りのはず」
「まあ、まあ。話は最後まで聞け」

 片手を上げて諏訪子の昂ぶりを制しつつ、神奈子は微笑を見せたのだ。

「何かちょうど良い名目……そうだな。諏訪で狩競など催すとして、各郡に各々数百の軍勢拠出すべき旨を命ずる。皆、どう思う?」

 なるほど、と、そのときの諏訪子は膝を打ちたい気持ちになった。
 それならば名目上、軍勢を諏訪に集結させても不自然ではない。同時に、集まった兵やその備えを閲することも可能だろう。何より、諏訪の地から南科野へ睨みを利かせることができる。諏訪子同様、評定衆にも取り立てて異議らしいものはないようであった。が、最長老の威播摩令(いわまれ)だけは「畏れながら」と、何ごとか申し述べんとしたのである。

「どうした」
「急ぎ軍兵を拠出させるとの思し召し、まことにもって結構にございまする。されど、諸豪族への負担甚だ大きなものとなるのではないかと。ここにおいては、……」

 と、老人はちらと諏訪子を見た。
 諏訪子もそれに気づいて威儀を正す。威播摩令は、あくまで神奈子の忠臣たらんとしている老人だ。どこかに、諏訪子への対抗心みたいなものが燃えているのかもしれない。そういうことを、ふと思わされた。

「まず諏訪子さまが御自らの手勢を率いて狩競に参加致し、諸豪族に範を示すが適当かと覚えまする」

 首を傾いで思案した神奈子は「良いか、諏訪子?」と問うてきた。
 むろん、諏訪子とても拒む理由はなかった。毒を制すための毒に、威播摩令の対抗心をも混ぜ込むことは必要だろうからだ。諏訪子は辞儀をし、堂々と宣した。

「承知いたしました。直ぐさま準備に取り掛かりまする」

 それからは、電光のごときすばやさで日々が過ぎた。
 諏訪勢の召集と装備の調達、北科野各郡への軍勢拠出を要求する書状の発行。すべてはほんの数日のあいだの出来事である。そしてジクイたち南科野豪族との交渉。いま夫のもとで束の間の落ち着きを取り戻しているという現実には、まるで影を踏むように曖昧なものをつかんでいる思いさえする。それでもひとまず、いま放てる“矢”はすべて放った。次に放つべき矢のかたちは、オンゾの出方次第といったところだろう。

 数瞬のうちに、幾十もの思考は閃く。
 モレヤの髪の柔らかさに口づけながら眉根に皺を寄せていた諏訪子だったが、そのうち、

「諏訪子さま。諏訪子さま……諏訪子さま!」

 夫が自分を呼ばわる声に気がついて、はッ、と、眼を見開いた。
 腕のなかでモレヤがもがき、首をぐるんと回してこちらを見つめようとしている。濁りない瞳が妻の顔を見ようと努めている。

「お、おお。どうした」
「気づいてはおられませぬか」
「うん? 何が」
「部屋の外――扉の近くに、ミシャグジさまと思しき御方の御声が聞こえて参ります」

 言われて、諏訪子は身を起こした。

 その拍子に、彼女の両腕の縛りからモレヤはすばやく逃れ出た。襟元に手を遣り、諏訪子とぴたりくっついていたときの汗を指先でぬぐう仕草をする。暑い思いをさせてしまったか、と、多少の反省を思いながら、諏訪子はモレヤの言を検めるように、部屋と廊下とを隔てる妻戸に意識を向けた。周囲に人の気配はない。しかし、その沈黙に針で小さな穴を開けるかのように、確かに聞きなれた気配が諏訪子を呼んでいるのが解る。ミシャグジ諸神の一柱であった。何かの使者であろう。

「うん。……確かにミシャグジが来ておるな。よう気づいてくれた。礼を申そう」
「何かの御報告に参られたのでしょうか。私の力では、その御姿まで眼にすることは叶いませんが……」
「何か大事なることであれば、そなたにも伝うることになろうよ」

 微笑して、諏訪子は立ち上がる。
 妻は夫の、それから夫は妻の、襟元の乱れを互いに直した。モレヤの頸元に手を遣ったときにふと感じる、薄皮一枚の下で血を運び震える動脈の熱さが諏訪子は嬉しい。彼は生きているのだ、と思った。元は諏訪子の意で政略の道具に祭り上げ、今はモレヤ自身、そこに足を踏み入れることを望み始めているとはいえ――彼には生ぐさい政の場も、痛々しいいくさの場も似合いはせぬ。彼はただ、この諏訪子の腕のなかに抱かれておれば良いものを、と。それは妻というよりも、子離れできぬ母に近い心境ではある。諏訪子自身は、努めてその事実から眼を背けていたかったのだが。

 足音さえ静々と、ついに彼女は夫の部屋から出んとした。
 布団の上に座したモレヤのことは、もう振り返ろうとしなかった。後ろ髪を引かれる思いである。人は脆い。その命が脆い。手のひらに、その脆さの熱が今は未だ宿ったままでいる。

「いってらっしゃいませ」
「うん」
「お気をつけて」
「うん。ではな」

 ことさらに、諏訪子は明るい声を出した。


――――――


 一歩、夫の部屋から出れば、それはもう公に在る者としての洩矢諏訪子である。甘々とした笑みは懐深くにしまい込み、直ぐ近くに来ているはずのミシャグジを探す。やはり、近くに人の気配なし。各地の領主豪族たちへの対応に、病身のモレヤを連れてくる用もないといったところだろう。

 数日ぶりに晴れ間を覗かせる冬空の下、諏訪子は自身の足首に絡みつく気配に気づいた。「ん……」と鼻を鳴らして片足を上げると、“居た”。モレヤの報せ通り、白蛇に自らの姿を擬したミシャグジの一柱がその姿を顕している。

 じゃれつく白蛇を、足首から先をくりくり動かして遊んでやりながら諏訪子はしゃがみ込んだ。フと、口元にかすかな苦笑を滲ませながら。数千数万という規模で存在する神霊の軍集団であるミシャグジたちだが、一柱ごとに性格の違いみたいなものはあるらしい。今やって来ているのは、特に諏訪子の足下に身を絡ませて遊ぶのが好きだという変わり者だった。その変わり者の小さな赤い眼をじいと覗き込む諏訪子。そういえば、不思議なことである。本当なら、ミシャグジは神に対する観念や捉え方が異なる出雲人の城には入れぬはず。祓えを行う辟邪の弓の鳴りもある。いったいどうしたわけだろう。声を絞って訊ねてみる。

「後で下諏訪で落ち合う手筈になっていたものを、どうやってここまで忍んできた。出雲人の神の場は、其許たちミシャグジにとっては毒のはず」

 すかさず蛇神からの応え。

 ――――諏訪より外からやって来た者たち、城の内外(うちそと)に数多ひしめている。
 ――――その者らが大なり小なり咳病の穢れをまとっていたから、それに紛れて。

 問われて、白蛇は主の足首から身を離し、改めて頭を垂れる。
 蛇の姿ながらに、その仕草は主君を前にして畏まる人間とよく似ていた。
 なるほどそういうわけかと、素直に感心する諏訪子であった。これではあえて責める気にもならぬ。北科野の兵たちの身に憑いた小さな穢れの束を隠れ蓑に、一柱だけならどうにか諏訪の柵に潜り込むことができたというわけだ。木を隠すなら森の中と言うべきか、個々の蛇神それ自体は神霊としてごく弱い神格しか持っていないのが、むしろ幸いしたのだろう。今もやはり、白蛇一匹の這う気配など覆い隠すかのような咳き込みの声が、どこからともなく響いてくるのであった。

「で、此度は何用か」

 慌てず、諏訪子は話題を変える。
 ミシャグジもまた、尻尾を振り振り来訪の旨を告げた。

 ――――諏訪に集結せる豪族たちの様子、探ってきた。

 おッ、と、つい口走りそうになってしまう。
 慌てて口元を手で覆い隠しつつ、周りに人目がないかに気を配る。やはり誰も居ない。薄く息を吐いてさらにミシャグジへ顔を近づけ、「それで?」と彼女は先を促した。

「北科野の諸豪族、諸首長。彼らに怪しき談合や、離反の動きなどないか」

 諏訪子は、いつか自らの両手をぐいと握り締めている。自分がミシャグジに命じたこと――諏訪に留め置かれた北科野三千の軍勢に対する監視――の報告を受けるのには、やはり少しばかり緊張する。北科野の豪族たちに何か都合の悪い動き、諏訪王権を蔑ろにするような謀叛や陰謀の気配があるのなら、策を再び練り直さなければならない。次善の策もないではないが、ここまでの流れが破綻するのは甚だ惜しいのだ。否、そもそも三千の軍勢を懐に引き入れてこれに叛かれるとなれば、いかに神奈子の軍といえども対処は難しいだろう。何せ、科野各郡にはそれぞれ千ずつしか兵を配置してはいないのだから。

 にょろりと尾を振り、ミシャグジは諏訪子を見つめ返す。
 人語を発さぬ赤い舌先が火のように揺らめき、それに代えるかのように諏訪子の意識へと直に言葉が入り込む。

 ――――特に、叛き奉る兆しのごときものはなし。ただ……。

「ただ?」

 唇を真一文字に引き結び、その次の言葉を待った。
 けれど白蛇にそこで躊躇を見せる理由はない。諏訪子の顔を一心に見つめ、己の知ることを述べるのみだ。

 ――――冬近くなっての、さらに終わりの時期見えぬ軍勢の召集。
 ――――これが、甚だ負担であるとの声多し。


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