Coolier - 新生・東方創想話

きょうきみにそまる

2011/02/27 20:07:31
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「私、あの子のこと苦手なのよ」

山端に沈む日の光は空だけでなく、降り積もった雪も赤く燃やして妖怪の山全体を紅葉以上に赤く染める。
落日に照らされ焼けるように赤い空の中で、射命丸文が誰となくそう嘯くのを姫海棠はたては見る。文がこれを嘯くのはこれで何度目だろうか。すでにその数は一や十では足りないはずである。
またかとあきれる はたてをしりめにして、文は鴉の濡羽といったその髪を夕日で染めあげている。逆光の中でかろうじて見える文の瞳もまた漆黒で、一切の感情を排したように思える。
「どうしてなのかはわからない。だけど、あの子と一緒にいると私の中の何かがざわめいて、それが不快で苛立ってしまう」
はたてはそこまで長くも深くもない白狼天狗との交流を思い返すが、そんなにあの白狼天狗は不快な性格をしていただろうか。強いていったところで、真面目過ぎて融通の効かないところがあるだけだろう。腹の底に何かを禍々しいものを秘めているようにも感じえず、一言でいうのなら裏表のない性格をしている。
やはり文が苦手と称するだけの素養があるとは思えなかった。正直なところ、文が被害妄想を患っているだけではないかとさえ疑えた。

「私は椛が悪いやつだとは思わないけど」

この日、はたては何とない気紛れでいつもなら聞き流すだけの文の愚痴に反してみた。いいかげん聞き飽きたというのもある。
会うたびに友人の陰口をたたかれるのはあまりよい気分ではない。

「はたてはあの子のことを、椛と呼ぶのね」

文の漆黒の瞳色がにわかに此の糸を孕んだのが見えた。それまでにない文の反応にはたては戸惑う。
射命丸文をよく知る者の中でも特に一握りだけが知る彼女の特徴にその瞳色がある。
文の瞳の色は一見すればとぎたての墨のような黒をしているのだが、感情の昂りとともに紫を帯びていき最後には菫色にまでなり、その時の文の瞳は紫水晶のようにすら見える。
これまで文がその白狼天狗について話すときは、きまって一切の感情が宿らぬ黒の瞳をもってしていた。
それが今は僅かとはいえその瞳に紫雲を浮かべている。これはただごとではない。

「それなら文は椛のことをなんて呼ぶのよ」
「犬走。あの子にはぴったりじゃない」

犬走椛、それが名高き射命丸文をして苦手と言わしめる白狼天狗の名前である。
白狼天狗といわれるだけあり、文のそれとは正反対の絹糸のような白髪に加え狼の耳と尻尾を持つ少女である。
本来、天狗という種族が空を歩くものだというのに白狼天狗は地に足をつけた生活を好む。犬走椛もその例外ではなく、むしろ白狼天狗のなかでも抜きんでて空を疎かにして地を好む性格をしている。
茂った草木が深緑の幕に見えようとも、わずかに光が漏れていれば頬に朱線を幾筋も走らせながらでも鹿道を行かんとするのである。
その犬走りという姓もその性格に由来したものだときく。

しかしながら記憶を辿ってみれば、文と椛は少なくとも三つか四つ前の秋から仕事を同じにしているはずである。
それが未だに社交的な文が姓をもって椛を呼称するのだ。はたてはそのことを不思議に思った。
文よりも後に知り合った自分の方が椛と付き合いが深いような気すらする。

「私より顔を合わせる時間は長いはずなのに他人行儀なのね」
「顔を合わせるといっても、会話は最低限で事務的なものよ」
「それはまた無愛想な上司を持って大変ね、椛も」
「愛想が無いのはあの子の方よ。いつも平坦な声と能面のような顔をして」
「そうかな。あまり感情的ではないにしろ趣味のこととか訊けば色々と話してくれるけど」

新聞のネタにはなりそうにないけどね、と続けようと思ったが、はたてはその言葉を封じて息を呑んだ。
文の双瞳に菫があった。菫は綾風に吹かれるようにして細やかに揺れていて、さらによく見れば薄い朝露で湿っているようにも思えた。

「どうしたのよ、なにか変なことでも言った?」
「……いえ、なんでもない。あの面白味の欠片もない子でも、興じるものがあるとは」
「ヒマな時は大瀑布の下流のところで河童達と駒遊びをするか、その傍流で釣りをしているのよ」
「それもあの子が話していたの? あなたが相手だと饒舌になるのね」
「河童のことはそうだけど、釣りは前の夏に偶然見たの。夏場の深緑の中だとあの白い毛並みは目立つから」
「たしかに夏の乾いた爽やかさとあの子の日陰な性格は馴染まないでしょうね」

憎まれ口を吐きながらも文がその体を小刻みながら確かに震わせている。それを抑え込もうとしてか、珍しく腕を組みそこに指を喰い込ませてまでいる。なかなかにお目にかかれない滑稽な姿である。
必死に余裕を演出しようとしているようだが、特別に注意せずともその揺れは手に取るように分かる。
またいつもなら誰を相手にしても、例え鬼が相手であっても、臆せず相手と視線を結ぶ文だが、今は顔こそ正面にしているものの、その視線はあらぬ方を向いている。
あの綺麗な瞳が見られないのが惜しくもあるが、はたてはそれが可笑しくてたたみ掛けるかのごとく、自分の知る椛を続ける。

「あとね、椛は絵を描くのよ。綺麗な絵を丁寧に描くの」
「……あの尻尾は切ればいい筆になりそうだけど。あの子には似合わない高尚な趣味ね」
「前の前の秋に私も描いてもらったわ。いつもは撮る方だけど、たまには描かれるというのも悪くなかった」
「あの子に似絵を描いてもらったの? なんでまたあなたを……?」
「椛から頼まれたのよ。他に頼めそうな鴉天狗がいないからって」
「そうですか……。たしかに鴉天狗が白狼天狗の頼みなんて普通は聞くはずないものね」

文の言葉の端に何か諦観したものを はたては感じた。
そして今まで逃げていた文の視線が帰ってきた。しかしそこにあった菫は枯れゆくようである。
一転して徐々に色彩を鈍くしていく瞳からするに文の動揺はおさまったように見える。
何が投石となって湖面を揺らしたのかは想像にかたくないが、あれだけ広がった波紋が何ごともなかったように消えたことを はたては残念に思った。
欠点という欠点の見当たらないこの同僚が狼狽する姿などそうそう見られるものではない。
もう少しばかり焦らしていけば良かった。はたてが逃した魚を思うその矢先である。

「明日も仕事と取材があるから、これで失礼させてもらうわ」

文がその黒翼で空を叩き、自身を旋風となして一瞬の間にはたての視界から消失したのは。
羽が何枚か黒い雪のように舞い残るばかりで、今となっては文を思わせるものは他に何もない。
そしてはたても文が残した羽が積雪を染める前にその場から何も言わず立ち去った。





※※※※※




前日の はたてとの問答を反芻しながら職場へと緩やかに飛ぶ。眼下の清流が朝日をうけ白く光っていて、積雪と相まって目に入るものは白色ばかりである。
昨晩は次の新聞に載せる記事を編集しようにも気が散ってしまい、あきらめて早々と寝床についた文であるが、睡魔が訪れたのは夜も白けはじめた頃だった。気の早い野鳥のさえずりを子守唄にして文は寝ついたのだ。

朝霧につつまれた頭で実際のところ自分は何をどうしたいのかと文は悩む。
友人と部下の浅からぬ交流を耳にして文が感じたものは、本人をしていまだに鮮明になっていないのである。それどころか時間の経過によって風化しつつある。あれだけ昨晩の自分を悩ませたものの正体をつかめていないのだ。
つかみそこなった手のひらに残ったものといえば、あの問答のときに自分の胸をしめていたものがいつもの苛立ちとはまた別の不快さだったということである。
普段の不快さが沸々としたものなのに対して、昨晩に抱いた不快さはちょうど眼下に見える川を流れる水のように身を引き裂く冷たいものだった。腰のあたりから頭まで順に冷やされ氷像となった後に、今度は槌をもって頭から順に崩されたようでもあった。

「なんで私があの子のことで、こんなに悩まなきゃいけないのよ」

こうした自分宛ての説得を試せば一時的な精神の安息は得られる。しかしその安息によって生じた思考の暇を潰すために、知らず知らずのうち昨晩のことを考えてしまうのはなんとも皮肉なことである。

はたてから逃げるように住処に戻ってからというもの、文はずっとこのようにしてイタチごっこを繰り返していた。
しかも文が輪をえがき走れば走るほど、胸に抱いた感情は少しずつとはいえ確実に摩耗していき、その輪郭をより曖昧なものへと変えてしまう。それを繋ぎ止めるために文はまた思考を走らせるのだが、その尾をつかむどころかいっそうの摩耗を引き起こしてしまうのだ。
それを嫌って文は輪から外れるのだが、気が付けばまた輪の中で回り続けている自分がいる。
逃げれば追いかけてくるのに、追いかければ逃げてゆく。蜃気楼よりも怪奇なものに憑かれてしまった。


文が職場とする小屋に着いたときには、悩みの種である白狼天狗はすでに割り振られた仕事をこなしているようだった。
仕事というのは妖怪の山の入山者の管理のことである。何年か前に山に新しい神が降り立ってからというもの、入山希望者が激増したのだ。多かったのは妖怪の参拝客だったのだが、なかには物好きな人間の参拝客もあった。
そのため余計なトラブルを生まぬようにと新しい神と大天狗とが話し合った結果、入山者の記録を取ることになった。その面倒事を押し付けられたのが、一連の騒動に偶然と関与してしまった文と椛なのである。

職場の扉を前にして文は深呼吸をして気分を落ち着かせた。これまでもこの扉を開ける前には深く息を吸っていたが、昨日までと今日ではその落ち着かせたい感覚が大きく異なってしまった。昨日までは何気なかったものが、今日からは大きな意味を持つのかもしれない。

そうやって文が扉の前でためらっていると、小屋の中からごそごそと椛が作業に勤しむ音が聞こえてきた。
その音を聞いたとたんに文はなんだか申し訳ない気分になり、せっかくの深呼吸を無駄にしてしまった。
そしてその気分に気が付いたとき、文は自分の気をひどく疑った。これまで格下の相手に気を使うことなんてなかったのだ。
実際、文は今まで椛が自分よりも早く仕事につくのは当然のことだとしていた。しかし今はそれを無礼なことだと罪悪感を得てしまい、あろうことか謝意まで持ってしまった。
さらに文を混乱させるものがあった。今の罪悪感が失くしてはいけない大切なもののような気がするのだ。
一刻でも早く拭い去りたいはずの胸の重りがなんだか大切なもののように感じられ、もしかすると自分を悩ますものの正体を掴む糸口になるように思えるのだ。
文は昨日までの自分との乖離に戸惑いながらもドアノブに手をかけた。

「おはようございます。射命丸様」
「……うん、おはよう。今朝も早くからご苦労様」

折り合いをつけられぬままに文が扉を開けると、なかにいた椛が作業を中断して文に丁寧なあいさつをくれた。
その私事を排して公に身を献ずるとき特有の堅く無機質な重石のような椛の声音と表情が、そのまま自分の胸に圧し掛かってくるように文は錯覚した。椛のする自分への態度のひどく礼儀ただしいのがまた不思議な息苦しさを生むのである。

椛は文の気も知らないであいさつと定型的な報告を二、三終えるとまた作業へと戻っていった。机に向かい黙々と書類を整理する椛のその尻尾が左右に揺れているのが、文には自分を拒絶しているように見えた。作業に没頭するその後ろ姿に文は、ねぇ、犬走。もし私が はたてだったなら、あなたは今どんな顔をしているの? と自分の胸中でうごめくものを吐き出したくなった。

しかし尋ねたところで椛を困らせるだけだし、なによりも自分が一番困惑してしまうことは明白である。文は喉まで上ってきたそれを呑み込んだ。
その代わりといえば変な話であるが、文は夢遊病患者がそうするようにしてふらふらと椛の方へと寄っていき、そのまま椛の背中に右手をそえてしまった。服越しにふれる椛の背は意外にもしっかりとしていて、わずかに感じられるその温かさに、文は何か納得したような安堵をえた。

しかしその安堵は寸暇もせずして儚くなるものでしかなかった。
とつぜんのことに驚いた椛が嬌声とともに体を弓のように反らし、そのはずみで側に積んであった書類が崩れた。揺られていた尻尾も反り立ち、文の右手はその尻尾の勢いに弾かれてしまう。
尻尾の拒絶によって正気を取り戻した文が目にしたものは、怪訝そうな目をして文を振り返り見る椛の姿であった。

「ど、どうかなされましたか? 射命丸様……?」

隠しきれない荒い息を漏らしながらも、椛はあくまで丁寧な口調で文を詰める。
驚愕に見開かれた椛の眼はこれ以上にないくらいに澄んでいて、自分のおかれた状況すらも忘れて文は一瞬それに魅入ってしまう。美麗なものや艶やかなものに気を取られやすいのは文が鴉天狗だからであろうか。しかしそれならば、なぜ文は椛の双眸の清冽に今まで気が付かなかったのだろうか。

「なにか粗相でも犯しましたでしょうか……?」

驚愕に恐れが混じりはじめた。先までの明澄さはやや失われたが、二色があわさり複雑な文様を描く。これもまた文の好むものに相違ない。
そうやって文は椛のさえずりを流しながらそれを鑑賞していたが、文はとたんに物寂しさにおそわれてしまった。
複雑に混ざり合っていたはずの二色の片方だけが消え失せて、怯えだけが残り濁りつつある椛の瞳と不安気に垂れるその尻尾を見て文は、私にふれられることは椛にとって不吉な意味しか持たないのではと思えたのだ。

「ごめんね、ちょっと魔が差したのよ。特に意味はないの」
「それならいいのですが……。とにかく今度からは一声かけて下さい。いきなりでは、驚いてしまいますから」
「ええ、お仕事の邪魔をして悪かったわ。肝に銘じておきます」

それだけ言って椛は崩れた書類を積み直しはじめた。文が手伝おうかと尋ねると、振り向きもせずして結構ですと簡潔な応えだけがかえってきた。あきらかに文のことを警戒してのことである。

今でも手を伸ばすほどもなく椛に触れられる位置にいるというのに、その背中がはるか遠方へと逃げてしまったようである。何か声をかけるべきなのだろうが、それすら躊躇わせる断絶した空間が自分と椛の間に生じたようにすら感じられ、その尻尾の揺れも先より大きくなっており拒絶の意を強くしたように見える。

ふと椛にふれた右手に目をやれば、軽く握り込んでいるのに気が付いた。
それが手に残った何かを逃さまいとしているのか、それとも何かにすがろうとしているのか、そして何よりなぜ自分があんなことをしたのか文は分からずにいた。
もし自分が はたてであればという得体の知れない仮定を思い浮かべたところまではしっかりと記憶しているが、その後の軽率な振舞いは文自身でも上手く説明できないのだ。
あの一連の行動は文本人からしても、気が付けばとか魔が差したとしか表現できないものであって、さらにいえば悪霊の類にとり憑かれたともいえるほどのものだった。そこには下手をすれば椛の首を絞めていたかもしれないほどの不気味さもふくんでいる。

昨晩から調子が外れていると思っていたが、いよいよ私は狂いはじめたのかもしれない。文が自己嫌悪の入り口にさしかかり、苦虫を食らいそうになったときである。

「射命丸様……、ひとつお聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

文の当惑がさらに深まりゆくなかで、存外なことに椛の方から声がきたのだ。文は慌てて落ち着いた声音を取り繕う。
その恐る恐るした椛の様子に、少しばかりの後ろめたさを得ないわけでもなかった。

「そうかしましたか? もしかして何か不審なものでも見つけたのかしら」
「その……お仕事とは関係のない私事なのです。それでも大丈夫でしょうか?」
「私事を持ちこむなんて真面目なあなたにしては珍しいわね。……いいわ、言ってごらんなさい」

尊大な口ぶりをする文であるがその内心では、椛に何を訊かれるのだろうかというよく分からない好奇心と期待感とが大きな渦をまいて、身体が酒を浴びたように火照っていた。

「その……、姫海棠様と射命丸様はやはり懇意な仲なのでしょうか?」
「その姫海棠様とやらは、はたてのことかしら?」
「はい、そうです。はたて様のことです」
「他の同僚達と比べても はたてとは仲が良い方だとは思いますが、……それがどうかしましたか?」
「そんな深い意味は無いのです。ただ、はたて様と話していると、毎度よく射命丸様のお名前が出てこられるので、その何と言えばいいのか……少し気になりまして」

椛は、はたての名を口にする度に不安気な様子がなくなっていき、その名を口にできるのが嬉しそうですらある。文はそのことに不審感を持たないわけではなかったが、いちおう椛の尋ね事にふくみなく応えてやった。
しかし、元より好奇心の強い文がそれだけで気がすむわけもなく、逆になぜこんな事を訊いてくるのか椛に尋ねてみたが、返ってきたのは当たり障りのないものであった。
そのどこにも毒にも薬にもならない椛の返答に、文はむしろ怪しさが増したように思えた。
怪しいものも綺麗なものと同じかそれ以上に文が好むもので、それを詮索してしまうのは記者としての性でもある。

「あなたの口ぶりからすると、はたてとよく会っているようですね」
「はい、はたて様とは何年か前にお会いしてから、たびたびお話の相手をさせてもらっています」
「あのお喋り娘の相手はさぞ大変なことでしょうに……犬走も健気ですね」
「そんなことありません。はたて様がお話してくれることは、どれも私なんかでは知りえないもので、すごく興味深いものばかりです。はたて様は幻想郷のことだけでなく、外の世界のことまでも私に語って下さって……。私の拙い絵も褒めて下さります。……とにかく、はたて様のお相手は私にとり身に余るほどの幸運なのです」

同僚を語る椛のその嬉々として熱心な様子は文が初めて見るもので、新鮮なものが胸の奥から込み上げてくるのは確かだが、それと同時に文は昨晩とおなじ冷えた苛立ちをおぼえた。
椛は目の前にいる自分ではなく、この身にこの場にいない はたてを投影して会話しているように思え、つまるところ自分は椛にとって はたてという幻影を映し出すための白幕の代わりでしかないと感じるのだ。
おそらく椛の潤んだ瞳に映っているのは職場の上司である文ではなく、休日に楽しげな話をしてくれるはたての姿なのだろう。
白幕代わりにされるのが不快であることは疑いようもない事実で、冷ややかな苛立ちもそれを証明してくれている。しかし、嬉々とする椛をこのまま見てみたいという欲求もまた確かなものである。
それならば私はこの苛立ちに耐えながら懺悔をきく神職者のように最後まで白幕を演じなければと、文は椛が望み喜びそうな神の代弁をすることにした。

「それほどに犬走から良く思われているなら、はたても話し甲斐があったと喜ぶにちがいありません」
「もしそうだとすれば私も嬉しいです。……ですが、白狼の身でありながら出過ぎる私を他の鴉天狗の方々は快く思ってくれないとも思うのです」
「はたてがそんな些事を気にするわけはありませんし、もし他の鴉天狗に何か言われたとしても犬走を庇ってくれるはずです」
「それでは、はたて様に大変なご迷惑をおかけすることになります」

それまで立っていた椛の耳と尻尾が力なく垂れてしまった。肩を落とし口を結んで耐えるその様子は文の同情をひくのに十分な素質があった。
沈痛な面持ちで下を向いた椛に、文は憐れみの助け船を出す。

「それならもし他の鴉天狗から野次をうけたなら私に言いなさいな。私の方で はたてに知られぬよう話を着けましょう」
「しかしそれだと射命丸様のお手を煩わせてしまいます。それは私の望まぬことです」
「これはいつも真面目に働いている犬走へのご褒美です。気にすることはありません」

文の提案に椛は少し悩んだ様子だったが、最後にはありがとうございますと丁寧なお礼をにこやかに述べた。
その澄んだ美しい瞳を見て文はこれが本当に初めて見る椛の笑顔だと、奇妙な感慨に惚けてしまいそうになった。
まばゆいものを宿して自分を見つめてくる椛に、文はまた手を伸ばして今度はその頬に触れてみたい衝動におそわれた。
椛の頬は地を好むというだけあり、よく見れば朱線の痕がうっすらと浮かんでいる。それがまた怪しく光るように見え文の欲求を駆り立てた。文はその古筋に指をそえてゆっくりと走らせたくなった。きっと新雪の上を行くようにしてなめらかに指は滑ってくれるだろう。

けれども、その感慨の裏で大切な何かが音も無く崩れてしまったことは、その感慨があまりにも深いゆえにこの時は自覚できずにいた。
その場で手当をすればなんともない擦り傷も、気が付かずそのままにしておくと細菌が入りこんで破傷の風にさらされ重篤な症状へと陥ることがある。この時に文が受けたと思われる傷というものも、その手の類のものであり、椛の笑顔に気を取られた文の不注意は、その風に巻き込まれるには十分すぎるほどのものだった。





※※※※※


職場を出た文は真っ直ぐ住処へと飛ぶ。別れ際に椛とまた少しばかり話せたこともあり、朝と同じ空を飛んでいるとは思えないくらい心穏やかである。
少し早めに作業を切り上げたため、いつもなら赤く染まった空を飛ぶのだが、今日はまだ青と紫を混ぜた色をしている。その複雑な光線は浮き雲を桜色に染めており、文はしばらく先になる春の光景を思わされた。

初めて会話した記念に写真でも撮っておけばよかったとか、もっと話せばよかったとか温かな後悔にさいなまれながら空を行く。
今日一日で数年間の、文の一方的なものであるが、椛とのわだかまりがなくなったこともあり、今晩はいい記事が書けるかもしれないと、まだ西の山の頂きよりも高いところにある太陽を見て文は意気込んだ。飛ぶにしたがい擦れ違う寒風にすら、今の文は春の新鮮なものを感じるほどである。

「今日はやけにご機嫌のようね。なにか拾い食いでもした?」
「そこらの犬ではあるまいし、私がそんなことするわけないでしょ」
「カラスも拾い食いすると思うけど」
「妖怪の山のカラスはしませんよ。そんなことも知らないのですか?」
「知っているわよ、だって私もカラスだもの。そういう文だってカラスだし」

帰路を飛ぶ文を呼びとめたのは昨日と同じく はたてであった。
早く住処に戻り記事を書きたい文としては、聞こえなかったふりをしてもよかったが、相手が はたてとなれば話は別になる。
昨日は知らないことを吹聴されて戸惑ったが、今日は自分もその一端を知り得た。少しくらい知識を合したところで罰は当たらないだろうとの考えである。またおそらくは当事者の はたてをしても未知のものを自分が持ったという驕りに近い感情もそれを助けた。

「何かいいことがあったみたいだけど、私にお裾わけはないのかしら?」
「いいことですか? 今日も普段と変わらぬ一日でしたよ。目新しいといえば、犬走に話しかけられたくらいでしょうか」
「それはよかったじゃない。部下との交流はどうだった? 椛も話せばいい子だったでしょ?」
「能面にも一寸の情はあるといったところでしょうか。あまりに微細すぎて記者としての目がなければ、気が付かないくらいのものでしたね」
「椛もこんな上司を持ってかわいそうに。大天狗様に頼んで私の助手にしてもらおうかな、いいコンビになれると思うのよ」
「それはいいかもね。私も能面が仕事仲間だと気が重くて仕方がない。犬走もあなたのことを好いているみたいだし」

さぁて、鈍い友人はどんな顔をしているか。意外なところからの好意だ。きっとうろたえるにちがいない。文は友人の滑稽な姿を期待し、にやける顔を隠すこともなくはたてを見た。

「それどういう意味?」
「そのままの意味よ。あら、もしかして気付いてないの? 犬走があなたをどう思っているか」
「どうと言われてもね。そりゃあ悪く思われてないとは思うけど」
「だったら次に犬走と会ったら聞いてみなさいな。あなたを話す犬走の様子は尋常ではなかった」
「尋常ではないって……。それ文の勘違じゃないの?」
「照れ隠しもしつこいと可愛くないですよ?」
「だから照れ隠しとかそういうのじゃなくてさぁ。それは文の勘違いだって」
「犬走もかわいそうにね。こんな強情な天狗を好きになるなんて……。私なら愛想尽かしてしまうわ」
「その言葉、そっくりそのまま文に返すわよ。なんならノシもつけようか?」
「真赤な顔をして何を言うのやら」
「赤くなんてしてないわよ。文こそ勘違いを認めなさいよ」
「夕日が二つあると思われても、おかしくないくらい赤いわ」

少し遅れながらも文の思惑は叶うことになった。思わぬところからの好意に動転したのか、それを紅潮してまで否定する はたての取り乱しようは喜劇的で、文は昨晩の仕返しができたと優越にひたる。
はたての口にする否定の言葉の一つ一つが昨晩に損なわれた文の矜持を満たしてくれるのである。
しかしこの栄華もまた長く続くものではなく、一時的なものでしかなかった。

「……まぁいいや。万が一にでも文の言う通り椛が私のことを……だったら、その時はその時だわ」
「もう終わり? もう少し真赤な顔をしてくれていてもよかったのに」
「よく考えてみたら、それはそれでおもしろくなりそうだしね。うん、きっとおもしろいわ」

はたてが突如として不敵に笑いはじめ、その笑みを見て文は風向きが変わったように感じた。
風上だった場所が一変して風下になったのだ。今や優越の瞳は文からはたてへとその持ち主を変えてしまった。
はたてが細めた粘着的な目をして文を冷たく見据えるのである。

「椛と会ったら文の言葉が本当か聞いてみる。そうすれば一件落着だもの。私も椛はお気に入りだし」
「きっとあの子も喜ぶんじゃないでしょうか」
「もし喜ばれたら邪魔しないでよ? 新聞のネタにするのも禁止。馬に蹴られないようにしてね」
「そんな悪趣味なこと……、私がするわけないじゃない」
「それじゃあ、私の椛によろしくね」

はたての捨て台詞にかまうことなく文は押し黙った。
はたての細められた目にはカラス特有の狡猾な光が隠れもせずにいた。獲物を狙う目であるのに、しかしなぜか邪なものが感じられなかった。それだけ はたてが椛の好意に本気であるということなのだろうか。

中空を見つめて文は露骨な売り言葉を買ってしまった迂闊さを呪う。本当にこのようなかたちで椛の望みを叶えてもよかっただろうかと疑問に思うのだ。
本来なら本人が立ち向かわなければいけない試練を、許可なく勝手に取り除いてしまったが、これは椛と少しでも話せる仲になり浮ついた自分の独善なのではないのか。
いきなり相手から理由もなく与えられては、ありがたみだって薄れてしまう。苦心して得たものと何気なく得たものでは、一見すれば同じものに思えてもその価値に雲泥の差が生じることだって多々ある。椛が欲しているものなんてその最たるものといえる。
そういった意味で考えてみれば、実のところ自分は椛を裏切ったことになるのではないか。何年も下地を作って醸成してきたというのに、それを無駄にさせてしまうのだ。
……そうだ、そうにちがいない。今からでも はたてを追いかけて、はたてに椛から言われるのを待つよう言わなければ。
そうして黒翼で空を打とうとしたとき、文は道徳的な建前の裏に、二人が失敗すればいいと思う自分の姿を見つけた。
その時、春を思わせていた雲はすでにその色を変えて、秋を思わせる紅葉色になっていた。
山の冬風が文の頬に流れる汗を冷やす。




※※※※※




住処に帰った文を待っていたのは後悔だった。
今晩はいい記事が書けるかもしれないと活きこんでいたのに、今の文は小筆を紙の上でいたずらに走らせるだけで、その小筆も墨を吸ってから久しいため紙面にかすれた黒線を残すだけになっている。
肘をついた左手は髪をこめかみにかきあげて強く握り込むようにしている。

はたてと別れてから住処に戻るまでの赤い空の中で、文は椛との会話とあの笑顔を何度も思い返していた。
最後に見せてくれたあの笑顔だけが文を慰めてくれるのである。記憶のなかの澄んだ瞳にすがりつかなければ正気を保てないほどに文は追い詰められていた。

あの澄んだ輝きが自分以外の誰かのためだけのものになるのは、その相手が友人でも同僚でも耐えられるものではない。文は記憶のなかでしか椛を独り占めできないことを悔やむ。
昨日までくすんだ能面に見えたものに、突如としてまばゆい輝きを発すると知ったのだ。なぜ今まで気が付けずにいたのか。
もっと早く気が付いていれば、それこそ他の誰の目にもつかないところに囲ってしまうことだってできたのに。

本来ならば文は はたてよりも椛と近いところにいられたはずなのだ。数年間、一日の大半を小さな小屋のなかで二人一緒に過ごしてきたのだから。
しかし文は椛の美点を苦手だと一蹴して最初から蔑み普通の関係すら築こうとしなかった。
今思えば身分が上の自分と沈黙のまま作業を続けることが、椛の心にどれほど堪えたことだろうか。その疲弊したであろう椛の心を、はたてが癒してやったのだ。苦痛を与えてくる者と安らぎを与えてくれる者。そのどちらかを選べるのなら、前者を選択することなど特殊な性癖でもしていなければありえないだろう。
はたてに差し置かれてしまうのは、自業自得といえばそれまでのことである。文は深い墓穴を掘ってしまったのだ。

はたてが次に椛と会ったときがその時になる。はたてが椛を取って行ってしまう。そしてそれは はたてだけでなく、椛からも求めていることである。
求めあった手と手が繋がるのだ。もしこれが椛とはたてのことでなかったら、文とて祝福の辞くらい述べる。しかし、繋がるのは椛とはたての手なのだ。そして繋がるのはもう間もなくことである。
なにせ邪魔するものは一つもないのだ。強いて言うなら本人達が臆病風に吹かれて尻すぼみすることだけだが、それもつい先程に文が はたてを煽ったことで霧散してしまった。
遠からず はたてはあの煽りを追い風にして椛のところまで飛んで行ってしまうだろう。

それでも文は椛が はたてのものになるのを認めたくないのだ。それほどにあの澄んだ瞳を諦められないのである。
千年を生きた文をしても、あれほどに強烈な光を宿したものを目にしたことはそう多くない。
しかもそれが自分へと向けられた事となると、ことさらに希少なものになる。これを逃すとまた千年を生き永らえなければ見られない気さえするのだ。

それだからといって、椛とはたてが通じ合えないよう露骨に画作するわけにもいかないのも事実である。
なぜなら文は椛が はたてを慕っていることも、はたてが椛の思慕を受け入れるつもりでいることも、その当人達を介して知ってしまったからである。
自力で勘付くとか風の噂で耳にしたとかで二人の関係を知りえたのなら、文も素知らぬふりをして二人が通じ合わないように、それこそ手段を選ばないのなら、仲違いをさせるように仕掛ける事だってできたのだ。

しかしながらその反面、二人を完全に遠ざけては意味がないことを想像できないほど、文から狡猾さは失せてはいなかった。
椛が宿らせている例の綺麗なものの正体が はたてへの思慕の木漏れ日であることに文は勘付いているのだ。
それゆえに椛とはたてを本当に仲違いさせるわけにはいかないのである。二人の仲が破綻してしまうと椛の綺麗なものも一緒に崩れてしまう。
もしかすると、その崩れたナカに椛が別の新しい綺麗なものを孕む可能性もあるけれど、それは確実性に乏しく逆に醜いものに化けてしまう可能性もある。
悲しみに沈み悲嘆する姿とそれに花を添える落涙となれば清らかで美しいが、執拗に叶わぬものを追い求める姿は浅ましく醜く見える。文はそんな汚れた椛を見たくはないし、また失意の友人を見たくなかった。

文は悲喜の美しさのどちらも等しく好む身として、夏の夜空に横たわる天の川のように、会いたいと互いに思う二人を清純なまま離れ離れにする術を考える必要があるのだ。必要なのは全員が自分の不幸に気が付かないまま綺麗でいられる妙手なのである。
それだというのに浮かんでくるものは、椛とはたてを完全に遠ざけてしまうだけの破滅的な術ばかりであり、しかも文は上司と部下の関係を持ちこんでみたり、白狼天狗と鴉天狗の身分の違いを理由にしてみたりなど他人から後ろ指をさされることすら計略にふくめそうになっている。それだけ文は窮しているのだ。

そうこうしているうちに時間だけが意味もなくすぎていき、手遊びとしてわずかに黒線をひいていた筆も今では何一つ紙に残せなくなった。墨に浸そうと硯を見れば、そこには乾いてひび割れたものがあるだけだった。いまさら墨を磨るのも億劫である。
文は机の上をかたしてしまうことにした。まったくもって作業が進まなかっただけあり、かたしたものといえば筆と硯と手遊びに汚した紙だけである。それらをかたしながら清書用の上質な紙を出さなくて正解だったと自虐的に笑った。
幻想郷を飛び回り掻き集めた写真もネタも今の文には何の意味も持たない味気ないものに思えた。
布団を敷きそこに横たわるや否や、文は強い眠気におそわれた。そういえば、昨晩は寝てしませんねと思い終わる前に、文はそのまま深い眠りに落ちていった。



※※※※※




「私が はたて様に―――」

結局のところ自分は白幕代わりでしかないことを悟るのに、数日という時間はあまりに長すぎた。
二人の距離を保たなければならないというのに文ができる事といえば はたてを話題に上げることで椛の関心を引くことだけだった。はたてに関すること以外に椛の興味を誘えないのだ。
少なくとも はたての名さえ口にすれば、椛は幾分の齟齬はあるけれども文の話し相手になってくれた。
前に はたての口から聞いた趣味の話もまた はたての名を対価にすることで椛の口から聞くことはできたものの、ついでに知らされる椛と はたての楽しげな交流が文に冷たく纏わりついた。
椛が言うには、はたては似絵のほかにも椛が釣りあげた川魚やそれを干した物をもらっているらしい。それらの事を椛がありがたそうに話すのだから、文は慢性化しつつある不快感に冷え冷えとするだけであった。

「――それは、はたても喜んだでしょうね」

不快感のなかで気が付いたことがあった。それは椛が喜び語るはたての姿が文の知るそれとはかなりかけ離れていることである。
文の知る はたてという鴉天狗はたしかに根は善良とも言えるが、その反面で善悪問わず抜け目がなく、またかなりの気分屋でもあるというのに、椛の話す はたての姿は面倒見がよく、博識であり、そしてなによりも誠実であった。
文も はたてにそれらが備わっていないとは決して思わないが、あまりにも前面に出てきているので不快よりも不可解さが強かった。
親しくなればなるほどに相手の欠点も同時に見えてくるはずなのに、なぜか椛の目には美点しか見えないようなのである。
はたてが上手くやっているのか、それとも椛が鈍いだけなのかと文は腑に落ちずにいた。はたては抜け目のない性格をしているがそれでもどこかスキのある性質をしているし、椛だって日頃の様子を見れば鈍い性格をしているとは思ない。
その二人が話しのように深く交流をしていれば、自然とその否定的な部分が露見してしまうはずなのである。
椛はそれが覆い隠されるほどまでに はたてに心酔しきっているのだろうか。
変な詮索をして椛の笑顔を曇らせたくない文は目をつむるしかなかった。

「それでですね その時の はたて様は――――」

不可解なことといえばもう一つある。はたての動向が掴めないでいるのだ。
ここ数日の間、文は椛とはたてが密接な関係になるのを今日か今日かと恐々としていた。しかし、あの日から数日がすぎたというのに、どういうわけか はたてが椛に添い付いた気配がしないのである。
もし椛と はたてが添い付いたのなら、文にも一報くらいあるだろうし、なによりも はたてが惚気と自慢話に来るはずだ。
それらがないということは、いまだ椛とはたては本意を伝え合っていないということだ。
文からすればいくらかの猶予があるともいえるが、実際のところ蛇の生殺し状態でしかない。なにせいつその日がくるのか分からないのだから、毎日を目隠しで綱渡りするのとさほどちがいがないのだ。

「――-本当に犬走は はたてのことが好きなのですね」

終わる日がわかるのならば覚悟を決めることだってできる。
文が渡る綱に終わりはない。足を滑らせるか、綱を断たれて落ちることでしか止められないのである。
おそらくは落ちるその瞬間に、一番綺麗なものが見られるといった確信があった。本望が叶ったことを知らせる椛は、いままでに文が見てきた森羅万象のどれよりも美しく儚いものにちがいないという確証である。

「――-はい、はたて様は私の大切な人です」

桜花の舞い散りゆくときこそ情動を誘われるように。
最後を飾るものは遍くして秀麗を灯すのである。




※※※※※




椛の笑みに墨を散らしたような影を見つけてから早くも半月が経った。
原因は一つしかない、はたての不在である。
はじめはうっすらとしていて、気のせいだと思えたそれも今でははっきりと見えるものになってしまった。あれだけ嬉しがっていた はたての話題にも今や椛は苦しそうに笑うだけで、以前みたいに明るい表情を見せてくれなくなった。椛は零れんばかりに豊潤な瞳をして、かわいた笑顔を演じてくれるだけなのである。
いつの日からか椛が文に、はたての事を尋ねることもなくなった。今では文が説法をするようにして語るだけである。

陰りを認めたくない文は痛むものを抑えて、より積極的に はたての事を椛に説いた。それこそ文は、以前までの椛が語る様にして、はたての美点だけを抽出し濃くしたものを椛に与え続けた。少しでも椛に笑って欲しかったのである。
しかし文の捨て身は効を奏すどころか、椛の笑顔をより曇らせていくことになった。

陰りゆく椛を見て文は、自分の白幕代わりの限界を感じるのだった。どれだけ理想の はたてを映し出しても、本物のはたてには敵うわけがない。どれほど精細に はたてを映し出したところでその幻想が、実際に椛の手を取ることはないのだから当然といる。偽物が本物にかなう道理があるはずもなく、代用品で満足できるほど椛の思慕は軽薄で浮ついたものではないようなのだ。
そうして広がりゆく影の言い訳を考えていると、ちがう方向からも責め立てられるように感じられる。前門の虎、後門の狼といったところか。

それでも文は根強く はたての素晴らしさを椛に与えつづけた。私に笑いかけてくれなくてもいい。ただ、はたてがいない寂しさを少しでも軽くしてやりたいと、文は自己犠牲じみたものを抱いたのだ。真打ちが登場するまでの繋ぎであることに意味を見出そうとしたのかもしれない。
その自己犠牲に似た何かが、もはや諦めを意味することに気が付かないほど文は愚かではなく、またそうすることでしか存在意義を見出せないことを、文は自虐的に認めつつあった。

きりきりと胸を痛めるものを隠してまで椛を支えたところで一瞬の見返りしかないことも、その見返りの後には何も続かないことも承知している。
それでも、天の川を作って思慕を積もらせる椛の麗姿を鑑賞しようした傲慢な願望はどこかに消え失せ、その代わりにどうにかして椛が はたてと添い合うまでの狂言役を果たすだけといったものに苛まれた。
文は今の自分を支え動かすものの正体を利己的な献身であるとした。椛と はたての関係を取り持つことで、二人が通じ合うことを自身の手柄であるよう肯定的に解釈しようとしているのだ。それは同時に、痛みをまた別の痛みで誤魔化すようにして、ただ指をくわえて見ているだけよりも精神に負荷をかけないですむ次善策ともいえた。

しかしそれが根本的な解決に向かうはずもなく、日を追うごとに文も椛も摩耗していった。
椛を覆う影はすでに慢性化してしまい、それがうつるかのようにして文にも陰りが見えてきた。文はその自分の影を椛の表情を通して知ることになった。文と話すときだけ、椛の影が一層濃くなるのである。ついぞ先日、文は会話のさいちゅうに椛の涙を目にした。
話しのなかで椛がほほえんでくれたときであった。久しぶりに見る椛の笑みに文が安堵していると、すっと何かがこぼれていったのだ。
目尻から出でて頬をすべる水雫はたしかに文が好むものであったのに、それを指ですくおうとは思えなかった。微笑をたたえての落涙だったからであろうか。
その落涙に文は終わりを感じ取った。終わりも壊れるのも存分に嗜める文ではあるが、椛に関してはさすがに情をうつしすぎていた。知らず知らずに目を伏せて奥の歯を軋ませていた。


この日、文はかなり早めの時間で作業を終わらせた。少しばかり早過ぎたため椛に大丈夫なのでしょうかと尋ねられたが、文は平気よと素っ気なく一言で返した。
椛が他にも何か言いたそうな目をしていたが、文はそれを聞かずして椛と別れた。よぶんに椛の相手をしていると未練がましくなり、せっかくの覚悟が揺らいでしまいそうだからであった。
文は自らの手で綱を断ち、その幕を引くことにしたのである。



はたてを探しに出た文であるが、一刻もしない間に当てもなく亡霊のようにして妖怪の山をさまようことになった。
勢いを頼りにして はたての住処に赴いたものの、そこに家主の姿はなかったのだ。文にとってそこが唯一の当てと呼べるものだった。
当てをはずした文は、しらみ潰しに山の頂上から順に はたての行きそうな場所を見て回った。
神の蹴りによって欠けたと伝えられる雲すら見下ろす山の傷跡、一年を通して酒の香りが朝霧のように目に見えるほどに漂う大天狗達の居住区、大瀑布へと連なる清流を無尽蔵に生み出す秘泉、妖怪の信仰を集める新しい神社、大瀑布の直下の河童達の騒がしく雑多な集落、そして最後は地底への入り口へと はたてを求めて文は飛ぶに飛びまわった。
しかしそれらの場所で はたての姿は見つからず、道中に見かけた鴉天狗に行方を尋ねてみても、異口同音にして知らぬという応えのみを得るだけであった。
探索の途中に文はふと椛の千里眼のことを思い出した。椛の目を頼ればすぐさまに見つかるかもしれない。しかし思い浮かんだ案を文は寸暇もなく霧散させた。これもまた文の最後の矜持であり未練なのである。


実をいえば、はたてを探すというのは文にとって初めてのことである。
雨水が石を穿ち樹々が生え朽ちるよりも長い付き合いをしているのに、探してまで片方と会おうとしたことは一度たりともない。そんなことをせずとも、同じ妖怪の山に住み同じ鴉天狗であるためか、はたてとは頻繁に顔を合わせるからである。
そういった意味でも、ここ数日間にわたる はたて不在は奇妙なことといえた。
大きな異変が起こるか、新聞の締め切りが近いとなれば数日どころではなく、数週間から数カ月間は顔を合わせないこともあるが、ここ最近は大きな異変はなく新聞の絞め切りもまだまだ先のことである。
残る可能性として大天狗から特別な仕事を請け負ったか、大きなネタを掴み密着取材をしているかといったものもあるが、そのどちらをしても文の耳に何かしらの情報が入ってくるはずである。
つまるところ唯一の当てをはずした今、文が はたてを探し出すためには不格好な力技だけが残ることになったのだ。


文が地底の入り口を覗いた時分には、夕日で山の端が赤くなりゆくところであった。山の頂上は夕雲に覆われて望めないが、雲中では気の早い連中が晩酌を求めて往来していることだろう。
朝も晩も見境なく飲みまわっている連中が容易く目当ての物を手に入れられるというのに、なにゆえ慎ましく一途な犬走が侘びしい思いをしなければと、文は一抹の厭世をふくんだ吐息で夕闇を白くよごした。
その黒に浮かんだ白を見て文は椛を強く思った。今頃あの暗い山陰の中で、犬走はどれほど厚い寂寞の毛布に包まれているだろうか、それを想像して文はふたたび吐息をもらした。吐息は冬の乾いた空気のなか吸われるようにして消えていった。
もう一度はたての住処まで行こう。それで見つからなかったら今日は縁がないんだ。山の端が赤く染まり終えて暗く沈んだのを確認してから、文は暗闇のなかで翼をならした。


はたての住処に着いた文は、扉を叩くまでもなく家主の不在を悟った。薄いガラスの窓からは明かりがもれていないのである。念には念をと窓から室内をのぞいて見たが、ガラスの向こうに誰かが潜んでいる気配はしなかった。さきに訪れてから空の色が変わってしまうほどに時間が経っているというのに、はたてはまだ帰って来ていないのである。
しかしながら完全な無駄骨というわけでもなかった。窓から室内をのぞいた時に気が付いたのだが、テーブルの上にティーセットが出されたままになっていた。はたてが長らく家を空けているわけではない証拠といえる。
高くなった月の下、文は一縷の望みをかけて、はたてが戻って来るのを日付が変わるまで待つことにした。

文は扉の前で三角を作って座り込み、夜天に浮かぶ鋭利な三日月を眺めて はたての帰還を待った。季節が季節だけに昇りゆく月とは対照に山の気温は下がっていくばかりである。ときおり聞こえてくるのはフクロウやミミズクなどの野鳥の物寂しいさえずりと、風に吹かれた葉すれのかすれた音だけであり、それらが冬の寒さと侘びしさを一層のものにしてきた。そして気が付けば吐息の作るもやの色が濃くなっただけでなく、鼻も鳴るようになっていた。文は冷気から身を守るために膝を強く抱いて身体を縮こまらせた。

抱いた膝に額を押しつけ文は、これからの事に思いをめぐらせた。これからの事というのは、はたてを椛のところへ送った後の事である。
文の筋書き通りなら、今日か明日にでも椛とはたては添い合うことになり二人の関係は万事解決する。しかしその時の自分はどういった立ち位置にいるのだろうか。少なくとも友人と部下の間を取り持った仲人役であると、胸をはって誇らしげに月下氷人を称するつもりはないし、またその資格を持ち合わせているとは夢にも思っていない。露見していないだけで、二人に対して後ろめたい謀をしていたのだから当然といえる。
はたして犯した企みを二人に示して謝るべきなのだろうか。道義に照らし合わせるのなら潔く過ちを認めるべきであろうが、それだと椛の最後の瞬美に黒々とした墨を落とすことに相違ない。
謀略を誹られるのは耐えられるが、椛との別れの瞬間だけは、自分がどれほど汚れようとも、汚したくないのである。
はたてと添い合い幸福に飾られた椛の高揚とした笑みは、潔白を捨ててまで得る価値があると文は考えるのである。

そしてもう一つ、添い合ったなら遅かれ早かれ椛は自分の元から はたてのところへ助手として行ってしまうにちがいないのである。一度そうなってしまえば、もう椛と会えなくなる。今でさえ同じ仕事を請け負っているだけの関係なのだから、それがなくなってしまえば椛との間に繋がるものは何一つ残らない。会おうとすれば会えるのだろうけど、その時の椛は不可侵の存在になってしまっている。
仮に笑いかけてくれたとしても、その時の椛の笑顔は はたてというガラス越しに見る触れることを許されない笑顔といえる。そのようなものは見るだけつらくなるだけである。
意中の相手と添い合えて幸せそうな椛の笑顔を想像するだけで、文は矛盾する二つ感情に胸が張り裂けそうになった。一回までなら純粋に愛でられるといえど、それが二回、三回となれば話が変わってくるのである。

椛との避けらぬ別離を考えれば考えるほどに、文の膝を抱く力は骨を軋ませるほどに強くなり、鼻の鳴りも激しくなった。肩の細やかな震えも収まってくれず、口からも喘ぐような嗚咽がもれる。
椛との別離を悲しむだけでなく、これまでの自分のおこないのすべてが恨めしく思えた。もっと早くに気が付いていればこんな事にならすにすんだかもしれないのだ。
寒空の下で孤独に心をわずらわせる文を照らすのは、夜天に仰ぐ鋭く冷たい三日月だけだった。すぐそばの木で羽を休めるフクロウが不思議そうに頭を傾けて文を見ていた。




目覚めは心地よいとはいえない心地であった。寒いのは仕方がないとして、目尻と鼻下がひりひりと痛むのである。どれくらい寝てしまったのだろうかと空を見上げると、月の浮かんでいる場所は前に見たときから大分離れていた。すでに日付も変わってしまっているかもしれない。
文は痛む目をこすりながら立ち上がり、はたての住処の窓越しに室内の時計を探した。時計はティーセットを放置したテーブルの向こう側の壁にかけられていた。針は一時をまわっていた。
文はいったん引き揚げようともう一度目をぬぐったところ目尻が切れたように痛んだ。痛んだ目で見る月はいつもより明るいように思えた。



自分の住処に戻った文を待っていたのは、皮肉なことに はたてであった。
文が近寄ると はたては強い口調で今までどこにいたのか問い詰めてきた。その鬼気迫る表情に怖気付きそうになった文であるが、素っ気なく夜の散歩をしていたと言ってお茶をにごした。本当の事を言うと、自分も はたても何だか間抜けに思えてしまうからである。
そして何より はたての言葉は文が言いたいものであった。その意味で言うならば はたての問い詰めは火縄としての役を買ってくれたといえる。
文は今までに貯め込んだ鬱憤とも呼べるものを無遠慮に はたてに叩きつける。

「あなたこそ今までどこに行っていたの? あの日から何日が経っていると思うの」
「どこと言われても……、私は普段通りだったわよ」
「なら、どうして犬走はあんなに悲しんでいるの? なんで会ってあげないの? あの子はあなたに会いたくて会いたくて……。それなのに私なんかで、ずっとガマンしているの。なんで行ってあげないの? あなたじゃないとダメなのに。わたしじゃダメなのに」

文は言葉だけでは物足りず、はたての肩を掴み激しく揺さぶる。はたてが苦しそうにしているが、構うことはしなかった。文もまた苦しかったのだ。

「ちょっと、文落ち着いて。ちゃんと話すからさ」
「それよりも犬走と話してあげて、会ってあげて。あの子はあなたを待っているの、あなたに会いたがっているの」
「………文」
「なんで……、ねぇ、なんで会ってあげないの? 犬走があなたをどう思っているか、私、教えたよね? それなのになんで行ってあげないの? あの子、待っているんだよ? あなたのことを、姫海棠はたてのことをずっと」
「………」
「私にところに来てどうするの? あなたが行かなきゃいけないのは犬走のところでしょ? 私の帰りを待つ暇があるのに、どうしてあの子のところに行ってあげないの。あの言葉は嘘だったの? あなたも犬走が好きなんでしょう? それでどうして会ってあげないの……? 犬走はあなたのことが好きなんだよ……? なんであなたなの……?」

どれくらいのあいだ文は はたてを責め立てたであろう。文が胸に堆積させていた複雑怪奇な感懐をすべて吐露するまで、はたては何も話さないでいた。文の批難は言いがかりともとれる理不尽なものまで含んでいたのにもかかわらず、はたては石像のようにして沈黙を守り続けたのだ。
しかしながら、はたての目には石像の冷たいものではなく、聖者がするような哀憐と慈愛とで満ちたものが宿っており、湖面を照らす月のように静かなまま文を見つめていた。
文はそれすら気が付かないまま、はたての肩を掴み揺さぶって泣き喚き続けたのである。
そして最後は文に嗚咽だけが残るだけとなったとき、ようやく はたては雪解け水みたいにゆっくりと文に語りかけはじめた。

「あのね、文。今から話すことをしっかりと聞いて」
「………」
「椛が待っているの。待っているのは私じゃなくて射命丸文よ」



※※※※※




大瀑布のあたりは夏場でも涼しいことを妖怪の山に住む者で知らぬものはいない。それと同時に冬場だと特に冷え込むこともまた山の住民の間で常識の一つとして幅広く認知されている。
文が身を震わせて飛ぶのにはそういった理由があり、油断をすると羽先に霜が降りて白く染まってしまいそうに思えた。白狼ならぬ白鴉などといった珍種天狗になる気はない。
それではなぜ文が極寒の空を飛んでいるのかというと、すべて はたての指図によるものである。はたてが言うには、椛は大瀑布の主流を少しそれたところに流れる傍流の河原に住処を構えているとの事で、文はそれを探して飛んでいるのだ。

文の眼下に見えるものはすべてが雪化粧をほどこされている。そのなかで清流に沿って転がる岩々だけが素顔をのぞかせていた。世界が雪に制されたなかで、大瀑布の卷族と取り巻きだけがいまだに抵抗を続けているのである。
さきから はたてに教えられた付近の上空で鳶みたいに何度も円を描いているが、空からでは椛もその住処も捉えられるわけがないよう思えた。そろそろ積雪で足を冷やす覚悟を決める頃合いかもしれないと、文が着地のできる木々の開けた場所を見つけはじめた時である。清流の岸を転がる灰色の岩の上に小刻みに動く怪しげな白色を見つけた。
それが見間違いであることも念頭においた文は、羽ばたきもせず氷上を滑るようにしてゆっくりと白色に向かって風に乗った。

遠目から見ると朝方に浮かぶ月のような儚さであったが、近づくにつれて輪郭がはっきりとしていき、しだいにその正体を顕わにしていった。そうして鮮明になるにしたがい文のなかで羽ばたこうとする欲求と、羽を休ませようとする理性がいさかいをはじめる。
頭に二つそろえてあるのは三角の小ぶりな耳。尻部からはえてゆらゆら動くは真新しい毛筆のような尾。
雪景色のなかでさえ殊に白い髪と尻尾とを持つのは椛であった。

椛の姿を認めた文は椛のもとに急ぎたくも遅れたくもあった。はたてから伝えられたのは、椛が待っていることだけで、どうして待っているのかを教えてくれなかったからである。それゆえに文は膨大な不安と僅かな期待の潮流がせめぎ合う渦の中にいるのだ。
ふつうに考えれば別れの場となるのは明白であり、椛より与えられるものは別れの言葉であろう。しかし、わざわざ降雪の空の下に呼び出してまでのことなのだから、その最後の言葉に何か特別なものがともなっているにちがいない。

椛より告げられるのは別れの言葉なのか拒絶の言葉なのか。どちらにしても椛が遠くに行くという結果は同じくしているのに、それらが各々に含んでいる意味はおおいに異なってくる。幸福の別れであるなら椛の穏やかな笑みを目にすることもできようが、拒絶の別れであるならば最後に目の当たりにするのは激しい憤怒か非難の表情だけとなる。
たくらみが露呈したのならば間違いなく拒絶を示され、そうでないのなら白幕を演じ続けた報酬として喜劇的な別れの言葉を椛より直々に手渡されるのである。
文には自分なりに上手く立ち回ろうとした自負はあった。ここ数日は影を落としてしまったが、それまでは椛が好みそうな受け答えだけを選んできた自信もあれば、椛にたくらみをさとられる失態を犯すこともなかった。一点と呼ぶには少しばかり大きな染みはあるが、その陰りも本意が叶ったはずの今にしてみれば無いも同然の事といえる。
しかしそれであっても、文の胸中で渦巻くのは膨大な不安と一抹の期待感なのである。どれだけ文が自分の行いを整理し吟味し正当化したところで莫大なる沈痛の波浪はおさまってくれないのだ。それどころか僅かばかりの期待感すら波浪に飲み込まれていく気配すらした。

胸中の波浪に身を攫われそうになりつつも、文は椛の待つ川端まで漕ぎ付いた。見てみれば椛は岩上に座して清流を一心に眺めており、文の到着に気が付かないでいる。
椛の肩には雪が積もっており、長い間この場で待ちぼうけていたことが分かる。
声をかけて振り向かせるべきなのに、文は何も言えずにその背中だけを見つめることしかできないでいた。椛に到着を知らせることが、別れの訪れを告げる呼び鈴を鳴らすことのように思えるのだ。
声をかけようか、かけまいか。どういった声音を選ぶべきか。文がうつむいて逡巡していると、ふと視界のすみで何かが動いた。咄嗟に目を向けてみたところ、椛が尻尾で空をひゅるりと撫でているのが見えた。
その無造作な様子を見るに意図した動作ではなく、クセや生理現象、もしくは原始的な感情表現といった無意識的なものなのだろうが、その尻尾をくねらせて揺らす仕草に、文は目を奪われ数瞬前まで不安に溺れそうだったことすら忘れてしまう。そして手を伸ばして中空に絵を描く白い毛筆にふれたくなった。

「――ん? ……そこにいらっしゃるのは、射命丸様ですか?」
「……そうですよ、犬走。はたてから……、あなたが、私を待っていると聞いたので」

気配を察したか嗅覚を頼りにしたのか定かではないが、文が魅入っていると椛がすっと振り向いた。椛は落ち着いた柔和な気色をしていて、寒さのせいか赤らんだ頬に朱線が薄く浮かんで猫の髭に見える。とりあえずは、拒絶を口告げられる様子でないことに文は秘かに胸を撫で下ろした。

「見たところ長い間待たせてしまったようですね。はたてに会ったのもつい先程のことで」
「いえ、お気になさらないでください。寒いのは……慣れていますし、暑いのよりは好きですから……」
「だからと言って長く待たせてもいいという理由にはなりません。肩に乗せている雪を見れば、どれほどの時間をここで費やしたかなんて、すぐにわかるのですよ?」
「これは私が射命丸様を、あろうことか、呼び出すなんて僭越な振る舞いをした報いみたいなものです。ここにお越しいただいただけでも、はたて様の事と同じく……、私には過分な幸運だといえます」
「……そういうものですか」

ここにきても、私は はたてなしでは椛のなかに意味をなせないのか。文は胸に圧し掛かる重石を椛に悟られぬよう作り笑いに徹するしかなかった。椛に一切の悪気がないことは、冬の朝の空を思わせる澄みきった瞳を見ればわかる。しかし見れば癒されると信じていた命綱代わりの椛の笑顔もこうなってしまえば、文に重石を括りつけて苦しめる捕縛の縄でしかない。温かく柔らかいはずの視線も文には胸を刺す氷柱のように感じられた。

「それでですね。射命丸様をここにお呼びした理由ですが、唐突なことに思われてしまうかもしれません。実を言うと……、射命丸様に一つお願いがありまして」
「私に……? えっと、はたてに何か……伝言でもして欲しいのかしら?」
「ち、ちがいます。はたて様にはちゃんと自分で言えます……! 射命丸様にお願いしたいのはまた別のことです」
「……うん、そうよね、大切なことは自分で伝えた方がいいものね。それで私は何をすれば?」
「聞いていただけるのですか……? これが私の一生のわがままです」
「……一生のお願い、……最後ですか」

はたての名に動揺を露わにした椛を見て、意外にも文の胸中は不気味なくらいに穏やかさを取り戻した。おそらくは、はたてが関係しないと知ったからであろう。
身をきつく締めつけていた縄も、圧していた重石もどこかに消え失せた。さらには一つの物語を読み終えたときや、出番を終えた端役が劇の華やかな終幕を薄暗い舞台裏から見届けるのにも似た感慨深さもある。自分でも不思議なくらいになんの未練も邪念もなく部下と友人を祝福する心地さえするのだ。
憑き物がとれて心安らいだ文とは対照的に、椛は恥ずかしさのあまりしどろもどろな様子である。その初々しく花も恥じらう姿に、文は満たされていくのがわかった。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょうに。私相手にこれだと、はたてを前にした時に何も言えなくなりますよ?」
「で、ですから、今はたて様は関係ありません……! その時はちゃんとできます……!」
「その時は……、もうすぐなのでしょうね。私も応援していますよ。……だからこそ、今ここで恥ずかしがってはいけません。早くそのお願いを言いなさいな」

業を煮やしたり切羽つまったりとした心境ではないものの、あまりに躊躇いと羞恥を感じさせる椛の恐る恐るした初な様子に、歯がゆくなった文はそっと背を押すようにして言葉の続きを促した。
すると決心がついたのか、それとも観念したのか。椛が初雪が降るように、わずかな声量で申し訳なさそうにその願いを口にしはじめた。

「えっと、その、射命丸様の似絵を描きたいのです。ダメでしょうか……?」
「……私の似絵ですか? ……私は構いませんが、なんと言えばいいのでしょうか、はたての許可はあるのですか?」
「今はありません……。ですが、ちゃんと はたて様より許しを頂くつもりです」
「大切な人を裏切るわけには……、いきませんものね。それがたとえ誤解であったとしても」
「本当に破廉恥なことをしているとは思うのですが……。どうしても、射命丸様の御姿を描きたくて……」

穏やかだった水面に降ったのは雪結晶ではなく小石だった。椛が恥ずかしそうに語るその願いというものが突拍子のないもので、一度は鎮火した文の情念が再燃することとなってしまう。
椛のお願いそのものは大した要件ではないものの、はたてにありもしない誤解を与えるには十分な代物と呼べる。せっかく添い合いはじめたというのに、伴侶が他人の絵を描きはじめたとなれば、はたてでなくてもよい気分はしないだろう。しかもその絵に描かれるのは赤の他人ではなくて見知った者なのであるから、余計なまでの波風を立ててしまいかねない。
しかし、そうであったとしても文は椛の願いを叶えてやりたいと思うのだ。それは単純無垢に椛からのお願いであるからという思い入れのほかに、この場におよんでどこからか湧いてきた はたてに一矢報いたいという未練や羨望を基にした当て擦りと言われても障りのない底意地からくるものでもある。
椛の願いは友人を思うなら心を鬼にしてでも、それこそ捨てでも断るべきなのだろうが、文にはその願いが抗いのようのないほど魅惑的な果実のように思えた。手を伸ばせば火傷ではすまないと知りながらも、手を伸ばさせるほどの魅力をその果実はそなえているのだ。

「やはりダメですよね。不躾な乞いをしてしまいました……、この事は忘れてください」
「ダメじゃありません……! わ、私は描いて欲しい……。いつもは絵を撮る方だから、たまには描かれてみたいの」
「本当にいいのですか……? 私の拙い筆だと射命丸様を汚してしまうかもしれません」
「その様なことを気にする必要はありません。……それに犬走の絵が素晴らしいことは耳にしています」
「その風聞というのは、もしかせずとも、はたて様のことですか? ……あの方しか私の絵の実は知らないはずです」

ここにきて、もはや持病の発作と思えるあの影が椛の表情を曇らせはじめた。小春日和のような初々しい笑顔が梅雨の空のごとく暗雲に沈んでいく。

「犬走は……、本当に私の絵を描きたいのですか……?」

もうこれで終わってしまうかもしれないと焦った文は、暗に挑発するような言葉を選びそれを口にしてしまう。果実に手を伸ばすだけでなく、果実からも枝からゆり落ち手中に納まるよう仕向けたのも同然のことである。

「描きたいですよ……、ずっと夢だったんです。ですが、射命丸様は……」
「それなら描きなさい。私も犬走に描いて欲しい。……はたては関係ないでしょう?」
「射命丸様はそれでいいのですか……?」
「私は……犬走の願いを、夢を叶えてあげたい。それだけではいけない?」

何をぬけぬけと夢を叶えてやりたいだ、と自己嫌悪をもよおさないほど文は恥知らずではない。友人を裏切る背徳感と部下を誑かす罪悪感とで呼吸すら疎かになり、情けなさのあまり目尻に渇いた夜露が降りそうになる。
それだというのに文が椛の願いを聞き入れられるように仕向けたのは、なにも私欲や未練のためだけでない。その意図のなかには、やはり純粋に椛に夢を遂げさせてやりたいといった思いも確かにあるのだ。それこそ自分から望むものを与えられなくとも、欲せられたものを渡すくらいなら、といった自虐の念だってそこにはある。

「身に余るほどの栄です。……その、射命丸様」
「うん? 何かしら犬走?」

後悔や後ろめたさ、懺悔が文にないわけがなかった。椛にもはたてにも負い目を感じずにいられるわけがないのだ。意味こそ違うものの等しく大切な二人を同時に裏切り、あろうことかその二人の特別な仲を踏みにじりかねないことをしているのだから。しかしそれであっても、文は手を伸ばさずにいれなくなったのだ。

「ありがとうございます」

文の薄暗い胸中を知らぬ椛は万感とした笑みで文を見据えてくれる。雪に染まって白く塗りつぶされた景色の中でも、束ねた絹糸の髪と尾を持つ椛の喜色はさまざまとその純白さを文に見せつけてくる。頬をはしる古傷の朱線がこれ以上にないくらい愛おしく感じる。
指をそわせれば柔らかく滑りそうな白磁を思わせる乳色の肌を朱で彩り、かき上げれば心地よさそうな絹糸でできた細やかな髪をゆらして椛は笑うのである。
肩や腰のあたりからときおり見える毛筆の尻尾は緩やかに左右に振れられて絵を描いている。
見惚れた文はろくな返事もできずに、息を飲んで応諾のような曖昧な返答を見せるしかなかった。
友人から「MHP3の武器屋にモミジいるよ!」と聞き、期待で胸を膨らませながら武器屋に行くと……。

読者の皆様に感謝です。
砥石
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コメント



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7.90名前が無い程度の能力削除
え? これで終わっちゃうの?
やっと文が自身のワケワカラン気持ちに前向きになれたのにな。
11.60名前が無い程度の能力削除
なんかはっきりしないなぁ……
きっと続編があると信じております。
12.80名前が無い程度の能力削除
話はとても素晴らしかったので、尻切れトンボな印象を受けたのだけが惜しかったです
15.90名前が無い程度の能力削除
文は、これからもどうもしないんだろうな。
自分の気持ちに踏ん切りをつけちゃったから、後は忘れるか摩滅するだけだろうし。

こうなると、文にはずっと独り身でいて欲しいな。
そっちの方が被害が少ないし、更なる不幸にもならないだろうし……。
南無三。
28.80sas削除
これでいいような、物足りないような……