プロローグ1 上白沢慧音の場合 月の石 「月の石?」 「ああ、ぜひ君に見てもらいたいと思ってね」  人里の寺子屋教師、上白沢慧音は、外の道具を求めて香霖堂にやってきていた。  買い物後、見てもらいたい物があると言って店主が取り出したのは、不格好な白とも黒ともいえない色の小さな石。  曰く、これが月の石らしい。 「随分と厳重な状態で発見されたから、ただの石ではないと思って調べてみたんだ。最近は、向こうの世界でも月の話題は忘れられつつあるみたいだからね。さすがに月の石という概念はまだ幻想入りはしないだろうが、月の石がブームだった頃に紛失したという石の一つくらいは、こっちに来ていてもおかしくはないということさ」  それを手にとって見ると、どことなく不思議な感じがした。  この小さな石には、重く、そして空虚な歴史が刻まれている。この石が過ごしてきた、途方もない永遠の夜が伝わってくるようだ。 「……この石は、いったい何なんだ?」 「やっぱり何かを感じ取ってくれたようだね。本当に月からきたのかどうかはともかく、その石が『月の石』であることは確かだよ。ただあいにく、僕の能力でわかるのはそこまでだ。用途は、観賞と研究かな。少なくとも、これをそのまま使ってどうこうするわけでは無さそうだ。でもこんな石ころ、僕なんかが漠然と見ていても何が面白いのかはわからないからね。歴史を司る君なら何かわかるかとも思ったわけさ。それにほら、ワーハクタクなら月との関係も密接だろう」 「ふむ」  店主の言葉に、慧音はその石を頭上にかざして見つめてみる。  それは満月を凝視する子供のようであり、思い人の姿を月に重ねる恋人のようであり、月の神託を待ち続ける占星術師のようでもあった。  不意に、少しだけ、身体が疼いた気がした。満月の時に感じる、あの高揚感と焦燥感だ。手の平に、小さな月があるような錯覚。  いや、錯覚ではなく、『これ』はまさしく月そのものなのかもしれない。 「よかったら、それは差し上げるよ」  そんな慧音の心を察してか、店主はにっこりと微笑んで言った。 「いいのか?貴重な物のように見受けられるが……」 「どうせ店に置いておいても泥棒猫が持っていくだけだよ。厳重に箱に入れておいたらなおさらだ。それに、君はこの店には珍しい常識あるお客様だからね。ちゃんと営業時間内に来るし、品物の代金だって支払ってくれる。だからたまには、サービスの一つくらいはさせてもらっても罰は当たらないだろう?」 「しかし……」  慧音が途惑っていると、店主はパッと彼女の手から石を取り、そのまま他の買い物と一緒に籠の中へと入れてしまった。 「まあそれなら、そいつの代金についてはそいつの秘密がわかったら教えて貰う事とでもしておこう。さて、そろそろいつもの泥棒猫達が来る時間だ。早く帰った方がいい」  なんとか代金を支払うべく粘ろうとする慧音を、店主は急かすように店から追い出した。 「しかし、月の石か……」  帰り道、その石を取り出して、もう一度空にかざしてみる。  これほど小さな石なのに、この石は遥か空に浮かぶあの月から来たのだという。店主の能力や慧音自身が感じた力を考えても、本物なのは間違いないだろう。  しかし月の石など、一体何に使うというのだろう? 「餅は餅屋だ。竹林の連中なら、何か知っているかもしれないな、だが……」  月という言葉に、迷いの竹林の中の隠された屋敷を思い出す。月から来たという変わり者達が住む屋敷。もっとも、幻想郷には彼女自身を含めて変わり者しかいないという話もあるが。  ただ、慧音はあの屋敷は苦手だった。彼女が気をかけている少女が、あそこの姫と対立していることも関係しているのかも知れないし、人を食ったようなあの薬師の性格が合わないのかもしれない。 「今度あの兎の薬売りが来たら、一度聞いてみるとするか……」  結局彼女の選んだ判断は、妖怪兎の薬売りを待つという消極的な選択だった。 「よう、霊夢に聞いたぜ。月の石が手に入ったんだって?月まで実際に行った私が鑑定してやるよ」 「お生憎様、アレはもう相応しい人に売ったよ」 「客も来ないこの店でか?」 「君が思うほど、この店も閑古鳥ばかりが鳴いている訳じゃない。たまには盗人以外のお客さんも来るものさ」 「物好きもいるものだな。まあいいや、霊夢曰くどうみてもただの石ころらしいし……。でも、そんな石ころを売りつけるなんて、お前も結構悪徳商売だな」 「いつもいつも勝手に持って行かれてばかりだからね。どこかで埋め合わせをしないと」 「そりゃ困った客もいるもんだ。まあもっと悲惨なのは、そのとばっちりで石ころを買わされる客だろうけど」 「石ころかどうかは持ち主次第だろう。仮にも月の石だ。君や霊夢なんかが持っていてもただの石ころかもしれないが、それを活かすことの出来る人間が持てば、充分な価値を発揮するものだよ」 「そう言って売りつけたのか?まったく、口だけは達者だな」 「物の本当の価値なんてものは誰にもわからないということだ。僕が価値があると言って相手が価値があると判断すれば、そこに価値が生まれるのさ。それがたとえ、タダの石ころだとしてもね。それが商売というものだよ」 「はいはい、じゃあ私は自分にとって価値があると思う物を自分で選んでいただいていくことにするぜ」  その言葉に、雑貨店の店主はただ苦笑した。 プロローグ2 紅美鈴の場合 月のモノリス (お嬢様が私に、いったいなんの用なんでしょうか……)  紅魔館門番、紅美鈴は、自分の職場でありながらあまり入ることのない紅魔館の廊下を、緊張した面持ちで歩いていた。  館の主である吸血鬼の少女から、直々に呼び出しを受けたのだ。  「あら美鈴、門番の仕事はどうしたのかしら?」  メイド長に呼び止められ、思わず飛び上がりそうになりながら立ち止まる。 「はあ、それが、お嬢様に呼び出されまして……」 「お嬢様に?……ああ、そういえばあの件かしら」  意味ありげに笑うメイド長。美鈴には彼女のその笑みが死刑宣告に見えてしょうがない。 「な、何か知ってるんですか?」 「ふふふ、まあ私の口からは言えないわ。直接お嬢様にお聞きなさい。ああ、そうそう、餞別は何がいいか、希望があったら言いなさいね。あなたとは気が付けば結構長い付き合いだから、それくらいは用意するわよ」 「せ、餞別ってなんですか!ちょっと咲夜さん、逃げるように去っていかないでください!あと餞別はもらえるなら人里の湯栗堂のおまんじゅうがいいです!待ってくださいよ咲夜さーん!!」  軽やかに去っていくメイド長の背中に、美鈴はそう声を投げる。一体自分の身に何が待つというのか。 「こ、ここですね……」  ようやくたどり着く館主の部屋の前。深呼吸一つ。  コンコンコン。  乾いたノックの音が響き渡る。  一瞬の静寂。そして返答。 「入りなさい」  ドアを開けると、気品溢れる赤い机の向こう側に、館主である吸血鬼の少女が座っている。そして、その傍らには、いつの間に戻ってきたのか、去っていったはずのメイド長が影のように寄り添って立っていた。 「ああ、よく来たわね紅美鈴。実は今日呼んだのは他でもないわ、実は、あなたにちょっと暇をあげようと思ってね」 「暇ですか、わーいってえええええええええええええ!!」  一瞬、暇という言葉に喜んでしまったものの、冷静に考えればそれが意味するところは一つしかない。 「あら、休暇は必要ないという事かしら?」 「いえ、そういうわけではといいますか、暇と言われるとそれは休暇というかむしろクビといいますか……」  そんな彼女の反応を楽しむかのように、幼き吸血鬼は小さく笑っている。一方でメイド長は先程とはうって変わって、まったく反応せず静かに横に立っているだけである。 「まあ、回りくどいのはここまでにしておくわ。あなたをからかっていてもしょうがないものね。実は、あなたに頼みたいことがあるのよ」  そういった物の、主の顔からは笑みが消えてはいない。ただ少し、その笑みは落ち着いた物に変わっている。 「はい、なんでしょうか?私に出来ることでしたらなんなりと」 「その言葉を待っていたわ……。実はあなたには、月に行ってもらいたいのよ」 「え、月、ですか……?」  思いがけぬ言葉に、流石の美鈴も驚きと戸惑いを隠せない。 「そう、月よ」 「月って、あの空に浮いてるあの月ですよね?」 「そこ以外に月がどこにあるのかしら?」  あっさりと肯定される。 「竹林の月人の隠語かなー?とか」 「あいつらには別に用はないわ。私が用があるのは月なのよ」  どうやら本気らしい。だがそこで一つ、美鈴にも気になることがあった。 「でもお嬢様、ちょっと前に月に行ってましたよね、咲夜さんと一緒に。パチュリー様のロケットに乗って。あ、なにかその時に月に忘れ物でもしたんですか?」  少し前に、幻想郷の幾人かが月へと向かった。当人達が取り立てて語らないため詳しいことは不明なままだが、月へと到達したのはまごう事なき事実であるらしい。  そして、その月へ行ったメンバーの中心人物が、この、レミリア・スカーレットだったのである。 「忘れ物というか、ちょっと気になることがあってね。私の咲夜も、月に行ったのはいいけれど、散々な目にあっただけでちっとも観光が出来なかったのよ。これじゃなんのために月に行ったのかわからないわ」 「はあ」 「それで、帰ってきた後に聞いた話なんだけれども、月のどこかに、黒く、大きな板が埋まってるそうなのよ。なんでもパチェによれば、その板によって人類は飛躍的に進化を遂げ、その事を外の者達に伝えることが出来るらしいわ。そんな素晴らしい物を、みすみす放ってく理由がないでしょう?だから、あなたに月に行って、それを持ってきてもらいたいのよ」  話を聞いて美鈴は思う。またお嬢様の悪い病気が始まったと。  だが一つだけ気になることは、なぜそんないかにも退屈しのぎになりそうなことに、自分自身が乗り出さずに私に任せるのか、ということだ。 「それは……、私一人で、ですか?」  二つの疑問を一つにまとめて質問に込める。手助けはあるのかと、お嬢様自身はどうするのかということ。 「あなた個人が外部の人間に協力を仰ぐのは紅魔館の面子に関わらない限りはかまわないし、紅魔館で用意できる物は言ってもらえれば用意はするわ。でも、基本的にはこの仕事はあなた一人に任されていると思ってちょうだい」  うむ、やはり私一人の仕事らしい。それを確認して、改めて質問をする。 「お嬢様は、この件に関しては報告を待つという立場なのですね」 「まあ、そうなるわね」  幼い顔が少し歪む。 「そんなことはどうだっていいわ。それで、あなたはこの任務を受けるの?受けないの?」  返答が要求されたが、選択肢は無いに等しい。 「わかりました。月に行って、その黒い板とやらを探してきます」  断れるはずがないのだ。 「それでこそ紅魔館の門番よ。その黒い板についてはパチェが詳しいことを知ってると思うから、図書館で聞くといいわ。それと、これを」  館主が何かを取り出して、脇に立つメイド長に渡す。そしてメイド長から、美鈴にそれが手渡された。  ボロボロな一枚の木片。 「さあ、そうと決まればさっさと準備をしなさい。あなたがいない間に、私が門番がいてもいなくても同じと判断したら、あなたは帰ってくる場所が無くなるわよ」  木片を詳しく確認する前に、主はそう言って準備を急かす。 「はい!では行って参ります」  条件反射的に、美鈴はそう挨拶をして部屋を飛び出していった。 「しかし、あの娘は大丈夫ですかね?」 「心配ないわ。あの木片で、彼女の運命はもう操作された。よほど運命を変えてしまうような大ヘマをしない限り、月にはたどり着くわよ。もっとも、そこで黒い板を見つけられるかどうかは、本人次第ね」 「……ところで、あの木片はなんなのですか?」 「……私達が乗ってたロケットの破片よ。せっかくだったし、少し回収しておいたのよ。それが、こんな風に使うことになるとは思いもよらなかったわ」 「あぁ、あの時の。しかし、わざわざあんな事を書いておくなんて、お嬢様も粋なことをしますね」 「咲夜、あなた見たの?」 「ええ、気になったので少し時を止めて確認させてもらいました。あと、せっかくなんで私も少し書き足しておきましたわ」 「勝手なことを……」 「いいじゃないですか、あの娘には、ちゃんと帰ってきてもらわないと」 「……ふん、まあ、門番なんて、いくらでも替わりはいるわ。なんなら、咲夜、あなたに任せてもいいのよ」 「それは無理ですわ。私はあくまでお嬢様のメイドですし。それに、私にはあの娘みたいに手加減できませんもの。せっかくのお客様が、ほとんど死んでしまいます」 「私としてはそれでもかまわない、と言いたいところだけど、まあ、そうもいかないわね。そうなったらまた霊夢が血相変えて飛んでくるでしょうし」 「またあの巫女に紅魔館で暴れられては色々と面倒ですものね。白黒の方は、相変わらず図書館で暴れたりしているみたいですが」 「それはパチェの範疇よ。まあ、どうせ新しい門番を雇っても白黒は止められるとも思えないし、変なのに来られても色々と面倒だわ。となると、美鈴には無事に帰ってきてもらうのが一番ということになるのかしら?」 「そうなりますね」  紅魔館の主とそのメイドは、静かに笑った。 プロローグ3 アリス・マーガトロイドの場合 月への憧れ  アリス・マーガトロイドは一人月を見ていた。  永夜事変以来、何か月を身近に感じられるようになっている。  あの時の異常な月と、今の静かな月。月はいつもそこにある。 だが、自分一人が置き去りにされた気分でもある。  あの事変の解決に動いた八人の人妖のうち、七人が月へと行った。ある者達は三段ロケットで、またある者達はスキマを使って。  自分一人だけが、月から置いてきぼりを食らった。その事を知って以来、彼女はぼんやりと月を見ることが多くなった。  自分も月に行きたい。  自分も、月の地をこの足で踏みしめたい。  その想いが日に日に強くなる。 「ようアリス、どうした、ぼんやり月なんか見て」  そんなことを考えていると、その月へ行った一人である白黒の魔法使いが降りてきた。月を見ている自分を見つけて気になったのだろう。 「なんでもないわ。ただぼんやり月を見ていただけよ」 「変な奴だな、相変わらず。そんなに月を見て楽しいか?」  からかうように白黒は笑っているが、アリスは気にした様子も見せない。 「楽しくもあり、つまらなくもありよ。ああ、そういえば、魔理沙はこの前月に行ったのよね」 「ああ、行ったぜ」  隠すことなく、あっけらかんとそう答える。彼女はそんな白黒の魔法使いの性格が好きであり、疎ましくもあった。 「それで、月には何があるの?」 「何と言われれても……、別に、こっちと大して変わらないぜ。まあ強いて言うなら、海があるくらい、だな」  うって変わって歯切れの悪い言葉。  この白黒の魔法使いも神社の紅白の巫女も、月へ行ったことについては多くを語りたがらない。それがアリスの心に、疎外感となって刺さっているのだ。 「それはあなたたちが鈍いからじゃないのかしら?あんなに輝いてるんだもの。きっと、こちらとは違う何かがあると思うわ。少なくとも、ここから見てる分にはね」 「……」  何も答えが返ってこない。  夜の森が静寂に包まれる。  そしてようやく、月の地を踏んだ普通の魔法使いが口を開いた。 「……お前が思ってるほど、月は素晴らしい場所じゃないさ」 「……それを判断するのは私よ」  苛立ちが燻り続ける。自分には彼女たちの中にある月を確認する術がないのだ。  自分は月について、あまりにも何も知らない。  それを抉るように、白黒の魔法使いは一つの決定的な質問をした。 「まさか、月に行きたいのか?」 「行けるものならね」 「月か……」  それ以上は何も答えず、二人はそれぞれ月を見る。  再び、二人の間に沈黙が訪れる。  今の二人には、月と地球を隔てているような大きな溝があると感じてしまう。  彼女の心が月に置き去りなのだろうか、それとも、私の心が一人で月へと飛んでしまっているのだろうか。 「……じゃあな。アリスも月ばかり見てないほうがいいぜ。気が狂うぞ」  そう言い残し、白黒の魔法使いは再び箒で飛び去っていった。それはまるで逃げるようで、月の話をこれ以上続けたくないという意思の表れとさえ受け取れるものだった。 「月には、一体何があるのかしら……」  もう一度月を見る。  自分も月に行って、彼女たちと対等に話がしたい。  ただ漠然と、そんなことを考えながら、アリスは月を見つめていた。 プロローグ4 河城にとりの場合 河童の月ロケット  山の河童、河城にとりは、相変わらずいつものように滝の裏で警戒の白狼天狗と大将棋を指していた。 「しかしまあ、相変わらず暇だあね」 「そうですねえ」  一時、山の神社と麓の神社とのゴタゴタで人間の侵入者が来たこともあったが、今ではすっかり平穏を取り戻し、たまにその時の人間たちが山の上の神社に行く程度である。 「そう言えばにとりさん、人間が月に行ったという話をご存知ですか?」  盤上の展開がマンネリし始めた頃、白狼天狗がそう話を切り出してきた。 「ああ、そういえばそんな話もあったね。吸血鬼の館でロケットの発表会も見たのを思い出したよ。結局、本当に月に行けたのかな?」 「まあ、行くには行ったらしいですよ。ただ、文さんが情報を仕入れようにも、月に行った件については皆一様に口を濁して、全然情報が集まらないらしいです」  上司ともいえる新聞記者の鴉天狗から聞いた話を流す白狼天狗。だがにとりは、その情報に懐疑的である。 「あんなロケットで月に行けるとも思えないけどねえ。月に行ったこと自体が捏造の可能性もあるんじゃない?で、行ったということで口裏を合わせて、あとはボロが出ないようにだんまりを決め込んでるとか」 「そんなことないと思いますけど……。文さんがなんとかかき集めた情報だと、月に向かってロケットが発射されたのは紛れもない事実みたいですし」  だが河童はその意見を鼻で笑う。 「そもそも、あの天狗様の新聞がどこまであてになるのかも怪しいけどね」 「あやややや、実に心外な意見ですね。文々。新聞は常に真実を追究しているというのに……。あなたとは一度、じっくりと話し合う必要がありそうです」  背後から聞こえる声。噂に上がっていた鴉天狗の記者だ。 「いやー、聞こえてましたか」  へへへへと引き攣った笑いで誤魔化すにとり。記者は大きく溜息をついたものの、それ以上は追求する姿勢は見せなかった。 「……まあいいでしょう。月に行ったかについては、正直、私もまだ確証が持ちきれていませんからね。だからこそ、記事に出来なくて困っているのですが」  そういえば、彼女たちの月旅行については新聞記事を読んだ覚えがなかったような気がする。この新聞記者にも、一応そこら辺の分別はあるらしい。 「ふん、どうせあいつらは月には行ってないよ。天狗様も見たでしょう?あの発表パーティのオモチャみたいなロケットを。あんなので月に行けるなら、河童の技術を使えば宇宙の端まで行けちゃいますよ」 「どうですかねえ。私個人としては、彼女たち月にはたどり着けたと思いますけれど……」  いろいろと疑問は持ちつつも、天狗の記者は月に行ったことそのものには確信を持っているようである。 「ないない。ないですって。引っ込みがつかなくなったから月に行ったことにしてるだけですよ」 「にとりは随分月に行ったことに懐疑的だね」 「そりゃそうだよ。月旅行に関しては河童の中でも色々と研究してるんだ。それをいきなりあんなロケットで出て来て『はい行ってきました』と言われても、納得いくわけないじゃないか」  徐々に口調が強くなってくる。にとりには、どうしても先に月へ行かれたことが受け入れられないのだ。 「でもそうは言っても、あなたの想像のベースにあるのは、所詮河童の技術だけでしょう?紅魔のロケットには外の世界の情報もふんだんに使われていましたし、ハッキリ言って、あなたが言うほど程度の低い物とも思いませんけどねぇ」  鴉天狗はそう言って挑発的な笑顔を作ってみせる。興奮してきている河童の感情に、さらに油を注ぐ気満々である。そして河童は見事なまでに火に油が注がれてしまっていた。 「ふん、外の技術ぐらい、こっちだって充分盛り込んでるよ」 「へえ、あなたもロケットを作っているのですか」  さらに鴉天狗の口元が歪んだことくらい、にとりにだってわかっていた。だがそれでも、ここまで来てしまったら退くことなど出来るはずがない。 「ああ、核のエネルギーも利用できるようになったし、とびっきりスゴイのが完成間近だよ!そいつさえ出来れば、もう月くらい自由に行けるようになるさ。あんなおもちゃみたいなロケットに頼らなくてもね」 「じゃあ、ぜひとも、月に行ってみてくださいよ」  天狗の笑顔が完成し、それと同時に、にとりは逃げ道が無くなったことを悟る。  だが、それがどうした。 「ああ、行ってやろうじゃないか、月くらい!」  売り言葉に買い言葉。  こうして、にとりは月を目指すことになったのである。 「河童が月を目指す。ふふ、なかなか面白い展開になってきましたよ」 「あーあ、あんなにけしかけて、相変わらず性格が悪いですね」 「何か言いましたか?……まあ、月に行った人たちが何も言ってくれませんからね、別方向からアプローチしてみようかと」 「文さんも月に行くんですか?」 「笑えない冗談ですねぇ。河童のロケットなんて、怖くて乗れたもんじゃないですよ」 「この人は……」 「第一、記者が倒れてしまっては、真実を伝える人間がいなくなってしまいます。あの河童が月に行ければそれを記事にすればいいし、もしダメなら、その時はその時で『幻想郷の河童、宇宙(そら)に散る』と追悼記事を組みましょう」 「ふ、不吉なこと言わないでくださいよ」 「まあ、彼女のことですから大丈夫だとは思いますがね。途中で爆発しても平気な顔して帰ってくるでしょう。それよりも、私としては既に飛ぶ前、河童のロケット制作記だけでいいドキュメントが作れそうでドキワクですよ。まさに幻想郷のプロジェクトXですよ」 「なんですそれ?」 「苦労と努力は実るって事を大げさに描いた外の世界のドラマですよ。私も詳しいことは知りませんが……。それはともかく、前の月ロケット計画は紅魔館中心でしたからね、なかなか情報が集めにくくて困っていたところです。その点、あの河童ならペラペラ喋ってくれそうですし、当分、記事のネタには困らなくなることでしょう」  鴉天狗は、自分の新聞の今後のビジョンを想像し、一人ほくそ笑んだ。 プロローグ5 星熊勇儀の場合 退屈しのぎの月見酒  星熊勇儀は、相変わらず退屈な日々を過ごしていた。  地霊殿と地上の巫女の騒動以来、地上に上がる事も問題なくなり、しばしば地上に顔を出してみたりはしているものの、結局変わり映えすることもない日々が続いている。  結局今日だって、屋根に登ぼり、ただわけもなく旧地獄の街を見ながら酒を飲んでいるだけなのだ。 「随分と退屈をなさっているみたいですね」  不意に下から声がした。見れば、地霊殿の主があのジト目でこちらを見つめている。 「ああ、退屈だよ。何か面白いことはないかねえ」 「私に言われても、地上は……、ああ、何もないんですね」  こちらの心を読んで先に言葉を返してくる。それこそが、この忌み嫌われた地霊殿の主の能力なのである。  ああ、これだからこいつは嫌だ。会話が会話として成り立たない。 「地上も結局、ここと同じさ。人間を襲うこともないし、何か画期的な遊びがあるわけでもない。どうせ向こうでもすることといったら酒を飲むばかりだしね」  言って勇儀は苦笑いを浮かべ、屋根から飛び降りて地霊殿の主の横に並び立つ。 「……わざわざここに来たと言うことは、何か面白いことでも持ってきたんだろう?ですか。まあ、そのとおりですよ。あなたがどこまで興味をそそられるかは知りませんが」  心を読む能力が、先に勇儀の質問を潰していく。もちろん、勇儀としてはそれは面白くないが、この少女と話すときはいつもこんな調子だ。だからこそあまり関わり合いになりたくはないのではあるが。 「まどろっこしいな、どうせ心が読めるんだから、要点だけ先に言えって」 「はいはい、わかりました。実はですね、ウチのカラスの力を使って、河童が月に行くという話があるのです」  ちょっと前、地霊殿である異変があった。  地上の神様が、地霊殿のあるカラスに八咫烏を飲ませたのだ。そして強大な力を手に入れたそのカラスは暴走寸前になり、それを察知した地上の巫女によって懲らしめられたのである。  そんなカラスの力を、河童が利用しようというのだ。 「カラスの力?あいつ、そんなに飛べるようになってるのか?」  勇儀も話には聞いていたものの、そのカラスの具体的な力までは知らない。いったいカラスの力でどう月まで行くというのだ。 「まさか。所詮カラスはカラス。飛べるのは空くらいです。宇宙には行けませんよ」  ふふふと笑う主に対し、勇儀は不満げに酒をぐいとあおる。 「私はお前と違って心を読めないんだから、そんなに勿体ぶらないでくれ。それで、河童は何をしようとしてるんだ?」  久々の娯楽の予感に、勇儀の胸は高鳴っている。もちろん、そんな感情などお見通しの話題の主は、ゆっくりと話を続けていく。 「先程も言ったとおり、月へ行こうとしているのですよ。なぜ、どのようにして月に行こうとしているのか?さあ、私にもそこまではわかりません。河童もただただ月に行きたいとしか考えていませんでしたしね。でも、あなたにとっても面白い話になると思いませんか?」 「月ねえ……。まあ、乗っかってみるのも面白そうだな。地下では月見酒なんて愉しめないし、せっかくだから、月で月見酒を飲むというのもまた一興ってもんだね。それにあの河童とは、まったくの無縁というわけでもないし……」 「……だから、何かの力になりたい、ですか。あなたらしいといえばあなたらしい、あなたらしくないといえばあなたらしくないですね」  会話のようで会話としては成り立っていない。勇儀は一つ大きく溜息をついた。 「……そういうことはわざわざ口に出して言わないでくれ。だからお前は嫌われるんだ。まあ、それも言うまでもないことだろうがな」 「ええ。これは性分ですから」  その言葉にもう一つ大きく溜息。  いずれにせよ、勇儀が月に行くことを決めたのはこの時である 「お姉ちゃん、あの鬼と何を話してたの?」 「あらこいし、見ていたのね」 「珍しいかったからね。あの鬼がわざわざお姉ちゃんの話を聞いているなんて」 「ふふ、ただ、あの鬼があまりにも退屈そうだったから、ちょっとからかっただけよ」 「でも、あの鬼はどうしたいんだろう」 「彼女は彼女自身でも、本当の自分の思いに気が付いていないから、導いてあげないといけないのよ」 「お姉ちゃん、また余計なことを言ったの?」 「いえいえ、言わない方が面白いということもあるものよ。だから今回はヒントだけ。彼女はずっと退屈をしているけれど、退屈をまぎらわせる方法を知らない。いえ、本当は知っていだのだけど、地底暮らしが長すぎて忘れてしまったのね」 「退屈をまぎらわせる方法?そんなのあるの?」 「ええ、こうしてこいしと私が話すこととかね」 「??それじゃわからないわよ」 「お酒を酌み交わす相手がいる方が何かと楽しいという話よ。あなたはそれで苦労したところがあるからわかりにくいかもしれないけれど」 「よくわからないなあ」 「いいのよ、答えはあの鬼が見つければいいんだから。まあ、見つけられなくてもそれはそれで彼女の答えということになるわね……」  地霊殿の主は、あの時読んだ心を思い出し、ふふふと小さく笑った。