消えない虹
一話
「レミィ、しばらく紅魔館を留守にするよ」
七曜の魔女。
知識と日陰の少女。
動かない大図書館。
パチュリー・ノーレッジは親友に対して、こう切り出した。
秋の永き夜。
陽もとっぷりと暮れ落ちて、吹きわたる風の冷たさが身に染みてくるころのこと。
ようやく起き出した紅魔館の主人、レミリア・スカーレットは友人の管理する(というか、住み着いている)大図書館へと顔を出していた。図書館とは言うものの、書庫にある本はまだまだ未整理のまま、乱雑に積み重ねられているだけ。およそ百年という歳月を経て無尽蔵に集められた文物と、その時間に付随する、重苦しささえ感じられる埃と黴の匂いが支配するところ。気質的に夜と闇に属すレミリアでさえ、あまり寄りつくことはない。
しかし、今日はその珍しい訪問の日であったようだ。
「留守? どこか用事でもあるの?」
唐突なパチュリーの物言いに、レミリアは幼い眉を顰めながら問い返す。
当然の疑問だろう。
出不精という言葉で済まされるものか、パチュリーは十日くらい平気で図書館に籠りきりになる。さらには何か月単位で紅魔館の外に出ないこともざら、らしいと聞く。
会話を交わしながらも、吸血鬼の親友は長机に向って書き物をしたまま。厚い革表紙に幾つもの紋様が刻まれている。いわゆる魔導書の類らしい。そんなことを気にする様子もなく、レミリアは書物に埋もれた机の反対側に座る。彼女用の椅子は常備されていて、脚は高く背は低い。普通のものでは顔半分が机の上に出ないためだ。
待ち構えていたかのように差し出されるティーカップとソーサー。
瀟洒な従者はいつどんなときも、主の要望に応えることができる。次の瞬間には時を操りどこかへ居なくなっているが。
一呼吸。
紅色の液体を口に含んだところで、パチュリーが再び口を開く。
「用事……まあ、そんなとこかな」
「曖昧な答え方」
「そうかな? 外界に行ってみようかと思って」
この台詞に、聞いていた者たちは驚きを隠せない。呆けたような表情のまま、レミリアは固まっている。どうやらカリスマというものは何処かに忘れて来たらしい。
「驚いた。理由を聞いてもいい?」
ここ百年は友人やっている彼女が言うのだから、相当のことなのだろう。
「探したいものがあるのよ」
内容は曖昧に、しかしきっぱりと言い切った。羽ペンを滑らせていた手を止め、運命を見通すと言われる友人の瞳を見つめている。確かに答えは曖昧。曖昧だったが、魔術の詠唱をしているときのような確信と、弾幕を避けているときのような決断力を内包した言葉。深紅と紫紺の瞳が交錯している。
その間ほんの数秒の出来事だ。
先に視線を外したのは、驚いたことにレミリアだった。
二口目の紅茶を飲み込んだところで、
「行ってくるといい。ま、わざわざ私に許可なんて取らなくても良かったのに」
と、苦笑混じりで言う。
「ありがとう、レミィ」
反対にパチュリーは、明らかに緊張が解けている。どうやら彼女の中では大事なことだったらしい。しかし、目的をはぐらかしたことから、友人にも腹のうちを見せないつもりか。外界に行って何を探すつもりなのか、とんと見当がつかなかった。
「それで……外界に行くってのは、八雲紫がはじめた外界ツアーで行くんでしょ?」
「そういうことになるね」
いつのまにかパチュリーの手には新聞があった。
題字は『文々。新聞』だ。そこにはレミリアの言う、外界ツアーの記事が載っている。
掻い摘んで説明すると、神無月に神様たちが出雲大社へと里帰りする。そのとき幻想郷から出るのに、八雲紫の隙間を通じて行く。その隙間をほかの人妖たちにも開放して、一月だけの外界バカンスを楽しもう――というものだ。
「ってことは、外界に詳しい人物が必要じゃないの?」
そうだった。
流石に外の世界の常識を知らない奴らを、そのまま放りだすのは心もとない。何をやらかすか予想がつかないし。だから、現界に詳しい――外界から来た人間を付き添いとして連れて行かねばならないという条件があるのだ。
迷い人として幻想郷を訪れ、定住してしまった人間はそこそこ数がいる。大抵の者は、半人半獣のハクタク先生に斡旋されて、人里にて能力に似合った仕事についている。しかし、他に縁があって、博麗神社やら白玉楼やら永遠亭やら守矢神社やら地霊殿やらで暮らしている者も、僅かながら存在するのだ。例えばここ、紅魔館にも。
「ええ。だから、○○を連れていくわ」
パチュリーの隣でここ数日間に整理した蔵書の帳簿をつけていた、俺、こと○○は、紅魔館の大図書館にて司書と雑用を兼ねて、住み込みで働かせてもらっている。
「俺……ですか、パチュリーさん」
「あなたしかいないじゃない。外の世界に通じている人間なんて」
「確かにそうだけど」
いまの会話からもわかる通り、俺は外界の、生粋の人間だ。年齢は……まあ、二十歳前後とでもしておく。ここらに住んでいる連中から比べると、何の能力もない一般ピープルである。それで良かったとも思うが。どうして能力を持っている奴らは、こうも曲者揃いなのか。
ちょうど小悪魔さんが紅茶を運んできたので、俺たちも手を休めることにする。
「お疲れさまなのさ」
「ありがとう、小悪魔さん」
礼を言いつつ、一口目を啜る。琥珀色の液体が揺らめきならが口の中へ流れ込んでくる。ぴりりと引き締まった渋みを香りとともに楽しむ。埃っぽい仕事柄、時々の紅茶休憩は日課のようになっていた。
「咲夜も貴方たちの分まで紅茶の用意をしとけばいいのに」
「レミィが飲んでるのと同じのは、私たち飲めないわよ」
「それもそうね」
レミリアの飲んでいる紅茶は、人間の血を混ぜた特別製らしい。血が主食である吸血鬼だが、幻想郷内での吸血は基本的に禁じられている。外界の人間の血が提供されているようだ。最近では献血が盛んなので、昔より食料の補給は楽なのではないか。
「でも、この紅茶は美味しいわ。また腕を上げたわね、小悪魔」
「ありがとうございます、なのさ」
「俺もこっちに来てから、紅茶にハマったからなぁ……」
「そういえば、ここで働きだした頃は珈琲が欲しいって、いつも言ってたのさ」
俺が幻想郷に来た理由は、それほど難しいものではない。
実際のところ、ただの偶然だ。
七曜の魔女と言われるだけあって、パチュリーは七つの属性の精霊を使役した魔術を得意とする。普通は一つの属性の精霊を支配するので精いっぱいなのだが、彼女は同時に二つ以上の精霊を意のままに操ることができる、らしい。物凄い腕前らしいのだが、魔術そのものを理解できない俺にとってはよくわからんことだ。ただ、いつも図書館内で新魔術の開発と言う名目で、怪しい実験を繰り返しているのを見ると、努力家(ただの暇つぶしかもしれない)なのだろうということはわかる。
閑話休題。
そのときもパチュリーは新たな精霊召喚の魔術を試していた。同時に俺は、たまの休日を満喫していた……はずだった。激しい衝撃と眩暈とともに視界が暗転し、ここ、紅魔館大図書館の一角に転移させられるまでは。
要するに失敗である。術式の途中で召喚対象の設定を間違えたそうだが、未だに正確な理由はわかっていない。俺が選ばれる可能性なんて、それこそ天文学的な数字であろう。宝くじに当たったようなものだと、今では開き直っている。
「○○が来てからもう半年近くになるのね」
「初めの頃の狼狽ぶりからだと、見違えるわ」
「その話はやめてくれ。一般人がいきなりあんな状況になったらビビるだろ、普通」
突然わけのわからんところに連れて来られて、混乱しているわけで。目の前にはパジャマみたいな服を着た女の子が怪しげな呪文をもにゃもにゃ唱えてるし、その後ろには明らかに生モノの羽の生えた女の子もいる(今でもパチュリーの服装は魔女に見えない)。そりゃ腰くらい抜かしても仕方ないと思いませんか? 見かねた小悪魔さんが、この館の主に会わせてくれたと思ったら、見た目十歳くらいの幼女だし。吸血鬼だし。メイド長は人間だと聞いてたけど、どうみてもDIO様です本当にありがとうございました。むきゅ〜。
「それで……他の外界の人間にアテがあるの?」
ああ、そういえば外界旅行の話でしたか。半年もこっちで暮らしてると、人里の方にも少しは知り合いがいるけど、そういうことができる人間はいない。
「うーん、ないなあ」
「あったとしても、見ず知らずの人間を連れて行くなんて嫌」
なら聞くなよ。まあ、赤の他人とは見られてないとわかっただけでも良しとしておこう。
「その程度には信用してくれてると?」
「そりゃあ……そうだけど」
だんだんと小さくなる語尾。旅行へ行くこと自体は自信満々だったが、本当は一人旅をしたくて、俺を連れていくのは嫌なのだろうか。俯いてしまったパチュリーの思考は、俺にはさっぱりわからない。
パチュリーが失敗の責任を取るという形で、レミリアは俺が紅魔館で働くことを許可してくれた。
最悪、食われるという結末も用意されていたのだから、かなりマシな結果だったろう。
幻想郷で生活することについて特に問題はなかった。向こうでは季節雇用の出稼ぎ労働者だったし、親しい身内や友人もいない。仕事して、仮住まいのアパートに戻って……というだけのモノトーンな生活である。
幻想郷に迷い込む中に、けっこうな数の自殺志願者がいるらしいが、流石にそこまでではないにしても、現実に希望を見出せないという点で俺も似たようなものだった。極端な話、働いてメシが食えればどこでもよかったのだ。だからかもしれないが、早くにこちらの気風に馴染めたんじゃないかと思う。
紅魔館は吸血鬼が住んでいることもあって、活動時間は夜に集中している。俺の主な仕事は、大図書館の蔵書整理と館内の雑用。他に力仕事があれば進んで受けることにしていた。働かないレミリアはともかく、パチュリーや咲夜さん、小悪魔さんは肉体的に女の子と変わりないわけで。男手は貴重な戦力になっているようだ。
そんなこんなであっという間に半年が過ぎ、春から秋へと季節はとめどなく流れていた。文明の利器のない生活にようやく慣れ、落ち付いて今後のことに思考が回るようになったころ、パチュリーの外界旅行の話が舞い込んできたのだった。
転機かな、と思う。ここらで一度、自分が生まれ育った世界を見つめなおしたい。いずれ向こうに戻るにせよ。こちらに居つくにせよ、いま俺がやっておかねばならないことのように思う。
パチュリーの沈黙に助け舟を出すようにして、
「これも――運命と思って諦めることね」
と、レミリアは言った。
獲物を狙う狼のような含み笑いを湛えての台詞。彼女がその言葉――運命――を口にすると、洒落にならない重みが加わるから困る。幻想郷を紅色の霧で覆った事件、それより前、紅魔館が幻想郷へ来たばかりの頃に起こした吸血鬼事変。二つの首謀者であるレミリアの能力とは、ありあまる力でも身体能力でもない。運命を操る――などという、わけのわからないものである。しかし、
「あんまり簡単に言わんで下さい。俺は運命って信じてないから」
何でも運命で片付けられたらやってられない。いまさら足掻いたって、どうにもならないこともある。既に起きた事実は変えられなくて、未来は変えられる。そこに至るまでの努力すら運命だと言うのなら、自分っていう存在はなんなのだろうか。
「そうかしら? 私には見えるわよ。数多の運命の糸が絡み合う世界が」
本当か? とは口にしない。言っても詮無いことだし、説明してもらって理解できるとも思わない。
「例えば……そうね、あんたたちの運命とか」
俺とパチュリーを見比べて言う。
「どういうことだ?」
「まんまの意味よ。あんたたちの辿るはずの数奇な運命――」
「やめてくれ」
「今回の外界旅行は――」
運命を未来の出来事だとするのなら、それは不躾なものだ。ましてや、それを操ることが出来るというのなら、押し付けがましいものでもある。出来るならば聞かせて欲しくない。
「レミィ」
と、パチュリーが静かな声で友人の言葉を遮る。珍しく棘があるように聞こえたのは気のせいだったろうか。俺としては有難かった。どうもこういう話は気に食わないようだ、理由はわからないが。
「○○も。レミィの能力は呼吸と同じように存在するもの。ある者はない者のことをわからないものよ」
思考を読んだかのような彼女の言葉。
当たり前だと思っていることで相手を不快にさせる。右と左を間違うくらいの確率で、ままあることだ。常識と常識のすれ違いといったところだろう。話してみなければわからないこともある。だから、別にレミリアのことが嫌いなわけじゃない、と、レミリアに視線を向けると、彼女も肩を竦めてみせた。
「話題が逸れちゃってたな」
「そうみたいね。パチェ、続きは?」
とパチュリーに視線が集まる。
「……そう、それで、○○はどうなのか。一緒に行ってくれるのかな? もしかしたら……外界に帰れるチャンスかもしれないよ」
うって変わって、風が囁くような声で言う。
パチュリーの意図が先ほどから掴めなくて困る。俺に対するときだけ弱気になっているようだ。それが何を意味するのか、わからない。
旅行については問題ない。喜んでついていくだろう。相方がパチュリーであることに戸惑いはあるが。
実のところ、普段の生活の場で、割と近くにいるはずなのに俺とパチュリーとの会話は殆ど無い。無限に知識を求める魔女――と聞いていたので、最初の頃は外界のことに聞かれるかと構えていたが、そんなことはなかった。仕事の場合も、必要最小限のことを指示するぐらいである。だからといって嫌われているわけでもなさそう。たまたま廊下で出くわしたときも、こちらから挨拶すれば目礼くらいは交わしてくれるし。レミリアに対する場合は別として、彼女は誰にもそんな感じの態度だから。
とはいうものの、こんな形でパチュリーに指名されるのは予想外だった。
他に外界出身で適任者が紅魔館にいないとはいえ、だ。
「うーむ」
どちらにせよ俺が頷かないと、この話は立ち消えになるわけで。わからない部分は、時間が解決してくれるさ、と自分を励ましておく。こいつらが本気になれば、意思など関係なく無理やりにでも良いのだ。そういうことはしない――緊急時じゃない限り――というのは経験上わかっている。だからこそ俺はこの場所に留まっているのだから。
それに、上目使いでこちらの様子を窺っているパチュリーの表情を見ると、ジェントルな俺は断れないじゃないか。
「仕方ないな」
小さく聞こえた溜息は安堵のものなのだろうか。パチュリーは、ほっとした様子で眉尻を下げ、木の芽が綻ぶような微笑みを見せてくれた。
それほどまでに外界に行きたい理由は何なのか。知りたいと思うが、聞いても語ってくれない気がする。あまりプライベートに立ち入るのは良くないとも思う。もし語れるような心境になったとしたら、自然と零れてくるものだろう、こういうことは。
/
燭光がぼんやりと辺りを照らしている。
ジジジ……という音は、ちびた蝋燭が最後の芯を燃やしているのだろう。
「決定ね――」
場を纏めるようにレミリアが片手を上げて言う。俺は賛意を籠めて、ちいさく頷く。まだ日程も行先もわからないが、外界へ行くということだけは確定だ。そのあたりはパチュリーの意向次第となる。彼女の目的に添うことになると思う。
「聞いているんだろう? 八雲紫」
続けて虚空に放った問いは、俺を驚かせるに足るものだ。彼女が呼んだ名は、幻想郷では知らぬものない有名妖怪だ。胡散臭い隙間。神隠しの主犯。境界を操り、いつどんなところにでも現れる神出鬼没の変な妖怪。そして、今回の外界ツアーの主催者でもある。
「あら、勘が良いわね。――お邪魔しますよ」
背後に声。振り向けば、日傘を差した少女(笑)が居た。妙な帽子をかぶり、ドレスと道士服を融合させたような服装だ。背景は、漠然とそこにある、世界の歪み――通称スキマ。成程、凄いけど変な妖怪だということは理解した。
「さて――」
と、八雲紫は一礼する。紅魔館のメイド長もかくやという、優雅な動作だ。
「このたびは当ツアーをご利用いただき、まことにありがとうございます。ツアーのご利用人数は――こちら二名様で宜しかったでしょうか?」
俺とパチュリーを交互に見比べながら言う。彼女の艶然たる微笑みから、本当の意思を読み取ることは至難であろう。
「ええ、そうね」
パチュリーが頷く。
俺は、というと、八雲紫の金髪に青紫の瞳を見て、どう見ても外国人風の容貌なのに和名なのは何故だろう、などととりとめないことを考えていた。交渉役は鍵っこに任せた。
「大抵のことは新聞に書いてあると思うのですが、一通り説明するわね」
傘を折りたたみ開いた隙間に放る。そして訥々と語り出す。
殆どは本人の言う通り、前述した内容と同じものだったが、追加情報が幾つか。神様の里帰りは十月最終日まで。その日までに指定の場所に行くこと。もし時間を過ぎてしまったなら、最悪、二度と幻想郷に戻れないかもしれない。特に幻想郷に長く居る者は、存在そのものが危うくなる可能性もあるそうだ。俺は平気だが、パチュリーは危ないということか。八雲紫は「シンデレラにかけられた魔法は、十二時に解けてしまうもの」と形容していた。他にも、能力は基本的に封印するらしい。また、両親に紹介するなら、身分の捏造くらいは引き受けるとも言っていた。どういうことだ?
「――と、こんなところかしら。何か質問は?」
ふむ……そうだな、外界で必要なものといえば、
「向こうへ行くなら、金はどうするんだ? 八雲さん」
パチュリーの方を見やりながら言う。俺はともかく、彼女が何をしたいのかわからない以上、現金は多くあって損はない。なぜ視線を向けられたのかわかっていないのか、パチュリーは小首を傾げただけだ。そういえば、紅魔館に籠っているなら、現金は必要ない。そもそも使い方(知識はあるだろうが)をわかってないんじゃないのか、このパジャマ娘は。
「何するにせよ、現金は必要だろうし。こっちに来たとき身につけてた財布に、ある程度の額は入ってるけど、旅行するとなると心もとないぞ」
「交渉しだいかしら。例えば――この館にあるモノと現ナマと交換する、とか」
「ってことは、八雲さんがお金を渡してくれる、と」
「そういうこと。あちらで言うリサイクルショップのような感覚だと思えば良いわ」
なるほど、わかり易い。しかし、
「俺、金になるような私物を持ってないんだけど……」
お給金は出るには出るが、雀の涙程度のものだし。倍以上働いている咲夜さんなんか、貰っているのかどうかすら不明だ。気にするような性格では無さそうだけども。
「となると、パチェの物ってことになるわね。ほとんど図書館内だけれど」
いちおう、館の中に私室はあるらしいのだが、本人が図書館に住み着いているので、自分の持ち物は置いていないそうだ。さすがに魔女らしく高名な魔道書やら、価値のあるものはけっこう持っている。それを売り払うのかと思っていると、
「それじゃあ……小悪魔」
「えー! ボクを身売りするのさー!?」
後ろに控えていた小悪魔さんを、いきなり売り飛ばそうとするパチュリー・ノーレッジ。なんて恐ろしい子。
「行ってくれるわね」
「おにー! あくまー! まじょー! 公正取引委員会に訴えるのさー!」
あるのか、そんなもん。まあ、魔女との契約なんてものは、ある種の取引と言えるかもしれないけど。
「さすがに冗談よ」
涼しげに言い放つ。そうだとは思ってたけど心臓に悪いです。
「そうね……少し待ってて」
ふよふよふよ、と彼女は図書館奥の暗がりへと飛んで行った。
「パチュリー様が向かった方って、最近、幻想郷で書かれた本のところなのさ」
まだプンスコしていた小悪魔さんが、不思議そうに零す。
確かに新しい本は、そんなに高い価値がつくとは思えない。何か考えがあってのことなのか。
「そうだったな。この間、移動させたばかりだから……」
パチュリーと小悪魔さんで整理して、俺が運んだからよく覚えている。数は多くないが、分厚い本が多かったように思う。しかも小説の類より、論文的なものや専門書、果ては本草学らしき書物すら見受けられた。大雑把に見えて理屈屋が多いのかもしれない。
「二人旅……いいわねぇ」
ぼんやりとパチュリーの後姿を眺めていると、八雲さんに話しかけられた。扇子で口元を隠してはいるが、盛大にニヤついているのはわかる。しかし、扇絵が『あっぱれ』って、どんなセンスしてるのだろう。
「何でニヤけてるんです?」
振り向いて答える。
「あら、らぶらぶ愛の逃避行じゃないのかしら」
昼の二時間ドラマじゃあるまいし。いきなり何てことを言い出すんだ、この妖怪は。
「違いますって、俺はただの付き添いです。一人じゃ行かせられないから、着いてくってだけで」
「そーなのかー。でも、さっきの様子から見るに、○○さんも満更ではなさそうだったのさ」
「小悪魔さんまでそんなことを……確かに俺にも、外界へ戻ってみたい理由はあるけどさ」
「利害の一致ってとこね。私も咲夜とか連れて行ってみようかしら」
「どうもパチュリーさんの方でも、やりたい事があるみたいですから」
「でも、世間ではそう簡単に見てくれるかしらね?」
またこの隙間は余計なことを……。どうしてもそういう方向へ持っていきたいのか。
「そういえばそうね。うら若い……かどうかは置いといて、男女の二人旅なんだから。パチェに何かしたら殺すわよ」
「殺すのさー」
口ではそういうものの、本当にそんなつもりはないだろう。下心なんてないんだから、俺の方が気にすることでもない。確かにパチュリーは見目良いし、可愛いと思うが。
そういえば彼女の笑顔をあまり見たことない気がする。先ほど、旅行の件を承諾したときにちらりと見せた笑みは、確かに魅力的だった。やっぱり誰でも、笑っている方が良いよな。今後の目標に追加。パチュリーを笑わせること。こんなことを考えるなんて、俺も場の雰囲気に感化されているのかもしれない。と、
「……○○」
急に声を掛けられて驚く。それにしても今日は背後を取られることが多いな。いつの間にか後ろに居たパチュリーが、仏頂面で本を手渡してきた。途中から聞いていたのかもしれない。勝手に話題にしていたのは正直すまなかったと思う。
「なになに……『本当は近い月の裏側』『コンピュータの彼岸』と」
話題を切るつもりで、彼女の持ってきた本の題字を読み上げたが、その途中で気がついた。
「これって八雲さんの著作じゃないのか?」
「なるほど、そう来たか」
何やら隙間妖怪は納得顔だ。先を促すようにパチュリーを見ている。
「そう、これは八雲紫、あなたが著したもの」
「ほんの数年前のものね」
「自らの著作の価値はどうやってきめるの」
ようやく俺も合点がいった。無理難題を吹っ掛けたもんだ。これらには幻想郷共通の値段がつけられているわけでもない。価値の判断は自分で行うしかない。それを、本人にやれ、ということなのだ。
「貴女が書き起こしている魔導書、それと同じ、ね。どうかしら?」
畳んだ扇子を、パチュリーが先ほどまで綴っていた紙束へと向ける。厚い紙に彼女らしく細かい字が躍り、幾つかの図柄も見受けられる。どんな言語で書いてあるのかもわからないが、精霊に関するものらしいということは何故か理解できた。
「己が持つから価値がある。他人に見せないから価値がある。従って同じ価値とはなりえない」
それを手に取り、胸に抱いてパチュリーは口を開いた。
「そして、既にあなたの手を離れた書物は、他人との関わりを持つが故に他人の評価を受けねばならない」
「ならば問う。貴女の評価を――私の思考の価値を」
あれ? それって……
「困ったものね。これを書いてるときのあなたの考えなんて、私にはわからない。けど、この本たちは良いものよ、八雲紫」
俺が持っていた二冊の本を、八雲さんに渡す。この場合は返すと言う方が正しいのか。しかしパチュリー、話の持って行き方がセコい気がするぞ。本の価値を自分で評価してもらうと見せかけて、結局パチュリー自身の評価で価値を判断させるとは。
「わかったわ、ありがとう」
まあ八雲さんが気を悪くしているようではないのが救いだが。この隙間妖怪の精神構造はいまいち掴めない。
「金銭面に関しては、こちらで十分に用意しましょう」
「ほえ?」
「やけにあっさり引き下がったと思っているのかもしれないけど、交渉することに意味があるのであって、結果や利益に興味はないのです」
という割には上機嫌そうな八雲さん。読んだことはないが、丁寧な装丁、手書きの文字は達筆であったことを覚えている。印刷技術のない(河童あたりにはあるかもしれないが)幻想郷では、ほとんどが手書きなのだ。この変な妖怪が書物を大切にしているということはわかる。その辺り、二人は気が合うのかもしれない。真偽のほどは定かではないが。
「でも、この本を私が貰っても仕方ないのよね。うちにあるし。橙にでも読ませようかしら……」
「使い魔はきっちり教育しておいた方が今後のためよ」
後ろで小悪魔さんがびくびくしている。普段どんな教育を施しているのか説明してもらいたい。
「まあ、何だ――それで問題なけりゃいいんだ」
話題が逸れそうだったので元に戻す。
他に聞いておくようなことはあるだろうか。
「そういえば、幻想郷から出るときは、どうするのさー?」
ナイスだ小悪魔さん。やはり博麗大結界の端っこに位置すると言われる、博麗神社あたりからの出発なのか。同様に現世と幻想郷の境目にあるマヨヒガ発なのか。神様の帰郷に使う通路から行くという話だが、普通の人間の俺でも平気なのだろうか。考えてみると不安になってくる。
「よくぞ聞いてくれました」
「何か特別な方法でもあるのか?」
「それは……むむむむむむむむ」
「なんだ?」
突然に気合を溜め始めた八雲さん。スペルカードを発動させるのか……どうにも嫌な予感しかしない。
彼女の能力は、パチュリーが用いるような精霊の力を借りたものでも、レミリアの己の魔力をそのままぶつけるような力とも本質的に違うようだ。隙間を開くというのは、一見、空間を操る能力であるようにも見える。しかし、そうではない。境界を操るといわれる力の、ほんの一部分なのだろう。
「ふんはーッ!」
大きなスキマが展開し、中からボロい電車が滑り出てくる。室内で電車かよ、とか、幻想郷のルールに大分慣れたと思っていた俺でも驚く。廃線「ぶらり廃駅下車の旅」 だ。成程、これに乗れと。乗れるのか?
遮る暇もなく図書館内を駆け抜けた電車は、一部の本棚と整理中だった書籍に壊滅的な打撃を与えた後、反対側に現れたスキマに消えていった。頼むからここで暴れるのは控えて欲しい。片付けるのはほぼ、俺なんだ。しかしまあ、言って聞くような連中でもないし、仕方ないと諦めることにした。
「これで東○駅まで送ってあげるから、あとは好きになさい」
何かスポーツでいい汗かいた後のように、清々しい表情の隙間妖怪。
「他には……ああ、服装は適当に用意しておきなさい。この娘の格好じゃ、街を歩けないでしょう?」
その通りではある。
現代風の服装なんて、パチュリーが持っているはずはないし、どこかで調達するしかないだろう。
俺は適当で良いんだが、まあ、普段着てる執事服のままではやはり不味い。
「わかったわ。出立は明後日でいい?」
「ええ。それじゃあ、もう聞きたい事はないわね」
そう言い残して、再び隙間に消えようとする八雲さんに、いままで口を閉ざしていたレミリアが声をかけた。
「もう帰るのか、八雲紫?」
うーむ、嫌な予感が消えてくれない。
この吸血鬼のお嬢様の不敵な面構えといったら、喧嘩を売ってるようにしか見えないじゃないか。細められた眼差しが、獲物を吟味するように八雲さんを睨めつける。応えて、八雲さんも唇の端だけ歪めて笑む。
「そのつもりだったけど、何故?」
「どうにも胡散臭くてね」
「あら、そんなのはいつものことじゃない」
「自分から認めるあたりがますます怪しい」
「安楽椅子探偵(アームチェアディテクティブ)は廃業したんじゃなかったかしら」
「あんたは存在そのものが妖しさの塊だから仕方ないわ」
「李下に冠を正さず。私はこんなにも清廉に努めているというのに」
「どの口が言うのやら……でも」
『今宵は楽しく踊れそうね!』
少女弾幕中。
と、いうわけで俺たちは図書館の隅っこで、先ほどの話の続きをしている。
どうにも楽しそうな、幻想郷でも名だたる妖怪二匹の弾幕に、押し出された感じだ。
「で、だ。パチュリーさんは外の世界の服装ってわかるのか?」
「雑誌くらいは読んだことあるよ」
無縁塚あたりで拾って来たものだろうか。あそこは数十年も前のものが落ちていたりするから、あまり信用できないと考えて良い。
「もちろん着たことなんかないし、持ってもいない」
ですよねー。どうしたもんか。
「香霖堂へ行けば、大抵のものは揃うわよ!」
「着付けのために、咲夜も連れて行きなさい!」
遠くから声。弾幕しながらのアドバイスに感謝します。それにしても楽しそうだ、こいつら。あんまり長いこと生きてると刺激が足りなくなってくるのかもしれない。その意味で弾幕戦闘のルールは、彼女たちにとって都合よく闘争心を満足させ、かつ自分の存在が危うくなることもない、というものだ。恐ろしいくらいに都合が良い。何らかの作為を疑いたくなるくらいに。
「OK、それじゃあ小悪魔さんも入れて、明日は三人で香霖堂か」
「らじゃーなのさー」
「違うわ。あなたも来るのよ」
パチュリーは俺を指さして言う。
「何で俺が?」
「向こうでも通用する服装なのかどうか、見たててくれる人間が必要じゃない」
「まあ、確かに」
というわけで、明朝、香霖堂へと行くこととなった。
正直戸惑っている。
ここ一時間ほどで激変した俺の生活を。
幻想郷へ来た当初とは比べものにならないが、何かが動き始めているのかもしれない。
恐らくは俺の人生にとって重要なことだろう、とは漠然とわかる。