『厄神様の通り道』  その道を、いつの頃からか里の人間はそう呼んでいた。  ――厄を払い、厄を運び、時には厄を撒く恐るべき厄神様がお通りになられる道である、と―― 「おだいりさーまとおひなさまー♪」  しかし、当の恐るべき厄神様こと鍵山雛はその日の夕暮れにも、  彼岸花の咲くその小道をお気に入りの歌を歌いながらのん気に歩いていた。  雛にも空を飛ぶことは出来るが、その日のように風が強い日は髪が乱れてしまう。  それに雛は、地上を歩いて四季の移ろう景色に目を楽しませるのも好きだった。  それともうひとつ―― 「雛様、こんばんは」 「あらあら、こんばんはー。また会ったわね」  歩く雛に挨拶してきた者。それは青年というにはまだ少し届かない、人間の若者だった。  何がきっかけだったか数年前にこの道で出会って以来、雛と彼は言葉を交わすようになっていた。  里の噂、人間の知識、彼の夢そして愚痴など……雛は主に聞いてあげる側だったが  神であることを離れ他愛なく穏やかに過ごせるひと時と、それをくれる彼を雛も大切に思っていた。  しかし幼く無邪気な子供もいつしか成長する。彼の背丈が雛に近づきそして追い越した頃から、  彼の自分への気持ちが幼な子の憧憬からもう一歩踏み込んだ、  少年が少女に初めて抱く淡い感情に変わりつつあることを雛は感じていた。  人間の少女ではなく、厄神である自分がその気持ちに応えることは出来ない以上、  彼の気持ちがより深まってしまう前に自分から離れるべきなのかもしれない。  しかし雛自身、自分を恐れずに話してくれる人間とのひと時は楽しかったし  彼が青年になるくらいまでは、厄神として……そして年長の友として見守ってあげたかった。  それが雛の立場で彼にしてあげられる、精一杯のことだったから。  だが、その日の彼はいつもと違い、明らかに緊張している様子だった。  黙ったままの彼を雛がいぶかしんでいると、彼は手折った日々草の花を雛に捧げながら切り出した。 「実は今日は、雛様……厄神様に、折り入ってお願いが……」  なるほど。そう言えば彼から神頼みをされるのは初めてだったかもしれない。  受け取った日々草の花を何とはなしに髪に挿しながら、雛は合点がいってきた。 「なあに? 神にも出来ないことはあるけど……でも、人間を不幸から守るご利益なら厄神様に任せなさい」  久々に人間から神頼みをされて嬉しくなった雛は少々誇らしげに、胸を張って促してみる。  促された彼は少し躊躇った後、突如直立不動の姿勢を取り、がばと頭を下げ叫んだ。 「雛様……あ……あなたの……雛様の下着をくださいッ!!」 「……はい?」 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  数瞬の間。風に流れる空気ごと時が固まったように思えた。  彼は頭を下げたまま微動だにせず、雛は何度か口をむなしく開閉させると、ようやく言葉を紡いだ。 「……えっと……ね。……あの、今……なん、て……?」 「はっ……。真に失礼の極みとは存知ながら、雛様がただ今、御身に着けられている下着を……頂きたく……」  聞き間違えることの無い、全く予想外の願いに思わず呆気にとられてしまう。  だが真面目に緊張しきって小さく震えてまでいる人間の様子を見るに、冗談でないことも分かる。  私は神様なんだから、と自分に言い聞かせ不意打ちの驚きを落ち着けてから、雛は問い返してみた。 「……あまり、神様をからかうものじゃないわ。何のつもり?」 「本当に申し訳ありませんこんなこと……でも実は……」  彼の説明によれば、里では流行り病が起きており、彼の家族は特に重い状態である。  そこで厄神――つまり雛のことだ――が常に肌身につけているもの――つまり下着のことだ――があれば  一帯を襲っている厄を払う厄払いになるという噂を聞き、藁にも縋る思いでやって来た云々。  あまりに突飛な話をぽかんと聞いているうち、雛は呆れ、次に軽くめまいがしてきた。  こんな馬鹿なことを考え付きそうな相手に心当たりは――それなりにあるが――  しかしこんな荒唐無稽な嘘八百を人間があっさり信じ込んでいるというのは驚きだった。  それでも、家族を心底から案じているからこそ荒唐無稽な話でも信じてしまったのであり、  それゆえ、嘘と決め付けて断るだけではとうてい納得してもらえそうにない覚悟が見えていた。  雛がどうしたものか困っていると彼はおもむろに膝を折り、地面に頭をつけ土下座をして訴える。 「私自身は如何なる神罰も覚悟しております。なにとぞ、家族には、どうか家族だけには……」  雛は驚いた。頭を下げたまま動かない彼の背に、驚くほど大量の厄が滲んでいたのだ。  彼の家族が特に重篤に見舞われているというのも、これほどの厄が身近にあれば  それが原因だろう……しかしなぜ、急にこんなに厄が。  だが雛には彼が厄を受ける心当たりがあった――厄神……つまり自分だ。  もちろん注意はしていたつもりだが、たびたび会い話すうち自分の厄が少しずつ、  人間であり耐性の無い彼に移り蓄積させていってしまったのかもしれない。  それが外部から受けた厄をきっかけに、一気に表面へと溢れ出すことになったのか。 ――ならば、自分の責任だ。  決心した雛はきゅっと唇をかむと、出来るだけ何気ないように答えた。 「わ、分かったわ。それで納得するなら……その……した……下着くらい……あ、あげましょう。  ――でも、見られるのは……えっと……やっぱり恥ずかしいから……、少しだけ離れて、横を向いていて」 「え……あ……は、はいっ!!」  まさかこんな突飛な願いをあっさりと承諾してもらえるとは思っていなかったのだろう。  一瞬、呆然としていたが慌てて数歩を離れ、生真面目に後ろを向いた。雛はそれを見てつい苦笑する。 ――素直なところは昔から変わっていないのに……そんなだから……。――  軽く首を振り、追想と躊躇いを払った雛がスカートの裾に手を掛けた――その瞬間、  後ろの木立で確かに何者かが身を乗り出す気配がした。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「そこねっ!!」 「うぇ!?」  振り向いた雛の背から蒼く輝く厄が立ち上ると、弾幕が怪しい気配のした方向に次々と飛び込んでいく。  それに対し、慌てたような声と気配と共に反撃の弾幕が飛んでくる。  予想通り何者か――恐らく人間以外の――が明らかに意図的に近くに潜んでいたことを確信する。  しかしすでに雛が完全に先手を取っていた。雛はステップを踏んで整わぬ弾幕をくるくるとかわしながら、  一気に片を付けるべくブラウスからカードを引き出し、スペル宣言を行う。 「創符『流刑人形』!」  カードが発動し厄の輝きが一際増すと、一気に展開したスペル弾幕が木立に殺到する。 「う……ゎ……きゃあああああっ!!」  数瞬後。  木立の中にいたそれは、潜んでいたがゆえに身動きが取れず全身に弾幕を食らって落ちてきた。 「――で、これはどういうつもりかしら。下っ端の天狗さん?」  満身創痍になってなおカメラをしっかりと抱えたその天狗に、雛はにっこりと笑顔で問いかける。  天狗は苦笑いを浮かべながら、不承不承に答えた。 「いや……ね、実は最近、うちの新聞の部数が伸びなくってですねー」 「……それで?」 「神と人間の禁断の逢瀬、みたいな読者が食いつくネタがあればっていう、罪の無い……」 「……それで、人間の不運に付け込んで、あんなっ……あんな嘘をばら撒いた、と……?」 「……ぅ……ぁ、ぁの……その……ご、ごめんなさいー!!」  引きつった雛の笑顔か、ゆらめく厄かに身の危険を感じたのか、天狗は身を翻すと全速力で逃げていった。  その姿が遠く山に帰るのを見届けると、雛はため息をつき、呆然としていた彼を振り返ると声を掛ける。 「分かった?私の……し……下着にご利益なんて出まかせだし、もうあんな馬鹿な話は信じちゃダメよ?」 「し、失礼しました雛様……本当に申し訳ありません……本当に……。今日は帰って、頭を冷やしてからまた……」 「ま、待って。お話は、話は……まだ終わりじゃないの」  突如起こった人外の戦いと示された事実、そして騙され犯した自らの無礼に気が動転しているのだろう。  彼の顔には雛への無礼の後悔、そして少女の前で見栄も外聞も無い姿を晒した苦悶がありありと見て取れた。    恐縮しきったまま帰りかける彼の服の裾を捕まえて、雛は引き止めた。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「ごめんね……。私……私は、神だから……だから……」  そう言うと雛は目を伏せ、優雅なスカートの中に横からそっと諸手を差し入れた。  たくし上げられたスカートの透き間からのぞく白絹のような細い脚は、月明かりを受けて艶やかで――  自分は、彼の気持ちを踏みにじってしまうのだろう――その想いは雛の胸を締め付けた。  突然のことに、雛が何をしているのか分からなかった彼ははっと我に返った。  見てはいけない、目を離さないといけない。  しかし。  そう思いながら、目の前の幻想的な光景から目を離す事が出来ない。  中に差し入れられた手がすっと降りると、はらりとスカートの透き間も閉じられていき、  その一瞬の何もかもを見逃すまいとしてしまう。  かがむようにして静かに片脚をくぐらせ、もう片脚を抜いた雛は、目を伏せたまま消え入りそうな声で呟いた。 「……だから、一度してしまった約束は……守らないと……いけないの……」  そう言いながら雛は泣きそうな顔をしながら震える手で、彼の手に握らせた――  彼女の肌の温もりを吸い込み、暖かな柔らかさのかたまりのようになっているそれを。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ――ごめんなさい……―― 「……え……? ぁ……」  思ってもみなかった展開と、神である少女の、思わぬその行為に呆然とする。  手の中に渡された、少女が今しがたまで肌身に付けていたそれはただの縫製物のはずなのに、  その温もり柔らかさは、まるで目の前の彼女の身体の一部のようで。 ――でも、これで大丈夫だから――  それを意識してしまうと思わず喉が乾き、身体がかっと熱くなる感覚を覚えてしまう。  彼が呆然と手の中のそれを凝視していると、目を伏せたまま雛がささやいた。 「それとね……。私は厄神として、あなたが背負う厄を払わないといけないの……だけど――」  言いながら雛は自分の白く細い手で、彼のもう片方の手を取る。 ――だから許して、そしてもう―― 「だけど、厄が運命に変わってしまってからでは止められない。  早く、あなたの厄を祓わないと不幸が現れてしまう。だから――」  顔を上げ精一杯に微笑むと、自らの震える手を添え、その手ををそっと自らに導いた。 「――だから、私にあなたの厄を……」  だが彼は、すでに雛の言葉を聞いてはいなかった。  手の中に渡された小さな温もり。導かれて触れたその身体の柔らかさ。風に舞う髪の香り。  そして、泣きそうな顔で花と共に微笑んでいる、幼い頃から憧れていた少女――  それらが風に踊り心に忍び込み、すでに彼の中から優しい理性を奪っていた。  彼女の名を叫びながら、何かに突き動かされるまま、ただ力と衝動のままに少女の身体を抱きしめる。  雛の髪に差した日々草の花が落ち、足元の彼岸花が踏まれて折れる。 ――忘れてください、こんな穢れている神のことを――  抱きしめたその身体は、神と言うにはあまりに小さく、細く、軽く、暖かいのに頼りなげで。  風が吹き夜の暗闇が全てを蔽い隠す中、少女の名を泣くように叫ぶ声が響く。  翌朝。折れ乱れた彼岸花の上に、一輪だけひしゃげて落ちていた日々草の花は、  それだけがいつまでも夜露が消えず光っていた。