〜幸せ兎 の 幸せ論〜 【Scene-one】  乾いた爽風が軽やかに吹き抜けていく秋の空。 茜に染まった西日が目に入る景色全てを、背後にそびえ立つ鳥居と同じ朱へと塗り替えていく神社の前で、その少女は立っていた。  歳の程は見た目で十歳、それよりいくらか幼く見えるだろうか。 痩せた雪のように白い肌は、ゆったりとした踝まで隠すほど長いワンピースに包まれていて、少女の肌は服共々、今は神社と同じように夕日に赤く斑に染められている。 黒く大きな瞳はやや上を向き、真っ直ぐ境内の奥を見すえて、艶やかな黒髪の頭上に付いた兎の耳が、時折ぴくぴくと揺れるのが少女の愛らしさをさらに際だたせている。  そして少女は大きく息を吸い込んだ。 「お〜いっ、神社の不良巫女さ〜んっ!!」  外見通りの可愛い、しかし小柄な体格からは想像し難い大声量が境内に放たれた。 まるで声そのものが指向性を持っているかのようだ。  反応はすぐに訪れた。 建物の奥からどたどた走り寄る騒大な足音を少女が己の大きな耳で聞き取ると、その人物はすぐに境内へと姿を現した。 「誰が、不良巫女よっ!」  相変わらずの改造巫女服に身を包んだ、ここ博麗神社の正代巫女――博麗霊夢だ。 どうやら料理中だったようで、その巫女服の上には真っ白いエプロンが付けられていて、また右手には払い棒の代わりと言わんばかりの菜箸が握られている。 「出てきたね、こんにちは霊夢」  少女が微笑んで丁寧にお辞儀すると、霊夢は少女の姿にあっけにとられていた。 少女が……あまりにも意外な訪問者だったからである。 「あんた……永遠亭とこの妖怪兎じゃない。確か名前が……」 「てゐ、因幡てゐよ。実際に会うのは二度目よね?」 「そうね」  少女――てゐが実際にと言ったのは、最初に出会った永夜事件以外で、二人が間接的に関わり合いのある事を、てゐの方が起こしたからだ。 「珍しいわね、あんたが来るなんて。それで何の用? まさか……神社にまでお賽銭せびりに来たわけでも無いでしょう?」 「あはは……そりゃね〜」  皮肉と言うより明らかにトゲが含まれた霊夢の問いにも、てゐは涼しげに微笑む。 「まあいきなり来て、貴女にこんなこと頼むのも何なんだけどさ。ちょいと匿って欲しいんだよ」 「……匿うですって?」  霊夢の目が途端、胡散臭そうに細められる。 「うん、そそ」  頷き、てゐは鳥居の方角――背後の空を一瞬振り返った。それからの彼女の視線はどことなく落ちつかず宙を泳いでいる感じがしたが、はたしてその理由に霊夢が思い至るのにさしたる時間は必要なかった。 「はぁ……なるほど。またあの薬師とかへにょ兎とかに、大目玉貰う様な事でもしたんでしょう?」 「いやまあ……その。うん、そんなとこ。えへへ……」  曖昧に了解して、てゐは定まらない視線で乾いた笑いを作る。 「はぁ……」 「ね、だからさ。今晩だけでいいんだっ。後でお礼は弾むから、ねっ? お願い霊夢さ〜ん」  あくまでも軽いのりを崩さずに両手を合わせるてゐに、霊夢はため息一つで肩を落とし、腕を組んだ。 「まああんたの噂は、いろいろ聞いてるけどね」  因幡てゐ。 非常に賢く、口達者。そして何より他人を騙すのが得意な嘘吐き兎。 霊夢も少し前に間接的にとはいえ、このてゐの詐欺行為の被害にあっている。 そんな妖怪兎の、今まで殆ど会った事のない霊夢への、藪から棒のお願い。 どれほど裏の事情を勘ぐっても、勘ぐり過ぎと言う事はないだろう。 しかし霊夢の気持ちは、不意に視線を落とした菜箸を見た瞬間決まったらしかった。 「まあ良いわ。このまま考えてても、夕飯を冷ますだけだしね」 「おおっ、ありがとう霊夢」  そう言って破顔したてゐの笑みだけは、見た目通りの純粋可憐な愛らしい少女のモノだった。 「そうそう、ならてゐ?」 「はい?」 「せっかくだから、夕飯を食べて行きなさいよ」 「え、良いの?」  途端、霊夢へ駆け寄るてゐの脚がぴたりと止まる。 「ちょうど支度も終わった所だしね、ついでよ。理由はどうあれ、一応あんたはこれでお客な訳だしね。でも人のご飯が……兎に合うかどうかは知らないけど」 「あのね、私達がいつもニンジンばかり食べてると思ってるなら、それ偏見だから」  某日……不意に神社を訪れた因幡の素兎。 多少の胡散臭さを感じた物の、彼女を歓迎する事にした神社の巫女。 両者にとってこの夜が、他の何物にも代え難い特別な一夜になる事を、この時はもちろん二人とも想像できるはずも無かった。 【Scene-two】  そうして……てゐが社内の食卓に通されたのと、夕日が地平線の向こう側へ姿を消したのはほぼ同時だった。 霊夢が「直ぐに用意できるから」と言い残して消えた後、彼女は数分と待たずにそれを食卓へと運んできた。  急遽用意された二人分の夕食。 最初それを見て、てゐはあまりの違和感の無さが逆に違和感だと言う事に気付かなかった。 気付いたのは霊夢が茶碗にご飯を盛り、向き合うようにちゃぶ台を囲んだ後だった。 「ねぇ霊夢……これってどういう事なの?」 「ん? どうって……どういう事? 紛う事無き今日の私の夕飯だけど」 「うんそうね夕食ね。でも……なんでちゃんと二人分あるわけ?」 「ああ? 訳分かんない事言わないでよ。あんたも食べるって言ったじゃない」 「いや……そのだからさ」  噛み合わない会話に、口をつぐんで指先でこめかみをほぐす。 霊夢の夕食は二膳とも、全く同じ盛りつけだった。 ご飯とかみそ汁とかはまあ良いだろう。大量に作り置く事が出来る物でもあるわけだし。 しかし、焼き魚とか揚げ豆腐とかまできっちり二つあるのだ。開いたり切ったりした風でも無く。 目の前の光景を見る限り、どう考えても最初から二人分の食事を作っていた様にしか思えない。 てゐが突然神社を訪れたのは霊夢が夕食を支度し終わる直前で、今新たに用意できる時間などあるはずもなかったのに。 てゐがきっちりそこまで説明すると、 「ああ、なるほど。そう言う事か。別にいつもの事だもの」  と、霊夢は何の不思議もないと言う風に一人で納得した。 「なに、もしかして貴女って見かけによらず大食なんだ?」 「ううんそうじゃなくってさ。強いて言うなら……カンみたいなものかな」 「カン?」  訝しんで問い直すてゐに、霊夢は天上を見た。その先を、さらに遠くを見渡すように。 「何となくね、分かるのよ。誰か来そうだって言う感じじゃなくて、ただ漠然と……ああ今日は二人分用意して置いた方が良いかな〜ってね。 そしてそう言う日はたいてい魔理沙が――ああ私の友人なんだけど、彼女がひょっこりやってきて、ただ飯食らって帰って行くわ。 誰も来なかったら、つまりカンが外れた時は明日分のご飯に回すだけだし」 「にわかには信じがたいけど……」  呟いても、その霊夢のカンがかなり確かな事を、てゐは自分自身の訪問で証明してしまっている。 「だから別に、実は私がすでにあんたが来る事知ってて、あんたが逃げてる連中とグルって可能性は無いから安心しなさいよ」 「え?」  てゐは不意に霊夢がこぼした可能性とやらに、弾かれるように彼女の瞳を覗き込んだ。 「第一もしそうなら、あんたに夕食をご馳走するメリットって無いじゃない?」 「えっ……ああ、そうね……うん」  てゐは霊夢が勝手に結論づけた推論に、バツが悪そうな返事をした。 普段は相手を言葉で手玉に取る天下の素兎が、今は相手の言葉に翻弄されっぱなしだ。 これではいけないと、てゐは心中思う。 でも実際の所。霊夢がそんな風に“勘違い”してくれるなら、てゐもやり易かった。 「ま、そう言う事だからさ。早く食べましょてゐ」 「う、うん」  そうしててゐは霊夢の「いただきます」の合図と一緒に手を合わせ、ぎこちなくではあるが目の前の膳に箸を伸ばしていった。 同じように箸でつつく霊夢を、ちらりと横目で見やりながらてゐは思う。 (そうこれなのよね。凄く自然体でありながら、でも絶対相手に主導権を握らせない。常に自分と相手の立場を考えながら、状況によって自分自身すら偽って生きてきた私なんかとは、全くの対局にいるのよね霊夢って)  そんな彼女に初めて会った時だ。闘いの最中とはいえ、てゐが何か不思議な高鳴りを相手に感じたのわ。 「味の方はどう?」  食べ始めて数分もしない内に、霊夢からそう訊かれた。 「え、うんとっても美味しいわよ。これはホントにホント」  霊夢の料理は事実、美味しかった。 組織的な事情から仕方ないとはいえ、大体が大味で海賊料理的な食事が多い永遠亭と違い、彼女の料理はそれぞれの品に味付けのバランスが考えられていて、このままいくら食べても飽きが来そうに無かった。 さっき霊夢に冗談半分に二人分食べるのかと尋ねたてゐだったが、これなら本当に二人分は軽く食べてしまえそうな気がした。 「それでよてゐ、改めて聞くんだけど」 「うん?」 「ホントのとこ、あんたうちに何しに来たのよ?」  食べる事のついでみたいにあっけらかんとした霊夢の問いに、てゐは一瞬箸を止めてきょとんとした。 問いの重要さとは裏腹に、その問い方の軽さに一瞬意味が分からなかったからだ。 「い、今更何よ? 私が来た理由はさっき話して、貴女も自分で納得してたじゃない」 「まあそうなんだけどさ……。でもそれって嘘でしょ?」  疑問系であるものの、それは確信を持った問いだった。 霊夢はてゐの瞳を、近くのぞき込み言った。 目は口ほどに物を言う――それをまるでてゐで実践でもしたいように。 てゐの方は内心心臓が大きく跳ねたが、それを顔に出す様な事はない。 この程度で嘘が顔に出るようであったら、今頃嘘吐き兎はとうに廃業しているだろう。 「本当だってば霊夢。第一……私が本当に貴女をどうにかするつもりなら、もっと巧妙に嘘付くわよ。それこそ貴女が、これっぽちも疑問を挟む余地もない程にね。 私の噂、いろいろ聞いてるんでしょ?」 「まあ……それもそうなんだけど。でも前に貴女がやった賽銭詐欺? あれもその、何て言うか……十分子供だましっぽかったと思うんだけど」  言って人差し指を顎にあて、小首を傾げる霊夢の仕草が凄く可愛く思えた。 それは少し前の事。てゐは小さな手提げ賽銭箱を作って、幻想郷中の人妖から「賽銭の集金に来た」と偽る詐欺行為をした事がある。 尤も詐欺行為とは言っても、騙される側はそれが嘘と知った上、おもしろ半分で賽銭を入れていたのが実情で、故に実害らしい実害もなく、某天狗の新聞のネタになった程度で終わったのだが。 てゐ自身あれは自分の嘘吐き人生の中でも、取るに足らない悪戯の域を脱していないと思っている。そして実はあの賽銭詐欺の真実は、全く別の事にあった。 「あ、あれは……その」  てゐは口ごもり俯く。 ――貴女に……私の事かまって欲しかったから。  などと言ったら、目の前の巫女はどういう反応を現すだろうか? とある一夜の事件で偶然一度であっただけの、名も知らぬ妖怪兎。霊夢の中で、このてゐの印象を変え、お近づきに成りたかっただけだと。  そう言ってしまえたら、彼女は一笑するだろうか? それとも「あら、そうだったの」と特に頓着せず流してしまうだろうか? てゐにとっては、そのどちらの反応も哀しかった。 「う〜んまあ、私にとっては結局どっちでも良いんだけど」  霊夢はてゐから視線を外すと、彼女の右手は再び食事摂取に忙しくなった。 「え? 何よ、自分から話し振っといて」  てゐはジト目を作って霊夢を見つめた。さっき視線が近づいた時に感じた、鼓動の高鳴りは未だ収まっていない。それを誤魔化す為だと自覚している。 「何って雑談よ、ざ・つ・だ・ん。誰かと一緒に食べるなら、楽しく食べたいじゃない」 「私に取っては、自分が疑われるような話は楽しくないわよ」 「ならお詫びに、今度からいつでも食べにいらっしゃいな。今日であんたが噂に聞いてるほど食えないヤツじゃない、見た目通りの可愛らしい女の子って事が分かったしね」 「んな……霊夢……」  目も鼓動も、口ほどに物を言うのを抑えるのは得意なてゐだが、真っ赤になった頬だけは隠しようが無かった。  取り敢えず気恥ずかしさを忘れようと、必死で食べ物を口に運ぶ作業に集中する。 先ほどまであれほど美味しく感じられた料理の味が、あまり分からなくなっていた。何かとてももったいない気がする。  それから二人の食卓は、霊夢が聞いてくる、てゐの永遠亭での生活などをメインに雑談している内に時間は瞬く間に過ぎ、気付くと二人のお膳は空になっていた。 時計を確認するとおよそ三十分。あっという間だった。 てゐは「ご馳走様でした」と手を合わせる。 てゐにしてみれば別に意識してやった訳でなく、自然とそう言う動作がでてしまったのだ。 「はいお粗末様でした。じゃあ私はこれ片付けてるから、てゐはその内にお風呂入っちゃってよ」 「えっ、お風呂も……良いの?」 「と〜ぜん。まあ正直な所、まだ貴女を一人で居させるのに若干不安を覚えなく無いんだけど……。でも内の風呂も、二人で入るには狭すぎるし」  まるで“雨の日は洗濯物が乾きにくくて困る”程度の事を言うように、霊夢は素っ気なく言い肩を落とした。 「じゃ、じゃあもしかして風呂が大きかったら、一緒に入った?」 「ええ、別におかしくないでしょ? 永遠亭とかでは、温泉みたいにでかい湯船にみんなで入るって、さっきあんたも言ってたじゃない」  さっきの食事中にした話だ。 確かにその通りだが、永遠亭と今では事情が違う。少なくともてゐの心中では。 「私は……別に良いわよ多少狭くても」  と口走った言葉に、てゐは自分で驚いた。 (って何言ってるのよ私。これじゃ……またなんか企んでるように思われるじゃない)  てゐのそういう心中も実は、己の真実からは微妙にずれていたりするのだが、彼女自身もそれに気付けるほどこの時は冷静でいられなかったのだった。  とにかく。そんなてゐの特攻の一言に、霊夢は苦笑いを浮かべて思考をまとめる間の時間、下唇を小さく噛んでいた。 「あんたが良くても、私が嫌なの狭いのは。そうね……今度もしあんたの住処を訪ねる機会があったら……その時に入りましょうか?」 「な、それってつまり……」 「ええ、そうよ」  どもるてゐに対して、悪戯っぽい微笑みで答える霊夢。 つまり霊夢は言外にこう告げたのだ。 ――今度はあんたが私を招待してよねっ。  ……と。 「ほらてゐ、分かったらさっさと入ってきなさい」 「う、うん。ありがとう霊夢」  言って、てゐはぎくしゃくと立ち上がる。 襖の方まで歩き、眼前のそれを開け放った後、ふと思い立ちてゐは霊夢を振り返った。 「ん、どうしたの?」  霊夢の食器を持つ手が止まり、視線が合う。 「いや私、そもそも貴女の家のお風呂が何処にあるのか知らないんだけど?」 【Scene-three】  宵闇に満たされた神社の縁側を、夜風が凪いでいく。 「へっ……くしゅんっ!」  鼻先にむず痒さを覚え小さなくしゃみを洩らしたのは、縁に腰掛け景色に身を溶かしていた一匹の妖怪兎――てゐだ。  秋とはいえ陽が落ちれば、その風はやがて来る冬の寒気を徐々に含み始める。 このまま湯上がりの躰を晒していたら、もしかしたら風邪でもひくかも知れない。 どの兎たちよりも健康に気を遣うてゐにとって、普段こういう場所に身を置く事は滅多に無いのだが……。 今はその“滅多”な状況に自分を置きたい気分だった。 「はぁ……ふぅ」  息付き、どこか感傷的になっている自分を自覚する。 今てゐが身につけているのは、霊夢が用意してくれた床衣だった。 真っ白いその衣はとてもよく似合っているが、いかせん彼女にはサイズが大きい。 腕や脚の裾は何重かに折り曲げられて、深めに合わせられた襟は腰帯を通してぎゅっときつく結ばれている。 いざ寝る時になったら、少々煩わしいかも知れない。  まあしかし、今てゐの思考方向はそんな事とは全く別にあった。 「思ってたより……疑われなかったわね」  独白が闇に、風に、空へと溶けていく。 本当はもっと霊夢には根ほり葉ほり聞かれると思ったのだ。 そしてそれを舌先三寸で言いくるめる自信も、本当の目的を隠し通す自信もあった。 ――本当の目的。 それを成す為、因幡てゐは確かに博麗霊夢へ嘘を付いている。 そしてその嘘は、いつもの自分からしたら笑ってしまうくらいちゃちな物で、それで隠した本心は更に他人が見たら滑稽な冗談に思うだろう。 「はぁ……今まで嘘を付いてきて、罪悪感なんて無かったのにな……」  それなのに何故だろう。 おおよそ今まで付いてきた嘘の中でも、とりわけ小さな誰にも迷惑を掛けないはずの嘘で、こうも霊夢に対して後ろめたい気持ちになるのは。 「そう言えば……前に永琳が言ってたっけ?」  それはてゐがおもしろ半分で、永遠亭を実質取り仕切る八意永琳に、彼女が仕える姫君である蓬莱山輝夜との過去の確執を聞いた時の事だ。 ――そうね……惚れた弱み、ってヤツかしらね?  永琳はいつもと変わらぬ、たおやかな微笑みのまま一言そう言っていた。 「はぁ……天下に轟く大妖怪、泣く子も騙す因幡てゐ様が……幾数百年生きてきた果てに、人間の女の娘に一目惚れとはね〜」 そう言っててゐは、右手に持った一升瓶をそのまま口づけ呑んだ。  霊夢は今風呂に入っているが、その隙にてゐが拝借してきたわけではない。 湯上がりに霊夢自身から受け取ったのだ。 『私も今から入ってくるから、暇だったらそれでも呑んでてよ。今夜は良月だよ』 『あらあら……。私の事酔わせてどうしようって言うのかしら?』 『素直に、あ り が と う は ?』 『はいはいありがとさん』  そうして背を向けた霊夢の去り際の事だった。 『お礼は身体で払え、なんて言わないから安心なさい。そもそも私だって……』  霊夢の独白に近い呟きは、そこで廊下の奥へと消えた。 それにしても冗談を素で返されるのは、なんとこう心地の悪いものなのだろう。 しかも本心を塗り替えて放った冗談なら、なおさら切なくなってくる。 それに……はたしてあの後、霊夢は何と続けたのだろうか? ――そ も そ も わ た し だ っ て ……。 (そもそも私だって……酔った勢いで私とそう言う関係に成るのは嫌……とか?)  てゐは首をぶるんぶるん振り、自分の妄想を振り払った。 あまりにも自分に都合が良すぎやしないか……と? でもそうしたら頭へ変に酔いが回って、気持ち悪くなってきた。 「はぁあ……一体私、何やってるんだろ」  数回の深呼吸の後、何とか持ち直したてゐは、酒瓶に映った自分の顔を見て呟く。 そして不意に酒瓶に映り込んできたもう一人の影にてゐが気づいたのは、まさにその時だった。 「な〜に一人でしけた顔してるのよ?」 「っ! きゃっ、れい……む」  腹に飲み込み損ねた小さな悲鳴をあげ、てゐは振り返りぬっと見下ろす霊夢を見る。 ずっと一人に世界に浸っていた為、いつから彼女がそこにいたのか? そう考えるとひどく恐ろしい。 (まさか……私の本音まで聞かれて無いわよね)  霊夢はてゐと全く同じ床衣を着ていて、湯上がりの直後故か、その頬は赤く火照っている。 両手で支えた盆の上には、二つ分の猪口を持っていた。 「確かに今日は月が綺麗とは言ったけど、ずっとここにいたら風邪引かない?」  そう言いながらも霊夢はその身体を、盆を間に挟んだてゐの横に落ち着けた。 そうして「はい」っと、猪口の一つをてゐの方に差し出してくる。 「あ、ありがとう」  ぎこちなく受け取り、それを両手で包み落ち着きなく弄る。 「おつまみは作らなくて良いでしょ? 今夜はこんな良い酒の肴があるんだし」 「ん、ああ満月の事?」 「それもあるけど……。私にとってはてゐ、貴女もかしら」 「えっ?」  それって、どういう……。 既に夜風に冷まされたてゐの身体に、わずかばかりの焔の芯が宿る。 なお屈託無い笑みを浮かべる霊夢に、てゐの鼓動はまた高鳴った。 「あんたの話し。さっきの夕飯の時聞かせて貰ったけど、結構面白かったからさ」 「あ、そう言う事……ね」 「ほらほら……お酌してくれないの?」  霊夢はてゐの方に己の猪口を差し出した。 「え、ああ。うん……」 「さっきから何どもってばっかり、あんたらしくもないわね」  文句を言いながらも、霊夢はてゐが注いだ酒をぐっと一瞬で飲み干した。 そして「ふ〜んおいし」と、幸せ一杯の息を付く。 (って……これって関節キスじゃ)  そんな普段兎たちの間で回し呑みしても全く気にならない感想が、ふとてゐの中をよぎった。 気付いてしまえば途端、霊夢の唇に意識が行ってしまう。 あのふっくらした赤い唇に、自分のそれを触れあわせる事が出来たらどんなに心地良いのだろう。 「あんたはもう呑まないの?」 「え?」  また入り込んでいた一人の世界から、霊夢の言葉で連れ戻された。 「なんかさっきから様子が変よ。アルコールだけだときつい? やっぱりなんか作ってきましょうか?」 「大丈夫よ、私が何百年生きてきた妖怪だと思ってるのよ。こんなお酒くらいで」  言って自分の猪口に注ごうとしたてゐの手を、霊夢の手の平が包むように押さえ込んだ。 「ちょっと霊夢?」 「私にはお酌させてくれないの?」 「……っ」  てゐは俯き、さっと酒瓶を霊夢へと手渡した。 「ん、それじゃ」  一声の後に注がれた酒を、てゐは霊夢と同じく一気にあおった。 さっきと全く同じ酒だというのに、今呑んだそれは微かに甘く、断然美味しい気がしたから不思議だ。  今度はてゐの方から酌し返す。そして霊夢が呑み、てゐに注ぎ、てゐが呑み、また霊夢に注ぐ。 そんなやり取りが無言で繰り返される事、そろそろ二桁を数えようとしていた。 (何か……私から話した方が良いのかしら?)  霊夢は自分の話が面白いと言ってくれたし、それも今夜の肴の一つだと言っていた。 でもこんな時に限って、てゐ自慢の頭脳と口は全く巧く機能してくれない。 酒に酔わされた訳ではないと思う。さっき霊夢にも言ったように、自分はこんな程度の酒でどうにかなる妖怪ではない。 では何かと言われれば、その答えは至極単純だ。 (私は……霊夢に酔ってる。酔わされる。自分の価値すら……見失う程に)  ずっと嘘を吐いて生きてきた。 嘘を吐く事が生き甲斐だった。生きる道だった。 でも霊夢には本当の自分を分かって貰いたい。嘘で飾らない自分を知って貰いたい。 彼女だけは……裏切りたくない。 それはある意味、今までの自分の人生を否定する想いかも知れない。 (でも……それでも私は。私は霊夢を……好きでいたいんだ)  てゐの想いは……決まった。 「ねえ……霊夢?」 「んん? 何よ?」 「どうして私に……本当の理由を訊かないの?」 「……」 「私は遙か昔から詐欺で生きてきた兎よ。貴女得意のカンっていうヤツが及ばない、巧妙な手口で貴女を狙ってるかも知れないわよ?」  てゐが言うと霊夢は、すっと醒めた表情で目尻を細めた。 だがそれは別に警戒を含んだものではなく、どちらかというと真摯な態度で物事を伝えようとする意思の現れだ。 「ねぇてゐ、なら私からも一つ訪ねるけど。あんた実は、今まで本当に悪意を持って人を騙した事って無いでしょう?」 「んなっ、そんな……事は……」 「ううん、じゃあ言い方を変えるわ。多分あんたは騙された相手が、騙されたと気が付かない嘘しか付かない。違う?」 「……」  てゐは絶句した。 そう、確かに霊夢の言うとおりだ。 相手が騙されたと気付くような詐欺は、てゐにとっては二流。いやそれ以下だ。 極端な例えながら。とある品物を相場よりも高く売りつけるといった詐欺を行うにしても、騙された相手はそれに気付かなければ、「良い買い物をした」と思う幸福感が残る。 例え金銭的にはマイナスになったとしても、相手はその分で“心の幸せ”を買った事になるのだ。 屁理屈と言われれば、そうかも知れない。 だが“誰も損をしない詐欺”なんてモノは存在しない。 だから“誰も損したとは思わない詐欺”……これこそが因幡の素兎、てゐの哲学だった。 「そんな事……一体誰から聴いたの?」 「え? 別に誰からも」 「ってあぁ、そうかあの天狗の新聞?」  そう言えば賽銭詐欺の事で某天狗から取材を受けた時、てゐはそんな己の論を聞かせてやった事がある。 でもあの話は結局てゐ自身が最後にうやむやにした為、記事としては使われなかった筈だ。 「新聞の事なんか知らないわよ。そもそも私、読んでないしさ」 「じゃあなんで?」 「なんでって事は、やっぱそう言う事なのよね?」 「え、ええ?」 「うん、さっきの思いつきで言ってみただけよ?」  霊夢はにんまり、てゐに微笑みかけた。 てゐは口をぱくぱくさせたまま、霊夢の小悪魔的笑みを食い入るように見つめている。 まるで自分自身が……低俗な詐欺行為に引っかかったみたいだった。  だがその霊夢の悪戯な微笑みが途端に崩れ、ただ穏やかな物になると、次の瞬間てゐの身体に風がまとわりついた。 (えっ?)  違った。風かと思ったのは霊夢から伸びてきた、彼女自身の腕だった。 一瞬の動作で、てゐは霊夢に抱き込められていた。 「ちょ、なっ。霊夢っ!?」  暴れ抜けようとするが、肩に回された霊夢の両腕がそれを許さない。 「ねえてゐ。仮にもしあんたが今日私を騙そうと近づいてきたんだとするわ」 「……」 「それで私はまんまと騙されて、それにすら気付かずに、明日あんたを送り出すとするわ。それでしかも万が一、後日私が騙された事に気付いたともしましょう」 「えと……その」 「でもね……私はその時になって思うのきっと。まあ二人で食べた夕飯も、呑んだお酒も十分楽しかったし。これで差し引きゼロ(とんとん)かなって……ね?」 「れ……いむ」  名を呟いた瞬間見上げた先。射し込んだ月明かりは彼女の顔を照らし、その陰影は神秘的な眼差しを作り出している。 てゐ自身の驚いた顔が映り込んだ瞳が、まだ若干湿って艶のある黒髪が、更に赤らみを増した頬が。そして先ほど意識した唇がてゐの眼前まで迫っていた。 「さっきさ……お風呂入ってる時にいろいろ考えたのよ。んで、出た結論が……こんなに一緒にいて楽しいヤツが、悪いヤツな訳無いじゃないって事?」 「それはそれは……光栄な事で。あは……あははは」  瞬間、やばいなと……てゐは思った。 何がやばいのかは分からないが、とにかく今自分はいろいろやばい状況にあると感じた。 身体中の感覚はあまり無いにも関わらず、意識にははっきりと霊夢の柔らかく温かい肉体の感触だけは伝えてくる。 心臓はもう飛び出してしまいそうなくらい高鳴っていて、霊夢に悟られやしないか心配だ。 そして何より、今この狂った感動を押さえつける自信がてゐには無かった。 「あはは。そんだけ信じてくれるなら、是非お礼は奮発しなきゃね〜」 「うん?」 「ねえ……霊夢」  てゐはわざとに、霊夢に聞こえるか聞こえないかという声で囁く。 「何、んっ!?」  そして顔を近づけてきた霊夢の唇に、てゐは自分の唇を一瞬で重ね合わせた。 溶けるような熱さを感じた。全身燃えるんじゃないかと言うくらいの熱気が身体中を廻って、頭の中をじりじり焦げ付かせる。 行為としては十秒に満たないごく短いモノだった。それ以上続けていたら……間違いなくてゐの理性が焼き切れていたに違いない。  再び見つめ合って霊夢が何かを言おうとする前に、てゐは先んじて言葉をぶつけた。 「私の能力知ってるかしら? 私の祝福を受けた人間にはね……幸福が訪れるのよ」 「…………」  尤もその能力を使うに当たって、別に相手にキスをする必要は全くない。 ――全くないが、これは……それこそ誰も損をしない詐欺そのものだ。  てゐの言葉に、霊夢の目尻と頬が徐々に緩んでくる。まるで春の妖精が憑いたかのような穏やかな笑みを彼女は浮かべていた。 「そう幸せを……ね。ありがとう、てゐ」  霊夢はわずかに恥じらうよう唇に手を当てて呟いた。 「その……ごめん。いきなり変なことしてさ」 「ううん良いわよ。お礼……でしょ?」 「うん……そう」  お礼と改めて言い直されてしまったのは、ちょっと複雑な気分だったが。でも仕方ない。 「でもね、てゐ」 「なに?」 「自分の好きな人を幸せにするなら、それはあんたの能力を使ってじゃない。それは貴女自身の手で幸せにしてあげないといけないんじゃ無いかしら?」 「っん……なん……」  今度こそてゐの鼓動は、トドメを刺された。 胸と喉に小さな痛みを覚え、自然と両方の瞳から雫がこぼれ落ちていく。しかしそれは悲しみからなんかでは無く……。 「何よ……やっぱり最初から、全部知ってたんじゃない」 「最初からじゃ無いってば。さっきのお風呂よ。お風呂入ってる時に、そう考えるのが一番自然な理由なんじゃ無いかなって思っただけ」 「もうどっちでも良いわ。霊夢……大好きなんだから……」  てゐは今度は自分から霊夢の身体に抱きつくと、自分も両腕で霊夢の腰を抱く。 嬉し涙は止めどなく溢れ、霊夢の胸元を濃く濡らしていった。 「さてこれでお互いの気持ちはすっきりした事だし、ちょいと早いけどもう寝ますか」 「うん……そうね」 「先に言っておくけど……窮屈だからって文句言わないでよね」  咄嗟に顔を上げ、再び霊夢を見つめる。 「えっ……て、まさか一緒の布団で寝させてくれる……いや寝る気なの?」 「だってうちには布団が一組しか無いもの。だからといって私は客人を床で寝させるほど薄情じゃないし。またかといって自分の布団を譲るほど善人でも無いのよ」 「私は別に……」 「大丈夫安心しなさいって。お礼はもう貰ったし、これ以上のお礼を身体で払えなんて言わないから。そもそも私だって……酔った勢いで、あんたとそう言う関係に至るは嫌だもの」  てゐはこの日、霊夢の詐欺の腕も、自分のカンの鋭さも、どちらもそう捨てたものではない事を思い知ったのだった。 −了− −あとがき− ろだのタイトルを見て「れいせん×てゐ」だと思ってクリックした方。 騙されてくれてどうもありがとうっ!(笑) 願わくば、このSSが貴方にとって「騙されて損は無かったぜ」と思えるモノであらん事を……。 某日某場所より 書いた人:れふぃ軍曹