悩みがある、とリグルはちょっとだけ頬を赤らめ俯いて言った。  幽香は小首を傾げて、可愛い客人を日傘にそっと招き入れた。  これは蟲の王様と花の王様の、ちょっと変わったお話。  夏真っ盛りといった感じだ。  思い切り絵の具をぶちまけたように真っ青な空に、立ち上る入道雲は丁寧に描かれ ている。畑の向日葵は一斉に花を咲かせ、黄と茶の絨毯が地平線まで続いていた。  悪戯好きの妖精が魔法をかけたせいで、その向きはてんでばらばら、音を立てると うねうねと踊りだすのもあった。  しかしそんな奇妙な向日葵を抜きにせずとも、文句無し、混じりっ気の無い、これ ぞ正しく夏、と言った日だった。  そんな太陽の畑のほぼ中心に開けた場所があり、幽香はいつもの様に愛用の日傘を 持ち、独り、昼下がりの日向ぼっこを楽しんでいた。  歳を取ると日々の楽しみも少なくなってイヤねぇ―。  そんなことを呟きながら、日傘をたたみ脇に置く。  ごろりと寝転がる。大きい綿雲がのそりのそりと視界を横切って行った。  ああ、今日も幻想郷は平和だわ―。  その時だ。幽香の少ない「日々の楽しみ」が訪れたのは。 「ごめんなさい、起こした?」 「ううん、さっき来たところだったから」  リグルが慌てた様子で向日葵の群れから飛び出てきた。そんな彼女を見て幽香が上 半身を起こし、にっこりと微笑む。  待ち合わせの時間なんて決めてないのに、いつもリグルは先に幽香が居ると慌てて 謝る。  「なんでそんなに慌てるのよ?」以前そんなリグルを見て幽香は尋ねた。  「だってレディを待たすのはいけないことだから」リグルは平然と答えた。別にい いのに、と幽香は返したが、内心結構な照れを感じたのは内緒だ。そんなこんなで大 抵はリグルが先に居るが、今日みたいな日はいつもこんな調子である。  そうして、いつもならリグルは幽香の隣に自然と収まる筈なのに、今日ばかりは幽 香の前に立ち、前で手を組んでどこか恥ずかしそうにもちゃもちゃ動かしている。  幽香は不思議に思い、リグルの顔を覗き込んだ。幽香がからかうとそうなるように、 眉毛を八の字にして困り顔になっていた。 (私、何か困らせるようなことしたかしら?)  幽香は人妖関係なくからかったりして遊ぶのが好きで、特にリグルには少々際どい 冗談を言ったりして困らせることが多かった。  そうは思ったけど、記憶の辿れる限りでは思い当たる節がない。 「あ、あのさ」  そこでようやくリグルはぺたりと座り込み、上目使いでこちらを見た。頭から伸び る触角が力なくだらりと垂れている。 「なぁに?」  幽香も正座を崩した様な姿勢をとり、膝をつき合わせると言った感じでリグルに寄 った。こうして見ると、その幼い顔立ちが仄かに赤いことに気付く。 「私、悩みがあって…、聞いてほしいんだけど、いい?」 「いいけど…それはどういう悩みなの?」  畳んでおいた日傘を開き、幽香は自分とリグルの上にかざした。  照らす日の光が遮られると、ますます頬の赤みが見えた。 「笑わないで、聞いてね。こんなこと幽香にしか言えないから…」  うんうんと頷く。こんなリグルは本当に可愛い。 「どうしたらもっと女の子になれるのかなぁ…?」  幽香は目を丸くさせた後、たっぷり1分は笑い続けた。もちろん、リグルは脹れた。 「笑わないでって言ったじゃん!」 「ごめんなさい、リグルったらずっとそんなことで悩んでたわけ?」 「そんなことって…」「ああ、ごめん、『そんなこと』じゃないわよね」  胸の中で膨れ上がる悩みを本人がそう思っていなくても「そんなこと」呼ばわりさ れてしまい、リグルは口をつぐんでしまった。幽香も幽香で返す言葉が見つからずに、 どうにか言葉を探し当てようとするが― 「ぶふっ」「笑うなってってんだろがこの脳内まで花畑ー!!」  聞けばそれは彼女の積年の恨みならぬ悩みらしい。周りの妖怪からはバカにされて、 ずっと性別にコンプレックスを持っていた、と。 「簡単なことじゃない、女の子らしい格好をして、女の子らしい仕草で女の子をすれ  ばいいのよ。だってあなたは女の子だもの」  リグルの格好はいつでも半ズボンで、黒いマントを着けている。  やんちゃな男の子のそれにしか見えないのだ。まず一端はそこにある。 「でもそんな服持ってないし…」 「買いに行けば?」「里に降りたら追い払われるんだ」  リグルははぁ、とため息をついた。こういうとき、蟲の王様の肩書きは足かせにな るのだなぁと幽香は心底思った。同じ王様でも、花と蟲じゃこうも扱いが違うものか と。  まあ、触覚と羽が見えているリグルと、完全に人間の姿をしている幽香とでは根本 が違うのだろう。 「大体女の子らしい仕草って何さ。私がいきなりそんなことしても、気持ち悪いだけ  だよ」 「んん…まあ、いきなりならそうかもね」  幽香は想像した。大体イメージ的には、魔理沙が悪酔いしている時の感じを思い浮 かべてもらえると話が早い。目がうるうるしてて頬が赤くて、女言葉を積極的に使い、 しおらしく可愛らしく、誰であろうと甘えてくる。  誰にも依らずただ蟲だけを眷属として傍におき、その上人にも妖怪にも疎んじられ ることも多かったリグルにとって、そんな弱気な態度は自分の命にも関わりかねない。  大げさかもしれないけれど、本当のことだからしょうがないとリグルはがっくり肩 を落とした。 「みんな私のことばかにするんだ…。『蟲使いは気持ち悪い』『男の子みたいだから、 お前は本当は男の子なんだろう』とか…」  呟く言葉と肩は震えている。幽香はまたしても語る言葉を無くした。  大体リグル自体は蛍の妖精で心優しく、気持ち悪くもなんともないのに。  一緒に夏祭りに出かけてみたその日の夜、打ち上がる花火と一緒に空を舞う美しい 蛍の群れを見せてくれたのはリグルだ。  そもそも幽香は腹立たしかった。いかに造形がおぞましいと感じる物であれ、幽香 にとっての花とリグルにとっての蟲はきっと同等の価値を持つ。それを馬鹿にされた り蔑ろにされたりすることが―。  からりと晴れた夏の日だというのに、リグルの涙声がただただ空しい。 「ねえリグル」  幽香が口を開く、恐る恐る―。大妖怪の名が聞いて呆れる。すきな人を安心させる ことすら簡単には叶わないのに―。と、幽香は自身に嘲笑を浴びせかけた。 「あなたはもっと自信を持っていいはずよ、そうじゃない?」 「でも…」 「蟲の統率者であろうと、どんなに男の子っぽくても、それがあなたでしょう?  あなたは他人にとやかく言われたからって蟲を手放す?」 「っ、そんなことは絶対にしない!」 「でしょう? じゃあなんでそんなにはっきり言い切れるのに、自信を無くすの?」  ただ強く、強く在れ―。  幽香は生まれてから今まで、妖怪としてそう生きようと決心してここまで来た。  人間の様なちっぽけな存在に負けてたまるか、他のどんな妖怪よりも強く在らなけ ればならぬ。  そのせいだろうか、気付くことさえできなかった。己の弱さに嘆く誰かの存在を。 「心を冷たくしないで。あなたは妖怪だもの、時間は十二分にある。  時間をかけて、皆に蟲のことを解ってもらえばいい。ちょっとずつ女の子らしさを  身に付ければいい。変わればいいの、簡単なことよ。  少しずつ、少しずつでいいから」  幽香は日傘を手放すと、そうして優しくリグルを抱きしめた。それはまるで妖怪と は思えない、人間よりも人間らしいやさしくてあたたかい抱きしめ方だった。幽香自 身、そんなやり方を誰かを抱きしめたことなんて無かった。 「後もう一つ、大切なこと」  だから、その時ようやく感じたリグルの柔らかさと温かさに少しドギマギした―。 「ここに居る私は、今のあなたが大好きだもの。  男の子みたいに私のこと気遣ってくれるリグルも」 『だってレディを待たすのはいけないことだから』 「可愛いリグルも」 『笑わないで、聞いてね。こんなこと幽香にしか言えないから…』 「それじゃ、不満だって言うの?」  黙っていたリグルが、幽香の腕の中で小さく首を振った。 「じゃあきっと、大丈夫」 「…本当に?」 「私の言うことだから、間違いがあるはず無いわ」  そっと体を離し、リグルの頬に手を添える。涙で瞳を潤ませ、小さく震えている彼 女は、幻想郷のどの女の子よりも女の子らしく思えて、幽香の中に愛おしさが溢れて きて―。 「幽香」 「え?」 「ほんとにありがとう、やっぱり君のこと大好きみたいだ―」  心の堰を、押し切った。  ほとんど押し倒すみたいにして、幽香は自分の唇をリグルのそれと重ね合わせた―。 (大体、) (こんなカワイイコが男の子なワケないじゃない―)  真っ盛りの夏の日、向日葵が乱れ咲いた太陽の畑。  これは恥ずかしがりの蟲の王様と、  そんな彼女が大好きな花の王様の、そんなお話。  そのお話の結末は、放り出された日傘のみぞ知る、ってね―。