僕は懐中時計にそっと耳を当てた。  それは昔の音色を保っていて――   ―まんびきまりさ 前編― 「あら、懐中時計」 「ん? ああ、懐中時計さ」  香霖堂には珍しい『お客』が来ていた。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜その人である。 「私も持ってるのよ、懐中時計」 「へえ」  彼女には時を操る能力があるらしい、だから時計にも一家言あるのだろう。興味津々といった表情だ。 「見せてくださいな」 「いいとも。それと、よかったら君のも……」  気がつけば僕が渡そうとした懐中時計は彼女のそれになっていた。思わず苦笑。 「ふむふむ……これは良い時計ね。狂わずに長持ちするでしょう。だけどもう少し飾りが多くても良いんじゃないかしら、遊び心が足りない」 「時計とはそれだけでいいんだよ……と言いたいところだが」  彼女に渡された懐中時計は銀製だった。緻密な装飾が蓋にされていて、中もそれは豪奢なものだった。  にも拘らず重すぎず、軽すぎず、そして壊れにくそうな、まさに至高の逸品と言って良いだろう。流石に僕のものとは格が違う。 「これじゃあ、そんなの言っても負け惜しみにしか聞こえないな」 「お嬢様がくださったのよ」 「だろうねえ。こんなの人間が作れるものじゃない」 「あら、どうして?」 「これは……正確に言えば時計じゃない」  彼女は可愛らしく小首をかしげてみせた。何気に少女っぽいところもある。 「時計には基本的に……いや、定義として時を表わすという用途があるんだ。だけどこれは違う、この道具の用途は時を狂わすと出ているんだよ」  僕の能力は嘘をつかない。名称は一応時計となっているのだが、なんというか、頭の中で時計という文字が浮かんではぼやける。  実に曖昧な道具なのだ。 「それは私が持っているからかもね」 「持ち主に馴染み道具が変わっていくのは珍しいことじゃない。だけどこれはちょっと極端すぎるな。用途が正反対じゃないか」 「でもこの懐中時計、貰った時は本当にただの時計だったけど?」 「……君は人なのかい?」 「悪魔の狗ですわ」 「ならば時も狂うさ」 「まあ、素敵」  クスッと微笑んで彼女は品物を見始めた。お客の居る風景と言うのはいい。実に心が和む。  僕にも商売人の魂の欠片くらいはあるのか。 「ええと、それではこれとこれと……これを頂けますか」 「毎度あり」 「宇宙食というものがあるときいてやってきたのだけど、残っていてよかったわ。お嬢様とパチュリー様がどうしてもと所望して」 「魔理沙いわく宇宙の味がするらしいが」 「林檎味って書いてありますけど」 「……宇宙にも林檎があるのかな」 「夢があるのね」 「あるさ、宇宙だし」  貸して貰った時計らしき道具を返すと、咲夜は幽かに笑みを浮かべて大事そうにポケットに仕舞った。 「大切にしているんだな。道具も喜ぶだろう、将来は化けるかもしれない」 「それは素晴らしいわ。化けたら私が死んだ後、お嬢様のお世話をさせましょう」 「時を操るメイド長の次は時を狂わすメイド長かい」 「執事なんて如何かしら?」 「また一興か」  いいかげんに使われた道具は恨みを持ち、祟り神と化すことがある。百鬼夜行に混ざるのはこの類。  それとは逆にとても大事にされたり長持ちした道具は持ち主の魂が乗り移り、やはり化けることがあるのだ。  総じて付喪神という。共に神とは名ばかりで実際はその殆どが弱小な妖怪。尤も前者は人に禍を後者は幸をもたらすという違いはあるが。 「やっぱり道具には相応な持ち主というものがあるのだろうね。君を見ているとわかるよ」 「勿論。毎日丁寧に磨いて手入れしているのよ、貴方のこれと違って」 「ばれたか。実はこれ、日の光を見るのも丸一年ぶりさ」 「あらあら、このお店に日光なんてあったのね。お嬢様に優しくない」  綺麗に埃を払ったつもりだったがやはり彼女の目は誤魔化せない。これは同じ付喪神でも祟り神になりそうだ。恐ろしい。 「まあ、魔理沙にも少しは見習わせたいものだよ。あいつは物を大切にしないから……」 「その必要は無いわ」 「え?」  彼女は目の前に僕の懐中時計を催眠術師の振り子よろしく吊り下げた。 「私、この懐中時計何処かで見た気がしたのだけど……確か魔理沙が同じ物を持っていたはずよ。いつか図書館で見たわ」 「おや」 「私が触ろうとしたら触るなって怒られちゃった。まあ、時間をとめて思う存分触ったのですけど」  どっちもどっちだ。 「フフ、何かあるのね?」  咲夜は猫のように目を細めてそう問うて来た。狗なのに猫っぽいとはこれ如何に。 「聞きたいかい?」 「お茶菓子のお供に」  一瞬にして、目の前に二杯の紅茶と一皿の御菓子が用意されていた。彼女もまた少女だけあってそういった話には興味があると見える。 「お茶菓子のお供はお茶だろう?」 「最高のアールグレイですわ」 「素晴らしい」  高貴なベルガモットの香りが湯気をくゆらせ散っていく。  僕は美味い紅茶にありつけたことを心の底で大いに喜びながら、唐突に始まったお茶会にちょっとした昔話を添えることにした。  あれは数年前、魔理沙が独り暮らしをはじめて少しした頃の話だ。魔理沙はまだ幼く、魔法も半人前だった。  霊夢ともまだ知り合っていなかった魔理沙が訪れるところといえば、専ら此処、香霖堂。  彼女は今じゃ考えられないことだが、店の娘だっただけあって香霖堂ではきちんとお金を払って買い物をしていた。  というよりも一般人と等しくお金を払わないという考え自体を持っていなかったと見える。今と違ってそこらへんは常識的だったのだ。  そうあの頃、世にも不思議なことなのだが、香霖堂の商品が消えだした。  外のものが多かっただけに、香霖堂は外との境界が曖昧になってしまったせいだろうかと最初のうちは考えていた。逆神隠しである。  だがある日、僕は品物の記録をつけていて消えた商品と時期に規則性を見つけた。  その一つは消えた物は全て食べ物であったということ。もう一つは――  ――カランカラン 「香霖、遊びに来たぜー!」 「……いらっしゃい、魔理沙」  ――魔理沙が来る日に限って、ということだ。 「相変わらず客がいないなあ。閑古鳥で焼き鳥屋ができるぜ」 「閑古鳥とはカッコウのことさ。あんなの捕まえるくらいなら鶏でも飼う」 「私は飛ぶ鳥も落とすぜ?」 「それは比喩だよ、比喩」  実際、魔理沙は動物を殺す度胸など持ち合わせてはいない。鳥の羽をはぐのを見せただけで倒れそうだったくらいだ。  此処の生活に慣れていけばそのうちそういうことにも慣れてくるだろうが、いかんせん魔理沙は幼すぎる。 「今日は買い物かい?」  僕は探りを入れるつもりでそう尋ねた。 「いやいや、料理でも作ってやろうと思ってな」 「遠慮しておくよ、ついこの前も作ってもらったし、仮にも前働いていた店のお嬢様だし……」  哀しきかな、お嬢様でちやほやされて育ってきた魔理沙はあんまり料理が上手では無いからという理由もある。 「私はもうお嬢様じゃないぜ。霧雨魔理沙、普通の魔法使いだ。修行中だが」 「だけど」 「なんだ? 私の料理が食えないって言うのか? そうか、不味いもんな私の料理は。私のことも不味い料理作るから嫌いなんだな? 香霖?」  急に早口でまくし立ててきた。魔理沙は僕が自分の思い通りに行かないとすぐこの戦法だ。  僕がそこまで言われて肯定できないのを分かってるくせに。いや、強く言えない僕も僕なのだけど。 「だからね……」 「私のことが嫌いなんだな? 香霖はわた……私のことが嫌いで、私の作るのは食べたくないって……うぐっ……いうんだな!?」  ほら、自分で嫌い嫌い言っていて悲しくなってきたみたいだ。涙声じゃないか。  魔理沙はずるい奴だ。子供っぽい言い分だが、今のところ僕にはそれを論破できる対抗手段が無いのも全部分かっている。  泣かれた時点で僕は白旗を掲げるしか無いってことも。 「わかった、わかった。どうぞ好きに料理を作ってくれ。不味くても文句は言わないさ」 「……へへ、不味くてぽっくりするなよ?」 「……びっくりの範囲でとどめてくれよ?」  さて、夕食の時間。 「香霖、できたぜ〜!」」 「こ、これは…………何だ……?」  灰まみれの石炭みたいな物体が出来上がってきた。 「なんとびっくり! 焼きお握りだ!」 「自分でびっくりする料理を作るんじゃない! 大体どうやったらこんなに焦げるんだ? お焦げなんて生易しいものじゃないだろ、これ」 「いや、どうやって焼けば良いのかわからなくて、お魚みたいに串に刺して焼いたら崩れてかまどの中に落ちちゃってさ」 「熱くて取れなくなっちゃったというわけかい?」 「うん……」  唇を尖らせて魔理沙は拗ねたような表情をした。 「そういう時はね……ほら、こういう網を使うんだよ。フライパンでもかまわない。あと塩だけじゃ寂しいから醤油や味噌で味付けして」 「おお、さすが香霖だぜ」 「やれやれ、これくらいで褒められるなんて、先が思いやられる」  中は焦げてなかったし所詮米と炭と灰なので食べてもぽっくりはしなかっただろうが、新しく作り直したのは言うまでもない。  なお新しく作った焼きお握りをえらく気に入ったのか、これ以来魔理沙は当分、得意料理を焼きお握りと言い張ることとなる。  ……と、ここで終われば色々と苦いけどいい思い出ですむのだが、僕は魔理沙の異常に気がついた。 「う〜ん美味いなあ。きっと焼き方が良かったんだな、私の」 「魔理沙」 「梅干入れても美味しかったかもしれん……なんだ香霖?」 「食べすぎじゃないか?」  少し作りすぎたと思ったくらい多くできた焼きお握りが殆どなくなっていた。僕が食べたのはそのうちのせいぜい3分の1から半分。  残りは言うまでも無く魔理沙が食べたのだろうが、まだ小さい彼女にしては食べる量がおかしすぎる。  「お腹がすいていたのかい?」 「いや……別に……何でもないって! 食べ盛りなんだぜ!!」 「そうかな? 少し痩せたみたいに見えるけど」  心なしか以前より顔が丸みを失っている気がする。肌ツヤも余り良くない感じが。 「やっぱ将来はスレンダーな美人さんだろ?」 「君の年頃でダイエットは良くないよ。将来的にも悪影響が出る」 「んじゃ食べろって言ってるのか? 食べるなって言ってるのか? はっきりしろよ」 「……お好きなように」  僕は溜息して言った。  その夜、僕は魔理沙が帰った後、商品を確認した。  外の世界の物と思われる、魚の缶詰一つ、チョコレート菓子一つが消えていた。  このチョコレートという物は今のところ幻想郷では殆ど作れず、外のものに頼る結構高価な商品である。 「万引き、か」  僕はショックを受けたが、まだ魔理沙を心の中で信じていた。大体、盗みの現場を見たわけでは無い。  だから次、魔理沙がきたときもう一度だけ確かめてみよう。  本当に盗みをするようだったら、叱らないといけない。癖になったら困る。何より魔理沙のためにならない。  もし魔理沙が再びあの『私のことが嫌いなのか』理論を持ち出してきても、僕は決然と『そんな子は嫌いだ』と言うつもりだ。  人の物を盗んで良い道理など無いのだから。例え相手が親しい僕であっても……。  ……唐突に魔理沙の泣き顔が頭に浮かんで、僕は思考を停止した。 「まったく……甘い奴だな」  本当にその時が来たら言えるのか、やっぱり自信が無くなった。  ニ日後、魔理沙は再びやってきた。  ――カランカラン 「香霖、また来たぜー!」 「やあ、また来たのかい。いま本を読んでるところだから邪魔しないでくれよ」 「本? どうせまた薀蓄を溜め込んでるんだろ、つまんない奴だなあ」  魔理沙は品物を物色し始めた。僕は本のほうに目を向けている……と見せかけてそうでは無い。見ているのは少し前にある鏡。  まず食べ物類を僕の死角になる所に配置しておいた。そしてその死角であるはずの場所が見えるように鏡も配置した。  魔理沙は僕が本を読んでいる上、完全に見えないところに目当ての品があると思い油断して手を出す。それを見たら決まりだ。  あくまで魔理沙が万引きをしているのならばという話だが。    ……ああ、ひやひやする。どうか魔理沙があそこに近づかないで欲しい。  僕は信じていたいのだ、魔理沙は正義感があって優しい子で、物を盗むなんて卑怯なことなど絶対しないって。  魔理沙は僕の自慢の妹分だって、いつまでも胸を張って言える様に在りたいのだから。  ――だが現実は非常だった。  魔理沙はひょっこりと鏡の中に姿を現し、何度も横切って、何度も僕のほうを凝視して、何度も商品に手をつけて放すを繰り返し……  ……懐にお菓子を入れた。  きょろきょろする魔理沙に聞こえないように、僕は細く溜息を吐いた。何ともいえない寂しさが胸を突き上げてくる。  僕が大切に守ってきた魔理沙という娘の像がぼろぼろ壊れていく気がして。  そこでやっと僕は見ていた本が上下逆さであったことに気がついた。  いや、待て。まだ魔理沙を万引き犯とするには証拠が足りない。  もしかすると帰るときに代金を払ってくれるかもしれないじゃないか。そうに違いない。 「香霖、今日は何作ろうか?」 「夕食かい? じゃあ…………いや、実は今日は外に出る用事があるんだよ」 「用事?」 「ああ、用事。ちょっと里の方にね」 「里? あんなところに何の用だよ」 「人と待ち合わせしているんだ。早いけど今日はもう店じまいさ」  僕は立ち上がり外へ行く用意を始めた。  用事? そんなものあるわけが無い。僕は魔理沙が万引きをしているか否かという結論を急いだのだ。  魔理沙は親父さんと色々あっただけによほどのことが無い限り里には行かないし、いらない詮索をされる心配も無い。 「折角今日は料理の本を読んできたんだけどな」 「悪いね」 「仕方ないや。次のお楽しみだぜ」  魔理沙はカランと呼び鈴を鳴らし扉を開いた。 「あ、魔理沙」 「ん? 何だ香霖」 「いや、何でもない」 「そうか? じゃあな!」  魔理沙は箒に乗って何事も無かったかのように帰って行った。 「……嘘だろ?」  顔が真っ青になっていく感覚を覚えたのは久しぶりだ。  魔理沙はお金を払おうという素振りすら見せようとしなかった。これはやはり、そうとしか……。  いやいやいや、もしかしたら魔理沙は僕が急かしたせいで、今日に限って支払いを忘れたのかもしれない。  まだ魔理沙は100%犯人と決まったわけでは無い。きっと魔理沙は持ち帰ってしまった商品を見て戸惑っているのだろう。 「お人好しめ」  僕は無表情に呟いた。これだけ証拠を掴んだのに、どうやらまだ僕は魔理沙に無実であって欲しいらしい。  そうだ、魔理沙の家に行こう。話題を切り出すには十分だ、お金を払ってくれたら今までのことは無かったことにすれば良い。  そもそもあの魔理沙が物を平気で盗めるわけが無いのだから、それを確認するくらい問題は無いさ。 「お人好しめ……!」  僕は舌打ちしてからそんな言葉を吐き捨てて、香霖堂から飛び出した。  魔理沙を万引き犯にしちゃいけない。魔理沙がそんなに穢れてしまったと考える僕が許せない。そんな変なエゴイズム。  一刻も早く、僕は『嘘』が欲しかった。 「はあ……ふう、はぁ……は」  ――疲れた。走るなんて久々だ。日ごろの運動不足が祟ったか。  目の前にある魔理沙の家。灯りはついているから魔理沙はきっと中に居る。  僕はいったん壁に寄りかかって目を瞑った。動悸がするし、息は荒いし、顔は真っ赤だろう。  こんな状態で乗り込んで万引きがどうこう言うわけにもいかない。怖がられたり、下手に勘違いされては困る。 「……すいた……」 「?」  声が聞こえた。よく見てみると結構壁には隙間があって、意外に中の声が外まで届くのだ。  僕は息を殺して、その隙間から中の様子を覗いてみた。見た目はアレな人だ。  黒くて小さな何かが、いや、よく見ると魔理沙のお尻だ、それが布団の上にあるのが見えた。  上半身は布団の中にもぐりこんでいるようだ。もぞもぞと動いている。 「うあ〜……うあ〜……」  何をやってるのだろうか。唸っては布団の中で転がってるようだ。  「お腹すいた……」  髪を乱した魔理沙がばふばふと布団を掻き分けて出てきた。台所の方に向かったようだ。 「すいた……」  ……腹が減ってるのか? ならば食べれば良いじゃないか。  僕はもう少し様子を窺ってからにしようと、別の穴を覗き込んだ。魔理沙が台所の棚の前で頭をかいているのが見える。 「……ん?」  僕はふと気がついた。台所がきれい過ぎるのだ。鍋も、竈も、食器も、ゴミ箱まで。  部屋をあれだけ散らかす魔理沙が台所だけこんなに整頓するはずが無い。使ってないのか? 「あと一個……」  僕は思わずあっと大きな声を出しそうになり、口を抑えた。  魔理沙が棚から取り出したのはこの前なくなったチョコレート菓子だったのだ。やはり持ち帰っていたのか。  魔理沙は艶やかに光るそれを口に運び、くちくちと咀嚼し始めた。 「うまい……」  陶然としたような目で長い時間をかけて食べてから魔理沙はそう言った。  まさか、とようやく僕は気がついてきた。  魔理沙が万引きをしていたということ……いや、そんなことより何故万引きをしたのかということに。 「ない」  カリンと魔理沙の爪がチョコレート菓子の入っていたケースを引っかいた。 「もうない」  魔理沙は呆然とした表情で俯いて腹に手を当てた。幽かに僕の耳にも腹がなっている音が届いてきた。 「……たりない」  幽霊のようにふらふらと魔理沙は元の部屋に戻っていった。  僕は動くことができなかった。  ちょっと動いて先ほどの隙間から見れば魔理沙の行動を見られるだろう。だけど見てはいけないと直感が囁いていた。  ぱん、と軽い音。袋を開けた音だろう。今日置いておいたのはスナック菓子と言って、所謂外の世界の揚げ菓子だ。  芋や餅を使うのにサラダや牛肉の味があるという何とも不思議な食べ物。どう考えてもお菓子というよりおかずである。  かり……かり…… 「うまい……」  この音はやはりあの菓子の音に違いない。 「うまいよ、香霖……」  僕は名前を呼ばれてぎょっとした。しかしこちらの姿は見られていないはずだ。  恐らく呼んだだけ。僕の店から盗って来たからだろうか。 「ご……ごめんよ……ごめん……!」  声が震え始めた。齧る音がまるで貪っているかのように激しくなった。 「うまい、うまいよ……うまいけど……ひっく……ごめんよ、香霖」 「……魔理沙」 「うああ……! うまいよ……ごめん……香霖、ごめんよ、ごめんよお……!! ああぁぁあああ…………!」  がさがさ、ぐすぐす、かりかり、そんな音が不協和音のように僕の鼓膜を打ってきた。  部屋の中は見ないで正解だったようだ。咽びながら御菓子を必死に口に詰め込む魔理沙なんて見たくない。  僕は口に膜でも張り付いたように苦しくなってきた。頭の中はぐしゃぐしゃだ。何が正しくて何が正しくないのか、もうわかりやしない。  気がつけば僕は逃げるように香霖堂へ走っていた。  翌日、案の定魔理沙は香霖堂にやってきた。 「香霖、元気か〜!」 「……やあ、魔理沙じゃないか」 「ん〜? 何だ、また本を読んでるのか。こんないい天気の日くらいは外に出なきゃ駄目だぜ」 「外に出すと本が傷む」 「外に本を持ち出すな」 「僕はもう外ではしゃいで楽しめる歳じゃないんだよ……」  手元にある小説の頁をめくった。今日はきちんと読んでいる。鏡など置いてはいない。 「んじゃ勝手にいろいろ見せてもらうぜ?」 「どうぞ、ただし壊さないようにね」  僕は昨日帰ってきてから今後の身の振り方について悩みに悩んだ。  常識的には魔理沙に万引きをやめるよう言うべきなのだが、本当にそれで良いのかということだ。  魔理沙は餓えていた。だから万引きをしたという極めて単純な原理にある。  魔法を志し、人里はなれて修行するという者は何も魔理沙だけとは限らない。そういう者は主に妖怪退治を生業としている。  だが修行を始めたばかりで魔法も一人前に使えない魔理沙にはそんなことはできない。  香霖堂にお金を持ってくるところを見ると、いくらかマジックアイテムを売って収入を得ているのかもしれないがそれも微々たるもの。  また魔法の森には食べられるものもあるが毒も多く、経験も知識も浅い彼女にはどれが食べられるか分からなかったのだろう。  これまでは最初に用意した食料やお金で何とかやってきたのかもしれない。しかしとうとう生計が立たなくなってきた。  あの歳でわざわざ独り暮らしをするほどプライドが高い魔理沙は、今更誰かにすがることもできなくて……というわけである。  だけど万引きするくらいならせめて僕に頼って欲しかったというのが本音だ。  僕は悩んだ挙句、今の状態を続けることにした。  魔理沙に万引きをするなと注意する度胸は、もう昨日の魔理沙の声を聴いただけで根こそぎなくなっていた。情けないことだが。  そもそも彼女の性格からして、仮に僕が万引きなんかしなくてもいいから食べ物を恵んでやると言ってきても激しく反発するだろう。  それどころか犯行を見られたとショックを受けて本当にどうにかなってしまうかもしれない。今でもあれだけ良心の呵責を受けているのだから。  食べ物を恵んだせいで魔理沙が餓死したとか、冗談みたいな洒落にならない話だ。    常に、魔理沙が手を出しそうな食べ物を店に置いておくことにする。万引きに関係しそうな話題は出さないことにする。  魔理沙が無駄に注意しなくてもいいように、僕は魔理沙が来たときは本を読んでいることにする。  例え万引きの瞬間を見ても、見なかったことにする。これらが主な方針だ。  ……そしてもうひとつ。 「よ〜し! 今日こそ夕食作ってやるから覚悟しとけよ!」 「覚悟が必要な食事って、僕は戦国時代の武士かい。出世したもんだ」 「いやいや、めんたまが落ちる覚悟だぜ」 「本当に覚悟だなあ……」  大方『ほっぺたが落ちる』と『目から鱗が落ちる』が混ざったのだろうが。  魔理沙が作ってきたのは鍋物だった。  まあこれならどう間違えても食べられないことはあるまい。僥倖、僥倖。 「んー……ん?」  早速魔理沙は一口食べて、変な顔をした。 「どうしたんだ魔理沙」 「なんか家で食べたのと違うんだよ。野菜とかはおんなじなんだけど」 「ああ、親父さんの店で鍋を作るときはね、特別な出汁を使ってるんだよ。僕も詳しく中身は知らないけど。あれは美味しかったなあ」  なんでも川魚の焼干か煮干を使ってるらしい。店での修行中はよく食べさせてもらったものだ。 「……ふん、もうあの家には帰らないからいいんだぜ。これは私の鍋にすればいい」 「鍋と言うのはそういう物さ。作る人や一緒に食べる人によって味が全く変わってくる、材料以上にね」 「へえ」 「具を食べ終わったら雑炊にしようか」 「いいな」  ご飯を入れる頃には鍋の汁も良い味が出ていた。魔理沙は経験が無いだけで結構素質はあるようだ。  ひょっとすると将来的にはいいお嫁さんになるタイプかもしれない……なんていうのは親の欲目みたいなものだろうか。  今からそんなのだと本当にお嫁に行く時に寂しくなってしまいそうでいけない。 「ふー……ふー……はふ、はふ」 「そんなに急いで食べなくても十分余ってるよ」 「いいじゃん、美味いんだからっつ!!」  眼鏡に米粒がへばりついた。  言わんこっちゃない、残っていた具でも噛んで火傷したようだ。 「あふい……」 「猫舌だろ、魔理沙は。もう……」 「ふー、ふー……なあ、香霖」 「ん?」 「香霖は、う、美味いか? これ……」  ……そろそろ話を切り出す頃合か。 「ああ、最高だよ」 「え? そうか、最高かあ。嬉しいもんだな、えへへ……」 「例えばこの出汁の中身とその割合が非常にいいと思うね。雑炊にするとなお良さが分かる」 「や、やめろよ。照れるじゃんか!」  頭を掻きながら、心底嬉しそうな顔をしている。これくらい気分が乗っていると話し易くて助かる。 「いや、それでもこんなに美味くできるなんて凄いさ。ここ最近食べた物の中では一番だ」 「だよな、だよな、私も最高だと思うよ。へへ……香霖と一緒に食べてるからかな、なんちゃって……」 「なあ、魔理沙」 「何だ香霖……はふ」  今だ。 「これから毎日僕にご飯を作ってくれないかな……?」 「……」 「……」 「……ブフッ!!」  散弾よろしく灼熱の米粒が飛来した。 「あつっ! あっつっ!!」 「おま、おま、おま……ななななななな何……言う……!?」 「また眼鏡が……いや、だからね? 魔理沙のご飯は美味しいし、毎日食べたいなって」 「ああ……あああ!? まだ、私達……そんな関係じゃ……はやすぎ……ええっ!?」 「駄目かい?」 「い、いや、ほら、でも……私、まだ子供だし」 「なに、そういう練習は子供の頃からやったほうが効果がある」 「何の練習だよっ!!」 「料理だろ?」 「ううっ、香霖がロリコンだったなんて知ら…………料理?」 「これからも夕食を作りに来てくれたら、そのたびに練習になるじゃないか。魔理沙も料理の腕を上達させたいんだろう?」 「あ、料理……料理ね。はいはい……。夕食作りに来てってことか……」 「頼めるかな」 「……わかった」 「そうか、助かるよ」  これが最後の作戦だ。魔理沙はいつも僕のところで夕食を作って食べることで空腹を満たしていたわけだ。  万引きした品だけで食いつながせるのは可哀想だし、毎日作らせれば毎日食べる機会がもてるから幾分かましになるだろう。 「って魔理沙、どうしたんだそんなところで」  魔理沙は机の陰に頭隠して尻隠さずの状態になっていた。 「……穴を掘りたい」 「穴か、それなら向こうにシャベルがあるよ。使ったら返しておいてくれ」 「…………ありがと」  これでとりあえず魔理沙の食糧問題は解決することと相成った。  しかし僕はこの時、これが新たな問題に発展するとは思っていなかった。