・慧音がキックされます ・慧音が吐きます ・血液の描写が少しあります お読みになる際は御注意下さい  = = = 冷たい雪が吹き荒ぶ灰色の空。 食料が詰まった麻袋を抱き抱えるようにして、慧音は力無く飛ぶ。 子供達がお腹を空かせて待っている。 だというのに、いつもよりもずっと遅い速度でしか飛べない。 慣れない事に身体を酷使したからだろうか。 ここ最近、子供達の為に自分の食事の量を減らしていた事も響いているだろう。 吹雪で視界が悪い前方の空に、黒い何かが見えた。 そう思った瞬間。 腹部への衝撃と共に、慧音の視界が反転した。 呼吸が止まり、身体が動かないまま、落下する。 雪原に落ちた慧音を、幾つもの獣の息遣いが円形に取り囲んでいた。 狼の妖怪の群れであった。 その中の一匹が、二つの後ろ足だけで、人間の様に立ち上がった。 雪の中に倒れ伏したまま激しく咳き込んでいる慧音を見下ろし、ギラついた笑いを浮かべる。 「こいつ、匂うな」 黄ばんだ鋭い牙を見せ、涎と共に白く濁った息を吐きながら、人語を発した。 「ああ、匂う」 「匂うぜ」 慧音を取り囲んだ全ての人狼が、二本の足で立っていた。 「この女、サカッた人間の匂いを、体中にこびりつかせてやがる」 呼吸を取り戻し、うつ伏せのままの慧音の頬が、朱に染まった。 腹を押さえながらも、歯を食いしばって立ち上がる。 「獣風情が…容赦せんぞ!」 慧音は四方に素早く眼を走らせ、包囲の彼方に落ちている大切な麻袋を確認する。 早く帰らねばならない。このような妖怪に構っている暇は無い。 狼どもを薙ぎ払うべく、霊力を両手に集中させ――― 「あ……?」 霊力が、手に集まらない。 それどころか身体に力も入らない。 急に眼が霞んで回りがよく見えなくなる。 衝撃が、背中からみぞおちへ突き抜けた。 「ごほッ…」 背後から打撃を受け、慧音は雪の中にひざまずく。 全くの失策だった。 霊力の源である髪と角を無くした為に、身体から霊力がほとんど失われてしまっていた。 妖怪に囲まれている事を探知できなかったのもこの為か。 「おい、見ろよ。食いモンだぜ」 人狼の一匹が、麻袋の中身を雪原にぶちまけていた。 「やめ…ろ、それがふッ…」 顎を蹴り上げられて雪の中に仰向けに倒れる。 「べへっ、不味いな。人間はこんなモン食ってんのか」 穀物の袋を爪で破り、中身を口に流し込んですぐに吐き出す。 「まあ、ここ最近じゃ、どの人間も骨と皮だけで不味いがな」 まだ中身の入っている袋を雪の中に投げ捨てた。 「あ、あ…」 大切な食料。あの子達の食料。 慧音は仰向けの体をひねり、雪の中を麻袋の方向へ這い出す。 人狼達はその様子を眺めながら、下卑た笑いを浮かべている。 すぐに爪や牙で仕留めないのは、獲物をいたぶって楽しんでいるからであった。 「自分が食われるって時に、待ってる奴らの食い物の心配かよ」 半分獣の呻き声が混ざった異様な笑い声の中を、慧音は雪にまみれながら這って進む。 「はあっ…はっ…」 やっと麻袋に辿り着いた。 拾い集める為に、雪の中に散らばった穀物の袋に手を伸ばす。 その手の甲が、獣の足に踏みにじられる。 「ぐ…うっ…」 寒さで感覚が半分麻痺している為、余り痛みを感じない事が逆に気持ちが悪かった。 「ぼほッ…!」 別の足に頭を踏みつけられ、顔面が雪の中に埋まる。 唐突に、獣の笑い声が止んだ。 「それじゃあ、そろそろ………食うか」 人狼のその一言が、雪の中に埋まった耳にくぐもって聞こえてきた。 慧音は、顔を押し付けられた雪の中でカッと両目を見開いた。 こんなところで果てる訳にはいかない。 例え食料を失ってでも帰らなければ。 私が帰らなかったら、あの子供達は――― 爆音と共に、雪煙りが舞い上がった。 慧音は、僅かに残った力を振り絞って霊撃を放ち、自分を踏みつけていた人狼を弾き飛ばした。 人狼の群れが怯んだその隙に、慧音は雪煙に紛れて空へ飛び上がった。 「ッのやろう!」 「いや、待て」 弾き飛ばされた人狼が、目を血走らせて慧音を追おうとする。 それを別の人狼が制した。歪んだ笑いを浮かべながら。 「あの半獣、ここで食われてた方が良かったと思う事になる」  = = = 人狼達が追って来ない事に安堵しつつ、微かな違和感を感じながら飛ぶ。 如何に狼の妖怪と言えども、この吹雪の中で匂いを頼りに追跡をする事はできないだろう。 「ぁッ…く…」 眩暈を覚えて高度がガクンと下がる。 人間に身体を開き、妖怪に痛めつけられ、身も心も襤褸雑巾の様。 千切れそうになる意識を必死で繋ぎとめる為に、あの子達の笑顔を思い浮かべる。 待っている子供達の為に…… ―――自分が食われるって時に、待ってる奴らの食い物の心配かよ――― 違和感が、膨れ上がる。 あの人狼…何と言っていた? 何故、私を待っている者が居る事を知っている? …偶然雪原で遭遇したはずなのに。 何故、私を仕留めて喰らわずに、いたぶって楽しんだりした? …腹が減っているならば、妖怪は獲物を喰らうはず。例え遊んでも、逃がす筈はないのに。 それに、あの人狼の飛んで来た方向。 それは、今慧音が向かっている方向。 あの庵の、ある方向。 「ぐ……」 こみ上がる吐き気を堪えて、慧音は冷たい灰色の空を裂いて飛んだ。 村はずれの庵の手前に着地する。 かやぶき屋根の軒下から、囲炉裏の煙が立ち昇っている。 庵の周辺は荒れた様子も無い。 少しだけ心を落ち着けた慧音は玄関に立ち、戸口に手をかけ、―――胃の中の物を全て吐いた。 「ごッ…うぅッ!!」 濃厚な血の匂いが、屋内から立ち込めてくる。 暖かなソレは冷たい空気と混じり合い、湯気さえ見えそうであった。 「おぐッ!」 戸を開け、屋内に広がった地獄を見て、また吐く。 元々少なかった胃の中の物は吐き切ったので、今度は舌と喉が強烈に焼ける酸液を吐き出す。 軒下から出ていた湯気は、囲炉裏からの暖気ではなかった。 「ぁ……がふ…」 涙を流し、半狂乱になりながら視線を彷徨わせる。 一人でも良いから、生き残っていて欲しい。 赤くぬめる床を歩いて小屋の中に入った時、その望みも虚しく絶たれた。 「ぁああ”ア”ア”ア”アアァア”ァァッッ!!」 血の池にべしゃりと崩れ落ち、ぬめりの中に手をついて慧音は泣いた。 泣くというよりは、絶叫に近かった。 「ひ」 慧音の背後で数人が息を呑む声が聞こえた。 荒い呼吸のまま、濁った目で慧音が振り向くと、戸口に腰を落として痙攣している4、5人の男達の姿があった。 「ひいいいいあああああああああああ!」 男達はクモの子を散らす様に、雪まみれになりながら這って逃げ出す。 「ちッ 違うッ!!」 反射的に、慧音は叫んでいた。 「違うッ! 私じゃないんだッ! 私じゃないッッ!!」 「うああああっ!」 「わああぁぁぁぁっ!」 男達を追おうとして庵を這い出た慧音を、悲鳴が包んだ。 村長や村人達が遠巻きに庵を囲んでいた。 慧音の叫びを聞いて、様子を見に来ていたらしい。 禍々しいモノを見る村人達の視線に気づき、慧音は自分の身体を見た。 全身が赤に染まっていた。  = = = 雪に突き立てられた木柱に両手を縛りつけられ、慧音が吊るされている。 きつく巻かれた荒縄が、細い両手首に食い込んでいる。 つま先は地面から十寸ほど離れ、宙にぶら下がっている。 衣服を剥かれ、ほとんど半裸の状態で頭を垂れ、慧音は身じろぎひとつしない。 あの美しかった蒼銀色の長い髪はバッサリと切り落とされ、白いうなじが見えている。 そのうなじも、露出している肌も、殴打によるアザとこびりついた赤黒いもので汚れきっていた。 飢饉による鬱屈、血を見た事による混乱、妖怪への恐怖、怒り。 様々な黒い感情が綯い交ぜになった色が、取り囲む村人の目に浮かんでいた。 一部の慧音を慕う者達が事態を治めようとしたが、半ば狂気に染まった集団の勢いを止める事はできなかった。 「こいつめ…」 「里の男どもをたぶらかすだけじゃ飽き足らず…」 「子供らを集めて喰ろうたか…!」 「やはりばけものじゃったか…!」 「この里をいいように利用しておったのか…!」 慧音の元に、子供を押し付けたのは村人達である。 その事も有耶無耶にして、人々はあらん限りの恨みと呪いの言葉を、身勝手に慧音に吐きつける。 誰かが投げた雪玉が、慧音の額に当たって弾けた。 他の者達も、硬く握った冷たい雪玉を慧音に投げつけ始める。 大人が握り、本気で投げつける雪玉。 それが、顔を狙って唸りを上げて飛んでくる。 頬に、鼻に、顎に、瞼に、硬い雪の塊が当たって砕ける度に、慧音の顔が左右に揺れた。 雪塊による殴打の嵐が、慧音の全身を打ち付け続ける。 「わた…し、が…… わたし…のせい、で…」 放心状態でこうべを垂れたまま 端から赤いものを滲ませた慧音の唇が、微かに動いて何言かを呟いた。 虚ろな瞳から溢れた涙が止まることなく頬を伝い 筋を作って慧音の体を流れて降りていくが こびりついた赤黒いぬめりが落ちる事は無かった。