「あら、これはまた珍しい……」 その日はまた随分と、平和な一日だった。 「こんにちわ、そしてお久しぶり──魔界人さん」 〜懐古〜 「こんなものしかないけれど、まあお茶でもどうぞ」 「ご馳走になるわ」 突然の珍客の来訪に、アリスは少し驚いた。 風見幽香。 アリスはかつて彼女と一戦を交えたこともあったが、特にどうというような仲ではない。 記憶では、遊び感覚で人妖悪魔その他もろもろ会った者を片っ端から虐めていくという迷惑極まりない妖怪。 その幽香が何故今頃になって唐突に訪ねてきたのか。 アリスは、何かしら悪い想像をせずにはいられなかった。 「ふふ……、まあそう構えないでくださいな。今日は純粋に遊びに来ただけですよ」 そんな微かな緊張が表情に出ていたのか、幽香はアリスを見ると軽く笑った。 アリスの方もいつまでも埒の明かぬ想像で警戒心丸出しにしていてもメリットはないと考え、ゆったりとした動作で幽香の向かい側に腰掛けた。 「ところで……」 「ん?」 さっきから幽香はティーカップの中身を見つめたまま、一度も口を付けていなかった。 「この紅茶は毒入り?」 「失礼ねぇ……、まさかそんなもので貴方を仕留められるとは思ってないわよ」 「賢明ですわ」 それを聞いて、幽香はやっと紅茶を飲み始めた。 もちろん本気で疑っていたわけではなく、これが彼女なりの挨拶──いただきます、ということなのだ。 「貴方が訪ねてくるとは思ってなかったわ」 茶菓子として出したクッキーをつまみながら、アリスは言った。 「ふふふ、ちょっと気になってね。あれから、どんな風に暮らしていたのか」 あれからというのは、アリスが幻想郷に来て暮らすようになってからのことである。 つまり、魔界で幽香たちに敗れた復讐にこちらへ来たときから。 復讐にも失敗して、アリスはひっそりと森の中で暮らしていたため、外部とはほぼ交流もなかった。 アリスが唯一まともに付き合っている相手といえば、魔理沙ぐらいなものであろう。 「……懐かしいわね」 「人形遊びを始めたんですって?」 「ええ」 アリスの部屋には、彼女が蒐集した大量の魔道具と同じぐらい多くの人形が飾ってある。 彼女は非常に器用であり、少々の命令と魔力を与えてやれば自動的に動く人形を作ることなど朝飯前だった。 「完全な自立型の人形を作ること……それが今の私の目標よ」 アリスは紅茶の水面に映る自分の顔へと視線を落としながら呟いた。 「どうして」 「え──」 幽香のその言葉にアリスは顔を上げ──そして、絶句した。 「どうして、全力を出さないの?」 幽香の瞳はまるで氷かガラスのように。 そう、言うなれば”蔑み”にも似た冷たい光を宿していた。 アリスには全く訳が分からない。 どうしてそんな眼で見られなければいけないのか……。 「そこの棚にある黒い魔導書……良く整理されてるみたいだけど、一つだけ雰囲気が違う。グリモワール・オブ・アリス──貴方の為だけの究極の魔法……何故、使わないの?」 一度、正確には二度アリスと戦ったことのある幽香だからこそ分かる。 アリスは本来、人形を操って戦う戦闘スタイルではなかった。 アリスの本質は黒魔術。 それも幻想郷でも極稀な”死”の魔法である。 苦い記憶だ……アリスは紅茶を一口含むと、俯きながら語りだした。 「その、究極の魔法が原因よ。私が本気を出さない、常に力をセーブしながら戦うようになったのは……」 幽香は静かに聞き入った。 ──魔術の真髄……他の誰に残すわけでもない自分の為だけの魔導書、その高み。 魔界で貴方たちに敗れたあの日、部屋でそれを引っ張り出してきて、これなら勝てると思っていた……。 けれど、それすらも貴方たちに打ち破られた。 妖怪である貴方はともかく、純粋な人間の霊夢や魔理沙にまで。 私は貴方たち誰一人にも及ばなかった……──。 「もう……怖いのよ、全力でやって負けるのが」 「だから、人形遊びに逃げたっていうの? 負けても遊び程度にしか力を出してないからと自分を守るために」 「その通りよ。究極の魔法は私にとってプライドも同然だった……それがことごとく破られていく悔しさ。私はもう二度とあんな思いはしたくないの」 心の傷、深い闇。 アリスの死の魔法……それで殺したのは、他ならぬ自分自身だった。 「ふん、二度三度負けたくらいで何を大げさな」 「貴方は、挫折を味わったことがあるの……?」 「私は最強だから、挫折なんてしないわ」 そう、幽香には生まれつき持った天才的な力があった。 それはいくらアリスが究極の魔法を用いようと超えられないものだった。 「羨ましい限りだわ。私には貴方のような才能はなかったのよ……」 「ククク……」 「?」 突如、幽香は押し殺したような笑い声を上げた。 アリスは最初、見下しているのかと思ったがどうやら雰囲気が違う。 「それよ、今言った”羨ましい”って言葉……つまり、あんたはまだ欲しているのよ、力を」 「なんですって?」 「こんな人形遊びなんかで留まっていて良いの? 見たいでしょう、もっと高みを」 幽香はその鋭い洞察力で、未だアリスの心の奥底に残っているより強い力への欲求を一瞬で見て取った。 こういう辺り、幽香はとんでもないキレ者でもある。 「私はもう力なんて……」 「嘘」 「!」 「なら、その蒐集された数々の魔道具は何? それらを研究して魔法に応用、強化したりするのがあんたたち魔法使いじゃないの?いわば力を求めるということの最先端……そうでしょう」 幽香の言ったことはほぼ真実だ。 魔理沙にしろ、パチュリーにしろ、魔法に深く関わる者たちはおおよそ日々研究を重ねているものである。 魔理沙は言うまでもないし、パチュリーであれば膨大な数の書物による知識、また自らそういった類の書物を作成することもある。 彼女らは常により強く、洗練された力を求めているのだ。 それは、自らの手で魔法を操ることを捨てたアリスとて例外ではない。 「けど……、私は弱いわ」 「くっくっ……魔理沙はあんたよりずっと弱いわよ」 「は?」 何を言っているんだ、当然アリスはそう思った。 究極の魔法を用いても、彼女には勝てなかったのに。 「魔理沙はね、努力して努力して努力して、やっと何の努力もしてない霊夢に追いついているのよ。弱い人間。それに比べれば、元から力のあるあんたはまだマシ……」 そこで幽香は紅茶を一口啜った。 その話はアリスにしてみれば信じがたい。 あの魔理沙が、弛まぬ努力によってやっと霊夢と同程度の力を持っているというのだ。 「あんたは、まだ本気を出していない」 「……!」 「結局、あんたが負けたのは単なる才能とかそういうものが原因なんかじゃない。究極の魔法という強大な力に溺れた……その驕り、傲慢。究極の魔法を操るどころか、逆に振り回された……」 アリスの復讐戦。 幽香にしてみれば、つまらないものだった。 何しろ、相手はその力を上手く使いこなせていなかったのだから。 「魔理沙からあんたの話を聞いたとき、物凄く腹が立ったわ。不完全なあんたに勝っても、私は全然面白くなかった。本当の本当に全力を出したあんたと戦ってみたいと思ってた。なのにあんたはいつの間にか人形遊びなんかに逃げていて、このザマ……」 アリスは、何も言えなかった。 ただ無駄な逃避でしかなかった。 彼女が本当に敗北した相手は、自分自身だったのだ……。 「人形遊びをやめろとは言わないわ。でも、もう一度だけ私にあんたの本気を見せてみなさいよ。今のあんたなら、究極の魔法も自由自在に扱える」 「……一つだけ、聞かせて」 「ん?」 それは、この話が始まってからアリスがずっと気になっていたことであった。 「どうして、そんなに強さに拘るの?」 言葉の端々から感じられる異常なまでの強さへの執着。 わざわざ過去の話を持ってきて自分に本気を出させ、更に強い相手と戦おうとするその向上心。 今なら認められる。 自分とて、力は欲しい。 しかし、それでも彼女は理解し難かった。 幽香の”最強”への執着を。 「拳と刃、どちらを選ぶと言われて拳を選ぶ奴がいるの? ……つまりはそういうこと」 「でも……」 幽香の執着というのは、そんな当たり前のような自然的理由で説明が尽くようなものではない。 もっと深く……それはいわば彼女の本質だ。 「分かっているわ。これと、もう一つの理由……」 幽香もアリスの言いたいことは分かっていた。 だから、語りだす。 自らを頂点へと突き動かす、その最も根本的な原理を。 「花は太陽に向かって、ただひたすらに伸びる。他の花なんて関係ない。ただ自分の為だけに土から養分を吸い上げ、他を押しのけ……それでも花の姿に傲慢という言葉が用いられない、もしくは適さないというように感じられるのは、花が本当にただそれだけを求めているから。人間とか知恵を持った生き物はとかくたった一つの物だけを求めるなんて出来ないことなの……そこには何かしら自己満足とか利益、更に他の物へと繋がる欲求がある。だからこそ、そんなものが一切無い花は一途であり、清純なのよ」 幽香はそこで一つ息を吐いた。 ここまでは前置き、そしてここからが本題だとでも言うように幽香は足を組みなおし、語を継いだ。 「私も花のように生きてみたいのよ。そして、いつか私は太陽に辿り着く」 「……!」 アリスは戦慄した。 つまり、それは……。 「それじゃ、私はそろそろ帰ろうかしら。ご馳走様でした」 そう言って、ふっと微笑むと幽香はおもむろに席を立った。 その背中にアリスは言葉をぶつける。 「花が太陽まで伸びない理由を、貴方は分かっているはずよ。……それでも、厭わないというの?」 「……向日葵畑で待っているわ。何日かけるのも、来る来ないもあんたの自由。じゃあね」 アリスの問いには答えず、幽香は帰っていった。 また、周囲の森と同じようにひっそりと静まりかえるアリスの家。 ふと気付けば、外はすっかり雨模様だった。 彼女は、嵐にすら負けない花なのだろうか……。 アリスは封印したはずの黒い魔導書を引っ張り出すと、しばらく物思いに耽った……。 そして、しばらく時が流れた。 「……っ」 おびただしい数の妖精たちが、アリス目掛けて襲い掛かる。 弾幕の量も速度も尋常ではない。 今、アリスは向日葵畑に来ていた。 これはいわば幽香による前戯である。 この一見回避不可能に思える弾幕も、実は皆全てある一定の法則に従っており、それに気付いてしまえば、回避するのはそう難しいことではない。 しかし、次の瞬間アリスの見せた行動は回避ではなかった。 「────っ!」 彼女の口から超高速で紡がれていく、魔術の言霊。 それにより増幅され身体から迸る魔力が、アリスの髪を揺らす。 そして、アリスがその右手を振るった瞬間、妖精たちは全て跡形もなく消え去った。 アリス本来の死の魔法である。 向日葵畑に静寂が訪れる。 と、そのとき突然パチパチ……と拍手が鳴った。 別段驚く様子もなく、アリスは振り向く。 もちろん想像に違わず、風見幽香その人であった。 「……待ちくたびれたわ」 「まさか、またこの魔法を使うことになるなんてね」 アリスが左手に大事そうに抱えている魔導書……それは紛れもなくあのグリモワール・オブ・アリスであった。 二人は睨みあい、対峙する。 その異様な気配に、向日葵たちがざわめいていた……。 「かかってきなさい──臆病者……!」 了