大人の背丈の十倍以上はある巨大な本棚の間を、音がしないよう静かに駆けていく。響く靴音など気にせず全力で逃げたい衝動を抑えながら足を前へと運ぶ。大図書館に設置された本棚はわずかな狂いも無く規則正しく立ち並んでおり、いくら走っても同じ風景が続いていく。視界の外へ流れる景色は変わらず、果ての無い迷路に迷い込んだと錯覚してしまいそうだ。心に生じた焦りと不安が、今の状況を一秒でも早く脱したいと訴える。足に魔力を込めれば今の数倍以上の速さで走れる。飛べばもっと速いだろう。だけど、そんな事は出来なかった。 「……っ……」 奥歯を噛んで心の奥底から湧き上がる欲求を抑えこむ。楽になりたいという誘惑に従えば、精神的な重圧からは一時的に解放されるだろう。だが、その後に待っているのは最悪の結果。この身は相手の思うように弄ばれ、隅々に至るまで陵辱され尽くすだろう。魔力を感知させない魔力遮蔽に、視線では見えても見えなかったと錯覚させる認識阻害、周囲の音を極小化する静音の魔法を使っているとはいえ、発見される可能性のある行為を行う事は絶対に出来なかった。そんな事をすれば……今、自分を追っている相手に見つかってしまう。 『聞こえる、小悪魔』 「……ッ……!?」 ドクン、と心臓が大きく脈動した。静音の魔法を使っている自分の耳にハッキリ聞こえるほどの大音響が頭上から響き、軽い衝撃波のような空気の振動が全身を揺さぶる。足を止めて恐る恐る上を眺めると、宙に浮かぶネグリジェ姿の少女。このヴワル魔法図書館の管理者であり自分の主でもある七曜の魔女が、眠たげにも不機嫌にも見えるいつもの半眼の奥に背筋がゾッとする執念を秘めて足元を見下ろしている。ごくり、と唾を飲み込む。……ばれてはいない。全魔力を術に注ぎ込んでいるのだ。いかにパチュリー様といえど、今の私を発見するのは容易ではないはず。その証拠に全然違う方向を向いている。心臓の上に両手を当てて、ゆっくりと深呼吸する。ドクドクと脈打つ鼓動が心なしか緩やかになった気がした。図書館から脱出できる可能性は十分にある。焦って相手に発見される行動を行ってはいけない。頭上のパチュリー様を注視しながら静かに足を動かそうとした直後、声が響き…… 『姿を見せなさい。見せなければ本棚を順に破壊していくわ。分かった?』 ……言葉の内容を理解出来ず、頭の中が真っ白になった。 (…………え?) 今、何と言った? 本棚を順に破壊していくと言ったのか。あのパチュリー様が。 まさか、そんなはずがない。自分の聞き間違いだろうと思い直した矢先に。 『ハッタリじゃないわ。この私が図書館を本気で滅茶苦茶にするわけがないと思っているでしょう?……お生憎様、確かに図書館を破壊するのは気が引けるけど、貴女を捕まえる為なら手段を選ばないわ。……証拠を見せてあげる』 ス………… パチュリー様は常に持ち歩いている魔道書を左腕に抱え直し、真っ直ぐに伸ばした右腕を下に向けた。掌が淡い光を放ち、そして。 ボッ マスタースパーク一回分に相当する魔力が込められた光弾を何の躊躇いも無く発射した。反射的に腰を屈め、両手を頭の上に乗せて身構えた。ズゴゴオオ……と凄まじい衝撃音が轟き、大地震に匹敵する揺れが図書館を揺るがす。元々弾幕戦を想定している上に、マスタースパークなど超ド級の魔法で暴れまくる魔理沙さんに合わせて徹底的に強化された本棚は、光弾が落ちた周囲をのぞいてはびくともしていないが、揺れと震動で本がバラバラと落ちてくる。 『……次の本棚ね。まだ姿を見せないの。すぐにあなたの隠れている本棚も貴女と共に消えて無くなるのよ?』 ボッ ボッ 今度は二発連続で光弾が放たれた。最初よりも近い場所に落ちたようで、先程を上回る衝撃と震動。本棚が砕け、倒壊する音が響き渡る。 目の端に涙を溜めて、喉から出そうな叫び声を飲み込んで。 どうしてこんな事になってしまったのかと、ついさっきの事を思い出す。