「いらっしゃい、レイセンとお友達。…昨日の今日でくるとは、ずいぶん思い切ったものね」  颯爽と現れた永琳は二人を見て、辺りを何か探るかのように見渡し、再び視線を戻す。  格好はレイセンにとって見なれた、白衣に二色Yシャツである。やや芝居がかった仕草でメガネを外し、シャツの胸ポケットに仕舞った後、レイセンを見据える。 「は…博士…」  レイセンが気圧されて、思わず一歩下がる。と、それとほぼタイミングを同じくして、チルノが一歩前に出た。 「わざわざ外で出迎えてくれるとは、殊勝な心がけね?」 「どこでやっても、被害は出るのだもの。なら、外の方がいいでしょう?」  永琳はその後で皮肉げに付け加える。 「ビルの中でやりあうと、貴方たちも逃げ道が確保できないわよ?」  上等よ、とチルノは凶悪な笑みを作った。  永琳は、レイセンがこういう形で戻ってくるだろうとは予想していたが、大体一週間位してからくるものと思っていた。そして昨日の今日で一人とは言えど助っ人まで用意してくるとは、この辺りは多少予想外だった。まぁ準備はできていたからいいんだけど、と永琳は余裕の姿勢を崩さない。  しかも、永琳は助っ人の顔を知っていた。馬鹿馬鹿しい理由で蹴りだされた元森羅カンパニーのソルジャーにして、街に居る何でも屋。今は確か、そんな肩書きだったと永琳は記憶している。そして蝿のような鬱陶しさで飛び回る反乱組織が、彼女に接触しようとしていることも知っていた。情報としては知っていたが、対峙するのは初めてだ。ここらで腕のほどを見ておくのも悪くない、と永琳は思う。  その時、チルノの後ろで固まっていたレイセンが何か覚悟を決めたのか、足を踏み出し、チルノと並ぶ。 「レイセン…」 「私は、もう、戻りません」 「そう…なら、仕方がないわね」  永琳は一見、残念そうに呟く。二人の関係を知らないチルノにはそう見えたし、長い付き合いだったレイセンにもそう見えた。  だが、レイセンは永琳の頭脳の異常さを傍に居ながら理解しきってはいなかった。  今のところ、レイセンがどんなことをしても、結局はほとんど永琳の予想内に終わっているのだ。元々永琳はレイセンが脱出をせずにそのまま牙を向けてくる、という事態からすでに想定していたので、レイセンの脱出もさほどの打撃を与えていない。  だが永琳はそれを表に出すことはせず、むしろ逆で、レイセンの脱出が永琳に何かしらの動揺を与えた、という風な態度をとって見せている。仮にレイセンが永琳の本心を覗き込めたらショックで数日は帰ってこれないかもしれない。レイセンは裏切ったとは言えど、長く下に居た自分の脱走が永琳に少なからぬショックを与えていると無意識に信じていたし、それを裏付けるような永琳の態度にどこか安堵も覚えていた。レイセンは、自分でも気づいているかは怪しかったが、永琳を嫌いぬいてはいなかった。 「そこで、薬の成果を見届けるといいわ」  永琳はシミュレートしたとおりの展開に、口端だけで嗤う。  チルノがその言葉に反応して口を開いた。 「…何のために、巨大化の薬なんかを?」 「理想のため、よ」 「理想…?」 「まだ、試行錯誤の段階だけれど。これを手始めに、あらゆる状況に耐えうる薬を作っていって、最終的には誰にも、どんな状況にも負けないソルジャーが生まれるの。…そうして、理想が出来上がるのよ。阿呆な理由で、クビになったりはしないソルジャーが、ね?」  永琳の、チルノに対して含むところのある語りに、チルノは挑戦的な笑みを浮かべて返す。 「興味ないわよ」  チルノは剣を永琳に向ける。 「その理想で、明日が生きられる? 生活が良くなる? …腹の足しにもならないわ」  永琳の顔にほんの僅か、険が入る。 「ならば、私の理想を潰して見せなさい? 貴方が興味を持たなくとも、私は…」  前に進むわ、と永琳が取り出したのは妙な色の液体入り注射器。 「博士…!」  例の薬だ、とレイセンは顔をしかめる。永琳はそんなレイセンに冷ややかな眼差しを向け、空いた手を白衣のポケットにつっこみ、あれっ、という顔をした。 「…藍、橙、少し…時間を稼いでちょうだい」  永琳は準備などとうにできているように見えたが、それでも何かが足りていなかったらしい。レイセンはまだ間に合うかもしれない、と期待を持つ。  その為には、とレイセンは鋭い視線を藍と橙に向けた。藍はやれやれといった調子で、銃を出す。橙も、同様。だがその形状から一種の麻痺銃であることが見て取れる。あくまでも、大した戦意はないようだった。  レイセンは藍と橙、どちらを先に狙っていこうか、と思案を巡らせているとき、傍らのチルノが銃弾のように飛び出した。  狙いは、永琳。  永琳は脇の草むらに何か落としたのか、ごそごそと草を掻き分けている。チルノのことなど眼中にもないようだった。  藍が素早く動き、チルノの巨大な剣を全体重をかけて踏みつけ、チルノの動きを縫い付けたところに麻痺銃を向け、間髪なく放った。 「チッ」  チルノは顔狙いだった銃弾を首だけ動かして紙一重で交わす。すぐさま蹴りで藍の体勢を崩そうとしたところで、藍が咄嗟に後ろに飛ぶ。どうやら、レイセンが援護をしたようだった。  チルノは永琳を一直線に狙うことは諦め、藍と対峙する。  レイセンが相手になっている橙は、二丁銃だった。麻痺銃とはいえ、二丁もの銃を巧みに使いこなす相手は厄介で、レイセンは橙から近からず遠からずの距離で、橙の連撃を恐ろしいほどの反射速度で交わし続けている。  レイセンの攻撃の方は、絶望的だった。隙を縫って銃口を向ければ、橙は横っ飛びに避けながら銃弾を放ってくる。そしてレイセンも避けざるを得ない。それにこの戦闘は圧倒的なハンデがあった。麻痺銃はスペルカードを媒体に作った一種のエネルギー銃で、一度に連射しなければほとんど無制限。対して、レイセンの銃は妙な外見や能力があるとはいえ、本質は普通の銃なので弾数に限りがある。一度弾切れになれば、橙は装填の隙を逃さないだろう。状況は、レイセンに不利だった。  チルノと藍の戦いは、言うなれば鬼ごっこだった。  チルノが斬り込みに走ると、藍が銃を撃つ。チルノはそれを剣で弾いたり、避けたり、諦めて受けたりしながら迫り、強靭な一太刀を振るう。藍はそれを軽い足取りでかわしたり、遅い太刀筋の時は刀身に銃を打ち込み、その反動で避けるなどといった超人的な動きを見せ付ける。大きな動きが多く、時には銃弾を受けつつ戦っているチルノの方が圧倒的に劣勢。  チルノは剣を構えつつ、鍔の辺りを見つめる。そこには一文字の、細い隙間が開いている。チルノは苦い顔で首を振った。スペルカードはまだ、使えない。早すぎる。  劣勢だった状況は割合あっさりと覆された。  レイセンの苦し紛れに放っていた銃弾が、残り一発という状態にまでなった。レイセンの顔は真剣極まりないと言うのに、橙は極めて楽しそうで、小さく足踏みをしながらレイセンの次の行動を待っている。  レイセンも、チルノと同じくスペルカードを使うには早いと考えていたが、事実追い詰められている。次の一発、銃弾を使い切ったら使おうと考える。レイセンのスペルカードは特殊で、レイセン専用のものが多く、それは弾を使用しない。  レイセンが横に飛び、それに反応した橙が同じように横に移動しながら銃を撃ってくる。レイセンは半ばスペルカードを使う気を固めながら最後の一発を、撃った。  だがこの土壇場で発射されたのは銃弾ではなく、兎の頭だった。  青筋すら浮かんだレイセンにとって、幸いだったのはチルノの前で見せたような無駄弾ではなく、特殊弾だったことだ。 「ぎゃーっ!! ナニコレ!?」  橙はレイセンの兎弾を見て、甲高い声で悲鳴を上げた。  橙からすれば、悪夢以外の何者ではない。愛らしい兎の頭が発射されたところまでなら、鼻で笑う程度で済ますことができた。だが、それが歯を剥いて、自分の撃った銃弾さえ食い散らかしながら迫ってきたら、どうか。  ハズレならばバネの伸びる範囲もごく短かったが、こちらの特殊弾は、どこにバネを隠していたのかと思うほど飛距離が長い。己の鼻先まで迫ってやっと止まった嫌兎を見て、驚かない方がどうかしている。いずれにせよ、モンスターなどには大して効果がないので、この特殊弾もハズレと言えばハズレなのだが、橙は肝を潰して逃げ出した。 「橙!?」  突然の橙の遁走に、藍は何か不測の事態でも起こったか、とチルノをおいて橙の後を追う。  レイセンは自分で起こしたことながら事態が理解できず、ビヨンビヨンとぶらつく兎の頭を戻そうともせずに、呆然としていた。 「…正直、助かった。そして見直したわ」  チルノがレイセンの傍に歩み寄ってきながら言う。レイセンはそこで正気に返り、兎の頭を戻した。 「やるわね、その銃」  チルノの言い方だとまるで銃だけが凄いみたいだな、とレイセンは思うが、実にその通りで、チルノは別にレイセン凄い、とは思っていない。 「貴方、大丈夫なの…? 何発か受けていたようだけど…」  レイセンはチルノの全身を見回しながら言う。レイセンは実際に着弾の瞬間を見ていたわけではないが、麻痺弾特有の着弾音で別に見ていなくても判る。  その問いに、チルノは何でもなさそうにああ、と呟き、 「そんなものは何とかしようと思えばどうとでもなるわ」  あっさりと答える。レイセンは素で言っているのか、と思わずチルノの顔を確認したほどであった。確かに、何発も喰らった割りにチルノの表情に重さは見られない。  麻痺弾は部分的にずっしりとした疲労を与えてくれるものであり、一発や二発ならともかく、二桁前後喰らっていたらただではすまないはずだった。少なくとも、その場で眠りこけかねないほどの疲労があるはずで、それが何ともないような人種がいるとすれば、元々そういうのに対する感覚が異常に強いのか、その程度を物ともしない異常な馬鹿元気か、のどちらかであった。 「全く、ろくに足止めもしてくれないのね、あの子達は」  草むらから戻ってきた永琳が、半ば呆れたような口調で言う。それからチルノ、レイセンと視線をやって、でも、と言葉を付け加える。 「疲労具合を見るに、貴方たちには十分すぎたかしら?」 「…試してみたいようね」  チルノが麻痺弾によるダメージなど何でもないものかのように、好戦的な面構えで剣を構える。 「あら。まだ気力は旺盛のようね。結構だわ」 「博士…もう…!」  レイセンはあくまでも止めようとする。 「レイセン、貴方はずいぶん消極的ね? せっかく今からがボス戦だというのに…」  そう言って永琳は両手を見せ付けるように前に出す。永琳は最後の一欠を見つけたようで、手に今までは持っていなかったはずの何かを持っていた。 「…カマキリ?」  蟷螂だった。永琳はレイセンに向き直り、楽しそうに言う。 「巨大化した蟷螂というのはどれくらい強いのかしら、と思って。…研究室に捕まえておいたのを忘れてきちゃってたみたいでね」  永琳は当然蟷螂の凶暴性で以って巨大化すれば、下手すればレイセンが死ぬこともあるというのを判っているだろうに、嬉々として蟷螂に注射針を向けている。  このとき、永琳が不注意だった点は、既にチルノを完全に眼中に入れていなかったことだ。先ほど不愉快にさせられた分、余計に無視したかったと言うのもあるかもしれない。ここまできて、永琳にとっては最悪の失態だった。  永琳は注射器をぶらぶらと宙で振り、冷静ぶっているレイセンに走る怯えを楽しんでいる様子だった。 「や…めましょう。まだ、今なら、取り返しが」  レイセンでも、蟷螂の凶暴性というのは知っていた。それを巨大化させるとは、なんということを考えるのだろう。レイセンは永琳の正気を疑い、止めようとした。 「レイセン。既に…取り返しなんて、つかないのよ?」  永琳は少し悲しげな表情で言うと、注射器を―。  レイセンも、永琳のその言葉で覚悟が決まった。目の前で起こる事態を受け入れ、踏み越え、その上で果たすべきことをしようと、思った直後だった。 『いっ!?』  蟷螂に刺されるはずだった注射器が、狙ったようなタイミングで滑り込んできた蛙の背に突き刺さる。 「な…なに、こ、れ…?」  永琳もさすがに動揺を隠せない。  レイセンも機械のような動きで、横に顔を向ける。先ほどまでチルノが居たはずの場所に、誰も居ない。チルノは、永琳の傍らで得意げな色と期待が入り混じった表情をしていた。自分の作戦が成功したことを確認すると、素早く永琳から離れ、レイセンの元へ戻る。 「チ…ル、ノ?」 「あたいの腕でもさすがにタイミングが計りにくかったわ」  そうじゃない、色々、そうじゃない。レイセンは声には出さずに突っ込んだが、全ては成ってしまった。注射器を刺す瞬間に、代役を滑り込ませるという超技が、巧くいってしまった。  一方、永琳は蛙の背に刺さった注射針を抜こうとした。しかし、中の液体はほんの僅かと言えども注がれてしまっている。少量で効果のあるような薬ではないのだ。一定量を注がないと、巨大化は起きない。蛙に注入されたのは本当に少しだったから、残りを蟷螂に注入しても巨大化は起きるかもしれない。だが、永琳は確実性を求めた。諦めて、蛙に薬を全て注入した。 「…腹立たしいわね。こんなふざけた小細工ばかりが達者だから…貴方は駄目なのよ」  永琳は空になった注射器を仕舞いながら、チルノを睨み付ける。 「…だから、あたいはあんたの理想なんか興味ないもの。むしろ害になりそうな分、邪魔してやるのがあたいの仁義!」  永琳は苦い顔をする。しかし永琳も、チルノの本心がまさかこの言葉にないとは思っても見なかっただろう。邪魔してやるだとか仁義だとか、大層な言葉を使っているが、チルノの思うところは非常に単純で、ただデカい蛙を見たかっただけである。雲の上で踊りでも踊れそうなくらいに軽い好奇心で理想への道を妨害された永琳も、哀れだった。  永琳によって地面に下ろされた蛙が震え、少しずつ、膨張するように巨大化してゆく。  その間にチルノは、リボルバーに銃弾を装填する様な動作で剣の鍔にあたる部分に一枚のスペルカードを差し込む。今回の標的である永琳は目の前で、先ほどまでいた妨害も居ない。ならば力を出し惜しむ必要はない。早急にカタをつけるべき段階に入ったのだ、とチルノは己の持つ最強のスペルカードを使用する。  スペルカードの名は、超究武神覇斬。剣の道を極めた、その中でも一握りしか入手することのできないカード。チルノは独自の道を行き、それを入手するに至った。  が、チルノが歩んできた道は少々独自すぎた。  本来超究武神覇斬とは、渾身の一撃を連続して十五回ほど相手に叩き込む技である。しかしチルノは取得時の一回以外、純正な"超究武神覇斬"を使うに至ってはいない。必ず、妨害されるのである。しかも場の空気をぶち壊すようなカタチで。そんな技はあまり使うべきではないのだが、チルノはそこら辺の機微に疎いのか、純正なる"超究武神覇斬"だと思い、失敗に懲りず繰り出している。だがこれの凄いところは、失敗であるはずなのに、結果的に相手に致命傷を与えると言う点で、必殺技として機能しているのである。  チルノが独自の道を歩んだ末に取得したスペルカード。それは決して超究武神覇斬ではなく、どちらかと言えば限りなく類似したパチモン、超H武神覇斬とでも言うべき代物であった。しかし超究武神覇斬から枝分かれしたにしては、"確実に失敗する"という面においてひとつの個性となっており、故にチルノの超究武神覇斬は、超H武神覇斬という、ひとつのチルノ専用スペルカードとして存在していると言い換えてもいい。  兎にも角にも、剣に差し込まれることによってスペルカードは発動条件を満たし、剣がにわかに青白い光を帯びる。いつでも必殺が使える状態になった。  対してレイセンは、チルノが全力での応戦体勢に入ったのを見てはいたが、自分はスペルカードを保持したまま、銃弾の装填のみに留まった。レイセンは予備の銃弾をすぐに使えるようにしながら、何とかここを切り抜けたら、兎の頭が飛び出すのは何とかしたいと切に思う。  蛙は、チルノやレイセンが見上げるほどのサイズになって、やっと安定したようだった。 「おおー…」  チルノがただ一人嬉しそうである。レイセンは呆然と見上げている。 「…………」  永琳は、予定は崩されたが研究成果は証明されたので一応は満足したのか、下がって成り行きを見守る体勢に入る。チルノとレイセンの後ろの方を一瞬だけ見て、すぐに目線を戻した。 「くっ…デカいな…」  レイセンが銃を構える。 「こいつぁ凍らすのも骨が折れそうね!」  チルノが一声あげて斬りかかる。  蛙は特に避けようと言う動きも見せず、チルノの攻撃を受け入れた。  だが、反応がない。そもそも、動きが異常に鈍いのだ。永琳は巨大化の弊害の一つとして脳内でカウントする。だが永琳はもちろん、レイセンも、チルノですらも知らない事実が一つある。  チルノが受けた麻痺弾の数発は、体勢の問題でこの蛙が喰らっていたのだ。蛙の小さな体に、数発である。蛙は当然のごとく眠りこけていて、巨大化という状態異常によって起こされたに過ぎない。しかも、蛙はぎりぎりまで凍らされていた。この状況を人間で言うならば、三日の徹夜でようやく眠りについたところを、どうしようもない事態で無理矢理起こされた所である。あまりにも疲労が重たすぎて、眠りを妨げた怒りといった感情すらも押しつぶされて沸いてこない。蛙の動きが鈍いのは当然だった。  故に、蛙はろくに攻撃すらしてこず、チルノとレイセンにとっては拍子抜け位するくらいだったが、何分体力が桁違いに高い。二人は壁に向かって延々攻撃を続けているような気分に近かったかもしれない。  二人は蛙に気を取られていて気づかなかったが、その時永琳が再びチルノとレイセンの後ろを見つめ、待っていたとばかりにニヤリと笑った。その視線の先には木陰から真剣な顔で事の成り行きを見守る上海紅茶天国の店主、メイリンが居た。おそらく、チルノらがやられそうになると判断したら何も聞かずに加勢するのだろう。  永琳はチルノらにも、メイリン当人にも気づかれぬよう視線を戻した。  戦況は膠着している。  泣ける友愛ね、と永琳は誰にも聞こえないくらいの声で呟き、撤退時かと判断した。  例えば、先ほどのようのようなチルノらに辛い戦況にあっても、メイリンが入れば状況はひっくり返るだろう。少なくとも、現段階においてはメイリンの方がチルノとレイセンを合わせたよりも強いことを永琳は知っていた。  だが、この巨大蛙が何とかならない限りは永琳も撤退はできない。さすがに、これの始末を見届けずに行く事は研究者としても、一応責任者としても、できなかった。  永琳としては、巨大化が成功し、弊害も見つかったので、既に目的は完了していた。だから後はチルノらが倒してくれればそれでよかったし、逆にチルノらがやられていれば自分がカタをつけるだけだった。だがこの状況ではチルノらがやられることはまずないであろうから、チルノらがケタ違いの体力を地道に削っていくのを待つしかない。永琳は発破でもかけてやるか、と思って白衣から座薬入りの小瓶を出す。しかし時を同じくしてチルノの忍耐も切れた。 「あー、もう! 終わりゃしない!」  チルノが気合を入れなおし、力を集中させ、剣の帯びた光を一層強くさせる。  ふ、と力んで"渾身の一撃"を連続で蛙に刻み始める。  永琳はその時、チルノのほうを見ながら手のひらに座薬を出したため、座薬を持っているということに気をとられ、小瓶が落ちて転がっていったことに気づかない。  チルノが九回目の根性を蛙に見せつけ、今日こそ最後までいける! と確信した瞬間、 「んべっ」  盛大にコケた。  原因は、永琳の落とした小瓶である。決め技の、これ以上ないほどに間抜けな中断に、場の空気が気まずそうに硬直する。すぐに自分の落とした小瓶が原因であることに気がついた永琳は、さすがに困ったような表情で目を逸らした。  レイセンも、最初は無意味にあー綺麗だなーと空を見上げていたりしたが、チルノがコケた際に手放した剣が、これ以上ないほど見事に蛙に突き刺さっていることに気づいた。いい位置に入ったらしく、瀕死状態にまでなっている。レイセンは慌てて残弾を確認し、三発ほど立て続けに撃ちこんだ。  蛙は、それが止めとなってあっけないくらいに消滅した。  蛙に突き刺さっていた剣が落下して、地面に転がる。  レイセンも、永琳も、さすがに言葉がない。チルノは結果的には十分な働きをしたのだが、立場のなさを主張するかのごとく、L字型になっていた足がぱたんと倒れた。  レイセンはやるせなさそうにそれを黙殺し、永琳に向き直る。 「博士…」  気弱げに呟くレイセンの目は、その声とは反対に、強い意志に満ちていた。  永琳はレイセンの声に応えるかのごとく微笑してみせる。  倒したとはいえ、永琳は巨大化の薬を使ってみせた。もうレイセンは引くわけにはいかない。  レイセンはピーター・ザ・ラビットの背にスペルカードを差し込む。赤眼催眠。レイセンのみが使える特殊なスペルカードで、相手に自分は獣だ、という情報を一時的に強制で叩き込む。  スペルカードが発動条件を満たし、銃本体だけでなく、レイセン自身をも血のように赤い光で覆っていき、同時にレイセンの目に顕著な変化が現れてくる。目が澄み渡り、異常なまでに赤みだけを増してゆく。  やがて、暗闇すら打ち消すほどの赤い眼光がレイセンに宿った。  レイセンは一瞬だけ躊躇った。常に冷静沈着であった上司が獣のような動きをするのが耐え難いと思ったのかも知れず、少しだけ弱気になったのかもしれなかった。  結局は、それが命取りになる。 「…お覚悟をっ!」 「甘いわ」  レイセンが視線を永琳に向けた瞬間、僅差で永琳が白衣から手鏡を取り出した。  レイセンの眼光を鏡で返す。レイセンの顔が歪み、ふらつき、眼光が消えてゆき、気焔を吐くほどの獣性が宿る。本来、レイセンの催眠にかかった者はレイセンを絶対にかなわぬ強者として認識するため、レイセンの意思によって操ることができるのだが、レイセンがこの催眠にかかるとストッパーが居ない。ただの獣性持ちのバーサクだった。  永琳はチルノを見るが、チルノは起き上がる様子がない。永琳は仕方ないわね、と呟き、座薬を指先で弄ぶ。昨日までの研究所時代にも、レイセンは同僚のてゐに何か言い包められたのか、気づくとレイセン自身がバーサク状態になっている、という間抜けな状態になったことも何度かあった。そんな時、永琳は座薬で生理的嫌悪感から正気に戻らせるという荒業に頼っていた。  バーサク状態のレイセンは、死んだように動かないチルノにはあまり興味を抱かず、悠然とした佇まいの永琳に敵意を向ける。 「シャアッ!」  レイセンは四速歩行にて地を駆け、永琳の手前で跳躍し、首を狙う。  永琳は慣れたもので、殆ど動かずに上半身だけを思い切り横に逸らしてやり過ごした、と見せかけてレイセンの腰を掴んで逆さまに持ち上げる。研究所時代には、バーサク化対策として下に何も履かせないこともあったが、履いていたところで永琳にはあまり変わりない。 「…レイセン」  殆ど神速とも言える速さで、座薬を"撃ち込んだ"。 「反乱組織の娘さんに、よろしくねと伝えておいて」  永琳は一瞬だけ、未だ木陰にいるものの、戦況の激変具合に付いてこれていないメイリンに視線を向けてから、告げた。  レイセンは声なき悲鳴をあげて地面に崩れ落ちる。  永琳はそんなレイセンを見下ろしながら、これでもう当分はレイセンと会うことはなく、次に会うときは非情なくらいの戦士になっているのかもしれない、と無表情に思う。それを喜んでいるのか悲しんでいるのか、自分でもよく判らなかった。 「…餞別よ」  永琳はレイセンの懐に一枚のスペルカードを滑り込ませ、髪を一度だけ撫で、白衣を翻してビルに戻っていく。一度も、振り返らなかった。  チルノは自分を呼ぶ声で気が付いた。何故か、地面とキスをしている。 「…あれ? 中国の…」  チルノは顔を上げて、自分を呼ぶ人物を見て首をかしげた。 「一体どうしたの!?」 「でっかい蛙が…」  と、チルノは言いかけて辺りを見渡し、あれ? と怪訝な顔になる。 「大丈夫? こんな道端で寝てると危ないわよ?」  メイリンは安心した表情でチルノに声をかける。  うん…と空ろ気に返事をしながら、メイリンの肩を借りてチルノは立ち上がる。 「レイセンは…」  チルノは探しかけて、すぐそう離れていないところに横たわるレイセンの姿を見つけた。チルノは歩み寄り、レイセンの頬を叩いた。 「おーい」 「う…うぅ…お尻…」 「……?」  チルノは怪訝な顔でレイセンのスカートをめくる。パンツが若干ずり落ちていたのであげておいた。 「…まぁ、無理に起こさないでおいてあげましょう?」  メイリンは思うところあってか、そう言い、レイセンを背負う。チルノは肩をすくめて自分の剣と、レイセンの銃を回収して歩き出す。  帰り道はしばし無言だった。途中、メイリンは自分の家に泊まることを勧めて、チルノに了承させる。  いきなりあの永琳に挑むなんて無茶よ、とメイリンは言いかけたが、自分はあくまでも偶然通りがかった行きつけの店の店主なのだ、と己の立場を自覚して口を閉ざす。だが、言いかけたことは事実である。チルノとレイセンを合わせたよりも強いはずのメイリンでさえ、今は永琳に歯も立たないだろう。森羅カンパニーの頭脳である永琳は、圧倒的に強かった。  結果として永琳に負けはしたものの、その無鉄砲なくらいの勇気と行動力は、メイリンにはないものだった。メイリンは、自分の欠点として少々慎重すぎる嫌いがあることを知っている。だから、チルノに憧れるところもあるのだ。それにチルノには何か悪さをされたところで、チルノのその性格もあって、何があっても憎めそうにないなあ、とメイリンは明るい気持ちで思う。そして同時に、何とか仲間に引き入れたいとも強く思う。 「星が綺麗ね」  と、唐突にチルノが呟いた。メイリンも空を見上げる。 「星、好きなの?」 「…いや、興味ないけどね。今日は、なんとなく」 「………ねぇ」  メイリンは少し黙っていたが、意を決して口を開く。 「ん?」 「一つ、大仕事があるんだけど、受けてみない?」 「もうかよ!」 「…どうする?」 「いや、受けるさ。ドンとこい、よ」  チルノは強気に笑って見せた。