「ふんふんふ〜ん♪」  夕暮れに染まった森の中を、可愛らしい鼻歌が流れ過ぎる。  歌っている本人――夜雀のミスティア・ローレライは、今日もご機嫌だった。 「ふ〜んふふ〜ん♪」  何がそんなに嬉しいのか、と聞きたくなるくらいの満面の笑みで、木々の間を踊るように飛んでいく。  その手に握られているのは、一冊の小さなメモ帳。  数日前に知り合いの鴉天狗から貰ったそれは、すでに沢山の【ある単語】で埋め尽くされていた。 「今日も良い名前、思い付かなかったなぁ……」  何処か残念そうな言葉とは裏腹に、ミスティアの顔は相変わらず嬉しそうに微笑んでいた。  詳しい経緯は省くが数日前、彼女は卵を産んだのだ。  生まれて初めて味わう痛みに耐えながら、苦労の末に産んだのだ。  初めて産んだ自分の卵――自分の子供。  痛みを伴いながら産んだ、愛しい自分の卵。  ミスティアはここ最近、その子の名前を考えるのに夢中だったのだ。  人間と同じ様に苦心しながらも、それはそれは嬉しそうに…… 「ただいま〜、元気にしてたかな〜?」  家に帰ってくるなり、ミスティアは元気良く言った。  答えが返ってくるはずはないのだが、まあ気分の問題である。  待ち焦がれた我が子との対面に、ミスティアはとてもウキウキワクワクしていた。  本音を言うと、本当は一日中付き添ってあげたいのだが、屋台の事もあるので中々そうはいかないのだ。  それに、もし一緒に連れて行った時に、酔っ払った客に食べられたりでもしたら……そう考えると、やはり連れて行くのは気が引けた。 「ごめんね、遅くなって。今日はお店が忙しくて――」  いつものように、愛する卵へ一日の出来事を語ろうとしていたミスティア。  しかし目の前に広がった光景に言葉を失うと、彫像の様に固まってしまう。  無かった。  いつも毛布を重ねた上に大事に置いてあるはずの卵が、無かった。  毛布に卵が置かれていた証の、多少の凹んだ跡を残して。 「う、嘘……」  ぱさりと、力無く開かれた手から落ちたのは、一冊のメモ帳。  愛する我が子の名前を、思い付くがままに書いて書いて書きまくった、愛が詰まった一冊のメモ帳。 「……何の、冗談よ、これ?」  わなわなと、体を震わせるミスティア。  その問いかけに答えてくれる者は、誰も居ない。  動かず喋らず、しかし触れると暖かい我が子も、居ない。 「わ、私の赤ちゃん!?」  がばっと、毛布を跳ね除ける。  到底、卵が隠せるスペースのない毛布の下に、我が子の姿は勿論無い。 「何処なの……何処に居るの!?」  彼女の顔は、今や必死以外の言葉が思い浮かばないくらいに必死で、痛々しかった。  瞳孔が見開き、口元からは歯が打ち合うカチカチした音が響いている。  しかしそれでも、我が子の姿は見つからない。 「私の……私の、赤ちゃん……何処に……」  ぐしゃり。 「え……?」  よろけて踏んだ何かを、ミスティアは恐る恐る見た。  心の隅っこで誰かが「見たら駄目だ」と言った気がしたが、それでも見た。  欠片だった。  白い白い、砕けた欠片だった。  一見すると、何か分からない欠片だった。  だけどミスティアには、それが何かすぐに分かった。  分かりたくなかったけど、すぐに分かってしまった。 「あ……あぁ……」  声にならない声が、ミスティアの口から漏れた。  最早その目には、目の前の砕かれた欠片しか映っていない。 「あぁぁあ……あぁぁぁああ……うあぁ……うぁぁぁああぁぁああ」  わなわなと震える手で、必死の思いで欠片をすくった。  あの懐かしくて優しい温もりは、微塵も無かった。 「ああぁぁぁああぁぁああああ……うぁぁあああああああああぁああぁあああぁぁぁぁぁぁあ」  呻き声しか出ない状態でミスティアは、それでも欠片を両手で大事に持って胸に抱きかかえる。  しかしそれでも、温もりは戻らない。  冷たい冷たい、無機物の感触だけしか、ない。 「ああぁああぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあああああぁあぁあああああぁぁぁぁぁぁぁあああ」  それでもミスティアは抱きかかえた。  冷たい冷たい我が子の成れの果てを、必死に抱きかかえた。  声にならないその声で、それでも必死に助けを求めた。  最早、歌など歌えそうにないその声で、必死に何かに祈りを、救いを求めた。  しかし、愛しい我が子は戻らない。  冷たい冷たい卵の欠片は、いつまでたっても冷たい冷たい欠片のままだった。  何処からか吹いた風が、愛の詰まったメモ帳を哀しくめくった。  パラパラ、パラパラ、と――