紅魔館に雨が降る。  土砂降りというほどではないが外出が億劫になる程度の、そんな雨。  雨が降れば自然、来客も闖入者も減り、館の主は日光の代わりに流れる水に閉じ込められて外出できない。  そういう訳で雨の日の紅魔館は静かだ。  図書館で爆発も起きず、館の主は自室で大人しくしている。  雨の日は紅魔館のメイド達にとって数少ない休息の日だった。    「……」  淙々と雨滴の流れ落ちる窓辺に、十六夜昨夜は立っていた。  普段はメイド長として紅魔館中を、場合によってはそれ以外の場所をも忙しなく飛び回っている彼女だが、 今日は珍しく手が空いていた。  彼女はこういう振って沸いた暇が苦手だ。  いつも仕事で埋め尽くされている彼女の時間に、ぽっかりと空く空白。  部下のメイド達は私室で他愛無い会話や遊びに興じているのだろうが、彼女はそんな気分にはなれない。  どうやって時間を潰していいか分からずに、こういうとき彼女はいつも窓際でぼんやりしている。  何もすることが無い、と言うのは、彼女にとって苦痛というのは大げさにしても、愉快なことではなかった。  何もすることが無い事でぽっかり空いた胸中の真空には、いつも考えなくてもいいこと、考えたくないこと、 思い出したくないことが吸い寄せられる。  ただでさえ雨の日は憂鬱な気分になるというのに。  今日何度目かのため息を吐き出したとき、部屋のドアがノックされた。  恐る恐るといった調子の控えめなノックが2回。このノックは美鈴だ。  「鍵はかかってないわ。どうぞ」  視線は窓の外に向けたまま、ドアの向こうに居るであろう赤毛の門番に返事を返す。  「失礼します、お休みのところ申し訳ありません……で、ですね」  いったい何の用だろう。門番である美鈴が直接ここに来るということは……?  視線をドアの方に向ける。  いつものように妙におどおどしている美鈴と……他にもう一人?  黄色のタオルを頭から被った、小柄な……女の子?  「ええと、私は今日も今日とて門の警備をしてたんですけど、そのときに向こうからこの子が……」  美鈴の話をそこまで聞いて、咲夜は美鈴に連れられてきたのが誰だか悟る。  「あなたもしかして……妖夢?」  タオルの向こうから覗く銀髪には見覚えがあった。  忘れもしない、かつて冥界へと続く長大な石段の上で咲夜と死闘を演じた白玉楼の庭師、魂魄妖夢。  妖夢は咲夜の言葉にも応じずに、絨毯に視線を落としている。  「で、この子この雨の中傘も差さずに歩いてるんで思わず呼び止めちゃったんです。体も冷え切っちゃってるし……」  「事情は分かったわ。とりあえずあなたはお風呂の用意を。あと何か温かい飲み物をお願い」  意外な来客のもたらした不測の事態だが、慌てるほどのことも無い。いつもと同じように指示を飛ばす咲夜。  さっきまで窓辺でぼんやりしていたのが嘘のようだ。  咲夜の指示で美鈴は退室し、今咲夜の私室には彼女の妖夢の二人きり。  (さて……どうしたものかしらね)  やや困惑しつつ、咲夜はタオルを被ったままの妖夢を見つめていた。  シャワーを終えた妖夢は再び咲夜の部屋にいた。  他に空き部屋が無いではなかったが、なんとなく咲夜は妖夢を自室に招き入れた。  着替えが他に無かったため自分のシャツを妖夢に着せてベッドに座らせ、咲夜はその正面の椅子に腰掛ける。  咲夜からは口を開かない。妖夢自身が自分から話し始めるのを咲夜は根気強く待った。  沈黙だけが降り積もる室内はしかし、咲夜には別段嫌な空気でもなかった。  長い沈黙を破って妖夢がぽつりともらしたのはたった一言。 「ゆゆこさまとけんかしちゃった」  だった。  思わず吹き出しそうになるのをこらえる。  それは彼女を、魂魄妖夢という幼い少女を、たった一人で白玉楼を飛び出させ雨の中を当ても無くさ迷い歩かせるに足る理由なのだろう。 「そう」  咲夜の返した返事はそれだけだった。  再び、沈黙。  自分の主と喧嘩をしたといって家を飛び出してしまう少女に、その幼さに、輪郭の明瞭でない羨望を咲夜は覚えた。  ああ、そうか、と咲夜は思い至る。  私はこの子が、感情で行動しているのが、感情で行動できるのがうらやましいのだ。  咲夜は感情や衝動に左右されない。必要と義務で行動するタイプの人間だ。  常に平坦な、冷たい湖のような、凪の精神状態。  それが他者に冷淡な印象を与えるということは分かっているが、努めて感情を表に出そうとは思わない。その必要を感じない。  そもそも人間は感情をそれ自体を知覚する方法を持たない。  対象の表情、口調、抑揚、そういったものから対象の感情を推測しているに過ぎない。  そう考える自分とこの少女は、全く大げさな言い方ではなく別の世界に住んでいるのだろう。 「あの」  二度目の沈黙を破ったのも、やはり妖夢からだった。  熱い紅茶の注がれたティーカップを両手で抱えたその姿が、やけに小さく見える。  ようやく落ち着いてきたのか、先ほどまで床に据えていた視線をやや俯きがちにだが上げ……また下げてしまう。 「……ごめんなさい」 「いいのよ」  咲夜はそれだけ答える。  三度目の沈黙。  風が出てきたらしく、雨粒が窓を打つ音が大きくなって来はじめた。  咲夜が腰を上げた。  ベッドへ歩み寄り、妖夢の隣に腰を下ろす。  二人分の体重を受け止めたベッドが、小さく軋む。  妖夢が視線を上げた。咲夜の視線とぶつかる。また視線を床に落とす妖夢。  首を垂れた横顔。その額にまだ乾ききっていない髪がひと房、張り付いている。  手を伸ばし、指先で払ってやる。触れた額はシャワーの熱がまだ残っており、熱い。  指先を少し下へ下ろす。柔らかい頬。あ、という小さな声が漏れた。  くすり、と笑みを漏らし、咲夜はさらに指先を下ろす。  ぴくり、と妖夢の肩が震えた。咲夜の方に向けられた瞳が、困惑に揺れている。  咲夜の指先が首筋に触れた。  白いシャツを着ていてなお映える色白の肌が、熱を持って桜色に染まっている。   「体は、暖まった?」 「え、あ……は、い」 「そう」  指先を離す。 「あ……」 「うん?」 「い、いえっ、何でもないですっ」    思わず漏れてしまった名残惜しげな声をごまかそうと、妖夢はティーカップの中身を一気にあおる。  ティーカップをトレイに戻し、妖夢は咲夜に頭を下げた。 「あの、いきなり来ちゃって、その、ご迷惑をおかけしました」 「気にしないで。雨の中に一人で歩いてる女の子を放っておくほど私は冷たくないわ」 「何か、その、お返しができると良いんですけど……」 「お返し?」 「お風呂まで貸して頂いたのに、何もお礼をしないわけにはいきませんから」 「ふぅん……じゃあ」  再び手を伸ばし、頤(おとがい)を捕らえる。   「あなた、私の妹になりなさい」 「いも……っ!?」  いったい何を想像したのか、顔を真っ赤にする妖夢。思わず吹き出す咲夜。 「ぷ、あは、あはははっ、なぁにその顔。真っ赤よ?」 「こ、これは、咲夜さんがヘンなコト言うから……っ!」  ふふ、とまた笑い、咲夜は立ち上がる。 「さて、私は少し仕事が残ってるから。あなたはもうお休みなさい」 「……大変なんですね」 「好きでやってる仕事だもの。苦じゃないわ」  それだけ言い残して、咲夜は部屋を出る。  ぱたん、と後ろ手にドアを閉めると、ふ、とため息を一つ。  そして、呟く。  「……割と、本気なんだけど、ね」