――『その日』、俺の中で何かが変わった。  俺は、いつものように森を歩いていた。  いつものように雑魚共は道を開け、俺は森を好きなように動く。  腹が減れば森の果てまで行き、通りかかった人間を食う。  森の中には道は無い。だから中には人間は滅多にいない。  その日は、滅多に無いことが起こった。    森がざわついていた。  理由はわかる。俺はこの森の中のことなら何だってわかる。  人間がいる。それも力を持った人間。  しばらくいなかったが、また俺を狩るために来た者だろう。  ……違う。匂いが違う。これは…外の人間。  興味が湧いた。雑魚に食わせてしまうのも勿体無い。  せっかく現れた珍しい物だ。俺が食う……。    雑魚を軽く威圧しながらそこへ向かう。  この森の中に俺に逆らう者はいない。  弱者は強者に従う。当然のことだ。  程無くしてそこに着く。  いた。見慣れぬ紫の衣服、長い金の髪の女。そして漂う力。  やはり外の人間。それも極上の品だ。  暴れられても面倒だ。いつものように気配を消し、近づいて一息に狩……らなかった。  何か引っかかった。  気付けば、俺は姿を晒していた。  女はもともと怯えていたが、俺の姿を見てその表情がより強張った。  俺は、威圧した。周りの雑魚も、女も。  雑魚共は何もしないよう。そして、女が逃げるよう。  思惑通り女は逃げた。俺は雑魚共に手を出さないよう指示した。  何故、そんなことをしたのかわからなかった……。    俺は女を追っていた。  逃がしたとはいえ俺が目をつけた獲物だ。誰の手も出させない。  絶えず雑魚を圧し、女が危険な場所に近づこうとすれば、姿を現しそこから遠ざけさせた。  まるで守っているようだ。そう思ったのを打ち消した。  それでも所詮は人間、それも女だ。  やがて憔悴し、倒れた。  意識が無いのを確認してから俺は近づき、女を抱え上げた。  ねぐらに持って帰る。普段の俺ならばそうしただろう。  だが、俺は女を担ぎ森の外へ向かった。  人間が通り、かつ人間の里から多少離れた所。  女をそこに置き、妖怪が近づかないよう威嚇した。  俺は、何もせずに帰った。  何かが、変わっていた……。    幾日か経った。  いつもと変わらない。雑魚を統べ、人間を食う。  何も変わらなかった。だが、何かが欠けた感じがしていた。  ふと気になり女を置いた場所を見に行った。  女はいない。死臭も無い。里の人間が連れて帰ったのだろう。  安心した。……安心?    また、幾日か経った。  森の傍をあの女が歩いていた。  俺は、何もせずそれを見ていた。  それ以来、時折女の姿を見るようになった。  俺は食うわけでもなく、女の動向を見ていた。    ある日気付いた。俺は、あの人間の女に恋をしたのだと。  初めは自分でも否定した。  だが、気付いてしまえば後は溢れるばかりで、俺はそれを認めるしかなかった。  俺は、あの女を愛している……。手に入れたい。共に、歩みたい。  だが俺は人間ではない、妖怪だ。  妖怪は人間を食うもの。人間は妖怪を退治するもの。  妖怪と人間が相容れることは有り得ない。  創造主よ、いるなら答えてくれ。  何故俺を妖怪にした? 何故彼女を人間にした? 何故、俺を彼女と巡り合わせた……。    腹が減ったから人間を狩った。  何の感慨も無い。当然だ。妖怪は、人間を食うものだ。  そこで思いついた。  妖怪は人間を食うもの。ならば、人間を食わなければ妖怪ではなくなるのでは?  俺は、彼女と添い遂げたい。  それができるのならば、人間にもなろう。  その場に死体を捨て、去った。雑魚が群がり、俺も後ろ髪を引かれたが、それから逃げるように俺は帰った。    ……人間を食わなくなって幾日が過ぎたろう。  俺の力は日に日に衰え、徐々に人間に近づいていった。  俺の次に強かった奴にねぐらを追われた。  構わない。俺は人間になってこの森を出るんだ。  数いる雑魚と共に過ごすようになった。  その中ではまだ強いほうだったが、すぐに弱くなった。  もう少し。もう少しで人間に……。  森の中に、敵う相手がいなくなった。妖怪どころか、獣にさえも。  俺は、とうとう人間になった。  人間の体がこれほど辛いとは思わなかった。  獣や雑魚共が手を出してくる。  森を歩くだけで極端に消耗する。  体が重い。  彼女は、こんな状態だったのか。今なら気持ちがわかる。    ほうほうの体で森を抜ける。歩きやすい道に出る。  里に向かって歩き出す。森の側は通らない。今の俺は、人間だ。  路傍に花が咲いていた。  そうだ、これを彼女に渡そう。  以前の俺には思いつかないことだ。俺は人間になったんだ。  里が見えた。  見覚えのある、変わった紫の服が見えた。  風になびく金の髪が見えた。  顔が見えた。驚いた表情。振り返ってみるが何もいない。何に怯えているのか。  人間が集まってきた。俺を迎えてくれるのだろうか。何故、武器を持っているんだ?  声の届く距離に来た。さあ、話しかけよう。   『ウォォォォォォォォォォォォォォォォォ……』  何だ今のは? 俺の声? 俺は人間になったんじゃないのか?  もう一度声を出す。……やはり叫びしか上がらない。  槍が体を貫いた。  痛い、イタイイタイイタイイタイイタイイタイ!  棒が、鍬が、鎌が俺に襲い掛かる。  花。これだけは守らないと……。これは彼女に渡すんだ。  攻撃が止んだ。  声をかけられた気がして顔を上げると、彼女がいた。  抱えていた花を渡す。言葉を出そうとする。  一言だけでいい。伝えさせてくれ。俺に言葉を与えてくれ!!!   『ウ、ア…イ……アイ、シ……テル』  渡せた。伝えられた。  急速に力が抜け、意識が沈んでいく。  俺が終わる。  最期に、一目だけでも……。  ああ、やはりお前は美しい。笑顔が見れなかったのは残念だな。  怯えたような、驚いたような瞳。そこに写った俺の姿は、飢え、痩せ衰えた妖怪だった。     「ちっ、妖怪が! こんな所まで来やがって!」 「メリーちゃん、怪我は無いかい?」  みんながそんなことを言って、また今の妖怪に武器を振り下ろそうとする。  慌ててそれを止めた。しぶしぶながらやめてくれる。  どこかに捨ててくるらしく、何人かが道具を取りに行った。 「愛してる、か」  渡された花を見て呟く。私にしか聞こえなかったようだ。  この人(?)は見覚えがある。  私がこっちに来たときの森にいた、とても強そうな妖怪。 「メリーちゃん、そんな妖怪が持ってきた花なんて捨てちゃいなよ。毒もってるかもよ」 「一体何のつもりだろうねぇ?」  なんとか説得してそれを断る。  この人は妖怪だけど、とても一途だったのだと思う。  あんなに強そうだったのに、こんなに弱っちゃって。 「愛してる……」  もう一度呟く。  この人が倒れる直前、体に境界が見えた。人間と妖怪の境界。  もし生まれ変わったら、今度は人間かもしれないわね。 「もう一度出会ったら、今度はわからないわよ?」  だから、いつかもう一度。  この花はそのときまでとっといてあげるわ、名前も知らない妖怪さん。