寂しがりやのお嬢様  「…………というわけで、向こうの世界ではインターネットを通して世界中の人々とリアルタイムで情報交換が可能になっているわけです」  「ふ〜ん。すごいんだね、そのいんたーねっとって。もの凄い魔法使いが作り出した式なのよ、きっと」  「まあ、そんなようなものです。式と違って電気で動きますけど」  考えてみれば、式もコンピュータも片方は勅命たる言霊、もう片方はプログラムが必要なわけだから、どちらも似たようなものかも。  ここは紅魔館の地下。その最も下の階にある小さな子供部屋だ。  そこに至るまでに施された、呆れるほどに厳重な物理的、魔術的な封印の数々。  俺は何度も分厚い鉄製の扉を開き、何度も転送用の魔法陣を起動させて次のフロアへと降りなければならなかった。  明らかな、露骨なまでの、下にいるものを決して外に出したくないという強い意志。  その全ての妄念をくぐりぬけた果ての部屋に、俺はいる。  これまで眼にしてきた数々のセキュリティからすれば、笑ってしまいたくなるくらいに小さな部屋だ。  いや、牢獄か。  緋色の壁紙が張られた部屋はあちこちにクッションやぬいぐるみが散らかった、いかにも年頃の女の子のいる部屋といった感じだ。  テーブルには椅子が二つだけ。  その上に乗せられているのは銀の砂糖入れと綺麗な装飾の入ったティーカップが二つ。中の紅茶はとっくに冷めている。  隅の本棚には、少しだけしか本が入っていない。そのどれもが古びたグリモアだ。  俺の後ろには小さな黒板がある。  ここ幻想郷には、ホワイトボードなんて便利なものはない。  ここまで持ってくるのにひどく難儀した覚えがある。  俺はちょうど黒板を背に、チョークを手に持った姿勢だ。  そして俺の視線の先。  壁と同じ緋色のカーペットの上にぺたんとお尻をついて座り込んでいるのは、一人の風変わりないでたちのお嬢様だ。  「ねえ、まだ勉強するの。もう飽きちゃった。つまんな〜い」  スカートからのぞく細い両脚をばたばたさせて駄々をこねているのは、フランドール・スカーレット。  ここ紅魔館の主ことレミリア・スカーレットの妹君だ。  ある日ふと幻想郷に迷い込んでしまった俺は、いろいろあって紅魔館に勤めることとなった。  湖のほとりの林にある自宅から毎日ここに通っている。  最初のころは門番の手伝い(もっぱら園芸だった)や司書の真似事(もっぱらスペルカードで不法侵入者を撃退していた)だったのだが、 ひょんなことからこうして家庭教師へと転職することになった。  「フランにも、少し外の知識が必要かもね。あなたを専属の家庭教師に任命するわ。しっかりやりなさい」  というレミリアお嬢様の一言でだ。  最初はヤバ気な発狂した妹様の相手ということで完全武装で赴いたのだったが、幸いにもそれは杞憂で終わってくれた。  もっとも、俺如きのスペルカードでお嬢様に対抗などできるわけがないのだが。  普段殆ど目にすることのない自分以外の存在。それも幻想郷では珍しい男だ。  しかも、外の全く知らない知識を持っている。幸いお嬢様は俺に打ち解けてくれた。  教師というよりは、友達のように思っているようだけれど。  「そうですね。それでは、今日の授業はおしまいです」  咲夜さんからいただいた懐中時計に目をやれば、ちょうどいい時間だ。  お嬢様は少々むら気なところや飽きっぽいところがあるけれども、ときに異様ともいえる飲み込みの早さや深い洞察力をかいま見せることがある。  一種のサヴァンのような感じだろうか。  「やった! ねえ、お話聞かせて。この前の続き。早く早くぅ」  俺が授業の終わりを告げると、とたんにお嬢様はノートを放り投げてこっちに擦り寄ってくる。  「はいはい。分かっていますとも」  俺は苦笑しながらチョークをしまってクッションに腰を下ろした。  「どこまで話しましたっけ」  「私がハートの女王のクロケー場まで行ったところ。そこでクロケーをしようとしたんだけれど、全然うまくいかないの」  「そう、そうでしたね。では――――『フランドールは、すっかり困ってしまいました。槌がフラミンゴ、ボールがハリネズミ、アーチが トランプの兵隊のクロケーなんて見たこともありません』」  「本当。今まで一回も見たことないもん」  「『フランドールは最初はあれこれ努力してやってみようとしましたが、だんだんと腹が立ってきました。「なによ、こんなのってやってられないわ。 女王はどこ。今すぐこんなバカげた遊びは終わらせてあげるわ」とえらい剣幕です』」  「当然よ。そんなトランプの女王なんか一瞬で燃やしてあげるわ」  お嬢様は目を輝かせて、俺の話す内容の一つ一つに聞き入り、言葉を返す。  授業が終わった後の、俺たちの密やかな楽しみ。それがこのお話の時間だった。  何回かお嬢様の部屋を訪れているうちに、おれはあることに気づいた。  本棚はあるのに、そこに置かれている本の種類があまりにも寂しいものなのだ。  どれもこれも魔法関連のものばかり。  年頃の女の子が読むような小説もなければ、童話も物語もない。  これじゃまるで、動物のような飼い殺しじゃないか。  「お嬢様。一つ物語をして差し上げましょう」  「え? ものがたりってなに?」  ときたものだ。なんという無知。  この世全てを破壊できるほどの力を持ちながらも、お嬢様は物語の一つも知らないとは。  ためしに一つ『赤ずきんちゃん』を話してみたらこれが大好評。  もっともっととせがまれて、気が付くとすっかり夜になっていた。  俺がお嬢様の逆鱗に触れて消し炭にされたんじゃないかと、小悪魔がわざわざ覗きに来たくらいだった。  俺は本物の作家じゃないから、物語のストックは少ない。  こんなことなら向こうにいるときにもっと本を読んでおくべきだったと後悔しても、後の祭りだ。  それでもお嬢様のリクエストに答えるべく編み出したのは、自分でお話を作ることだった。  主人公を目の前のお嬢様にして、不思議の国のアリスとコラボレーションをしてみたのだ。  ある日白兎に誘われ、子供部屋から不思議の国へと迷い込んでしまうお嬢様。  おなじみの帽子屋、チェシャ猫、トランプの兵隊などの面々と、あるときは友達になり、あるときは撃破する自分の姿を、意外にもお嬢様は とてつもなく気に入ってくれた。  考えてみれば、本物の不思議の国のアリスもこんな感じで生まれたんだったな。  お話は続く。  「『いきなりフランドールに張り飛ばされたハートの女王は怒って叫びました。「ヤッチマイナー!」と。  すると「なめんなコラァッ!」「死にさらせやテメェッ!」などと叫びつつ、ドスやピストルを振り回したトランプの兵隊がフランドールに襲い掛かります。  そこでフランドールはレーヴァテインを振り回して、当たるを幸い片っ端からなぎ払い…………』」  「あははははッ! そうそう、そうこなくっちゃっ♪」  大うけしているよ。こんな脈絡のない、シナリオも起承転結も破綻した、当てずっぽうの行き当たりばったりの思いつきなのに。  それなのにお嬢様は手を叩いて笑い、物語の中の自分の活劇に目を輝かせて続きをせがんでくれる。  一度だけ、この少し上の広いフロアでお嬢様のスペルカードの発現を見たことがある。  禁忌「レーヴァテイン」。  灼熱の国ムスペルヘイムの王スルトが持つとされる、火炎でできた剣。  世界すら焼き滅ぼし灰燼に帰せしめる魔剣の名を知らしめすにふさわしい、それは圧倒的な破壊を振りまく光景だった。  燃え盛る炎を手に、お嬢様はひどく嬉しそうに笑っていた。  どこか病んだ、禍つを感じさせる狂おしい笑顔で。  でも、俺の目の前にいるお嬢様は、物語に夢中になって聞き入っているただの女の子だ。  どちらが本物のお嬢様なのだろうか。  俺はそんなことを思いながら、自作の『不思議の国のフランドロール』の続きをリアルタイムで考えていた。  「あーくそ、風邪引くなんて久しぶりだな」  紅魔館が見える湖のほとりにある小屋が、俺の今住んでいる家だ。  窓から差し込む日の光は、今日もいい天気であることを俺に教えてくれる。  普段ならば快晴の空の下ボートを出して、気持ちよく紅魔館に向かっているのに、今日はベッドから出ることができない。  数年ぶりに風邪を引いてしまったのだ。  さっき、紅魔館にはレミリアお嬢様からもらった使い魔を飛ばして休みの連絡を入れておいた。  「養生して早く治しなさい。フランにも風邪だと教えておくわ」  そう帰ってきた使い魔はレミリアお嬢様の声で言った。  「お嬢様………どうしているだろうな」  不意にお嬢様の顔が脳裏に浮かんだ。  「――――えーと、ここでいったん終了です。続きはまた今度ということで」  突発的に思いついたネタだけで危なっかしく続いている俺の物語。当然ネタに詰まれば話も続かない。  俺がギブアップすると、まだ物足りないお嬢様はソファにふんぞり返って駄々をこねる。  「だめだめだめ! 今がその今度。もっとお話してっ!」  小さな子そのものの姿に、俺はなぜか逆らえず(逆らったら命がないが)、もともと少ない創作力を搾り出して話の続きを作り出していこうとするのだった。  次第におぼつかないながらも、話がよたよたと続きだすと、再びお嬢様は息をするのも忘れたように俺の話に聞き入っていく。  「いつも楽しみにしてくれたのに、悪いことをしちゃったな」  今日はさすがに紅魔館には行けない。  けれども話はクライマックス。不思議の国を壊滅させたフランドールが、仕置人の妖忌師範代に果し合いを申し込まれるのだ。  一振りの刀の鋼は万物を破壊する力に耐えることが出来るのか?  一介の武人の剣技は、悪魔の妹を斬ることが出来るのか?  出来る。  出来るのだ。  見よ。異形と化すまでに鍛え込まれた両腕。  見よ。陽光の如く光を放つ妖怪の作りし刀剣。  次回「幻想郷無比無残真剣試合」。  …………とこんな感じだ。  どうしてこうお嬢様は活劇……というよりはスプラッターがお好きなんでしょうな。  「寝るか。早く治してまた続きを話さないとな」  熱で曖昧となった頭では、難しいことは考えられない。  薬も飲んだし、とりあえずはもう少し眠ろうと俺がベッドの中にもぐりこもうとしたそのとき、  凄まじい爆音がした。  小さなこの家が揺らいで、窓ガラスがびりびりと震えるくらいの大音響だ。  「なっ! なんだ!?」  眠気も頭痛も一瞬で吹っ飛び、俺はベッドの上で飛び上がった。  慌ててベッドから降り、スリッパをつっかけて窓から外を見る。  音からして向こうの紅魔館の方からだ。  そこで俺が窓の向こうに見たものは。  「火事! 紅魔館が燃えてるよおい!」  文字通り、紅魔館の屋根が火を噴いて燃え上がっていた。  遠目でよく分からないが、どうやら屋根に大穴があいているらしい。  「また隕石でも落ちたのか?」  この前の隕石はお嬢様が爆破したって聞いたけど、今度は直撃したのか。  唖然として俺が見ていると、急に上空が黒雲で覆われた。  間髪入れずに、どしゃ降りの大雨が狙ったように紅魔館の周りにだけ降り注ぎ、たちまちのうちに火を消していく。  さすがパチュリーさん。五行+日月を用いた精霊魔法の使い手だな。局地的に天候まで操作できるなんてすごいじゃないか。  けれども、異変はそれで終わらなかった。  再び爆音。今度は何と湖が爆発するなり二つに割れた。  まさにモーゼの十戒。ハリウッドもびっくりだ。  あまりのエネルギーの炸裂に、水しぶきが上がるというよりはもはや霧になって吹き飛ばされていく。  ようやく分かった。  衝撃波で湖面を真っ二つに割るほどの勢いで、何かがこっちに向かってきているのだ。  見る間にその何かは湖を横断して、今度は林の木々を片っ端からなぎ倒しながら勢いを全く止めない。  ヤバい。逃げなきゃこの家ごと粉砕される。そう頭では直感しても、体が動く暇もなく。  それは俺の家の前で突然止まった。  「あれ…………?」  今までの爆音付きの大破壊がうそのように、それは唐突に静かになった。  と同時に、  「死んじゃやだ――――――ッ!!」  「ぐああっ!?」  ドアが、立て付けの悪いドアがマッチ棒ほどの大きさに一瞬で粉々になるなり、何かが大声を出して突進してきた。  かわすことなんてできるわけがなく、ものの見事に俺はそれにぶつかってひっくり返る。  「お、おおお嬢様!?」  「死んじゃだめ死んじゃだめ死んだらだめったらだめ! そんなこと許さない私が許さない絶対に絶対に死んだら許さないんだから!!」  ようやく突進してきたものの正体が分かった。  フランドールお嬢様だ。  いつも手に持っている魔杖らしきものも持たずに、ひたすら仰向けに倒れた俺に抱きついてぐりぐりと頭を押し付けている。  見事にプロレス技が決まっている。さすがはヴァンパイアの馬鹿力だ。  背骨がバルサみたいに折れそうだぜ。  「ちょ………お、お嬢様…………手……離さないと死にます……マジで………」  床をバンバン手で叩いてギブアップと宣言するが、レフェリーのいないここでは無意味だ。  お嬢様は半ば錯乱したような感じで「死んじゃヤダ」と繰り返している。  何だか分からないけど、このままだと窒息して本当に死ぬ。  「だい――ダイジョブです! 死にません! 死んだり………しませんから…………手を離して……下さい!」  とにかくお嬢様を安心させて正気に戻ってもらおうと、俺は酸欠で気が遠くなりながらも必死でお嬢様に呼びかけた。  最初は反応がなかったけれども、やがて、  「ほ……ほんとう………? 死んだりしない?」  「は、はい。死んだりなんかしませんとも。もちろん」  ふっと絡められた腕の力が弱まり、暴れていた小さな体が静かになる。  胸に押し付けられていた顔が上げられて、お嬢様と目が合った。  「まだ、お話は終わっていませんから。完結するまで俺は絶対に死んだりしませんよ」  呆けたような、安心したような顔が不意に愛しく見えて、俺は気が付いたら笑っていた。  「よかった…………」  お嬢様も、つられたのかかすかに笑ってくれた。  のろのろと、倒れたままの俺の上から身を起こす。  マウントポジションに移行したな。  殴られたら一方的にボコボコにされそうで、少々生理的に怖い姿勢だよな、これ。  「でも、どうして俺が死ぬだなんて思ったんですか?」  俺がさっきから不思議に思っていたことを聞くと、お嬢様は少し顔を赤くした。  「だって…………人間ってすぐに死んじゃうらしいから。病気でも怪我でも簡単に壊れちゃうから。咲夜にあなたが風邪を引いているってきいたから …………その…………心配になって……飛んできちゃった」  紅魔館の屋根をぶち抜いてですか。  あれほどの封印を全て突破して、紅魔館を破壊し、湖を二つに割って林の木々をなぎ倒すとは。  本当に化け物じみた力の持ち主だ。まさに破壊神フランドール(レベル94)。  これじゃドラゴンボー○の世界だな。  ふと、俺は気が付いた。  「お嬢様……泣いておられるのですか」  お嬢様の目の縁に、光るものを見たような気がしたからだ。  そんなに、自分のことを心配してくれたんだろうか。  よく見れば、お嬢様の服はあちこち破れたり焦げたりしている。  封印にはじかれてやられたのか、それとも外に出るのを止めようとしてレミリアお嬢様たちといざこざがあったのか。  「う、うるさいわね。泣いてなんかいないわよ!」  俺の上で馬乗りになったまま、お嬢様はぷいと横を向いてしまった。  でも、頬は前よりもさらに赤くなっていて、照れているのはどこから見ても一目瞭然だったのだけど。  「いや、実際体調は悪いんですよ。まだ残念ですけど熱がありますし、咳だって止まってくれないんです」  とりあえず粉みじんになったドアの事はなるべく考えないようにしながら、俺は再びベッドの上に横になった。  「そうなんだ。じゃあ、看病してあげるね」  さらっと笑顔でとんでもないことを言い放つお嬢様。  ちょっと待って。この何百年も幽閉されて、生きた人間を見るのさえも最近だったお嬢様が俺の看病ですって?  気持ちは嬉しいけど、それは原子炉の調整を幼児に任せるのと同じくらいに不安だ。  炉心がメルトダウンしてチェルノブイリの二の舞になるのと同様に、俺の体が家ごとドアの二の舞になるに決まっている。  棺桶の蓋を閉めての葬儀になるに違いない。  「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」  残念だが、看病してもらう嬉しさと自分の命を天秤にかければ命の方が重い。  どうすれば丁重にお断りできるだろうかと俺が考えあぐねていると、お嬢様は何をするまでもなくいきなり出て行ってしまった。  再び爆音と巻き起こるソニックブーム。飛び立つだけであれだ。窓から一抱えもありそうな大木が宙に舞っているのが見えた。  なにをするつもりだろう。死刑執行のときを待つ囚人の心で俺がいると、数分ほどしてお嬢様は戻ってきた。  見えたのではなく、家の前で地面が爆発する音がしたから分かったのだが。こりゃそのうち地形が変わるな。  「ほら、連れてきたよ」  お嬢様が得意満面の表情で引きずってきたものを見て、俺の心臓は飛び上がった。  「さ、ささささ咲夜さん!? 死んでる!?」  「失礼ね、壊してなんかいないわ」  お嬢様は、無造作に片手で咲夜さんを床に引きずって持ってきたのだった。  「私……病気になんてかかったことがないから、看病したくても分かんなくて…………咲夜なら分かるんじゃないかと思って無理やり連れてきたんだけど ………ダメかな?」  恥ずかしそうに顔を赤らめてもじもじするお嬢様は大変に可愛らしくてよろしいのだけれども、引きずられてきた咲夜さんのほうは全然よろしくない。  「いえ、いえいえ全然あはは。すごく、嬉しいですよ」  自分でも引きつっていると分かる顔で、だるさも頭痛もまた忘れて俺は咲夜さんのほうに駆け寄った。  お嬢様と一悶着あったことは想像に難くない。  メイド服はあちこち焦げてボロボロ、おまえに音速を超えるスピードで振り回されたせいでその破け具合に拍車がかかっている。  スカートはまだ無事だけれど、上着なんてないに等しい。  はっきり言って、これは目の毒だ。  引きずられてきても何の反応もなく、完全に気を失っている。  「咲夜さん? お〜い咲夜さん。大丈夫ですか?」  肩に手をやって何度か揺すぶっていると、虚ろだった目に光が戻ってきた。  「ここは…………私、死んだんですね」  「いいえ死んでいません。人を死神扱いしないで下さい」  普段の瀟洒な様はどこへやら。寝ぼけたような反応に俺は突っ込みを入れる。  「ここは俺の家です。お嬢様がここまで連れてきたんですよ」  「そうでした………。お嬢様が館から出るって聞かなくて………。止めようとしても全員やられてしまって…………」  凄いことになってそうだな、向こうは。重傷者が出てなければいいけど。  「ほら、咲夜。さっさと起きて。一緒に看病しましょう」  看病という意味が本気で分かっていないらしく、まるでイベントのような物言いをするお嬢様。  けれども、その言葉でようやく咲夜さんは正気を取り戻したようだ。のろのろと床から身を起こす。  「かしこまりました…………。紅魔館に戻って準備を整えてまいります」  むちゃくちゃなお嬢様の命令にもきっちり応えようとする咲夜さんに、俺は尊敬の念に近いものさえ覚えた。  向かい合う形になった俺の額に、咲夜さんの白い手が当てられる。ひんやりとした感触がこっちに伝わってきた。  「熱は下がりつつあるようですね。具合はどうですか」  「まだ頭痛と体がだるいです。あと咳も少し」  「今年の風邪は咳が長引くそうです。でも、そんなに重い風邪でなくてほっとしました」  俺の容態を聞いて、かすかに咲夜さんは微笑んだ。すっかりいつものメイド長に戻っている。  「大丈夫ですか? 怪我とかしていません?」  「なんとか。ところでおじやとオートミールとどちらを作りましょうか」  「あ〜。じゃあおじやの方でよろしく」  「はい。それではすぐに戻りますので、少々お待ちください」  危なげなく立ち上がってドアの方に向かう咲夜さんに、俺は呼びかけた。  「そうだ、咲夜さん」  「はい、なんでしょう」  振り返った咲夜さんに、俺は笑って言った。  「その格好もいいけど、ちゃんと着替えてきてくださいね。目のやり場に困りますから」  失言だった。  俺の頬をコンマ以下数ミリかすめて、ナイフが一本飛んできて壁に刺さったのは言うまでもない。  「咲夜に色目なんか使うからよ。バーカ」  ついでにお嬢様にまでデコピンされた。この二人、少しは病人をいたわれ。  瞬く間に咲夜さんは戻ってきた。両手に食材とか調理器具とかを色々抱え、服もちゃんと着替えてあった。さすがは時を操るメイドだ。  今は台所でお嬢様と一緒に食事を作ってくれている。  「ちょっと咲夜、味付けってもっと必要かな」  「いいえ。病人食は薄味が基本ですから、そのくらいで十分ですよ。あ、リンゴは私がむきますから、フランドール様は火加減を見てください」  「分かったわ。それじゃあ、そっちはまかせるわ」  たいしたものだ。あの情緒不安定なお嬢様とちゃんとコミュニケーションが取れているよ。  しかも、「自分が看病するの」と主張するお嬢様に協力するという形は崩していないし。  お嬢様一人だったら、今頃台所そのものがないだろう。  「力が付くと思ったから」とか言いながら邪竜アジ・ダカーハでも捕まえてきて丸焼きにしかねない。  「できたよ。ほら、食べて食べて」  やがて、いい匂いと共に鍋と皿が乗ったお盆をお嬢様が運んできた。後ろにはちゃんと咲夜さんも控えてくれている。  おじやはニラと卵の典型的な奴だ。  枕もとのテーブルに置いた鍋から、お嬢様は蓮華でひとさじすくうなり、  「はい、あ〜んして」  「熱すぎて無理です。俺猫舌ですから火傷しちゃいますよ」  「もう、しかたがないなあ。じゃあ」  と息を数回ふうふうと吹きかけてから、やっぱりお嬢様は俺の方に蓮華を差し出す。  「はい。あ〜ん」  「…………しなくちゃダメですか」  咲夜さんの目もあって非常にとてもとにかく恥ずかしいんですけど、これ。  「ええ。お嬢様の行為をむげになさるおつもりですか」  とすました顔で言い放つ咲夜さん。  そして、にこにこしながら待っているお嬢様。  ええい、と俺は意を決して差し出された蓮華ごと、一気に口にほおばった。  「…………ん」  「どう? ねえどう? おいしい? おいしいでしょ」  身を乗り出して聞いてくるお嬢様に、俺は笑顔で答える。  「ええ、とってもおいしいですよ」  嘘偽りなくおいしい。咲夜さんの料理の腕があってこそだろうけど、お嬢様がわざわざ作ってくれたものだ。おいしくないはずがない。  俺の言葉に、お嬢様の顔がぱっと花が咲いたようにさらに明るくなった。  躁鬱気質のお嬢様が見せる躁の状態のような異様なものではなくて、本当に自然な見ていてこっちも微笑みたくなるような表情だった。  「やったっ! ありがとう咲夜。咲夜のおかげだよ」  「いいえ。私はただ手助けして差し上げたに過ぎませんから」  と従者の模範とも言うべき咲夜さんのコメント。  「ほら、リンゴもあるからもっと食べて。早くよくなるには食べなきゃだめよ」  そう言いつつ、蓮華とリンゴをいっぺんにこっちに差し出してくるお嬢様は、今まで一度も見たことがないような顔で笑ってくれていた。  ドア代わりに入り口にたらしたシーツをくぐるなり、咲夜さんは目を丸くした。  「あら、すっかり安心されていますね」  「はは………いつの間にかね。お疲れになられたようです」  ベッドで苦笑する俺の横では、お嬢様が床にひざを付いたまま、ベッドの上に上半身を乗せて眠ってしまっていた。  きっかり二時間前のことだ。  「咲夜さん。すみませんが二時間ほど俺とお嬢様に時間をいただけますか」  食べ終わって片づけを済ませた咲夜さんに、俺はそう言った。  「よろしいですけど…………授業をなさるつもりですか? なにも病気のときくらいは休まれては…………」  思ったとおり、いささか怪訝そうな顔をする咲夜さんだった。  「いえ。ちょっと、ね」  とお嬢様の方に目配せすると、すぐに分かったみたいだった。  「そうよ。咲夜には教えてあげない。二人だけの秘密のことよ」  ますます分からない、といった感じで咲夜さんは俺とお嬢様の顔を交互に見比べていたが、やがてふっと笑った。  もしかすると、お嬢様の待ちきれない様子から何か察したのかもしれない。  「承知いたしました。ごゆっくり」  主の言うことに速やかに従い、余計な詮索はしない。まさにメイドの鑑だ。  咲夜さんが笑いながらいなくなると、ようやく俺たちは顔を見合わせた。  「さて、それでは続きをお話しするといたしましょうか。お嬢様」  「うん。ずっと楽しみにしてたよ」  胸元に反り返ってぴったりとくっついたお嬢様に、俺は昨日の続きをおもむろに話し始めたのだった。  そして今。  咲夜さんが帰ってくる前に、お嬢様は疲れたのかうつらうつらしているうちに寝てしまった。  可愛らしい寝息がかすかに聞こえる。  「でも、安心いたしました」  咲夜さんがベッドの俺に近づくと、頬を緩めてそんなことを言う。  「フランドール様もあなたのことをよいお友達だと思われているようですね」  「一応、家庭教師なんですけど。でも、好意を持っていただけているなら嬉しいです」  俺はそっとお嬢様の頭に手をやって、もつれた金色の髪を撫でてみた。  お嬢様は幸い目を覚まさないで、かわりに気持ちよさそうに息を付く。  「私も、嬉しく思っているんですよ」  「咲夜さんが、ですか?」  「ええ。いけません?」  咲夜さんはわざとらしく首をかしげる。  「いけなくなんかありませんけど……少し意外でしたよ。咲夜さんはレミリアお嬢様一筋かと思っていましたから」  「あら、それは心外です。私は確かにお嬢様に忠誠を誓っていますけど、紅魔館全体のことも考えているメイド長なんですよ」  それもそうでした。ついこの人はレミリアお嬢様とセットで考えてしまいがちだけれど、実際は主に代わって紅魔館を運営している人だったな。  「ずっと地下に幽閉されて、けれどもその不安定なお心に耐えられないくらいの力をお持ちになられて、ある意味フランドール様は不憫な方でした」  咲夜さんの視線が、俺の横で安心しきって眠っているお嬢様に向けられた。  「けれども、あなたという人が現れて、フランドール様も変わられたと思います。あなたが友人となってくださったから、ここまでお慕いしているのでしょう。 それはとてもよいことです。フランドール様にも、私たち紅魔館の者たち一同にとっても」  「俺はそんなに大層なことをしていませんよ。ただ、お嬢様に必要だったものを差し上げているだけです」  「必要なもの?」  「はい。でも、それがどんなものかは、お嬢様との秘密ですけどね」  咲夜さんは不思議そうな顔をしたけれども、俺は秘密と言うだけに留めた。  お嬢様に必要なものは封印でも幽閉でも束縛でもなんでもない。  それは、誰もが耳にし、目にし、いつか必ず心に刻む幼いころの物語。  それは、普通の女の子が普通に欲しがっているものだけだったのだ。  咲夜さんはしばらく黙っていたけれども、いきなり俺に尋ねた。  「あなたは、元の世界に帰りたいとは思わないのですか」  「いいえ。全く」  俺は即座に首を横に振る。  「お嬢様に必要なものが差し出せるのは、いまのところ俺だけでしょうから。もし俺がいなくなったりしたら、幻想郷が遠からず崩壊しますよ」  「そ、それは困ります。……何か危険を感じましたら、遠慮なく私に報告してくださいね。全力で排除いたしますから」  頼もしいことを咲夜さんは大真面目に言ってくれる。ちょうどよかった。最近「そーなのかー」が口癖の人喰い妖怪に付きまとわれているからな。  「それにね…………」  俺は横に目をやる。  話に夢中で聞き入りながらも、やがて今日の大暴れがさすがに疲れたのかすっかりお休みしてしまった我らのお嬢様がいる。  「お嬢様は……俺にとって大事な人ですから」  何気なく口にしてから、我ながら何を言っているんだと驚いた。俺はいつから、お嬢様をそこまで慕っていたんだろうか。  でも、すごく恥ずかしいことを平気で口にしてしまった気がする。  「すみません今のは忘れてくださいお願いしますこのとおり」  「い・い・え。重大発言です」  さらりと笑顔で否定してくれる瀟洒だけれども恐るべき咲夜さん。  「いけませんよ。従者が主人に片思いだなんて。レミリアお嬢様に知れたら千本の針の山です」  「忠告感謝いたします。そして以後気をつけます」  俺がその笑いながらもシャレにならない本気が混じっている言葉に怖くなって頭を下げていると、もぞもぞとお嬢様が動いた。  だらんとしていた手が俺の腕をむんずとつかむ。  「お嬢様?」  「ん〜…………つかまえた〜…………も〜はなさないんだから」  あ、寝言だ。目を閉じたまま、お嬢様は俺の名前をぶつぶつと呟いている。  俺が顔を近づけると、さらに寝言は続いていた。  「だいじょ〜ぶ……世界のひとがぜんぶ敵でも……あなたを守ってあげるから…………」  お嬢様、どんなアクション映画みたいな夢を見ているんですか。  「だって…………わたしはね…………」  けれども、もう一言が  「…………だいすきだよ……ずっと…………」  耳に入ってきて、俺は固まった。  寝言とはいえ、あまりにもストレートな告白。  これは、本当に夢とはいえ俺に向かって告白してくれたんだろうか。  心臓が止まるほどに驚いて、しばらく押し寄せる自分の感情が分からなかった。  でも、ゆっくりと。  ゆっくりとだけれども、心の奥底に暖かいものが広がっていく。  ああ、自分は嬉しいんだ。  本当に嬉しいんだ。  たまらなく嬉しいんだ、とようやく気が付いていた。  顔を上げて、咲夜さんの方を見る。  「今の、聞きました?」  「ええ。それはもちろん」  「――――レミリアお嬢様には、ぜひ秘密ということで」  「もう、意気地がないですね。たとえ反対されてもお嬢様のお気持ちに応える覚悟はないんですか?」  「それは、そのもう少しスペルカードの技術を磨いてからということで」  やれやれ、とわざとらしくため息をついて、咲夜さんは俺に背を向けた。  「仕事がありますので紅魔館に戻ります。フランドール様がお目覚めになりましたら、使い魔をよこしてください」  「あ、あの…………」  何か言おうとする間もなく、咲夜さんは出て行ってしまった。  どこか、嬉しそうな気配は隠せないまま。  表面上はちょっとクールだけれどもやっぱりいい人だよな、咲夜さんって。  部屋に残されたのは、俺とお嬢様の二人だけ。  「お嬢様…………」  俺は静かに、目を覚まさないように細心の注意を払ってお嬢様の手を取った。  軽くて細い、透き通るほどに白い女の子の手だった。  「俺のために泣いてくださったこと、忘れはいたしません」  そして、そっと。  「俺もお慕いしております……ずっと…………」  その手の甲に、口付けた。  誰も知らない。  お嬢様も知らない。  秘めやかな、密やかな、けれども揺らぐことのない。  これは、俺がお嬢様に捧げる、変わることのない臣従の誓い。  たとえ、どのようなことがあろうとも。  たとえ、何人が敵に回ろうとも。  俺は、あなたにお仕えいたします。  この命を、全て捧げて。  願わくば、この愛しき方と永遠に共に歩むことを、天が自分に許さんことを。   〈完〉