「ゲホッ、ゲホッ!……う、うう……いかん、死ねる……」 咳きこんだ拍子にずれてしまった額の濡れタオルを直しながら、一人ごちる。 ここは、訳も分からず竹林に迷い込んでしまった俺を拾って、居候させてくれている恩人達の住む、永遠亭……の、離れの一室。 何故こんな離れでひとり寂しく寝込んでいるかというと、話は昨日に遡る。 ………… 朝一番、永琳が俺を捕まえて、頼みたい事があると切り出してきた。 普段あまり入る事の無い彼女の部屋に通してもらい、話を聞く事になった。 「ワクチン?」 「ええ、冬が来る前に一通り兎達にと思って。  いきなりあの子達に調整していない薬を投与する訳にもいかないし、申し訳ないのだけど、臨床実験に協力してもらえないかしら」 曰く、去年の冬は、異常と言っていいほどの長きに渡り猛威を振るったらしく、 イナバの子達の多くが寒さに当てられてダウンしてしまったらしい。 ここ永遠亭の健康状態を掌握する永琳からしてみれば、確かに頭の痛い問題だろう。 「でも、人間の俺が実験台になって、意味あるの?」 「ええ。貴方には、人間と兎両方に害のある菌を担当してもらおうかと思うの。  結構馬鹿にならない種類があるし、貴方自身の免疫にもなるしね」 「そっか。そういう事なら、喜んで協力するよ」 さすがに兎よりは生命力に自信はあるし、死ぬような事も無いだろう。 俺の返事を聞いた永琳の顔が、花が咲いたように綻ぶ。 うむ、今日も綺麗だ。自分の頬に密かに熱がこもるのを感じた。 「ありがとう。それじゃあ、善は急げと言うし、早速腕を」 催促されるままに袖を捲り上げ、机の上に腕を投げ出す。永琳は机の上のケースから注射器を一本取り出…… 「でかっ!!」 思わず椅子ごと後ずさる。俺の腕と太さが変わらないではないか。 「それはもう、666種類のウイルスや抗生物質がてんこ盛りですから」 殺す気満々じゃないかこの最終鬼畜ナース! いい笑顔しやがって! ぶっちゃけ大好きだ!! 心の中で罵倒し、さりげなく個人的感情も織り交ぜてみた。色々な意味で口には出せないが。 詳しい事は分からないが、こういう薬は、そんなチャンポンにするようなものでは無いと思う。 「一度に済ませた方が、小出しにやるより、面倒が少なくて良いでしょう?  大丈夫、心配しないで。打ち込んだ分のウイルスの抗体は、全種間違いなく採取してみせるわ」 「いや、そっちの心配は元よりしていないんだけど、それより、何と言うか、俺の生命がですね……」 「その心配も無用です。私が見込んだ貴方が、細菌ごときに殺される訳がないわ」 「え?」 思わせぶりな台詞に一瞬意識を奪われた隙に、 「えい、隙あり」 「痛あっ!……って、あれ? 痛くなくて逆に不気味だよオイ!! あああ入ってくる入ってくる気持ち悪い!! やだやだ抜いて抜いてえっっ!!!」 「うふふ、あぁ、貴方の中、とてもいいわぁ…………薬の通りが」 外の世界のお父さん、お母さん、お元気でしょうか。 貴方達の息子は、境界の向こうで、またひとつ大人への階段を登りました。 ついでに地獄の釜の蓋も見えましたが、そこは流石に謹んで辞退させていただきます。 ………… そういう訳で、薬品投与後すぐにこの離れに隔離され、 昨晩から発熱・頭痛・腹痛・倦怠感・性欲を持て余す等、身体異常絶賛フルコース中な訳だ。 「入ってもいいかしら? ――よくなくても、入るわよ」 「うん?」 首だけを襖の方に動かして、本日初めての来客の姿を確認する。 「ああ、永琳」 「ん、ちゃんと生きてるわね……どうかしら、ご飯は食べられそう?」 そう言うと彼女は、左手に抱えた盆を少し掲げて見せた。一人用の小さな土鍋が乗っている。 「永琳が用意してくれたの?」 「残念、と言いたいところだけど。事情が事情だし、お礼も兼ねて今日は特別ね」 「それなら食べる」 いい女の手料理は、百薬に勝る最高の滋養だ。活を入れて、上体を起こす。 「ふふ、ありがたい返事ね。でもその前に、ちょっと成果をいただくわね」 左腕に採血用の針が通され、空の容器に血液が流れ込んでいく。 昨日注ぎ込まれた量と比べるまでも無い良心的な段階で採血は終了した。 「はい、おしまい」 「……ふう、しっかり役立ててくれよ」 「あらお言葉ね。言われるまでも無く、細胞一片たりとも無駄にはしないわよ」 それを聞いて安心した。これがイナバの子達の役に立ってくれるのなら、この苦しみにも意味があると、少しは我慢の足しになる。 「それじゃどうぞ、召し上がれ」 永琳が、すい、と盆をこちらへ進める。 だが、しかし。ここで素直に自分で蓮華を取るなどという行為を、今日の俺の、茹だり強まった脳は許さなかった。 ビバ高熱! 今まさに、俺は男の宿命の使徒だ。 「――永琳。実は激しい倦怠感で、俺の両腕はとても上がらないんだ。だから……」 じっちゃん、オラ、わくわくしてきたぞ。 「あーんってやってくれないと食べられn ごめんなさい調子に乗りました申し訳ありませんっ!!」 金属バットと見違える程の座薬がどこからとも無く取り出されたので、俺の野望はほんの五行で潰えた。 夢破れて真っ白に燃え尽きた俺に、永琳が呆れた風にため息をつく。 「……まったく。そういう事がしたいのなら、イナバの誰かにでも頼みなさい。中には貴方の事を慕っている子も少なからずいるわ。  そう言えばウドンゲも、今回の事を話したら目を輝かせて感動していたわね」 ――少し悲しくなった。よりにもよって、好きな女にこんな言い方をされたくはなかった……畜生、拗ねてやる! 「…………永琳じゃなきゃ、嫌なんだよ、俺」 精一杯の反抗の後、布団に寝転がって、彼女からそっぽを向く。 熱のせいだ、なんて言えないくらい、真っ赤になっているであろう今の顔を見られたくなかった。 「…………」 ……いや、そこで黙り込まないでよえーりん。 沈黙に居たたまれなくなって体をモジモジ揺すると、彼女の堪えきれずに漏れ出したような笑い声が聞こえた。 「……ふ、ふふふ……まったくもう、しょうがない人ね……ふふ、ほら、起きなさい」 カチ、と蓮華が鍋に当たる音が聞こえた。どういう気変わりだろうか。 戸惑いながらも、言われるままに体を捻って起き上がる。 ――永琳は、鍋から掬った蓮華を、自分の口に含んでいた。 まさに外道! 何てこった、自分で食べちゃってるよこの人! 抗議の声を上げようとした瞬間、永琳の目がふっ、と笑みの形に細くなり、 「んむっ!?」 彼女の唇が、俺の口に覆いかぶさった。 驚きに弛んだ口中に、粥らしきものが流し込まれる。 ただされるがままになって、永琳の口から移されたそれを嚥下する。……味はよく分からなかった。 飲み込むものが無くなってからたっぷり五秒ほど経って……ゆっくりと唇が離れる。 「……美味しい?」 そんな事を言って来た永琳の、ほんのりと朱が差した艶めかしげな笑顔を、呆気にとられて見つめながら、 「…………感染るよ」 そんな間の抜けた事しか言えなかった。 「感染らないわよ。蓬莱人の性質、前に話したでしょう?」 ああ、そうだった。彼女ら蓬莱人にとって、病は何の脅威にもならない。 と言うか、それは現状において、比較的どうでもいい話だった。今はそんな事よりも、だ。 「……どういうつもりだよ?」 「あら、ご不満だったかしら。可能な限り両者の希望に沿う形を採ったつもりだったのだけど」 予期せぬ言葉に、心臓が強く跳ねた。 ええと、両者の、という事は、それは、つまり。 「……本当に?」 「そんな質の低い冗談は言わないわよ。貴方、自分で考えているよりは余程見所のあるいい男よ」 「う……」 一体何なんだこれは。高熱に浮かされて、夢でも視ているのだろうか、俺は。 「永琳、俺を思いっ切りつねってくれ!」 「わかったわ」 ぎゅううううううううううううううっっっ。 「っっ痛でええええっっ!!!!! 目蓋をつねるなああああ!!」 「目は覚めたかしら? 女にあれだけ恥をかかせて居眠りとは、見上げた度胸ね」 「も、申し訳ない……どうにも信じられなくて……」 「はぁ…………それなら、一つ誓いを立てましょうか」 ようやく解放された目蓋の痛みに悶える俺に、永琳は苦笑いを浮かべながら、そう提案してきた。 「誓い?」 「そう、誓約。……これから貴方は、多くの事を学んで、強くなって、もっと私好みのいい男になりなさい。  貴方がその努力を怠らない限り、私は……そうね、姫のほんの少し次くらいには貴方を大切にすると誓うわ」 具体的な指針の無い漠然とした言い回しだが、想像する事はできる。 ……きっと道は、細く険しい。この幻想郷は、力を持たない者に対して、まるで容赦が無い。 俺のようなただの人間は、言うまでも無く「持たざる者、食われる者」に分類される側だろう。 だけど、それでも、欲しいものがある。俺の成長を望んでくれる人がいる。それで十分だ。 「ああ、上等だ。誓おう。いつか君に、『姫より貴方の方が大事だ』くらいの事は言わせてみせるさ」 ……痛みも倦怠感も、完全に麻痺していた。高揚した精神が、苦しみを押さえつけている。 今の俺にとってはこの程度の体調の不具合、そよ風程度の障害にもならない。 そんな俺の宣誓に満足したのか、永琳は嬉しそうに微笑み、俺の肩口に両腕を絡めてきた。 「そう……楽しみにしてるわ。それでは、改めて……誓いの証を」 美しく整った目蓋が、静かに閉じられる。 俺は彼女の背中に手を回し、そっと引き寄s ガラガラガラッッッ!!!!! いきなり襖が勢いよく開け放れたかと思うと、 「あっ、あのっ!! 不肖鈴仙、お見舞いに来まし…………ぁ……」 スー――――――……ピシャン いきなり襖が閉じられた。   「――うわあああああああああああんんっ!!!!!  師匠の恋どろぼおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜…………(フェードアウト)」 『………………………………』 何ともお寒い沈黙が、場を支配する。 「…………えーと……追わなくていい……よね?」 「ハクタクに蹴られて死ねばいいと思うわ」 「……酷いオチだ……」