――目が覚めたら、そこには天使がいた。 「……あ、目が覚めたみたいね。スーさんの真ん中で気付くなんて、中々タフな人間みたい」  違った。天使じゃないみたいだ。羽根もないし、なにより服を着ていた。普通の女の子。……まあ、それくらい可愛いとは思うけれど。  身体を起こす。紫色のなにかが、体中にまとわり付いている。ゆっくりと身体を起こす動作にあわせて、はらはら、はらはらと舞い落ちて行くソレは、とても綺麗だと思った。 「ここは、どこだ?」  自分でも意識しない声がでた。不意に出した言葉というのは、実はなによりも的を得ているというが、実際そうだったと思う。こんな状況で判っても仕方ないが。 「ここはねー、スーさんの咲いている丘よ」 「スーさん?」  なんてこった。ここは釣りバカの聖地だったのか。 「スーさんっていうのはね。鈴蘭のスーよ。まあ、判らないで当然だわー」  ……とりあえずバカなことを考えた自分を殴っておいた。  目の前の女の子は、僕の挙行に不振な目を向けている。まあ、いきなり自分を殴る奴がいたら怪しいだろう。僕でもそんな目をする。 「まあ、それはともかく……そうか。ここは鈴蘭の丘ってことか」  立ち上がる。寝転んでいたときは気付かなかったが、女の子の背丈は僕の腰より少し高いくらいしかなかった。  辺りを見渡す。紫色の花弁が、これでもか、というくらいに咲きほこっていた。  思わず、見ほれてしまう。そのとき、女の子が声を上げた。 「ところで、人間さん。あなたはどこから来たの?」 「ん? 僕かい。僕は……」  答えようとして、言葉に詰まった。  なぜなら、おかしいことに気付いてしまったからだ。  僕は、……なことがあって、……逃げたくて、……それで、……遠くに。  そうだ。遠くに。遠くに行きたかった。自転車で――自分がたどり着ける限界まで走ったのだった。  それなのに。なんでこんなところで倒れている?  疲れて、意識がなくなった、だけならいいのだ。しかしその場合、僕の『近くに』自転車が倒れているはずなのだ。  さて、もう一回確認してみよう。僕の周りには、何がある? 「……?」  不思議そうな顔で僕を見上げる女の子。そして咲き誇る鈴蘭の花たち。  ――それしか、なかった。つまり、それは――。 「僕は、どこから来たんだ……?」  僕は、疑問を疑問で返す、という初めて会う女の子にたいして失礼極まりない行為をしてしまった。 「判らないの? 自分がどこから来たのか」  女の子は、なんだかとても不思議そうな目をしてこちらを見ていた。 「うん。全然判らない。なんでだろう?」  大変なことだと思う。記憶障害とかそういうものだろうか。しかし僕はなぜかあっけらかんとしていた。  それよりも――、そう、自分よりも。目の前の女の子が気になっていたのだと思う。 「どうしてなのかしら? 寝ている間に、スーさんにやられたのかしらね?」  こくん、と可愛らしく首をかしげる女の子。その仕草が、どこかで見たかのようで。  ――ねえ? それ、どういうことなの? ……ゃん―― 「まあ、どうでもいいや。ところで」 「どうでもいいんだ。人間ってそういうのこだわるかと……ううん、そうでもないか。紅白とか白黒とか」  紅白だの白黒だの、ちょっと気になったがまあいい。これも縁ってやつだろう、と気を取り直した。 「君の名前は? なんていうの?」  そう聞くと……女の子はニヤリ、と……本人はニヒルなつもりなのだろうが、残念なことに愛らしさしか伝わってこない笑みを浮かべ、恐らくは起伏があんまりないだろう胸を張って、声高に叫んだ。 「私は、メディスン・メランコリー! 未来の救世主よ!」  救世主、とかいうのになんだか変な感じがしたのだが……まあ、そんなものはどうでも良かった。  メディスン。いい名前だと思う。日本語に訳すると薬。とりあえずは僕にとってそうであると思う。 「そっか。メディスン……」 「ところで人間さん。どこから来たのか覚えていない、どこへ行くのかも知らない。そんなあなたは、これからどうするの?」 「あー……」  言われて気付いた。  僕はここにいたるまでの経緯も知らず、着の身着のまま、そして移動手段も徒歩しかない。  近くに町とかがあるのならばまだ違うのだろうけど……知らず知らず遠くに来ていたのか、ここは鈴蘭しかなく、遠くを見ても建物のたの字も無い辺境だった。 「どうしよう。……ところで。メディスンはここで何してたの?」  まさか、ここで暮らしているなんてことはあるまい、と思ったのだが。 「私? ここは私の住処だもの。だから、あなたがいて驚いたのだわ」  ……ここで。暮らしている。  女の子が。着の身着のままで。お花畑の中で。  なんだかそれは、恐ろしいほどの幻想(ファンタジー)だった。 「本当に……? 雨とか、つらくないの?」  そんな幻想に向かって、ついつい現実的な指摘をしてしまう。僕の悪い癖だ。僕は昔から、絵本とかに無意識に突っ込みを入れてしまう癖がある。それを話すと、大概現実的ね、と言われるのだが……僕自身は、そういう話が大好きなのだ。 「そうなの。だから、最近はちょっとした家を作ってみたのよ。永琳に教えてもらったの」  えいりんとは誰だろう、とは思ったがそれは今は重要じゃない。  とにかく、メディスンは雨の中ずぶ濡れにならないってことで、それはいいことだと思う。 「そうね。せっかくだから見せてあげる。私の家――自信作なのよ!」 「え、ちょ、ちょっとメディス――」  そういうが早いか、メディスンは僕の手を引っ張り、走り出した。  ……で。辿りついた先には。 「これが……えと。メディスンが作ったのかい?」 「そうよ。凄いでしょう? 丸三日かかったんだから」  えへん、と胸を張るメディスン。  僕はというと、目に映る光景に驚嘆を禁じえない状況だった。  メディスンが家、と言っているものは……本当に「家」だったのだ。  僕が知る限り、こんな本格的なものを作るのは職人くらいしかできないはずだ。それを、たった三日で作るなんて……なんて子なのだろう。 「これは……凄いな」 「そうでしょ? えへへ、もっと褒めてもいいわよ」  メディスンは、胸を張りながら嬉しそうに笑った。  華が咲くように笑った。どくん、と僕の心臓が跳ねた。  ――えへ。もっと、もっと褒めて。お……ゃん―― 「そうだ。せっかくだし、しばらく私の家にいてもいいわよ」  メディスンの言葉に、僕は喜――ぼうとして、押し留まった。 「その申し出は物凄くありがたいのだけれど……えっと、メディスンは、この家で、一人で、暮らしているんだよね?」  今までの事実、会話を照らし合わせれば僕の疑問は疑問ではなく事実確認にほかならない。  しかし確認しなければならなかった。  それは僕の数少ない男としての矜持……というやつである。といいなあ。 「当たり前よ?」  予想通り。メディスンは何を言っているの、といわんばかりの顔でこちらを見た。  ああ。判っている。判っているんだ。  でも、それでも、これだけは、これだけは確認しないといけないんだ。 「女の子が一人……その中に男が……」 「? そうなるけど、それがどうしたの?」  どうしたのときましたよこのお嬢さんは。  いや僕にやましい気持ちはない。英国紳士だって顔負けの紳士っぷりであるとご近所でも評判だった。  しかしだ。それでも……あれだ。世間体とかさ。あるじゃん、ねえ?  しかも、この場合悪者になるのは僕だ。間違いなく。古来より、男と女が関わる不祥事では、男が負けるものと古の書物に書いてある。具体的には竹取物語とか。 「……ふんふん。判ったわスーさん、もう入れちゃうね」  僕が煩悶としていると、メディスンは傍らの小さい……なんだ、あれ?と会話しているみたいなそぶりを見せていた。  その所作に気付いたときには、僕の身体はメディスンによってずりずりと押されていた。 「な、ちょっと待てメディスン! 僕は入るとは言ってな――!」 「私が入れる。入れたいから入れるわ」  なんて我侭な! くそう、自慢じゃないが僕は押しに弱い(用法が違うが)。  このままじゃ、理不尽に中に入れられてしまうではないか! 「ん、ちょっと、やっぱりあなた大きい……んっ、ちょ、暴れないで、入らない……でしょ」 「……」  ぴたり、と僕は暴れるのをやめた。気持ち前かがみだけど。  ……ちょっと、自分が嫌になった瞬間だった。  メディスンがいなかったら、すぐさま傍らの鈴蘭にダイヴしていたと思う。車田落ちで。 「あら。おとなしくなったわねー。行くわよー」 「判ったよ。入るから。もう押さなくていいから……」  全く、小さいナリで自分ってものが強いな。  この年頃はそうであると思うけれど、この子は人一倍我侭だと思った。  ――ほぅら、私の言うとおりにして。じゃないと、お……ちゃんを嫌いになっちゃうわ―― 「いらっしゃい。私の家の、初めてのお客様!」  何故か一瞬揺れた頭を振って、僕はメディスンの家に上がった。  それから、流れるように時間が過ぎていった。  その中で、僕は、ここが自分のいた世界と違うこと。幻想郷と呼ばれる場所だということを知った。  なるほど確かに、あんなに鈴蘭が群生する場所など僕の世界には存在し得なかったし、僕の自転車がなかった理由もわかろうというものだ。  僕は、メディスンの家に住まわせてもらいながら、ずっとメディスンの……手伝いっぽいことをしていた。  っぽい、などというのは、メディスンは特にコレ、という仕事のようなものをしていなかったからだ。しかし、定期的に作った薬……僕にはなんの薬だかは教えてくれないが……を例のえいりん、とかいうひとに届けに行くようで、それを作るための草や道具を調達するのが僕の役目になっていった。  楽しかった。  今まで、そう、前の世界に居た自分の生活がかすんでしまうほどに……楽しかった。  メランコリーが傍に居て、メランコリーになる暇が無いほどあわただしく、楽しい、生活が続いた。  そんな中……僕は、えいりんさんに会えることになったらしい。何でも、メディスンが出先でことあるごとに僕のことを話していたらしい。  今日はその日だった。 「っで。いつ行けばいいのかな? っていうか僕はどうすればいいんだい?」 「今日はね、久しぶりに永琳から来てくれるの。だから、あなたはここに居ればいいわ」  とはいえ、初めて会う人だ。  メディスンから、色々と話は聞いているが……それでも初対面なのだ、緊張しないはずが無い。  確かそう、凄い美人で天才で凄い人らしい。全く緊張してしまう。……そうか綺麗な人なのか、そうかそうか。 「……」 「痛っ! ちょ、メディスン今僕の太腿つねっただろ!?」 「つーん。何もしてないわ。気のせいでしょ」  ぷいっと顔を背けるメディスン。  ズボンの中を見ると、太腿が青く変色していた。なんて力だ。というか僕が何をした。 「ふんだ。そんな顔じゃ、嫌われるもんねーだ。いつもいい顔じゃないけど」 「……言ったな。そら僕だっていい顔だとは思いあがってないが、ちょっと気に障るぞメディスン?」 「言ったわよ。鼻の下伸ばしちゃって、ばっかみたい」 「…………伸びてたんですか。僕」 「馬並みにね」  ……そら不味いわ。気付かせてくれたメディスンには感謝……なのか? いやでもなんでつねられる必要が?  うーんと僕が悩んでいると、 「あらら。結構いい感じに出来ているじゃない」  玄関から――これだけで綺麗だと確信できる声が聞こえた。 「あ、永琳が来たわ。私、行ってくるね。あなたはここにいてちょうだい」 「え、あ、うん、判った」  メディスンは走っていった。埃が立つから室内では走るなとあれほど言っているのに、守ってくれやしない。  いつもいつも、返事だけはいいのだ。あとから注意しても、軽く笑ってごめんなさいと言うだけで――。  ――あ、あはは、ごめん、ごめんなさい〜。次から、ちゃんとするから! ね、お……ぃちゃん―― 「お邪魔するわね」 「いらっしゃい、永琳! ようこそ、私の家へ!」  玄関から元気な声が聞こえた。そして、とたとたとこちらに走ってくる音と、ぱたぱたと上品な音が近づいてきた。  僕は、とりあえず居住まいを正した。  メディスンのときはいきなりだったからそうでもなかったが、僕は基本的に人見知りするのだ。  初めて会う人、なんて前置きをしたら、恐ろしく緊張してしまう体質なのである。  あ、なんかドキドキしてきた。 「こっちが、客間!」 「よく出来てるわね……あら」 「あ」  なんの前触れもなく、メディスンと……後ろに立つ人がえいりんさんだろう、がこの部屋に入ってきた。 「ほら、永琳。この人がいつも話してる――」 「え、え、ええと、はじめまして」 「ふふふ。はい、はじめまして。八意永琳よ。あなたのことはメディスンから聞いているわ」  前触れもなくはじめられた自己紹介も、流れるように、というより流されて行われてしまった。  衝撃が凄かった。それほどの美人だった。  昔読んだ小説に、光輝くほどの美貌、とかいう言葉があったが、まさにそれを体現していた。  浮かべられた微笑は慈愛に満ちているかのようで……ああ、これほど自分のボキャブラリーの貧弱さを嘆いたのは初めてだ。 「……ねえ! 私、お茶淹れてくるね!」  何故か大声で宣言し、メディスンは台所(当初はなかったが僕が作った)に歩き出した。  そして僕の傍を通るとき――これはわざとだ、確信できる――僕の足を思い切り踏んづけていった。 「……!!」 「……ふんだ。鼻、気をつけてね」  小声で呟いてメディスンは部屋を出て行った。  僕はというと、あまりの痛みに声すら出ない。僕が何をしたというのだ。鼻の下は伸ばしたかも知らんが、それでこの所業はきつすぎまいか。 「……ふふふ。仲良しね」  痛みがようやく和らいだ頃、永琳さんはそう言って微笑んだ。  なんというか……この様子を見て仲良しといえるのが凄いと思った。どっかズレてるんじゃないか。 「……はあ。仲は悪くないと思いますが」  そうでなきゃ、これまでやってこれなかっただろう。  つくづく、最初に見つかったのがメディスンで良かったとおもう。 「……ね。ちょっとあなたに言いたいことがあるの」  永琳さんは近づいてきた。  ……なんだなんだ。なんだこの展開は。10人男子がいたらおそらく十中八九は夢想する大人のお姉さんの誘惑って奴ですか? まあそれはないと思うけど! 「あなた……」  思い切り近くまで寄って、メディスンに聞かれたくないのだろうか、囁き声で。  僕はというと、緊張のあまり身動きすらとれなかった。  しかし。 「――あの娘から、離れなさい」  その言葉で。一気に現実まで……それどころか、心が身体に入るときに勢いが付きすぎたのか、衝撃まで受けていた。 「な――!」 「大きな声を出さない。気付かれてしまうわ」 「……っ」 「そう、それでいいの」  何を、言い出すんだ。この人は一体。  あの娘――メディスンと離れろ、だと? 「あの娘から聞いているかしら? あの娘は、人形なのよ?」  知っている。それは、はじめてあったあの日の、夜に聞いた。  驚いた。そらもう大層驚いた。が、それだけだ。  たとえ人形だろうとなんだろうと、動いて喋って考えて、『生きて』いる。  ならば、それはすでに独立した一人の『存在』だ。人形だろうと何だろうと関係ない。 「メ――」 「そう。その気持ちは立派。とてもとても立派。だからこそ、あの娘はあなたと一緒に居るのでしょう。しかしね」  永琳さんは、僕の気持ちを見透かしたかのように――いや、実際見透かしているのだろう。  今初めて向き合ったが、この人の瞳は昏く昏く、どこまでも吸い込む闇のような目だった。  それに見つめられている、その事実だけで震えが走る。しかし、負けるわけにはいかないのだ。  だって、僕は――。 「その気持ちは真実? その気持ちは純粋? ……あなたのその気持ちは……『誰に向けたものなのかしら』?」  揺さぶられた。  心、身体、たましい、――僕という、『存在』全てが。 「あ、あああ、あ――」 「その気持ちが真実で無いのなら。『代用品』であるのなら。そうではないと言い切れないのなら。今すぐここから消えなさい――」  そう言って。僕の頭を、両手で掴んだ。 「これはサービスよ。『本当の相手を思い出させてあげるわ』」  ずどん、と。僕の頭に、柱が打ち付けられたような痛みが走った。  ――ね。聞いてくれる? 私ね、『お兄ちゃん』のことが、大好きだよ――  うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 「お兄ちゃん。こっちだよ」 「ちょ、ちょっと待てよ」  走る妹のあとを追いかける。  小柄なくせに、いや小柄だからこそなのか、妹はすばしっこい。  しかも、女の子のくせに男顔負けの冒険好きだったりするのだ。全く、なんでこんな娘になったんだろう。  それでいて、なんでだか知らないが……いつも一体の人形を持ち歩いている。変なところだけ女の子っぽいのだ。 『なんだ。これは。』  今日は、積み上がった資材置き場。廃材が入り組んで自然の迷路を作った場所に来た。  っというか、連行された。そこそこいい年になってきたんだから、兄貴離れくらいしろよ……とも思うが。その一方で嬉しいと思うのだ。全く、こんなことだから妹離れができやしない。僕は内心で溜息をついた。 『あの日。あの日。あの日の、記憶――。』  廃材の迷路。駆け抜けた先に、光が見えた。  ようやく空が見えるのか。妹のサイズなら悠々と歩けるとはいえ、僕とは相性が悪い。常にかがんで歩かねばならないのだから、天井ともいえるものがなくなるのはありがたい。 「出口、やったね! お兄ちゃん!」 「あー、そうだね。早く抜けたいよ僕は」  妹は、見えた穴から外に出た。その穴は、妹ですらかがまないと入れないくらい小さい。  まあ、こういうことも沢山あった。なので素早く四つんばいになってその穴を抜けた。服が汚れるが……その件に関して僕の両親はもう諦めているので問題ない。……いや、あると思うがなないと思い込んでおく。  その先には。 「わあ……すごい、お花畑になってるよ……」 「おおお、すごいな、これは」  一面の花が。咲き誇っていた。  ひゅうと、風に揺られて、沢山の花弁がいっせいにこちらを向いた。あまりにタイミングが揃いすぎていて笑ってしまった。 「ひゃっ!」  妹は、急に声を上げて、飛び上がった。 「なんだ、どうした?」 「背中……何か入った!」  妹の服を覗き込む。そこには、さっきの風で舞い上がったのだろう、花びらが何枚か入っていた。そんなものでも不意をつくと驚かせられるんだな、と思うと微笑ましくて……笑いながらとってやった。 「もう……お兄ちゃん、笑っちゃダメよ!」 「ああ、悪い悪い」 「……て、あっ!」  もう一回声を上げる妹。その視線の先は……ころころ、と転がっていく……いつも持っていたあの人形。  花のせいで気付かなかったが、ここはなだらかな斜面になっていたのだ。 「ま、待って!」  妹はそれを追いかけていく。僕も、一人にしては大変だと……後をおった。 『ああ。ああ……思い出してしまう。やめてくれ、やめてくれ。』  急に途絶える花畑。透き通る蒼い空。  そこには――『何もなかった』。ただ、ただ――切り立った崖があるだけで――。 「――え?」  僕の声は、非常に間が抜けていたと思う。そして人事のように聞こえたのだ。  現実が直視できず。現実を認識できず。  そこに、妹がいないことが。僕を目覚めさせて――。 『やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!』 血だらけの妹。焦点の合わない瞳。どこかに伸ばされた手。呟かれる言葉。 人形。あれは僕があげたもの。だからいつも持っていた。なんで。どうして。 好きだから。僕のことが。お兄ちゃんが好きだからお兄ちゃんがくれたものだから お兄ちゃんが好きだったでもこれじゃもうだめだよみえないさよなら――。 バツン。モニタの寿命が切れたテレビのように、映像は――記憶は途絶えた。 「――あ」  気が付けば。僕は天井を見ていた。  そこは知らない天井じゃない。一人で暮らしていたくせに広く作りすぎたゆえに最初から用意できた、メディスンが作った僕の部屋だ。  鈍痛がする。頭の中に鈍い痛みが充満していた。  視線を巡らせる。すると、すぐ傍に――人の、いや人とはちょっと違う気配を感じた。メディスンだ。  何か、言わないと……。僕は頭痛を抑えながら上半身を起こそうとした。 「……、っ、起きた、の?」  メディスンの声が、様子が、おかしい。  耳を澄ませると、ぽた、ぽた、と音がする。鈍痛に打ち負けて視線が下がる。床には、そう、『まるで今さっき水滴を落としたような』染みが広がっている。 「……うん。今、目が覚めた」  でも。僕はそれについて言及することは出来ない。出来るはずがなかった。  形容しがたい痛みに耐えて、身体を起こす。  暗さになれた目は――、俯いて、時折しゃくりあげるメディスンを僕の網膜に映した。  しばし、この空間が沈黙で支配された。  こんなことはなかった。今まで――メディスンと一緒に居て、こんな静かな時間はなかったのだ。それを考えると、今がどんなにおかしいことか。  でもそれは、きっと、いや、確実に僕のせい。僕の犯した罪が――こんな時間を作り出している。  やがて。それを打ち破ったのは。 「……答えて」  メディスンの声だった。  その声色は、今までのメディスンとは違う……冷えて、固く、重かった。  僕は、その問いに……頷くしかなかった。それ以外を選択する術などないのだから。 「あなたは……私を見ていたの? ううん……『誰を見ていたの』?」  判っていた。そういわれることは……理解していた。  でも。それでも――僕の胸に衝撃が走った。さっき……僕の感覚ではさっきだ……永琳さんに記憶を呼び覚まされたときの衝撃よりも大きい衝撃が、走った気がする。 「……ああ」  それは。恐ろしく単純で。恐ろしく、彼女を冒涜した行為――。 「僕は。きっと、妹を君に見ていたんだ」  自分の罪を。懺悔をするかのように、告白した。  途端――。 「ふざけないで――!」  きっ、と。今まで伏せられていたメディスンの顔が上げられた。  その瞳には、悲しみ、苦しみ、怒り、敵意、――考えうるかぎりの負の感情が宿っていた。涙は滝のように溢れ、目は真っ赤に腫れ上がり――。 「私は、あなたのための人形じゃない! あなたの都合のいいように作られた人形じゃない!  あなたの操り人形じゃない! 代わりの為に作られたヒトガタじゃない――!  私は、メディスン・メランコリー! 人形なんかじゃ――ない!!」  叫び声を上げた。それは、悲鳴に近かった。  ああ。僕は……なんて罪を犯してしまったのだろう……。彼女に。何よりも純粋な生そのものの彼女に。  ヒトの――穢れを押し付けてしまったのだ――。  ああ、ああ。でも。僕はそれでも……君が好きなんだ。  あのとき言えなかった台詞。言おうとして……自分の心にしまってしまった台詞。  最初は、彼女の中に妹を見ていた。だからこそ、そう、だからこそ。『最初にあったとき、僕は自然に接することが出来た』んだ。  でも。その気持ちが……変わっていくのはそう時間が掛からなかったと思う。自分でも良く判らない。 「何か、何か言いなさいよ! ……言ってよ、お願い……」  メディスンが泣いている。僕はどうすればいいのだろう。謝っても、何も解決しやしないのは自明だ。  この気持ちを伝える? 馬鹿な。そんなことをしても――信じてくれやしないだろう。仮に信じてしまったとしても、メディスンの中に負い目が出来るのは間違いない。  それは僕の望むところではない。だって、僕がメディスンに惹かれたのは――その、純粋さなのだから。  心の思うままに笑う、それは僕にはなかったこと。その姿に、僕は惹かれたのだ。  そんな、そんな姿を――穢す事なんて。僕には出来そうも無くて――。  そのとき。目の前を、ふよふよと飛ぶ何かが見えた。それは、いつもメディスンの傍に居た、そうだ、スーさん。彼女は……僕を責めるかのように、顔の目前でくるくると回っていた。  ああ。そうか。やっぱり、僕は罪人なのだ。  認めてしまった瞬間……僕の右手は開かれた……。起きてからも、ずっと意識せずに固く握っていたソレの中には、一錠の錠剤がある。  これは、あの時――。永琳さんに持たされたものだ。そう。自分の罪を認めたのなら、『自分が消えてしまえるように』――。  まるで覚えてやしないのに、フラッシュバックする記憶。そういう、術だったのだろうか。  消えてしまえばいいのだ。自分の犯した罪に耐え切れず、逃げ出してしまった僕は――もっとはやくにこうするべきだったのだ。  僕のせいじゃないと。周りの大人たちは言ったけれど。それでも違う。僕がもっと自覚していれば、ああはならなかったはずだから。  かたかたかた。指が震える。それはなんだろう、恐怖なのだろうか。今この状況ですら、死に恐怖を感じる自分自身に、怒りすら覚えた。 「……! もしかして……!」  メディスンが、僕の手にあるものに気付いたみたいだ。  止められるわけにはいかない。これは僕のけじめだから。  ありがとうメディスン。こんな僕を、罪まみれの僕を好きになってくれてありがとう。  ああ。でも。やっぱり、僕は愚かだ。最後の最後に、君に呪詛を残してしまう。純粋な君を――穢してしまうのか。 「ごめんよ。僕は……愚かだった。僕の犯した罪は消えないけど、謝るしか出来ない……ごめん。そして……ありがとう。僕は、メディスンのことが、」  右手のそれを一気に口に運んだ。躊躇なんて、すでに吹き飛んでいた。  最後に。メディスンの顔を――笑顔でないのが残念だけれど――目に焼き付けた。 「大好きだよ」  ごくんと。それを飲み込んだ。  途端に――意識はシャットダウンした。 ――……………ないで――  聞こえる声。僕は何をしていたのだっけ? ――わ…………ないで――  とても大切なものだったと思う。その声が、大切だった。 ――わ………てないで――  ああ。なんで僕はまだ僕のまま、この声を聞いているんだろう。 ――わた……てないで――  どうでもいい。その声が泣いているように聞こえたから。僕は、その声の持ち主を泣かせたくなくて――。  目を、開いた。 「捨てないで……私を、捨てないでよう……行かないで……行かないで……」  そこでは。僕の身体にしがみついて、泣きじゃくるメディスンが居た。  身体はぐったりして……今にも倒れてしまいそうな、憔悴した表情で。 「……メディスン!? 何を、何をして……げほっ!」  声を張り上げたつもりだったのに、身体が言うことを聞かなかった。これがあの薬の代償なのだろう。  それでも、少しずつ、少しずつ、身体に溜まった何かが抜けていく感覚がする……。 「……目、覚めた? 良かった」  辛そうな顔を隠そうと、笑顔を作ろうとしているメディスン。見ていられなかった。これがみんな僕のせいなのだ。  ああ。どうして、僕は何をしても彼女を苦しませてしまうのだろう……。 「僕は……」 「いいの」  メディスンは、僕の言葉をさえぎった。そして今度は本当に、笑顔になって……。僕に向かい直った。 「今、わかった。あなたが、本当に私を想ってくれた事。そして、私もあなたが好きだってこと」 「え……」  放たれた言葉は、僕にとって予想外で。  でも本当に嬉しい言葉で。でも……僕が受け取ってもいいものなのだろうかと、不安になってしまう。 「でも、僕はまだ割り切れていないんだ。またメディスンを怒らせてしまうかもしれない……」 「忘れた? 私は毒を操るのよ……。あなたのこころに、さっきみたいな自暴自棄の毒が溜まってしまったなら……私が抜き取ってあげる」 「毒……? どうやって、とるんだい?」 「こう、するんだ」  不意に。僕の唇にちいさな唇が触れた。 「……ふふふ」  ぽかん、と馬鹿面を下げている僕に、小さなスイートポイズンは笑って、こういった。 「これから、私の魅力って毒であなたの身体を一杯にしてあげるもの。私以外のこと、考えられないようにしてあげる」  ああ。僕って奴は本当に馬鹿だ。大事な女の子を不安にさせて、泣かせて、挙句こんなことさえ言わせて。  でも、これから先は。彼女を大事にすると誓おう。彼女の純粋さを。この笑顔を、ずっと見ていくために。 「大好きだよ。メディスン――」