→(開き直る) ピッ 結局、僕はあの記憶を無かったことにして、次の日を迎えることにした。 やっぱり女の子の柔肌を見るのも滅多にない経験だったから、妙な緊張が 残っていた。 「…よし、忘れた」 そう言う事にした。 僕は何も覚えていなくて、昨日の風呂場では何も起こらなかった。 と記憶を模造した。 「あぁ、ちょうど良かった」 朝一番、無意味に長い廊下で永琳さんに会った。 「ウドンゲがちょっと体調崩しちゃって…ちょっとお見舞いに行ってくれないかしら?」 「えーっと、何でですか?」 せっかく忘れようとしたことを、一瞬にして思い出してしまった。 柔らかそうな肌と…兎の耳、そして見る者を狂気に陥れるその瞳。 思い出したらまた軽い眩暈が起きる。 「…ウドンゲもそうだけど、貴方も大丈夫?」 「まぁ…一応、それで鈴仙はどうしたんですか?酷い病気か何か?」 「湯冷めしたみたいで、ちょっと風邪を拗らせてしまったみたいなの」 …多分、僕の所為だろう。 「貴方って、前からウドンゲの事を気にかけてたでしょ?だから頼もうと思って」 そう言って永琳さんは僕に風邪薬を差し出した。 「いや、僕じゃなくててゐにでも頼めば…」 「てゐは私の指示で栄養のあるものを取りに行かせたわ。私も薬の調合とかで忙しいし よろしく頼むわ」 と一方的に決め付けると、永琳さんは僕の反論も聞かずに、さっさと廊下の奥に 消えていった。 「どうしよう…」 僕の手には永琳さんの風邪薬が握られたままだった。 僕は今、鈴仙の部屋の目の前に居る。 別に疚しい気持ちなんて…少しはあるけど…。とりあえず、部屋の前から 進めないでいた。 こんな時に足が震えて動けないから、逆に笑える。 それでも、この薬を渡さないとならないのも事実で…深呼吸をして、手に人という字を 書いて、飲み込む。 これで緊張は気休め程度になくなった…と思う。 戸の前に立ち、意を決してノックしようとした。 『さっきから居るんでしょ?入ったら?』 いきなり先制を取られた。 心臓はバクバクいっているが、一刻も早く薬を渡して去ろうと戸を開けた。 「やっぱり貴方だったの?」 呆れた様子で言う鈴仙。今度は下着姿じゃなかったけど…あの時の姿がフラッシュバックした。 ダメだ。平常心、平常心。 「それで、何の用?」 前よりは刺々しくなかったけど、それでも微妙な壁を感じた。 「永琳さんに頼まれて…風邪薬」 薬は普通の粉薬だった。僕が今まで見てきたのとは違って、それは漢方薬みたいなものだ。 それを受け取ると、薄く笑って 「ありがとう」 と言った。 「それじゃ…」 予定通り、僕は部屋を去ろうとした。 腕力でも頭脳でも勝つ自信はないけど、このままこの場所に居たら 頭がおかしくなりそうだった。 彼女があまりにも儚くて、抱きしめたい衝動に駆られるが…我慢する。 「待って」 「…何?」 まさか、彼女に止められるとは思わなかった。 「少し…話さない?」 そっぽを向いて、顔を赤らめながら彼女は言った。 「あ…うん」 僕はその誘惑には勝てなかった。 「それで、わたしは兎角同盟を作ろうと思ったの」 「そうなんだ」 こんな風に二人っきりで話すって事は考えられなかった。 むしろ、今まで淡白な反応ばかりだったので、普通に話すこっちの方が彼女の 素面なのかもしれない。 「それじゃ、僕も手伝うよ」 「うん、ありがとう」 この可憐な笑顔を見ると、庇護欲というものが出てくる。彼女を守りたい。 そんな考えも出てくる。 「あのね、わたしは――」 「鈴仙〜居るー?」 鈴仙が何か言いかけたとき、戸の前から声が聞こえた。 この声…どうやら、てゐのようだ。どうやら、やっと戻ってきたらしい。 「あれ、貴方も居たんだ?」 「居ちゃ悪い?」 「いや、そんな事はないんだけど」 大体、てゐと一緒に行動すると大抵、騙されるし…あんまり一緒に居たくないんだよなぁ…。 色んな意味で、いい子なのは分かるけど。 「で、何を取ってきたんだ?」 「栄養のあるもの。とりあえず、そこら辺から取ってきたの」 「…騙し取って、とかじゃなくて?」 「あ、あはは」 この笑い方だと、間違いなく騙し取ったようだ。 「それじゃ、鈴仙。僕は部屋に戻るから」 「あ…うん」 とりあえず、僕は出て行くことにした。 『あれ、どうしたの鈴仙?そんな青筋立てて』 『どうしてだか分かるかしら?』 『え、ちょっ…待ってぐりぐりが!痛い痛い!』 僕が部屋から出て行くと、そんな会話が聞こえた。 …とりあえず、気にせずに逃げることにした。 それからと言うもの、誰かと居ると妙に視線を感じるようになった。 てゐと適当に雑談をしてても、永琳さんに本を借りたりしても、輝夜さんと 話しても、何処かしらでほぼ必ず、視線を感じるようになってしまった。 そんな折、僕と鈴仙は永琳さんの元に呼ばれた。 「…何の用なんだろう?」 「さぁ、師匠のことだし…分からないわ」 どうも鈴仙の機嫌も悪かった。 「あぁ二人とも、よく来たわね」 扉の外で永琳さんは待っていた。 「とりあえず、何の用ですか師匠?」 鈴仙の言葉に困ったような笑顔を浮かべる永琳さん。 「これから、出かけなきゃならないんだけど…薬に使える花が 今の季節じゃないと咲かないの。だから出来たら、二人で手分けして 探してくれないかしら?」 その言葉に鈴仙はちらりと僕の方を向く。 どうやら鈴仙の方は行くつもりらしいが、僕は…。 考えてみれば僕に拒否権なんてない。 そもそも居候の身だし。 「分かりました。それで、何を取ってくればいいんですか?」 「えぇ、簡単な絵を書いたメモがあるから、これを使って探してね」 そのメモを僕と鈴仙に渡すと、永琳さんは忙しそうに駆け出していった。 「それじゃ、気をつけてね」 「心配してくれるんだ」 「わたしはあなたの心配なんてしてないわよ!し、心配なんて…するわけないじゃない…」 最後の方は真っ赤になりながら小さい声でほとんど聞こえなかった。 僕が歩き出そうとすると、腕を引っ張ってそれを止め 「死なないでよ」 「死なないよ。…やっぱり、心配してくれてるじゃないか」 「か、勘違いしないの!わたしはあなたに死なれたら迷惑だし… ほら…ほ、他の子も悲しむでしょ!」 確かに掃除とかは手伝ってくれるけど…あんまり好かれてる気がしないんだよなぁ。 悪い子はいないんだけど…。 僕と鈴仙はそんな他愛のない会話をしながら。入り口に着いた。 「それじゃ、鈴仙…後でね」 「うん。また」 鈴仙は空に飛んでいった。 僕に至っては歩くしか能がないので歩き始める。 紳士として、鈴仙が飛んでいる状態から上を見上げるなんて真似はしない。 上を見ないように…僕は素数を数えて落ち着いた。 そう、僕は鈴仙と分かれたことが文字通り命取りだった。 永琳さんに頼まれた目的の植物は手に入れたんだけど…。 目の前には、僕の体の三、四倍はあるであろう巨大な妖怪が居た。 僕を天然の人間と見るや否や、いきなり襲い掛かってきたのだ。 「…どうしようか」 相手の方は嗅覚が利きそうで、隠れても無駄だということが良く分かる。 だからと言って、戦うなんていうデンジャラスな選択肢は僕の中に存在しない。 やっぱり、二人できた方が良かったのかな。 鈴仙が居れば、狂気の瞳で逃げるチャンスくらいは出来たかもしれないのに… それでも、多分…彼女はここに来るだろう。 何故か分からないけど、僕はそう確信していた。 お互いに動く事はない。 僕が動いたら、相手は即座に僕を食らおうとするだろう。 「鈴仙…」 口元から思わず、彼女の名前が出てきた。 自分から永遠亭の方に動く事で、鈴仙に会える可能性も増えるはずだ。 …傷を負ったとしても、鈴仙なら…何とかできると信じよう。 ポケットには野球ボールよりも小さい石が入っていた。 それを握り締めて、狙いすまして妖怪の鼻に当てた。 「ぐぎゃ!」 これでしばらくは眩暈くらいはするはずだ。 今が好機だろう、と僕は駆け出した。 それが、思えば間違いだったのかもしれない。 妖怪は意外に機敏な動きで、僕を追ってきた。鼻を打ってスピードが落ちているとは思えなかった。 それでも僕は必死に走る。 ザク 足が縺れた。背中に鈍痛が走った。 血を流しながら…僕は倒れた。倒れた拍子に木の根元に頭を打った。 それでもまだ、意識はある。 「ニンゲン…」 相手が近付いて来る。僕はこのまま食べられるんだろうか? 『死なないでよ』 …ゴメン、鈴仙。 謝れなくてゴメン。約束が守れそうもない… 「――波符『月面波紋(ルナウェーブ)』」 一瞬で視界が真っ赤に染まった。 そして、その聞き慣れ始めた声に、僕は少しだけ安心した。 「ボロボロじゃない。一体どうしたの?」 「…見ての通り、そこの妖怪さんにやられた」 プライドなんて欠片もない。我ながら情けないな。 「…お仕置き!」 その妖怪に次々に打ち込まれていく鈴仙の弾。 はっきり言って、蜂の巣だった。 「ぎゃぁぁぁぁ!」 その断末魔を聞きながら、僕は頭がボーっとし始めた。 ちょっと血が出すぎたみたいだ。 「ふぅ…って、何で死にそうになってるのよ!」 「…ゴメン、血が出すぎた。眠い…」 実際、意識を保つのも辛い。 「寝ないでよ!今、寝ちゃったら死んじゃうのよ!起きて…起きてよぉ…!」 ゆっさゆっさ、揺り篭のように僕の身体は揺すられた。 泣きそうな鈴仙の声を聞きながら、僕は徐々に意識を失った。 エピローグ 目が覚めると、そこは永遠亭の僕の自室だった。 どうやら生きてはいるようだが…傷が痛む事には変わりない。 「目が覚めたようね」 すぐ傍にいたのか永琳さんが目覚め早々に僕に声をかけた。 「僕は…?」 「ウドンゲに感謝しなさい。生死の境を彷徨っていたあなたを ずっと見ていたんだから」 「…やっぱり、死にかけたんだ」 「容態が安定してからも、ずっと看病を続けて、今はこうなってるけどね」 と、僕の横を指し示す。 そこには疲弊して眠る月の兎の姿があった。 「そうそう、貴方、ウドンゲの下着姿を見たそうね?」 「あ、あはは…」 バレてるよ。まぁ大方、鈴仙が話したんだろうけど。 「月の兎には面白い風習があってね…。それについてはウドンゲから聞くといいわ」 「…一体何なんですか?」 「秘密よ。とりあえず、痛み止めは置いておくわね」 錠剤を机の上に置かれる。 「お大事に」 軽く笑うと、永琳さんは外に出て行った。 「で、鈴仙、起きてるんだろ?」 「…起きてない」 狸寝入りかどうかは大体分かる。眠るのを偽ると不自然に感じるものだから。 「とりあえず、ありがとう鈴仙」 「…〜っ、別に貴方を助ける為にあの場所にいたんじゃなくて!」 「それでも、だよ」 「…言っておくけど、ただ通りすがっただけだからね!」 「分かったよ」 彼女の耳は人よりも遥かに優れている。あの時の呟きがきっと聞こえていたのだろう。 「あ、ところで…永琳さんが言ってた事なんだけど…月の兎の風習って?」 その言葉を出すと、鈴仙は真っ赤になりながら俯いてしまった。 僕、何か悪いことでも言ったのかな? 「つ、月の兎は…」 「月の兎は?」 「は、初めて肌を晒した家族以外の異性に求婚をしなければならない」 …思考がフリーズした。 あの時の行動が…まさか、こんなに事になっていたなんて。 「あ…えっと、まぁ、わたしは別にいいの。しょ、正直…他の人よりもあなたなら まだ…十分って言うか…」 「うん」 「ちょっ…」 鈴仙の華奢な身体をそっと抱きしめる。 これから守ろう。この素直じゃない兎の少女を――