「ちょ……っと、待て……ってば」  白玉楼へと向かう階段は長かった。もはや上のほうなどは霞がかかって見えない。  さっきから俺と妖夢は一定の距離を保ったままの鬼ごっこを続けている。もちろん俺が鬼。  飛んでいかなかったり、ある程度距離が離れると、やはり一定の距離までは待っていてくれるのは、俺に何か伝えようとしているのだろうか。あるいは唯の、ブラフ。 「なん、で……。さっ、きから、無視するんだ、よ!!」  渾身の叫びは届かない。  叫んだせいで余計に息が上がる。  心臓は既にパンク状態。肺はバースト寸前。足は鉛の鋳物のようだ。ランナーズハイ? なんですかそれ食べられますか? かゆ、うま。    俺は普段の通りに香霖堂の前で妖夢を見つけ、普段の通りに手を振って歩み寄っただけ。それだけでこのいつ終わるとも知れない鬼ごっこが始まってしまったのだ。  生憎と俺は妖夢にシカトされるような言動を取った覚えは無い。だが、もしかして無意識のうちに彼女を傷つけてしまったのではないか。そんな自責の念と、もう一つ、最近よく感じるなんだかよく解らない強い感情が俺を突き動かしていた。 「だ……か、ら、待て、ってば……っぶへ」  全身で勢いをつけて階段を登っていた俺は、いつの間にか妖夢が止まっていたことに気づかず、背中に突っ込んでしまう背負われた鞘にぶつかってなんとも顔が痛い。 「ゼイ……ゼイ……ようやく、止まっ……」    止まったのは俺の言葉。    俺の目の前に白銀に閃く刃があった。    俺の目の前に楼観剣が突きつけられていた。    物理的にはたったの1m弱でも、楼観剣によって隔てられたその空間は、俺には一光年にも感じられた。 「妖……む?」 「貴方は私の心を惑わしすぎる」  俺が話しかけるよりも早く、妖夢が堰を切った。  威圧感で染め上げられたその声は、聞きなれた「みょん子」のものではなかった。 「私は西行寺家三代目御庭番魂魄妖夢。我が主、幽々子様をお守りするのが私の使命」  そうか、そういうことだったのか。 「そのためには自分の命すら棄てても惜しくないのに……それなのに……」  つまり『俺が何かした』とか『俺が何か言った』とかそういうレヴェルの話ではなくて 「……これ以上、私の邪魔をするというのであれば、……斬ります」  『俺の存在自身』が立派な負荷だったのですね。  魂魄という家系に縛られ、幼くして御庭番となり、それを自らの存在価値としてきた少女。  『俺』という、完全無垢なるイレギュラーとの出会い。  もしかすると、妖夢を『魂魄妖夢』という一人の少女として接したのは俺が初めてだったのかも知れない。 「解った……」  俺は意を固めた。右手を伸ばし、目の前の楼観剣を握り締める。掌から手首、肘を伝って石段に真っ赤な血が流れるが気にしない。  そのまま引っ張ると、いとも簡単に楼観剣を俺の首に添えることができた。 「な、何を?」 「俺が妖夢の負荷になっているのなら、俺は潔く身を引くよ。でも、俺、妖夢のことがどうしようもない位に好きだから、妖夢の居ない生活とか考えられないから、だから、このまま、妖夢の手で、俺を殺してくれよ」  特に未練も恐怖も無かった。そのまま紺碧の瞳をじっと見つめる。  首に当てられた刃は、細かく震えているものの、一分も引かれる気配はなかった。 「……ないじゃないですか」  ふと、楼観剣から力が抜ける。俺も落下にあわせて手を離すと、楼観剣はそのまま無機質な音をたてて階段を転がり落ちていった。 「そんなこと、出来るわけ無いじゃないですか……。私だって、苦しくなるほど大好きなのに、そんな人のことを斬れるはずが、ない……ですよ」 「妖夢……」  大粒の涙をぼろぼろこぼして泣きじゃくる妖夢。そんな姿さえもが愛おしい。俺はその背を抱きしめようとして 「あら、まだ気が早いんじゃないのぉ?」  頭の上からの突然の声に戦慄した。 「ゆ……幽々子さま……」  その声の主は、西行寺幽々子以外の誰でもなかった。ゆっくりと俺たちと同じ段を目指して降下してくる。  のんびりとした声、雅な容姿とは裏腹に、俺の鈍い第六感でさえもがアラートを鳴らしていた。 「あらあら妖夢、どうしたのかしら? 『貴方を惑わすその男を殺してらっしゃい』私はそう命令したはずよ?」  成程。今回の黒幕の登場というわけか。  俺は咄嗟に妖夢を守るように身を乗り出す。 「申し訳……ございません」 「言い訳は良いわ。……そこの人間、貴方、うちの妖夢をずいぶん骨抜きにしてくれたみたいね。お陰で庭木の手入れは杜撰だし、ご飯は時間通りに出てこないし、いろいろ大変なのよ?」  扇で口を隠して笑う。どこか妖艶な笑みだった。 「そいつは失礼したな」 「でも、それも今日でおしまい……初めからこうすれば良かったんだけど……」  その扇を俺に向け、小さく数度仰ぐ。すると、光り輝く小さな蝶が一羽、実に頼りなさ気に、しかし俺を確実に狙って飛び出した。  アレに当たれば死ぬというのに、体は動かない。  そして、俺の胸元数cmまで近寄ったそれは、  見事半分に斬られた。  斬られたソレは綺麗な粉となり、風に舞って消えた。  残った白楼剣を抜いて、緊張した面持ちで幽々子の顔を見つめる妖夢。 「あら妖夢、貴方、主人の邪魔をするというの?」  相変わらず妖艶な笑みを浮かべて妖夢に問う。 「……もし、幽々子さまがこの人を殺そうとするのならば……私は御庭番の役職を返上しなければなりません」  一言一言を噛み締めるように、言い切った。そして続ける。 「そしてこの魂魄妖夢、(任意の名前)さんを守るためならば、冥界の主さえも切り裂いてごらんに入れましょう!!」  白楼剣を突きつけて、怒涛の勢いで叫ぶ。  しかし、それでも幽々子の表情は貼り付けたかのように全く変わっていなかった。 「……ふ、ふふ……」  が、突然身をかがめて笑い出してしまった。 「……な、何がおかしい!!」  思いも寄らない行動に思わず我に返ったのか、妖夢の顔は赤ペンキで洗顔でもしたかのようだ。  俺は全く意味が解らずに唖然とするしかなかった。 「だってぇ……妖夢ってば、本当に本気なんだもの……」  そういって笑い涙を拭きながら体を起こした。俺と妖夢はその雰囲気の変貌に思わず顔を見合わせる。 「私が妖夢の恋路の邪魔をするわけ無いじゃない。ちょぉっと試しただけよぉ?」  この台詞は、この場にいる誰もが予想だにしなかっただろう。うわ、なんだこのオチ。 「ちょっとまて……俺、それで二度も死に掛けたわけだが」  今考えると本当に意識がマッハで遠のいていくが、右手の鋭い痛みが良い感じで鎖となっていた。 「そのときは……そのときよね。妖夢がそこまでしか想ってなかったということで、ねぇ。」  空恐ろしい答えをありがとう。俺は結果オーライという言葉の意味を一番理解できている人間だと思う。 「さて、と、そこの人間…… (任意の名前)と言ったかしら」 「あぁ、以後お見知りおきを。亡霊の姫君」 「貴方と妖夢のお互いを想う気持ちはよく解ったわ。でもね、もし、妖夢を悲しませたりしたら……」  脊椎をドライアイスで固められたかのような悪寒を、視線だけで与えられた。 「まあ、そのときはそのときよね。……じゃあ妖夢、私は帰るけど、キチンとご飯の支度はして頂戴ね?」  と言って踵を返すと、音も無く消えてしまった。  妙な静けさだけがその場に残る。たった数十分前のことが今ではもう悠久の彼方で起こったのように感じられた。 「(任意のなm(ry)さん……」 「……」  妖夢がしきりに声を掛けてくるのは解っていたが、何を言って良いか解らなかった。結果として嬉しいのは事実だが過程が過程すぎて嬉しさを軽く超越してしまっているのだ。 「もう。(任意n(ry)さんてば!!」  グイと腕を引かれる。一瞬気を取られたその隙に、  何かやわらかい物体が    俺の唇に  触れていきました 「ちょ、今の、は?」 「さあ? なんだったんでしょう?」  つーんとそっぽを向いてしまう妖夢。  これからも同じときを過ごしていける。そんな何か当たり前のような事実さえも俺に幸せを与えるには十分だった。    真っ赤に染まった掌を眺めて誓う。  この幸せをいつまでも離さない。と。 了