縁側に座り、何とはなしに月を見上げてみる この家に辿り着いてどれくらい経ったのだろう? 数週間か、はたまた数ヶ月か 明日になれば我が家に帰れる… 待ち望んでいた事のはずなのに、何故か僕の心は今日の夜空と反対に何故か曇っていた ―いつもの登山、慣れが生んだ油断だったのか それとも『何か』に誘われたか どこで道を間違えたのか、気が付けば辺りは昼なお暗き鬱蒼とした森林 帰り道もわからなければ、現在の場所の把握も出来ていない いわゆる「遭難」というやつだ それからどこをどう進んだのか記憶に無いが、僕は何時の間にかその家の前に倒れこんでいた― 「隣、座っていい?」 物思いに耽っていると、後ろから不意に可愛らしい声が掛かる 「あれ… まだ寝てなかったの?」 返事を聞く前に、その女の子−橙−は僕の隣に腰を下ろした この家の前に倒れこんでいた僕は彼女に介抱を受け、そのままここでご厄介になっている 橙の主の藍さんの話によると、ここは僕達の住んでいた世界とは微妙に異なる空間に存在しているそうだ あまりに突拍子もない話だったが、事実この場所自体が僕が迷った山中とはかけ離れた景色だし、 それに現実に目の前に猫耳少女や狐少女がいては信じざるを得まい どうやらこの世界では人間・妖怪問わず男が珍しいらしく、 人間を、それも男を初めて見る橙は物珍しさからかよく僕に懐いてくれた 猫の耳や尻尾が生えているとはいえ、見た目は可憐な少女だ 可愛い女の子に懐かれて悪い気がするはずもない …日々仲良くなっていく僕等を見る藍さんの視線が凄まじく怖かった気がするのはきっと気のせいだろう 「うん… 明日には帰っちゃうんでしょ?  だったらもっとおはなししておこうと思って」 「そっか」 「…嫌だった?」 上目遣いで不安げな問いかけ この視線を拒める男がいれば是非お目にかかりたい 「まさか!  うし、それじゃ今日は一晩中橙に付き合おうか!」 「うん!」 僕の事や僕の世界の事 僕にとっては何でもない話を、橙はいつものように眼を輝かせて聞いている いつも通りの他愛のない話 …一つ違うのは、もう今夜が最後だという事 どれくらい話込んだのだろうか? 月はもう山の端に差しかかろうとしていた 最初の頃はにこにこと聞いていた橙が、時が経つにつれ口数が少なくなっていく 「そろそろ眠くなってきた?」 「そ、そんなことないよ」 「じゃあ、話面白くなかった?」 「そうじゃ… ないけど…」 それきり黙ってしまう橙 悲しそうな表情で俯く彼女に何と声をかければいいのか しばらくの沈黙の後、ふと橙が話だした 「あの… ね…  おはなしは楽しいの  けど…」 「けど?」 「明日いなくなっちゃうって考えたら…  何だか… 悲しくなってきて…」 「橙…」 「え、えへへっ!   ごめんね、何か暗くなっちゃ… きゃ…ッ」 僕を気遣い、精一杯笑おうとする橙 そんな彼女がたまらなく愛しく、僕はその小柄な体を抱き寄せた 「嫌なら、振りほどいて」 橙は顔を真っ赤にして俯いたまま、僕の腕の中で少しもがいた いくら見た目は少女とはいえ、彼女ならこの程度簡単に振りほどけるだろう それを肯定のサインと受け取った僕は、彼女の頬に手を添えそのまま口付ける 「んっ… っ… はぁっ…」 「橙…」 何故自分の世界に帰れるのに嬉しくなかったのか 気付いてみれば答えは簡単だ 僕は… この少女を愛している 人も、妖も関係ない  「今の… なに…?」 「へっ?」 「口と口… くっつけるの…」 考えてみれば当然か 男と接したのが初めてなわけだし、あの過保護な藍さんがそういう知識を橙に与えるとも思えない 「今のは… 人間が好きな相手にすることだよ」 「…あたしのこと、好きなの?」 「う、うん…  ごめん… 嫌だった?」 橙の赤かった顔が更に真っ赤になる 「い、嫌じゃなかったけど…  なんだか… 胸の辺りがどきどきしてるの…」 「俺も…」 お互い暫く見つめあったあと、橙が僕の胸に顔を埋めて呟く 「あ、あのね…  あたしも、好きだよ…」 普段の明るい元気な声とは全く違う恥ずかしそうなか細い声 その普段とのギャップに狂わされた僕は、少し橙を困らせたくて意地悪な質問をしてみる 「藍さんとは… どっちが好き?」 「えっ…?」 「僕と… 藍さん」 「そんなの…」 「決めれない?」 困惑気味の橙、さすがにいじめすぎたかな? 「上手く言えないけど… 違うの」 「違う?」 「藍さまへの『好き』と、○○への『好き』は違う『好き』っていうか…」 「…」 「○○の『好き』は、どきどきする『好き』」 まずい、可愛すぎておかしくなりそう… それからは、互いに何を話すでもなく夜空を見上げて過ごした 翌朝目覚めると天気は快晴、雲一つない青空 どうやら二人してそのまま縁側で寝てしまったらしく、橙が隣で可愛い寝息を立てている 昨夜と打って変わって、僕の今日の心はこの空と同じく晴れやかだ ひょっとしたら、今日を逃すと僕はもう自分の世界には戻れないかもしれない 家族や友人を捨てることになるかもしれない だけど、僕は橙のいるこの世界に残ろう すやすやとよく眠っている彼女の髪を撫でながら、僕はそう誓った …さて、まずは藍さんに何と言おう… happy end ?