四月一日の夜のことである。
八雲の実家に帰ってきている化け猫、もとい八雲の式の式である橙は、独り寝室で本を読んでいた。
布団にこもった状態で、枕の上でそれを開き、尻尾を揺らしてページをめくる。
近くの畳の上にも同じ大きさの本が数冊積み重なっていた。
廊下を歩く足音が近づいてきて、主である八雲藍が通りかかる。
「橙、まだ起きていたの?」
「あ、はい藍様」
橙は返事をして、主の方を向く。
藍は式が持っている本に注目した。
「それは?」
「早苗さんに貸してもらった漫画です。とっても面白いんですよ」
早苗というのは、妖怪の山にある守矢神社の巫女、東風谷早苗のことである。
橙は彼女、そして彼女が仕える神様二柱と知り合いであり、神社に遊びに行くことも珍しくなかった。
これは先日、その早苗から勧められたものだったのだが、橙はすっかり夢中になってしまったのである。
漫画といえど、外で動き回るのが大好きな彼女が読書にはまるのは、珍しいことであった。
「この本に出てくる男の子が、海賊の王様を目指して、大冒険するっていうお話なんです」
「ふむ……」
「私も外でこんな冒険ができたらいいなって……あ……」
橙は口を滑らせてしまったことに気付き、途中で言葉を切る。
主の藍は、本の一つを手に取った状態で、困ったように眉根を寄せていた。
「橙。わかっているだろうけど、私達八雲一家は、幻想郷を守るべき存在だ。ここを離れて外界を冒険することなど許されない」
「はい……」
「とはいえ、紫様にはいつか橙を外に連れて行ってあげることを、頼んであるんだけどね」
「えっ、そうなんですか!?」
まさしく寝耳に水といった朗報である。
主の主である八雲紫は優しいけれども、そういったことには藍以上に厳しそうな存在だと思っていたので、橙がいくら頼んだとしても絶対に聞き届けてはくれないだろうと諦めていたのだ。
藍はさらに続ける。
「でもそれにはまず、幻想郷のことをしっかり学んでからではないとダメ。私達八雲が外界を回るという行為は、あくまで幻想郷に悪い影響がないか確かめるためであり、あるいは幻想郷をよりよくすることができないか、そのヒントを探るためなのだから」
「はい、わかります」
橙は八雲一家としての自分の立場を、しっかりわきまえていた。
弱々しい化け猫だった自分を拾って育ててくれた主には、返しつくせないほどの恩がある。
それに最近は、八雲の一員に相応しい式神になりたいという、強い向上心も自分の中にあった。
いくら冒険する漫画が面白くても、我儘を言って外に飛び出すなどという気など起こりはしない。
「藍様、明日も修行に付き合ってくださいね」
「もちろん。おやすみ橙」
「おやすみなさい」
部屋の明かりが消え、襖の閉じる音が聞こえてから、橙は目を閉じた。
いつか外の世界に連れて行ってくれる。きっと主達は、その約束を守ってくれるだろう。
でもそれは、あくまで八雲としての仕事の延長であり、冒険とはまた少し違う気もした。
無理な話ではあるけれど、あの漫画のように海を渡ることができたら、どんな気持ちになるんだろうか。
――とっても素敵な冒険になると思うな……。
もう一人の自分について、想像をめぐらせながら、橙は深い眠りに落ちた。
〜 冒険活劇 『ヨーソローホイサッサー』 〜
ぷかぷか、ぷっかり。
ゆらゆら、ゆらり。
なんだか寝心地が、いつもと違う。
シャボン玉に乗って揺られているような、とてもいい気持ち……。
ガンガンガンガンガン!!
「こらぁ起きろ!! いつまで寝てる!!」
金属がぶつかり合う、けたたましい音と共に、怒鳴り声が鼓膜を震わせた。
さらに、頭にゴツンと衝撃を受けて、橙は飛び起きる。
「にゃにゃにゃー!?」
予期せぬ目覚ましに額を押さえ、パニックになって左右を見てみると、
「あれ? にとりさん? どうして家にいるの?」
「誰がにとりさんだ!」
フライパンと棒を左右の手に持った、その知り合いの河童――によく似た女性は、橙の顔の側で再びガンガンガンガンと盛大な音量を奏でた。
「お前みたいな半人前が私の名を呼ぶなんて十年早い! 『副船長様』と言え!!」
「わわわわわかりましたー!!」
わけがわからず、耳を押さえて何度も頷く。
と、今いる場所が八雲の実家でないことに、橙は気付いた。
まず自分が寝ているのは布団ではなく、荒縄のハンモックであった。
部屋は畳部屋ではなく、木でできた倉庫のような薄暗い場所である。
脱ぎ散らかした衣類やら食器類やらでかなり散らかっていて、お酒の臭いが漂っている。
綺麗に片付いた実家の畳部屋の寝室とは、似ても似つかぬ有様である。
「ここ……どこ?」
「寝ぼけてないで、さっさと着替えて、甲板に向かって走れ!」
「わ、は、はい!!」
「四十秒で支度しろ! さもないと雑巾のようにきっちり絞ってから、海に放り込んで鮫のエサにしてやるからな!」
「い、イエッサー!」
「返事はホイサッサーだ!!」
「ホイサッサー!!」
必死な声で返事をすると、にとりは悪態をつきながら、乱暴な足取りで部屋を出ていった。
「は、早く着替えなきゃ! じゃないと、にとりさんに海に放り込まれて……え?」
シャツを替えながら、命令を頭の中で繰り返すうちに、ようやく目がはっきり覚めてきた。
慌ててハンモックの上から床に降りる。
半開きのドアから、すり抜けるようにして外へ出ると……
眩しい日差しが顔に降り注いだ。
「わぁ」
潮風が身体を包み込み、橙は大きく息を呑む。
頭上には蒼穹の空。その下には、とてつもなく大きい水の大地が広がっていた。
深いブルーとグリーンが光を放ちながら、絶えず隆起しており、風に乗せて雄大な音を届けてくる。
水は得意ではない。けれども霧の湖よりも、ずっとずっと凄い光景に、橙は見惚れてしまった。
「こらぁチェン! さっさと動けぇ!! メシ抜きにされたいか!!」
また、にとりの声が届き、慌てて左右を見渡す。
すでに周りでは、自分と似たような服装の船乗り達が働いていた。
バケツに組んだ水にデッキブラシを浸けてから、ゴシゴシと木の床を擦っている。
見よう見まねで、橙は近くに立てかけてあったブラシを持ち、彼らに倣って働き始めた。
不機嫌そうに側でブラシを動かしている子供に、話しかけてみる。
「お、おはよう。ごめんね遅れて」
「あんたがいなくても、あたい一人で全部できたわ」
ぶっきらぼうな口調で答えが返ってくる。
その声には聞き覚えがあった。
「ち、チルノ!?」
「何よ。あたいがどうかしたの」
彼女は掃除の手をとめて、不可解そうに眉を動かす。
頭にバンダナをしているので、気づかなかった。
けれども水夫服に身を包み、癖のある水色の前髪の下にある顔は、自分のよく知る氷精のものに他ならない。
「二人ともー。サボってるとまた怒られるよー」
朗らかな声がかけられたので、そちらを見てみると、バケツを抱えて歩いている金髪の子供が映った。
いかにも人懐っこそうな笑みに、八重歯が一つ。
「ルーミア……」
「別に怒られたって気にしないわ。あいつ嫌なやつだもん。いっつも威張っててさ」
ふん、とチルノが鼻を鳴らす。
そこにまた一人、緑色の髪の子供が、服がたくさん入った籠を二つ持って近づいてきた。
「チェン、もうだいぶこっちは済んでるから、洗濯の方に来て。遅れた分、一生懸命やらなきゃ。私も一緒に手伝うわ」
「うん……ありがとう……リグル」
橙はその洗濯籠を受け取りながら、上下左右に目を走らせた。
今自分が立っている場所は、大きな木造船の上だった。
船体の中心部には、三本の大きな柱が立っており、白い帆を張っている。
木の床に転がっているのは、樽や木箱、そして太いロープに鉄鎖。
幻想郷に海はないし、こんな帆船も見たことがない。
ここは一体、どういう世界なのだろうか。とにかく幻想郷ではないことは、間違いなさそうである。
だが橙は、不思議と動転することなく、落ち着いていた。
きっと、いつもの仲良しのみんな――のそっくりさんが側にいるからに違いない。
――あ、チルノもルーミアもリグルもいるなら……。
きっと同じく仲良しの、ミスティアもここにいるはず。
橙は首を周囲に振って、期待を抱きつつ、その姿を探した。
すると……
「元気ニ働イテー♪ 美味シクゴ飯ヲ食ベルー♪ ソレガー♪ ンガベノ健康ノ秘訣デース♪ 」
「…………」
夜雀ではなく、なんだかアフリカっぽい人が、楽しそうに歌って働いていた。
橙は何も見なかったことにして、リグルと共に洗濯に向かうことにした。
と、その時である。
「サナエ船長のお出ましだ! 全員手休めー! 気を付けー!!」
にとりの声が甲板に響き渡る。
マストの近く、ひときわ高い位置にある部屋の扉がゆっくりと開き、人影が出てくる。
――早苗さん……。
それは紛れもなく、橙の知っている守矢神社の風祝であった。
だが服装は普段の巫女服とはだいぶ違う。
金ボタンのついた襟付きの角ばった洋服であり、頭には黒い扇形の帽子を載せている。
腰にはサーベルらしき鞘。まさしく、お話に出てくる船長といった立ち姿である。
彼女は下にいる船員を見下ろすことなく、緑色の髪をなびかせて、海の彼方に目を向けていた。
「風が……泣いている」
その一言が呟かれた後、にとりが大声で繰り返す。
「みんなー! 今日の風は泣いているぞー!!」
「おおー!!」
船員が皆、喝采をあげる。
橙には何のことかさっぱりわからなかったが、とりあえず「おー!」と拳を突き上げて同意しておいた。
サナエ船長は、初めて満足げに笑みを湛え、こちらを見下ろしてくる。
「みなさん。長い船旅、ご苦労様です。だいぶ疲れているでしょう。しかし最終目的地は、もうすぐ近くまで迫っています」
彼女は指を東の果てに向けた。
「私達はこれから、東にあるというあの伝説の黄金郷ジパングに錨を下ろし、英雄となるのです!!」
――伝説の黄金郷……ジパング!!
すごい冒険の響きに、橙の心臓が高鳴った。
が、
「みんな! 船長はああ言ってるが、私達の目的は近海のちっぽけな港町だ! 忘れるな!」
「ホイサッサー!!」
にとり副船長のお達しに、橙はズッコけた。
リグルが床に置いていた籠を持ち直して、肩をすくめ、
「あの船長って風運はいいんだけど、常識に疎いのよね。この船に乗っていると、たまに心配になるわ」
「そ、そうなんだ……」
確かによく見るとサナエ船長はベテランの古強者というより、冒険に浮かれている子供のような感じであった。
船の先に立ち、海を前にしてはしゃいでいる様子は、漫画で読んだ主人公のようである。
「あ、竜の巣が見えてきましたよ!」
「バカヤロー船長! ありゃメタボな雲山じゃねーか!」
ニトリ副船長がツッコミを入れ、ドッと笑いが起きる。
確かに、向かう先に大きな入道雲が見えていた。陸の上ではそうでもないが、海の上で見るとなかなか不気味な存在感がある。
「時化に食われたら大変だ。ひとまず進路を変えよう。それじゃあ……」
「面舵いっぱーい!!」
「そこはちゃんと言うのかよ!!」
またもや、ニトリがサナエにツッコミ。
すぐに掃除をしていた船乗り達が、ブラシをその場に下ろして、それぞれ別の方向へと走り出す。
「チェン! あたい達はこっちよ!」
「あ、うん!」
チルノに呼ばれて、橙は船の帆の裏側へと向かった。
慌ただしく渡された太いロープを手に持ち、言われるままに引っ張る。
「ぐぬー! け、結構重いー!」
「死ぬ気で引っ張れー!! もたもたしてると沈むぞー!!」
力には自信があったのだが、これはかなりキツい荷重だった。
掌に食い込んでくる縄の痛みに、歯を食いしばってこらえる。
その時、船内の各所で、唄が起こった。
見渡す限りの大海へ
漕ぎ出す時は今
遙かな大海原へ 面舵いっぱい
ヨーソロー!
苦しさが吹き飛ぶような、陽気な調べである。
仲間達もロープを引っ張りながら、笑顔で唱和している。
橙も張り切って、大きく声を張り上げた。
「ヨーソロー!!」
◆◇◆
この船の名前は「ミラクルモリヤ号」といい、神聖カエル帝国の小さな商船であるということを橙は教わった。
船旅というのは、気ままでのんびりしたものだというイメージがあったが、とんでもない。
一人一人が隙間なく時間を使って、皆のために働かなければいけないということを、橙はすぐに学んだ。
洗濯の最中に、進路が二度変わり、その度にロープを引っ張るために甲板に逆戻り。
船員のシャツを全て干し終えると、休む間もなく釣り餌の仕掛けをやらされ、船倉から酒樽を三つ運ばされた。
それが終わったら、若いみんなでじゃがいもの皮むきである。主から特訓を受けていなければ、指が悲惨なことになっていたかもしれない。
くたくたになり、太陽の熱さが気になり始めた頃合いで、昼食の時間がやってきた。
ニシンの燻製と硬いパン、チーズ。蒸したポテトに干しブドウ。それに固ゆでの卵が一つ。
先日補給を終えたばかりなので、これでも贅沢なメニューだという。
だが揺れる船上ということもあってか、橙の食欲はあまりわかなかった。
自室に戻り、ハンモックの上でじっと考える。
――夢ならもうすぐ、終わっていてもいいはずなのに……。
リグルと一緒に働いている最中に、試しに頬をつねってもらったのだが、しっかり痛かった。
となるとこれは現実だと考えるほかない。自分はどうしてこんな場所にいるのか。
橙の中で、こういうことをする存在は、大抵決まっていた。
自分の主人の主人であり、スキマの大妖怪である紫様である。
これは彼女が考えてくれた何かの修行で、どこかに隠れた問題を解かないといけないんだろうか。
それとも、自分が外で冒険したかったという願いを、秘かに叶えてくれたのだろうか。
しかし、船旅は思ったよりも辛そうで、これからのことを思うと不安で、最初に感じていた高揚はもう消えてしまっていた。
帰れるものなら、すぐにでも帰りたい。
「あー、チェンー、こんなとこにいたんだー」
突然扉が開き、船室に入ってきたのはルーミアだった。
「それ、食べないのー? 食べないとこのあと大変だよー」
「あんまり食欲がないの」
「じゃあいつもの場所に行こー。食欲が湧くかもしれないよー」
ルーミアは入ってきた時と同じくらい唐突に出ていく。
いつもの場所というのがわからなかった橙は、ニシンを挟んだパンと干しブドウを持って、慌てて外へ出た。
ルーミアが案内してくれたのは、マストの上の見張り台であった。
垂れさがった長い縄梯子を上っていると、上から三つの顔がこちらを見下ろしてくる。
橙は思わず声をあげた。
「ミスチー!!」
やはり帽子ではなく頭巾をかぶっているものの、桃色の髪をした少女は、友達の夜雀に間違いなかった。
彼女がちゃんとこの船にいたことに、橙は心の底から安堵した。
「働いている時に見なかったら、いないと思ってた!」
「忘れたのチェン? ミスチーは料理番だから、休憩時間と夜にしか会えないのよ」
「あ、うん。そうだったね」
すぐに話を合わせる橙。
見張り台は五人が入ってちょうどいいくらいの大きさであり、なんだか秘密基地のようであった。
橙は縁から身を乗り出して、自分達を囲む世界を見渡す。
「すごい……こんな世界、初めて見た……」
水平線に到るまで、障害物が何一つ存在しないだなんて。
この世の中心に立っているかのような、広々とした開放感に包まれる。
船の先が碧の海を切り裂いて、白い波を左右に分けながら進んでいくのが見えた。
風だけでこんなにスピードが出るというのも、この目で見なければ信じがたい話である。
「それではお待ちかねー♪」
ミスティアが果物ナイフに刺さった、黄色い果肉を差し出してくる。
くんくんと匂いを嗅いだ橙は、目を丸くする。
「パイナップル!?」
「ちょっとミスチー! これって、前の港で下ろした積荷じゃない!」
「バレたら、副船長に大目玉ね」
「バレるわけないって。あそこのお得意さん、丼勘定なんだから」
調子よく笑って、彼女は一人一人に南国の果物を分け与えた。
甘酸っぱい味が口に広がる。ただ少し塩気が強くも感じた。
そして海を眺めながらみんなで食べるパイナップルは、格別なご馳走であった。
「いつかこの五人で、ジパングを見つけられたらいいわね……」
リグルが遠くを見ながら、ぽつりとこぼす。
ミスティアが小さく吹きだして、歌い始めた。
「本当にあんな伝説信じてるの〜♪」
「あたいは信じてるわ! ジパングにあるお賽銭箱には、ものすごくたくさんの金貨が詰まってるのよ!」
「天使様が住んでいるっていう白いお屋敷に行ってみたいのだー」
「私はお宝よりも、みんなとそういう冒険がしたいってだけだけど、ミスチーは来ないの?」
「うーん、信じてないけど、みんなと一緒に行けたらいいわね」
四人が笑う姿を見て、橙は不思議な感情を抱いた。
ここにいる友人たちは、皆が共通の夢を持っているように見える。
幻想郷では、こんなことはなかった。自分はあくまで八雲の橙であり、彼女達とは違う立場にいる妖怪だったのだ。
けど今の自分は……ここにいる自分はどうだろう。もしかして、みんなと同じ志を抱いて、生きていけるというのだろうか。
「ねぇ。チェンの夢は何?」
「え、私は……」
聞かれて橙は、答えに迷った。
頭を過ぎった八雲の家の風景が、潮風の向こうに霞んでいって……。
その時である。
「ねぇーあれって何かなー」
ルーミアが遠くの方を指して言った。
さっきまではなかった、怪しげな赤い雲が海上にある。
雲はこちらに向かってきており、その下には、黒い船影がかすかに見えた。
「大変!! 早く鐘を!!」
リグルが血相を変えて叫び、ミスティアが大急ぎで上にあった鐘を叩く。
カン カン カン カン
にわかにミラクルモリヤ号の船員たちが、甲板に飛び出してくきた。
その中には、副船長のにとりの姿もある。
「どうしたー!? 何があったー!!」
「『クリムゾン』です!! 間違いありません! こっちに向かってきます!!」
騒然とした船内に、さらなる緊張感が走った。
「すぐに取り舵だ! 船長は風をお願いします!」
「もちろんです!」
「何とか振り切るぞ! 捕まったら全員お陀仏だ!」
全員お陀仏。
それを聞いた橙に、全身の毛穴が開くような恐怖が襲い掛かってきた。
目がいいルーミアを残して、四人はすぐに見張り台から下りた。
船の方向を変えようと持ち場へ向かい、渾身の力でロープを引っ張る。
三角の帆がたわみ、斜めに傾いていく。
だが、その帆の方向をさらに変えるかのごとく、風が逆方向から強く吹いた。
にとりが喚き立てる。
「ちょっと! 船長、風が逆ですよ! なんであっちに向かうんですか!」
「今日こそあの異教徒どもを海の藻屑にしてやるんです!」
「こっちの装備で勝てるわけないでしょう!! 『セイレーン』船との戦いを切り抜けてから、もう砲弾も火薬もわずかなんですよ!」
そんなこんなで大騒ぎをしている間に、船はみるみる赤い雲に向かって近づいていった。
「あれが……クリムゾンデビル……」
隣にいたリグルが、がたがたと震えて呟く。
強気だったチルノも、表情に焦燥を隠せていなかった。
赤い雲を傘にして進む、巨大な戦艦。それはとてつもなく大きく、悪趣味な帆船だった。
全身が真っ赤に塗装されており、帆には蝙蝠の羽を耳替わりにつけたドクロのマークが描かれている。
砲身が船の横から何門も突き出ており、血まみれのハリネズミを思わせる禍々しい姿である。
やがて、向こうの船員たちもはっきりと見える距離まで近づいてくる。
――あれは……。
橙は大きく息を呑んだ。
その船に乗っているのは、いずれも見たことのある人物だったのである。
赤い長髪をなびかせ、たくましく日焼けした腕を組む、背の高い軽装の女性。
銀の髪を三つ編みにして、ナイフらしき刃物を指に挟んでいるメイド姿の女性。
そして、船の中心にある玉座に腰掛けているのは、アイパッチを付けた幼き美貌の少女であった。
サナエ船長よりもさらに仰々しい、黒い船長服を身にまとっている。
彼女が立ち上がった。
次の瞬間、赤い影が海上を鋭く横切り、橙達の乗っている船に到達した。
『跪け!! 貴様たちの命運は、我らがクリムゾンデビルの手の内にある!!』
小さな背丈が百倍も大きく感じられるような、圧倒的プレッシャーである。
橙達の周りにいる船員たちも、一も二もない様子で膝をつく。
「ダメです! 異教徒の言うことなど耳にしてはいけません!」
サナエ船長が負けじと声を張り上げた。
瞬間、海賊クリムゾンデビルの船長が彼女の元へと走り、レイピアを抜いた。
「いざ勝負!」
「望むところ!」
サナエ船長もすぐさま小剣を抜く。
一合、二合、しかし三合目の金属音はなかった。
「えいえい! この! あれ!?」
滑って転んだサナエ船長は、階段の手すりに頭をぶつけ、すぐに気を失ってしまった。
ふっ、とクリムゾンデビルの長は鼻で笑い、赤い瞳で睥睨する。
「積荷は当然我らのもの。食料も貴金属類も残らず全部だ。私の傘下に下るものは生かしてやる。ただし、逆らえば当然、この船に首から下を残して置き去りにしてやろう」
淡々と恐ろしいことを述べつつ、彼女は視線を走らせた。
「船長と副船長は船においても目障りなだけだ。クラーケンの餌食にでもしてやるか」
「ひゅいっ!? そ、そんな!」
気絶したサナエに代わって、ニトリが絶望の表情となる。
「そこのお前もだ! なんだか気に食わないから、同じく餌食にしてやる!」
「ヒュイッ!? ソ、ソンナ!」
アフリカ系の船員が、なぜか嬉しそうに諸手をあげる。
「さて、お前たち船員の答えを聞こうか。この船に忠誠を誓うか、あるいは私に命を預けるか。船長が敗れた今、刃向かう者などいるまい」
「私がいるよ!!」
「ちぇ、チェン!」
思わず名乗り出た橙を、友人たちが引き留めようとする。
「ほう……」
海賊の頭は目を細め、こちらに一歩一歩近づいてきた。
「クリムゾン一家を前にして、そんな啖呵がきれるとはな。蛮勇にしても興味深い。名を聞かせろ」
「私の名前は橙! 乱暴はやめてレミリアさん!」
「なっ!? き、貴様、どこでその名を!?」
「だって知ってるもん。銀とか雨とか日光とか、ピーマンが苦手なこともね」
「ぬぅ!!」
胸元をえぐられたように、レミリアは顔をしかめた。
すかさずレイピアを抜き、橙に突きつける。
「我が秘密を知る者となれば、生かしておく選択肢はないな!」
「こっちだって、これ以上みんなに乱暴するなら絶対許さないよ!」
「ふん、お前に何ができるというのだ!」
「こうするってことよ! 方符『奇門遁甲』!!」
橙は弾幕を放つ。
ただし、方向はレミリアでない。お互いの船の上を覆っていた、雲を目がけて攻撃したのである。
赤い霧を裂いて、小さく穴が開き、一筋の日光が降り注ぐ!
「ぎゃおー!!」
レミリアは体から煙を吹いて、転げまわった。
『お嬢様!』
『そんな、まさか!』
クリムゾンデビル号に乗っている者達から、動揺の声が上がる。
そして、ミラクルモリヤ号の船員達は歓声をあげた。
「今です! そこの悪魔をやっつけて、リヴァイアサンの餌にしてやりなさい!」
「サナエ船長が、このタイミングで復活した!?」
ニトリ副船長が驚愕。
そしてサナエ船長の命令を受け、乗組員たちは皆武器を手にして、レミリアに向かっていこうとした。
「待って!」
橙はその前に立ちふさがり、彼女達の行動を諌めた。
「乱暴はよくないよ! サナエさんも無事だったし、私達は何も奪われてないじゃない!」
「でも……」
彼女達は迷った様子で、こちらと倒れている敵船の長を見比べる。
レミリアは半分くらい焦げていたが、日光が再び消えた後に、苦しそうに復活を始めた。
「ぐぐ……なぜお前は私を助ける」
「だってもう勝負はついてるし……」
「まだだ! まだ私は負けを認めていない!」
「それにレミリアさんは、本当はいい人……じゃなかった。いい吸血鬼さんだって知ってるから」
橙の言葉に、レミリアは目を真ん丸にして、口元を引き結んだ。
しばらく視線がぶつかり合った後、やがて彼女はがっくりとうなだれる。
「なんという器の大きさだ。認めよう、お前の勝利だ」
「当然です! モリヤは正義です! モリヤが勝つと決まっているんです!」
「お前に負けを認めた覚えはない!」
すかさずレミリアが、サナエ船長に食って掛かる。
とそこで、友人たちが橙の元に駆け寄ってきた。
「チェーン! 凄かったわ! あのクリムゾンデビルに勝っちゃうなんて!」
「あたいのライバルだけあるわね!」
「凄かったのだー」
「これならみんなでジパングを目指せるわねー♪」
「ジパング……だと?」
サナエ船長と取っ組み合っていたレミリアが、驚いた様子でこちらを見る。
「チェン。お前も私と同じく、ジパングを目指しているというのか」
「え!? レミリアさんも!?」
「いや……私にとっては、とうに捨てた夢だ。あの地にたどりつくには、あまりにも厳しい試練が待ち受けている」
「お嬢様ー!」
十六夜咲夜そっくりの海賊と、紅美鈴そっくりの海賊が、こちらの船に乗り込んできた。
「大丈夫ですか! 急いで手当を!」
「なに……かすり傷だ」
「でも半分焦げてますわ」
「かすり傷だ。それよりサクヤ、メイリン。私はもう船長ではない。我々をジパングへと連れて行ってくれるであろう、新たな英雄を見つけたのだ」
レミリアが薄く笑い、橙の方に向かってうなずく。
サクヤもメイリンも。そしてチルノ、ミスティア、リグル、ルーミアも。
ニトリもサナエも。ミラクルモリヤ号の船員も、クリムゾンデビル号の船員も、こちらを向いていた。
「新たな船長、チェンの誕生だ!」
彼女の宣言を呼び水にして、万歳、ホイサッサーの声が上がった。
やがて歓声は船を包み込み、波の音を消すほどにまで大きくなる。
しかし、
「みんな、ごめんなさい!」
橙は喜ぶみんなに、頭を下げた。
「私は……本当は……この世界の存在じゃないの。帰らなきゃいけない場所があるの」
顔を上げて、戸惑う彼女達に、橙は正直に訴える。
「冒険は好きだし、みんなのことも大事に思ってるけど、でも私はチェンじゃなくて橙。いずれは八雲の名前を継いで、幻想郷を守らないといけない」
橙はさらに、この世界に向けて伝えた。
「だから私は、幻想郷を選びます! 『紫様』!」
「あ、あれ……?」
このタイミングで、きっと目が覚めるんだろうと予想していた橙は、呆然と周りを見た。
何やら不思議そうな顔をしている皆が、揃って首を傾げる。
「一体何の話だ、チェン」
「え、なんで、目が覚めないの?」
「よくわからないが、お前は私達を、ジパングに連れていってくれはしないのか」
「えっと……」
夢がまだ続いていることに、橙は戸惑い、返事をすることができない。
そこでサクヤが、レミリアに向かって言った。
「お嬢様。このチェンであればきっと、エイエン岬の試練である、にんじん地獄も耐えられるかもしれませんわ」
「にんじん地獄!?」
あまりにも不穏な響きに、橙は跳び上がった。
レミリアは暗い顔でうなずく。
「兎達が特製のにんじん料理を、一人あたり百人分振舞ってくれる恐るべき試練だ。私は二皿でギブアップしたが、お前なら……」
「や、やだよ! にんじんはそんなに好きじゃないもん!」
「チレイ湾に棲む心を読む怪獣トラウマも倒せるでしょうね。そんなに恥ずかしい過去を持っている感じはしませんし」
「は、恥ずかしい過去!?」
「あとは地獄の総大将とうたわれる番人、スーパーゼンコーとも戦えるに違いない。生涯に嘘をついた分だけ、棘つきの棒で尻をフルスイングで叩いてくるのだ」
「でもこのチェンは正直者なようですし、おそらく回数は少なめかと」
「そうだな! チェンよ期待してるぞ!!」
二人は弾けんばかりの笑みを見せる。
再び、「ホイサッサー!」の大合唱が二つの船の間で起こった。
一方の橙は顔から血の気が引いていた。
幻想郷に、もう帰れない。
にんじん地獄が、怪獣トラウマが、スーパーゼンコーが待っている。
そう思った瞬間、暗黒の海に引きずり込まれていくような気分となり……
「……う、うわーん! 藍様ー! 紫様ー! 幻想郷に帰してー!!」
ホイサッサ! ホイサッサ!
と皆に祭り上げられながら、橙は大泣きして、世界に訴えかけたのであった。
◆◇◆
八雲家の居間には、一台のテレビが置いてある。
小型で古いタイプのものだが、きちんと手入れされており、画質は今もなお鮮明で、ビデオデッキまでついていた。
スキマ妖怪八雲紫は、炬燵に足を入れて横になり、その画面を見つめていた。
「ああ……感動的なお話ね」
ハンカチを目元にあて、紫はそう鼻声で呟く。
襖が開き、「お茶が入りました」と、彼女の式である九尾の妖狐、八雲藍が入ってきた。
「おや、珍しいですね。外界の映画か何かでしょうか」
「ええ、そうよ。海賊の冒険譚」
「となると、あの有名なパイレーツ・オブ……」
「いいえ。『ヨーソロー・ホイサッサ』」
「………………」
座りかけた九尾の式は、ジト目で主の方を見つめる。
「『今勝手に作りましたね』、とか言いたそうな目付きね」
「失礼いたしました。今日はエイプリル・フールですし、また適当なことをのたまったのかと」
「これはちゃんとした映画よ。主人公は元気いっぱいの、猫の女の子でね。ジパングを目指した船乗りだったのだけど、仲間たちと一緒に海賊に捕まってしまうわけ」
「ははぁ、猫の女の子が海賊に」
湯飲みとお茶菓子を炬燵の上に用意しながら、藍は応える。
外界の実写映画にしては、少しファンタジックなストーリーである。
「でもその女の子には、ある種の才能があった。海賊たちも、それまでの仲間も、彼女の元気と優しさに惚れ込んでしまって、その猫の子を船長に祭り上げて、幻の黄金境であるジパングを目指すわけ」
「なんだか面白そうなお話ですね。橙にも後で見せてあげようかな」
「そうねぇ。でも橙は気に入らないかもしれないわね。この物語の結末」
紫は何やら意味ありげな笑みを頬に浮かべる。
藍は不審に思って、ブラウン管をもう一度見てみた。
『藍様ー! 紫様ー! 幻想郷に帰してー!!』
海賊達に祭り上げられ、大泣きする式の顔が、アップで映っていた。
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- 投稿日時:
- 2012/04/01 23:55:36
- 更新日時:
- 2012/04/04 01:18:34
- 評価:
- 9/23
- POINT:
- 88779565
- Rate:
- 739829.92
まさしくこの企画って感じでした
てんやわんやなノリが楽しかったです
本編での橙の可愛いらしさもさることながら、相変わらず仲良さそうな藍様と紫様が見れて嬉しいです。
兎たちの試練は、実はおもてなしのつもりなんじゃ……
そしてしっかり冒険活劇しててかわいくて面白かったです。
船旅の様子が丁寧だったのが良かったです。
いやー、面白かった。パイルドライバーが特に。ありがとうございます。