散歩をしようと少女は告げた。
いつものように、柳が微風に揺れるような微笑とともに。
小川のせせらぎに似たぬばたまの髪をそっと横顔から払い、夜の透き通った空の下へ。
八意永琳は承諾を返し、そっとしのぶように楚々と歩く少女に従った。
歩き続ければ竹林を抜ける。そこに天蓋をさえぎるものは何もない。とほうもなく遠くに吊り下げられた夜がある。
夜は明るい。
星星のまたたきが螺鈿のように全天を占め、薄雲はあいまいな地平線から夜空を渡って立ち昇る。また地平線へ向かって。夜と影の境界はおぼろげで、それをはっきりとさせるのはほかならぬ雲自身だった。星たちのちらちらとした輝きを身に孕んでわずかに白亜を表せば、どこまでも続いているような夜空を天地に分ける。
夜は明るく、影は暗い。色鮮やかだった大地は黒瑪瑙の世界に自らを隠し、だがそれすらも欺瞞だ。輝きは影を薄める。真実の暗黒などどこにもなく、めまいがするほどの星光が絶えることなく大地に降りて、蒼い夜が広がっていく。まるで深く原初をたたえた始まりの虚空のように。
星海。
星たちは夜を奏でる。
ひとり天を見上げ続ける少女には誰もいない。みずからの足跡を振り返るように独り。美しい静寂の旋律が少女のまわりを終無き舞踏の夜気が戯れ、しかし少女は独り、だれともなにとも触れ合えず、硝子の向こう、残酷な冷気に満ちた無音の世界から吊り下げられている。
夜空という書き割りの裏側で、月が少女のつむじを見下ろしている。
夜は往く。朝へと向かって。少女は二度と動かない。永遠の静止、変わる事の無い北斗、暗黒の基点、月のもうひとつの貌。少女の主観は客観で、八意永琳にもそれは理解できない。
本当は少女に名など無いのかもしれない。永琳には少女の顔が見えない。夜を見上げる少女の後姿はいつもとかわらず折れそうな細さで、冷え切った超新星の肌は触れずとも視るだけで冷ややかだ。それもかりそめに過ぎないのだろうか。夜を見上げる少女が一瞬星の記憶にも無いような姿をしている気がして、永琳は寒々しい吐息をついた。
――師匠
姫様
どちらにおいででございますか
――こちらにはいないかね
――どうして速く教えてくれなんだ
――お前がぐうたら寝ているからだ
「ウドンゲ……てゐ?」
遠く、星光とどかぬ鬱蒼とした竹林よりか細く聞こえる呼び声に、永琳は身体をむけて答えを返した。兎の耳は善く音を拾う。瞬きの間に竹林から兎が二匹夜を浴び、軽やかに跳ねながらやってきた。それほど遠く歩んでいたのかと、永琳はわずかに小首をかしげて迎えた。
言伝もなしに居なくなられては心配します、と兎は言う。
だそうだから、今度からこいつに首輪付けとくと良いよ、と兎は言う。
言い合いを始めた兎二匹の騒々しさに少女が心持ちを害するのではないかと振り向けば、かわらず夜を見上げている。まるで兎の声が聞こえて居ないような。あまりにも単純な隔意はそれゆえに強い。千の昼と一億の夜を乗算するほど世をすごし、傍を歩いた永琳にも、そのはらかたにはなれぬのだろうか。
――いけない。今夜はあまりに美しすぎる。
虚空に想いを馳せてしまう。我が意よ飛べと念じてしまう。無罪の罪はしかし夜空に対して小さすぎ、そして永琳はそれにあがらう事が出来ない。彼女は少女でないゆえに、ただ聡明さだけでは従えられぬほど今夜は深い。
だから月も隠れている。自らを失うことにおびえている。空はそんなことを気にしないのに、それが分かっていながら隠れてしまう。
なのに少女は夜を見上げる。なにもかもの基点であるように不動で、しかし巡る天を見上げている浮動。
少女が遠い。
まぶたを伏せたくなるほどに。
「永琳」
無音の虚空に響く鈴の音、極光の絹糸を思わせるありえざる美しさの、それは少女の声だった。
はい、と永琳は答えた己の声色の醜さを恥じた。なんでしょう、と続けた不要の音の連なりは岩塩のように不釣合いで寒々しい。
「私はあなたの姫様かしら」
かわらず夜を見上げる少女に永琳は喉がほどけていくようなきもちを覚え、
「もちろんですとも」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「よかった」
ちいさな言葉の応酬は二人のこころに安らぎを齎した。齎しているだろう、と永琳は思い、ふと前を見れば言い合いを止めてやりとりを聞いていた兎二匹が首をかしげている。
年季が足りないわね――と永琳は冗談めかした言い回しで、兎は首を益々かしげ頭をかいた。
また、振り向く。少女は変わらず夜を見上げている。色鮮やかさを夜という衣で包んだ果て無き海を。
ああ見ほれているな、と永琳は思い、過ぎ去っていくひとときを愉しむことにした。
素晴らしいとだけ。
幻惑的な言い回しがあの素晴らしい絵と調和しており、夜空を見上げる四人の姿が鮮やかに浮かびます。
あの輝夜は一体何を見ているのでしょう。
夜の果てを見通しているのか、時の果てを見据えているのか、それとも明日の晩御飯に想いを廻らせているのか……どれでもあり、どれでもなく、ひょっとしたら何も考えてないのかもしれないけれど。
まぁ、それが故に姫なのですがw
絵板へ行った。
もう一度読んだ。
一粒で二度美味しかった。お互いが。
これはすばらしい。
いつもながら、あなたの語彙の豊富さと情景描写の素晴らしさには舌を巻きっぱなしです。
これもきっと一枚の風景画。
永遠に近い年月を生きた輝夜達が、夜空に投影する思いとは一体何なのか?
まったく想像つきませんが、きれいだという思いだけは一瞬であれ皆共感できたのかなあ。
最後の掛け合いが、輝夜の存在証明のような気がする。
私がいて、あなたがいて。
お月様は、穏やかな夜のぬくもりの中に、しっかりとあったのですね。
都会で美しい空を見れるなんて感激です。