Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

あやのおはなし

2012/10/11 23:03:07
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「お断りいたしたく思います」
「だが、射命丸よ。これはおそらく、間もなく正式に公布される。頷いてもらいたい」

 凛とした若い鴉天狗に、身体の大きな、若い天狗よりも立派な翼を持った天狗が困ったように言葉をかける。

「正式に公布されましたら、それに従いましょう。ですがそれまではお断りしたく思います。これは私の仕事ですから」
「むう……」

 説得しようとしていた天狗――大天狗は低く唸る。
 頭ごなしに命じてしまうのは簡単だが、そうも出来ない理由があった。

「お話は以上でございましょうか」
「……そうだ。行って良い」
「それでは」

 丁重に一礼して、鴉天狗はその場から姿を消した。その速さに、大天狗は再び大きく息をつく。

「射命丸。その名に違わぬ、いや相応わしい者であるのは皆わかっておるのだ」

 だから、と、届かぬ声で、大天狗は呻いた。





 天狗の上下関係は厳しい。上司の命令には本来完全に従わねばならない。
 最速の鴉天狗、射命丸文も、それをまた熟知してもいた。
 熟知してなお、彼女は上司たる大天狗の要請を断っていた。
 命令には完全服従。だが、要請である以上、それを断ることは不可能ではない。
 彼女はそう考えていて、そしてそれはまた事実であった。
 その凛とした美貌に一分の気の緩みも見せぬまま、彼女は空を駆けている。
 何も思っていないような表情で、飛び続けている。




 幻想郷が閉じられるよりも遙か前のことである。
 この頃、未だ天狗の仕事は細分化されてはいなかった。
 すなわち、鴉天狗もまた、白狼天狗と同様哨戒の任に着いていた頃である。
 鬼がいなくなり、天狗の天下となった山において、天狗の威を示すにはそれは有効であった。
 だが、時が経つにつれ、もっと良い方法がないかという議論もまた同時にされるようになった。
 そこで、目を付けたのが『情報』であった。
 天狗が情報を握り、拡散できるのだとすれば、それは大きな武器となるだろう。
 その役に最適なのはどの天狗か、という議論には早々に決着が付いた。
 その速さと機動力から、最も情報収集能力に長ける存在――鴉天狗である。




 当然、鴉天狗からの反発があがった。哨戒という任を誇りに思っている者は多かった。
 公的ではないにしろ、上からの達しと言うことで従う者も少なくはなかったが、内心では白狼だけに任せておけるか、という思いを抱く者もまた、少なくなかったのである。
 その彼らのある種の旗印とも言えたのが射命丸文であった。
 『射命丸』。それは元来、文が持っていた姓ではない。
 哨戒として、また外敵が入ってきたときに討つ者としての鴉天狗のうち、彼女は目覚ましい功績をたてていた。
 侵入した者は見逃さず、一迅の風となってそれを討ち、一閃の刃となってそれを刈る。
 いつしか、最速の鴉天狗は彼女なのではないかという言葉すら囁かれるようになり、それが上層部の耳に入るまでそう時間はかからなかった。
 射命丸の姓は、その結果に賜ったものだった。『命を射る者』。それを受け取ったときですら、彼女は淡々としていたといわれる。
 彼女はただ諾々と職務をこなしていただけに過ぎなかったから。そしてそれに誇りを抱いていただけだから。
 故に、正式な要請があるまで、文は仕事を止めるつもりはなかった。
 それは鴉天狗の中で反対する勢力の旗手となる結果を生んだ。必然ともいえる結果だった。
 彼女を無理に従わせれば、鴉天狗の中に反発がでるのは必至。組織である以上、押さえつけた反動は、それぞれの部署間の反発に繋がるに違いなかった。
 それは組織として非常に不健康な状態―― 一触即発ともいえる状態になる。
 天狗という組織としては、非常に望ましくなかった。




 文はそういうことにまだ興味がない。彼女はまだ若かった。
 上が正式に動くならば、それにも従うつもりではあった。だが、非公式な要請に応える義務はないはずだった。
 自身の影響力など知らなかった。知る必要もなかった。
 名を誇りに思い、職務を誇りに思いながら、それが周囲に与える影響を知らなかった。
 それはあまりに幼いとも言えただろう。だが、真面目で融通の利かない、この少女らしいとも言えた。
 彼女がある程度の融通を利かせられるようになるまでには――悪くない意味でのいい加減さを手に入れるまでには、まだ時間がかかるのは明白だった。
 そして、これが認められていた――ある程度野放しにされていた事実は、彼女がそれなりに、好まれていた証でもあった。
 それすらも知らないまま、少女は空を駆けている。





 事態は動かないまま、年月だけが経つ。
 そしてとある秋がやってきた。
 全てが変わる秋がやってきた。





 山が騒がしい。木の上で身を横たえていた文は、それを敏感に感じ取って目を開けた。
 耳を澄まし、状況を把握するために鴉を放つ。呼びかけに応えて、カア、と鳴く鴉は無数にいたが、適当な数匹だけを飛ばした。
 あまり多くを飛ばすのは目立ちすぎる。文は横になったまま、それらが帰ってくるのを待った。
 小半刻もしないうちに戻ってきた鴉達の報告を聞き、彼女は目を細める。

「これだから白狼は」

 憎々しげにも聞こえる声色で、文は小さく呟いた。
 白狼に仕事を全部任せろという要請に文は能動的に従ってはいなかったが、それでもどの程度の哨戒能力かと手を出すことを控えるのもしばしばになっていた。
 だが、この体たらくを見よ、と思う。山を覆うざわめきに、文は冷たい眼差しを向けた。
 事態は把握している。
 山に子供が入り込み、それを追って退治屋の人間が入り込んだ。
 そしてどうやら狡猾なことに、匂いを獣で誤魔化しているらしい。
 風下を通るように、匂いを誤魔化して。

「手法としては妥当」

 悪くない手法だが、その程度に誤魔化される白狼でもあるまい。
 大方、哨戒範囲の境界上でどちらが取るか逡巡したのだろう。鴉天狗にもよくあった話である。
 だがそれならば事後承諾的に動けばよいだろうに。ここで逃がしては天狗の威信に関わるではないか。
 文は木の上で横にしていた身体を起こし、翼を羽ばたかせて宙へ舞い上がった。
 目を細めて辺りを見回す。今となってはもう哨戒している鴉天狗はほとんどいない。
 それに何を思ったかわからぬ瞳で、彼女は飛び回りながら周囲を警戒し――見つけた。
 若い青年が、子供を抱いて走っている。文の瞳はそれを捉えた。ぴたりと止まると、そちらに向かって矢のように飛ぶ。
 青年が近付く文の気配に気が付いた瞬間、彼は足を滑らせた。
 滑ったのはおそらく故意ではない。動揺が形になっただけのこと。
 だが、そこからは違った。青年は体勢を立て直して立ち上がるのではなくそのまま転がり、山の下にまろび出たのだった。
 良い判断だった。山から外に出れば天狗は追ってこないし、走るより遙かに速い方法だった。
 息を切らす青年の前に、文は降り立つ。

「運が良かったな、人間」

 彼女は皮肉げな声色で告げた。全くその通りだったからだ。
 あのまま走っていれば、文の手によって二人の命はなかっただろう。

「もう少し早ければ、私がその首を刈り取っていたが」

 茫然と見上げる人間の青年と、彼に抱きかかえられ震えている子供に、文は傲然と続ける。

「去ね。そして二度と天狗の領域に近付くな。次は命のないものと思え」

 鋭い声と、眼光。それに射すくめられているように、青年は動かない。
 それを冷ややかに一瞥し、文は翼を広げ、山へと帰っていった。







「……本当に白狼にお任せになるので?」
「転換期には物事がすべては上手くいかぬものだ。気を静めよ」
「はっ」

 僭越だった、という思いを表すように、文は大天狗に対して一礼した。
 人間を取り逃がしたことの報告とともに、文は白狼の手落ちを厳しく追及した。文が追わなければ、逃した報告も遅れただろうと。
 しかし、舌鋒は鋭かったが悔いも混じっていた。瞳の奥には、逃した者達に対する苛立ちと憤りが見える。それはおそらく、自身にも向けられているのだろう。

「だが、この度のこと、白狼の手落ちには間違いあるまい。私より通達しておこう」
「はい」
「……正式な公布は一両年には行われるはずだ。心しておいて欲しい」
「……かしこまりました」

 大天狗の静かな言葉に、文もまた静かに応じた。
 このときは、それで収まった。





 数日後。再び山がざわめいていた。

「……また入ってきた?」

 文は目を細めて報告をした鴉に告げる。鴉は一声鳴いて、是、と応えた。半ば怯えているその鴉を再び放ち、文は空に舞い上がる。
 先日見逃した存在ならば、自分の手でしとめなければならないと思った。
 逃すきっかけになったのは確かに初動の遅れではあるが、最後に逃した文にも責任はある。
 今日は、何かを目指すように走っているらしい。白狼も追っているようだった。
 青年は何かを探すように走っている。前回何かを落としでもしたのだろうか。入らなければ、命までは落とさなかったのに。
 手にした山刀で下草を払いながら、青年は走り続けている。文はその姿と走る先を見据えると、翼を広げて旋回した。
 紅葉で染まった木々の中、文はゆっくりと降り立つ。先回りして止めようとしたのだった。

「…………ああ」

 はたして、人間はそこに現れた。文は振り向く。青年は、唖然としたような表情でこちらを見ていた。
 近くの鴉達に手を振り、見つけたことを他の天狗達に知らせるように合図する。
 そうして、紅葉の舞い散る中で、二人は相対した。一歩踏み出した文の足下で、落ち葉が乾いた音を立てる。
 その声に弾かれたように、青年は一歩進み出て――呟いた。

「…………見つけ、た」
「見つけたのは私だ。人間よ、何故再び立ち入った。次はないと言ったはずだ」

 文の問いに、青年は応えない。ただ茫然と、文を見つめていた。
 そこにある感情が恐れでも畏れでもないと認識し、文は訝しげに目を細める。

「……ここまで入ってきたのは見事と言おう。だがここまで」

 文がこれほどに獲物に対して声をかけたことはこれが初めてであった。
 それは何かを感じたからなのか、文自身にも不明瞭だっただろう。
 小太刀を向けたときも、青年は身動き一つしなかった。ただ、どこか茫洋としたままであった。
 その瞳には、文しか映っていないことに、彼女は気が付かない。

「……これ以上は無粋か」

 静かに呟いた。青年は何も聞こえていないようにさえ見える。
 何を思い、何の目的で入ってきたかを問いても、おそらく何も返ってこないだろう。
 ならば。
 文は小太刀を構えて、青年に狙いを付ける。だが、青年は手にした山刀を構えもしなかった。
 何もしないのならば、いっそ好都合。文は翼を軽く広げて、青年に肉薄し――小太刀を、流れるような、優美とさえ言える仕草で突き出した。
 心の臓を、ただ一突き。痛みを最も少なくするのが、唯一の文の慈悲。

「っ、あ、ぐ」

 青年の口元から、呻きにも似た声が零れ落ちる。
 慣れ親しんだ感触が文の手を伝う。もう数など忘れ去ったほど感じてきた感触。
 後はこのまま、返り血を浴びぬように引き抜けばいい。それもまた慣れきってしまっていた。
 そう、慣れていた。獲物の最期の表情を見ることすらも、慣れて――

 ――視線を上げた文の瞳に飛び込んできた表情は、悲嘆でも苦痛でもなかった。
 死への恐れでもなく、天狗への畏怖でもなく。
 その感情は、文にとっては、あまりにも。

 動けなかった文に、青年の手が伸ばされる。
 彼は、自身の生命などどうでも良いような瞳のまま、文の翼に、ただ、触れた。
 何よりも精巧に出来た、壊れやすい細工を触るかのように。
 何よりも大切な宝石に、その手を触れさせるかのように。
 そして、血が滴る口唇から、小さく音を漏らした。
 文にも聞こえるか聞こえないかの音で、小さく、一言だけ。

「……ああ、なんと」


 ――うつくしい。


 文は目を見開き、小太刀を抜きながら、青年からよろめくように離れる。普段の彼女からすれば、無様にも程がある動き。
 青年は微笑を浮かべたまま、無惨に血を吹き出しながら、どうと、倒れた。
 返り血に天狗装束を紅く染めながら、文は口唇を戦慄かせる。
 何故戦慄いているのか、自分にもわからないまま戦慄き続ける。
 その震えはいつしか全身に伝染し、文は自身を強く抱きしめた。
 まだ温もりをもった血に塗れながら、震え続けた。



 彼女は知らなかった。
 知らずに生きていた。
 彼女にとって外敵は獲物。
 ただ狩り、刈る対象。
 だから。

 ――だから、最期の、あれは。


 文は口唇を噛みしめ、喉の奥で呻きをあげた。
 死微笑を浮かべたまま動かぬ青年を見つめたまま、声ならぬ声を上げ続けた。






 数刻後。文は血も落とさぬまま、執務室のある庵に着いた。大天狗は大抵ここに詰めているはずだった。
 秋の夜風が涼しいこの時期、庵の戸を閉ざしている者などいない。
 縁側に近い房室の明かりは灯っている。庭先からでも会うことは出来るはずだった。
 予想していた通り、その房室で大天狗が幾枚もの書状を手にしているのが見えた。

「失礼いたします、大天狗様」
「射命丸か、今は……」

 制しようとした大天狗の声は、良い、という御簾の向こうから聞こえた、何者かの声に遮られた。
 そう、御簾がかかっている。普段はそのようなものはかかっていない。ということは、その奥にいるのは――
 文は何となく、その存在を察する。察しながらも、文は進み出る足を止めなかった。

「汚れた身で、御前に失礼します」

 さすがに庵には足を踏み入れず、庭先の地面に片膝を立てて深く頭を垂れる。
 無礼にも程がある自覚はあった。だが、だがそれでも、文は伝えなければならなかった。
 たとえ、ここで手打ちにされても、伝えなければならなかったのだ。

「何があった、射命丸よ」
「先日の人間が入り込みまして、討って参りました」

 声にも顔にも表情はなく、淡々と文は言葉を紡ぐ。

「そうか、ご苦労であった。して、何用であろう」
「はい。哨戒から情報収集への任の変更、謹んで承りたく存じ、また大天狗様には御迷惑をお掛けしたことを恥じ、こうして参った次第でございます」

 大天狗は微かに瞠目した。文からそう言い出すとは到底思ってもおらず、正式な公布まではどうしようもないと考えていたからであった。

「……そうか。わかってくれたことを私は嬉しくも思う」
「付きましては、一つ、お願いが」
「何だ、言うてみよ」

 表情の無いまま顔を上げ、お言葉に甘えまして、と、文は告げる。

「射命丸の名、返上いたしたく思います。この名は元より敵を討つことでいただいたもの。これよりの私には合わぬものと」
「それは」

 大天狗は絶句する。射命丸の姓は彼女の功績により与えられたもの。それを返上するというのは余程のことだった。

「まあ、待て」

 静かな声は、御簾の向こうから響いた。落ち着いた、若い女性の声であった。

「その話は急ぐことも無かろうよ。ともかく、血を落として参れ。その話はまた後日で良かろう」
「…………」
「お主が落ち着く時間も必要だろう。今日はもう休むが良い」

 文は再び深く頭を垂れると、その姿を消した。

「よろしいので」
「良いのだよ、あれで。混乱しておる状態で言葉を重ねても意味はない」

 御簾の奥の声は、微かに笑っているようだった。

「まあ、職務を移ってくれるという言質が取れたのは良しとしよう」
「かしこまりました。では、こちらもよろしくお願いします」

 大天狗は一礼し、手にした書を御簾の向こうに差し出した。






 装束を脱ぎ捨てて、文は水に身を浸した。
 二度と落ちないのではないかと思われた血は、呆気なく流れていく。
 それを見つめながら、彼女は静かに息を吐いた。
 激情は遠く、水の冷たさが身に沁みる。

「……わたしは」

 静かな呟きは、夜の静寂に溶けていく。
 大天狗に告げたことを、後悔しているわけではなかった。
 自分にはもう、資格はないのだと思った。そう思った。
 何故そう思ったのかは、文にも判然としない。
 水面を赤く染め、そして徐々に薄くなっていく血を眺めながら、彼女はじっと立ちすくんでいた。
 薄くなる血をすくい、手の指の間からこぼす。何度も何度も繰り返す。
 月明かりが水滴に反射して、きらきらと光をまとった。それをぼんやりと見ながら、文は同じ動作を繰り返す。
 その、ある種の儀式にも似た行動は、急に響いた声に止められた。

「着替えもないままに水浴びか」
「っ!」

 文は身構えようとして、木立の中の少女の姿に気が付いた。
 その気配を、存在を認識して、何者かを悟って、今度は畏まろうとする。

「私はただ散歩しにきた者だ。気にするな」
「……左様ですか」
「そうだ」

 静かに、水の中で佇む文と、木に背を寄りかからせて立つ少女。
 長い黒髪と静かな美貌を湛えた少女は、文に水浴びを続けるよう促した。
 血は、もうほとんど落ちている。それでも文は、頭からもう一度水を被った。

「……魅せられたのかもしれないな」
「魅せられた……?」
「独り言だ、好きに聞け」

 少女は淡々と呟く。その瞳は、遠く月を眺めていた。

「たまにおるのだよ。何かに魅せられたかのように山に入る者が」

 文もただ淡々とそれを聞いた。文の眼下で、水面に映った月が、揺れて、流れて、形を取り戻す。

「何に魅せられたかなど知る者はおらん。ただ、何かに誘われるようにやってくる者はおるものだよ。どのみち、我らが討つしかない者だが」
「…………」
「あるいは気狂いなのかもしれない。我らに知る術はない」
「それは」

 文は思わず口を開いた。今日遭ったことが、彼女の中を駆け巡っていた。

「……知ったのか、お前は?」
「それは……」

 少女の問いに、ふるふると文は首を振る。自分が奪った命。その命が最期に口にした言葉。
 わからない。わからなかった。

「……わたしは、わかりません」
「そうか」
「わからなくて――わからないです」
「まるで子供の論理よな」
「はい」

 冷えきっているだろう身体を晒したまま、文は悄然と頷く。
 その子供のような様子に、少女は仕方なさげに、軽く微笑んだ。

「ならば、探すがいいさ」
「探す」
「幸いにして、鴉天狗が就く仕事は多くのものを見る。その中で、ついでに探してみるのもいいだろうよ、射命丸」
「……その名は」

 初めて、文の言葉に困惑が混じった。討つものでなくなった自分には、その名は過ぎたものだと思っていた。

「命を写す者」

 唐突に、少女が口にした言葉に、文は目を丸くする。

「は……?」
「射命丸。主の名だろうよ」

 そう、少女は静かに微笑った。永きを生きた者の、文の知らぬものを見てきた者の、深みのある微笑みだった。

「命を写せ、射命丸。射てきたその量を、それ以上を」
「……謹んで、お受けいたします……」

 もう一度水を頭から被って、文はそう応えた。ぽたり、と、その身から水が滴り落ちる。
 その無礼も不作法も、少女は止めなかった。それでよい、と言うように、軽く頷いた。
 文の身体から滴る水滴は、静かに水面に波紋を広げていく。それは、確かな何かの始まりを示していた。




 それは一人の鴉天狗が、命に恋をした話。
 これは一人の鴉天狗が、命に魅せられた話。
 ただ、それだけの話。




 かくして、射命丸文が非公式ながら鴉天狗が広報に移ることを是としたということで、鴉天狗内の反対勢力の声は小さくなった。
 射命丸さえ納得したのだから、それなりにやりがいはあるのやもしれない、という話さえ立った。
 文自身はそれにさえ興味はなく、ただ諾々と自分の新たな仕事に向かって準備を始めていた。
 そんなある日のことであった。

「これは?」
「写影機、というらしいです。河童の技術者連中に頼んだとかで、今現在、鴉天狗に配布されています」

 文の元に、伝令の天狗から写影機が届けられたのだった。

「使い方は、同封の書に書かれているそうで。よくはわかりませぬが、風景や妖を絵として残せるらしいと」
「……そう」

 文はそれを手にし、いろいろ触りながら、伝令に礼を言った。

「ありがとう。これからも仕事があるのでしょう」
「まだ届けるところがあります故」
「ご苦労様」

 文の言葉に一礼して、天狗は荷物を抱えてまた飛んでいった。
 それを見送りながら、文は写影機を天にかざした。真新しいそれは、陽に照らされて、綺麗に輝く。

「……命を写せ、か」

 ふわりと、その秀麗な顔に微笑みが浮かんだ。
 そして、きびすを返し、室内に戻っていく。その手には、しっかりと写影機が抱えられていた。




 そして文は撮り続ける。
 彼女が恋したものを撮り続ける。






 そして、数百年の時が過ぎた。

「……まだわかりません」

 草原の片隅。無造作に置かれている岩に酒をかけながら文は呟く。

「まだ、私はたどり着いていないのです。あのとき私が抱いたものが何なのか」

 傾けていた徳利を戻して、文はそれに蓋をしながら目を閉じた。

「……ここに貴方が眠っていないのも、貴方の魂もないのもわかっていて、ここにきている私は酔狂なのでしょうね」

 息を吐き、涼しい風に髪をなびかせて、文は独白を――誰かに向けた独白を続ける。

「……酔狂を続けたい想いはあります。おそらくこれからも。私が尽きるまで」

 その言葉は風に乗って、どこかに散っていった。誰にも届かない声。どこにも届かない声。
 それでよかった。それだけでよかった。
 これはただの、文の原点回帰なのだから。
 一つ大きく息をついて、彼女は瞳を開く。
 優しげに微笑んで、その場を離れようとして――思い出したように、パシャリ、と一枚写真を撮った。
 それは何の変哲もない風景。
 文は普段風景を撮らない。風景よりも、人妖を撮った方が楽しいし、何よりネタになるからだ。そうでないものはすぐに破棄してしまう。
 だが、その一枚を、文は大事そうに懐に入れ、岩に背を向けて翼を広げた。
 



 優美で力強いその翼を広げて、最速の鴉天狗は、今日も空を駆けている。
 幻想郷が閉じてなお、彼女はまだ空を駆け回っている。
 彼女が魅せられた何かを、ずっと追い求めて。
射命丸文という天狗は、とてもかっこよく美しいと思うのです。
ねこかり
http://nekokagerou.web.fc2.com/
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
作者さんの、美しい理想が溢れていますね。
こういう話も、アリだと思うなあ。
2.Fenchel削除
こういう話、とても好きです。
派手なエピソードや大立ち回りではなく、微妙な心の機微を表現している良作だと思います。
かっこいいですね。