Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

霍仙人、簪を持ち帰ること

2012/06/28 20:39:32
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 大周の特使霍桓が渡来したのは大宝四年のことだった。
 この男、実は仙人である。北斉の時代から姿を変えることなく暮らしているという。
 仙人としての格は中の下くらいであったが、頭脳明晰で学識豊かな彼に教えを請おうと若き文人達は彼の屋敷に集まり、宮廷官僚として出世したのちも事あるごとに彼を頼った。こうして政界との繋がりを持つことでまた人が彼の元に集まる。いつしか「中華の大事の裏に霍仙人の影あり」などと言われるようになった。
 とはいえ政治の表舞台に立つことは好まず、今まで隠遁生活を営んできた彼がどうして大周の特使として日本に来たか。それには彼の家庭の事情が関係していた。
 霍桓には今より百年ほど前に日本に渡った妻がいた。名を青娥という。ようするに彼女を探しに来たのである。
 青娥もまた仙人でその実力は夫を遥かに凌ぐが、素行に少々問題のある人物であった。良くも悪くも我欲に忠実な彼女は事あるごとに問題を起こし、中華の仙人界隈で居場所がなかった。さりとて夫の庇護下でじっとしているのも退屈だというので屋敷を離れ海の向こうへ遊びに行った。五十年もすれば飽きて自分の元に戻ってくるだろう、そう霍桓は考えていたものの実際にはその倍の月日が流れても妻は帰らず、痺れを切らして動くことにした。
 もっとも純朴、というよりむしろ天然、な性格をしている彼は愛想を尽かされたなどは思いもせず、彼女が戻らぬなら自分が会いに行けばいいと安直に思っていた。
 そうした個人的な事情は隠しつつ、特使として帝に謁見した。それから連日朝廷の有力者に招かれては盛大な歓迎を受けた。早く妻の所在を掴みたい霍桓としては内心うんざりとしていたが、日本に滞在して四日、思わぬところで手がかりを得ることとなる。

「霍殿はなよ竹の輝夜姫の噂をご存知ですかな?」
「いえ、なんでしょう?」

 突拍子のない話を振られ霍桓は不思議そうに相手を見た。目の前に座っている今宵彼を招いた男、従二位藤原不比等は事細かに語った。

「ここ藤原京より少し離れたところにさぬき郷という地があってそこに竹を取って暮らしていた翁がいましてな、三年、いや四年前か、彼は光り輝く竹を見つけたという。恐る恐る近づいてみると中に美しい稚児がいた。その子は翁の元でみるみる美しい姫君へと成長した。すなわちなよ竹の輝夜姫であるが、その美貌は出自が出自だけにか人ならざるもので西施や王昭君を超えている、という噂でして」
「西施よりも美しいと?はははこの国の人は冗談がお好きなようで」

 霍桓は笑ってみせたが一方でこの話に引っかかりを感じていた。輝夜姫が竹の中から現れたというが、竹は尸解仙の術で肉体の代わりにする物品として使われることを彼は知っていた。人ならざる美しさというが実際に人ではなく仙人の類ではないのか?と考えを巡らしていたところ不比等に熱のこもった口調で話の続きを聞かされた。

「冗談? それならばどれほどよかったか! ……まぁ最初は私も半信半疑でしたがね、石上右大臣殿、当時は中納言でしたかな、彼らと共に垣間見るまでは。私達に限らずこの国の男は皆して求婚したがやつめは頑なに断った……」
「高嶺の花というやつですか」
「意地が悪いのですよ。それでも諦めなかった私含む五人に対し姫は難題を出しそれを解いたものに嫁ぐとのたまった。私には蓬莱の玉の枝を探して持ってくるようにと。蓬莱の玉の枝はご存知ですかね?」
「ええ。伝説級の代物ですね。確かに意地が悪い」
「他の者達も同じくありもしないものを持ってくるように言われたのだ。馬鹿正直に探しに行って病にかかる者、大金をはたいて贋作を掴ませられる者……愚かな者ばかりでしたがね。その点私は細心の注意を払い本物そっくりの模造品を造らせ献上したのです。姫さえ気づかぬほど精巧なものをね。だがそれでもあやつは拒んだのだよ! 約束を破って! 私はとんだ恥をかかされてしまった……」

 この男は嘘をついている、霍桓はそう直感した。おそらく実際には偽物と見破られたのであろう。彼はここ数日話した相手の中ではこの不比等が最も知性的で政治の才能が有り学問にも通じた優秀な人物だと評価していた。他の官僚たちが豪勢な食事、派手な演芸を振る舞うだけだったのに対しこの男だけが政治や文化について語り合うことを求めた。その一方でやたら自分の知識をひけらかすことから虚栄心が強いという印象も抱いていた。
 それはさておき霍桓は輝夜姫について仙女ではないかという疑いを通り越して妻の青娥本人のことだと確信していた。男を弄ぶのはいかにも彼女のやることに思われるし、何よりそこまでして求婚を断るのは自分という旦那が存在するからではないのか、いやそうに違いないと。ならば話は早い。会いに行って確かめれば片が付く。

「ふむ、ならば貴公のために私が姫君を説き伏せてやりましょうか」
「それはそれは有難い。ちょうど霍殿に頼んで彼女の元へ行ってもらおうと思っていたところでしてね。しかし頼みたいことは説得ではない、すなわち私に恥をかかせたあの女に罰を与えてほしい」
「残念ですがそれならば引き受けられませんね」

 霍桓は露骨に不愉快さを表した。一度女に振られたくらいで逆恨みとはなんと器の小さい、好きになった相手なら何度逃げられようとも必死で追いかけるものだろう、ええ?彼は心の中で不比等を罵った。それを感じ取ってか、不比等も高圧的な態度に出た。

「ほう、自分から言い出しておいて拒むか。唐人は約束を守らないとは正しい伝聞であったか」
「そもそも約束が違うでしょうよ」
「どのみちお前は私の言うことを素直に聞くしかないのだがな、霍桓。いや霍仙人。中華を影から操る邪仙よ。貴殿の素性を明らかにされたくなければな」

 霍桓は一瞬驚くも、すぐに平静さを取り戻して言った。

「……人聞きが悪いですね。しかしまぁこの辺境の島国にいてよく調べ上げたものだ」
「遣唐使を何のために再開したと思っておる。官僚でもない男が特使と偽ってでっち上げた勅書を持って行った、そうとわかれば中華の面目は丸潰れ、かの残虐な聖神皇帝閣下は容赦せぬであろうよ」

 聖神皇帝、またの名を則天武后とは唐王朝から権力を簒奪した悪名高き女帝である。そんな彼女が烈火のごとく激怒している様子を思い浮かべて霍桓は嫌な気分になった。

「はぁ。私を招くのに数日待ったのは帰国した密偵から情報を聞き出す時間を設けるためでしたかな。しかし勅書の偽造をも見破るとはいやはや」
「この不比等を舐めるなよ道化が。貴殿の命運は今私の掌の中に握られている」
「小国の一家臣ごときが私を脅すかい? 笑止千万、井の中の蛙大海を知らず。もし私以外の仙人が相手でしたら己が傲岸さゆえに毒杯をあおるところでしたね。まぁいいですよ。私ならば姫君の居城がどれほど強固な壁に覆われていようと中に入ることは容易い。落としてしんぜよう」

 不比等の口元に笑みがこぼれる。

「褒美はどんなものでも望むままに取らせよう」
「ではよい時間なので早速向かいます。案内をお願いしたい」
「気の早いことだ……おい、馬車を出せ! そうだ今すぐだ! 霍殿を送って差し上げろ」

 バタバタと藤原家の使用人たちが動き回る音が聞こえてくる。霍桓は不比等の依頼が気に食わないし叶えてやるつもりはないが、輝夜姫=青娥に会うには言う通りにするのが一番だろうと考えた。すぐに出発することにしたのは一刻も早く妻に会いたいのは勿論だが、やはりこれ以上長くこの不快な男の顔を見ていたくなかったからだ。
 辺りはすっかり暗くなって冷え込んでいた。息を白くさせながら霍桓は用意された車に乗り込んだ。





 夜の竹林には魔物が蠢いていた。
 けれども霍桓を乗せた馬車は彼の仕掛けた護符のおかげで妖の餌食となることもなく、差し込む月の光を頼りに輝夜姫の住まう屋敷へと一直線に向かっていた。
 遠目で屋敷の灯りが見えるところで馬車は止まる。そこで霍桓は降ろされた。

「後は霍殿にお任せするとのことです。それでは我らはここでお待ちしておりますのでお早めにお戻りください」
「ふむ、君のご主人様は私の技をも知っているということか……気に食わん男だが情報収集の重要性を認識しているという点では褒めておこう、そう伝えておけ」

 そう言うと霍桓は気配を消して竹林の中の屋敷へと足を運んだ。正門は閉ざされ、兵士が三人ほど警備に当たっていた。彼らに見つからないように細心の注意を払って裏手の壁の前に立つと、霍桓は小さな鑿を取り出してそれを壁に突き刺した。
 するとそこを中心に円状の大きな穴がぽっかりと開いた。霍桓がその穴を通って屋敷内の潜入すると、穴は瞬時に塞がり元通りとなった。霍仙人お得意の壁抜けの術である。彼が初めて妻に会いに行った時もこの術を使っていた。その時の思いを重ね合わせ、目前の再会に胸を躍らせながら、霍桓は愛しの姫君の寝室を目指した。
 目的の相手を見つけることは容易であった。霍桓はそれなりに長く仙人をやってきた手前人ならざる者特有の気配を察知することができた。

「会いに来たよ青娥。さぁその愛らしい顔を見せてくれ!その悩ましい体を見せてくれ!」

 重ねられた畳の上に伏している姫君に近づいて、覆い被さる着物を勢いよく剥がすと、長い黒髪の少女の艶やかな姿が露わになった。

「……青娥?」

 霍桓は首を傾げた。自分の知っている妻の髪は名の通り深い青で、それにもう少し胸がたわわだったからだ。そもそも顔がどことなく似ているところはあるものの記憶の中の妻とは合致しない。
 しかし厄介なことにこの男、少々思い込みが激しく近視眼的なところがあった。彼は輝夜姫が青娥であると確信してしまった以上、すぐさま彼女が仙術で別の姿を取っているのだとして自分を納得させた。

「ふふ、今の青娥も中々どうして可愛いじゃないか」
「ん……おじいさん? ……どうし、あれ?」

 姫は物音に気づき目を覚ました。そして目を擦りながら辺りを見回すとそこに見慣れない若い男がいて、自分の衣服を持っている。次に発する言葉はもう決まっていた。

「夜這い!? ちょっと誰か!」
「し、静かに……違うんだその」

 大声で叫び人を呼ぼうとする姫の口を霍桓は慌てて抑える。

「僕だよ僕、霍桓! 君の愛する旦那だよ!」
「もごご」
「つれないなぁ、知らんぷりだなんて。新手の余興か何かかい?」
「んぐごごむごごご」
「もしかして百年で僕の顔忘れちゃった? まぁ仕方ないよなぁ青娥はそういうとこあるものね。いや怒ってないよ」
「げほっごほ」
「あ、ごめん息苦しいよね」

 霍桓は姫の口を塞いでいた手をどかす。姫は大きく深呼吸した後困惑した様子で言った。

「多分貴方は勘違いをしています」
「君こそ僕を賊か何かと勘違いしてないか? 霍桓だよ。君の旦那の」
「私は結婚なんてしていません」
「何を言っているんだい。君は僕の妻の青娥じゃないか」
「違います。私の名は蓬莱山××。ここでは輝夜と呼ばれています」
「まーたそんな嘘ついて僕を困らせて、青娥」
「だから違いますって」
「青娥でしょ」
「違うわよ!」
「その突き刺すような視線、まさしく僕の愛しい妻そのもの……あぁ、もっと豚を見るような目で僕を見てくれないか!」

 輝夜は強く霍桓を睨みつけるが、それでも動じないどころかむしろ喜んでいるようだから始末が悪い。呆れた彼女はやけくそ気味に言う。

「はいはい、もう私が青娥って人でいいですよ。ただし今からすることを見てなおそう思うなら」

 いやらしい笑みを浮かべる霍桓の前で輝夜は胸元に手を当てると、次の瞬間腕力だけで体を抉り心臓を掴み、取り出して潰して見せた。血が飛び散り畳を真っ赤に染め上げる。

「なんてことを……」

 突然繰り広げられた凄惨な出来事に驚く霍桓だがさらにそれを越える驚愕が待っていた。ふらりと倒れた輝夜の体に近づき見ると、ぽっかり空いた空洞には先程潰されたはずの心臓があって、見る見るうちに傷口も塞がっていくのであった。しまいには死んで当然だった輝夜は息を吹き返し何事もなかったかのように微笑してみせた。

「如何?」

 もう霍桓は先程のような惚けた顔をしていなかった。彼は輝夜の着物を拾って彼女に渡すと、真剣な口調で話しかけた。

「瞬間再生……私や妻はおろか名のある天仙ですら到底できぬ技……失礼した。改めて問おう、あなたは何者だ?」

 衣服をさっと纏い輝夜は冷ややかな声色で答えた。

「元月の民、そして不老不死の薬を飲んだ大罪人、蓬莱山輝夜よ」
「成程。確かに青娥じゃあないな……うん……あぁ、先程は取り乱してすみませんでしたはい」
「わかればよろしい。用が済んだならとっとと出て行ってくれる? 勿論今話したことは他言無用で」
「青娥……どこ行っちゃったんだよ青娥……せぇがぁ……」
「あ、あの霍桓さん?」
「えぇあ……ひっく」

 いつの間にか霍桓はぼろぼろと涙を溢していた。ついには子供のように大声で泣き出してしまった。

「困ったお方ね……そうだ。霍桓さん、私に手掛かりがあるのだけど」
「……なんでしゅ」
「風の噂で聞いたのだけど都には稗田阿礼という過去の出来事に詳しい者がいるそうですわ。その人に聞けばきっと貴方の探し人についての情報を得ることができると思うわ」
「ひえだ……?」

 霍桓は涙を袖で拭き、少し落ち着きを取り戻した。

「その人はこの国の官僚なのか?」
「ごめんなさい、詳しくは知らないの。ただ藤原のやつが……あいつのお気に入りでね」
「藤原……なら話は早い。屋敷に戻って会わせてもらおう」
「あらあら立ち直りの早いこと。本当困った方ね」

 輝夜が笑うと霍桓も表情を柔らかくした。

「あぁそうだ、私は藤原のやつからあなたを懲らしめるよう言われていたのだが、どうしようか」
「それなら……ちょっと待ってて」

 輝夜はさっと服を着て部屋を出るとしばらくして人の顔くらいの大きさの木箱を持ってきた。

「この中に私の宝物が入ってます。これを盗ってきたと言って渡すといいでしょう」
霍桓は中身が気になって木箱を開けて確認すると、途端に笑い転げた。
「こ、これは……あはははは、確かに意地が悪い」
「ふふふ」
「なんじゃあさっきから、かぐやーまだ起きておるのかー」

 遠くで輝夜を呼ぶしわがれた男性の声がした。

「いけない、おじいさんが目を覚ましたわ。さぁ早く」
「おっとすまない。では大変失礼した、麗しき月の姫。もし私が妻より先にあなたと出会っていたら、きっと求婚していたでしょう」
「その時は一番厳しい難題を出して差し上げるわ。ではさようなら、愉快な地の仙」

 霍桓は軽い足取りで部屋を出て庭に降り立った。そして屋敷の方を一瞥すると行きと同じように鑿で壁に穴を開け通り抜けた。
 闇夜の竹林を歩きながら霍桓は考えていた。稗田阿礼、恐らくその者は歴史家であろう。妻青娥がこの国に渡ってきたのは百年ほど前。今より割と近い時代だ。青娥の性格からしてきっと何かをしでかしてるには違いないのだから、たとえ霍青娥という名前が記録に残っていなくとも彼女の痕跡を見つけることは容易い。
 問題はその稗田阿礼から話を聞いて、事態が良い方に進むかどうかであった。元来楽天的な霍桓も流石に心配になっていた。青娥の悪事がバレて封印されたと聞かされでもしたら、自制心を失ってしまうかもしれない。次第に足取りは早くなっていった。

「あ、お疲れ様です。如何でした噂の輝夜姫は」

 戻ってきたところ馬車をひく従僕に声をかけられたが霍桓は無視して乗り込んだ。しかしすぐに彼は慌てた様子で降りてきて従僕に話しかけた。

「中に童がいるんだが、どういうことだ!」
「へ? あぁ娘さんのことですか。また屋敷を抜け出して来ていたので捕まえました」
「はい?」
「申し訳ありません。窮屈だとは思いますが何卒勘弁を」

 従僕に押されて霍桓は再び車に詰め込まれた。狭く暗い中、じっと自分の方見つめる子供と二人きりになって息が詰まるとはこのことであった。そんな彼の気も知らず、馬は軽やかに竹林を離れていく。

「えーと君、藤原の子? 名前はなんて言うんだい?」

 黙っているのも気まずいので話しかけてみる霍桓だが、相手の返事はない。黙って見つめるのみである。

「どうしてあそこにいたんだい?」

 しかし返事はない。

「私は……僕は霍桓って言うんだ。海の向こうから来たんだ。僕の国はすごく広くてね……」

 相手を怖がらせないよう親しみをこめて語りかけてみるもの、やはりだんまりである。諦めて霍桓も黙ったところ、唐突に娘は口を開いた。

「仙人様。お願いしたいことがあります」
「んにゃ!? 君、どこで僕が仙人だって……それはまぁいいにしてもお願いって何だね?」
「私を弟子にしてください!」
「断る」

 即答だった。しかし娘は諦めきれず食い下がる。

「私どうしても仙術を習いたいのです」
「他を当たれ」
「そこをなんとか」
「駄目」
「どうしてもですか……」
「駄目なものは駄目」

 厳しく突っぱねる霍桓を娘は涙目で睨みつけるがどうしようもない。

「悪く思わないでほしい。僕はこの国にずっといるわけじゃないし。人に教えられるほど格も高くないし。それに仙人に弟子入りなんてそんないいものじゃないよ。人間としての生を手放すことになる。最低の親不孝だ。君はお父様を悲しませたいのかい?」

 霍桓は諭すように言うが娘は相変わらず不満そうに彼の方を見た。それから少し溜めてから言った。

「親不孝じゃない……と思います。だって私はお父様のために仙術を学びたいのだから。私には名前がない。本当は生まれてきてはいけない子だったから。だから仙人になって」
「お父様に認められたい、かい? 大体わかったよ。君は私生児か何かで父親から疎まれている。けれど彼に振り向いてほしくて、健気にも報いろうとしている。今日こんなところにいたのはさしずめ父の栄光に泥を塗った輝夜姫に嫌がらせをして褒めてもらおうとでも考えていたのだろう」

 娘は図星だという風に顔を赤くした。

「ならなおさら君を弟子にとるわけにいけない。あんな男のためにその身を犠牲にさせるわけにはいかないな」
「そんな!」
「まぁ落ち着いて。けど僕は君をこのままにしておくのも可哀想だと思い始めている。ちょっと失礼……あった、これを君にあげよう」

 そう言って霍桓が娘に渡したのは一枚の札であった。そこに易経の卦が書かれている。馬車に貼られている護符と同類であった。

「退魔の離符。使ってしまっては一回きり、けれど本気で仙術を身に着けたいならこれをよく調べてみるといい。簡単に複製できるようになるだろう。僕も最初はこの鑿をもらって独学で学んだからね」

 霍桓はさっと愛用の仙術道具を取り出して見せる。けれど娘の視線はもらったばかりの札に釘付けであった。思わず霍桓はクスリと笑う。

「お気に召したかな」
「あ、ありがとうございます仙人様!私きっと仙術を身に着けてみせます!」
「ははは、まぁそう頑張らなくてもいいよ」

 もう娘は屋敷に着くまで一言も喋らなかった。ずっと札を見つめてはニヤニヤしていた。まるで乳母の胸に必死で吸い付く乳飲み子のように集中していた。
 一方で霍桓はというと、藤原の娘の姿に自分の子供達のことを思い出していた。霍夫妻には息子二人娘一人いたが皆人間として生き、人間として死んでいった。
 きっと彼らは自分達のことを、そして仙人という存在を嫌っていたのだろう。霍桓はそう考えていた。お世辞にも良い父親とは言えなかったし青娥は尚更であった。子供が生まれても自分達の生活が優先だった。やがて子供が一人立ちするまで育てるのが面倒になった青娥は子を宿しても壁抜けの術で取り出してヤンシャオグイの術に利用していた。
 もっとも霍桓からすれば、青娥もやはり母親で子との生き別れが辛く思うが故に産まないという選択肢を選んでいる、なのだが。
 青娥自身は仙人になって家を出て行った父親への憧憬から仙人の世界へと飛び込んでいったのだが、自分達の子供はそうはならなかった。すなわち自分は青娥の父のようにはなれなかったということだ。

「嫉妬しているんだ、きっと」

 霍桓は呟いた。かつて養父に対して抱いた感情。それが今度は娘にあそこまで慕われる藤原不比等へと向けられている。

「あの男は、やはり気に食わない」

 藤原の娘のキラキラした瞳に映る男の姿を見て、霍桓は溜息をついた。そして馬が土を蹴る音だけが残された。





 翌朝、霍桓は昨夜の件を報告するために例の木箱を持って藤原不比等の屋敷に参上した。
 待ちかねたとばかりに迎えた不比等の方は見向きもせず霍桓は昨日の娘の姿を探したが見つからなかった。それも当然だろう。彼女は表向きは藤原の娘でもなかったのだから。

「何かお探しですかな霍殿」

 含んだ言い方で不比等に話しかけられ、霍桓は渋々応じた。

「稗田阿礼という人を探しているんですよ」
「稗田? ああ、稗田か!彼女は今日は来ておらんよ。何か用があるのかね」
「えぇ、件の褒美としてその人をお借りしたい」

 不比等は下品に笑った。

「がはは、霍殿は物好きですなぁ。奴めは齢五十を過ぎた婆ですぞ。もっと若くて美しい女子を所望すればいいものを」
「百五十年を生きる私からすれば十分お若いですよ。まぁ冗談はさておきある噂を聞きまして、この国の歴史を知る者なら稗田を置いて他にいないとかかんとか」
「厳密に言えば暗記の天才なのだよ。一度覚えたことは決して忘れないという。その能力を買われて先々帝に膨大な歴史資料を暗記させられたわけだ。その知識を貴殿も欲しているのであろう」
「えぇまぁ」

 古来より権力者は歴史書の編纂を好む。それは自らの正統性を後世に示したいからだ。そのためには膨大な資料を纏める者が必要である。成程その稗田阿礼とやらはその任にうってつけの人材だなと霍桓は思った。

「すぐにでもお取次ぎ願いたいのですが」
「いいだろう、使いを送って来させよう。しかしだな……」
「えぇわかっています」

 そう言って霍桓は木箱を不比等に差し出した。

「姫君が大切にしている宝を取って参りました。今頃向こうは慌てふためいて探し回っていることでしょう」
「いい気味だ」

 不比等は嫌らしい笑顔を浮かべた。だが箱を開けた途端その顔から笑みは消え、見る見る青ざめていき、やがて怒りで真っ赤になった。

「……ふふふざけやがってあのくそあまぁ……」
「どうかされました?」

 箱の中身をすでに見ていて、なおかつそれの意味を知っている霍桓は湧き上がる笑いを堪えて平坦な口調を作って言った。木箱の中に入っていた物、それはまさしく不比等が輝夜から持ってくるように言われた蓬莱の玉の枝そのものであった。

「いいいいいやなんでもない。なんでもないぞ」

 不比等は始めから全て輝夜の手に踊らされていたことを知って内心怒りで煮え滾っていたが、ここで醜態を晒すわけにはいかないと平静さを装うとした。とはいえ霍桓には丸わかりであるのだが。

「た、大義であった。ももう下がれ。稗田にには来させるから」

 不比等の声はぶるぶる震えていた。

「よろしいので?」
「帰れ。二度と私の目の前に現れるな」

 激情を抑えきれず顔を歪ませる不比等を見て、霍桓は胸が空く思いで退室した。そして屋敷から出るや否や大声で笑い転げた。





「稗田阿礼、只今馳せ参じました」
「ご苦労様。私は大周の特使霍桓だ。よろしく」
「藤原様より存じております、霍仙様」

 真昼間、霍桓の泊まっている屋敷に一人の巫女が訪ねてきた。皺が刻まれた顔、曲がった足腰、けれども衰えぬ鋭気を秘めた瞳を持つその女こそ噂に聞く稗田阿礼その人であった。

「あいつは口の軽い男だな。まぁ説明する手間が省けていいけど」
「秘密は決して洩らしません。今も公式には藤原様の屋敷で資料の編纂を行っていることになっておりますよ」

 阿礼は上品な笑みを浮かべて言った。霍桓には彼女があのいけすかない不比等と対称的な存在に思えた。

「ところで私に何用でしょう?」
「単刀直入に言うと妻を探してほしい。名は霍青娥。私と同じ仙人で今より百年ほど前に中華からこの国に渡ってきたはずなんだが、その痕跡が君の記憶している資料に記されていると思うんだ」
「百年前というと推古帝の時代ですね。それよりちょっと前ですと用明帝が崩御されて物部氏と蘇我氏の争いがあったり……確かにその時期に道教が大陸から伝播しています。しかしながらその」
「青娥の名前は記憶にない?」
「すみません」

 申し訳なさそうに項垂れる阿礼。

「いやいいんだ。君が謝る必要はないんだ」

 霍桓はある程度こうなるだろうと予測がついていた。その当時のことを実際に阿礼が目にしているわけでなく歴史資料を記憶しているだけならば、恐らく権力者にとって都合の悪い存在であろう青娥のことを知らなくともおかしくはない。その上で霍桓は阿礼に尋ねた。

「さっきその時期に道教が伝わったと言っていたね。ということは仙人、いやそうでなくとも道教の知識を持っていた人がいたはずだ。誰か思い当たる人物は知らないかい?」
「ちょっと待ってください……」

 阿礼は蓄積された膨大な記憶の中から目的の知識を引き出すためにしばしの間沈黙した。その作業を終えると彼女は静かに口を開いた。

「豊聡耳皇子をご存知でしょうか」
「へ? ……あぁ知ってるよ。あの隋の煬帝に唯一喧嘩を吹っかけた命知らずとこっちでも有名だからね。ごく個人的には有能な外交官だと思ってるけど」
「皇子は多才な方でしたが、学問の一つとして道にも通じておりました。現在四天王寺に納められていますが七星剣も所有しておりました。また数多くの伝承が伝わっていて空を飛んだとも言われています」
「空を飛んだ、か。それは基礎的な仙術だ。問題は誰が教えたか」
「奥方様の可能性は十分にあると思います」

 霍桓は考え込んだ。彼の知る限り、青娥という仙人は何よりも束縛を嫌っている者だ。であるからして彼女が真面目に弟子を取って術を教えるという姿は想像しがたい。でも相手が時の権力者であればどうだろう。皇子に取り入って快適な暮らしを得つつ自分の技をひけらかす、妻が好みそうなことのように思えなくもない。

「他に仙人らしき人物は?」
「物部守屋が妹君布都姫なども道教に造詣が深かったとか、これは噂の類なので信憑性に欠けますが。しかし言われてみれば民間で多少信仰されているようですが皇子の死後そうした摩訶不思議な伝説が残っている人物は現れていませんね」
「となるとやはり手掛かりはその豊聡耳皇子だけかぁ。うーん。ぐごごごご」

 そう唸る霍桓の姿はどことなく滑稽であった。しかし阿礼は笑うことなく真剣な眼差しを彼に向ける。

「豊聡耳皇子に仙術を教えた人物を奥方様と仮定すれば、皇子所縁の地へ行くことで何か痕跡を見つけられるかと」
「そうだね。一番いいのは皇子が尸解仙としてこの時代に復活してることなのだけど。七星剣、あれは尸解仙になる際の媒介として使われるんだ。本人に聞くのが手っ取り早いからね」
「皇子の御廟は河内にあります。そちらに向かってみますか?」

 霍桓は首を横に振った。

「いや、もしも仙人になっているなら墓に留まっていないだろう。それよりも生前に拠点としていた場所の方がいる可能性は高いしいなくとも何かしら手掛かりはあるんじゃないか」
「ではまずは斑鳩ですかね。皇子の宮殿と寺院がありました。宮殿は六十一年前に、寺院は三十四年前に焼失しておりますが、現在寺院の方の再建が進んでおります」
「再建……その指示は藤原殿あたりが出しているのかね」

 皮肉のつもりで霍桓は言った。この国に来てからというものの、どうしたことか不思議とあの男と縁があった。

「いえ、わかりません。多分藤原様ではないとは思うのですが……先帝様? いや……」

 これまで明瞭に答えてきた阿礼にしては曖昧な言葉で濁した。そこで霍桓の頭の中に一つの図式が浮かび上がった。すなわち日本に来た青娥は豊聡耳皇子に保護を求めた。一方で皇子は青娥から道教を学んだ。そして表向きは死して埋葬された皇子は尸解仙として復活し青娥とともにかつての住居の再建に取り掛かった。仏教寺というのも身を隠すには最適だろう。
 ややこじつけが過ぎるがありえない話でもない。思い込みの激しい霍桓はそう決めつけるとそれ以外の可能性を考えられなくなった。

「間違いない。斑鳩の寺だ。そこに妻がいる」
「は、はぁ。お役にたてたのでしたら何よりでございますが」

 これまで仮定の上で話を進めていたのに断定され、その発想には少し飛躍がある、と阿礼は指摘しようとしたがやめた。自分の仕事はあくまで知識の提供であってその受け取り方については口を出すこともないだろうと考えたためだ。

「それでは私も年ですしそろそろお暇させていただいても……」

 阿礼はその場を退散しようと霍桓に了承を求めた。しかし霍桓は全く人の話を聞いていないようで顔を上げて天井を見つめていた。妻のことで頭が一杯なのだろうか。呆れつつもう一度阿礼は話しかける。

「あのー霍様。私そろそろ下がってもよろ」
「静かに」

 かつてないほど強い口調で霍桓は遮った。何事かと阿礼は目を丸くする。霍桓は天井を睨むこと数刻して、突如愛用の鑿を取り出し上へ向かって放り投げた。鑿は天井に当たった瞬間穴を開けて通り抜け、ヒュンっと何かを射る音をさせて、得体の知らない黒い塊と共に再度穴を潜って彼の傍に落下した。
 突如として起こった出来事にしばし驚いていた阿礼だがやがて事態を何となく理解して口を開いた。

「妖怪……に狙われていた?」
「半分正解。僕らは狙われているな。ただし此奴はあくまで偵察用の使い魔だよ」

 そう言って霍桓は落ちてきた黒い物体を指差した。よく見るとそれは上半身を抉られた鴉だった。そして足には何やら紙が巻きつけられていた。霍桓は紙を剥がすとふんっと鼻を鳴らして阿礼に見せた。

「呪符の類だ。文字が読み取れないように二重の術が掛かっている、が大方予想はできるよねぇ。僕らの会話を盗み聞いていたんだぜ絶対」

 興奮してやや口調が乱れている霍桓だが今はそんなことを気にしている余裕もないようだった。

「誰がやったと思うかい!?」

 ほとんど誘導尋問である。阿礼は望まれるだろう答えを言うしかなかった。

「……藤原様?」
「そう! あいつ逆恨みして僕を消そうとしていやがる! ……はぁ全く災難だなこりゃ。何が災難かというと奴が腕の立つ術師を抱えていたってことだけど」
「藤原様に仙人道士のお知り合いはおられませんでした……私の記憶によれば」

 確かに阿礼の知る限りでも不比等はいかにもこういうことをしそうな人物である。しかし手段がない。故に証拠がない。すっかり熱くなっている霍桓を諌めるつもりでそう告げた。

「そうかな。思えば最初輝夜姫の件でもえらく強気だったのは強力な呪術師を従えていたからじゃないか……とこの話は君には言ってなかったな。確かに君の言う通りかもしれない、けど僕は奴が秘密の駒を所有していると考えるが、どうだい」

 霍桓は反論したものの、阿礼の意図が伝わったのか少し落ち着きを取り戻してみせた。鑿をもう一度鴉の死骸に突き刺して跡形もなく消し去ると、彼は立ち上がって言った。

「使い魔を始末されたと気付けばすぐに次の手を打ってくるだろうな。その前に出発しよう。いざ斑鳩法隆寺へ」
「それでは御健闘を」
「いや君も行くんだよ?」
「へい?」

 予想外の発言に阿礼は間抜けな声を出す。霍桓はそんな彼女の手を取って体に抱き寄せた。

「だって僕は斑鳩とやらがどこかも知らないんだから案内役が必要だろう。藤原との取引で僕は君を借りたんだ。日本にいる限り君は僕のものなんだよ。だから一緒に、ね?」
「ああああの……」

 大胆な行動と発言に一瞬ときめき顔を赤らめてしまう稗田阿礼齢五十過ぎだがすぐにそんな自分を恥じた。そしてとんでもないことになったと心の中で深く溜息をついた。ここで断ることもできない。そもそもこの男と会わなければよかったと思っても上の命令だったのだからどうしようもない。彼女は首を縦に振るしかなかった。

「ところで一つ聞いていいですか」
「何?」
「どのようにして向かいましょう。この分ですと恐らく京の門は封鎖されているかと」
「だろうね。あいつは中々切れる男だ。強行突破でもいいが行く先が行く先だけに皇子様に倣うとしよう」

 記憶力に優れた阿礼はすぐに霍桓の言わんとすることがわかった。その上で難色を示した。

「でも私飛べないですし……」
「大丈夫、抱えて行く」

 そう言う霍桓はどこまでも眩しい笑顔をしていたが、阿礼にとっては極悪非道の妖怪が人を食らう前に見せる邪悪な笑みにしか見えなかった。それは彼女が一生忘れたくとも忘れられない思い出となった。





 藤原京より西北、斑鳩の地。かつてここに宰相の住まう宮殿があったというがそんな様子を微塵も感じさせないほどに荒れ果てていた。そこにぽつんと再建の進む法隆寺があるのみである。再建途中と言っても金堂や五重塔、講堂やそれに繋がる回廊などは出来上がっていて、立派な寺院の様相を呈しているのだが。
 赤みを帯びていく空を背にして霍桓と阿礼は伽藍に降り立った。抱きかかえられて空を飛ぶ、という貴重な体験は彼女に恐怖と嘔吐感をもたらすばかりであった。無理もない。ただの人には鳥と同じ感覚を持つことはできない。それに馬の二倍の速度で移動する仙人という乗り物は老齢の体に優しくなかった。
 へろへろになっている阿礼とは対照的に霍桓は上機嫌な様子であった。両手を広げくるくる体を一回転させた後何度も息を大きく吸って吐いて、そして興奮気味に言った。

「なんという仙気の濃さ!向こうは隠す気もないらしい。大手柄だよ阿礼、感謝してもし尽せない」
「それは大変良かったですねはい」

 阿礼は嫌味のつもりで言ったが相手は言葉通りの意味で受け取った。何度も握手を求められた彼女の頭には早くこの案件を終わらせて帰りたいという思いで満たされていた。
 霍桓曰く最も仙気が濃いという金堂へ向かう二人。扉は閉ざされていたが壁抜けの仙人には開いているのと同義であった。中に入れば本尊の釈迦三尊像が柔らかな笑みをたたえていた、だがしかし、そこに復活した皇子も霍桓の妻の姿もなかった。
 先程までと違って阿礼は申し訳ない気持ちになった。きっと隣の男は落胆しているだろう。恐る恐る霍桓の顔に視線を向けるが、意外にも彼の表情は落ち着いたものであった。

「……あれかな、厨子。多分あの中に……」

 霍桓はぶつぶつ呟きながらそっと堂内に置いてある厨子に歩み寄った。厨子とは上から屋根・宮殿部・須弥座部・台脚部で構成される仏像等を納める工芸品である。仏堂の縮小版と言えばいいだろう。玉虫の羽が敷き詰められたそれの宮殿部の壁に穴を開けた彼は、中にあるものを見てはっと息を飲んだ。

「どうかされました?」

 阿礼は霍桓の反応が気になって声をかけた。すると霍桓は無言で手招きをした。阿礼は近づき彼同様穴を通して厨子の中を覗き見た。そこにあったのは仏像などではなく、一本の簪であった。

「これは……まさか」
「あぁ、妻のものに間違いない。今度は本物だ……全く、手間をかけさせてくれるな青娥は。そういうところが好きなんだけどなぁ」

 霍桓は穴に手を突っ込んで簪を取り出すと、それをしばしじっと見つめた。感極まって涙ぐむ彼を見た阿礼までも目が潤んでいた。しかし簪が見つかったのは大きな手掛かりではあったが肝心の持ち主はまだ見つかっていない。喜ぶにはまだ早い、と告げるべきか今は余韻に浸っておかせるべきか、阿礼は迷っていたところ突然質問された。

「ところでこの簪、どの向きで置いてあったっけ。覚えているかい?」
「え、向きですか? ちょっとこちらお借りします……確かこうでしたね」

 阿礼は簪を取って先程の記憶通りの様子を再現してみせた。

「……酉の方角か……もしかして帰っちゃったか青娥」
「どういうことです?」
「これは妻のいるところを指し示している、と僕は解釈する。あの厨子に置かれたの自体はごく最近だ、でなければこんなに彼女の匂いが強く残ってはいない。おそらく僕が来るのを察知して置いておいたんだと」
「それはつまり逃げられたので……あ」

 しまったと阿礼は思った。明らかな失言だ。しかし霍桓は怒るどころか笑った。

「ははは、確かに逃げられてはいるな、けどだったら痕跡を一切残さず立ち去るでしょう。これはつまり試されているんだよ。僕の愛を。この簪はね、私を追って来てって言ってるんだよ。はは、可愛いやつ。照れてるのか。ふふふ」

 霍桓の嬉しがる様が過剰でちょっと気持ち悪く思えたが、阿礼としても役に立てたのならこれ以上の喜びはなかった。阿礼は霍桓につられてくすくす笑っていた。しかし突如として彼の方は笑うのをやめた。
 その時空気が一変した。堂内がぴりぴりとした緊張で包まれる。記憶力に関して以外は普通の人間の阿礼にも何かが起こることを予感したが、仙人の霍桓には尚更である。彼は事態を概ね把握していた。

「……早いな。もう囲まれてる」
「もしかして」
「おぞましい程妖気と殺気を臭わせてくるよ。連中、生かしてここから帰す気はないらしい」

 狼狽える阿礼。だが霍桓は心配する必要はないと言った。

「まぁ地下を潜って抜ければ戦う必要もないよ。生憎壁抜けの邪仙様愛用の宝具を手に入れたことだし」

 霍桓はまず二枚の札を仏像にそれぞれ貼り付けた。彼曰く身代わりである。次に青娥の簪を床に刺すとごっそり大きな穴が開いた。それから彼は阿礼を抱えると穴の中に飛び込んだ。
 穴の深さはちょうど五重塔の高さと同じくらい、底からは光がわずかしか届かないほど暗かった。

「すごいだろう? 青娥は僕以上に壁抜けの名手でね。この簪自体に彼女の術が付与されているから君にでも出来るよ。やってみるかい?」
「いえ、任せます」

 内心この不思議な道具を使ってみたい阿礼であったが、今は生死に関わる事態なので素人の自分は手を出さないのが吉だろうと遠慮した。霍桓は簪を壁に突き刺してまた長い穴を作り出す。そうしてできた穴を歩く二人。穴は彼らが進むにつれて退路が塞がって元通りになっていった。
 光が届かない地下道にて霍桓は持っている離符で火を起こして松明とした。これは藤原の娘に渡したものと同様であった。符を二枚ほど使いきったところで彼は簪で地上へと出る穴を作った。穴の底から見える空の色はすでに暗い青であった。
 阿礼を抱えて霍桓は上昇していく。そしてついに二人は地上へ出た。しかしすぐに彼らは驚愕することとなる。
 二人の出た場所は法隆寺の金堂内だったのだ。そんなことはありえない、自分達は金堂を出発して外へ出て行ったはずだ、なのに戻ってきているのはおかしい。霍桓はそう考える中二つの仮説を導いた。一つは穴を掘るうちに方向を見失って知らず知らず一周して戻ってきたこと。けれど自分はこんな大失態をやらかすような人物ではないと信じていた。たとえ少々迷ってもこう器用に元の場所に戻ってこれるものか、甚だ疑問でもある。
 そしてもう一つだが、おそらくこちらが当たりで……つまりは敵方の術師による何らかの攻撃を受けた結果ということだ。

「偽物と本物の境界を弄らせてもらった。今頃外で仏像が出てきて村人たちは驚いていることじゃろう」

 ご丁寧に相手の方から説明してくれた。霍桓は気配が消えることを悟られないよう自分と阿礼の気配を釈迦三尊像のうち二つに術で移していたが、見事にその二つがなくなっていた。そして最後の一つも目の前から消え去り、代わりに一人の翁の姿が出現した。大職冠を被り濃紫の装束を身に纏うそいつの顔はどことなくあの藤原不比等と似ていた。それに霍桓は少々驚くが、もっと驚いたのは阿礼の方だった。

「そんな……あな、貴方は鎌足公では御座いませんか! どうして、そんなはず……」
「知り合いなのか?」
「……藤原内大臣鎌足公。不比等様のお父上です……ですが、もう亡くなられて三十五年なんですよ! ありえないんです、あの御方が生きているはずないんです」
「目に見えぬものが信じられないか稗田阿礼よ。私はここにいるぞ」

 藤原鎌足、と呼ばれたそれが口を挟んできた。

「ところで儂は不比等のやつから二つ指令を授かっておる。一つは稗田阿礼の保護。もう一つはくそ生意気な仙人の抹殺だ。霍桓君、だったかな。悪いが彼女を渡して死んでくれないか?」
「成程確かに藤原不比等の父君と言ったところか。仏の顔も三度まで、今回は断らさせてもらうよ」
「然らば死ね」

 翁は冠を頭から外して空中へ放り投げると、冠の中から大きな純白の鳥がすぽんと抜け出て、翁の代わりにそれを被った。鳥と言っても通常の鳥と違い人並みの巨大さで、本来翼のあるべきところに両腕を生やし、その手には盾と剣を持つ異形の姿であった。あからさまに妖怪の類である。

「行け『烏帽子鳥』、その男の首を刎ねい」

 巨鳥は咆哮しながら霍桓めがけて右手に握られた大剣を振り下ろす。それを霍桓は後ろに跳んでかわし、距離を取った上で穴開け道具の鑿を投げつける。急所を狙う鑿を怪鳥は左手の盾で防ごうとするがぶつかった瞬間貫通するのを見て、咄嗟に盾を投げ捨てて攻撃を受け流しつつ前進する。
 一気に距離を詰めたその妖怪は勝ったとでも言いたげににやりと笑い、再び斬撃を霍桓に浴びせようとする。だが霍桓は冷静に、無駄のない動作で青娥の簪で剣先に突き刺した。刹那、剣は剥かれた蜜柑の皮のようにひしゃげて四方に飛び散った。そしてそのまま簪は鳥の腕に突き刺さり剣と同様に破壊した。
 驚愕と激痛と恐怖とで顔を歪ませ怯む鳥に対し、今度は霍桓が見下ろして笑った。

「運が悪かったね。本来戦闘は得意じゃない方だけれど、今の私は妻の加護により無敵だ」

 最後の抵抗に左腕を振るう妖怪鳥だが霍桓はそれを屈んでかわし、落ちている簪を素早く拾って相手の胸に突き刺した。瞬時にその巨体が上と下とで分離されるほどに大きな穴を開け、そいつの息の根を止めた。一部始終を見ていた紫の衣の翁はその手際の鮮やかさを褒めるがごとく拍手した。

「流石本場から来た仙人。実に見事なり」
「お褒めに預かり感謝の極み。しかしこのような小手調べがまだ続くのかい?」
「まさか」

 翁は血塗れの冠を拾って被ると、体が冠の中に吸い込まれていった。すると霍桓が気づいた時にはその背後にいた。

「霍様!」

 阿礼が叫んだ時にはすでに霍桓の顔面の左半分は消し飛んでいた。一方で翁の方も胸が抉り取られていたが何ともない様子で霍桓を投げ飛ばし、阿礼の傍の床に叩き付けた。

「あぁ……私がここに案内したばかりに……」
「大丈夫大丈夫。死んでないよ。身体鍛えてるし」

 霍桓は心配をかけまいと声をかけた。普通の人間には致命傷でも仙人にとってはそうではない。彼は周りに飛び散っている烏帽子鳥の肉片を掴むとそれを失った顔の部分に当てた。すると彼の顔は綺麗に元通りになった。

「流石に全部ぶっ飛ばされたらここの本尊になっていただろうがね。なぁ」
「唐人は洒落にも通じているようで関心する。しかしこれでわかったろう。貴様では儂に勝てない」

 翁は冷ややかな目で霍桓を見下ろしていた。彼は優雅な手つきでまた冠を拾う。

「さてさて、再度確認のために言う。儂は不比等から二つの指令を受けておる。稗田阿礼の保護と貴様の抹殺だ。優先順位は設けられていない。このままでは貴様は儂に倒され阿礼を回収して終わりだ。ではどうするかね。どうするんだ」

 霍桓は芝居がかった翁の台詞を聞き終えるとひどくいやらしい笑みを浮かべた。それは追い詰められ絶望の境地に至って壊れた道化師のそれ、ではなく、相手を手玉に取る算段を思いついた詐欺師のそれ、であった。
 不安がる阿礼が霍桓に声をかけようとした時、彼はあろうことか彼女の胸に簪を突き刺し、穴を開けたところ腕を突っ込み、何かした後すぐに抜いて穴を閉じた。突然のことに阿礼は驚く。

「な、何を……!?」
「あぁすまない。健康に害はないから安心して」
「何をした貴様」

 冠を被った翁も同様に問う。霍桓は勝ち誇った表情を作って言った。

「稗田阿礼の心臓に術をかけたのさ。『同心縁』、私の心臓が止まる時彼女の心臓も止まる。さてさて、これで貴公は二つの指令を果たせなくなった。私を殺せば彼女を助けられない。彼女を生かすなら私を殺せない。ではどうするかね。どうしようもないだろう」
「そんなもの、はったりもいいところだ」
「でも証明しようがないけどね。私を殺して阿礼が死んだら、どう言い訳するつもりだい? ……これで正解だろう」
「その通り。いささかわかりやすすぎたかしら」
「そりゃあねぇ。言い方がくどい」

 先程まで敵対していたはずの二人の男はいつの間にか昔からの友人同士の様に親しげな視線を交わしていた。一人状況を飲み込めていない阿礼は首を傾げる。

「あ、あの……これは……」
「ようするにただの茶番だよ。本気じゃない。そもそも藤原鎌足を名乗る彼が『息子から指令を受けた』なんて言い方はしない。君の記憶の中の鎌足公は息子の使い走りを引き受けるような人物だったかい?」
「いえ……だから最初そんなはずないと」
「そうだ。君の言うことは全部正しいだろう。鎌足公はここにいるはずがないし、我々は妖怪の襲撃を受けた。僕は鎌足公が尸解仙になっている可能性も考えたが、それにしては気配が禍々しすぎる……そろそろ種明かしをしてくれてもいいでしょう、自称鎌足公」

 霍桓は鎌足の名を騙る者の方に問いかけた。しかしその返事は帰ってこない。すると阿礼の方が何か思いついた様子で言った。

「まさか……鎌足公は死の間際天智帝から濃紫色の大職冠を授かったと伝えられていますが、紫という字はこの国では『ムラサキ』ともう一つ呼び方があって……ならば藤原家に与えられたものとはつまり」
「え、ちょっと待ってどういうこと?」

 混乱した霍桓が話を遮る。阿礼は続けて丁寧に説明した。

「あ、すみません。結果から言いますと鎌足公の姿をしているあの人の正体は『ユカリ』という妖怪、それも古くからこの国にいる大妖怪です。『ユカリ』もまた紫という字が当てがわれるのです。鎌足公が紫の冠を授かったという記述は妖怪の紫を家臣として与えられたことを示していたようですね」

 阿礼が説明し終えた途端、今まで恰幅のいい男性の姿をしていた人物は幼い少女の姿へと変身していた。衣服はそのままのためぶかぶかで少々不恰好だったが、その顔は人間離れした美しさであった。霍桓は一瞬輝夜の姿が頭によぎった。

「流石は世に名だたる稗田の巫女。知識は勿論、それを腐らせないほどには頭が回るようね。いかにも私が妖怪八雲紫ですわ。今現在は理由あって藤原家にいるけど、仕えてるというわけじゃあないのよ。不比等には私も困っていてね」

 鎌足公改め八雲紫は阿礼の説明に付け加える形で自己紹介した。

「今回も乗り気じゃなくてね。ただ突っぱねるには勿体無くて。噂の大陸からやってきたという美男の仙人、貴方に会ってみたかったのですよ。勿論稗田にもね。豊聡耳皇子を誑かした邪仙にも会いたかったけど逃げられてしまいましたわ」
「青娥は僕より一枚上手だからね」

 妻を褒められたと思ったか誇らしげに霍桓は言った。それが場の空気と合ってなくておかしいことに阿礼と紫の二人はくすくす笑った。最愛の妻のこととなるととことん盲目鈍感な霍桓はそれさえも青娥、ひいてはその旦那である自分への讃頌に感じていた。

「さて、そろそろ藤原家当主様がお越しになる頃ですわ。配下の妖怪は全て下がらせました。先に説明しておきますので、堂々と出て行き、馬車に乗せてもらうといいでしょう」

 そう言うと紫は何もない空間に手をかざした。するとそこに裂け目ができた。覗いて見れば、その先には寺の門が映っている。一見すると霍桓の壁抜けの術と似ているが彼女のそれは全く別の場所にも自由自在に移動できる、いわば上位互換であった。彼女は裂け目の中に入ると隙間は閉じられ、金堂内から完全に姿を消した。

「確かにこりゃ敵わないな……」

 霍桓はぼそりと呟いた。気が付けばご丁寧に釈迦三尊像が三体とも元の場所に戻っていた。床に散らばった妖鳥の死骸も無くなっている。彼は残された自分の持ち物を拾って、何事もなかったかのように阿礼を連れて金堂から出た。変わったことがあるとすれば、空が暗くなっていたことと、彼の持ち物が一つ増えたことであった。





 それから霍桓と阿礼は藤原邸に一泊した。その間不比等は一言も彼に話しかけようとせず、目も合わそうとしなかった。
 翌朝、霍桓は藤原京大極殿に赴き、文武帝に別れの挨拶を行った。帝や周りの重臣たちは最後まで彼のことを大周の特使だと信じていたが、彼が日本に訪れたという記録は不比等によって抹消され、後世の歴史書に記されなかった。歴史なんてものは為政者の都合によって作られた物語に過ぎないのである。
 その後霍桓はすぐに身支度を整え、藤原京を出発することに決めた。その前に彼は図々しくも再び不比等に阿礼との面会を求めた。そのやり口は阿礼に会わせないと自殺して道連れにしてやると言って脅す、である。それでは不比等も内心どうであれ首を縦に振るしかない。もっとも『同心縁』というのは紫が指摘した通り口からでまかせだったのだが。

「本当に今回は君に助けられてばかりだ。一体どれほど感謝すればいいのか」

 霍桓は阿礼に会うなり真っ先に謝礼の言葉を述べた。気恥ずかしくて阿礼は謙遜する。

「そんなことありませんよ。霍様の奥方様への愛には敵いません」
「いやいや、君がいなければ斑鳩で妻の簪も見つけられなかったし、その後の窮地を脱することもできなかった。君が不比等のやつに切り捨てられないほど気に入られた稀有な人材であったからこそ、昨日今日と会うことができた。本当に感謝している」
「それほどでもないですよ……」

 阿礼は口ではそう言うものの、あからさまに嬉しそうにした。それを見て霍桓も満面の笑みを浮かべる。彼は一つ提案をした。

「ところでお礼といってはなんだが、僕にできる範囲であれば君の望みを叶えてやろうと思う。何でもいい、遠慮なく言ってくれ」
「いや、そんな、いいですって」
「そうでもしないとこちらの気が済まない。この国を発つ前に心残りはなくしておきたいんだ。そうだ、君がこれから成したいことを教えてくれ。それを手助けしよう」

 阿礼はしばし考え込んでから口を開いた。

「やりたいことですか。老い先短い私はもうある程度人生の目標を達成してしまいました。まだ藤原様の命で歴史書の編纂に携わる仕事が残ってはいますが、それも太さんへの引き継ぎがだいぶ進んでいますし……正直今死んでも大往生だな、と思います」
「では特にないと?」
「いえ、少しはあるのです。この大和の人々は魑魅魍魎に生活を脅かされています。そして彼らが命を落とす要因はそうした妖怪達への知識不足が一つの原因になっている、これまで生きてきた中でそう思うことが多々ありました。年老いてから一層そのことについての関心は強まってきました。ですから人々のために妖怪に関する知識を集め伝えていきたいなとは、一応」

 妖怪と聞いて霍桓は真っ先に八雲紫を思い浮かべたが、あれは特殊な部類で彼女の召喚した烏帽子鳥の方が標準的な妖怪だろうとすぐに訂正した。あの時は軽くあしらったもののそれは仙人としてそれなりの場数を踏んできた霍桓だからこそであって、普通の人間であれば間違いなく首を刈り取られていたに違いない。そんなのが跋扈している世の中は確かに人が生きるに大変だろうと霍桓は思った。

「もし今の私が少女の年だったならこの先の人生をそれに費やしたいものですが、まぁ実際にはお婆さんですので」

 そう言って阿礼は笑ってみせた。だから結局やりたいことはないと彼女は言った。

「……遠慮なく、と私はそう言ったのだけど」

 霍桓は小さな声で呟いた。彼の阿礼に対する眼差しはそれまでと一転してとても冷めていた。彼女に対して失望の念を抱いたことは明らかだった。

「稗田阿礼。君はちゃんとした欲望を持ってる。なのにそれを偽って私に隠そうとする」
「え、決してそんなことはありません。私は本心をお伝えしています」

 阿礼は霍桓の様子の変化に気づき焦った。何か失言をしてしまったのかと自分の中で思い当たる節を探そうとする。そんな彼女を霍桓は睨む。

「私にはわかったよ。君の欲が。それを叶えよう。ただし君は中途半端に嘘をついているから、最も不出来なものになるけどね」

 霍桓は懐に手を突っ込み、何やらごそごそと音を立てて、一本の巻物を取り出した。阿礼はこれまで彼の懐からいろんなものが出てくるのを見ていて、まるで八雲紫の能力みたいだという感想を抱いた。

「仙人の中にはたまに自分の極めた術を書に纏める者がいる。技をひけらかすのが好きな連中だ。これを私にくれた仙人もそういう一人でね、と前置きはこの辺にしておこう。これを君に渡す。読む読まないは自由だ。いらなければ帝にでも献上するといい」

 そう言うと霍桓は阿礼に巻物を手渡した。

「掻い摘んで言うとそこには転生の術に関する研究が載せられている。中身は見たけどまだまだ未完成の術で、転生に成功したところで長くは生きられないようだけどね」

 阿礼は素直に受け取ったもののどうしてこんなものを、というような目で霍桓を見た。彼は溜息一つついて、糾弾した。

「『私には必要ありません』かい? そんなはずないだろう! さっき君の口から聞いたぞ、『人生をやり直して妖怪の知識を集めたい』と!」
「そんなことは言ってません! ただ、もしもの話をしてみただけで……」

 阿礼は否定しようとする。だが霍桓は止まらない。

「言っているとも。君は内心人生をやり直したがっている。それも誰かのためでもない、自分自身のためにね。君が君の欲望に忠実であれば、弟子にとって仙人にしてやって、不老不死を与えてやろうとも思ったよ。けど駄目だ。己の本心を偽る者は仙人にできない。だから君には蝉が成虫になることを繰り返す転生の術が相応しい」
「そんなの決めつけです……これは有難く頂いておきますが」
「どうかな。でも君はきっとこれを使う。それだけは間違いないだろうと思う。賭けてもいい。そして転生を続けることが辛くなったなら、再び私の姿を探すといい。その時は仙人にしてやってもいい」
「もし私が転生しても、きっと貴方と二度と会うことはないでしょうね」

 そこで会話は途切れてしまった。霍桓はばつが悪そうにそそくさと退散した。彼は本来阿礼に感謝したいだけであったのに最後の最後で喧嘩別れの様になってしまったことを残念に思った。けれど後悔することはない。欲望に忠実に、言いたいことを言う、それが彼の信条であり今回もそれに反することはしなかったのだから。
 一方それから阿礼はというと自宅に籠りがちになったそうだが、そこで彼女は何を思い何をしたかについては、また別の話である。





 藤原京を発ってから霍桓は四天王寺など豊聡耳皇子所縁の地を訪ね歩いたが、妻の姿を見つけることはできなかった。日本にもう青娥はいないと判断した彼は住吉津で船を調達して大周帝国に帰ることにした。
 船旅は長い。その間彼は藤原京やさぬき郷の竹林、斑鳩法隆寺で経験したことを何度も思い出し、記憶の反芻を行っていた。月を追われた姫君と親の愛に飢える娘、歴史的人物に擬態する妖怪と歴史を記したいという欲を秘める老人、けれど意外にも霍桓が最も印象に残っていた人物はあの傲慢で虚栄心の強い藤原不比等であった。
 妻の簪を見るたびに不比等の顔がちらついて仕方がなかった。始めはどうしてかわからず気に食わないと憤慨していたが、瀬戸内海を抜けて那の津で乗り換える頃には何となくその理由を掴んでいた。ただそれを認めたくはなかった。
 霍桓は大周の特使として来ている手前正規の手順で帰らねばならない。中華の自宅まで空を飛んで行くわけにもいかない。ところが青娥はそうやって帰ることもできる。彼は港でも情報収集をしたが青娥らしき人物を目撃したという証言を得られなかった。すなわち全く別の経路を通っている可能性があるということだ。
 もしかしたら自分がとろとろ船に乗っている間に手の届かないほど遠くへ行ってしまっているかもしれない、そう思うと流石の霍桓とて焦ってくる。そして気づくのだ。もしこのまま逃げられたなら、いくらなんでも妻のことを恨んでしまうかもしれない自分がいることに。その時不比等の、輝夜に対する激情を示す様が、克明に記憶の底から呼び起されるのである。あれほど嫌悪した彼の醜態が、自分と重なる。

「あぁ、あいつのことが気に食わなかったのはそうか、そういうことか」

 簪を取り出した霍桓は、鏡に映る不比等の顔に向かってそれを突き刺した。するとすっぽりと綺麗な穴が開いて何も映さなくなる。簪を抜けば鏡は元に戻り、今度は霍桓の顔を映した。けれどもしばらくすると、再び鏡は不比等の顔を映すようになった。
 霍桓は祖国に戻るまでの間、実に百八回も不比等の顔に簪を突き立てた。
最早東方でも何でもないじゃんですが新作です。オリキャラメインですが一応東方本編に繋がる物語、をコンセプトに書いてみました。
東方の設定、及びその元ネタに当たる史実、聊斎志異・竹取物語等の記述とそれぞれ矛盾する部分あるとは思いますがご容赦を。
ちなみに大宝四年とは西暦704年、日本では律令制度の整備が進む文武帝の時代で、中国では唐王朝が一時中断して則天武后の周王朝になっています。一説には竹取物語の舞台もこの時代と言われています。興味のある方は調べてみるといいかもしれません。
このSSを書くにあたって色々資料を漁っていたらすっかり古代史にハマってしまいました。次は豪族組の過去あたり書くかも……
宇佐城
http://tukiusajou.blog.fc2.com/
コメント



1.oblivion削除
古代史SSを待ち望んでいた私が来ました。
イケメンだけど変態で気持ち悪いっていうのが霍桓のキャラとしてすごい好きですw
2.名前が無い程度の能力削除
飛鳥時代+ゆかりんタグと聞いて飛んできました
霍桓は青娥と再会できたのだろうか?
続編があればぜひ読んでみたい面白い話の作りでした
執念深い不比等や巻き込まれ系ヒロインの阿礼、名家の食客っぽいゆかりんと脇役の個性も良かったです
3.名前が無い程度の能力削除
夫婦そろって、日本史に大変なものを残していきやがった!

確かにこんな夫なら、じゃじゃ馬な妻とも一緒にやれそうですね。
4.奇声を発する程度の能力削除
良いですね、こういう古代史も
5.名前が無い程度の能力削除
独自設定がびっしり詰まった濃密な物語でした。面白かったです。
霍桓の活躍っぷりはオリキャラ最強もののようでちょっと辟易するところもありますが
それでも面白く読ませていただきました。
6.名前が無い程度の能力削除
点数入れられないのが辛いです。
独自設定に無茶苦茶力が入ってるのが読んでいて伝わりました。
何気に紫がいいキャラ出しているのがまた。
またこういう作品を読んでみたいものです。
7.名前が無い程度の能力削除
霍桓が良い性格してますね。このくらいじゃないと青娥の旦那はつとまらないんだろうか。
輝夜や紫のキャラも良い味出してると思います
8.名前が無い程度の能力削除
他の方もコメントされているように、本当に100点を入れられないのが辛いと思える程楽しめました。
霍桓のキャラクターが魅力あるため読んでいて惹きつけられる話でした。
既存の東方キャラとの絡ませ方もうま過ぎて驚きました。
過去作もそうでしたが独創性と起伏のある物語が読んでいてすごく楽しいです。