Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ゆりかごと子守唄

2011/12/14 02:23:04
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 風に揺れる木々の真っ黒な輪郭が、鋭く砥がれた鉄の様に冷え冷えとした夜だった。

 常に薄暗い紅魔館の廊下が、この時間帯になると一層薄暗く感じる。ここには吸血鬼である主の事を鑑み、晴々した真っ白な日光を取り入れてしまう窓などの類は一切存在しないから、そういう風に錯覚じみて感じてしまうのは恐らく自身の体内時計が真夜中だと告げているからだろう。
 ポケットの中を手探り懐中時計を開いてみると、文字盤を休むことなく駆け続ける長い針と短い針は大方予想通りの時刻を指していた。金属同士の触れ合う音を立てながら温度の低い時計の蓋を閉じて視線を戻せば、遅番のメイド妖精が透明がかった羽を舞うように動かしながら働いているのが見える。
 お疲れ様、と声をかけ自分の胸より少し下の位置にある部下の頭を、教師が子どもにしてやるのとよく似た感じで何度か撫でてやると、彼女ははにかみながら一礼してぱたぱたと機嫌のいい子犬の様に廊下の向こう側へと駆けていった。

「……あら?」

 微かに笑みを浮かべながらその後ろ姿を目で追っていた咲夜は、その視界に何か異質なものを捉えて形の整った眉を顰める。細めた目はいつもよりも遠くを鮮明に見通す事が出来た。いや、例えそうしなくとも、視界に飛び込んだそれはきっとよく見えた事だろう。
 それは薄暗く重々しい灰色の闇を切り裂くようだった。
 切り裂いた後に、灰色の薄暗闇を真っ黒に染め上げる様な鮮烈さだった。
 もし見知っていなければ恐怖故の悲鳴か畏怖故の嘆息か、そのどちらかが咲夜の口から洩れていた事だろう、それほどまでに。

 実に優美な翼だった。
 実に可憐な姿だった。

 目にその極彩色が映り込んだ瞬間、今まで咲夜が立っていた位置から彼女の姿が真冬の薄靄のように掻き消える。
 薄靄というには、あまりに突然の消失と出現ではあるが。


「―――どうかなさいましたか、妹様」


 次に彼女が現れたのは、極彩色のすぐ隣。
 寒々した静かな夜によく似合う声で、少女に向かって呼びかけた。
「ああ、うん」
 美しくも禍々しい翼にはどこか不釣り合いな幼い顔を少し俯きがちにして、妹様と呼ばれた少女は自身の翼に比べてやや色味の足りない相手に返す。
「ちょっと、眠れなくて」
「そうでしたか」
 恥じらう愛らしい吸血鬼と目線を同じにするため緩やかに跪き、メイドはたおやかに微笑んだ。

「それでは、咲夜と一緒に真夜中のティータイムなど如何でしょう。妹様がお眠りになりたいと思われるまで、お付き合い致しますよ」




 身の奥までじわじわと染み入ってきそうな冷たさを感じる廊下とはうって変わり、赤というよりは橙や黄、白といった光が揺らめく暖かな談話室だった。
 大広間や当主の私室などと比べれば幾分か小さいが、二人で寒い夜を戯れに過ごすには十分すぎるほど、むしろ随分と空白の空間があって些かの寂しさすら感じる程の広さだ。
 二人が腰掛ける布張りの柔らかなソファは、ぱちぱち薪の爆ぜる音を立てて燃える暖炉の炎の光を柔らかな感触で受けていた。
 火の中でも一番明るい所は忌むべき太陽の光とよく似ているが、昼を我がものとするあの巨大な珠と違って吸血鬼の身を焼き、灰やら炭といった味気ないものにしてしまう事はない。だから、フランドールは咲夜のすぐ隣に座った後、すぐ近くでゆらゆら揺れる炎をなんとも形容しがたい表情でじぃっと見つめていた。真っ赤な両目には橙とか黄とかがぼんやり映って、温度の高い色が混ざることなく二つの小さなルビーの中で共存していた。
「妹様」
「なぁに?」
「何か、温かいお飲物をお持ちしましょうか?」
「ううん、いいよ」
 従者の言葉に顔を上げると、麗しい妹君は暖炉から目を離し、元々が白いせいで従順に光の色に染まる首と顔をふるふると横に振る。就寝前だからと解かれた普段は側頭で一つに結われている長めの金髪が、火の色と混ざり酷く妖艶に舞い踊った。
「私はそれよりも、咲夜の声が聞いてたいな?」

 常人ならば、いや、咲夜でさえ本当なら背筋が震えるほどの魔性と、無邪気に光る赤い紅い双眸。それに見つめられてもなお、咲夜は清流を思わせる涼やかな微笑で頷いた。
「嬉しいお言葉。けれど、あんまり長い時間をかけてしまっては、妹様の眠る時間が無くなってしまいます」
 自分の言葉を聞いた途端に唇を尖らせる、齢五百弱の幼い吸血鬼の様子を窺いながら。

「ですので、咲夜が子守唄を歌っ」
「ねえ私の事バカにしてない?」

 途中で発言を遮られ、今度は従者の側が唇を尖らせる番だった。

「人の話している間に言葉を挟むのははしたないですよ?レディにあるまじき行いですわ」
「いや、だって子守唄ってさぁ……赤ん坊とか幼児に聴かせるものでしょう?私、もう四九五歳は確実にいってるんだけど。見た目が私くらいの人間だって、とっくにそれからは卒業してるよ、多分」
 発言を遮られて拗ねるメイドと、あまりの子供扱いに不満げな悪魔の妹。双方、頬を膨らませて向かい合う。誰か両頬を挟んで軽く押してやれば空気を噴き出す軽い音がする事だろう。
 余程の命知らずでなければそんな事はしないだろうが、むしろ幻想郷にはこの光景を見てその白い蝋のような頬に嬉々として手を伸ばさない者は存在しない。けれど、ここは正真正銘二人きりの小さな談話室だった。誰も乱入してくるものはない。

 そんな事を考える暇があるほどまでには、睨み合いは長くは続かなかった。

 咲夜がすぐに涼しげなメイドの顔に戻ると、確信と自信に満ちた声で言う。
「ところがどっこい」
「ほんとにそれ言う人はじめて見た」
「案外侮れませんよ、子守唄」
 普段控えめな彼女の見せる珍しいその表情や声音に興味をひかれたのか、少しの訝しみは残しながらもフランドールは尋ねる。
「へえ、なんでさ?」
「咲夜が一つ、お話を致しましょう」
「子守唄を歌うんじゃなくて?」
「その前に、ですね。子守唄に関係するお話です」
 まあまあそう焦らずに、とでも言いたげなゆっくりとした動作で、咲夜は目線を煌々と燃える炎に移した。
「ふぅん……」
 フランドールも焦れたりせずに、咲夜の横顔に浮かんだ穏やかな笑みを少しだけ見つめて、やはり同じように目線を小さな太陽の模造品へと持っていった。



     ◆



 丁度今日と同じように、風に揺れる木々の真っ黒な輪郭が、鋭く砥がれた鉄の様に冷え冷えとした夜。
 齢十二程であろうか、青い目の少女が暗い館の中を歩いていた。
 床と靴底が曇った音を立てて触れ合う度に壁にかかった蝋燭の灯が揺れ、橙黄色の光に青い瞳がちらちらと照らされている。濃紺の給仕服に身を包んだ少女はあたりを見回しながら恐る恐るといった感じで歩いていた。
 
「眠れないのかしら」

 びくっ、と。
 唐突に背後からかけられた声に、思わず足が竦んだ。それでもその知を帯びた声には聞き覚えがあったから、暴れる鼓動を抑えて後ろを振り向く。
 火は一度ぐにゃりと歪んですぐ戻り、声の主の病的に白い肌をぼんやりと照らしだした。

 自分とあまり変わらない、いや、少しだが自分よりも確かに低い背丈。大きな桃色の帽子。

 青い目をした少女のあどけなくしなやかな肌が白い鉄だとすれば、相手の肌は脆く危うげで、けれど上質な絹だった。その病的という形容が最もしっくりくるほどの白さは、彼女が人とは決定的に違うものだという事を感じさせた。
 人形のような容姿は実に少女的だけれど、青い目を真っ直ぐ射止める双眸は深い色をしていて、長い年月を生きた者にしか持てないのであろう、茫洋としているようで煌々とした光を湛えている。
「はい、目が冴えてしまって」
 相手が見知った、敬愛すべき者である事に気付いた少女は少し恥じらう様にして答えた。少量の黒を水に溶いた透明な薄暗闇の中で、ぱっとその頬が赤らんだようにも思えた。
 女性の方もつられるように微笑むと、少女の手を優しく握った。自分より温度の低いその手に思わず身震いしてしまうが、それより嬉しさの方がずっと勝って、失礼のない強さでその手を握り返す。
 手を繋いだ二人は無言無音の目配せののち、暖を取れそうな部屋に向かって歩き始めた。


 身の奥までじわじわと染み入ってきそうな冷たさを感じる廊下とはうって変わり、赤というよりは橙や黄、白といった光が揺らめく暖かな談話室。
 中央にでんと置かれた布張りの大きなソファに二人並んで腰を降ろすと、女性は少女の肩にそぅっと手を置いた。それは抱き寄せるとかいった類の仕草というよりは、一種の合図のようである。
「え?」
 少女の戸惑う声にも構わずに、女性は方に乗せた手を自分の方へと引き寄せた。
 すると、自然の物理に従い、少女の頭はぽすんと乾いた柔らかい音を立てて女性の小さな膝の上へとおさまった。続いてほぼ同時に上半身が倒れ、腰から上だけソファに寝転ぶような形になる。
「その体勢じゃしんどいでしょう、靴脱いで寝転んじゃって良いわよ」
 少し躊躇いはあったが、腰を捻った状態のままでは確かに辛いので、少女はその言葉に甘える事にした。幸い履いていたのは簡素なローファーだったから、手を使わずとも足だけですぐ脱げる。
 はしたないその行動を、しかし女性は咎めなかった。几帳面につけられたヘッドドレスを髪に引っ掛からないようにそっと外してやって、少女の頭を優しく何度か撫でてくれただけだった。

「あなたの部屋って、夜になると冷え込むらしいから……ここに来れば眠くなるかと思ったんだけど、どう?」
 普段よりもその声音はとても柔らかく、いつもと同じくらいに優しい。だからこそ申し訳ないなと思いながら、少女は何度か首を横に振った。
「そう」
 特に気を悪くした風もなく女性は考え込み、しかし十数秒ほど経つと顔を上げた。

「―――じゃあ、子守唄とか、どう?」

「わ、私は子どもじゃありませんっ」
 少女は間髪入れずに抗議を入れる。険しくなった青い両の眼は、駄々をこねる子どもを見つめている母親のような、女性の微笑を映し込んでいた。

「私に……いえ、私たちにとっては、幾つになったってあなたは子どもみたいなものよ?語弊はあるかもしれないけどね。一応言っておくけれど、あなたが思っている意味での『子ども』扱いはしていないわ」
「で、でも……」
「良いから。ものは試しって言うでしょ?」

 そうだ。そういえばこの方は相当頑固だった。この人らしいなと、少女は苦笑しながら頷いた。すると、分かれば宜しいと言わんばかり、上機嫌そうに髪を撫でられる。それは徐々に梳くような動きに変わり、暖かな光の揺れる薄暗い談話室は緩やかに沈黙を始めた。
「……」
 ぱちぱちと燃える暖炉の乾いた音だけが部屋を埋める様になった辺りで、女性が大きく息を吸う。
 少女は両の瞼を閉じると、そうっとその両耳を澄ませた。

 聴こえてきたのは、耳になれないどこか異国の子守唄。
 けれど。遠い遠い昔に、数字にして見てみれば案外遠くもない過去に、少女はその歌を聞いた事がある気がした。
 気の所為かも知れない。
 だけれど。

「あの」

 閉じていた目を薄く開くと、女性の声もぴたりと止まる。どうしたの、と無言のうちに尋ねる瞳に、おずおずと少女は呟いた。この少女は随分と臆病というか気の引けた性質であったが、気になった事や疑問はすぐに口にする。

「少し、音程が違うんじゃ……」

「……」
「……」
「細かい事は気にしない」
「は、はいっ」
「……歌は不得手なのよ」

 女性の頬が暖炉の火の熱さや光以外の理由で赤くなっているのが、不明瞭な視界でもはっきり見えて、思わず口に笑みを浮かべたまま少女は再び目を閉じる。

 取り繕う様な、照れ隠しのような、どこか幼い少女じみた女性の咳払いの後。途切れた所から再び異郷の唄が聴こえて来た。

 少し違和感は覚えるけれど、心地良い声に耳を傾けているうちに羽毛のような甘いまどろみが身を包んでいくのが分かる。
 歌のおかげか、自分の前で燃える火の暖かさの所為か、それとも髪を撫でてくれる小さくも優しい母の手があまりに心地良かったためか、はたまたそれらの全てか。

 少女はいつの間にか夜の暗さも冷たさもすっかり忘れて、健やかな眠りへと落ちていた。



     ◆



「ですから、子守唄は侮れないんですよ。体力有り余る十二歳の女の子ですらすやすや眠らせてしまうんですから」
「なるほどねぇ……。あ、ところで」
「はい?」
「多分その女の子って咲夜の事だと思うんだけど」
「あ、ばれちゃいました?」
「いや、この館で青い目って咲夜だけだし」
「これは盲点」
 どこか白々しさすら感じる従者のとぼけた顔に、妹君は苦笑交じりの溜め息をついた。その後こほんと咳払いを一つ。気を取り直してメイドに訊いた。
「その、女性って誰のこと?」
「あら妹様。いくつか出した特徴を踏まえてみれば、直ぐお分かりになると思いますよ?妹様もよぉくご存知のお方ですわ」
「うぅん……あっ!」
 意味深でちょっと意地悪なメイドの言葉にフランドールは少しばかり頭を悩ませ、しかし頭の回転が速い彼女だから、直ぐにその幼い顔立ちを上げて真紅を煌めかせる。
「ねぇ、それってもしかしてさ―――」


 ガチャリ。


 突然背後で鳴った金属音に、二つずつの青と紅が扉へ向けられた。
 ドアノブが回され蝶番が軋む音を立て、古めかしい扉がぎぎぎと開く。

「ここにいたか、咲夜。……と、フランも。二人で仲良く抜け駆けか?」
 談話室に入ってきたのは、就寝前と思われる紅魔館の当主だった。


 齢十二よりも少しばかり低い背丈。
 眠る前だというのに、明るい空の色をした髪の上には大きな桃色の帽子を乗せていた。


「どうにも寝付けなくてね。……どうしたフラン?そんな目で姉を見て。随分楽しそうな顔をしているが」
「―――ううん、なんでもないよ。ねえお姉様、眠れないなら一緒に咲夜の子守唄でも聴いてみない?」
「子守唄?咲夜が?」
 妹によく似た紅色の目を丸くした悪魔がメイドを見やると、お茶目な人間は片目を瞑ってこれに返す。レミリアも面白そうだと言わんばかりに口の端を上げ、意外にもすんなりとソファへ腰掛けた。
 暖炉側から見て、咲夜の右にフランドール、左にレミリア。両手に花とはよく言うが、両手に悪魔というのはなかなか珍しい光景だ。
「宜しければお使いください。寝心地は保証できませんが」
 そう言って咲夜が両の膝を軽く叩くと、示し合わせたかのようにぴったりのタイミングで姉妹はそこに頭をおろした。
 ゆったりと作られた布張りのソファは、小柄な二人が寝転んだ所で全く問題はない。
「こういう眠り方も、ありかもしれないな」
「お姉様、静かにして」
「む」
「これから寝るんだから。ね、咲夜。歌ってよ、子守唄」
「ふふ、そうですね。……お嬢様、そんなお顔をなさらずに」
 妹にざっくりと扱われ少し悲しげな主を宥めながら、咲夜は瀟洒に笑って頷いた。
「それでは、瞼をお閉じになってください。……良い夢を」
 ぱちぱち燃える火の音と、三人の呼吸だけが部屋を埋めた時、一人が大きく息を吸うのが聞こえた。
 呼吸と一緒に、薪が炭に変わる独特の匂いがした。

「―――」

 それから聴こえてきたのは、どこか異郷の子守唄。
 膝の上で寝息を立てる姉妹が、少女の何十倍も長い時を生きていると一体誰が分かるだろうか。それほどまでに、その歌に満ちているのは火よりも優しい母性である。
 元来寝付きの悪さはそこまででもない二人ではあるが、瞼を下ろしてから何も言わずにすんなりと眠りに落ちるのはなかなかに珍しい、と少なくとも咲夜は思った。母性の微笑みの中に少し誇らしげなそれを混じらせて、けれども子供じみた表情を誰にともなく隠す様に、微かに乱れた当主の髪を上質な手櫛で整える。透き通る薄蒼の短髪は、火の灯りに染まり夜のような寒色と暖色の対比を浮かべていた。燃えあがるが如くの長い黄金色の髪は、火に照らされた太陽だった。
 色素の薄い銀色の髪を、太陽光を受ける月と同様に明るい色に染めながら、寝息ばかりの聞こえる部屋でしばらく咲夜は歌い続けた。夢の中へ出かけた二人に届かないとは分かっている。けれど、ただ単純に、咲夜自身がその優しい音で喉を震わせていたかった。

 随分と記憶は薄れてしまっているが、それでも思い出せるのだ。冷たい鉄色の夜と、暖かい橙色の眠りを。


「……」
 主達を夢へ誘った歌を終えると、従者は静かに小さな妹君の体を抱き上げた。
 このまま朝を迎えるのも一つの方法ではあるが、やはり館の中であるにも関わらず主やその妹をベッド以外で眠らせる事はメイドの矜持がなかなか許さない。主より先にフランドールを抱き上げたのは、最初に自分を訪ねてきたのが彼女であったからだ。絶対の忠誠を主に誓ってはいるものの、融通の全くきかない人間ではないのが咲夜である。
 器用に片手で、決して抱えた体を落とす事のないように気をつけながら扉を開き、暖色に染まる部屋を後にする。自分の膝を枕にしていた主の頭の下には、抜かりなくクッションを敷いておいた。

 扉を閉めて廊下に出てしまうと、随分と寒さが身にしみたけれども、吸血鬼にしては少々高い位のフランドールの体温が咲夜をそうっと暖めてくれる。歩を進めるごとに七色の宝石がゆらゆら揺れて、その極彩色にひとたび咲夜は寒さを忘れる事が出来た。
 薄暗い灰色がかった赤の廊下。ゆらゆらと視界の中で、蝋燭と宝石が揺れている。

「あら」

 ぴたり。
 揺れているもののうち、色味の多い方の動きが止まる。それは咲夜が歩を止めたからに他ならず、彼女は視界に新しい色を捉えたことでそうしたのであった。その色は徐々にこちらに近づいてくるようで、曇った足音もそれに呼応して大きくなってきている。緑色と、赤と形容するには明るすぎ、橙というには暗すぎる、朱と紅の間のような色であった。
 親しげに会釈する相手に、咲夜も会釈を返しながら近寄っていった。眠り姫を目だけで示し、片手の人差し指を薄い唇に添えながら。

「お疲れ様、美鈴」
 一日の番を終えた同僚にかける労いは、夜より静かな囁きだ。
「お疲れ様です、咲夜さん」
 お疲れとは程遠い快活な笑顔を浮かべながら、同じく囁きで美鈴は返した。それから愛らしい悪魔の寝姿に目をやると、ふにゃりとその双眸を細めた。それは生来柔和な彼女の性質と相まって、強い母性を感じる笑顔である。
「妹様に対して私がこんな事言うのも失礼かもしれないですけど、こう、本当に、可愛らしいですよね」
 恐縮しながらも表情が緩みきっている美鈴は、二人に近付き一度だけ長い金糸を梳いた。
 それからついでに銀色も撫でた。
「なんで私も撫でるのよ」
「いえ、なんとなく撫でたくなって」
「そう」
「あれ、前は子供扱いしないでって怒ってたのに」
「それくらいで怒るほど、子供じゃなくなったわよ」
「うぅむ、それはそれでちょっと寂しいですねぇ」
「怒られたいの?」
「遠慮しときます」
 おお怖い、と。全く怖そうな顔をせずにわざとらしくわが身を抱き締める動作をする美鈴に、咲夜も思わず口元が緩んだ。
 このおどけた同僚と言葉を交わすと、無駄に入っていた肩の力が自然に抜けていく気がする。
「あ、そうそう。仕事終りで悪いんだけど、一つお願いしても良い?」
「夜伽ですか?喜んでお受け」
「冗談でも怒るわよ」
「ごめんなさい」
 子供扱いには怒らなくなったが、大人過ぎる扱いには怒る様だった。
 このメイド長、難しい年頃である。
 本気で怖い顔をする咲夜に平謝りする美鈴の表情には、未だ柔和な笑顔が貼りついてはいるものの、だらだらと冷や汗が浮かんでいた。それに咲夜は呆れの溜め息を一つ。蒼の瞳だけで自分の後ろを示した。
「お嬢様が談話室のソファで眠っていらっしゃるから、起こしてしまわないようにベッドまで運んでいってくれる?あと、暖炉の火を、部屋を出る前に消しておいてもらえるかしら」
「あ、はい。了解です」
「ありがと。で、ちなみに」
「はい?」
「夜這いは駄目だからね」
「だ、だからあれはほんの軽い……」
「冗談よ」
 にやりと笑って自分の横を通り過ぎていく同僚に、門番は「ひどいや咲夜さん」と子供じみた非難を呟いた。彼女の冗談は冗談に聞こえないから心臓に悪い。薄暗くて表情の読みにくい館の中なら尚更だ。
 けれど、次にはもう既にふにゃっと笑っていた。
 仕事終りの同僚との掛け合いが、美鈴の楽しみの一つだ。

 随分と弁の立つようになってきた少女の冗句にもう一度苦笑いして、美鈴は咲夜と逆方向に歩いていく。まずは頼まれた事を忠実に遂行して、それから部屋に帰って自分も主達の様に夢の中へ散歩しに行くとしよう。
 きっと、今日も良い夢が見られる筈だ。



 門番が主を部屋まで運び、当主の毛布が実に上質で柔らかく暖かいものであるかを夢中で楽しみ始めた時間帯である。
 その場にいたのなら「夢の中は夢の中でもそれは違うだろう」と指摘しつつ門番の額を軽く小突くであろうメイド長は、妹君をベッドへ寝かし終わり、再び赤い廊下を歩いていた。
 けれどその進路は彼女の私室と違う方向であり、だが決して彼女は道に迷っている訳ではない。
 自分の能力で広くしている館にも関わらず「ちょっと遠すぎないかしら」などと愚痴をこぼしつつ、足早に、静かに、一点を目指して歩いていく。既に目的地への扉は視認できる距離にあって、それを見て咲夜の歩調は更に早まった。

 扉の前でぴたりと止まり、ノックもなくドアノブを捻る。

 少し開くと廊下と変わらない温度の空気が咲夜を包んで、ドアノブで掌を冷やした分、少し損をした気分になった。
 無音を保ったままドアを閉じて中に入れば、薄暗く巨大な空間が視界に広がる。ぼう、と不思議な色の光が、そこらに幾つも飛んでいた。初見なればしばらく呆けて見つめていてもおかしくはない光景を、しかしながら咲夜はさして時間をかける事なく視界から外した。
 中空に投げていた視線は下へ行き、左右に動く。二、三度動き、そして止まった。
 真っ直ぐに一点を見る青の瞳。ぴんと背筋を伸ばすと、そちらに向かって瀟洒然たる振る舞いで歩んでいく。

「眠れないのかしら」

 けれど、数歩進んだ所で足は止まった。
 知を帯びた声が、目的地の辺りから聴こえてきたからだ。
 その言葉には聴き覚えがあった。ひどく懐かしい、心地の良い響きだった。
 
「ええ、目が冴えてしまって」

 それに返す咲夜の声に、向こう側から少し笑う吐息。
 更にもう何歩か進めば、声の元に辿りついた。
「談話室は冷え込まないでしょう?」
「暖炉では暖まらないものもありますわ」
「例えば?」
「撫でてくれる手が恋しくて震えるメイドの心、ですとか」
「そんなメイドは一人しか心当たりが無いわね」

 齢十二より少しばかり低い背丈。頭には大きな桃色の帽子。


 パチュリー・ノーレッジはいつもより幾分か柔らかい表情で、手に持つ本をぱたんと閉じた。


「よく私が談話室にいたと分かりましたね?」
「知ってるかしら、廊下の蝋燭の火って私の魔法で出来てるのよ」
 精霊魔法とは、なるほどなかなか恐ろしい。
 大図書館の奥の方に積もっている埃に対する忠言は今度から蝋燭に向かってする事にしよう。咲夜は心中で決意した。
「で、咲夜にしては随分と変わった時間に来たわね」
「まあ、はい、その」
 思い出したんです、と。珍しく歯切れの悪い口調で、もごもごと呟く。扉を開いて彼女に会うまでは、もっとすんなり切りだせると思っていたのに。紫の瞳から咲夜の視線はふいと外れて、代わりに少しだけ薄紅の灯った頬がパチュリーの視界に映った。
「その、まあ、なんと申し上げるべきか」
 俯きがちになる咲夜を見つめるパチュリーの口元は軽く笑んでいる。気がつけばそこらに橙色の火がふわふわと飛び始めており、二人の周りの空気はほんのり暖かくなりはじめていた。
「ねえ、咲夜」
「……はい」


「『眠れないのかしら』?」

 俯きがちな頭がこくりと頷いて、それは咲夜なりの精一杯の首肯だった。


「子守唄は子どもっぽいから嫌?」
「いえ、咲夜はもう、そんな事を気にするほど子どもではありません」
 自分の傍らを手で示しながら、パチュリーが浮かべるのはどこか悪戯っぽい笑顔。
「案外馬鹿にできないものね、子守唄」
 示されたそこに咲夜がおずおずと座ると、それでもやはり自分より随分高い位置にある銀色の髪を、無理に体を伸ばして何度か撫でた。それは外側だけ見たらアンバランスなスキンシップで、けれど違いなく親子の肌の触れ合いだ。
 パチュリーは全てを見透かしているかのように、普段は座らない大きくゆとりのあるソファに座っている。咲夜が「何か」を枕にしてここに寝転んだとしても、全く問題のない大きさだ。
「靴は脱いじゃって良いから」
 ほんの少しの躊躇いを解く、パチュリーの魔法。
 必要なものは母性と慈愛、それに短い呪文が一つ。


「おいで」


 膝を片手でぽんと叩けば、咲夜の頭がそっと小さなそこへ降りてくる。
 少し俯きがちで、横顔は銀糸のショートボブが隠してしまっていた。その髪を払いのける事はせず、魔女はメイドの頭に几帳面につけられたヘッドドレスを、髪に引っ掛からないようにそっと外してやって、頭を優しく何度か撫でた。それは大切にしている本を手に持つ時より、古びて破れそうなページを捲る時より、ずっと繊細な触れかただ。
「……パチュリーさま」
 懐かしい手の温度に、穏やかなまどろみが身を包み始める。
 閉じた瞼の向こう側で、橙色の光が自分を暖めているのが分かった。
「子守唄、聴きたいです」
 その言葉の間だけ、微かに開いた瞼から、細く薄く蒼の視線が覗く。
 青い目の少女は、子が親にねだるそのままの声で、自分よりずっと幼い容姿の魔女にねだったのだ。
 言葉としての返答はなくても、頷く気配がして、そうしてパチュリーが笑みの吐息をしたのが聴こえて、それを裏付ける様に一つ髪が撫でられて、咲夜は心から安堵する。
 それは徐々に梳くような動きに変わり、暖かな光の揺れる薄暗い図書館は緩やかに沈黙を始めた。

「……」
 ぼう、ぼうと燃える火の乾いた音だけが部屋を埋める様になった辺りで、パチュリーが大きく息を吸う。
 咲夜は両の瞼を閉じると、そうっとその両耳を澄ませた。

 異郷の子守唄は、やはりどこか懐かしい。
 あの時と何も違い無かった。不器用で、音程は時折外れていた。
 けれど、咲夜はそれに対して指摘をする事はない。
 合っているのだ、これで。
 音を外す度に聴こえてくる小さな咳払いと、照れ隠しが混ざる声。
 だからこその、咲夜の為の子守唄。
 すぐ近くにいてくれている、自分を思っていてくれている。歌詞も音程も、眠りとあまり関係はない。相手の存在が近くに確認できて、優しい声が聞こえるから、安心して眠りにつけるのだ。
 髪でも隠しきれない口元に浮かぶのは、母に抱かれる子どもそのものの、無邪気で柔らかい笑顔である。
 そうして、咲夜からは見えなかったけれど。パチュリーの表情もまた、愛し子を抱く母そのものだった。

 大図書館の片隅は、橙の光と暖かな空気と、親子の静かな愛情と、やさしい歌で満ちている。
 それが徐々に静かになって、寝息が一つぽつんと生まれて、橙の光も少しずつ弱まって、最後に寝息は二つに増えた。


 爪の先ほどになった小さな炎が揺り籠の様に揺れながら、鉄色の夜を照らしていた。
「そんな風にして寝てたら風邪引いちゃいますよ?」
 珍しく眠りこんでしまった主と珍しく子どもの様に甘えている同僚の傍に、音も無く紅い髪をした従者がやってきて、そうっと毛布をかけてやった。
 顔を綻ばせ、頭に生えた一対の黒い翼を揺らしながら、それぞれの額に一つずつ挨拶代りのキスをする。
 満足そうにもう一度笑うと、眠る二人に一礼して、静かにソファへ背を向けた。

「おやすみなさい。良い夢を」

 薄い闇が幾重にも重なり、見通せない程に暗い図書館の奥へ歩いていく。
 一度だけ止まり振り向けば、遠くで未だ、相当に小さくなってはいるものの、暖かい陽が照っていた。
「こあぁ」
 気の抜けた欠伸が押し殺す前に零れ出て、眠たげに袖で目尻を拭う。こんな寒い日の夜は、例え悪魔であろうと否が応にも眠気が襲ってくるものだ。
 袖から顔を離した時には、すっかり表情はふにゃりと眠そうな笑顔に変わっていた。

 寝る前に良いものが見れたから、きっと今日は良い夢が見れる事だろう。

    ◆

 閲覧ありがとうございます。
 フランドールと咲夜さん、及びパチュリーと咲夜さんのやりとりを考えていたら紅魔館のお話になりました。
 愛され咲夜さんと、家族みたいな紅魔館メンバーが大好きです。
古紙配合50%
コメント



1.奇声を発する程度の能力削除
とても優しい雰囲気に包まれた良い紅魔館のお話でした
2.名前が無い程度の能力削除
これは書けないなぁ。
夜の空気をここまで大事にしてシーンを綴るのは、自分にはできない。
好いお話でした。
3.名前が無い程度の能力削除
……これはやられた。
すっかりレミリアだと思ってたら、パチュリーだったとは。

なんと言うか……綺麗に引っ掛かったせいか、ミスリード含めて、読後感が実に心地好かったです。
良い作品に巡り会えました。
4.弘鷹削除
最初はレミリアかと……。
咲夜さんとパチュリーの関係が実に自分の理想でした。
パチュリーさんは紅魔館のお母さんですね。
暖かい作品、ありがとうございます。
5.名前が無い程度の能力削除
ぐっど!グッドよ!古紙配合50%ちゃん!
6.名前が無い程度の能力削除
完璧にレミリアと勘違いしてました
ほのぼのしい雰囲気で良かったです
7.名前が無い程度の能力削除
ママパチュリーがいい!
8.名前が無い程度の能力削除
良い雰囲気だ。
和みます。
9.名前が無い程度の能力削除
いいね
10.名前が無い程度の能力削除
素敵なお話をありがとう。読めて幸せ。