魔理沙は、歩き慣れた館内を散策していた。
彼女が歩くそばに並ぶのは、数多の知識を内包した本の塔。
どこまで歩いても景色は変わらず、図書館は果てがないように思えた。
彼女が通り過ぎていく本棚には、いつも本が満たされている。
だから、果てを見てみようと。
この図書館の、どれだけ多くの本に目を通したとは言えないが、
この本棚が半端に埋まっているような場所になら、新しい本があるのだろう、と。
魔理沙は歩き続ける。
どこまでも、どこまでも。
怖いくらいの静寂の中へ踏み込んでいく。
「こぁー」
「お」
本棚が、不完全に埋まっていた。
整理中なのか、それともそこに収めるべき本がないのか、
今まで完全に本のみで埋まっていた本棚が、途切れていた。
「こぁ~」
「よっしゃ、ちょっと立ち読みしてこ」
魔理沙はためらうことなく、本棚から厚手の魔導書を一冊引き抜いた。
本棚には、その分だけ隙間が出来る。
不安定に収められていた本は倒れ、それがまた隣の本を倒し、ドミノのような連鎖を引き起こして――
「こぁぁ~……」
魔理沙は、敢えて気付かないようにしていたものを意識せざるを得なかった。
本棚から涙目で見つめてくる彼女。
いや、それだけなら魔理沙はいつも通りにしていられただろう。
何故彼女が『本棚の中にいるか』という問題はさておき。
更に言うなれば、彼女の格好そのものも非常に問題である。
「ひ、酷いじゃないですか魔理沙さん。
こんなか弱い中ボス相手に魔導書18冊分の食物繊維とベータパチュリー配合の撲殺事件だなんて……」
「あ~……いやまあ、悪気はなかったんだが」
目の前の非常識な光景と、淀みなくすらすらと奇天烈なことを話すその相手に、魔理沙は軽く頭痛を覚えていた。
本棚の中には、小悪魔がいた。
――箱に入っている、小悪魔がいた。
何も知らず、小悪魔自身が黙っていたのならば、やけにリアルな彫像か何かとして片付けることは出来ただろう。
だが、ころころと表情を変え、更には口をきいたからには、魔理沙はそれを小悪魔と認識せざるを得なかった。
箱の大きさは、横幅が小悪魔の頭くらい、高さも小悪魔の頭くらいある。
つまりは、普段の長身が2頭身に縮んで、箱の中に収まっていた。
主であるパチュリーの奇妙な実験に付き合わされ、このような姿になってしまったのだろうか。
暗い書斎の奥の奥、余分な本棚のスペースを埋める目的で置き去りにでもされたのだろうか。
魔理沙の思考にいくつもの説が浮かんでは消えていくが、当の本人はこの現状を悲しむ様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「と……とりあえず、何してるんだ?」
「見てわかりませんか? お仕事中なんですけど」
にこやかな小悪魔に『解るか』と、魔理沙は心の中でツッコんでおいた。
「誰かさんが大量に本を持ち出して下さいますので、本棚にも空きスペースが沢山出来てしまうんです。
ですからこうやって、私自らがそれを埋めていた次第です」
「じゃあ何で箱に入ってるんだ?」
「普通に本棚に入ったら、身体が痛くなっちゃうじゃないですか。
ですから、そのためにパチュリー様に開発して頂いたこの箱に入っているんです」
えっへん♪ と言わんばかりに胸を張る小悪魔。
もちろん小悪魔は箱に入っているため、張る胸は見えないのだが。
「寒空の下では温かな家に、家具がなければテーブルに、
そして潜入任務では完璧なカムフラージュに! その名はDANボールっ!!」
「それはまた凄いな。特に最後。私が使ってもか?」
「そうですねぇ。紛れられたら、私も区別がつかないかもしれません」
そこまで聞いた魔理沙は笑顔を浮かべ、穏やかに小悪魔の頭に手を置き、
「じゃ、ちょっと貸してもらうぜ」
ぐい、と引っ張った。
「――っっ!?」
「ふふ、おいたは駄目ですよー。
引っこ抜かれてもついていったりしませんし、私だって出れませんから」
魔理沙は自分の手に伝わった感触に驚き、反射的に手を放した。
引っ張ったはずなのに、その手応えがなかったのだ。
「詳しいことは解りかねますが、どうやらこの中は変な空間になっているみたいなんですよ。
なので、見た目は小さいですけど窮屈じゃありませんよ。
むしろ眠くなるくらい暖かくて快適なので、出たくないと言いますか」
「で、出れないって言ったのは……?」
「気持ち良すぎて出れないのもですけど、本当に出れないんです。
この箱、パチュリー様にお願いしないと、出ることも入ることも出来ないんです。不思議ですよね」
そうは言うものの、小悪魔の笑顔は崩れない。余程快適なのだろう。
「しかしですね。パチュリー様の能力をもってしても、解決出来ない問題が1つだけ」
「出れないのは問題じゃないのか?」
「問題の内には入りません」
十分問題だぜ、とは口には出さなかった。
だが確かに、完璧な物を造るのは難しい。
欠点が余程のものでなければ、寒がりな魔理沙にとって、その箱は十分魅力的だった。
もちろん、不自由な出入りに関しては改善の余地があるのだが。
「あまり自由に、動けないんです」
――その欠点は、あまりにも当然過ぎて。
「という訳で、パチュリー様の所まで運んで下さいっ♪」
自然に、あまりにも自然に魔理沙は本を手に取ると、ひらひらと手を振って歩き出した。
「じゃ、これ借りてくぜ」
「こぁぁぁ~……」
背後から引き止める声が聞こえていたが、魔理沙は振り返らなかった。
次第にその声は小さくなり、ただ小悪魔の鳴き声だけが館内にこだましていた。
魔理沙は歩き続ける。
「こあぁ~……」
広い図書館をただ1人。
「こぁー……」
新たなる知識を求めて。
「ぁー……」
魔理沙はただ、歩き続ける。
黙々と、歩き続ける。
…………。
………。
……。
こぁー♪
「――っ!?」
声が、聞こえた。
遠かったはずの小悪魔の鳴き声が、すぐ近くから。
だがしかし、魔理沙は先程の場所から随分歩いている。
迷い迷った揚句、元の場所に戻って来たのだろうか?
(……いや、それはないな。霊夢はともかく私に限って)
ならば小悪魔が、自力で本棚から出たのだろうか?
しかし、もし出れたとしてもあの箱である。移動するにも――
『あまり自由に、動けないんです』
(あまり――?)
それは、つまり。
こぁー♪
動けないわけでは、ないということ。
魔理沙の眼前に現れた小悪魔は、相変わらずの2頭身。
だがしかし、先程とは違って本棚には入っていなかった。
「よう、また会ったな。そんなんでも、動けるんじゃないか」
「ええ、それはもう。
目の前で本を持ち逃げされるのを、ただ鳴いて見ているわけには参りませんので」
その笑顔に含まれた鋭さは、本の守り手たる使い魔の厳しさ。
曲者とあらば大玉と苦無で出迎える、優しいだけではない管理者なのだ。
だが、魔理沙は気にしなかった。
いつもならばそんな小悪魔を撃退し、強行突破を繰り返しているのだ。
「また人聞きが悪いぜ。借りてくだけだってば」
「魔理沙さん。そう言って今まで借りていった本の冊数を覚えていますか?」
「前に借りていった分までで、237冊だぜ」
そう、魔理沙には恐れる要因などなかった。
常勝無敗の相手に対し、何を恐れることがあろうか。
やることはいつもと変わらない。
『いつも通り借りていく』だけだ。
それは、『いつもの魔理沙なら』の話。
それは、『いつもの小悪魔なら』の話。
代わり映えのしない日常の、お馴染みの条件ならば優劣も、結果も覆らない。
だが、今日の魔理沙に立ち塞がる相手はただの小悪魔ではなかった。
「返却期限は、と~っくに過ぎてるんですけどね。
それとも、多少お仕置きしないと解って頂けませんか?」
「そういうことは、私に被弾させてから言うもんだぜ」
パチュリーから授かったDANボールを身に纏い、その小さな身体で泥棒を懲らしめる本の守護者、こぁボックスなのだ!
「では参ります!」
小悪魔が叫ぶと、魔理沙の目に映るその姿が霞んだ。
(これは――)
魔理沙はその感覚に覚えがあった。
飛来する弾をことごとくぶれさせる、狂気の瞳の幻視。
『個』を薄く霧散させる、太古の鬼の密疎。
しかしそれは、そのどちらにも似て、そのどちらでもなかった。
こぁー♪
――声がした。
こぁー♪
こぁー♪
魔理沙の目の前から。
こぁー♪
こあー♪
多くの声がした。
魔理沙の周囲から。
右を見れば、本棚の小さな隙間にこぁボックス。
左を見れば、本棚の上にこぁボックス。
そして振り返れば、どっしりと巨大な姿で退路を阻むキングこぁボックス。
勿論、全て2頭身なのは言うまでもない。
さらに正面を含めて4体だけではない。
周囲のあらゆる場所に、大小様々なこぁボックスが多数無数、規則性も法則性もなく、魔理沙を包囲していた。
「今日という今日はお覚悟を!」
「手荒な真似は好みませんが」
「まだ、抵抗するのなら!」
「パチュリー様に代わってお仕置「遅いぜっ!!」」
魔理沙の動きは素早かった。
低い姿勢からの踏み込みで、正面のこぁボックスとの距離を縮めると、得意のマジックミサイルを数発、擦れ違いざまに叩き込んだ。
「むきゅぅ……」
「「「よ、よくも~~!!」」」
「あーばよっ♪」
そのまま館内を駆け抜けて行く魔理沙の背に、数多の光弾が、光線が、苦無が容赦なく降り注ぐ。
それを魔理沙は走り続けながらも避け、迎撃し、時には追ってくるこぁボックスに反撃を加えていた。
魔理沙が箒を持っていれば、あっさりと逃げ切れただろう。
いつもの小悪魔ならば、走る魔理沙に苦もなく追いつけただろう。
だが、魔理沙は箒を持っておらず、自慢の高速飛行を行えなかった。
今の小悪魔はこぁボックスなので、ぴょんぴょんと跳ねながら魔理沙を追いかけるしかなかった。
迎撃しつつ、魔理沙はこぁボックスを観察する。
その眼から光線を発射し、口からは(何故か口よりも大きい)大玉を撃ち出し、首の振りだけで苦無を投擲する。
――いつもの小悪魔から考えれば、明らかに芸達者。小悪魔と言えど悪魔には変わりない、これも悪魔の成せる業か。
しかし例のDANボールという箱のおかげだとすれば、パチュリーも随分と容赦がない。
双方の速度に差はなく、距離は変わらないまま互いの間で幾多もの天の川が現れては消える。
だが、地の利はこぁボックス達にある。
「そこまでですっ!!」
「おっとと」
「「「よ、ようやく追い詰めました!!」」」
逃げ続ける魔理沙の前に立ちふさがるは、思わず見上げるほどに巨大なキングこぁボックス。先回りしたのだろう。
立ち止まってしまった魔理沙は、追いかけ続けてきたこぁボックスに背後を取られることになった。
不利な状況に追い込まれた魔理沙は降参するかと思いきや、にやりと口端を歪めた。
「そーかそーか。前も後ろも逃げられない。これは確かに厳しいな。
でかい方は頑丈そうだし、かといってそっちは数が多い。片方落とす前にもう片方にやられるだろうな。
――でもな小悪魔。『窮鼠猫を噛む』って言葉、知ってるか?
そして、切り札は最後まで取っとくもんだぜっ!!」
「「「「!?」」」」
霧雨魔理沙の切り札。
それは永夜すらも切り裂く恋の光・マスタースパーク。
その圧倒的な威力ならば、前後どちらかのこぁボックスを吹き飛ばし、容易に逃げ道を確保出来るだろう。
魔理沙は八卦炉を取り出そうと懐に手を突っ込み――
「……うそ、だろ?」
――固まった。
水が氷になるというレベルではない。
炭素がダイアモンドになるようなレベルで固まった。
魔理沙の懐には、何もなかった。
八卦炉もスペルカードも、何もなかったのだ。
例えるならば、パーフェクトフリーズである。
「魔理沙さん」
静かに、ただ静かに富士山のごときキングこぁボックスは問いかける。
「御自慢のスペルカードは、あと何枚ですか?」
ただ、にこやかに。
その笑みを表すならば、そう――まさに悪魔的。
「うわあああぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
本棚に左右を塞がれ、前にはキングこぁボックス、背後には数多くのこぁボックス。
そして、魔理沙は視認する余裕などなかったが、本棚の上にもこぁボックス。
迫り来るのは既に弾幕ではない。かつて体験したこともない集中砲火。
捌くことですら手一杯――いや、その数と状況から考えれば、確実に魔理沙は劣勢にあった。
こぁボックス達は、じりじりと距離を詰めてくる。
それは発射された弾が早く届くことになり、つまりは弾速の上昇と同意。
叫び声を上げながらも、パニックを起こしそうになりながらも、魔理沙は迎撃し続けるしかなかった。
それでも難易度は弾の密度と共に上昇し、必然的に『それ』は訪れる。
「あ、あ――」
「チェックメイト、ですね♪」
魔力も尽き果て、尻餅をつく魔理沙。そう、『詰み』だった。
天井すら見えないほどに高くそびえ立つのは、数えるのすら脱力するほどのこぁボックス達の壁。
その壁が、倒れてくる。
こぁー♪
逃げ場など、もはや残されてはおらず。
こぁー♪
魔理沙は、その不可避の運命の前に、断末魔の叫び声を上げることしか出来なかった。
「あああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!??」
「うるさい」
魔理沙の頭に、白い手刀が降ろされた。
「……え?」
目を開けば、そこには木製の机と黒い三角帽子。
その向こう側から、紫色の魔女の不機嫌な視線が向けられていた。
「静かに寝てるのならまだしも、うるさくしないで」
「私……寝てたのか?」
「自分の顔にでも聞いてみなさい。はい、鏡」
パチュリーは魔理沙に手鏡を渡す。
覗きこんだその手鏡には、びっしょりと寝汗に濡れ、寝跡がくっきりと残った顔が。
「夢――だったんだよな」
「何の話よ」
「はぁぁぁ~~……」
眉根を寄せるパチュリーになんでもないと手を振って、魔理沙は机に再び突っ伏した。
ひんやりとした感覚が、ゆっくりと意識を明瞭なものへと変えていく。
「二度寝でもする気?」
「ん……休憩。落ち着いたら帰ってちゃんと寝るぜ」
「……そう」
パチュリーは静かに呟いて、読んでいた本に視線を落とした。
(そう、流石にあれは夢だよな。あんな――あんなのが、夢でなくてなんだってんだ。
そういや、最近は実験ばかりで夜も遅かったし、疲れも溜まってたんだろ。だからあんな夢を――)
べったりと纏わりつく汗を拭って、魔理沙は深く息を吐いた。
どんな荒唐無稽な状況も疑問を抱かず受け入れてしまい、あわやという所で目が覚める。
悪夢というものは、大抵こんなものである。
(……第一、同じ顔の小悪魔があんなに増えてくるわけもないよな)
そしてその夢の不自然さには、起きてからようやく気付けるのだ。
帽子をかぶり直した魔理沙は、近くに置いてあった目当ての本を抱えて立ち上がった。
「帰るの?」
「ああ、ついでにこれ借りてくぜ」
「……そう」
素っ気無いパチュリーの返事に魔理沙は幾分違和感を覚えたが、少々首を傾げただけだった。
そのままパチュリーの側を通り過ぎ、図書館から出ようとした所で魔理沙は立ち止まった。
「あ~……悪い。私の箒、どこにあるか知らないか?」
魔理沙は箒を持っていなかった。
何処かに置いて来たのだろうが、何故か思い出すことが出来なかったのだ。
「ちゃんと覚えておきなさいよ」
「いやほら、ド忘れくらい誰にだってあるだろ?」
茶化すような魔理沙の言葉に、パチュリーは何かを思い出し小さく微笑んだ。
その仕草は、とても百年を生きた魔女とは思えない。
「まあそうね。咲夜もよくやるけど。箒ならきっと、玄関脇の傘立てでしょう。
たまにメイドが使ってるから、まだそこにあるとは限らないけど」
「む、掃除道具に使われてるのか。ここのメイドは私の箒を何と心得る」
「箒で空を飛ぶなんて、古風な魔女くらいなものよ。元々掃除道具じゃない」
それは2人のありふれた、『日常』のやりとり。
その暖かさに、魔理沙は心の底から先程の夢がただの夢であったと信じることが出来た。
身を震わせるほどの恐怖も、
思わず溢れ出そうになった涙も、
全ては――夢でしかなかったのだから。
「メイドが箒使ってたらどうするの?」
「決まってるだろ、さっくり奪い返して帰るだけだぜ」
――さあ、行こう。
「じゃ、またな」
魔理沙は力強く一歩踏み出し、ドアノブを掴むと軽やかに……
「あ、あれ?」
ドアノブは、回らなかった。
「おいパチュリー、このドアこんなに立て付けが悪かったか? びくともしないんだが」
何とか開かないかと、押したり引いたりをしていた魔理沙は、振り返って尋ねる。
パチュリーは椅子から降り、見た目以上にのんびりとした足取りで近づくと、静かにドアノブを掴んだ。
――当然、ドアは開かなかった。
「な、開かないだろ?」
「『さっくり奪い返して帰る』……ね」
静かに呟くパチュリー。その表情は、俯いていて見えない。
「ねえ、魔理沙」
「な、何だよ」
顔を上げ、真正面から魔理沙を射抜く視線には、知識の魔女と呼ばれるに相応しい鋭さが。
機嫌が良いのか悪いのかは知れないが、口元には僅かな笑みが。
そんな不可解な表情のパチュリーに呼ばれた魔理沙は、得体の知れない恐怖を感じていた。
そして、それは次の言葉で一気に具現化する。
「――逃げ切れると、思った?」
「……え?」
こぁっ♪
「――え?」
こぁー♪
「嘘……だろ?」
「いえいえ心外ですね魔理沙さん。
逃げも隠れも悪戯もしますけど嘘だけはつかないのがこの小悪魔でございます」
声が聞こえた方を向くと、そこには。
「ふふふふふー」
「逃げて逃げて逃げて逃げ続けて何処へ行くつもりだったんですかー?」
「使い魔は寂しいと色々大変なのでもっと構って下さいよ~」
「さっきのは結構効きましたよ……!」
ただの悪夢、だったはずの。
「館内の本の貸し出し期限はとーっくに過ぎてますけど」
「整理するのだって大変なんですけどね」
「パチュリー様、今度一緒に紅茶でも――」
箱詰めにされた、小悪魔達が。
「はい、そこうるさい」
「にゃふっ!?」
そのうち1人が、パチュリーの魔法で吹き飛ばされた。
「パチュリー様、ご命令を」
「好きにしなさい、小悪魔」
「「「「らじゃー♪」」」」
それでも圧倒的な数が壁を成し、開かない扉を背にした魔理沙に近づいてくる。
「あ……」
「魔理沙、あなたは良い友達だったわ」
パチュリーの手には、八卦炉と魔理沙のスペルカード。
こぁボックスの壁、攻防一体のこぁウォールはじりじり、じりじりと空間を奪っていく。
「あ――」
「……でもね、その蒐集癖がいけないのよ」
最早、逃げる場所などどこにもなく。
「ああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
魔理沙は再び、詰むこととなった。
――後日。
「パチュリー様、お客様が見えられてます」
「ん……通して」
「かしこまりました」
メイドに対し答えながらも、本からは顔も上げないパチュリー。
そんな彼女を訪ねてきたのは、ハードカバーの本を抱えた金髪の魔法使いだった。
「こんにちは。借りてた本、返しに来たわよ」
「あら……アリスだったの、本は小悪魔に渡してくれればいいわ」
相手がアリスと知り、パチュリーはようやく本から顔を上げた。
数体の人形を従え、それらにも本を抱えさせている。
風呂敷包み持参で持っていく魔理沙に比べれば、遥かに良識ある利用者だろう。
「小悪魔……ああ、あの赤い髪の?」
「ええ。私の自慢の使い魔よ。多分……そこの本棚をずっと行った所にいると思うわ」
「ふふ、ありがと。ところで、ついでに尋ねたいことがあって来たんだけど――」
アリスは一旦そこで言葉を切り、やがて意を決したような口調で
「――魔理沙、最近見なかった?」
そう、尋ねた。
「……ええ、見たわよ」
「ほ、本当!?」
勢いで思わず身を乗り出すアリス。そんな彼女にパチュリーは、ただ静かに視線を本に戻した。
「本当、小悪魔と一緒よ。探してたのなら、運が良かったわね」
「うん、本当に良かったわ。ありがとう」
アリスは図書館の奥へと歩いていく。
どこまでも、どこまでも。
怖いくらいの静寂の中へ踏み込んでいく。
そんな後姿を見送って、パチュリーは誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。
「……図書館ではお静かに、よ」
こぁー♪
――やがて、アリスの叫び声が館内に響き渡った。
「ま――魔理沙ぁぁっ!?」
友人の変わり果てた姿に、アリスは声を上げざるを得なかった。
傍らには血のように赤い髪を伸ばし、穏やかに笑い続ける小悪魔。
「あら、アリスさんですね。毎度の丁寧なご利用ありがとうございます。本の返却ですか?」
至極丁寧な口調は来客用。動揺するアリスとは対照的に、その心には一切の乱れもない。
そのあまりの落ち着きぶりに、逆にアリスは自分が何か不自然な物でも見たのかと錯覚しそうになった。
「え……ええ。そうなんだけど、その――」
「ああ、ご心配なら無用ですよ。確かに動きづらいですけど、平常業務には支障はありませんので」
目をこすっても、そこに見える状況は変わらない。それは、現実だった。
――本棚に、箱詰めにされた小悪魔と魔理沙が収まっていた。
しかし、表情豊かに話す小悪魔とは対照的に、魔理沙は目を閉じたまま口を開かない。
「えーと、こっちは魔理沙……よね?」
「ええ。疑いようもなくどこからどう見ても霧雨魔理沙さんに間違いは――あ、何で寝てるんですか!?」
こつり、と小悪魔が隣の魔理沙の頭に頭突きをかます。しかしながら、魔理沙は微動だにしなかった。
「参りましたねー。まだまだ業務時間なんですけど」
「業務時間……? ってそれより、何で魔理沙がここでこうなってるのよ」
混乱しながらも問うアリスに、小悪魔はそれはもう素敵な笑顔でこう告げた。
「パチュリー様が『好きにしなさい』と仰られたので、私のお手伝いをしていただいてるんです♪」
彼女が歩くそばに並ぶのは、数多の知識を内包した本の塔。
どこまで歩いても景色は変わらず、図書館は果てがないように思えた。
彼女が通り過ぎていく本棚には、いつも本が満たされている。
だから、果てを見てみようと。
この図書館の、どれだけ多くの本に目を通したとは言えないが、
この本棚が半端に埋まっているような場所になら、新しい本があるのだろう、と。
魔理沙は歩き続ける。
どこまでも、どこまでも。
怖いくらいの静寂の中へ踏み込んでいく。
「こぁー」
「お」
本棚が、不完全に埋まっていた。
整理中なのか、それともそこに収めるべき本がないのか、
今まで完全に本のみで埋まっていた本棚が、途切れていた。
「こぁ~」
「よっしゃ、ちょっと立ち読みしてこ」
魔理沙はためらうことなく、本棚から厚手の魔導書を一冊引き抜いた。
本棚には、その分だけ隙間が出来る。
不安定に収められていた本は倒れ、それがまた隣の本を倒し、ドミノのような連鎖を引き起こして――
「こぁぁ~……」
魔理沙は、敢えて気付かないようにしていたものを意識せざるを得なかった。
本棚から涙目で見つめてくる彼女。
いや、それだけなら魔理沙はいつも通りにしていられただろう。
何故彼女が『本棚の中にいるか』という問題はさておき。
更に言うなれば、彼女の格好そのものも非常に問題である。
「ひ、酷いじゃないですか魔理沙さん。
こんなか弱い中ボス相手に魔導書18冊分の食物繊維とベータパチュリー配合の撲殺事件だなんて……」
「あ~……いやまあ、悪気はなかったんだが」
目の前の非常識な光景と、淀みなくすらすらと奇天烈なことを話すその相手に、魔理沙は軽く頭痛を覚えていた。
本棚の中には、小悪魔がいた。
――箱に入っている、小悪魔がいた。
何も知らず、小悪魔自身が黙っていたのならば、やけにリアルな彫像か何かとして片付けることは出来ただろう。
だが、ころころと表情を変え、更には口をきいたからには、魔理沙はそれを小悪魔と認識せざるを得なかった。
箱の大きさは、横幅が小悪魔の頭くらい、高さも小悪魔の頭くらいある。
つまりは、普段の長身が2頭身に縮んで、箱の中に収まっていた。
主であるパチュリーの奇妙な実験に付き合わされ、このような姿になってしまったのだろうか。
暗い書斎の奥の奥、余分な本棚のスペースを埋める目的で置き去りにでもされたのだろうか。
魔理沙の思考にいくつもの説が浮かんでは消えていくが、当の本人はこの現状を悲しむ様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「と……とりあえず、何してるんだ?」
「見てわかりませんか? お仕事中なんですけど」
にこやかな小悪魔に『解るか』と、魔理沙は心の中でツッコんでおいた。
「誰かさんが大量に本を持ち出して下さいますので、本棚にも空きスペースが沢山出来てしまうんです。
ですからこうやって、私自らがそれを埋めていた次第です」
「じゃあ何で箱に入ってるんだ?」
「普通に本棚に入ったら、身体が痛くなっちゃうじゃないですか。
ですから、そのためにパチュリー様に開発して頂いたこの箱に入っているんです」
えっへん♪ と言わんばかりに胸を張る小悪魔。
もちろん小悪魔は箱に入っているため、張る胸は見えないのだが。
「寒空の下では温かな家に、家具がなければテーブルに、
そして潜入任務では完璧なカムフラージュに! その名はDANボールっ!!」
「それはまた凄いな。特に最後。私が使ってもか?」
「そうですねぇ。紛れられたら、私も区別がつかないかもしれません」
そこまで聞いた魔理沙は笑顔を浮かべ、穏やかに小悪魔の頭に手を置き、
「じゃ、ちょっと貸してもらうぜ」
ぐい、と引っ張った。
「――っっ!?」
「ふふ、おいたは駄目ですよー。
引っこ抜かれてもついていったりしませんし、私だって出れませんから」
魔理沙は自分の手に伝わった感触に驚き、反射的に手を放した。
引っ張ったはずなのに、その手応えがなかったのだ。
「詳しいことは解りかねますが、どうやらこの中は変な空間になっているみたいなんですよ。
なので、見た目は小さいですけど窮屈じゃありませんよ。
むしろ眠くなるくらい暖かくて快適なので、出たくないと言いますか」
「で、出れないって言ったのは……?」
「気持ち良すぎて出れないのもですけど、本当に出れないんです。
この箱、パチュリー様にお願いしないと、出ることも入ることも出来ないんです。不思議ですよね」
そうは言うものの、小悪魔の笑顔は崩れない。余程快適なのだろう。
「しかしですね。パチュリー様の能力をもってしても、解決出来ない問題が1つだけ」
「出れないのは問題じゃないのか?」
「問題の内には入りません」
十分問題だぜ、とは口には出さなかった。
だが確かに、完璧な物を造るのは難しい。
欠点が余程のものでなければ、寒がりな魔理沙にとって、その箱は十分魅力的だった。
もちろん、不自由な出入りに関しては改善の余地があるのだが。
「あまり自由に、動けないんです」
――その欠点は、あまりにも当然過ぎて。
「という訳で、パチュリー様の所まで運んで下さいっ♪」
自然に、あまりにも自然に魔理沙は本を手に取ると、ひらひらと手を振って歩き出した。
「じゃ、これ借りてくぜ」
「こぁぁぁ~……」
背後から引き止める声が聞こえていたが、魔理沙は振り返らなかった。
次第にその声は小さくなり、ただ小悪魔の鳴き声だけが館内にこだましていた。
魔理沙は歩き続ける。
「こあぁ~……」
広い図書館をただ1人。
「こぁー……」
新たなる知識を求めて。
「ぁー……」
魔理沙はただ、歩き続ける。
黙々と、歩き続ける。
…………。
………。
……。
こぁー♪
「――っ!?」
声が、聞こえた。
遠かったはずの小悪魔の鳴き声が、すぐ近くから。
だがしかし、魔理沙は先程の場所から随分歩いている。
迷い迷った揚句、元の場所に戻って来たのだろうか?
(……いや、それはないな。霊夢はともかく私に限って)
ならば小悪魔が、自力で本棚から出たのだろうか?
しかし、もし出れたとしてもあの箱である。移動するにも――
『あまり自由に、動けないんです』
(あまり――?)
それは、つまり。
こぁー♪
動けないわけでは、ないということ。
魔理沙の眼前に現れた小悪魔は、相変わらずの2頭身。
だがしかし、先程とは違って本棚には入っていなかった。
「よう、また会ったな。そんなんでも、動けるんじゃないか」
「ええ、それはもう。
目の前で本を持ち逃げされるのを、ただ鳴いて見ているわけには参りませんので」
その笑顔に含まれた鋭さは、本の守り手たる使い魔の厳しさ。
曲者とあらば大玉と苦無で出迎える、優しいだけではない管理者なのだ。
だが、魔理沙は気にしなかった。
いつもならばそんな小悪魔を撃退し、強行突破を繰り返しているのだ。
「また人聞きが悪いぜ。借りてくだけだってば」
「魔理沙さん。そう言って今まで借りていった本の冊数を覚えていますか?」
「前に借りていった分までで、237冊だぜ」
そう、魔理沙には恐れる要因などなかった。
常勝無敗の相手に対し、何を恐れることがあろうか。
やることはいつもと変わらない。
『いつも通り借りていく』だけだ。
それは、『いつもの魔理沙なら』の話。
それは、『いつもの小悪魔なら』の話。
代わり映えのしない日常の、お馴染みの条件ならば優劣も、結果も覆らない。
だが、今日の魔理沙に立ち塞がる相手はただの小悪魔ではなかった。
「返却期限は、と~っくに過ぎてるんですけどね。
それとも、多少お仕置きしないと解って頂けませんか?」
「そういうことは、私に被弾させてから言うもんだぜ」
パチュリーから授かったDANボールを身に纏い、その小さな身体で泥棒を懲らしめる本の守護者、こぁボックスなのだ!
「では参ります!」
小悪魔が叫ぶと、魔理沙の目に映るその姿が霞んだ。
(これは――)
魔理沙はその感覚に覚えがあった。
飛来する弾をことごとくぶれさせる、狂気の瞳の幻視。
『個』を薄く霧散させる、太古の鬼の密疎。
しかしそれは、そのどちらにも似て、そのどちらでもなかった。
こぁー♪
――声がした。
こぁー♪
こぁー♪
魔理沙の目の前から。
こぁー♪
こあー♪
多くの声がした。
魔理沙の周囲から。
右を見れば、本棚の小さな隙間にこぁボックス。
左を見れば、本棚の上にこぁボックス。
そして振り返れば、どっしりと巨大な姿で退路を阻むキングこぁボックス。
勿論、全て2頭身なのは言うまでもない。
さらに正面を含めて4体だけではない。
周囲のあらゆる場所に、大小様々なこぁボックスが多数無数、規則性も法則性もなく、魔理沙を包囲していた。
「今日という今日はお覚悟を!」
「手荒な真似は好みませんが」
「まだ、抵抗するのなら!」
「パチュリー様に代わってお仕置「遅いぜっ!!」」
魔理沙の動きは素早かった。
低い姿勢からの踏み込みで、正面のこぁボックスとの距離を縮めると、得意のマジックミサイルを数発、擦れ違いざまに叩き込んだ。
「むきゅぅ……」
「「「よ、よくも~~!!」」」
「あーばよっ♪」
そのまま館内を駆け抜けて行く魔理沙の背に、数多の光弾が、光線が、苦無が容赦なく降り注ぐ。
それを魔理沙は走り続けながらも避け、迎撃し、時には追ってくるこぁボックスに反撃を加えていた。
魔理沙が箒を持っていれば、あっさりと逃げ切れただろう。
いつもの小悪魔ならば、走る魔理沙に苦もなく追いつけただろう。
だが、魔理沙は箒を持っておらず、自慢の高速飛行を行えなかった。
今の小悪魔はこぁボックスなので、ぴょんぴょんと跳ねながら魔理沙を追いかけるしかなかった。
迎撃しつつ、魔理沙はこぁボックスを観察する。
その眼から光線を発射し、口からは(何故か口よりも大きい)大玉を撃ち出し、首の振りだけで苦無を投擲する。
――いつもの小悪魔から考えれば、明らかに芸達者。小悪魔と言えど悪魔には変わりない、これも悪魔の成せる業か。
しかし例のDANボールという箱のおかげだとすれば、パチュリーも随分と容赦がない。
双方の速度に差はなく、距離は変わらないまま互いの間で幾多もの天の川が現れては消える。
だが、地の利はこぁボックス達にある。
「そこまでですっ!!」
「おっとと」
「「「よ、ようやく追い詰めました!!」」」
逃げ続ける魔理沙の前に立ちふさがるは、思わず見上げるほどに巨大なキングこぁボックス。先回りしたのだろう。
立ち止まってしまった魔理沙は、追いかけ続けてきたこぁボックスに背後を取られることになった。
不利な状況に追い込まれた魔理沙は降参するかと思いきや、にやりと口端を歪めた。
「そーかそーか。前も後ろも逃げられない。これは確かに厳しいな。
でかい方は頑丈そうだし、かといってそっちは数が多い。片方落とす前にもう片方にやられるだろうな。
――でもな小悪魔。『窮鼠猫を噛む』って言葉、知ってるか?
そして、切り札は最後まで取っとくもんだぜっ!!」
「「「「!?」」」」
霧雨魔理沙の切り札。
それは永夜すらも切り裂く恋の光・マスタースパーク。
その圧倒的な威力ならば、前後どちらかのこぁボックスを吹き飛ばし、容易に逃げ道を確保出来るだろう。
魔理沙は八卦炉を取り出そうと懐に手を突っ込み――
「……うそ、だろ?」
――固まった。
水が氷になるというレベルではない。
炭素がダイアモンドになるようなレベルで固まった。
魔理沙の懐には、何もなかった。
八卦炉もスペルカードも、何もなかったのだ。
例えるならば、パーフェクトフリーズである。
「魔理沙さん」
静かに、ただ静かに富士山のごときキングこぁボックスは問いかける。
「御自慢のスペルカードは、あと何枚ですか?」
ただ、にこやかに。
その笑みを表すならば、そう――まさに悪魔的。
「うわあああぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
本棚に左右を塞がれ、前にはキングこぁボックス、背後には数多くのこぁボックス。
そして、魔理沙は視認する余裕などなかったが、本棚の上にもこぁボックス。
迫り来るのは既に弾幕ではない。かつて体験したこともない集中砲火。
捌くことですら手一杯――いや、その数と状況から考えれば、確実に魔理沙は劣勢にあった。
こぁボックス達は、じりじりと距離を詰めてくる。
それは発射された弾が早く届くことになり、つまりは弾速の上昇と同意。
叫び声を上げながらも、パニックを起こしそうになりながらも、魔理沙は迎撃し続けるしかなかった。
それでも難易度は弾の密度と共に上昇し、必然的に『それ』は訪れる。
「あ、あ――」
「チェックメイト、ですね♪」
魔力も尽き果て、尻餅をつく魔理沙。そう、『詰み』だった。
天井すら見えないほどに高くそびえ立つのは、数えるのすら脱力するほどのこぁボックス達の壁。
その壁が、倒れてくる。
こぁー♪
逃げ場など、もはや残されてはおらず。
こぁー♪
魔理沙は、その不可避の運命の前に、断末魔の叫び声を上げることしか出来なかった。
「あああああぁぁぁぁぁぁっっっ!!??」
「うるさい」
魔理沙の頭に、白い手刀が降ろされた。
「……え?」
目を開けば、そこには木製の机と黒い三角帽子。
その向こう側から、紫色の魔女の不機嫌な視線が向けられていた。
「静かに寝てるのならまだしも、うるさくしないで」
「私……寝てたのか?」
「自分の顔にでも聞いてみなさい。はい、鏡」
パチュリーは魔理沙に手鏡を渡す。
覗きこんだその手鏡には、びっしょりと寝汗に濡れ、寝跡がくっきりと残った顔が。
「夢――だったんだよな」
「何の話よ」
「はぁぁぁ~~……」
眉根を寄せるパチュリーになんでもないと手を振って、魔理沙は机に再び突っ伏した。
ひんやりとした感覚が、ゆっくりと意識を明瞭なものへと変えていく。
「二度寝でもする気?」
「ん……休憩。落ち着いたら帰ってちゃんと寝るぜ」
「……そう」
パチュリーは静かに呟いて、読んでいた本に視線を落とした。
(そう、流石にあれは夢だよな。あんな――あんなのが、夢でなくてなんだってんだ。
そういや、最近は実験ばかりで夜も遅かったし、疲れも溜まってたんだろ。だからあんな夢を――)
べったりと纏わりつく汗を拭って、魔理沙は深く息を吐いた。
どんな荒唐無稽な状況も疑問を抱かず受け入れてしまい、あわやという所で目が覚める。
悪夢というものは、大抵こんなものである。
(……第一、同じ顔の小悪魔があんなに増えてくるわけもないよな)
そしてその夢の不自然さには、起きてからようやく気付けるのだ。
帽子をかぶり直した魔理沙は、近くに置いてあった目当ての本を抱えて立ち上がった。
「帰るの?」
「ああ、ついでにこれ借りてくぜ」
「……そう」
素っ気無いパチュリーの返事に魔理沙は幾分違和感を覚えたが、少々首を傾げただけだった。
そのままパチュリーの側を通り過ぎ、図書館から出ようとした所で魔理沙は立ち止まった。
「あ~……悪い。私の箒、どこにあるか知らないか?」
魔理沙は箒を持っていなかった。
何処かに置いて来たのだろうが、何故か思い出すことが出来なかったのだ。
「ちゃんと覚えておきなさいよ」
「いやほら、ド忘れくらい誰にだってあるだろ?」
茶化すような魔理沙の言葉に、パチュリーは何かを思い出し小さく微笑んだ。
その仕草は、とても百年を生きた魔女とは思えない。
「まあそうね。咲夜もよくやるけど。箒ならきっと、玄関脇の傘立てでしょう。
たまにメイドが使ってるから、まだそこにあるとは限らないけど」
「む、掃除道具に使われてるのか。ここのメイドは私の箒を何と心得る」
「箒で空を飛ぶなんて、古風な魔女くらいなものよ。元々掃除道具じゃない」
それは2人のありふれた、『日常』のやりとり。
その暖かさに、魔理沙は心の底から先程の夢がただの夢であったと信じることが出来た。
身を震わせるほどの恐怖も、
思わず溢れ出そうになった涙も、
全ては――夢でしかなかったのだから。
「メイドが箒使ってたらどうするの?」
「決まってるだろ、さっくり奪い返して帰るだけだぜ」
――さあ、行こう。
「じゃ、またな」
魔理沙は力強く一歩踏み出し、ドアノブを掴むと軽やかに……
「あ、あれ?」
ドアノブは、回らなかった。
「おいパチュリー、このドアこんなに立て付けが悪かったか? びくともしないんだが」
何とか開かないかと、押したり引いたりをしていた魔理沙は、振り返って尋ねる。
パチュリーは椅子から降り、見た目以上にのんびりとした足取りで近づくと、静かにドアノブを掴んだ。
――当然、ドアは開かなかった。
「な、開かないだろ?」
「『さっくり奪い返して帰る』……ね」
静かに呟くパチュリー。その表情は、俯いていて見えない。
「ねえ、魔理沙」
「な、何だよ」
顔を上げ、真正面から魔理沙を射抜く視線には、知識の魔女と呼ばれるに相応しい鋭さが。
機嫌が良いのか悪いのかは知れないが、口元には僅かな笑みが。
そんな不可解な表情のパチュリーに呼ばれた魔理沙は、得体の知れない恐怖を感じていた。
そして、それは次の言葉で一気に具現化する。
「――逃げ切れると、思った?」
「……え?」
こぁっ♪
「――え?」
こぁー♪
「嘘……だろ?」
「いえいえ心外ですね魔理沙さん。
逃げも隠れも悪戯もしますけど嘘だけはつかないのがこの小悪魔でございます」
声が聞こえた方を向くと、そこには。
「ふふふふふー」
「逃げて逃げて逃げて逃げ続けて何処へ行くつもりだったんですかー?」
「使い魔は寂しいと色々大変なのでもっと構って下さいよ~」
「さっきのは結構効きましたよ……!」
ただの悪夢、だったはずの。
「館内の本の貸し出し期限はとーっくに過ぎてますけど」
「整理するのだって大変なんですけどね」
「パチュリー様、今度一緒に紅茶でも――」
箱詰めにされた、小悪魔達が。
「はい、そこうるさい」
「にゃふっ!?」
そのうち1人が、パチュリーの魔法で吹き飛ばされた。
「パチュリー様、ご命令を」
「好きにしなさい、小悪魔」
「「「「らじゃー♪」」」」
それでも圧倒的な数が壁を成し、開かない扉を背にした魔理沙に近づいてくる。
「あ……」
「魔理沙、あなたは良い友達だったわ」
パチュリーの手には、八卦炉と魔理沙のスペルカード。
こぁボックスの壁、攻防一体のこぁウォールはじりじり、じりじりと空間を奪っていく。
「あ――」
「……でもね、その蒐集癖がいけないのよ」
最早、逃げる場所などどこにもなく。
「ああぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
魔理沙は再び、詰むこととなった。
――後日。
「パチュリー様、お客様が見えられてます」
「ん……通して」
「かしこまりました」
メイドに対し答えながらも、本からは顔も上げないパチュリー。
そんな彼女を訪ねてきたのは、ハードカバーの本を抱えた金髪の魔法使いだった。
「こんにちは。借りてた本、返しに来たわよ」
「あら……アリスだったの、本は小悪魔に渡してくれればいいわ」
相手がアリスと知り、パチュリーはようやく本から顔を上げた。
数体の人形を従え、それらにも本を抱えさせている。
風呂敷包み持参で持っていく魔理沙に比べれば、遥かに良識ある利用者だろう。
「小悪魔……ああ、あの赤い髪の?」
「ええ。私の自慢の使い魔よ。多分……そこの本棚をずっと行った所にいると思うわ」
「ふふ、ありがと。ところで、ついでに尋ねたいことがあって来たんだけど――」
アリスは一旦そこで言葉を切り、やがて意を決したような口調で
「――魔理沙、最近見なかった?」
そう、尋ねた。
「……ええ、見たわよ」
「ほ、本当!?」
勢いで思わず身を乗り出すアリス。そんな彼女にパチュリーは、ただ静かに視線を本に戻した。
「本当、小悪魔と一緒よ。探してたのなら、運が良かったわね」
「うん、本当に良かったわ。ありがとう」
アリスは図書館の奥へと歩いていく。
どこまでも、どこまでも。
怖いくらいの静寂の中へ踏み込んでいく。
そんな後姿を見送って、パチュリーは誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。
「……図書館ではお静かに、よ」
こぁー♪
――やがて、アリスの叫び声が館内に響き渡った。
「ま――魔理沙ぁぁっ!?」
友人の変わり果てた姿に、アリスは声を上げざるを得なかった。
傍らには血のように赤い髪を伸ばし、穏やかに笑い続ける小悪魔。
「あら、アリスさんですね。毎度の丁寧なご利用ありがとうございます。本の返却ですか?」
至極丁寧な口調は来客用。動揺するアリスとは対照的に、その心には一切の乱れもない。
そのあまりの落ち着きぶりに、逆にアリスは自分が何か不自然な物でも見たのかと錯覚しそうになった。
「え……ええ。そうなんだけど、その――」
「ああ、ご心配なら無用ですよ。確かに動きづらいですけど、平常業務には支障はありませんので」
目をこすっても、そこに見える状況は変わらない。それは、現実だった。
――本棚に、箱詰めにされた小悪魔と魔理沙が収まっていた。
しかし、表情豊かに話す小悪魔とは対照的に、魔理沙は目を閉じたまま口を開かない。
「えーと、こっちは魔理沙……よね?」
「ええ。疑いようもなくどこからどう見ても霧雨魔理沙さんに間違いは――あ、何で寝てるんですか!?」
こつり、と小悪魔が隣の魔理沙の頭に頭突きをかます。しかしながら、魔理沙は微動だにしなかった。
「参りましたねー。まだまだ業務時間なんですけど」
「業務時間……? ってそれより、何で魔理沙がここでこうなってるのよ」
混乱しながらも問うアリスに、小悪魔はそれはもう素敵な笑顔でこう告げた。
「パチュリー様が『好きにしなさい』と仰られたので、私のお手伝いをしていただいてるんです♪」
恐るべき大図書館ですな…
>「魔理沙、あなたは良い友達だったわ」
>「……でもね、その蒐集癖がいけないのよ」
霧雨魔理沙に栄光あれー!!