Coolier - 新生・東方創想話

茨の天秤

2011/08/08 00:49:41
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「し、師匠っ!? ふ、ふぁぅっ! 開けないでください。 今は、絶対に、こらっ、ひゃんっ!?」

 なるほど、開けろということか。
 天才的な頭脳を誇る永琳は、瞬時に弟子の言葉を意訳し、戸に手を掛ける。その際にまた鈴仙から、入室を拒否する発言が飛び出した気がするが、気にした様子も、加減する気配もなく。

「駄目ですっ、駄目なんですってばぁ、あぁぁぁっ!」

 指先に力を入れて、すー、っと左右へ大きく戸をスライドさせた。すると、どうしたことだろう。普段は鈴仙しかいないはずの部屋から、小さなモコモコが二つ。勢いよく廊下に飛び出してきた。

「……子兎?」

 何故こんなところに、などという疑問を捨て置いて、とりあえず中々出てこないぐうたらな弟子を引っ張り起こそうと視線を布団のあたりへ。
 すると、まだシャツだけしか着ていない鈴仙が、恨めしそうに永琳を見上げていた。

「だから開けないで下さいって言ったのに……師匠ぅ」

 掛け布団の上でへたり込む鈴仙の周りには、さきほどと同じくらいの、手の平に乗せられる程小さな子兎の群れ。
 眼の下にはクマを作った鈴仙とは対照的に、10を超えるモコモコが元気に飛び跳ねている。
 
「人に恨み事を言う前に、今何時かわかってる?」
「あっ! す、すみません! すぐに着替えて朝食の準備を!」
「いいわよ別に、状況は理解したから。今日くらい私が朝食を作るわ。だって凄く辛そうなんですもの」
「師匠……、ありがとうございますっ!」
 
 たった数分見ただけですべてを把握し、助け船を出してくれる。普段は厳しい永琳の思いやりを受け、鈴仙は瞳を潤ませた。これで助かった、と。心から安心しきった表情で、手を胸の前で組み。

「やっぱり初体験で10越えは……」
「……師匠? えっと、あの何か不穏な単語が聞こえた気がしたんですが?」

 嫌な予感がして身を岩のように固める鈴仙であったが、体は止まっても、状況は無情にも進み続ける。
 困惑する鈴仙の肩に、女神のように微笑む永琳の手が置かれた。

「赤飯の方は任せなさい」
「任せてたまるかぁぁぁーーーっ!!」
 
 温かい晩春の日差しの中。
 今日も鈴仙の絶叫が、永遠亭の朝を告げた。
 



 ◇ ◇ ◇
 


『やったね、鈴仙! 家族が増えたよ!』

 
 
「……それが、てゐの最後の言葉でした」

 子兎たちをなんとか専用のケージに入れた後、朝食が並べられた長机についた鈴仙は、大袈裟に肩を落とす。
 忌まわしき赤飯に箸を伸ばす度、満腹感と一緒に、精神的疲労も増すばかりであった。

「つまり、いきなりてゐが夜にやってきて、兎の赤ちゃんをどっさり放したってこと? 鈴仙の子供じゃなくて?」
「だからそういってるじゃないですか……」
「でも、3羽くらい混ざってるんでしょ?」
「混ざってません!」
「じゃあ1羽?」
「産んでませんっ!」

 鈴仙が朝っぱらから大声を上げるのも無理はない。そもそも月の兎は獣の形をして生まれないのだから。それを一番よく知っているはずの永琳からしつこく聞かれれば、ついつい箸を机に叩きつけたくもなるだろう。

「でも、月と地上の混血の場合どうなるかなんて誰もわからないでしょう? だから万が一ということも考慮しただけじゃない」
「万が一どころじゃありませんっ、そんなことが起きるはずないじゃないですか、まったくもうっ! 姫様が部屋から出てこないからって、私で遊ばないでくださいっ!」

 もう冗談なんか聞いていられない。と、腹を立てた鈴仙は箸を乱暴に動かして、朝食を続ける。だが、永琳のどこか含みのある笑みは消えることはなかった。弟子の可愛らしい反応についつい頬が緩んでしまうのも仕方ない。

「温暖な気候が続いたことと、それに伴う兎たちの行動の活発化。年中発情できる兎の特性上そちらの方も盛んになった結果。
 時は今、大繁殖時代!」
「……楽しんでますね?」
「ええ、今までにないことだもの。少なくとも私と姫様がここで暮らすことになってからはだけれど。こういう一種類の動物の大量発生には何か科学的な根拠があるはずだから。それを調べてみるのも良いと思わない?」

 鈴仙がてゐから効いた話では、一週間で三桁生まれたとか。
 元々竹林内は食料に乏しく、全体数でも4桁に届くか届かないかだったことから考えれば、異常な増え方である。その謎について興味がないといえば、嘘になるが、それより鈴仙が気に掛けているのは。兎の増殖による、彼女自身の負担増。

「調べるのもいいですけど、もしやるとすれば誰が……」
「期待してるわ」
「デスヨネー」

 もし本格的に調査を始めるとすれば、永琳は師弟の関係を有効活用するだろう。そして、てゐだって無理矢理何かさせようとするに違いない。昨晩が良い例である。
 鈴仙が表情を暗くしていると、それを感じ取ったのだろうか。対面に座っていた永琳が片手を伸ばし、うつむき気味な頭をゆっくり撫でる。

「鈴仙、慣れないことで疲れたでしょう? だから今日くらい……」
「ああ、師匠……」

 おもむろに告げられる、緩やかな響き。それに続くのは鈴仙の身体を想う言葉しか考えられず。長い耳を小さく揺らして師匠からの指示を――




 ◇ ◇ ◇




「――疲れてるでしょうから、今日は人里で薬を売ってくるだけでいいわ」
「デスヨネー」

 ……うん、わかってました。
 ……すごく、わかってました。

 人里に入ってすぐのところで永遠亭でのやりとりを思い出し、しくしくとすすり泣いてみても状況が改善されるわけもなく。むしろ変な妖怪呼ばわりされて、子供に指さされるのがオチ。
 疲れているだろうから今日は休んでなさいという、最大級の期待をあっさりと裏切らたうえ、通常業務を言い渡されたのだから泣きたくもなる。
 それでも必死の交渉の末、診療所の手伝いが免除されたことと。

『いくつか置き薬が売れたら人里で身体を休めてもいいわ。帰ってきても、子兎の世話係だろうから』
 
 ちゃんと、条件を付け加えてくれたことが鈴仙にとってはかなり大きい。そうと決まれば、さっさと薬を売って茶屋でゆっくりするのみ。
 空は青く、まだ日は高い。今から売り始めれば午前中には目標数を売り切ることができるに違いない。さあ、がんばるぞ。と、鈴仙は自分を奮い立たせ――



 ――売り始めたのが、確か、6時間前。



「……ぅぅ」

 昼を過ぎ、もうすぐ憩いのひとときがやってくる頃。
 とある茶屋の隅っこで、すっかり生きる屍と化した鈴仙が机の上で突っ伏していた。真っ白に燃え尽き、時折びくりっと身体を震わせては、だーっと涙の小川を生み出して。
 そんな鈴仙に店員が声をかけるべきか迷っていたときだった、不自然な風が暖簾を左右に分けたのは。

「あややや、なんと迷惑な客人でしょう」
「……ぅわ」

 鈴仙は入口から飛んできた聞き覚えのある声に片耳だけを動かし、はぁっと重い息を吐く。この声の持ち主は間違いない。落ち込んでいるときに会いたくない妖怪ベスト3に余裕で入ること間違いなし。
 しかもその生き物の足音が、無遠慮に近づいてくるのだから困ったものである。

「こんにちは、清く正しく迅速丁寧、皆さんおなじみ射命丸文です」
「寄るな、座るな、話し掛けるなっ……」
「まあまあ、そう言わずに。話をするくらいいいじゃないですか」

 鈴仙の願いなどなんのその。
 入口からてくてくと歩き、あっさり対面に座ってしまう。そして、いつもどおり胸ポケットから手帖を取り出して、すっかり取材の体勢だ。
 しかし、そうは問屋がおろさない。鈴仙は両目に力を込めて、

「取材狂は、おとなしく狂ってなさいっ!」

 一気に身体を起こし、狂気の瞳を発動。
 スペルカード補正なしでぶつけてやれば、いくら鴉天狗であろうともイチコロで――

「おお、こわいこわい♪」
「……あー、もぅっ!」

 だが、眼が合わなければ意味がない。
 鈴仙の行動を読み切っていたのか。文は手帖を顔の前で開き、憎たらしい声を上げるばかり。なんだか悔しいので、机の上の割りばしを使って手帖を弾いてやろうとするが、逆に見えない風の力で手を弾かれる始末。
 
「ああ、私がこんなにも皆さんに幻想郷の真実を伝えようと努力しているのに、そんな冷たい言葉をぶつけられるとは……、これが無情というものですね……」
「で? 取材したいの?」
「はい♪」

 なんだろうこの変わり身の早さ。
 手帖で顔を隠しながら泣き真似をしたと思った次の瞬間には、声を弾ませているのだから。こうなっては、仕方ない。鈴仙は狂気の瞳を解除し、長い耳で手帖の上を叩く。
 勝手にしろ、という意思表示だ。

「取材は受けてあげるけど、条件があるわ」
「条件、ですか?」
「ええ、簡単なことよ」

 文が嬉しそうにペンを取りだすのを眺めつつ、鈴仙は自分が座る椅子の横。床に置かれた薬箱をじっと見つめて。
 一度だけ、大きく深呼吸。
 文が不思議そうに眼を細める中、ぱんっと頭の上で両手を合わせた。

「お願いだから……、薬買って……」

 今にも泣き出しそうな、か細い声を上げながら……
 その声を受け止めた文は、眼をぱちくりとさせた直後。

「ぷっ、あははっ、あはははははははっ!」

 腹を抱えて大笑いを始めたのだった。




◇ ◇




 空が赤く染まる中、ざっざっと土が荒々しく鳴った。

『いやぁ、失礼。まさか、まさかですよ? 今のご時世で人里に商売をしにいらっしゃるとは思いませんでしたので』

 そして、無言で歩を進めるたび、鈴仙の頭の中で文の言葉が反響する。

『昨年、天人が起こした異変があったでしょう? それと重なって幻想郷の中の気象が崩れたときがあったのですよ。そのおかげで稲が凶作で、最近になってもうすぐ人里の貯蓄が無くなるのではないか、との見解が広まった。つまり、皆さん節約生活を始められたというわけです。この茶屋もいつもはもっと客人がいるはずなのですが、私たち以外誰もいないでしょう?』

 そんな中で薬を買ってくれたのは文だけ。鈴仙としては感謝するべき立場なのだろうが、ほぼ毎日出かけていた自分よりも文の方が人里を知り尽くしているのがなんだか悔しい。

『しかし、梅雨時になれば野菜もが取れ始めますので、問題ないとは思いますよ。それまでは薬も注文されてから作る方が効率的かと。私も今のうちに明るい話題を探しているというわけでして、というわけで鈴仙さん♪
 そちらも誠意を見せていただけると嬉しいのですが?』

 それで結局、鈴仙は薬の恩も含めて、最近おき始めた『めでたいこと』を文にリークして、やっと解放されたというわけである。
 半日は休めると思っていたのにどうしてこうなったのやら、鈴仙にも理解できない。
 運がなかった。単純にそう言い切れればどんなに楽なことか。

「不幸だわ……」

 日が沈み、夜の帳が下りていく中。
 鈴仙の心も闇に引っ張られるように暗く、暗く染まっていき……

「はい、一名様ごあんなーい♪」

 足元から『ずぼっ』とかいう音がして、視界の中に黒い壁が広がった。
 鈴仙の臀部と尻尾が鈍痛を訴え、踏んだり蹴ったり。
 湿っぽい壁に囲まれて、円形に開いた空から落ちる星の瞬きだけがわずかな光。
 これが本当のお先真っ暗って……

「てぇぇぇぇゐぃぃぃぃっ!!」
 
 月での訓練経験のせいで、多少のことは対処できる。例え気を抜いていたとしてもだ。それなのにこうもあっさり鈴仙を嵌めてくれる人物は、たった一人しかいない。

「ん? 呼んだ?」

 ひょこっと、穴の上から顔を出したのは、小憎たらしいトラップマスター。鈴仙へ人差し指を向けて、愛らしい笑みを浮かべているが、この人懐っこい表情の下に眠る毒針で何度苦汁を舐めさせられたことか。

「呼んだ? じゃ、ないわよ! なんで竹林でもないところに落とし穴仕掛けてるわけ!」
「ん~、悩める若者への激励かな? 元気になったでしょ?」
「どこがよ!」
「ほら、元気じゃない♪」
「怒ってるだけでしょうが! あ、こらっ、待ちなさいっ!」

 くっくっく、と含み笑いを浮かべつつ顔を穴から放す。
 そんなてゐを追いかけて、素早く空へと飛びあがれば、眼と鼻の先にある竹林の方へと逃げていく小さな背中が、くるりっとまわれ右。

「待って、あっげ、たっら、なぁにく~れるっ?」

 子供のお遊戯のように左右に揺れる姿は実に可愛らしい。
 が、可愛さ余って憎さ百倍。

「おしり百叩き!」
「いやーん、鈴仙のえっちぃ」
「逃げるなぁっ! もとはと言えばあんたのせいでっ!」
 
 しなる竹を蹴って、奥へ奥へと逃げていくてゐを全力で追い掛ける。しかし薬箱と疲労のせいで、跳ねまわる白い影を追うのがやっと。それでも諦めず、竹の合間を縫って掛けていた。
 そんなときだった。

「え?」

 地面を蹴ろうとした足が何かに触れたとき、あり得ない光景が鈴仙の目に飛び込んでくる。竹が密集しているため光がほとんど入りこまない竹林では、竹の葉か申し訳程度に生えた草しか地面の上にないはず。
 そんな見慣れた光景から判断して、これは異質。
 闇が下りた世界の中で、膝くらいまで伸びた草が所狭しと生い茂っていたのだから。新緑の、分厚い絨毯……とでも表現すればいいのだろうか。

「うん、びっくりしたでしょ」

 鈴仙の行動を見越していたように、前方の草むらに現れたてゐがその心を代弁した。もう、逃げるつもりもないようで、とてとてと草を掻き分けて鈴仙の方へ向ってくる。

「てゐ、もしかしてわざとここに?」
「さあどうだか。私は気紛れだからね」

 そして、鈴仙の右隣まで来ると、身体の方向を180°変えて、ちょうど草と裸の地面の境界に立った。

「これが、兎たちが増えた秘密」
「……なにこれ?」
「師匠の話だと、暗い世界でも生きられるように突然変異した雑草って話。花の妖怪に聞けばもっと確実かもしれないけど、厄介事になりそうだからやめといた」
「突然変異って、そんな簡単に……普通考えられないでしょ」
「そうだよね~、不自然だよね。こいつら繁殖力も凄くてさ、兎たちが食べても食べても中々減らないんだよね。私も試しに食べてみたんだけど」
「うぇ……、食べたの、コレ?」
「そりゃあ、私も可愛らしい兎ちゃんだからね。食べちゃった。そしたらさ、美味しんだよねコレ。師匠に調べてもらっても毒素なんてないし、兎にとってマイナス面がほとんど無いんだって、まるで私たちのために生えてきたみたいな植物だよ」
「なーに寝惚けてんのよ。そんな都合のいいこと……」

 と、鈴仙は苦笑いしながら、背の低い相方を見て。
 あれ、と首を傾げる。

『兎の急激な増殖』
『その兎の増殖を助けるような雑草の突然変異』

 普通ではありえない。
 ある生命体が、ある日を境に全く別物になるなんて、まずありえない。もしありえたとしても、どれほどの確率だというのか。
 それこそ天文学的数値、まさに奇跡。
 神様でもなければこんな現象を引き起こすことなどできないはずなのだが、

「ん? 何見てんの? 私に惚れた?」

 いる。めちゃくちゃ傍にいる。
 運命とか、確率とかが白旗を上げて降参しかねない。
 とんでもないのが、身近にいる。

「ねえ、これってゐのせい?」
「十中八九」
「……なんて馬鹿げた能力してんのよ。私の目よりも狂ってるじゃない」

 幸運を引き当ててしまえば、世界の理屈すら覆しかねない。
 それが幸運の白兎。四十枚葉のクローバーの実力なのだから。自然にすら易々と干渉し、事象をねじ曲げる力の前ではお手上げだ。そんな状況で鈴仙ができたことは、呆れ顔で肩を竦めることくらい。

「でも、良かったじゃない。お仲間の兎がいっぱい増えて。てゐ様のはた迷惑な能力のおかげで」
「うーわ、ありがたくない誉め方だなぁ」

 兎の増加による精神的、肉体的疲労が容易に予想できるのだから、嫌味の一つも出るというもの。
 鈴仙の反応を予想していたのか、てゐはそれをあっさり受け流してみせるが、

「うん、嬉しくない……」
「……てゐ?」
 
 錯覚かと思えるほど低い声。
 聴覚のすぐれた鈴仙ですらほとんど聞き取れないほどの音で、てゐが何かをつぶやいた。そんな気がして慌てて、首を動かしてみると。

「ん? どしたの?」
 
 それを待ち受けていたのは、疑問の表情。
 鈴仙の反応の方が不自然、そう言わんばかりにてゐが見つめ返してくる。
 たった数秒だけの、奇妙な空白。
 けれどすぐにてゐはいつもの調子に戻って、

「さぁ~って、また鈴仙にも兎の世話手伝って貰わないといけないし、帰って休もっと」
「うん、私も疲れた……って、うぇ!? ちょ、何勝手に決めてるのよ!」
「ああ、大丈夫大丈夫、師匠には話つけといたから」
「なるほど、なら安心……んなわけあるかぁっ! 私は師匠の隣で医療技術を取得するという大切な職務が」
「じゃあ、明日からよろしくね~」
「あ~もぉ~っ!」

 あの一瞬のつぶやきはやはり幻影だったのだろう。
 鈴仙は頭の中でそう割り切って、無茶な要求を続けるてゐを追い掛ける。その様子を眺める人化した妖怪兎たちは『いつもの二人』に微笑みを向けていた。

 いつもと変わらない。
 永遠亭の風物詩だ、と。口々に語りながら。





 ◇ ◇ ◇





 さすがに、冗談だと思っていた。
 てゐの要求を易々と師匠である永琳が受け入れるはずがない。そう信じて、朝起きてすぐに診療所へと向かえば。

「鈴仙、兎のお世話するんですってね。がんばって」

 応援された。
 しかもどきりとするくらい魅力的な笑顔で。

「はい、がんばりますっ!」

 だから思わず敬礼し、受け入れてしまったのはその場の気の迷いでしかなく。




「……てゐ? 帰っていい?」
「駄目」

 昨晩訪れた餌場に連れてこられたのは、大きな間違いであって、不条理。
 鈴仙にとって納得できるものではなかった。何が悲しくて、身体的特徴の一部だけが似ているだけの獣の世話をしなければいけないというのか。
 すーっとあたりを見渡す限り、この春産まれたであろう子兎は100とかそこらの間ではない。普通なら気にならないはずのもしゃもしゃと草を食べる音が、合唱となって竹林に響くところをみると、おそらく……軽く四桁は超えているのではなかろうか。
 月での常識が抜けつつあるとはいえ、まだ根底に月の兎のプライドが残っている状態なのだ。そんな数の穢れを受けた動物の相手をしろなど、鈴仙にとって軽く拷問に等しい。

「ほ、ほら~、私、未来の名医だから勉強しなくちゃいけないし」
「駄目」
「姫様の身の回りのお世話もしないといけないし」
「駄目」
「……狂気の瞳っ!」
「それ使ったら、兎たちに鈴仙の部屋がトイレだって覚えさせる」
「ナマ言ってすいませんっしたっ! この愚かな鈴仙に子兎の世話の仕方を教えてくださいませ、てゐ大明神様っ!!」
「うむ、わかればよろしい」
「うう……、ちくせぅ……」

 白いもこもこが部屋に押し入って、あれな行為をしている映像が頭の中に浮かんだ瞬間。迷わず鈴仙は土下座していた。いや、土下座以外に何ができるというのか、できるもんならやってみろ、と。鈴仙は世界の無慈悲さに泣きごとを訴えつつ、笑顔を強張らせて立ち上がった。

「でもさ、これって……軽く自然破壊よね。本当、信じられない」
「まぁ、その感想はわからなくもないけど。現実だから」

 白い兎たちの波が、緑の絨毯を飲み込んでいく。
 そんな風景を竹林の中で見せつけられるとは思わなかったが、本当にこれが現実なのだから仕方ない。
 兎たちが食べ終えた場所は、本当に草一本すら残らず、綺麗な地面を見せている。
 と、いうのに。

「次の日には、何事もなかったみたいに同じくらい生えてくるから」
「……妖怪じみた再生力ね」
「うん、もしかしたらそういうものなのかもしれない。外の植物が幻想郷に入ってきたときに、植物の特性を持ったまま妖怪化したとか」
「聞けば聞くほど身体に悪そうなんだけど……」
「美味しいよ。食べる?」
「だから、いらないってば」

 鈴仙の頭の中で、兎を誘い込み太らせてから地面ごと兎を飲み込む妖怪のイメージが出来上がってしまい。余計に後ずさり。こんな仕事は早く終わらせるに限る、と。てゐに仕事の内容を早く教えてと伝えた。
 けれど、てゐはその質問に目を丸くするばかり。

「始まってるじゃない」
「え?」
「食べ終わるまで、この子たちの安全を見守るのが仕事」
「……何その苦行」
「たまに遊ぶよ? 普通の兎より丈夫だし、元気いいし、一斉に飛びかかってくるから逃げ方間違えたら兎の波で溺れられるけど」
「……何その災厄」

 死因:兎の世話。
 そんな玉兎の死亡事件が歴史に残ったら、月面の仲間たちにも顔向けができない。

「いいじゃない、しばらく人里におつかいすることもないんだから。それに午後からは診療所の手伝いに戻るんでしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ……」

 鈴仙が昨日持ち帰った情報。
『人里で倹約が始まり、薬が売れなくなった』ことを受けて、永琳は人里への置き薬の販売を取りやめた。定期的に薬が必要な人にだけ届けることにして、それ以外は診療所を中心とした経営にすると方向転換。
 そのおかげで鈴仙が自分で使える時間もわずかながら増える予定だったのだが、だったのだが……
 せっかく永琳との時間が多く取れると喜んでいた矢先にコレなのだから。
 
「ほらほら、触ってごらんって。軽く撫でるくらいなら嫌がらないし」
「はいはい……」

 鈴仙だって、兎をまとめているてゐの努力は認めている。立場上、鈴仙が兎のリーダーとなっているものの、妖怪兎たちの信頼度は『てゐ>>鈴仙』であって比較にならない。

「あー、もしかして鈴仙って兎怖い? この前連れてってあげた子たちもすぐに、ケージで隔離しちゃうし」
「誰が怖いもんですか」
「じゃあ、近づいてみなよ。ほらほら。こんな広い場所で子兎たちと触れ合えるなんて幸せ者だよ」

 それでもこうやって何かあれば妖怪兎や、兎たちに触れさせようとするのはてゐなりの気づかいなのかも。そう思って――

「私もこの子たちおもいっきり遊ばせるために落とし穴埋めまくるの大変だったんだから。鈴仙がすぐに落ちてくれれば埋められたのにさ」
「まてゐ」

 そう一瞬でも感心しかけたときが、鈴仙にもありました。
 しかし、これは逆にチャンスではなかろうか。兎が遊ぶ空間を作るためにてゐが罠を片っ端から解除しているのならば、積年の恨みを返すまたとない機会。
 ちょっとだけ兎と遊ぶ仕草を見せて安心させてから、悪戯を逆に仕掛けて……
 
 などと、黒い感情を抱きつつ、兎を撫でるてゐへと足を進めていたら……
 ずぼりっと、音がした。

「へぅっ!?」

 何が起きたか脳が理解するより早く、地面の感触が消え、視界が反転し、背中から真っ逆さま。これは明らかに、てゐが埋めたと宣言した落とし穴の一つに間違いなく……

「ああ、そうそう、言い忘れてたけど。私や兎が乗っても落ちないような、しっかりとした作りの落とし穴は埋めてないから♪」
「ふ、ふふふ……、何が言いたいのかしら?」

 また騙された、と。
 悔し涙を浮かべる鈴仙であったが、落とし穴より何より。聞き捨てならない言葉がてゐから発せられる。
 それは女性であれば、必ずと言っていいほど気にしてしまうものの一つで……

「ぽっちゃり系女子鈴仙♪」

 その一言を皮切りに、今日も兎の追いかけっこで一日が始まり。

「あ、今夜もよろしく~」
「あの……てゐさん? 昨日より数が増え……」

 強制的な子兎のお世話で、夜が更けていく。




 ◇ ◇ ◇




 てゐが無理矢理兎を預けてきて、何日になるだろう。
 まあ、あっさり数えられるのだが……



『子兎が大人になる、つまり子供を産めるようになるには3カ月から6カ月かかる。基本的に期間が長いのは大型、短いのは小型』

 鈴仙は兎の世話を始めるようになってから、兎に関する文献を読むようになった。寝る前のわずかな時間に少しだけであったが、そうしたほうが、てゐの無茶ぶりに対抗できるはず。その程度の単なる自己防衛から始め、二ヶ月経った今では割と知識が増えてきたと喜んでいたというのに。

「……あんたたち、なんで二ヶ月でこんなサイズになってるのよ。妖怪兎の卵さんたちは別格ってわけなのかしら」

 人間の赤ちゃんのように持ち上げているのは、すでにもう大人と変わらなくなった子兎の姿。学習した知識があっさりと踏み倒され、顔を暗くする鈴仙であったが、その様子を見たからだろうか。鈴仙の部屋で他の仲間と遊んでいた十を超える兎たちが一斉に集まってきて、心配そうに顔をあげてくる。
 
「う……」

 魅符『一列並びのくりくりお目々』

 なんと破壊力のあるスペルカードだろうか。手で抱えている兎を見ても、キラキラと輝く目で見降ろしてくるので余計に性質が悪い。

「可愛くない、可愛くない……兎なんて全然可愛くない……」

 二ヶ月間言い聞かせてきた魔法の呪文を繰り返して、大きく深呼吸。
 ゆっくりと、手に持っていた兎を床に置いて。
 ほら、大丈夫、平常心の勝――

 魅符『一斉に首を傾げるプリティラビッツ』

 ……負けました。
 わたしまけましたわ。

「ああもう、わかったわよ。可愛いわよ! あんたたちは可愛い! こいつめっ! こいつめっ!」

 共に何度も部屋で眠っていたからだろうか。
 どうしても兎たちに親近感が湧いてしまい、崩壊した感情のまま兎の列に優しくダイブ。うつ伏せのまま近くにいた二匹の兎を腕の中に抱えると、目一杯頬擦りしていたら。

「おーい、鈴仙~。お客さんだよ~」

 なんだかスーッと扉が開いた。
 直後に鈴仙の身体が固まる。
 
『兎の世話なんて面倒なだけ』

 はっきり、きっぱり、そう言い切っていた鈴仙が、である。
 もう、誰がどう見ても兎たちとの生活を堪能しまくっている格好で、あまつさえ自ら顔を寄せている。
 それを一番知られてはいけないはずの、存在に……見つかった。

「か、勘違いしないでよね? こ、これは、悪いことをした兎を叱っているだけであって……遊びとかそういうのとは……」

 ぎぎぎ、っと壊れたブリキ人形が首を回すように。
 鈴仙が恐る恐る、顔を横に回せば。

「今夜はお楽しみの真っ最中ですね♪」

 もう、後光が差すくらいキラキラした笑顔で見下ろしてくる輩が一人。
 だけでなく――

 パシャパシャパシャパシャ……

「い、いやあああああああああああっ」

 半笑いで、容赦なくシャッターを切りまくる邪悪な影がプラスワン
 清く正しく遠慮なく、ラブリィチャーミーなカタキ役。言わずとしれた、射命丸文その人であった。
 必死に顔を隠して見ても、後の祭り。

「てゐさん! これでどうでしょう! 子宝に恵まれた永遠亭と、母性を知らぬ鈴仙さんの秘められた愛情!」
「よし、それでいこう!」
「いくな! 撮るな! 捏造するなっ!」
「と、被写体はわけのわからない言葉を繰り返しており。というわけでレポーターのてゐさん? 現場の状況を判断して一言」
「テレ隠しウサね」
「なるほどよくわかりました」
「もう、どうにでもしてぇぇぇ……」

 掛け布団を抱き、しくしくと涙を流す鈴仙と同じように空は曇り、どしゃぶりの雨が屋根に叩き付けられていた。
 鈴仙がてゐの接近を感知できなかったのは、雨音のせい。
 いや、てゐがそれを狙って近付いたと言うべきか。

「いやはや、不意打ちのようなかたちになってしまったのは悪いとは思いますが、梅雨時期の憂鬱な気分を振り払う光明となれるのですからいいじゃないですか。それにほら、以前人里でお会いしたとき、取材を受けてもいいといってくださいましたし、ねぇ?」
「ねー♪」
「なんでてゐまでノリノリなのよ。わかったけど、絶対変な風に書かない?」
「書きませんとも、真実の記者、射命丸の名において」

 今年は特に雨が酷く、気温も低い。冷たい雨に兎を当てすぎてはいけないと、食事の時間以外は永遠亭の軒下や部屋の中で雨宿りするのがほとんど。そんな兎たちに写真というストレスを与えて良いのか、不安ではある。それでもてゐが大丈夫というから、鈴仙は協力して兎たちを集め、その中で記念撮影。
 文の指示どおり、真ん中にてゐと鈴仙が座り、その周りで集まる兎の群れ。
 それを何枚か写真に納めた文は、にんまりと口元を緩めていた。

「ふむ、これはなかなか。はたてに数歩差を付けちゃったかなぁ」

 写真撮影と取材が終わった後で、他にどんな記事を載せるつもりなのかと鈴仙が尋ねれば。

『増水した川で溺れかけた子供を救う河童少女!』
『名探偵ナズーリン、へそくり救出?』
『ヤツメウナギ屋台大繁盛、大忙しで嬉しい悲鳴!?』

 確かに、どことなく明るい話題が多い。
 そういうのを集めて特集記事を作るそうだ。
 その程度ならいいか、と。鈴仙は雨を風で防御しながら飛んでいく文の背中を見送る。彼女が居なくなって、やっと静かになった永遠亭の中。遊び疲れた兎を寝かせ、さあ、鈴仙自身もといったとき。
 かさ、っと。
 小さく開いた戸の隙間から、丸められた紙が放り込まれた。

「……てゐ?」

 雨が上がったせいで、廊下を駆けていく軽い音がその人物を教えてくれる。
 間違いなく、てゐだ。てゐなら、お休み前に一言二言雑談しに来てもおかしくはないのだが、何故入ってこなかったのか。
 そんな疑問を隅に置き、とりあえず伝言と思しき包み紙を静かに開けば。
 たった一行、こう書いてあった。

『私の部屋の前に来て』





 ◇ ◇ ◇





 時計の針が新たな一日の始まりを告げる頃。
 鈴仙はてゐの部屋の前の廊下に腰を下ろしていた。中庭の方へ足を投げ出し、雲とかくれんぼを繰り返す月を眺める。
 この調子だと明日も曇りかなと、何気なく天気を予想していたとき。

「あ、ホントに来てる」
「……何よその言い方」
「あっはっは、冗談冗談」

 後ろから失礼な声と小さな影が飛んできて、真横に着席。
 どこか嬉しそうに鈴仙を見上げてくる。普段からこんな顔をしてれば可愛いげがあるのにと、素直に心の中でつぶやいてから。何か用事かと促した。
 すると、何故か苦笑いし始めて。

「ねえ、鈴仙。月にいたときのこととか、聞いたら怒る?」

 しおらしく指なんかいじりながらそんなことを聞いてくるものだから。
 思わず、鈴仙は噴き出してしまった。

「なーんだ、そんなこと?」

 いつもはズケズケと他人のプライベートに踏み込んでくる癖に、妙なところだけ臆病というかなんというか。
 てゐはいきなり笑い始めた鈴仙を身て、頬を膨らませるが。

「いいわよ、何でも聞けば?」

 求めていた応えを受け取ると、また静かになってしまう。
 いったいどんなことを聞こうというのか。待つ鈴仙の方が緊張してしまいそうだった。そして、静寂が訪れてから、三回目。
 月が、雲から顔を出したとき。

「鈴仙は、月で隊長みたいなことしてたの?」
「あー、んー、隊長、ってこともないかな。一応月のお姫様のお気に入りだったから、部隊ではちょっとだけ指示したりはできたけど」
「怖い命令とか出した?」
「……出したかもね。ほとんどが演習だけど」
「そっか、じゃあさ……」

 てゐが、すっと息を吸い込んだ瞬間、鈴仙は思わず目を擦る。
 小さな身体が纏っていた気配が、驚くほどに鋭くなって……

「部隊の仲間100人に……
 未来の100人のために死ねって言ったこと、ある?」
「……っ!?」
「絶望的な場面で、何かを犠牲にしないといけないとき。どうする?」

 鈴仙は言葉を失った。
 何故こんな質問が投げかけられたのか。
 見上げてくるてゐの瞳がなにを求めているのか。
 それがどうしてもわからなかったから、鈴仙はてゐの質問を頭の中で繰り返す。
 鈴仙が胸を張って言い返せる結論が出るまで、何度も何度も。ふと顔を上げれば、半分ほど雲に覆われていた空が明るくなり、月が幾分か傾いていた。それでもてゐは鈴仙の声を待ち、不安そうな瞳を向け続けていたから。

「姫様に怒られたこともあるんだけど、私は、そんな作戦を立てたことないんだよね」

 だから鈴仙は格好つけるのをやめた。
 素直に、伝えることにした。
 あの頃の銃の手触り、重さ、硝煙の匂い。そして銃声が響くたびに倒れていく『何か』。考えるのも嫌だったはずの思い出を掘り返し、苦笑しながら鼻の頭を掻く。

「馬鹿の一つ覚えみたいにさ。必ずみんな生き残る手段があるって反論して、あっさり月の姫様に論破されるの。私より偉い人になんて言い草だろうって今でも思ってるけど。でもね、私はそういうの駄目だから。
 絶対、みんな助けたいから。訓練しながら、隙を見て馬鹿騒ぎしてる。そんな月の兎が大好きだったから、犠牲が前提の作戦なんて、考えたことがないんだ」
「うわー、鈴仙らしいなぁ……」
「うっさいわよ、馬鹿。人がせっかく真面目に――」
「うん、それで良いと思うよ」

 からかう声がいきなり遠くなる。
 鈴仙が声のしたほうを向くと、とんっと廊下を蹴って、屋根の上に飛び上がる残像だけが残った。

「やっぱり鈴仙は優しいね。そういうの、大事だと思うよ」
「そう、かな?」
「ちょっとヘタレだけど」
「ヘタレとか言うな!」
「あははははははっ、じゃあ……お休み、鈴仙」

 あっという間に気配が消える。
 今日は永遠亭で眠らず、自分の古い住処で眠るつもりなのだろうか。やっぱり気まぐれのてゐはよくわからない。

「今日は、ありがとね」

 最後の一言が降ってきた後、静寂が降りた闇の中で鈴仙はまた空を眺める。
 視界の中央に、外から見ても何も変わらない故郷の姿を置いて、
 ごろん、と廊下に背中を預けた。

「甘いかなぁ、私……。
 でも幻想郷が楽園だって言うなら……みんな幸せなってもいいと思いませんか……、ねぇ、姫様」

 その言葉は果たして、どちらの姫に投げたものか。
 誰の答えも必要としない問い掛けは、雲の消えかけた空へと吸い込まれて、消えた。





 ◇ ◇ ◇





 一つだけ、注意をしておくならば。
 鈴仙・優曇華院・イナバはナルシストではない。だから朝起きてからも、身なりを整えること以上の時間を使うこともなければ自分の姿を見て悦に入ることもない。
 しかし、である。
 鈴仙は、新聞記事の一面に張り付いた自身の写真から目を離せないでいた。
 竹林の出口近くの岩場に腰掛けて紙面を眺めるばかりで、てゐと一緒に連れてきた数十の兎たちの面倒を見れないでいる。

「ふふん、どうです? なかなかのものでしょう」

 取材を受けて、今日でちょうど三日。
 鈴仙がてゐたちと午前中の散歩をしていたところ、特集記事ができあがったと大慌てで文が飛んできたのである。大袈裟だと笑いながら、記事を受け取り何気なく覗いてみたところ、

「なにこの可愛い奴……」
「おやおや、自画自賛ですか?」
「いや、なんていうか……、びっくりしたっていうか」

 兎と一緒に笑顔で写っている妖怪兎は、まるで別人のよう。
 朝起きてから、毎日鏡で見ているはずなのに、写真の中の鈴仙は輝いているというかなんというか。

「被写体を生かした私の実力ですよ」
「そこは素材がよかったからとか褒めなさいよ……て、あ、ちょっとてゐっ、まだ読んでないのにっ」
「ふーん、どれどれ~。あー、でも、私はいつも可愛いからあんまり変わってない」
「被写体の魅力を殺さないのも私の実力です」

 まさに、天狗状態。胸を張って鼻を高くしていることから判断して、今回の記事には相当自信があるとみえる。そうやって三人が一箇所で騒ぎ始めたせいだろうか、気ままに飛び跳ねていた兎たちが、集まり始めてしまい。
 それを狙って文のカメラから光が生まれた。しかし、いくらいい記事が書けたといっても、鈴仙の頭の中に文自身の言葉が思い返された。

「でも人里で新聞とか、商売になるの? 不景気は終わった?」
「いやいや、まさか。最近は余計に里の空気が重くなってしまったようでして、なにやら長雨のせいで野菜も不良だったとか」
「じゃあどうすんのよコレ」
「わかってませんね、鈴仙さん。今はこちらも身を切り、友好関係を続けることが第一なんですよ。景気が悪くなったら来なくなった、などと思われては過去の行為が水の泡」
「じゃあ、何? タダで配ってるってこと?」
「ええ、もちろん。お金なんて里でお酒を買うくらいしか使い道ありませんからね。ここは景気良くぱーっといきましょう! あ。そういえば、そちらの薬の方は?」
 
 鈴仙は肩を竦め、無言で首を振る。
 新聞と同様、無料で配ることも不可能ではないのだが、人里の道具屋などに置いてある薬草が薬の開発に必要だったりするので、どうしてもある程度の見入りが必要になってしまう。
 だから人里への売り込みは今も休止中。

「薬売りのかわりに、てゐの手伝いをしてるってわけ」
「なるほど兎たちと一緒に油を売るのが仕事ですか」
「油でからっと揚げてあげようか」
「おお、こわいこわい。それでは鈴仙さんもどうぞてゐさんのところへ行ってきてください。私はここで応援してますから」
「応援にカメラは要らないでしょ?」
「シャッター音が拍手と思っていただければ♪」

 なんと調子のいいことか。
 文のことだ、ここでまたネタを仕入れて号外にでも使うつもりなのだろう。岩から腰を上げた鈴仙は、何度か振り返って文を威嚇しつつ、10メートルほど先で遊んでいるてゐと兎のところへ向かう。春に生まれたあの兎たちも、この梅雨が終わればもう大人。鈴仙が遊んでやることも、なくなるのかもしれない。そう考えると感慨深いものがある。
 けれど、しゃがみ込んだてゐに飛び掛ってはじゃれ付く姿を見ると、中身だけは子兎なんだなと、笑みが零れてしまう。 
 が、そんなときだった。
 てゐが急に立ち上がったのは。

「あれ? あなたたちは永遠亭の」

 おそらく、この急な客人の気配を捕らえたからだろう。
 しかも竹林の外からではなく、永遠亭の方から歩いてきたように見える。

「これはこれは、姫様のお知り合いの妹紅様。また遊びにいらしたのですか?」
「うわ、何その面倒くさい口調……、それに目くじらも立ててるし、悪いけど今日は輝夜とやりあう気なんてないから。むしろ逆よ」

 鈴仙が仕える地上の姫、輝夜の命を狙い何度も勝負を繰り広げている相手だ。簡単に信用しろという方が無理な話。鈴仙は半身になって身構え、いつでも弾を放てるように指先を向ける。
 それでも妹紅は何をするでもなく立ち尽くし。

「永遠亭に行きたいって人を案内してたの、5人ほど。途中まで全員ついてきていたのに、目を離した隙に3人が行方不明になってしまって。2人を永遠亭に届けてから探してるところってわけって……うん、鈴仙、そっちの天狗カシャカシャ五月蝿いんだけど」

 文は何かを期待してシャッターを切りまくっていた。
 その迷惑な『応援』のせいで、嫌味で返してやろうと思った鈴仙の心がすっかり萎えてしまい。
 あからさまな戦闘体制を解いて、とりあえず兎たちを隠すように横へ移動した。

「悪いけど、手伝えないわよ」
「ああ、それでいいよ、別に。見たか見てないか、それだけ教えてくれればいい」

 人間なんて、この場所に着てから見かけてない。鈴仙はそう素直に返し、頭の中で言葉を続けた。今日は診療予約もなく、開店休業状態。急患の可能性は残るのだが、妹紅の落ち着きようからして重症という感じも受けない。
 ならば、何故。
 予約もせず、5人という大人数で来たのか。しかも妹紅と一緒に歩く中で3人が迷子になったのはいったい……

「ねえ、てゐは……」

 どう思う?
 そう続けるつもりで振り返ったとき。

「てゐ?」

 何故かてゐは鈴仙に背を向けていた。
 いつもは垂れさせている耳を起こして、前傾姿勢を取り。
 首をゆっくり左右に動かしている。
 いきなり姿を見せた妹紅は鈴仙側にいるというのに、いったい何をしているのか。
 鈴仙が疑問の声を上げ、その答えは返ってこない。
 変わりにてゐが撮った行動は。

 とんっと、足元の兎たちを飛び越えた。たったそれだけ。

 聞こえなかったのだろうか。
 鈴仙がもう一度、声をかけようと息を吸い込む。
 ただ、てゐに話しかけるよりも早く。

 鈴仙の耳に、何かが風を貫く高い音が響いた。

「え?」

 一瞬、文が風で悪戯でもしたのかと思った。
 着地したはずのてゐの体が傾いて、とさり、と地面の上に転がったのは。
 風が動いたから。
 そう、思いたかったのに。

「――っ!!」

 てゐが、叫んでいた。
 体を丸めて、苦痛を訴えていた。
 暴れるたびに、落ち葉の上に広がる、鮮やかな赤。
 
「……え?」

 鈴仙は動けない。
 何が起きたのか把握できず、ただ青くした顔をてゐの方へと向けるだけ。
 けれど、もう一つ。

 ひゅん、と。

 先ほどと同じ音が周囲に響き。
 てゐを掠めて地面に矢が突き刺さった瞬間。
 鈴仙の中の、奥の奥。眠っていたはずの冷たい血が、一気に沸騰した。
 それでも、音は止まない。
 鳴り止んでくれない。

 ひゅん、と。

 そして、三つ目。
 鈴仙の視界の中、矢は一匹兎へと向かって進んでいた。
 だが、てゐがその矢の進行方向へ必死に手を伸ばす。
 コマ送りで映像が進み、右腕に硬い金属片が食い込――

「……仏の顔も三度までといいますが」

 その皮膚の上。
 二の腕に先端が触れるか触れないかの位置で、ぴたりと矢が止まる。
 矢が放たれたときは動く音がなかった。
 つまり、放たれた後で動き。

「私は仏ほど肝要ではありませんので、あしからず」

 文が矢の胴体を掴んだのだ。
 ほとんど見せることのない黒翼を見せ付けながら、体を起こし、握っていた矢を砕く。
 木屑を飛ばした方へと見せ付けるのは、もう撃っても無駄だという意思表示と。
 次はお前たちがこうなる番だと、見せつけ。

 かさ……

 物音を立てさせるため。
 
「射角修正……距離よし……個体数、3体……」

 攻撃してきた角度、位置。
 怒りとは別の冷たい感情と、過去の訓練で培った空間把握能力を開放し、鈴仙はたった三回。

 指先から妖力の弾丸を放つ。

 それ以上必要なかった。
 触れれば、周囲を取り込み拡散する。
 人間の狩人程度の反応速度では、逃れるすべはない。
 奥で響く、着弾音と、それに続く悲鳴が成功を物語っていた。
 目標沈黙、全個体の意識を刈り取ることに成功。
 ただ、手違いがあったとすれば……

「へぇ、ちゃんと手加減したのね。輝夜の部下にしちゃなかなか冷静な……」
「黙れっ!」
「はぁ、そうでもない、か」

 いつもの弾幕勝負の癖が、残った。残ってしまった。
 今の一撃に、情けなど微塵も乗せるつもりはなかったというのに。
 生ぬるい楽園に慣れた精神が、躊躇った。
 だから、遅れた。

「なんで……私は……」

 地上に居る穢れた生命を刈り取るだけだというのに。
 月に居るときなら、迷うことはなかったのに。
 たったそれだけのことなのに、鈴仙は……

「鈴仙っ!」
「っ!」

 罪悪感に打ちのめされ、止まった身体。
 それを、突き動かしたのは、鋭いてゐの声だった。我に返った鈴仙は、ふくらはぎを押さえてうずくまるてゐに駆け寄り、顔を近づけた。
 すると、あまりにもゆっくりな。
 接触の音すらしない平手打ちが、鈴仙の顔を撫でる。
 
「兎の、安全確保っ! 目で操ってもいいから永遠亭まで逃がして! 速く! 私の傷なんてすぐ治るから!」 
「でも……」

 てゐの治療を優先したい。鈴仙は傷ついた身体に手を伸ばした。
 しかし、その手が赤く染まった小さな手に止められてしまい。

「わかった?」

 強い意志のこもった瞳で睨まれた。だから鈴仙は、無言で頷き。

「……狂気の瞳っ!」
 
 てゐの周りに集まった、兎たち。
 その頭に直接永遠亭のイメージを打ち込んで、逃がす。
 群れをなし、その場から居なくなっていくの兎たちの後姿を見て、息を荒くしていたてゐの表情にやっと安堵の色が浮かんだ。
 それと同時に文が翼を仕舞い込み、傍観者を決め込んでいた妹紅へと視線を向ける。

「さて、妹紅さん。あなたが連れてきた人間の特徴は覚えておりますか?」
「ああ覚えてる。たった今、嫌というほど頭に浮かんできたところだよ」
「文、悪いけど……」
「ええ、わかってます。後はおまかせください」

 二人の背中を見送った後、鈴仙はてゐを抱いて永遠亭に急いだ。
 歩けると強がるてゐの言葉を無視して。 
 診察の結果、矢に毒素は塗りこまれておらず。至って単純な対妖怪の術式による治癒の遅延効果だけが発動していることが判明。
 永琳の診断では少なくとも三日間は怪我が残るそうだ。
 
「あなたも今日は兎の世話をせず休みなさい、これは師匠としての命令よ」

 てゐと一緒にそう指示された鈴仙は素直に部屋に戻って、天井の木枠だけを眺め続けた。 
 


「最悪だ、私……」
 
 仲間を守れなかった悔しさで、涙が溢れ出しそうだったから。
 見慣れた模様を見つめ続けることしか、できなかった。



 

 だから、その夜。




「よろしい、ですかね?」
「いいよ、入って」

 一匹の鴉が、永遠亭の中に入り込んだことに、気が付かなかった。





 ◇ ◇ ◇





 次の日の朝。

「……以上人里の食料不足は、どうやらかなり深刻のようです。先日鈴仙さんが経験したような襲撃を起こさなければいけないほど。最近になって妖怪の山にも、山の動物の狩猟許可を求める署名が提出されたそうで」
「そう、こちらにくる患者からいろいろ聞き出してはいたけれど」

 昨日の人間の襲撃事件、あのとき矢を撃ったのは途中からはぐれた三人の人間。その妹紅の証言を伝えるため、文は正式に永琳との意見交換を求めてきた。
 山の大天狗たちの間でも、今回の事件は大きく取り上げられているらしく。
 人間の強行姿勢を非難する仲間内の新聞記事が多く出回っているとのこと。

「動くとすれば、山に引越しされた二柱の神様くらいでしょうが、異常気象を鎮めることをしなかったお二人が今更動くというのも、考えにくい」

 診療所では誰が聞き耳を立てているかわからない、という理由で永琳の寝室を臨時の会議場とした。
 永遠亭側は、永琳と鈴仙、妖怪の山側は文一人だけ。それでも堂々とした態度で二人の正面に正座しているところを見れば、すでに結論は出ているのだろう。

「では、妖怪の山は」
「はい、ご想像のとおり。
 『妖怪の山は、この件に対する人間の要求の全てを拒否する』
 それが私に告げられた結論でした。私の上司も過去にいろいろ人間と確執があったようで、素直に首を触れないといっておりましたし。今回強硬派が出たことで、妖怪の山なりの防衛手段すら講じる必要がある、といったところでしょうか」

 人里が食糧不足に陥っても、妖怪の山は関与しない。その結論を予測していたのだろうか、永琳はそんなに驚きもせず、文の説明を静かに受け止め続けていた。

「それで、永遠亭の方針は?」
「こちらは、直接人里に出向くことにしたわ」
「交渉、ですか? ではてゐさんも――」
「連れて行けるわけがないじゃないっ! 何言ってんのよ!」

 てゐの話題が出た瞬間、それまで口を開いていなかった鈴仙がいきり立つ。

「それに人里に行くのは、抗議のためよ! 交渉なんて生易しいものじゃないわ!」
「ま、まあまあ、鈴仙さん押さえてください。こんなときこそ冷静になって物事を見定める必要があるわけでして」
「……冷静ね。いいわよ、じゃあ冷静に考えてみようじゃない。そういえばあなた、人里で私から『おめでたいこと』兎の子供がたくさん生まれたことを根掘り葉掘り聞いてきたわよね? 変だと思ってたのよ、あんな絶妙なタイミングで私に狙いをつけるなんて」
「あの、それはどういう……」
「文、あんた人間と繋がってるんでしょ? 人間に情報流して、可愛がられてるんじゃないの? ほら、あなたが気に入ってる霊夢だっけ? あの子も人間で――」
「鈴仙っ!」

 立ち上がり、文を見下ろしながらまくし立てる鈴仙。その後ろから手を伸ばし、永琳は無理やり鈴仙を引き戻した。
 それでも鈴仙はまだ口を動かし続けていて、それをまっすぐ見据えた文は手を前に置き、ゆっくりと頭を下げた。

「あなたが私を疑うのは無理のないこと。そういう情報を人間に流したかといわれれば、噂話程度にお話したこともあるのは確かです。ですから私は、人里で妙な動きがあってから、ずっと観察してまいりました。私の流した情報で、何か大変なことが起きるのではないか。そう思ったからです。でも、遅かった……。
 予期しておきながら、私は血を流す結果を生み出してしまった。ですから」

 そして、ばさり、と。
 普段は隠している羽を背中から出し。

「私の羽、差し上げます」
「っ!」

 誇り高いことで有名な天狗が、畳の上で土下座して。
 自らのシンボルを差し出すという。
 それはきっと、鈴仙にとって耳を差し出すのと同じくらいの……

「……いらないわよ」
「いえ、しかし」
「そんなの……ぬ、抜いてもいくらでもまた再生する妖怪の羽根なんて、いらない。それと……」

 永琳の横で正座しなおし、それでもまだ素直になれないのか。
 ぷいっとそっぽを向きながら。

「悪かったわよ……、そこまで言うなら信用して……」

 ぱしゃっ

 うむ、ぱしゃっとな?

「うわぁ、これは良い表情じゃないですかね! 永琳さん! 顔真っ赤にしちゃってもう!」
「……後で焼き増しお願いできるかしら?」
「前言撤回! 出てけ~~っ! もう、出てけ~~~っ!」
「そうですね。こちらの用件は終わりましたから、出るとしましょう。それではご武運を」

 ゆで蛸のように顔を真っ赤にしたまま、素早く廊下へと逃げる文を追いかけるが。そこはさすがに幻想郷最速。
 鈴仙をあっさり振り切って空へと飛び上がってしまう。
 梅雨の名残雲が残った、夏空の向こうへと。


 それを見送り、永琳に一礼した鈴仙は深呼吸を繰り返しながら廊下を進んでいく。


「おはよう。てゐ」

 人里に出かける前、鈴仙は静かに戸を開けて寝ているはずのてゐに声を掛ける。
 朝食と一緒に摂らせた痛み止めや傷薬の副作用で夜まで眠るはず、そう永琳が言っていた。起きているはずがないのに、脚を運んでしまったのは……

「ねえ、てゐ? 私、てゐの代わりに頑張ってくるからね」

 永琳の前では大丈夫と言いながらも。
 まだ迷いが消えないから。
 自分のしていることが正しいのか。
 兎たちのためになるのか自信が持てない。
 だから、鈴仙は自然に求めてしまったのかもしれない。布団の中で静かに寝息を立てる悪戯兎の、飾らない言葉を。

『鈴仙なら大丈夫だって!』
 
 そのたった一言が聞きたかっただけなのかもしれない。
 鈴仙は言葉を発しないてゐの額を何度も撫で、

「鈴仙、そろそろ出かけるわよ」
「はい師匠……」

 廊下の永琳に促されるまま、鈴仙は永遠亭を後にした。

 




 その留守を任された妖怪兎たちは、姫様のお世話や見張りを交代で行いがなら空いた時間にてゐの様子を心配そうに見守る。

『ねえ、こんなときにこの前の巫女みたいなのが襲ってきたらどうしよう』
『そんなわけないじゃん』

 やはり心の支えであるてゐが眠っていると不安なのだろうか。
 普段は何気ない世間話に花を咲かせる彼女たちの会話も、どことなく暗くなりがち。
 そんな話をたっぷり聞いたからだろうか。

「もう、みんなのばかぁ……」

 鈴仙たちが出て行ってから、4番目の見回り当番は見るからにおびえた様子で廊下を歩いていた。カラスの声や小さな物音にも大袈裟に反応し、なかなか終わらない。
 ようやく最後の見回り場所、てゐの部屋に辿り着いたときは予定よりも10分もオーバーした時刻だった。

「て、てゐ様~? 寝てますか~?」

 ああ、やっと終わった。
 安堵しながら戸を開けて、

「あ……っ」

 直後、首筋に衝撃。
 飛びそうになる意識の中、前のめりに倒れこみ。
 すがるように、てゐの布団に手を掛け……
 
「みん、な……知ら、せ……」
「ごめんね……」
「っ!?」

 二度目の、衝撃。
 完全に沈黙した妖怪兎の後ろで、二つの影が静かにその影を見下ろしていた。






 ◇ ◇ ◇






「……人里の者が無礼を働き、申し訳ありませんでした」

 鈴仙たちが人里につくと、それを待ちかねていたように案内人がやってきて、稗田家の大屋敷へと案内した。 
 入るようにと促された客間には、人里の長老と思しき白い髪の毛の老人と、その付き人が7名。そして、この家の党首である阿求と、里を守る妖怪である慧音が並んで座っている。

「謝罪は受けましょう。ですが、社交辞令だけで時間を無駄にするのは好ましくありません。ですから簡潔な状況説明と要求を早々に提示していただけるとありがたいのですが?」

 20畳はありそうな広い客間で、永遠亭の2名と。人里の面々が総勢10名近く。
 これだけ人数に差があると物怖じしてしまいそうになるのが常だというのに、永琳はそんな素振りを微塵も見せず、淡々と声を発した。

「それでは、今現在人里が直面している状況について我々はこれまで……」
「必要ありません」
「は?」

 提示しろと言ったのに、長老の付き人の一人が声を発した途端、それを止めさせる。どういうことかわからず、戸惑う男に対し永琳はもう一言。

「無駄な修飾は必要ありません。こちらが同情して甘い条件を飲むとお考えでしたら、今のうちに考え直すことをオススメいたします」
「そういった、つもりでは……」
「いいですか? 現在必要な情報は残りの食料の量、人里の人口、そしてその量で何日人里を支えられるか。その程度のことです。それとも、その程度のことをまとめずに交渉の場に立っていると?」
「……そうだな、その方がいい。説明役を代わろう」

 すっと、わずかに前に出た慧音が口を開いた。
 彼女の話では、食料を切り詰めて管理したとしても二週間程度で人里の食料は枯渇するという。その算出方法も提示され、永琳はその説明に理解を示す。
 
「稲が収穫されるまでは一ヶ月半、その期間の食料がどうしても必要になる」
「それに、竹林の兎たちを使いたいと?」
「ああ、そうだ。その交渉を行うため、嫌がる文を使わせてもらったんだが……」

 その二人の会話中、兎の話題が出てきても鈴仙は静かに正座を続けていた。
 だが、その様子を見て阿求が小さく震えた。
 鈴仙の瞳が真っ赤に染まっていたからだ。
 それだけ鈴仙の怒りが深く、一部の人間が起こした行動がどれほど軽率だったか。強く握り締められた手が物語っていた。

「改めてこの場で願いたい、限られた期間だけ……、竹林の中の兎を自由に狩らせてはくれないだろうか。こちらの身勝手な要求だというのは理解しているつもりだ。しかし、こちらとしてはもうそれしかない……、それしか、ないんだ」

 ぎり、と。
 鈴仙は奥歯を噛む。
 なんと傲慢で、身勝手な話だ、と。
 その他の交渉できる妖怪たちとの関係を悪化させたのは自分たちの癖に、こんなときだけ兎を利用しようとするなど。

「八雲の方々は?」
「まだ、動きがない……結界を閉じているせいで交渉すらできない状況だ……」
「そちらの長老の方も、稗田家の方も。今の説明に何か付け加えることは?」
「……ありません」
「そうですか、それでは」

 永琳はその場ですっと立ち上がり。

「帰りましょう、鈴仙」

 交渉決裂を意味する単語を吐き出した。
 その一言で、人間側全員から血の気がすっと引いていく。

「ま、まってくれ! もう少し話をっ!」
「いいえ、同じです。だって、あなた方は、もう一つ。『ある対策』を取っていない。そんな状態ではこちらとしても何を出せと言われても出すつもりはないということよ。ねぇ、慧音? いくつもの歴史、いくつもの人、それを見てきた貴方の中の獣なら、答えを知っているはずでしょう?」
「……永琳」
「それとも答えを知りながら、わざと選択しようとしないのかしら? ねえ、慧音? あなたがどれだけ犠牲を払う覚悟があるのか、それを聞いているのよ。私は」
「私に、それを選べというのか……」
「それが代々王に仕えてきた獣、ハクタクの力なのでしょう?」

 鈴仙には、永琳が何を提示させようとしているのかわからない。それでも、正直胸を撫で下ろしていた。慧音が何かを拒む限り、兎たちが犠牲になることはない。これで、胸を張って帰ることができる。
 人里の全員の目が慧音に集中し、何とかして欲しいと訴えるが、いつまで経っても慧音から、その『ある対策』に関する言葉は出なかった。
 しかしそれは仕方のないこと。
 一つや二つ、といったものなら過去にあった。
 けれど、ここまで多くのものを対称にする行為を幻想郷の人間は知らない。

「では、皆様。その結論がでるようでしたら、永遠亭はいつでも交渉の場に出る準備がある。それをお忘れなきよう。鈴仙、立ちなさい」
「はい、師匠」

 鈴仙も知らず、また兎たちとの日常が送れると安堵して、

 とん、ととん……とん、ととん……

 不自然なリズムを刻む足音が廊下から聞こえてくるのに、気付きもしない。


「ちょっと、まったぁぁぁっ!!」


 耳のいい鈴仙が気付かなかったのだ。
 その登場は、不意打ち以外の何者でもない。
 人間たちにとっては、もっとも交渉が難しいと思われる相手。
 しかし、永琳たちにとっては、

「てゐっ!? な、なんで、ここにっ!!」

 いるはずのない。
 動けるはずのない仲間。
 妖怪兎の実験を握るてゐが、その場に現れたのだから。
 てゐは驚く鈴仙の前で、紙に包まれた白い粉を取り出した。まさしくそれは、朝食のときに飲ませた薬に違いない。

「こういうことだろうと思ってたんだよね~、まったく頭のいい人の考えることは困るね、ホントにさ」

 薬を飲む前に口に紙を入れ、それで防いだのだろう。 
 それでも、薬を飲まなかったからといって、兎の生面線である足を負傷した状態で人里まで来るなんて、もしこれたとしてももっと時間が掛かるはずで……
 鈴仙が視線をてゐから離したとき、障子越しにもう一つ人影が見えた。目を凝らしてみると頭の部分に角ばった帽子が乗っていて。

「文っ!」

 そう鈴仙が叫んだ瞬間、障子越しに手を振って飛び去ってしまう。
 
「まあ、そう怒んないでよ。文には人里のことずっと教えて貰ってた恩があるんだから」
「ずっと、っていつからよ!」
「えーっと、春ぐらいから」
「っ!?」

 ならばてゐは、ずっとこの異常を。
 平穏な日常を過ごしながら調べ続けていたとでもいうのだろうか。

「だからさ、全部わかってるんだよね。今人里が危ないとか、そういう情報。話し合いするならするって教えてほしかったなぁ」
「わざと隠してるつもりはなかったのだけれど……」

 明るい口調で話を続けているのに、その足には赤い筋がすっと走り続けている。
 それでもてゐは傷を押してここまで来たことを隠すように、痛がりも、呻き声も上げることもない。

「てゐ、戻りなさい! 重くない怪我だけど、動いていい怪我でもないのに!」
「心配性だなぁ、鈴仙は。大丈夫だよ、ちょっと人里の人と話したら戻るからさ」

 廊下へ戻そうとする鈴仙の手を押し退け、てゐは足を引きずりながら部屋の中央に移動し、中央に座った。

「廊下で全部聞いてた。だから、私の話だけ、聞いて?」

 そして、わずかな時間で憔悴した慧音へ向けて、ぺこり、と。
 軽く頭を下げ――

「ごめんなさい、嫌な思いさせたね……慧音……」

 ――いや、土下座した。

 鈴仙が驚きの声を上げるようとするが、できない。
 畳に額をくっつけたてゐから向けられた鋭い眼光が、鈴仙をけん制する。

「私はずっと兎たちと生きてきた。だって、兎から妖怪兎が生まれるんだから、家族みたいなものなんだよ、みんなが少しでも減らないように、がんばってきた。慧音だってそうだよね? 満月の度に、がんばってきたんだもん、私の気持ち、わかってくれるって思うだから、さ」

 優しい声音だ。
 妖怪兎たちに声を掛けているときのような、調べを奏でながら頭を少しずつ起こし、てゐは微笑む。

「食べて、いいよ」
「っ!?」

 その場の誰が、その言葉を予想できただろうか。
 てゐは今、兎のことを家族だと言った。
 鈴仙だって、その耳で間違いなく聞き取った。
 それなのにてゐは、微笑みながら良いと言う。
 人里のために、差し出すと。

「でも、期限は一ヶ月と、半分。それ以上は、竹林で狩りをしないと約束して。それと、子供の兎は、殺さないって……お願いだから、約束して……」

 微笑みながら涙を流し、再び頭を下げた。
 その言葉を聞いた阿求が、何かに気付く。
 そして慧音がボロボロと泣き崩れるのを見て、確信した。
 
「……師匠、まさか」

 鈴仙もその可能性に行き着き、永琳を振り仰ぐ。
 けれど永琳はその内容には触れず、

「聞きましたか、人里の皆さん。今てゐが許可したとおり、しばらくの間竹林を開放します。しかし、今後、人が増え、逆に妖怪が飢えたとき。
 人里の皆さんがどのような対策をなさるのか、楽しみにお待ちしておりますわ」

 鈴仙の手を引き、その場を後にした。 
 
 

 師匠の腕に引っ張られながら、鈴仙は――


 
 てゐを称える人間の声、その全てを恨んだ。










 


 ほら、今日も狩が始まる。
 逃げ回る兎を追いかけて、人間が竹林を走り回る。
 兎たちも生きるのに必死、そして人間たちも同様で。

『弱肉強食』

 生き物の在るべき姿が、そこにあった。
 てゐが仕掛けていた緻密な罠の変わりに、兎を捕まえるがための単純な罠が張り巡らされた竹林。
 その異質さは、そこで暮らすものにしかわからない。
 自分たちの縄張りを別なものが蹂躙するたび、吐き気なんて単純な言葉で表現できないほどの嫌悪感が身体を支配しようとする。

「……てゐ」

 この指を動かして、少し力を込めてやるだけで守ることのできる命がある。
 なのに、それができない。
 鈴仙に兎と触れ合う喜びを与えておいて、守ることのできない憤りで胸を焼かせる。これはいったい、なんという拷問だ。

「なんなのよ、これ」

 鈴仙に背を向けて立つてゐ。
 その背中に、この弾丸を撃ち込めば……
 鈴仙が実質上の兎のリーダーとなり、この暴挙を止められるのではないか。
 そんな壊れた感情すら、生まれては、消える。

「どういうことかって聞いてんのよ!」

 そうやって何も答えようとしないてゐに声を向けるたび、
 呼吸をするたびに、どこかで兎の命が消える。
 それなのに、てゐは何もしようとしない。
 ただ、地面に両足をつけて、攫われていく兎を見送るだけ。
 助けて、助けて、と訴える兎の瞳をまっすぐ見つめているのに、何もしない。

「そう、わかった! てゐには頼らない、私は勝手に人間の妨害させてもらうから!」

 逃げる兎と、それを追う人間が周囲に居なくなり。
 鈴仙が動こうとしたそのとき。

「……ねぇ、鈴仙。あの不思議な草の特性なんだけどさ」

 やっとてゐが反応した。
 けれどそのつぶやきは、鈴仙が求めていた言葉とは掛け離れすぎていた。

「てゐ? ふざけてんの、ねぇ? そんなに私を怒らせたいわけ?」

 てゐの前に回り込んだ鈴仙が、その胸倉を掴む。
 しかし、てゐはまだそのつぶやきを続けた。

「実は文に頼んで、幽香って花の妖怪に調べてもらったんだよね……、みんなが食べ始めるようになってからすぐにさ……」
「へぇ、もう、狂っちゃった? 私の言葉がわかんないくらい、馬鹿になったの?」

 狂気の瞳を使おうとして、やめた。
 今のてゐには、その価値すらない。単なる抜け殻だ。
 鈴仙は掴んでいた手を離し、地面の上にへたり込むてゐを一瞥する。
 こんな奴を仲間だと思っていた。考えただけで虫唾が走る。
 そう、思った。


 が――


「そしたら、さ。あの植物って……冬になったら勝手に死ぬんだって……」

 鈴仙の瞳が揺れる。
 考えたこともなかった事実に、一瞬だけ思考が停止した。

「妖怪みたいな再生力もってるけど、寒さにはめっぽう弱いんだって。本当ならああいう植物って親株が死ぬ前に子株とかで数を増やす構造になってるみたいだけど、ははは、誰かさんの能力のせいで、その辺が不完全なまま突然変異しちゃった妖怪草みたいでね……」

 てゐは花の妖怪には聞いてない、そう言っていた。
 そうやって鈴仙に、嘘をついた。

「あの草……自分の力じゃ、冬越せないんだって」

 その事実が告げるものは、鈴仙にだってわかる。
 兎があれだけの数になったのは、あの草のせいだと言い切っていい。
 それが、ある瞬間に消え去れば……

「だからね。だから、私は……」

 普段では考えられないほど増殖した兎たちがどうなるか。
 あるはずの膨大な食料を失い、冬という最も過酷な季節を迎えたとき。
 何が起きるか。

 鈴仙の瞳には、はっきりその映像が浮かぶ。
 助けて、助けて、と訴えながらてゐの元へ集い、飢餓で死んでいく。
 真っ白な白い絨毯の真ん中で一人立つ。
 幸運を持った兎の姿が――




「私は、鈴仙みたいに優しくないから。
 100を犠牲にすることしか、できなかったんだよ……」




 狂運を持たされてからずっと兎たちを守ってきた、妖怪兎の泣き顔が。



 いつまでも鈴仙の瞳に残り続けた。


 
 ◇ ◇ ◇




「……ねぇ、紫ってさ。最近てゐと会った?」

 お茶を飲みに来てみたら、唐突な質問が降ってきた。
 紫はお茶請けに手を伸ばしつつ、はて、と首をかしげ、即座に理解して満足そうに頷いた。
 式すら感銘を受けるその頭脳は、幻想郷の中でも秀でており、

「しばらく私に会えなからって、私の友好関係を探らなくてもいいのよ。私は霊夢一筋で――」
「あ、じゃあ別にいいわ」
「ぐすん、最近冷たい……」

 ……幻想郷の中でも秀でており、一部の巫女からは紫色の脳細胞と評されるほどである。

「てゐの能力って幸せにする能力よね?」
「ええ、それが何か?」
「今回人里で起きた食糧不足の問題、その解決方法があまりにもできすぎてたから。ちょっと気になってたのよ」
「……聞きましょうか」

 つまり、紫が幸運を得た。
 そう霊夢は考えていたということだろう。
 しかし、紫が幸運を得たのであれば、このさばさばとした関係にもう少し粘り気が加わっているはず。
 などと、口に出すと夢想封印が飛んでくるので、紫は静かに頷くだけに留めておいた。

「だってほら、今回の解決方法って、人里の口減らしをして、紫が人間足したりしてもよかったわけでしょ? もしくは、一ヶ月間ずっとあんたが食料運び続けるとか」
「霊夢、自分も人間だってこと忘れてない?」
「ちゃんと把握してるわよ。でも、前者の場合は妖怪をしらない人間が大量に世界に入ってしまう可能性があるから、幻想郷のバランスを大きく崩す恐れがある。そして、後者の場合は紫の影響力が人里に及び過ぎてしまうから、人間と妖怪のあり方が崩れる。どちらにしても大きなデメリットがあるわけじゃない?
 だから紫動かないんだろうな~って、様子見してたんだけど」
「根拠は?」
「なんとなく」
「もう、貴方はどこまで……」

 どうして勘でここまで言い当てることができるのか。
 紫が動かなかったのはまさしくそのとおりであるし、彼女自身も手打ちが遅れたと冷や汗をかいた事もあった。
 それでも、世界は順調に周り。

「ここからは文に聞いた情報も混ざってるんだけどさ。まず偶然永遠亭の周りで兎の好みの草が生える。で、それを食べた兎が増える。で、食糧不足がやってくるわけだけど。増えていた兎のおかげで、幸運にも危機回避した。兎の数も、元の数と同じくらいにまで押さえ込まれたわけだし。
 どこかの誰かがてゐの幸運を利用したとしか思えないのよね」
「だから、犯人が私?」
「そう、だって、ほら。食糧不足の異変が起きたって言うのに、起きる前と起きた後の各拠点の状況がほとんどって変わってない。こういうの願うのって、あんたか、もう一つくらいしか思いつかなかったのよ」

 もう、一つ。
 自分以外の誰が居るというのか。
 紫は霊夢が何に気が付いたのかを理解できずに居たが、霊夢は淡々と会話を続けていく。
 まるで、わかっていて当然と言わんばかりに。

「それで、もう一人は誰だと思ってるの?」
「ん、もう一つ、ね」
「一つ?」
「ええ、だって紫がいつも言ってるじゃない」

 ぱりぱり、と。
 煎餅を齧って一休みした後、霊夢はあっさりと言い切った。

「ほら、あれよ。あれ。
 すべてを受け入れたり、
 失われたものの楽園だったり、
 それでいて残酷だったりするやつ」
「……馬鹿馬鹿しい」
「そう?」
「そうよ、考えることすら愚かしい」
「おかしいなぁ、いいとこ言ってると思ったんだけど。
 ねぇ、ところで紫?」
「なにかしら?」






「顔、青いわよ?」



 ☆ ☆ ☆



 幸せの絶対量がその世界で一定であるなら。
 てゐほど不幸な能力はないのかもしれない。
pys
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コメント



0.2220簡易評価
1.80奇声を発する程度の能力削除
読み終わって何だか色々考えさせられるお話でした
7.100名前が無い程度の能力削除
こういうの好きかも
11.100名前が無い程度の能力削除
冒頭の異常繁殖の辺りで展開は見えたけど、やっぱり重いなぁ。
でも、豚だって牛だって、あんなに可愛いのに美味いんだよなぁ。
もふもふ、もふもふ。

しかし、妖怪側が飢える事態って人間は死滅してそうだ。
12.100YSM削除
久しぶりに良い物語を読ませて頂きました
13.100名前が無い程度の能力削除
これは…考えさせられる、良い話ですね。

てゐちゃん、自分以外は幸せに出来るけど、…哀しいなぁ…
14.100名前が無い程度の能力削除
前々から思ってたけど自分が唯一頼れる医者の身内を食うってとんでもないですよね。
19.90名前が無い程度の能力削除
優しい子たちですねえ……
22.100名前が無い程度の能力削除
序盤からはこうも悲しいオチになるとは思いませんでした。
色々と思惑に載せて、けれど根本は予測できない自然ですから、人間にしても妖怪にしても大きな運命というものには抗い難いものなのだなと思いました。
鈴仙が色々感情的に動いていて可愛かったです。
36.100うさぎつね削除
とても面白かったです。
それぞれの人物の動きとか展開とか、伏線もいくつかあってとてもうまかったと思います。
こういうお話書いてみたいです。
48.100名前が無い程度の能力削除
てゐ…
57.無評価名前が無い程度の能力削除
妖怪が餓えた時に、人間は家族を差し出せるのかな?
要求した妖怪を悪魔と罵って約束を反故にしてきたから、他の勢力との関係は悪化したんじゃないだろうか…