Coolier - 新生・東方創想話

ルリン・クレン・アをめぐる冒険

2019/11/01 22:49:05
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 …………………………………………………………………として、古科学の本に出てきそうな球体の潜水帽を投げ渡された。両掌に広がるひんやりした硝子の冷たさ。その感触と視覚に注意を奪われて、宇佐見菫子は相手の言葉を全く聞いていなかった。
「帰りなさい」
 同じことをもういちど口にした八雲紫へ秘封倶楽部の会長は眉をしかめた。
「いやよ」
「でしょうねえ」
 座れとばかりに隣へ発生した革張りの椅子へ遠慮なく腰を下ろした菫子がまばたきをすると、揺れる列車の固い座席に座っていた。
 この断絶。車体の側面に丸々とくり貫かれた窓には、摩天楼の夜景を見下ろす光景が地平線の向こうまで続いている。振動や音は菫子の知る鈍行列車の物であったから夢現の境界が曖昧に感じられ、一刷ひとはけの幻が頭のなかで揺らいでいるようだった。
「空で虹が蔓延はびこっているのです」
 おそらくは隣に座る八雲紫が言った。窓の外は黒で塗りつぶされトンネル内を走行する音が続き、しばらくすると青空が見えた。幻想郷の見慣れた場所であり、いつも飛びながら見下ろしていた光景と違いはない。空の三割を埋める虹が頭上を横断している以外には。
「我々も空のかけがえを持っておけばよかったのですが後の祭り。今ではあれをなんとかしようと幻想郷が上から下へ来来くるくるという有様。そのような場所へ貴女を呼ぶわけにはいきません」
「虹の妖怪をとっ捕まえればいいじゃない」
「さすがに小賢しい。大外れです。あれについて解っていることは天より高い場所にあるということ。虹霓であるということ。以上の二点しかわかっておらず、地上でどうにかできる者はいない」
「なら私が行く」
翠玉エメラルドを踏みに? 貴女は関係ないわ」
 楚々と微笑んで返すスキマ妖怪を菫子はにらんだが、相手の表情は毫も動かぬ。続けられた説明によれば虹が広まると重みが増し、このままでは支えとなっている大地が割れてしまうかもしれないという。架空という言葉の変化が原因である。空にかかる物体の巨大さと重さを想像できるようになった人類のしわよせを、ついつい幻想郷は受け入れてしまったのかもしれないと八雲紫は琥珀色のけぶる唇で言葉をつづった。
「たしかに私には関係ない」
「もちろんです。外の世界の言葉のせいだとしても。ここで宇佐見菫子は一代の過客。少なくとも今のところは。わかっていただけたかしら」
「私は小賢しいからね」
 微笑を応酬しつつ、八雲紫の言うことももっともであると菫子は理解していた。彼女は来訪者。半ば夢であり半ば現である隣人にすぎず、いかに親しくとも義理はない。理屈も予感も此度の事情に絡む必要はないと彼女に伝えている。
 ただ、舞台のしつらえ方と予告が気に食わない。自分がどうして幻想郷へやってきたのかを目の前の妖怪へ伝えるために菫子は言葉をこぼした。
「秘封倶楽部」
「何ですって?」
 ようやく笑みを外した八雲紫の顔を見て、菫子は双眸を輝かせた。
「秘密を曝くために色々やってるの。私。ご存知だったかしら。空の虹の正体を知りたい? なら私が行くわよ! まかせときなさい!」
 瞳の奥で琥珀色をくゆらせて八雲紫がまばたきを数度。蝶が横風に揺らされるがごとく。
「あ。でも虹ができる高度まで飛べるかどうか調べるから、ちょっと待っててくれない? 時間がたくさんかかりすぎても現実の私がマズいから、まずは計画を立てないと」
「わかりました。そこまで言われたのであれば断るのも奇妙な話。手段も時間もすぐに用意しますわ」
 断絶。返事をしようと唇を半開きにしたままで菫子は分厚い椅子に座っていた。肌触りの柔らかなものに首から下が包まれており、動かそうとすると胸部と腰が帯で固定されているのに気づいた。視線を巡らせると膨れあがった雲のような服に全身が包まれており、よくよく見れば頭部も丸い透明な球体に覆われている。なによりも座っているだけで伝わる椅子の異常な頑強さが菫子の不安を増大させた。部屋の内装は木造りで狭く、隣とその向こうに同じ服を着た何者かが彼女を見つめている。
 ──では皆様に虹へ行っていただきます。
 八雲紫の声が部屋に置かれた小さい蓄音機状の物から聞こえてきた。
 ──状況は知っての通り。早急な調査をお願いします。通信機はそこに設置しているものと、もうひとつが調査用品の入った葛籠つづらにございます。定期報告用にお持ち寄りください。
「ようこそ被害者どの」
 隣からの声に菫子が視線を向ける。どこかで見たかもしれない顔だった。
「自己紹介は面倒ね。手早く紹介してもらえると助かるわ」
 声をかけてこなかった者が蓄音機のラッパへ向けて言った。
 ──では簡単に。いま座ったのは深秘を暴くのがご専門の宇佐見菫子。真ん中は虹色なないろに通ずる七曜の魔女として名高いパチュリー・ノーレッジ。最後は未知の宝物にも見識高い、貴種であらせられる蓬莱山輝夜。
 なるほど大した面々だと菫子が感心していたところへ八雲紫は続けた。
 ──皆が働きまわる中で暇そうにしていた者たちが選ばれています。穀潰し、ろくでなし、寝太郎といったところ。
 三者三様の罵倒がはじまるも紫は一切を無視する。
 ──さて。皆様がたが向かう先は未知であり、危険が待ち受けるかもしれぬ場所へそのまま立たせるわけには参りません。永遠亭の一部からあまりに強い要請もいただいておりますれば、探査中それなりに安全を確保できる方法を用意しました。三人乗りの船外調査服ですわ。輪入道と鬼火と七人同行に技術提供をしていただきました。着心地は幽霊船や猫車の持ち主に協力していただいたのでバッチリ。
「ちょっと。魂を抜いて服に詰め込みますって聞こえるんだけど。魔術的にどれだけ危険だかわかってるの? 魔女からの要望を聞いてもらいたいところね」
 延々とパチュリーが蘆薈ろかいのような言葉を吐き出しはじめた横で輝夜が菫子と目を合わせ、手振りと唇を動かして何かを伝えようとした。それだけでは内容を理解できなかった菫子はしばらく考えたあとでテレパシーを輝夜へ飛ばした。
『なんだって?』
『あら。心通が使えるの。あの魔女を少しだけ黙らせてほしいのだけれど。そうすればスキマがさっさと離陸させてしまうでしょうし。これを使ってしばらくあの意味のない愚痴を聞いてあげて頂戴』
『絶対イヤ。紫もさっさと離陸させちゃえばいいのにさ』
『ヘソを曲げられてここから脱出でもされたら面倒じゃないの。打ち上げてしまえば、そこは大丈夫じゃないかしらね』
『ふーん。まぁ、やってみるかぁ』
 まずは思いきり大きなテレパシーでパチュリーの名前を本人へ叩きつけると、驚きのあまり魔女が目を見開いて菫子へ振り向いた。そして目と目が合うのを待っていた菫子が超能力を使うと、途端に首を垂れて魔女は意識を失った。
「あら。シメたの?」
「シメない。催眠術よ催眠術」
「貴方って便利ねえ」
 輝夜へ得意げに鼻で笑う菫子だったが、機体が揺れ始めると反射的に全身を緊張させた。
 ──では紅魔館 発の紅魔館 着になります虹への連絡船をお楽しみください。
 胡散臭い声を皮切りに上昇していく宇宙船の中で、加速度が高まるにつれて想像を超える強烈な圧迫感が菫子を襲い、耐えきれなくなると半ば無意識に念動力で中和を試みた。幾度かの試行の末、飛行中における急停止の要領でどうにか成功させた菫子が一息をついて隣を見てみると、感
極まって万歳三唱を繰り返す者のように全身を躍動させるパチュリーが目に入ってきたので恐怖のあまり喉の底から叫んだ。魔女の透明球体の中は大量の髪の毛が炎のように荒れ狂っている。
「風に溺れてるのね」
 乱舞する魔女を覗き込むようにして輝夜が立っていた。どんどん強くなっていく加速度の中で丈高い百合さながらに。中和してすら口をきくのも難しくなってきた菫子の表情を見て輝夜はうなずく。
「疑問はごもっとも。いま貴方が能力を使って重さを中和しているように、目覚めたこの魔女は咄嗟に風を操って同じことを試みました。結果は大失敗というわけ。おや。私? 私ならこれくらい自分の足で歩けます」
 輝夜は窓へ歩み寄った。
「外はなかなか見物みものね。今の我々ならば天狗よりも速いことでしょう。ところでスミレコ。先程スキマへ向けて抗議したときに、自分からここへやって来たのだと言っていたけれど」
 月姫の眼がしなる。
「私にはそう思えない。あれが暇そうな者を集めたと言ったのであれば、しんじつ手すきを集めたのでしょう。スキマ妖怪と話していたときに胡乱なことはなかったかしら。たとえば、話し合いは夢の中で行われたとか。……あらあら」
 菫子の前を回りこむように輝夜は顔を動かし、ほころびめた花先のごとき唇で笑う仕草をした。返礼に撥ねつけるような視線を送ったあとで、菫子は念動力の調節へ専念することにした。少なくとも輝夜からそう見えるように振る舞って過ごした。



 旋風による窒息からパチュリーが回復したとき、同乗員の二人はおとなしく椅子に座っていた。喘息の予兆にうずく胸を魔法で調整しながらあえぐ魔女だったが、思いのほか船がゆっくりとした速度で運航していることに気づいた。
「遊覧飛行でもしてるの」
「お早いお目覚めで。風は食べ飽きた?」
「次回は水も混合して用いることで快適になるでしょう。外来人は?」
「白黒が貴方の蔵書を盗み出す算段に近いのかしら。あの小さな板を使って外の世界にある大図書館しゅうごうちから知識を盗み出そうとがんばってるけど出来ない有様よ。窓を覗いてご覧あれ」
 わずかに顔をしかめながら浮遊して外の景色を見たパチュリーの背中へ輝夜が付け加える。
「正解よ魔女どの。現在私たちは味わっているのです。目指した先を。踏むべく訪れた虹のきざはしを」
 窓の外に広がるのは燃える虹色。黒と星々と大地であれば以前にも目にしていたが、その間に長大な体を横たえて淡く輝く七色はパチュリーが初めて見るものだった。太陽を背にして虹を見下ろす宇宙船からは、よくよく目を凝らせば虹の向こうにある人工物も見てとれた。
 人工物。ゆるやかな弧を描く曲線を基調とした物の表面へ走る、糜爛びらんと見紛う交錯した直線群がその証。自然はその創造物に直線を用いないからだ。
 たわみ曲がりかけた円柱のような物体へ向かって船は進み、十分に近づくとそれが山脈にも匹敵する大きさをもっていたことが知れた。虹色の層そのものは薄く、あっという間に光のを抜けて船は人工物の表面へたどり着いた。表面を沿って進む彼女らの下に広がる外壁(どこかしら生き物の皮膚を思わせた)へ走る紋様は規則性があるようだったが読み解ける者はおらず、通信機で地上の者たちへ説明しても同様だった。そもそも他者へ説明のできる人選ではなかったこともある。
 果てない白壁に黒点が認められたのはいつごろだったろう。壁に対して染みほどの存在感もない点は、宇宙船が近づくにつれ黒から影へ、影から陰影へと広がり薄くなっていき、割れたザクロの実のような凸凹が立体的に入り組む場所となったそこへ宇宙船は微速で近づいていく。開いた
鯨の顎へ呑まれるのも介さず泳ぎ続ける小魚のように船は立体構造林の中へ入り込み、都合のいい場所で停止した。
 船内から綱が一筋伸びてほどよい突起へ巻きつくと、錨が宙空へ投げ出される。しばらくして内部から丸い宇宙服がひとつと、同じくらいの大きさをした葛籠のような物が出てきて陰影の中を進み始めた。無重力のなかで浮遊する感覚をつかもうと宇宙服が四苦八苦する中で人造物の谷は
かすかな動きも見せない。スムーズな移動ができるようになって周りを見渡す余裕ができると、透明な頭部球体の中でパチュリーの声が響く。
『迷わないように各自にしるべを付けとくわよ』
『私は遠慮しておきます。犬猫じゃあるまいし』
パチュリーの提案をにべもなく断る輝夜の声もヘルメットの中で流れた。
『こういうの重要なのに』
「ねえ」
 菫子の返事は球体の内部で発せられる。透明な球体の中では文字通り何も存在していない。首の辺りから下は暗闇がいっぱいにつまった大柄の宇宙服があるばかりで、つまるところ服だけが自在に動いて活動していた。幻想郷の用意した船外宇宙服は三人乗りであり、そこへ乗務員の魂の
欠片が収容される仕組みとなっている。神の分霊や化猿の体毛のようなものであり、船で眠る本体から意識を引き継ぎ、状況によって表層を動かす乗務員を換装しながら調査を行うのだった。
『意識と本体をつなぐ命綱ならもう付けたじゃない』
『私のはお互いをつないでおく物よ。もし魂を吹き飛ばす風でも吹いてきてごらんなさい。服の外へ飛んでいっちゃうかもしれないじゃない。魔法で編んでるから見えないし触れもしない。付ける気になったでしょ』
『まるで逆。察知もできないものを他人に握らせるなんて御免です』
『頭固いなあ』
「ところで練習終わったから、どっちか代わってよ。まさかずっと私が移動を担当するわけにもいかないでしょ」
 まさかだっだ。さわがしい声を飛び交わせて菫子は小さく浮いたまま飛んでいく。宇宙空間であるにも関わらず光がゆらぎ、影のれた場所以外でも微光が暗闇へ潜りこんできたため地上の夜のように目が利いた。奥へ奥へと進むうちに空間は狭まり、ようやく菫子の脳裏でひとつの実感が閃いた。映画で見たことのあるような場所に似ているのではないか? 近未来の構造物。やがて見ることができるかもしれない数歩先にある未来の建物。たとえば──宇宙ステーションなど。
 暗い鏡のような質感を持った扉のようなものが目の前に現れたとき、菫子の実感は確信に変わったので他の二人に説明をした。ここは未来の外の人間が作ったものではないかと。
「当たり前じゃない」
 一蹴しながらパチュリーは表層に出てくると眼の前の扉に手を置く。道を塞ぐように置かれた壁であり、横滑りをするであろう構造が見て取れる。仕掛けを動かす取っ手もドアノブもなさそうな分厚い金属の表面へ手指を滑らせながらパチュリーは言った。
「木金の通り道はあるけど、今は何も流れてない」
 残る二人が生返事をしても一顧だにせず、パチュリーは何かを探すようにあたりへ視線を這わせていく。
『スマホが使えないからわかりやすく言って』
『スミレコ。木金というのは五行の属性。流れ行く金気の物、あたりの意味合いよ』 
『ふーん。つまり開くの?』
「鍵はかかっていないと考えていいでしょう。あとは分厚い扉を動かす手段があれば通れそうね。協力しなさい」
 菫子は扉を視た。びくともしない金属の塊を自らの細い腕では動かすなど不可能だろう。ではもう一つの腕サイコキネシスではどうだろうか。宇宙服の操縦権を菫子はそっと奪い取り、地上においては岩すら縦横無尽に動かす自慢のもう一つの腕が扉をまさぐった。水を櫛でけずるようにたやすく扉が動き、眼の前へぽっかり開いて続く通路の前で菫子は得意げな顔を作ってみせた。
「協力してあげたわよ」
 パチュリーの意識偏向が菫子と輝夜の間を往復する。
『まあいいけど』
 再び三人は闇の底を進んだ。宇宙服の後頭部あたりで漂うパチュリーの発生させた光球が視界を確保して、所々に姿を現す画一的な扉は菫子が開け、分岐のなさを輝夜がいぶかしむ。自動的に追尾してくる葛籠の存在を忘れかけ、全員の方向感覚がゆっくりと失われていくところに上下方
向への移動も加わり、すでに宇宙船との距離も把握できなくなってきた頃に彼女たちは小部屋に入った。十人ほどが入れそうな部屋には整然と大小の浅い穴が穿たれている。部屋の中央に進んだあたりで後方の扉がひとりでに閉まると、パチュリーが即座に交代して扉と壁に両手を這わせる。
「閉まっただけ。鍵もかかっていない。ただ木の足跡が残ってる……かも」
『電気が来てたってこと?』
「不明ね。逃げ足の速さは確かに雷さながらだけれど」
 代わった菫子が前方へ見えざる手を伸ばした。感触が今までと同じであることを確信すると扉を開き、しばらく警戒してから闇の中へ飛び込んだ。
 足裏が床に触れる。身体が左右へブレて転びかけるが踏みとどまり、菫子は頭上を仰いだ。重力がある。そしてここへ飛び込むまでの間に押されるようなわずかな抵抗を感じた。あれは風ではなかったか? なによりも前方と上方へ感じる広大な空間の気配に圧された菫子は喉を鳴らした。
 環境の変化に好奇心を刺激されたパチュリーが辺りの状況を検分していき、空間を満たしているのが地上の空気と同じだと結論付けるや木の魔法で漂いながら進んでいった。光球を限界まで高く昇らせても見える気配のない天井の調査は後回しにして床を調べたが、残念ながら今までのものと違いはなく、途中で見つけた壁もまた同様だった。膨大な静寂が凝結したかのようなそれは高さも長さも果てなく続いているようであり、三人はとりあえずの進路を壁沿いに定めた。やがてやることの無くなったパチュリーは宇宙服の操縦を菫子に押し付け、菫子も飽きて輝夜と言い合いをはじめた頃に変化は起こった。
 壁に扉があった。あまりに巨大なため気づかず歩き続け、しばらくして色調の違いに気づいた輝夜の言に従い、壁から離れ見上げることによってようやく知った存在のしろさは確かにこれまでのものとは違っていた。光球の輝きを白熱する鋼ほどに強くして解ったのだ。流れ過ぎた白は白堊の白。象牙の白。目の前に建つ極めて大きな月影の白とは比ぶるべくもない。
 光の届かぬ凝った闇の高みまで伸びた扉は大河ほども幅があった。これほどの出入り口がはたしていかなる理由で作られたのか──そもそも扉なのか?
 仮に扉だとして。菫子は自問する。扉であるならば、どれほどの力を出せばこれを動かすことができようか? か細い声で内なる声がささやく。『命を全て燃やせばあるいは』。自己犠牲に陶酔するかのようなこの声を菫子は脳裏から追い払い、他の安全な方法を模索していると輝夜が宇宙服の表に出てきた。
「どうしようもないの?」
『お手上げ』
「鍵は?」
『さっき触れた感じだと今までと同じで掛けられていない』
 輝夜が扉の前まで移動する間、間延びした声でパチュリーが応える。菫子は何かを言おうとして口をつぐんだ。彼女に案など何もない。ここを諦めて先へ進む以外の選択肢を提示することができず、そのような自明を口にだすのは耐えられぬ娘だった。
「しょうがないわねえ」
 扉と扉の境界線まで移動した輝夜は、自分の家のような自然さで両方の指をかけた。
 空気が震える。巨大な物体が身じろぎするために起こるあらゆる振動が空間を伝播し、頭部の透明球がビリビリと音を出した。
 扉が開いている。小さくない振動であたりを揺らし、人と葛籠が通れる程度の隙間を作り出した。だが菫子を驚嘆させたのはそれだけではない。光の中に立っていたのだ。三人は。風と雲がくるめくあたりを思わせる高い場所から床までみっしりと輝く一条が扉の隙間に直立しており、扉の向こうへ広がる輝ける植物の緑翠を垣間見させた。垂直に固縛された光は通り抜けてきた闇の渓谷へ差し込まれると拡散し、薄れて絶えるまで長い舞衣のように揺らいでいる。もしくは開け放たれた最果ての塔のごとく傾いていた。
 急に光を沐浴したために鮮烈さだけを胸にいだいていた菫子は、輝夜がいつのまにか自分を面に立たせて奥へ引っ込んだことにも気づかず呆けていた。
「どうやって開けたの?」
 ようやくつぶやかれた菫子の疑問を輝夜は黙殺した。代わりにパチュリーが答える。
『どうもこうも。扉を開けたのよ。手を使って。命名決闘でバカでかい一枚板を飛ばしてきたり、留められた時間を無理やり加速させたりするような奴なんだからそれくらいやるよ』
 菫子の脳裏に打ち上げられている最中の宇宙船で歩き回る輝夜が思い起こされた。
「かぐや姫って鬼みたいなのだっけ……」
『覚えとくといいわ。貴き方々ってのはね、ただ一匹の小魚を釣るために天を破る塔を打ち建て、それを海へ引き倒して釣り船とする人種のことよ』
 こうして三人はたどりついた。
 感覚するのは翠玉エメラルドのたけなわである。
 整然と伸びる完璧な直線で敷かれた大路に対する興味はしかし、数知れぬ緑の絢爛に流れ去ってしまっていた。あまりに多くの植物、枝葉を見た菫子は無意識にごく狭い範囲に視界を絞る。しだれた葉の向こうでほとばしるように群れ繁る枝々の流れを目で追うと、地上から天空へ伸びる
幽かな薄緑の濃淡がすらりと目についた。そのまま上へと視線をやれば、一双の魚のように寄りそいながら緑はけぶり、突然に孔雀の綺羅びやかな碧に飲み込まれてしまった。
 そこで菫子は目蓋を閉じた。執拗な葉々の増殖と奔放な陽光の廻転は、展覧することでひどく疲れを覚えさせたのだ。陽光? 菫子は真上を見た。そこにも一面の緑が優美に波打つのを見て少女は心を騒がせたが、空間に砕々と降る見知った光への疑問がざわめきを追い払った。火が獣を追うのにも似て。
 不思議と植物の侵犯を一切寄せ付けない大路を進みながら、やがて三人はこれまでのように会話でこの空間について考察し、持ってきた葛籠の中から通信機を取り出して幻想郷へ散発的な通信を送った。この通信は幻想郷側での取扱が複雑を極めて長く長く続けられることとなり、その間に調査員たちは確認をしていなかった葛籠の中身を吟味することになったのだが、通信機の他には用をなさぬガラクタでいっぱいだった。石柄杓。液状時計。獣毛振子。羽衣銭。これほどの役立たずをまさか餞別に持たせるはずもない。きっと何かの意図があるはずだと、ありもしないメッセージを読み取るべく運命につまづくような議論が少女たちの間で繰り広げられたが、これは本筋とは何も関係がない。
 それなりに長い時──空間の全域を調べるにはとても足りぬが、あたりに満ちた環境と周期を知るには十分な時間が過ぎた。こちらで過ごす時間と現実の時間を妖怪たちによってずらされている菫子は残してきたものに煩わされることなく(八雲紫は約束を守ったのだ)、驚異の未来技術を堪能していた。
 ひとつの島ほどもある空間は異様に高い天蓋からも逆さに木々と草々を繁やか生育しており、まるでさんざめく緑の天のようだった。縦横に走る広い道も敷かれており、こうなってしまえばよく似た通路と植物繁殖区域が上下二面あるというのが正しい。パチュリー曰く「木と金により植物を忌避させる流動建材と空気循環」が使用された通路とその上空は、あらゆる枝葉と根の存在が閉め出されており、通行と採光が確保されていた。植物が根を張り巡らせている土および微生物も同様であり、ためしに通路へまかれた土が飲み込まれるように消えた光景を菫子は驚きと共に思い出す。
 重力に逆らい天に生えた植物がまっすぐと生育するのはおかしいと菫子が疑問を呈したときは残り二人が一笑に付した。
『流れ続ける風が木を傾がせるように、電が流れて木の伸びる向きを導いてもおかしくはない。ここではそよ風すら吹いていないけど、確かに流れる微細な要素がある。電子を循環させて植物を生かす。まさに人間がやりそうなこと。土壌からはそれらしい匂いがしないから、案外と土ではなく虹を吸いあげて生育するように創造されたのかもしれない。色の全てを緑色に変えながら』
 この長口上を道連れのどちらが振るったものか菫子は覚えていないが、光のすべてを一つの緑に変えるという容赦のない侵犯は植物そのものへ言及したようでもあった。
 光という連想。
 密生する植物への光の補充についてはある程度の時間が経つと理解できた。とある周期が経過すると壁の全てが空気と同じほどに透けるのだ。どれほどの厚みがあるのか見当もつかない建造物すべてが消えて、宇宙船の窓から見たときと同じ黒と天体が遠景のすべてを塗りつぶす。虹色の外層は未だに薄っすらと見えるが、それを貫いて太陽からの光が柔らかく空間すべてをひるがえっていった。
 その時の感覚は驚くべきものであり、まるであらゆる場所から均一な重力を受けているようだった。先だって体験してきた無重力てはなく、地上の空を縦横無尽に翔んだときも一度たりとて味わったことのない均重力。場に精緻な調整を受けていることは確かである。土も視覚から消されて根まで見分けられるほど透けた床に立っても、重力に逆らって飛び立ち緑と緑の中間で静止したときでも、採光の時間では常に自らが中心だと菫子には思えた。彼女は、おのれがひとつの透明な露になるということを初めて知ったのだ。
 立ち止まっていた身体と思考を魔女の小言でゆり動かされた少女は、葛籠の置いてある交差点まで進んでいく。雨上がりの虹に似てしんねりと香ってきた樹匂を幻だと否定しながら通信機のスイッチを入れた菫子は、定期報告として周囲の状況といくつかの所感を付け加えた。即ち大きな発見なし。返信も似たようなものだった。
 幻想郷では引き続いての現地調査に難色を示す者たちが少なからずおり、大勢が話し合いで折り合いをつけようとしていた。空を覆う虹の正体はそれなりに判明したがずっと居座らせる訳にもいかぬ(なにしろ大地が割れるゆえ)。では除くのか。誰がやるのか。そもそも幻想郷の結界をあれほど巨大な未来のものが抜けてきたのであれば、半幻想ともいえる代物かもしれない。であればいっそ地上へ降ろしてしまうか。先立って大地への補強のため、突貫作業で幻想と現の狭間へ用意した空白地などは如何?
 調節は時間を食いつぶしていき、その間に現地調査員たちの活動は細々と続けられていく。葛籠に入れられていたガラクタの中には時計もあったが停止してしまっており、太陽と月と星の浮遊日光浴だけが時の足跡を刻んでいった。



 点在する金属質の柱を見つけたのは偶然だった。大路との境界あたりで植物たちの繁茂する中に不自然な層が見受けられることがあり、枝や蔦を取り除いてみると腰ほどまで高さのある柱が見出された。最初のものはただの柱だったのだが、似たような場所が他にもあることに気づいた三人は墓荒らしのように精力的に探し回り、ついに当たりを見つけてしまった。
「これの金は開いてるわね。ごく微量だけど木が通ってる。その向こう。これは、何かしら」
 柱の表面を撫でながらパチュリーが続ける。
「蜜蜂の群れ。死すべき才能群集。甘くさみしい中央標準」
『なんでいきなりポエムを?』
「探ってる先にあるものを言語化したらこういう感じなの。考えて口に出してるの。あー。あんたら人間の脳に近いかも。何も考えてない娘にもあるやつよ」
 変わりばえのなくなってきた皮肉の応酬は始まるまえに輝夜が止めた。
『人間の脳と魔女どのは言われました。ところでスミレコなる娘は心通が使えたはず。そちらで探れるのではないかしら』
『テレパスが脳と脳をつなぐってのはわかるけどさあ。木だの金だのできないよ私』
「そっちは私がなんとかする。テレパスだかなんだかを相手に向ける感じでやってちょうだい」
『もしかしてパチュリーって結構すごいの』
「魔法はすごいわねぇ」
 菫子がテレパスによる不可視の指先を伸ばすと、やさしく導かれるように方向を決められて流し込まれていく。柱の中へ。そこから通じる直線で割り振られた回廊を直ぐに。直ぐに。やがて馴染みのある、それでいて非人間的な感覚と反応を菫子は受け取った。感覚と言葉の相互発信ではなく、署名と思慮による識別分解を。
 柱の上、宇宙服の頭部より少し高いあたりへ立体三次元像が組成されていた。青みがかった四角の画面は腕で一抱えできる程度の大きさで、しばらく様々な文字が流れては切り替わっていたが、最終的に菫子の母国語が映される。
『なんで日本語が表示されたの』
『それは貴方が自分の言葉で接触したからじゃない』
『すごーい』
「あんたは本当に脳みそ入ってるの? 外の人間が自動判別魔法を復活させたに決まってる」
 互いに世迷言を投げつけながら三人は表示されていく文字を、この場所の説明と多少の歴史を追うことになった。意味不明な言い回しも多かったが、分かる部分だけを拾い上げると以下のごとく。
 この山脈もどきは地球環と呼ばれる機構の一部だということ。惑星の周囲を包んでいた地球環は〙ほつれてしまい、降り注ぐまえに〘飛び立っていったということ。この場所の名前がマシリイもしくはマジエルのどちらかだということ。
『結局何をするための場所なの。ここ』
 他の情報が得られなくなってから菫子が残りの二人に質問をしたが、答えは返って来ない。宇宙服の操縦を任された菫子もまた、思考に没入して立ち尽くした。
 放埒に靴底がおぼつかなくなり、足が勝手にもつれる。最初はバランスを崩しただけだと菫子は考えた。おおきく体を揺らして転びそうになるのを咄嗟に浮遊してかわし、すぐに着地した菫子は再び倒れそうになってようやく思い至った。地面そのものが震えている。
 空気が騒乱した。巨大な物体が身じろぎするために起こるあらゆる振動が空間を伝播し、頭部の透明球がビリビリと音を出した。ではこれは扉が動いたために起きていることなのか? 違う。先立って輝夜が扉を開けたときとは振動の範囲が違うと体感していた。見よ。眼の前に広がる緑の全てがさざなみとなって揺れている。これほどの大きな轟きは起きなかった。
 無意識に扉へ視線を移した菫子は、心臓に氷の根がカケたかのような驚異によって呼吸を忘れた。扉が閉まっている。混乱が菫子の脳裏を灼くあいだに輝夜が宇宙服を動かして扉の前まで移動し、合わせ目の部分へ指をかける。
「だめね。動かない」
 パチュリーが操縦を代わり扉へ鍵が掛かってることを確認した。扉と壁にあらゆる力が戻っており、それを辿ったところ遥か遠くで力の坩堝のような場所へ繋がっていると。緑の中をかき分け飛びつくようにして通信機を起動するも反応は帰ってこず、葛籠の中のガラクタは相変わらず使えそうにない。他の手段はないかと探す間もなく、勝手に身体が浮かんで着地した。重力が消えて再び生み出されたのだ。
 この不安定は菫子にとって初めての経験だったかもしれない。眠りについて重きをおいているにもかかわらず、目覚めについては他の人間と同じように無頓着ではなかっただろうか。例えば山脈ほどもある巨大な生物のせなで、その覚醒に立ち会うことを詳らかに思い描く類の娘ではなかったのではないか?
 決断を下したのは輝夜だった。
『船に戻りましょう。パチュリー』
「まだやれる事はあるけど?」
『手っ取り遅いわ』
「あら。そうなの」
 パチュリーが魔術を行使すると少女たちの一部が船に向かって引き戻され、宇宙服は床へ落ち込むように拝跪する姿勢で萎み、外れた透明球が床を転がった。
 菫子は見た。魂だけとなって強制的に宇宙船へ戻される際、あらゆる物質を透過しながら自らが進んできた場所の全てに今や光が満ちているところを。白。その壁を走る色とりどりの光。方向を示唆する図に欲求を叶えるための記号が組み合わされ、何を行えばいいのか直感的に知らしめる情報に満ちた場所は、間違いなく人間のために作られた物だと声高に喝采していた。その叫びの中を人間たる菫子は何もできずに通り過ぎ、宇宙船の中で眠っていた肉体の上で目を開けた。
 通信機からはひっきりなしに応答を求める千差の声が流れ、返事をしながら調査員たちは状況を確かめていく。宇宙船の発進工程が進められる中で通信からわかったのは、虹が不意に動きだし、幻想郷へ向かって落下をはじめたということだった。おそらくは金属柱から虹に関する情報を垣間見ていたころに。そして高高度から山脈が落ちてきたとなれば、光が走るより速く幻想郷は骸の羅列と化すだろうということも。
「これが人間に造られたものなら、人間がいると分かり次第に地上へ戻りたがるのは当然のこと。」
 澄ました輝夜の声に菫子は大声をあげた。
「当然じゃないわよ! そもそもどうしてこのタイミングで。扉ならいくらでも開けたし、察知されるとしたらアンタのが一番大きかった。パチュリーの魔術的な接触もそう!」
「目の届かない部分のはだを微風に撫でられるのも、薄紙の厚みにも満たない小さな虫に這われるのも、午睡をしている人間にとっては同じこと。でも言葉が囁かれたのであれば、風であれ虫であれ相手をせずにはいられない」
「電気機器って、もっとこう、敏感というか即発的なはずよ!」
「貴方の皮膚は触れられたと感じるまで何日もかかるのかしら」
「二人とも」パチュリーが言った。
「手は動かさなくていいけど黙ってて頂戴」
 発射準備を終えたクルーたちが素早く椅子へ身体を固定する間にも通信機の向こうで地上の者たちは慌ただしく話しあっていたが、激しく機体が揺れて錨をもぎ外しながら推進していくと次第に声はかき消されていく。そして上昇したとき以上の強烈な重圧がかかってくると、菫子からあらゆる余裕が剥ぎ取られていった。パチュリーは風と水を組み合わせた術式を緩衝に用いて失敗して溺れており、輝夜は相変わらずしんとしたものだ。
「なんでこんな速度で落ちてるのよ!」
 ──擬虹は落下速度を早めてるから、それくらいで落ちないと貴方たちが退避する時間が無くなるの。
 絞り出すように出された菫子の問いへ雑音まじりの通信機から誰かの声が答える。
「退避ってどこに」
 ──予定通りに紅魔館へ着陸するわ。
 こいつの居場所か、と盲滅法に手足を振り回すパチュリーの方を疑り深い目で菫子は見つめた。そしてその視線の先で輝夜が立ち上がるのを見た菫子は、相手の呑気ぶりにすっかり毒気を抜かれた思いだった。またぞろ窓でも眺めるつもりなのだろう。今度は虹の落ちる速度の批評でもはじめるのかと考えていた菫子だったが、しかしゆっくりとした歩みは窓を一瞥することなく通り過ぎて止まらない。その先にあるものを認めた菫子は呼びかけと疑問に堰き止められた喉で呻きを鳴らした。
 通信機からあらゆる妨害音を透るようにして女の声がした。
 ──姫様。
 外部と船内を隔てる扉の前で輝夜の足が止まった。
 ──姫様。
「こんな時でも名前を呼ばないところ。好ましいわよ、永琳」
 扉を固定する部品が弾け飛んで逆側の壁と床に突き刺さり、次いで凹形に扉が圧し曲げられていく。暴風が船内へ流れ込んで荒れ狂い、轟音と振動が壮絶にうねる中で縮れた枯葉のごとく分厚い扉を歪ませると、輝夜は外へ飛び出した。
 頭から真逆に落ちていく輝夜の先を宇宙船は突き進み、やがて船首を徐々に上げて水平方向へ消えていく。透明球の中でそれを見届けてから、逆さまとなった雲と大地を自らのほつれた黒髪越しに輝夜は見つめた。点在する雲の上部には薄っすらと虹色が反映されはじめており、そのまま雲を貫き落ちた輝夜の前に先ほどまでとは違う色をした地面が広がった。赤茶けた不毛の荒野を目にして、それが狭間へ用意された被墜予定地だと理解した輝夜は懸念が一つ消えたとばかりに小さく息を吐いた。これから行うことの余波で幻想郷が損なわれることはなさそうだった。墜落のすべてを支えるには小さすぎる陸だと諦めもしたが。
 逆さまのまま減速もせず、地表へ大穴をうがちながら輝夜は着陸した。大小混在した岩石と砂塵がぶち撒けられ雲の底を掻くかのような高い土煙が吹き上げられたが、やがて落ち着いてきたそれが風に流れてさらわれはじめたころ、かしいできた煙の最中を割りながら埃ひとつ付けずに輝夜は歩み出てきた。未練がましく左手と腰に残ったままぶらさがる宇宙服の残滓を彼女が軽く撫でると、恥じ入ったものが頭を垂れるようにして襤褸が身体から落ちた。
 輝夜が見上げた空はすでに九分九厘が虹色へと変じていた。八千の色が空を流れて咲くことを虹色と呼ぶのであれば。着物の裳裾から輝夜の白い掌のひらが引き出され、通り過ぎていく箒星の自然さで握られた時に荒野へ見知らぬ突風がかかった。
 輝夜の後方から前方へ向かって前触れもなく飛行する物体が飛び出し、輪郭も定かならぬ速度のまま輝夜の着地と同じくらいの破壊を起こしつつ荒野へ激突したのだ。虹へ向かって以来はじめて輝夜の眉に困惑が刷かれ、それが消えぬうちに輝夜の目の前へ土まみれとなった菫子が空間移動してきた。荒い呼吸をして輝夜の瞳をまっすぐ見ながら、砕け散った宇宙服で唯一残されたひびだらけの透明球を菫子は頭から外した。
「減速するのが精一杯って言うか。勘でベクトル方向の補正をしてテレポーテーションしたら加速しちゃってたというか」
「帰りなさい」
 泰然とする輝夜をにらみながら菫子は手にしたヘルメットを横へ放り投げる。
「幻想郷流の挨拶をどうも! 帰るのは貴方」
 反応を返さない輝夜の手首をつかんだ菫子だったが、その指は冷煙に洗われるような感触を残して知らぬ間に外されていた。
「わざわざ溺れる魔女を助けて、手を借りて、クラクラしながらここまでねてきたのは訳解んないことをしでかした誰かを迎えに来たかったからよ」
「虹を支えに来たの」
「なんだって?」
「落ちてきた虹を受け止めると言ってるわね」
 再び輝夜の手首を握った菫子の手は同じようにして空かされてしまったが、負けじと着物の裾をつかむ。
「それができるなら最初からやってるでしょうが!」
「今ここに私がいる。そしてこの事態へ私のできる事がこれだけなの」
 飛び立つ輝夜へ引きずられる形になった菫子が上を向いて口を開こうとすると、極彩の光魔が見えて言葉を失った。すでに空は消えており、百千ももちの色があたりの全てを飲み込んでいる。落下してくる擬虹とぶつかった雲が水面に垂らされた油のように拡散して霧散していき、飛び上がる二人の少女も色々に染め上げられていく。
「帰りなさい」
 輝夜が見上げたまま言った。
「自爆に価値は無いんだったら!」
「蓬莱人は死なないわよ」
「じゃあ通信機の向こうの人はなんであんな声を出したの!」
「帰りなさい」
 指の中で滑っていく長い裾を離さぬように苦心する菫子の頭上で輝夜の両腕が掲げられていき、ついに墜落物の外壁へ接すると渾身の力をこめた。輝夜の表情は長い髪がたなびいて菫子からは全く見えないが、信じられぬことに虹の落下していく速度が緩んだようだった。月下に竹が咲くほどの速さではあったが。
 みるみるうちに地面へ近づいていく自らを感じながらも菫子は恐怖に対して凍てついたように鈍感になっていた。夢ですら見たことのない光景に酔いしれていたのかもしれぬ。輝夜ごとテレポーテーションをしようと試みるも目に映る場所すべてに降り止まぬ虹があるため潰されることに変わりはなく、やってきた時と同じように魔女の道標をたぐり寄せようにも、ひしめく色彩に乱れた精神では塵を重ねた柱のごとく流々と消散していく。
 輝夜の足裏が地面に触れた。渦巻く風を含んでゆらめいた衣服が彼女の体の線を完璧に隠してはいたが、菫子の耳と触覚は輝夜の中心が軋んでいく音律を聞いた。血液に相当する天鵞絨びろうどのようなものが乱れてたわむのを聞いた。肉に相当する宝石のようなものが潰れて燃えるのを聞いた。
 そして止まった。思考を除いてあらゆるものが静止する世界の中で、輝夜の足元に菫子は坐している。
「帰りなさい」
 四度聞こえてきた輝夜の言葉は口を使っていなかった。
「私に触れているあいだなら貴方も永遠を解する。滑り落ちていく時間の中でも、思索を引き金にする超能力とやらであれば潰れるより先に逃げられるでしょう」
「触れている相手を動かすならこっちにもできるよ」
「私を介してここにいる貴方が、この類の勝負で勝てると思う?」
「勝つ」
「いいえ。聞きなさいスミレコ。最後まで虹を支えることで須臾の余裕が生まれ、そのあいだに誰かが問題を解決するかもしれない。この巨大な半幻想を真正面から食らうことで私の何かが変質してしまうということはありうる。それでも、もし何とかなるのならば私の時間は流れ続けることができるというわけ。難しい問題じゃあないの」
「軽々しく死んじゃ駄目だって」
「死なないんだってば」
 二人は黙った。不意にお互いの言葉の向こう側にいる存在を理解したからだ。空を飛ぶ紅白。決闘で自らに土をつけたあの巫女。先日の己が持っていた目的を意に沿わぬからと取り上げ、別の何かを残していった者への共感が口をつぐませた。
 ──もうひとつ道があるけれど、聞いてみる気はあるかしら?
 さらなる声がふたりの間に割り込んだ。この場所には誰もいないはずだ。空と地が最も寄り添ったここには。だが記憶にも新しいままの声を二人は聞き違えることなどできぬ。
「どうやって私の庭へ? 七曜の魔女」
 ──貴女へしがみついた娘を通じてお邪魔してるわ。
 魔女は言う。はじめに宇佐見菫子へ紐づけた魔紐を通じて須臾へ参入していること。そして矛盾するようだが、あまりに短いこの時へ長く留まることはできないということ。ゆえにひとつだけ告げに来たのだということ。
「このまま私は潰されるのみ。何であれ、しばしの墓には持って行きましょう。かわりにこの不理解屋わからずやの紐をそちらへ引っ張ってもらうよ」
「ないから。輝夜ごと連れ戻す手伝いをしてよ」
 ──ふたりの喧嘩にはもうウンザリ。悪魔も食わないわ。私が言えるのは、約束できるのはただの一点。
 紙のはためく音がした。
 ──虹を月にしてみせましょう。
「はあ?」菫の声。
「すばらしい」月の声。
 説明を求める菫子の声を無視してパチュリーと輝夜は続ける。
「どれほど変えていられる?」
 ──海の間際で波が生まれて消える程度の時間でしょうね。ただ、効果があると認められたならば皆が手を貸してくるでしょう。
「いつまで耐えたらいいかしらね」
 ──世界の最小値だけお願いするわ。
「難題を」
 そして世界の速さが戻り始めたのだ。血と風の巡り。光と雲のゆらぎ。脈々と去来する肌の感覚をようやく菫子が自覚させられたとき、すでに解答は終わっていた。輝夜は背を向けたまま物腰を常のように穏当かつ曖昧なものへ戻しており、散りゆく残花のごとき凄愴さは羽箒でさらうようにぬぐわれていた。掲げた両腕には力が込められているものの、それは葉を滑りしたたる翠露ほどの柔らかさにすぎぬ。
 荒野に風がかかる。
 世界は色を変えていた。吹きすさぶ七色ではなく。ひるがえる虹色ではなく。栄えるきらめきではなく。夢を見るための月光、暁に燃やし尽くされたはずの月影があらゆる場所で華やいでいる。
 虹は月へと変じていた。これぞパチュリーの手腕。七色に通じる七曜を操ることで虹の偏光を満たして縮め、全てを月へと変えたのだ。膨大な質量を一色に編纂し直すにはパチュリーといえども多くの力を割くこととなった。紅魔館へ激突するように宇宙船で着陸した魔女は即座に自室たる蔵書群へ飛び込み、持てる全てを使えるように紐解いていたところ菫子へつなげた魔糸から動向を知り、一計を思いついた。あらゆる書に加えて敷いていた魔法陣や使い魔の類まで動員し、僅かの間だけ虹を月へ変える。虹の中へ置き去りにした宇宙服や葛籠の中の幻想物らもよすがとしては上々だった。
 通常であればそのようなことをしても巨大な月が落ちてくるだけのことであり、幻想郷が被る被害に影響はなかっただろう。だがこの時は墜落物の真下に輝夜がいた。虹はいまこそ三日月に。そして月であるならば輝夜は支えられる。出自に加えて永夜を返した実績のある彼女にとっては、いまさら月のひとつなど手で掬った水面の月影と何ら変わりないのだから。
 苔むすように点在する荒野中の影が香ばしく揺れる中で輝夜の片手がそっと降ろされ、顔が肩越しに菫子へ振り向いた。その美しさを書き表せる言葉はすでに喪われている。光を噛むことがかなわぬように。
 涼やかに燃える銀光に押された菫子が声をかけられずにいると輝夜が口を開いた。
「さて。そこな娘」
 玲瓏とした声が古めかしく、愉しむように悠々と降る。
「ここからはそのほうの番。そのほうの時間。そのほうの戯れよ。妾ではなく」
「ペラペラとえらそうに」
 たかい場所から投げつけられるような言葉に反発して菫子は立ち上がった。帽子と外套で月が減じられ、作られた陰の中で瞳を燃やして。
「私に何をしろって? 終わったんじゃないの?」
「もうひと押しほしいわね」
「宇宙へ投げ返せばいいのかしら。私にそんな力があるなんて知らなかった」
「ないわねえ」
「じゃあ月を割ればいい? 転移させるとか。燃やしたり、占ったりもやってみようか」
「それもきっと無理」
 では何を、と菫子は聞き返さなかった。ささいな疑問といらだちは口の中で溶け去り、ひとつの答えが喉をつたって臓腑へ広がっていく。雄弁に語る輝夜の瞳を前にして。あるいはパチュリーの沈黙がつぶやくのを聞いて。菫子は彼女たちから答えを聞いた。
 輝夜の足元で地面が割れて陥没し、砂煙が上がる。彼女のくるぶしが埋まった。
「さあ。狂おしい月珠ほどではないにせよ、銀孤を支える時間は手のひらをこぼれ落ちていく」
 菫子の顔が上がる。見上げさせたのは空の青ではない。銀にむせぶ雲群でもない。ましてや月に変じた架空存在などでは決してない。
 暴かれるべき秘された幻想封閉を前にして、菫子の眼が雄奇な宝石のごとき色に染まっていく。色の名は菫子。その未来を自らで満たすのは若い傲慢な少女の常であり、これを見届けた輝夜がひとつだけ洩らした。
「月が眠るとするならば。それは菫色の空の底でなければならない」
 これは月もしくは虹の瞼を菫がはじめて落とした物語。菫子はひとつの杯をささげ持つように手を上げ、月へ向けて思い切り力をぶつけた。自らの持ち得る超能力の一つであり、いまだかつて無生物へ向けたことのない力──催眠術を。力が翼を広げて高く舞い上がり、菫子の眼がくらむ。まぶたを閉じるように月はか細くなって消えていき、自らの全てを豪雨のように放つ少女の意識も急激にしぼられ、そこから眠りへくるまれていった。よって彼女がその先を見届けることはなかったのだ。
 青空の下に一人だけが残っている。



 数日ほど夢から幻想郷へたどり着けない日々があった。いつ眠りについても夢見ることなく現実へ帰ってくると菫子は焦れていき、どうにか事の顛末を知ろうと片端から占いへ手を出す始末。そして寝不足の中でベッドへ倒れ込んだ或る夜に彼女は夢を見た。
 断絶。
 はるかな夜と鮮烈な月の明るさはひとつ。風と揺れる竹林の音はひとつ。広大で古色な日本家屋と庭園はひとつ。これらの光景にひとつの息をこぼした菫子は近づいてくる足音に気づいて振り返った。
「ようこそ菫子」
 かんばせをほころばせてゆるやかに歩み寄ってきた輝夜へ菫子は無愛想な挨拶を返すと、うながされるままに庭へ敷かれた広い緋毛氈の上へ腰をおろした。噛みつくように自分が訪れなかった時の様子を聞きたがる菫子を巧く制しながら、幻想郷の近況を輝夜は語った。
 擬月は消えた。おそらくは永い間ここへ戻ってくることはないだろうと大方の太鼓判が押されると、妖怪や人々は元の日常へ戻るための区切りとして宴を乱発しはじめ、今夜あたりはその過度期がそろそろ落ち着く頃だと輝夜は言う。
「貴女がこちらへ迷いこめなかったのは来訪者だから。もしくは酒が芬々と香る場所へ子供を入れるわけにはいかなかったから、というので納得していただける?」
「できるわけない。まあ、お酒を飲もうなんて思わないけど。でも昼間ならいいじゃん」
「昼も飲んでたわよ」
 かくいう私もそうなのです、と言いながら輝夜が寄りかかってきたものだから、驚きが菫子の骨まで突き刺さった。菫子が己を取り戻して輝夜の顔をのぞくと、信じられぬほど近くで息をつく月姫の目が眠りへ溺れていく間際なのを見て取った。
「眠くて。眠くて眠くて。それで、どうしてもこの眠り方がしたくなったので菫子が来るのを手伝ったの」
「ひえ」
「菫色の底。どのような眠り心地なのか気になって。それで。眠くて」
「あ」
 さっさと意識を手放した輝夜に何かを告げようとして唇を半分開いたまま固まっていた菫子だったが、動揺が収まるなり相手の肩へ手をかけた。このままおとなしく枕になってやることもあるまいと、できるだけ優しく眠り人を引き剥がそうと腕に力を込める。
 背後から眼の前に矢が突き立った。耳をかすめた風切の音は夢の発火する音に似ており、遅れて感じられた矢風に至っては断頭台の綱きしりさながら。喉の奥で悲鳴が生まれるよりも早く第二の矢が同じ軌道で飛来して、第一のそれにぴたりとたり後ろからふたつに裂いた。菫子のまばたきが終わるなり第三が第二を。第四。第五。
 放心のていで硬直する菫子の顔の横から八雲紫が這い出てきた。スキマから上半身だけをのそりと動かしながら、矢の残骸を見てケラリといた。
「でしょうねえ。でしょうねえ。でしょうねえ」
「あ。あ。あ」
「まあ。開いた口が塞がらない様子。説明いたします。まず魔女が貴方に付けた紐づけは生きており、ただいま幻想郷へやって来たのがわかったので私が顔見せに参りました。先日の合力に感謝いたしますわ。それからこの矢ですが、現在も博麗神社で行われている宴から八意永琳の手によって放たれたものです」
「やご」
「八意永琳。そこで眠る者の従者というか縁者というか。ただいま弓と矢による演舞を披露しており、発止発止と空へ幾筋か投げられまして。言うまでもないことですが、そこな者の眠りを妨げるのは止めよという意味が含まれておりますのでご留意ください」
「起こさないように動かすからって伝えてくれない?」
「あら口調が元通り。じゃあ伝えてみますわ。というか伝えましたわ」
 再び菫子が輝夜を横たえようと試みる。第六。第七。
「あ。あ。あ」
「伝えましたわ。伝えましたわ。伝えましたわ」
 輝夜が起きるまで動けぬことを菫子は悟り、長い嘆息と共に天を仰いだ。
「帰りたい」
「だめ」
 スキマから宴の場より持ち出された飲食物をつまみながら菫子が嘆じる。長丁場になるからこれで身体の力を抜きなさい。そう言った紫から肘掛けとして、古科学の本で出てきそうな球体の潜水帽を投げ渡された…………………………………。


                                 (終)
読んでいただきありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。

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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白くとても良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
硬質な語彙の薄皮を剥けばしっかりキャラものだし
読み返してみれば硬く見えた文章も不思議な温さを感じます
面白かったです
3.90剣が黒い程度の能力削除
懐かしい土地の名と意外な「一なる三者」の冒険楽しませていただきました
5.100封筒おとした削除
なんという情報の暴力!
初めは突然宙に投げ出されたような気分だったがそのような気分でずっと遊覧飛行してました
月は結局なんだったのか
6.100サク_ウマ削除
非常に曖昧だなあというのが個人的な感想です。
独特の語り口とひどく怪奇な事象が合わさり、なかなか強烈な味わいになっているように思いました。
素敵だと思います。良かったです。
7.90名前が無い程度の能力削除
良かったです
8.無評価名前が無い程度の能力削除
難解な文章の中で、こうも迫真と安穏を描く手腕。楽しませて頂きました。
最後のイチャラブは、執筆者には珍しい雰囲気ではなかったですか?
9.70名前が無い程度の能力削除
すごく読むのが大変でしたが、とても面白いお話でした
虹が空を蔓延り、重みで大地が割れるかもしれない、というところからもう好き
10.100終身削除
とても難しい感じだったんですけど表現とか言い回しが掴みどころがなくて風変わりだけどとりつきやすくて心に残る感じがするのがとても不思議で引き込まれる感じがしました 最初から最後まで災難で振り回されているような菫子と周囲のやり取りが面白かったです そんな中でもあまり弱音を吐かずに色々とやり遂げてた菫子が良いなぁと思いました