平和な幻想郷。楽園と呼ばれるそこに、一つのありきたりでいつも通りの事件が起きる。
人間を食った妖怪が討たれたという、何の変哲もない事件。数年に一度は起きるだろう事件。
事の顛末を事細かに書いた天狗の新聞によると、食われたのは人里でも有名な仲睦まじい夫婦の妻。夜道に家路へ急ぐその妻を蟷螂の妖怪が襲い、食った。それに嘆き悲しんだ夫は人里の守護者を通し妖怪の賢者へと仇討ちを懇願、賢者はその願いを聞き入れ蟷螂の妖怪を討伐。これにて一件落着。
多くの人が嘆きつつも別段何の違和感も覚えずにこの件は終了。
多くの妖怪が嘆きつつも別段何もなくこの件は終了。
ある、一人の妖怪を除いて。
夜。リグル・ナイトバグは考えていた。ここ数日ずっと同じことを考えていた。
それは先日幻想郷中に流れたあの情報。蟷螂の妖怪が討たれたという情報。
リグルは簡素な造りの小屋の中、ベッドに座り考える。あの蟷螂の妖怪のことを考える。
普段なら気にも留めないようなありふれた話であるのに、リグルはこの事件のことを考える。
なぜなら、その妖怪は外から来た、そして自分がファーストコンタクトを取ったものだったから。
こんな場所は初めてだと周りを見回すその妖怪に、この幻想郷のイロハを教えたのがこのリグル・ナイトバグだったから。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
不安そうに尋ねてきた蟷螂に、リグルはこう答えていた。
『どんなものでも受け入れる、それが幻想郷らしいから。君のような弱い妖怪も大丈夫。きっと』
そうですか、と嬉しそうに触覚を揺らしていたのも今は昔。あの蟷螂はもういない。
楽園に入ってきた妖怪が、楽園の禁忌に触れて殺される。
このような事件は珍しくはない。数は多くはないが、人間ですら何年も生きていれば一度や二度は耳に入る。そのくらいの頻度で起きる事件。
ならば何故リグルはこうもあの蟷螂のことを考えているのか。それほど親しかったわけでもなく、最後に会ったのは討たれる三日くらい前。
「そっか」
ゆっくりと後ろに倒れ、リグルはベッドに身体を預ける。
「そうだ。最後に会った時の、アレが気になってるんだ」
天井を眺めながらリグルは気づく。自分がこの事件の何に違和感を持っていたのかを。
最後に会った時、事件の起きる三日前のあの時、あの蟷螂はこういった。感情を読ませぬ声でこういった。
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
窓から入る月の光。光量は中ぐらい、満月までまだ少し遠い夜。
リグル・ナイトバグは自身の持つ疑問に気がついた。
リグル・ナイトバグは考える。あの蟷螂がなぜあんなことをしたのか、そしていったのか。
あの蟷螂が最後にいっていた言葉、『楽園でした』という言葉。
何故あの蟷螂はあんなことをリグルにいったのか、それを必死に考える。
「なんであんなことを」
キラキラと太陽が自身の存在を強調する中、リグルは木陰に腰掛じっくりと考える。
このことに頭が向いてからずっとこの調子。その所為か友人のミスティアたちからの遊びのお誘いも断り気味である。
それでもリグルは頭の隅に渦巻くモヤモヤが気になって仕方がない。
なぜあの蟷螂は人を食ったのか。そしてあんな言葉をいったのか。
あの蟷螂が人を食べてはいけないというルールを知らないはずがない。なぜなら、それを教えたのは他ならぬ自分であるのだから。
ならば、あの蟷螂は知っていて人を食った。討たれるかも知れないというのに、討たれる可能性が十分であったというのに人を食った。
それは、何故。
妖怪は人を食う。それは常識。
精気だけを吸う妖怪もいるが、大半はその肉を食べる。リグルも食べる。人間が牛や豚を食べるように。
ただ、それはこの幻想郷では許されていない。そう決まっている。
人と妖怪とが共存する楽園がこの幻想郷であるのだから、妖怪は人を食うことが叶わない。
「今思えば不思議だな」
妖怪は人を食う存在。しかし、ここでは人を食べることが許されない。
一応、妖怪は人以外を食べて生活することもできる。リグルは生まれてからずっと、極力人を食べずに暮らしてきている。他の妖怪だってそうである。たまに我慢できずに食べてしまう者はいる、そしてその中でも討たれてしまう者がいる。それを仕方がないことだと割り切るのが幻想郷のルール。
「でも、人間も大変なんだよね」
それならば人間側がこの幻想郷では恵まれているのか。そうではないとリグルは思う。
なぜなら、自分たちを捕食する存在がすぐ身近に存在しているから。
一つの入れ物の中にライオンと兎が一緒に生活していて兎は心を落ち着けて生活できるのか。「襲わない」という約束だけで、実際罰が下るか下らないかもその時次第というあやふやで曖昧なルールの下で、楽しく生活できるのか。
自分がもし人間の側だったら、とリグルは考える。
襲われないというルール。でも存在する人里の守護者。
襲わないようにという御触れ。でもそれを理解できない妖怪の存在。
人と妖怪を繋ぐことが役割の博麗の巫女。でも動くのは大きな異変の時が大半。
自分の側に常に上級妖怪やそれに当たるものたち、例えば山の神や冥界のお嬢様などが居たとしたらリグルはどうするか、どうなるか。普段どおりの生活が出来そうにないというのは確か。
それを人間が感じているとしたら、今のこの現状は、
「どっちにとってもあんまりよくないんじゃないかな」
リグルがその結論に達したのは、太陽はもう沈みかけ夜が自身の役割を果たそうと動き出す時刻。黄昏時。
半日をかけながらもリグルは一つの結論を出す。未熟であり、拙い頭だが自分で考えた自分なりの答えをまずは見つける。
今の幻想郷は妖怪・人間、両方ともにとってあまりよくないのではないか、という答えを。
雲ひとつなく、月が明るい夜。毎夜毎夜頭をフル回転させている内に時間はどんどんと過ぎ去り、考え始めた頃は姿を隠していた月が段々と丸みを帯びてきている。
そんな月を窓から眺めながら、リグルは自身の家と定めた小屋の中で考える。
身体ごと持たれかかっている机、そして座っている椅子がギシギシと悲鳴をあげるが気にしない。気にならないといった方が正しいのかもしれないが。
幻想郷の現状、それが少しばかりおかしいことにリグルは気がついたが、だからどうした。なにがどうなるというのか。
とりあえず、おかしいところに気がついたのならばそこを改善するべき、とリグルは自身にいい聞かせる。
「どうすればいいのかな。二つが一緒にいるからいけないんだから……」
ライオンと兎が同じ入れ物の中にいて困っている。一方は食べたいのに食べてはいけないといわれ、もう一方は万が一にも食べられる危険性があるから。
では、この二つを分けてしまえば問題ないのではないか。リグルはそう考える。
つまり妖怪と人間を別々に、それこそ地形を変化させるなどをして、この二つが出会わないようにしてしまえばいい。陸を二つに割り、間に三途の川を流すようにすれば互いに干渉できないのではないか。
「あれ? 結構この案いいんじゃないかな。私って頭いいかも」
兎にとってはいい案。恐怖の対象が自身から遠ざかってくれるのだから、これほど良いことはない。
しかし、ライオンにとってはどうか。自分の食べる物が手の届かないところにいってしまう。
「むむむ。それなら」
ライオンの、妖怪の食べ物である人間を、その分割する前に何千人か何万人かを妖怪側の方へ持っていけばいいのではないか。そう、人間が牛や豚にするように、人間を育てて食べればいい。そうすれば妖怪側の食糧難も解決される。
人間としては少し嫌な話かもしれないが、それでも最初の分割以後は襲われる心配もないし、分かれた後の人間の様子を耳にしたりしなければ憤ることもないだろう。
「凄いこと思いついちゃったかも知れない」
リグルは自身の発想に酔う。そう、もしこの案が現実にできたなら、もう人が妖怪に襲われることも妖怪が人に討たれることもない。今以上の平和が幻想郷に訪れることだろう。
もしそうなったらどうなるのだろうか。椅子から立ち上がり、机の周りをくるくると回りながらリグルは自分の頭の許す限りその発想どおりの幻想郷を妄想してみる。
ルーミアはお腹いっぱいになるまで人間を食べられて幸せそうな顔をしているし、ミスティアの店に並ぶのは八目鰻の代わりに人間になっている。焼人と書かれた看板の下で、妖怪たちが楽しく飲んでいる姿が頭に浮かぶ。
「いや~、この赤子の腿は美味しいね~。このもちもちとした食感が堪らない……って、あれ?」
妄想の中でありもしないメニューを食べていたリグルは、あることに気がつく。
「なんで最初っからそういう風にしなかったんだろう」
自分でも思いつくことが、自分よりも頭がいいだろう妖怪の賢者たちに思いつけなかったのだろうか。
あんなに頭がいい連中が、リグルのこの案を思いつかないはずがない。考え付かないはずがない。
無間の底の深さなんてよく分からないものを一瞬で求めてしまえる頭脳が、こんなリグルの、自分でもあんまり頭がよくないと思っている妖怪の案を思いつけないはずがない。今の幻想郷の状態を予想できないはずがない。
「なんでこんな風にしたんだろう」
先ほど身を包んでいた達成感は何処へやら、リグルはまた疑問の大渦に飲み込まれる。
顎に手をやり、椅子に座りなおす。夜も更け行く中、リグルは昨夜と同じように思考を繰り替えしていく。
考え、寝る。寝て、考える。その繰り返しの日々をリグルは送っている。実際はいつまでも出ない答えに悩まされているだけでもあるのだが。
しかし、本当に寝る以外の時間を全部思考にあてているわけでは勿論無く、今日は久々にミスティアたちと人里の近くの広場で遊んでいたりする。
「おりゃー、氷の礫をくらいやがれー」
「どうせ再生するなら味見させて~」
友人たちが楽しそうに弾幕勝負をしているのを見ながら、結局リグルは頭に残るモヤモヤを振り切ることが出来ずに考える作業に戻ってしまう。
燦燦と照りつける太陽の下。丁度いい大きさの石に座り、友人たちの勝負を眺めつつ、リグルは昨夜新たに出来た疑問について頭を捻る。
何故この幻想郷を作った賢者たちは幻想郷をこんな風に創ったのか。
不安定、というよりちょっとした拍子に崩れてしまいそうな、そんな危ないバランスをわざわざ求めたのかリグルには分からない。
きっと自分のような考えの一つや二つ、ひょっとしたら十や百くらい思いついているのかもしれない。
ならば何故人と妖怪を近づけたのか。お互いを害する危険性があったのに何故。
「もしかして、そんなに力が無い?」
リグルの考え付いた案を実行できるだけの力が賢者たちになかったのかも知れない。
外の世界との渡来を断絶する結界という時点で、自分には想像もできないほどの力が必要なのは理解できる。それで限界だというならば、こんな形になってしまっても仕方がない。
しかし、そうでないのならばこの形は故意。意図してこの一つ崩れれば総崩れに陥るだろう形を取っていることになる。
「どうしてなのかな」
霊夢の家での宴会や博麗神社での宴会の時に見た賢者の一人、八雲紫のことをリグルは考える。
あの妖怪の力は如何ほどか。リグルには到底計れそうな気がしない。
それでも一つ分かることがある。それはあの妖怪がまだ余力を持っている、結界を張るだけでいっぱいいっぱいなわけではないということ。それは妖怪の感、いや本能が告げている。あの妖怪の底は深い。
ならば、この幻想郷の形は故意なのだろう。リグルはそう結論付ける。
よくよく考えてみれば、もし改善する気があるならば賢者と呼ばれる妖怪たちのことだ、気づかれないようにひっそりとやってのけている筈。それが何年経とうと変化していないのだから、やはり今の幻想郷は望んでこの形にされたのだろう。
妖怪が食うことを規制され、人が食われることに恐怖する今の幻想郷は望んで創られた。リグルはそう考える。
「パーフェクト・フリーズ!」
「なんのこれしき!」
視界では捉えている友人たちの弾幕勝負。いつのまにかそれも佳境に入ってきた。しかしリグルの疑問は未だ晴れそうにない。向こうは終わりそうで、こっちは全く終わらない。今の今まで必死に考えているというのに、まるで答えが出そうにない。
何か、思考がズレているのではないかとリグルは思う。しかし、よく分からない。
何か違う。些細なズレが起きている。考えている内容に対するズレ。でもその微細なズレ自体が分かっても、どうズレているのかリグルには分からない。
そもそも何故、リグルは幻想郷について考えるようになったのだったか。
「おねいちゃん、あのおねいちゃんたちまた勝負してるの?」
ハッと振り向くと、後ろには人間の少女。どうやら考え込みすぎて気配に全く気がつかなかったらしい。
少女。普通の人間の少女。黒い髪を肩で切りそろえた、活発そうな、恐らく歳は十に届いていなさそうな少女。
「あぁ、そうだね。あの二人は勝負をするのが好きだから」
「ふーん」
リグルの横に少女はちょこんと座る。妖怪の側に人間が近づき座る。これもまた幻想郷ではありえる光景。
自分たちのような、低級で人を襲わないと思われている妖怪・妖精を人間はあまり恐れない。それはそれで妖怪としてのプライドに傷がつきそうな話だがリグルたちは気にしていない。楽しければそれでいいから。
以前、こことは違う大きな広場でチルノと吸血鬼の妹が弾幕勝負をしていた時には、物珍しさ故にか多くの人間の見物客が集まったことがある。口々に「綺麗」だとか「凄い」という人間に流れ弾が当たらないように霊夢や門番といっしょに周りを飛び回ったのはいい思い出。
そういうこともあってか、ここ数日までは弾幕勝負をしていたら何人かの人間がやってきては眺めていた。今はもう、あの事件の所為か人は寄り付かず、この少女が今日最初の人間。
「鳥のおねいちゃんとお話してくるね」
「うん。いってらっしゃい。弾に当たらないようにね」
ぴょん、とその場で飛び跳ねるように立ち上がり、少女は笑いながら別の場所で弾幕勝負を見守るミスティアの方へとかけていく。
そしてミスティアの側まで行くと一転、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。どうやら驚かせる気らしい。
そんな微笑ましい少女の、人間の姿を見ながら、リグルは気がつく。
「あぁ、そうだ。ズレてた。幻想郷がどうこうじゃなくて、私が考えようとしてたのは」
何故あの蟷螂が人間を襲ったのか、だった。少女を見て、人間を見てやっと本来の疑問を思い出した。
どうも、『なぜ人間を襲ったのか』から『なぜ人間を食べていけないのか』に、そして『なぜそんなルールを作ったのか』に思考がズレていたらしい。普段あまり頭を使わないとこんなことになるのか、とリグルはぽりぽりと頬をかく。
数日かかってやっと、リグルは疑問の源泉の前へと舞い戻る。
なにやってたんだろう、と石から腰を浮かし背筋を伸ばす。と同時に、目の前の勝負も決着がついたのか、青がゆっくりと地面に降りていく。それに近寄るミスティアやルーミア、そして人間の少女。
「さて、なんであの子が人間を襲ったのか考えないとね」
そう口に出しながら、リグルは友人たちの方へと歩を進める。
そんな妖怪と人間たちを太陽は天頂からゆっくりと眺めている。
夕暮れ間近。ミスティアたち、そしてあの少女と別れを告げてから、リグルは人里の広場にて疑問を晴らすために思考を続ける。広場にある木製の長椅子に座り、人の行き来をじっと眺めながら。
何故あの蟷螂は人を襲ったのか。それを懸命に考える。
リグルの見立てでは、あの蟷螂は別段人を食べなければどうにかなるタイプの妖怪ではなかった。なのに、あの蟷螂は人を襲った。捕食以外の理由で、あの蟷螂は人を襲った。
その理由を、リグルは考えている。この人の往来の激しい広場にて考えている。
どういう理由であの蟷螂が人を襲ったのか。人に何かされたのか、知能が減退したのか、それとも本能を抑えきれなかったのか。
どれも違う。リグルは足をぷらぷらと揺らしながらそう考える。
最後に会った時、あの時のあの蟷螂は表情こそ見せなかったものの、雰囲気は最初に会った時とあまり変わらない、つまり平素と同じ状態だったし、力は弱かったが知能の方は申し分なく、それこそ人間とも普通に会話できるレベルはあった。そんな者が知能の減退や本能の抑制失敗をするのだろうか。
ちらちらとこちらを見ては目を逸らす人間たちを眺めながらリグルは考えを続ける。
人間に何かされた、その線が一番濃いのではないか。しかし、新聞にはその食われた妻と蟷螂の間には何の因果関係もなかったと報じている。
ならば、他の人間に何かされたその腹いせに誰でもいいから襲ったのか。そういうことをしそうな妖怪ではない、その部分だけはリグルにも分かる。妖怪は本質を見る。だからこそ、あの蟷螂はそういうことをしない妖怪であると理解はできる。
多少イライラとしながらリグルは思考に耽る。夜の冷気が忍び寄ろうと、その場を動かずにただ淡々と。
ここまでリグルの考えを全て纏めると、あの蟷螂は何か個人的な、それも何かされた仕返しとかではなく、本人だけにしか分からない意図によって動いたことになる。
それをリグルは知りたい。本人だけにしか知りえないだろうそこに、リグルは疑問を感じた。人間を殺して食べた理由を知りたい。
だから、今リグルは人里の真ん中にある広場にいる。
目の前を行き来する人間。それを殺した、食べた理由を見つけるために、リグルも同じことをする。
勿論、それは想像の中だけ。実際は触れてもいやしない。
リグルは頭の中で、想像の許す限り、目の前を通る人間に、牙をつきたてる。
家路を急ぐ男の子の背中につきたてる。そのまま足を引き千切って動けなくし、ゆっくりと食べる。
夕食の買い物を楽しそうにしている女性の首に牙をつきたてる。そのまま振り切り胴と首を切り離し、食べる。
遊び足りないのかその辺を走り回る子どもたちの頭に余すことなく牙をつきたてる。ゆっくりと。
「あれ。おねいちゃん、こんなところで何してるの?」
今度は気配に気がついていた。昼間に会った少女。また偶然にも出会った少女に、牙をつきたてる。幻の牙をつきたてる。
「ちょっと暇つぶしだよ」
つきたてる。リグルは少女に、昼笑いあった少女に牙をつきたてる。
「ふーん。もう夜だから、おねいちゃんも早くおうちに帰るんだよ?」
つきたてる。頭の中ではもう何分割されたか分からない肉片になろうとも、幻の牙をつきたてる。
「夜は私たちの時間。今帰っちゃ勿体無い。まぁ君は早くおうちに帰るんだね」
つきたてる。幻の牙は意思があるかのごとく止まらない。
「うん。じゃあね、おねいちゃん。バイバーイ」
手を振りながら雑踏の中に溶け込んでいく少女。幻の牙もそれでお役御免。
少女が見えなくなるまで手を振るリグル。その頭に過ぎるのは一つの言葉。
「やっぱり分からないや」
同じことを、想像の中とはいえやってみれば少しはあの蟷螂の気持ちが分かるかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。リグルには特に何も思いつかない。考えつかない。
溜息をつきながら、リグルはポツリと言葉を漏らす。
「少しは分かるかと思ったんだけどなぁ」
「何が分からないんだ?」
独り言に答えが返る。驚いて声の方へと視線を向けると、そこには見知った妖怪が一人。
金色の尻尾をゆらゆらと動かしながら、買い物籠を右手に近づいてくるのはリグルも見知った存在。
「あ、藍さん。こんばんは」
「こんばんは。珍しいな、君をこんなところで見るなんて」
八雲藍。八雲紫の式にして九尾の妖狐。霊夢の家や博麗神社の宴会の時に主人に付き添っていた姿を何度か見たことがある。
これは不味い、と椅子から立ち上がろうとするリグル。
「あぁ、いいよ。そんなに恐縮しないで座っててくれ。どうせ私も買い物にきただけだしな」
「そ、そうですか? それじゃあ」
藍にいわれるまま元の場所に座るリグル。それを見ながら藍は先ほどの質問をもう一度投げかける。
「それで、何が分からないんだ? よければ力になるが」
リグルはいうかいうまいか、それよりも前にどう質問をしていいか悩む。目の前にいるのは自分よりも遥かに頭がいいだろう妖狐。賢者の式。自分の分からないことを聞くのにこれ程の適任はそうそういないような気がする。
しかし、質問が纏らない。ここで、「この前討たれた蟷螂は何故人を襲ったのか」と質問しても「分からない」という答えが帰って来るだけだろう。
うーん、とリグルは頭を抱えながら質問の内容を絞る。そんなリグルの苦悩を察しているのか、藍は急かす事もなくリグルの質問をゆっくりと待っている。
唸るリグルと見守る藍。二人の妖怪の少しばかり奇妙な状態が続いた後、リグルは藍に質問をする。
「あ、あのですね、質問なんですが」
「うんうん。分かる範囲なら答えよう」
よし、とリグルは一拍置いて、自分の中の疑問を藍にぶつける。
「幻想郷って、楽園なんでしょうか?」
あの蟷螂が、最初に会った時、そして最後に会った時にいった言葉。楽園。なにかそこに鍵がありそうな気がして、リグルは藍に答えを求める。
人を襲った理由なんて藍にも分かるはずがない。ただ、それに関わるかもしれないあの楽園という言葉については何か聞けるかもしれない。
そんな期待を込めた質問に対し、藍は、
「当たり前じゃないか。ここは楽園さ」
にこりと笑いながら答えた。
「忘れられた者たちの楽園。それが幻想郷だよ」
「でも」
「全てを受け入れるここは楽園以外の何物でもないさ。その為に紫様も頑張っている。何か違うかい?」
更に質問を続けようとしたリグルに有無を言わせぬように言葉を被せる藍。
藍の意見は、この幻想郷は楽園であるというもの。
賢者の式は、楽園以外の何物でもないといった。
「そうですか……。どうも、ありがとうございました」
「いやいや。答えになったかは分からないが、これが私の出せる答えだな」
リグルはぺこりと頭を下げる。それに藍はまたにこりと笑みを返す。
どこか自分の思っていた答えとは違っていた。自分自身どういう答えを望んでいたのか、リグルには分からないが、何か違っていることは理解できた。
しかし、それについてどうこういっても仕方がない。藍は自分の答えを出しただけ。
「えっと、質問に答えてもらってありがとうございました。もうちょっと自分で考えてみます」
「そうか。いい答えがでるように願っているよ」
ひょいと椅子から下りてリグルは礼を述べる。藍は相変わらず笑顔のまま。
それでは、と藍にもう一度頭を下げてリグルは家の方向へと足を向ける。
あともう少し、もう少しで分かるような分からないような。そんなモヤモヤを胸に、日が完全に暮れた道をリグルはゆっくりと歩く。
そんなリグルの姿を、藍は見えなくなるまでずっと眺めていた。
満丸の月が空に浮かぶ夜。空から降る光は暗闇を優しく照らす、そんな十五夜の夜。
家へと向かう道中、そして今もリグルは思考をどんどんと続ける。
あの蟷螂が人間を襲った理由。それを求めてリグルは考えることをやめない。
どうしてここまで気になっているのか、そんな疑問さえ湧きそうなくらいにリグルはあの蟷螂のことを考える。
「人を襲った理由、幻想郷、楽園」
ベッドに寝そべり、リグルは天井を眺める。視線をどこかに集めるでもなく、ただぼんやりと。
楽園という言葉。人里で藍とのやりとりの中、ふと頭に浮かんだから使ったこの言葉。これが先ほどから頭に引っかかって仕方がない。
あの蟷螂が使っていた言葉。この幻想郷に入ってきた時、そして死ぬ前にもいっていた言葉。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
この二つ。あの蟷螂がリグルに向かっていった言葉。そのどちらにも楽園という単語が入る。
きっとこれが鍵に違いない。リグルはそう思う。この鍵を開けることができれば、自分のずっと求めていた答えが分かる。そんな気がリグルにはする。
――――コンコンコン。
外から響く音。もう夜も遅い時期に誰かが尋ねてきたようだ。しかし、リグルはベッドから下りずにただ天井を眺め続ける。
もう少しで解けそうな気がする。だから今日は居留守を使わせてもらおう。相手に申し訳ないと思いながらも、リグルは考えることをやめない。
蟷螂のあの言葉を考える。二つの言葉と楽園という単語。それらについて頭を働かせる。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
考える、考える、考え続ける。頭の回路が悲鳴をあげようが、リグルは考えることをやめはしない。
そしてふと気がつく。
『幻想郷は楽園でしたよ』
この一文。この違和感にリグルは気がつく。
蟷螂はいった。この幻想郷は楽園だったとリグルにいった。
そう、リグルにいったのだ。
過去形で。幻想郷は楽園であった、と。
「ということは」
この言葉をいった時、あの蟷螂が死ぬ三日前。あの時にはもう、楽園ではなかった。あの蟷螂にとって、この幻想郷は楽園でなかった。
――――コンコンコン。
楽園でなかった。この幻想郷が、忘れられた者たちの楽園が、あの蟷螂にとって楽園でなかった。
「じゃあ、あの初めて会った時の……」
最初に出会った時、あの蟷螂はなんといったか。リグルに向かって、不安げに何を聞いてきたか。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
聞いていた。あの蟷螂はリグルに向かって聞いていた。この幻想郷が、楽園であるのかどうかを。
あの蟷螂は求めていた。楽園というものを求めていた。
そして楽園と呼ばれていた幻想郷に、外の世界からやってきた。楽園を追い求めてやってきた。
期待と不安をない交ぜにしながら、外の世界からやってきたのだ。
「なのに、最後には」
いった。あの蟷螂はいった。
『幻想郷は楽園でしたよ』
どこで過去形になったのか、どこでそうでなくなったのか。それは最初からか、それとも最後か。
あの蟷螂の中で、どのタイミングかは分からないが、この幻想郷は楽園でなくなった。
その理由は分からない。何かを失ったのか、何かを得たのか、何かを奪われたのか、何かを与えられたのか。
彼の描く楽園から、この幻想郷がズレてしまった。どうしようもなくズレてしまった。
楽園を追い求めていた者は、辿り着いた場所が楽園でなかったことにきっと絶望したに違いない。
ここは自分の求めていたところではなかった、と。
「あぁ、だから……」
繋がった。リグルの頭の中で全てが繋がった。
あの蟷螂にとって、この幻想郷の現状は許せなかったに違いない。我慢を強いられるこの幻想郷のどこが楽園だと。食べられるかもしれないという恐怖を日に日に受け続ける幻想郷のどこが楽園だと。互いにとっての一番の平和を故意に成さない幻想郷の、どこが楽園だと。あの蟷螂は怒ったのだろう、悲しんだのだろう、そして絶望したのだろう。
幻想郷は来るものを拒まない。しかし、去ることを許さない。
あの蟷螂はきっと、楽園のようで楽園でないこの場所に居続けることができなかった。どうしてもできなかった。
だから、禁忌である人食いをして、そして死ぬことを選んだのではないか。最後の最後、自分の思い描く楽園のように振る舞い、死んでいったのではないか。
――――コンコンコン。
あの蟷螂は散ったのだ、とリグルは思う。
自分の思い描く理想のために、楽園のために。
自分にとっては嘘でしかないこの幻想郷から脱出するために。
そう、死を選ぶくらいにまで、この幻想郷は、
「楽園じゃ、なかったのか」
リグルは自身の出した結論を噛み締める。
幻想郷は、楽園ではなかった。少なくとも、あの蟷螂にとっては。
そして思う。恐らく、そんな蟷螂の考えを必死になって追いかけトレースできた自分にとっても、この幻想郷は、
――――コンコンコン。
ずっと鳴り止まなかった音。玄関から聞こえるこの音。
答えが出た今なら、ドアを開けてもいい。リグルはそう思った。
むしろ、このドアの向こうにいる誰かに今自分が出した答えを聞かせたい。そして意見を聞きたい。
「はーい。今出まーす」
リグルはベッドから飛び降りドアへと駆け寄る。
カチャカチャと音を立てながら鍵を外し、ドアを開けようとしてふと気が付く。
さっきから聞こえるこの音は、ノックの音か、それとも――――。
コン、コン、コン。
人間を食った妖怪が討たれたという、何の変哲もない事件。数年に一度は起きるだろう事件。
事の顛末を事細かに書いた天狗の新聞によると、食われたのは人里でも有名な仲睦まじい夫婦の妻。夜道に家路へ急ぐその妻を蟷螂の妖怪が襲い、食った。それに嘆き悲しんだ夫は人里の守護者を通し妖怪の賢者へと仇討ちを懇願、賢者はその願いを聞き入れ蟷螂の妖怪を討伐。これにて一件落着。
多くの人が嘆きつつも別段何の違和感も覚えずにこの件は終了。
多くの妖怪が嘆きつつも別段何もなくこの件は終了。
ある、一人の妖怪を除いて。
夜。リグル・ナイトバグは考えていた。ここ数日ずっと同じことを考えていた。
それは先日幻想郷中に流れたあの情報。蟷螂の妖怪が討たれたという情報。
リグルは簡素な造りの小屋の中、ベッドに座り考える。あの蟷螂の妖怪のことを考える。
普段なら気にも留めないようなありふれた話であるのに、リグルはこの事件のことを考える。
なぜなら、その妖怪は外から来た、そして自分がファーストコンタクトを取ったものだったから。
こんな場所は初めてだと周りを見回すその妖怪に、この幻想郷のイロハを教えたのがこのリグル・ナイトバグだったから。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
不安そうに尋ねてきた蟷螂に、リグルはこう答えていた。
『どんなものでも受け入れる、それが幻想郷らしいから。君のような弱い妖怪も大丈夫。きっと』
そうですか、と嬉しそうに触覚を揺らしていたのも今は昔。あの蟷螂はもういない。
楽園に入ってきた妖怪が、楽園の禁忌に触れて殺される。
このような事件は珍しくはない。数は多くはないが、人間ですら何年も生きていれば一度や二度は耳に入る。そのくらいの頻度で起きる事件。
ならば何故リグルはこうもあの蟷螂のことを考えているのか。それほど親しかったわけでもなく、最後に会ったのは討たれる三日くらい前。
「そっか」
ゆっくりと後ろに倒れ、リグルはベッドに身体を預ける。
「そうだ。最後に会った時の、アレが気になってるんだ」
天井を眺めながらリグルは気づく。自分がこの事件の何に違和感を持っていたのかを。
最後に会った時、事件の起きる三日前のあの時、あの蟷螂はこういった。感情を読ませぬ声でこういった。
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
窓から入る月の光。光量は中ぐらい、満月までまだ少し遠い夜。
リグル・ナイトバグは自身の持つ疑問に気がついた。
リグル・ナイトバグは考える。あの蟷螂がなぜあんなことをしたのか、そしていったのか。
あの蟷螂が最後にいっていた言葉、『楽園でした』という言葉。
何故あの蟷螂はあんなことをリグルにいったのか、それを必死に考える。
「なんであんなことを」
キラキラと太陽が自身の存在を強調する中、リグルは木陰に腰掛じっくりと考える。
このことに頭が向いてからずっとこの調子。その所為か友人のミスティアたちからの遊びのお誘いも断り気味である。
それでもリグルは頭の隅に渦巻くモヤモヤが気になって仕方がない。
なぜあの蟷螂は人を食ったのか。そしてあんな言葉をいったのか。
あの蟷螂が人を食べてはいけないというルールを知らないはずがない。なぜなら、それを教えたのは他ならぬ自分であるのだから。
ならば、あの蟷螂は知っていて人を食った。討たれるかも知れないというのに、討たれる可能性が十分であったというのに人を食った。
それは、何故。
妖怪は人を食う。それは常識。
精気だけを吸う妖怪もいるが、大半はその肉を食べる。リグルも食べる。人間が牛や豚を食べるように。
ただ、それはこの幻想郷では許されていない。そう決まっている。
人と妖怪とが共存する楽園がこの幻想郷であるのだから、妖怪は人を食うことが叶わない。
「今思えば不思議だな」
妖怪は人を食う存在。しかし、ここでは人を食べることが許されない。
一応、妖怪は人以外を食べて生活することもできる。リグルは生まれてからずっと、極力人を食べずに暮らしてきている。他の妖怪だってそうである。たまに我慢できずに食べてしまう者はいる、そしてその中でも討たれてしまう者がいる。それを仕方がないことだと割り切るのが幻想郷のルール。
「でも、人間も大変なんだよね」
それならば人間側がこの幻想郷では恵まれているのか。そうではないとリグルは思う。
なぜなら、自分たちを捕食する存在がすぐ身近に存在しているから。
一つの入れ物の中にライオンと兎が一緒に生活していて兎は心を落ち着けて生活できるのか。「襲わない」という約束だけで、実際罰が下るか下らないかもその時次第というあやふやで曖昧なルールの下で、楽しく生活できるのか。
自分がもし人間の側だったら、とリグルは考える。
襲われないというルール。でも存在する人里の守護者。
襲わないようにという御触れ。でもそれを理解できない妖怪の存在。
人と妖怪を繋ぐことが役割の博麗の巫女。でも動くのは大きな異変の時が大半。
自分の側に常に上級妖怪やそれに当たるものたち、例えば山の神や冥界のお嬢様などが居たとしたらリグルはどうするか、どうなるか。普段どおりの生活が出来そうにないというのは確か。
それを人間が感じているとしたら、今のこの現状は、
「どっちにとってもあんまりよくないんじゃないかな」
リグルがその結論に達したのは、太陽はもう沈みかけ夜が自身の役割を果たそうと動き出す時刻。黄昏時。
半日をかけながらもリグルは一つの結論を出す。未熟であり、拙い頭だが自分で考えた自分なりの答えをまずは見つける。
今の幻想郷は妖怪・人間、両方ともにとってあまりよくないのではないか、という答えを。
雲ひとつなく、月が明るい夜。毎夜毎夜頭をフル回転させている内に時間はどんどんと過ぎ去り、考え始めた頃は姿を隠していた月が段々と丸みを帯びてきている。
そんな月を窓から眺めながら、リグルは自身の家と定めた小屋の中で考える。
身体ごと持たれかかっている机、そして座っている椅子がギシギシと悲鳴をあげるが気にしない。気にならないといった方が正しいのかもしれないが。
幻想郷の現状、それが少しばかりおかしいことにリグルは気がついたが、だからどうした。なにがどうなるというのか。
とりあえず、おかしいところに気がついたのならばそこを改善するべき、とリグルは自身にいい聞かせる。
「どうすればいいのかな。二つが一緒にいるからいけないんだから……」
ライオンと兎が同じ入れ物の中にいて困っている。一方は食べたいのに食べてはいけないといわれ、もう一方は万が一にも食べられる危険性があるから。
では、この二つを分けてしまえば問題ないのではないか。リグルはそう考える。
つまり妖怪と人間を別々に、それこそ地形を変化させるなどをして、この二つが出会わないようにしてしまえばいい。陸を二つに割り、間に三途の川を流すようにすれば互いに干渉できないのではないか。
「あれ? 結構この案いいんじゃないかな。私って頭いいかも」
兎にとってはいい案。恐怖の対象が自身から遠ざかってくれるのだから、これほど良いことはない。
しかし、ライオンにとってはどうか。自分の食べる物が手の届かないところにいってしまう。
「むむむ。それなら」
ライオンの、妖怪の食べ物である人間を、その分割する前に何千人か何万人かを妖怪側の方へ持っていけばいいのではないか。そう、人間が牛や豚にするように、人間を育てて食べればいい。そうすれば妖怪側の食糧難も解決される。
人間としては少し嫌な話かもしれないが、それでも最初の分割以後は襲われる心配もないし、分かれた後の人間の様子を耳にしたりしなければ憤ることもないだろう。
「凄いこと思いついちゃったかも知れない」
リグルは自身の発想に酔う。そう、もしこの案が現実にできたなら、もう人が妖怪に襲われることも妖怪が人に討たれることもない。今以上の平和が幻想郷に訪れることだろう。
もしそうなったらどうなるのだろうか。椅子から立ち上がり、机の周りをくるくると回りながらリグルは自分の頭の許す限りその発想どおりの幻想郷を妄想してみる。
ルーミアはお腹いっぱいになるまで人間を食べられて幸せそうな顔をしているし、ミスティアの店に並ぶのは八目鰻の代わりに人間になっている。焼人と書かれた看板の下で、妖怪たちが楽しく飲んでいる姿が頭に浮かぶ。
「いや~、この赤子の腿は美味しいね~。このもちもちとした食感が堪らない……って、あれ?」
妄想の中でありもしないメニューを食べていたリグルは、あることに気がつく。
「なんで最初っからそういう風にしなかったんだろう」
自分でも思いつくことが、自分よりも頭がいいだろう妖怪の賢者たちに思いつけなかったのだろうか。
あんなに頭がいい連中が、リグルのこの案を思いつかないはずがない。考え付かないはずがない。
無間の底の深さなんてよく分からないものを一瞬で求めてしまえる頭脳が、こんなリグルの、自分でもあんまり頭がよくないと思っている妖怪の案を思いつけないはずがない。今の幻想郷の状態を予想できないはずがない。
「なんでこんな風にしたんだろう」
先ほど身を包んでいた達成感は何処へやら、リグルはまた疑問の大渦に飲み込まれる。
顎に手をやり、椅子に座りなおす。夜も更け行く中、リグルは昨夜と同じように思考を繰り替えしていく。
考え、寝る。寝て、考える。その繰り返しの日々をリグルは送っている。実際はいつまでも出ない答えに悩まされているだけでもあるのだが。
しかし、本当に寝る以外の時間を全部思考にあてているわけでは勿論無く、今日は久々にミスティアたちと人里の近くの広場で遊んでいたりする。
「おりゃー、氷の礫をくらいやがれー」
「どうせ再生するなら味見させて~」
友人たちが楽しそうに弾幕勝負をしているのを見ながら、結局リグルは頭に残るモヤモヤを振り切ることが出来ずに考える作業に戻ってしまう。
燦燦と照りつける太陽の下。丁度いい大きさの石に座り、友人たちの勝負を眺めつつ、リグルは昨夜新たに出来た疑問について頭を捻る。
何故この幻想郷を作った賢者たちは幻想郷をこんな風に創ったのか。
不安定、というよりちょっとした拍子に崩れてしまいそうな、そんな危ないバランスをわざわざ求めたのかリグルには分からない。
きっと自分のような考えの一つや二つ、ひょっとしたら十や百くらい思いついているのかもしれない。
ならば何故人と妖怪を近づけたのか。お互いを害する危険性があったのに何故。
「もしかして、そんなに力が無い?」
リグルの考え付いた案を実行できるだけの力が賢者たちになかったのかも知れない。
外の世界との渡来を断絶する結界という時点で、自分には想像もできないほどの力が必要なのは理解できる。それで限界だというならば、こんな形になってしまっても仕方がない。
しかし、そうでないのならばこの形は故意。意図してこの一つ崩れれば総崩れに陥るだろう形を取っていることになる。
「どうしてなのかな」
霊夢の家での宴会や博麗神社での宴会の時に見た賢者の一人、八雲紫のことをリグルは考える。
あの妖怪の力は如何ほどか。リグルには到底計れそうな気がしない。
それでも一つ分かることがある。それはあの妖怪がまだ余力を持っている、結界を張るだけでいっぱいいっぱいなわけではないということ。それは妖怪の感、いや本能が告げている。あの妖怪の底は深い。
ならば、この幻想郷の形は故意なのだろう。リグルはそう結論付ける。
よくよく考えてみれば、もし改善する気があるならば賢者と呼ばれる妖怪たちのことだ、気づかれないようにひっそりとやってのけている筈。それが何年経とうと変化していないのだから、やはり今の幻想郷は望んでこの形にされたのだろう。
妖怪が食うことを規制され、人が食われることに恐怖する今の幻想郷は望んで創られた。リグルはそう考える。
「パーフェクト・フリーズ!」
「なんのこれしき!」
視界では捉えている友人たちの弾幕勝負。いつのまにかそれも佳境に入ってきた。しかしリグルの疑問は未だ晴れそうにない。向こうは終わりそうで、こっちは全く終わらない。今の今まで必死に考えているというのに、まるで答えが出そうにない。
何か、思考がズレているのではないかとリグルは思う。しかし、よく分からない。
何か違う。些細なズレが起きている。考えている内容に対するズレ。でもその微細なズレ自体が分かっても、どうズレているのかリグルには分からない。
そもそも何故、リグルは幻想郷について考えるようになったのだったか。
「おねいちゃん、あのおねいちゃんたちまた勝負してるの?」
ハッと振り向くと、後ろには人間の少女。どうやら考え込みすぎて気配に全く気がつかなかったらしい。
少女。普通の人間の少女。黒い髪を肩で切りそろえた、活発そうな、恐らく歳は十に届いていなさそうな少女。
「あぁ、そうだね。あの二人は勝負をするのが好きだから」
「ふーん」
リグルの横に少女はちょこんと座る。妖怪の側に人間が近づき座る。これもまた幻想郷ではありえる光景。
自分たちのような、低級で人を襲わないと思われている妖怪・妖精を人間はあまり恐れない。それはそれで妖怪としてのプライドに傷がつきそうな話だがリグルたちは気にしていない。楽しければそれでいいから。
以前、こことは違う大きな広場でチルノと吸血鬼の妹が弾幕勝負をしていた時には、物珍しさ故にか多くの人間の見物客が集まったことがある。口々に「綺麗」だとか「凄い」という人間に流れ弾が当たらないように霊夢や門番といっしょに周りを飛び回ったのはいい思い出。
そういうこともあってか、ここ数日までは弾幕勝負をしていたら何人かの人間がやってきては眺めていた。今はもう、あの事件の所為か人は寄り付かず、この少女が今日最初の人間。
「鳥のおねいちゃんとお話してくるね」
「うん。いってらっしゃい。弾に当たらないようにね」
ぴょん、とその場で飛び跳ねるように立ち上がり、少女は笑いながら別の場所で弾幕勝負を見守るミスティアの方へとかけていく。
そしてミスティアの側まで行くと一転、ゆっくりゆっくりと歩を進めている。どうやら驚かせる気らしい。
そんな微笑ましい少女の、人間の姿を見ながら、リグルは気がつく。
「あぁ、そうだ。ズレてた。幻想郷がどうこうじゃなくて、私が考えようとしてたのは」
何故あの蟷螂が人間を襲ったのか、だった。少女を見て、人間を見てやっと本来の疑問を思い出した。
どうも、『なぜ人間を襲ったのか』から『なぜ人間を食べていけないのか』に、そして『なぜそんなルールを作ったのか』に思考がズレていたらしい。普段あまり頭を使わないとこんなことになるのか、とリグルはぽりぽりと頬をかく。
数日かかってやっと、リグルは疑問の源泉の前へと舞い戻る。
なにやってたんだろう、と石から腰を浮かし背筋を伸ばす。と同時に、目の前の勝負も決着がついたのか、青がゆっくりと地面に降りていく。それに近寄るミスティアやルーミア、そして人間の少女。
「さて、なんであの子が人間を襲ったのか考えないとね」
そう口に出しながら、リグルは友人たちの方へと歩を進める。
そんな妖怪と人間たちを太陽は天頂からゆっくりと眺めている。
夕暮れ間近。ミスティアたち、そしてあの少女と別れを告げてから、リグルは人里の広場にて疑問を晴らすために思考を続ける。広場にある木製の長椅子に座り、人の行き来をじっと眺めながら。
何故あの蟷螂は人を襲ったのか。それを懸命に考える。
リグルの見立てでは、あの蟷螂は別段人を食べなければどうにかなるタイプの妖怪ではなかった。なのに、あの蟷螂は人を襲った。捕食以外の理由で、あの蟷螂は人を襲った。
その理由を、リグルは考えている。この人の往来の激しい広場にて考えている。
どういう理由であの蟷螂が人を襲ったのか。人に何かされたのか、知能が減退したのか、それとも本能を抑えきれなかったのか。
どれも違う。リグルは足をぷらぷらと揺らしながらそう考える。
最後に会った時、あの時のあの蟷螂は表情こそ見せなかったものの、雰囲気は最初に会った時とあまり変わらない、つまり平素と同じ状態だったし、力は弱かったが知能の方は申し分なく、それこそ人間とも普通に会話できるレベルはあった。そんな者が知能の減退や本能の抑制失敗をするのだろうか。
ちらちらとこちらを見ては目を逸らす人間たちを眺めながらリグルは考えを続ける。
人間に何かされた、その線が一番濃いのではないか。しかし、新聞にはその食われた妻と蟷螂の間には何の因果関係もなかったと報じている。
ならば、他の人間に何かされたその腹いせに誰でもいいから襲ったのか。そういうことをしそうな妖怪ではない、その部分だけはリグルにも分かる。妖怪は本質を見る。だからこそ、あの蟷螂はそういうことをしない妖怪であると理解はできる。
多少イライラとしながらリグルは思考に耽る。夜の冷気が忍び寄ろうと、その場を動かずにただ淡々と。
ここまでリグルの考えを全て纏めると、あの蟷螂は何か個人的な、それも何かされた仕返しとかではなく、本人だけにしか分からない意図によって動いたことになる。
それをリグルは知りたい。本人だけにしか知りえないだろうそこに、リグルは疑問を感じた。人間を殺して食べた理由を知りたい。
だから、今リグルは人里の真ん中にある広場にいる。
目の前を行き来する人間。それを殺した、食べた理由を見つけるために、リグルも同じことをする。
勿論、それは想像の中だけ。実際は触れてもいやしない。
リグルは頭の中で、想像の許す限り、目の前を通る人間に、牙をつきたてる。
家路を急ぐ男の子の背中につきたてる。そのまま足を引き千切って動けなくし、ゆっくりと食べる。
夕食の買い物を楽しそうにしている女性の首に牙をつきたてる。そのまま振り切り胴と首を切り離し、食べる。
遊び足りないのかその辺を走り回る子どもたちの頭に余すことなく牙をつきたてる。ゆっくりと。
「あれ。おねいちゃん、こんなところで何してるの?」
今度は気配に気がついていた。昼間に会った少女。また偶然にも出会った少女に、牙をつきたてる。幻の牙をつきたてる。
「ちょっと暇つぶしだよ」
つきたてる。リグルは少女に、昼笑いあった少女に牙をつきたてる。
「ふーん。もう夜だから、おねいちゃんも早くおうちに帰るんだよ?」
つきたてる。頭の中ではもう何分割されたか分からない肉片になろうとも、幻の牙をつきたてる。
「夜は私たちの時間。今帰っちゃ勿体無い。まぁ君は早くおうちに帰るんだね」
つきたてる。幻の牙は意思があるかのごとく止まらない。
「うん。じゃあね、おねいちゃん。バイバーイ」
手を振りながら雑踏の中に溶け込んでいく少女。幻の牙もそれでお役御免。
少女が見えなくなるまで手を振るリグル。その頭に過ぎるのは一つの言葉。
「やっぱり分からないや」
同じことを、想像の中とはいえやってみれば少しはあの蟷螂の気持ちが分かるかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。リグルには特に何も思いつかない。考えつかない。
溜息をつきながら、リグルはポツリと言葉を漏らす。
「少しは分かるかと思ったんだけどなぁ」
「何が分からないんだ?」
独り言に答えが返る。驚いて声の方へと視線を向けると、そこには見知った妖怪が一人。
金色の尻尾をゆらゆらと動かしながら、買い物籠を右手に近づいてくるのはリグルも見知った存在。
「あ、藍さん。こんばんは」
「こんばんは。珍しいな、君をこんなところで見るなんて」
八雲藍。八雲紫の式にして九尾の妖狐。霊夢の家や博麗神社の宴会の時に主人に付き添っていた姿を何度か見たことがある。
これは不味い、と椅子から立ち上がろうとするリグル。
「あぁ、いいよ。そんなに恐縮しないで座っててくれ。どうせ私も買い物にきただけだしな」
「そ、そうですか? それじゃあ」
藍にいわれるまま元の場所に座るリグル。それを見ながら藍は先ほどの質問をもう一度投げかける。
「それで、何が分からないんだ? よければ力になるが」
リグルはいうかいうまいか、それよりも前にどう質問をしていいか悩む。目の前にいるのは自分よりも遥かに頭がいいだろう妖狐。賢者の式。自分の分からないことを聞くのにこれ程の適任はそうそういないような気がする。
しかし、質問が纏らない。ここで、「この前討たれた蟷螂は何故人を襲ったのか」と質問しても「分からない」という答えが帰って来るだけだろう。
うーん、とリグルは頭を抱えながら質問の内容を絞る。そんなリグルの苦悩を察しているのか、藍は急かす事もなくリグルの質問をゆっくりと待っている。
唸るリグルと見守る藍。二人の妖怪の少しばかり奇妙な状態が続いた後、リグルは藍に質問をする。
「あ、あのですね、質問なんですが」
「うんうん。分かる範囲なら答えよう」
よし、とリグルは一拍置いて、自分の中の疑問を藍にぶつける。
「幻想郷って、楽園なんでしょうか?」
あの蟷螂が、最初に会った時、そして最後に会った時にいった言葉。楽園。なにかそこに鍵がありそうな気がして、リグルは藍に答えを求める。
人を襲った理由なんて藍にも分かるはずがない。ただ、それに関わるかもしれないあの楽園という言葉については何か聞けるかもしれない。
そんな期待を込めた質問に対し、藍は、
「当たり前じゃないか。ここは楽園さ」
にこりと笑いながら答えた。
「忘れられた者たちの楽園。それが幻想郷だよ」
「でも」
「全てを受け入れるここは楽園以外の何物でもないさ。その為に紫様も頑張っている。何か違うかい?」
更に質問を続けようとしたリグルに有無を言わせぬように言葉を被せる藍。
藍の意見は、この幻想郷は楽園であるというもの。
賢者の式は、楽園以外の何物でもないといった。
「そうですか……。どうも、ありがとうございました」
「いやいや。答えになったかは分からないが、これが私の出せる答えだな」
リグルはぺこりと頭を下げる。それに藍はまたにこりと笑みを返す。
どこか自分の思っていた答えとは違っていた。自分自身どういう答えを望んでいたのか、リグルには分からないが、何か違っていることは理解できた。
しかし、それについてどうこういっても仕方がない。藍は自分の答えを出しただけ。
「えっと、質問に答えてもらってありがとうございました。もうちょっと自分で考えてみます」
「そうか。いい答えがでるように願っているよ」
ひょいと椅子から下りてリグルは礼を述べる。藍は相変わらず笑顔のまま。
それでは、と藍にもう一度頭を下げてリグルは家の方向へと足を向ける。
あともう少し、もう少しで分かるような分からないような。そんなモヤモヤを胸に、日が完全に暮れた道をリグルはゆっくりと歩く。
そんなリグルの姿を、藍は見えなくなるまでずっと眺めていた。
満丸の月が空に浮かぶ夜。空から降る光は暗闇を優しく照らす、そんな十五夜の夜。
家へと向かう道中、そして今もリグルは思考をどんどんと続ける。
あの蟷螂が人間を襲った理由。それを求めてリグルは考えることをやめない。
どうしてここまで気になっているのか、そんな疑問さえ湧きそうなくらいにリグルはあの蟷螂のことを考える。
「人を襲った理由、幻想郷、楽園」
ベッドに寝そべり、リグルは天井を眺める。視線をどこかに集めるでもなく、ただぼんやりと。
楽園という言葉。人里で藍とのやりとりの中、ふと頭に浮かんだから使ったこの言葉。これが先ほどから頭に引っかかって仕方がない。
あの蟷螂が使っていた言葉。この幻想郷に入ってきた時、そして死ぬ前にもいっていた言葉。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
この二つ。あの蟷螂がリグルに向かっていった言葉。そのどちらにも楽園という単語が入る。
きっとこれが鍵に違いない。リグルはそう思う。この鍵を開けることができれば、自分のずっと求めていた答えが分かる。そんな気がリグルにはする。
――――コンコンコン。
外から響く音。もう夜も遅い時期に誰かが尋ねてきたようだ。しかし、リグルはベッドから下りずにただ天井を眺め続ける。
もう少しで解けそうな気がする。だから今日は居留守を使わせてもらおう。相手に申し訳ないと思いながらも、リグルは考えることをやめない。
蟷螂のあの言葉を考える。二つの言葉と楽園という単語。それらについて頭を働かせる。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
『リグルさん。ここは、幻想郷は楽園でしたよ』
考える、考える、考え続ける。頭の回路が悲鳴をあげようが、リグルは考えることをやめはしない。
そしてふと気がつく。
『幻想郷は楽園でしたよ』
この一文。この違和感にリグルは気がつく。
蟷螂はいった。この幻想郷は楽園だったとリグルにいった。
そう、リグルにいったのだ。
過去形で。幻想郷は楽園であった、と。
「ということは」
この言葉をいった時、あの蟷螂が死ぬ三日前。あの時にはもう、楽園ではなかった。あの蟷螂にとって、この幻想郷は楽園でなかった。
――――コンコンコン。
楽園でなかった。この幻想郷が、忘れられた者たちの楽園が、あの蟷螂にとって楽園でなかった。
「じゃあ、あの初めて会った時の……」
最初に出会った時、あの蟷螂はなんといったか。リグルに向かって、不安げに何を聞いてきたか。
『ここは楽園と聞いてやってきました。私のような妖怪でも楽しく暮らせるでしょうか?』
聞いていた。あの蟷螂はリグルに向かって聞いていた。この幻想郷が、楽園であるのかどうかを。
あの蟷螂は求めていた。楽園というものを求めていた。
そして楽園と呼ばれていた幻想郷に、外の世界からやってきた。楽園を追い求めてやってきた。
期待と不安をない交ぜにしながら、外の世界からやってきたのだ。
「なのに、最後には」
いった。あの蟷螂はいった。
『幻想郷は楽園でしたよ』
どこで過去形になったのか、どこでそうでなくなったのか。それは最初からか、それとも最後か。
あの蟷螂の中で、どのタイミングかは分からないが、この幻想郷は楽園でなくなった。
その理由は分からない。何かを失ったのか、何かを得たのか、何かを奪われたのか、何かを与えられたのか。
彼の描く楽園から、この幻想郷がズレてしまった。どうしようもなくズレてしまった。
楽園を追い求めていた者は、辿り着いた場所が楽園でなかったことにきっと絶望したに違いない。
ここは自分の求めていたところではなかった、と。
「あぁ、だから……」
繋がった。リグルの頭の中で全てが繋がった。
あの蟷螂にとって、この幻想郷の現状は許せなかったに違いない。我慢を強いられるこの幻想郷のどこが楽園だと。食べられるかもしれないという恐怖を日に日に受け続ける幻想郷のどこが楽園だと。互いにとっての一番の平和を故意に成さない幻想郷の、どこが楽園だと。あの蟷螂は怒ったのだろう、悲しんだのだろう、そして絶望したのだろう。
幻想郷は来るものを拒まない。しかし、去ることを許さない。
あの蟷螂はきっと、楽園のようで楽園でないこの場所に居続けることができなかった。どうしてもできなかった。
だから、禁忌である人食いをして、そして死ぬことを選んだのではないか。最後の最後、自分の思い描く楽園のように振る舞い、死んでいったのではないか。
――――コンコンコン。
あの蟷螂は散ったのだ、とリグルは思う。
自分の思い描く理想のために、楽園のために。
自分にとっては嘘でしかないこの幻想郷から脱出するために。
そう、死を選ぶくらいにまで、この幻想郷は、
「楽園じゃ、なかったのか」
リグルは自身の出した結論を噛み締める。
幻想郷は、楽園ではなかった。少なくとも、あの蟷螂にとっては。
そして思う。恐らく、そんな蟷螂の考えを必死になって追いかけトレースできた自分にとっても、この幻想郷は、
――――コンコンコン。
ずっと鳴り止まなかった音。玄関から聞こえるこの音。
答えが出た今なら、ドアを開けてもいい。リグルはそう思った。
むしろ、このドアの向こうにいる誰かに今自分が出した答えを聞かせたい。そして意見を聞きたい。
「はーい。今出まーす」
リグルはベッドから飛び降りドアへと駆け寄る。
カチャカチャと音を立てながら鍵を外し、ドアを開けようとしてふと気が付く。
さっきから聞こえるこの音は、ノックの音か、それとも――――。
コン、コン、コン。
リグルがこの後どうなったのかかなり気になりますが知りたくない気がします。
自分はこういう話結構好きです。
私は普段はスイカに塩をかけないし、スイカ自体もあまり好きではないのですけれど。
発想が面白くていいですね。それに、リグルの頭の悪さが、良い形で生かされているのも気に入りました。