Coolier - 新生・東方創想話

うそつきこいし

2012/05/03 01:25:35
最終更新
サイズ
79.81KB
ページ数
1
閲覧数
1918
評価数
10/28
POINT
1700
Rate
11.90

分類タグ

 うちの食卓は、前よりもずいぶんと賑やかになった。あの異変の後からだ。
 今日も朝から騒がしい。私の下家には、お燐。
「さとり様ー、この目玉焼き、絶妙の焼き加減ですね」
【さとり様、今日もキレイだなあ。死体になってもキレイなんだろうなあ。生きてるほうがいいに決まってるけど】
 お燐は、思いやりがあって気配りができる、とてもいい子。ただし物事を考えるときに、死体を基準にしすぎるところがある。そこがちょっとだけこわい。でも、それ以外はとてもいい子。
 私の対面には、お空。
「えー、もっと固いほうが私は好きだけどな」
【さとり様のお料理は、どれもこれもおいしい。もちろん、この目玉焼きだって。でも、半熟の黄身ってどうしても、熱エネルギーが足りなかったんじゃないかって思っちゃってこいし様のねぐせかわいい】
 お空は、優しくて純真ないい子。たまにやたらと小難しいことを考えてたりして、お燐とはちがった意味でちょっとこわいんだけど、でも基本的にはまっすぐで、汚れも濁りもなくて、とてもいい子。
【ほっぺたに、ご飯粒がついているわよ】
 私の上家にあたるお姉ちゃんが、心の中で話しかけてきた。私はすこし考えて、でもそんなことはすこしも表に出さずに、ご飯粒をつけたまま食事をつづけた。
 お姉ちゃんも何もなかったような顔で、目玉焼きを箸でちぎって、お空に応えた。
「そうですね。卵は、黄身の芯までしっかり固めるのが本当はいいのですよ。どこぞの元投手もそう言っています」
「だってさ、お燐」
「うにゃー。固い黄身は、もさもさしてて苦手なんだよ」
 賑やかな食卓。会話が絶えないって、いいことだと思う。
 お空(厳密に言うなら、お燐かな)が起こした異変の後から、お姉ちゃん(と私)はペットたちといっしょに食事をするようになった。お燐とお空は、基本的に毎日ここで私たち姉妹と同じ食卓に着いている。日によっては、他のペットたちも順繰りで同席させている。週に一度は、お姉ちゃんがペットたちの宿舎に出向いていっしょに食べる。私もいっしょに食べたり、食べなかったり。
 ペットたちとの関係を密にするためだ。
 あの異変でお姉ちゃんは、それまでのペット放任主義が間違っていたんじゃないかと思うようになった。なぜって、あれはお空とお燐の不安が引き起こした異変だったから。
 本当に愛されているか不安だったから、お空は手に入れたばかりの強大な力を、とにかく使おうとした。使って、お姉ちゃんの役に立とうとした。役に立てば、確実に愛してもらえると思ったから。
 本当に守ってもらえるか不安だったから、お燐はお空の暴走をお姉ちゃんに知らせず、博麗の巫女を利用した。友人がどんなに馬鹿な過ちを犯したとしても、最終的には無条件に守ってもらえるという確信が持てなかったから。
 もちろんお姉ちゃんは、それこそ目に入れても痛くないくらいにペットたちを愛している。でも、そのことをあまり表現してこなかった。できるだけ自由にさせるのがペットの幸せだと、触れあいをむしろ避けてきた。そのせいで、お空とお燐を不安にさせてしまった。この子たちも、九分九厘のところまでお姉ちゃんの愛情を感じてはいたけれど、あとひとつのところで確信を持つことができなかった。
 その反省をふまえて、異変の後からお姉ちゃんは積極的にペットたちと交流を持つようになった。自分の気持ちや考えを、よく口に出すようになった。ペットたちの頭をなでて、私はあなたが大好きですよ、と。
 そんなお姉ちゃんを横から見てると、なんだかむず痒い。
【すぐ慣れるわよ。私も最初は気恥ずかしかったけれど】
 お姉ちゃんは手を伸ばして、私のほっぺたについたご飯粒を取った。
 うん、今のお姉ちゃんのほうが、前よりもいい主人だと思う。でもね、やっぱり、なんだかむず痒い。



 ――え?
 ああ、うん、そうだよね。おかしいと思うよね。
 私は、古明地こいし。サトリの能力を閉ざしたサトリで、無意識を操る程度の能力を持った少女――の、はず。みんなの知ってる限りでは。
 違うんだ。実は私、無意識じゃないんだ。無意識のふりをしてる、だけなんだ。



 サトリの能力は、とかく畏れられ、嫌われるもの。考えてることがぜんぶ筒抜けだなんて、閻魔様と同じくらい気味が悪いもんね。
 昔は私もお姉ちゃんと同じように、能力を隠すことなく普通に生活してた。まだ小さかったころ――今だって大人じゃないけど、もっと幼くて、表と裏とか、建前と本音とか、善意と悪意とか、そんな面倒なものは何も知らなかったころ、私は無邪気だった。ひとが口にする言葉と、心の声とが一致していれば、やっぱりと笑った。ひとが口にする言葉と、心の声とが食い違っていれば、変だなと笑った。そんなだったから、いくら気味悪がられたって、私はにやにや笑うだけだった。
 そのうち、みんなが私に向ける嫌悪というものの意味がわかってくると、暢気に笑ってはいられなくなった。自分で気づいたわけじゃない。サトリを忌み嫌う心の声のせいで、お姉ちゃんが苦しんだり悲しんだりしてたから、ああ、嫌悪というのは向けられると辛いものなんだと、初めてわかった。
 それからは、ひとと関わるのがいやでいやで仕方がなくなった。こいつ、俺の心を読んでいやがる。気味が悪いやつだ。そんな声ばかり聞かされてたら、幼い少女が誰とも会いたくなくなるのは当たり前だよね。私は一時期、お姉ちゃんとしかまともに関わることができず、引きこもり状態になっていた。
 心が読めなくなったふりをする――このアイディアを考えてくれたのは、お姉ちゃんだった。心の声が聞こえてしまうのはどうにもならないにしても、サトリの能力のせいでひとに嫌われたり気味悪がられたり、といったことはなくなる。この甘いアイディアに、私は飛びついた。準備もぜんぶお姉ちゃんが整えてくれた。古明地こいしが第三の目を閉ざしたという嘘の情報を、幻想郷のあちこちに流した。地底にも、地上にも、地霊殿の中にも。
 そうして私は、心を読む能力を失い、無意識を操る程度の能力を手に入れた。と、いうことになった。本当は、今も望む望まざるに関わらず、心の声を読みつづけている。
 ――第三の目が閉じているのに、どうやって心を読んでいるんだ、って?
 答えは簡単なこと。これ、ただの飾りだから。付け外しも自在。
 私もお姉ちゃんも、第三の目で心を読んでるわけではないの。だから、お姉ちゃんのアレもただの飾り。無意識のふりを始めたときに、閉じた目に付け替えただけ。代々のサトリが身を守るためにやってきたことが、偶然にも役に立った。
 ――神出鬼没のステルスガール。妖怪の山を誰にも気づかれずに登ったり。あれはどう説明するのか、って?
 あれはべつに能力でもなんでもないよ。私って、昔からかなり影の薄い子だったからね。
 ずっと目の前に立ってても、「あ、こいしちゃん、そんなところにいたんだ」とか。隠れんぼしたら、いつまでも見つけてもらえなくて、そのうち忘れられて、置いて帰られたり。自動ドアにも無視されるし。「はーい、じゃあ二人組つくってー」なんてときには、いつも私が余って、しかも余ってることにも気づいてもらえなかったり。
 ……ちょっと泣きそうだからこのへんにしとくけど、とにかく素の状態でそれだけ影が薄いんだから、ちょっと意識して気配を消してしまえば、誰にも気づかれずにあちこち散歩することくらいできて当たり前ってわけ。
 そんなわけで今の私は、心が読めるせいで嫌われるっていう状況からは逃れられている。それなりに平和で、それなりに穏やかな毎日。傍目にはあまり褒められたものじゃないかもしれないけど、それなりに満足な生活。



【ごちそうさま】
 心の中でだけ言って、席を立った。
 無意識を演出するために、ときどき私は食事のあと、こうしてふらっと姿をくらます。
【お粗末様でした】
 お姉ちゃんも口に出さずに言って、何でもないような顔で食事をつづけた。
 いただきます。ごちそうさま。おはよう。おやすみ。ありがとう。どういたしまして。心の中でしか言わない言葉は、お姉ちゃんにしか伝わらない。お燐とお空は、しばらくしてから私がいなくなったことに気づく。
 地霊殿の食卓では、めずらしくもない光景。



 穏やかということは、退屈ということ。無意識を装った生活は、退屈との戦いでもある。
 幸いなことに、私にはペットたちがいる。
 お燐やお空みたいに、人型の姿になって言葉を話せる子は、私のペットたちの中にはいない。心の声を読んでも、動物の鳴き声しか聞こえない。だから、何を考えているのかはわからない。
 でも、それがいい。意味がわからなければ、私にとっては裏も表もないんだから。
 あ、ここでもひとつ訂正ね。サトリの能力では、動物の心を読むことはできないの。
 お姉ちゃんが動物から好かれるのは、表情やしぐさから考えや気持ちを読みとるのがうまいからっていうだけのこと。ムツゴロウさん的な。だから能力とは何も関係ない。まあ、これは私たちの嘘じゃなくて、みんなが勝手に勘違いしてるんだけど。
「エーちゃん」
 ペット宿舎に入って、その中の一頭に声をかけた。エーちゃんは顔と目と耳をいっぺんにこっちに向けて、それから嬉しそうに首を振った。かわいい。
「今日はいっしょにお出かけしよう」
 首をなでてあげると、エーちゃんは楽しそうに鼻を鳴らした。ぶる、って。かわいい。
 この子は、馬のエーちゃん。正式な名前はエイシンエーケンっていうんだけど、長いし堅苦しいからエーちゃんって呼んでる。白い毛並がまぶしいイケメンボーイ。
 私のペットたちの中でも、エーちゃんは特にお気に入り。……決まった子をひいきするのは、主人としてあまりよくないんじゃないかとは思うけど、好きなものは仕方ないし。あのお姉ちゃんですら、お燐やお空を特別扱いしてるしね。
 鞍を積んで、ハミをかけて、お出かけの準備完了。エーちゃんの背中に飛び乗って、ゲート係員の真似で声をあげる。
「でろー」
 ぐんと重心を下げて、エーちゃんは駆けだした。
 速い、速い。地霊殿はもうはるか後ろ。テンの一ハロンは十三秒ジャストってとこかな。
 力強いフォームで、エーちゃんは駆けていく。橋姫さんもヤマメちゃんも、ぼんやりと私たちを見送るだけ。
 ざん、と跳躍。そこはもう地上だ。
 速い、速い。エーちゃんの走りは、私が飛ぶのよりずっと速い。鴉天狗のブン屋だって相手にならない。平地と障害あわせてオープン特別三勝の戦績は伊達じゃないわ。
 こんなにも速いと、乗るほうもちゃんとした技術がないと、まともに乗っていられない。エーちゃんと風を切って走るために、がんばってモンキースタイルを身につけたわ。腰は高く、背筋はぴんと伸ばして、上半身は地面とほぼ水平に。
 どうよ、この姿勢。気分は田原成貴、ってね。
 問題といえば、後ろからぱんつが丸見えなこと。でも、あまり気にするそぶりを見せたら、無意識を疑われるし。恥ずかしいけど、知らん顔して我慢我慢。
 私とエーちゃんは、一体となって地上を駆けていく。
 言葉を話さないペットたちといっしょにいるときが一番、気持ちが安らぐ。



 ひとしきり走りまわって、霧の湖の畔でエーちゃんの背中から降りた。
 風が涼しく顔をなでていく。ハミと鞍を外してあげると、エーちゃんも気持ちよさそうに身震いした。
 しばらく、ここでのんびりしていこうかな。すぐに帰っても、どうせ暇だし。でも、エーちゃんは汗びっしょり。このまま放っておくのはかわいそうだから、体を洗ってあげよう。お手入れ道具は持ってきてる。
 湖の水をバケツで汲んだ。でも、いくら初夏の陽気だからって、この冷水をそのままぶっかけるのは、いくらなんでも心臓に悪い。
 そこで取り出したのは、こっそり持ってきたお空の着用済みブラジャー。いや、変なことに使うつもりじゃないよ? 八咫烏に何時間もくっついてたわけだから、核融合の熱エネルギーがたっぷりと染みこんでるんだ。まあ、それ以外にも、汗とか匂いとかいろいろと染みこんでるんだけどね。スーハー、もぐもぐ。
 ……さて、ブラジャーをバケツの中へ。あっという間に冷水はぬるま湯に変わった。便利なもんだね。んで、お空エキスの溶けこんだぬるま湯を、エーちゃんの体にかけていく。あんまり興奮しちゃダメだぞ。
 洗い終わったら、次は汗こきの出番。ステンレス製の輪っかを、できるだけ広く馬体に当てて、そのまま毛並に沿ってシャッと動かす。そうすると、毛に含まれた水分が面白いように飛んでいく。これを全身しっかりやっておけば、あらかたの水気はなくなってしまう。手入れにかかる時間が大幅に短縮できて、馬のストレスも軽減できるの。
 それにしても本当、汗こきって叡智の結晶ねハァハァ。機能美っていう言葉は、汗こきのためにあるようなものだわ。
 あとはタオルで拭いて乾かしていく。お腹や腰を重点的に。そうしないと、馬ってデリケートだから、すぐに疝痛になってしまうの。まあ、この汗ばむくらいの天気なら、汗こきをちゃんとしておけば、すぐに乾いちゃうんだけどね。
 顔を拭いて、脚も乾かして、蹄油を塗って、仕上げに軽くブラシをかければ、おしまい。はい、お疲れさま。首筋をべしべし叩いて、無口を外してあげると、エーちゃんは足下の草をもそもそと食べはじめた。
「あんまり遠くには行かないでね」
 エーちゃんに言っておいてから、私はごろんと寝転がった。
 べつに言葉が通じてるとは思わないけど、エーちゃんはわりと私の言うことを聞いてくれる。エーちゃんの考えてることは、なんとなくだけどわかる、ような気がする。でも、本当は何もわかってないような気もする。すっかり仲良くなれたと私は思ってるけど、エーちゃんは実は私を蹴り殺したいと思ってるかもしれない。結局のところ、ぜんぶわかったつもりなだけで、確かなことは何ひとつ言えやしない。
 空は青くて深くて、もこもこした雲が肩身せまそうに浮いていた。じぃっと見ていると、すこしずつ、ほんのすこしずつ、東に向かって流れていく。地底住まいには、初夏の晴れ空はちょっと目に痛かった。
 もしもエーちゃんが、人型に変化できるようになったら。今まさに地面へと落ちていくボロを眺めながら、ふと考えた。そうしたら、私にはエーちゃんの心が読めるようになる。何を考えているのか、推測しかできなくて不安を感じることもなくなって、本当の心が確実に読めるようになる。
 それは、けっこう現実的な仮定だ。なにも山の神様に力をもらう必要なんてない。そこそこの資質と、それなりの時間。そのふたつがあれば、動物は妖怪になり、さらには人型に変化できるようになる。そしてエーちゃんには、少なくともそこそこ以上の資質がある。
 そうなったら私とエーちゃんも、お姉ちゃんとお燐やお空みたいな関係になれるのかな。
 すこし考えて、やっぱりこわい、と思った。
 エーちゃんが人型になったら、いやでも心が読めてしまうようになる。お燐やお空みたいに、どうしても表と裏が見えてしまう。それでも変わらずエーちゃんを好きでいられるか、ちょっと自信がない。もし私が心を読めるということをエーちゃんが知ったとして、それでも変わらず仲良くしてもらえるか、ちょっと自信がない。
 もちろん、今よりもっと強い絆で結ばれた主従になれる可能性だって、いくらでもあると思う。でも、関係が壊れてしまう可能性だってあるんだと考えたら、それだったら今のままでいい。ただの動物と、無意識のふりをした変な妖怪のままでいい。
「エーちゃんも、そう思うよね」
 上半身を起こして、呼びかけた。エーちゃんは草を噛みちぎりながら、耳だけをこっちに向けて振った。それは、そのとおりってこと? それとも、ちがうってこと? もしかして、何も聞いてないってこと?
 わからない。確かめてみたい。でも、確かめるのはちょっとこわい。それだったら私は、今のままで――。
 ああ、面倒くさい。帽子といっしょに、こんがらがった思考を放り投げた。
 ついつい小難しいことばかり考えちゃう。いくら頭の中で考えたって、息が苦しくなるだけなのに。
 ああもう、やめ、やめ。もう頭を空っぽにして、雲でも眺めていよう。
 また寝転がって、胸元をまさぐる。いや、べつに変なことじゃなくて。第三の目を枕がわりにするの。大きさとか、硬さとか、頭を乗せるのに意外といいんだ、これ。
 ――これ?
 左胸に手をやってみても、そこにあるのはぺたんこの胸板だけ。ない。ない。いや、おっぱいがないのはわかってるけど、そうじゃなくて。
 飛び起きて、視線を胸へ。やっぱり、ない! 第三の目が、ない!
「うぇっ、ちょ、え、待っ、え、うえぇぇぇええええ!?」
 あかん、あかんて。焦りすぎてゲロ吐きそう。とりあえず、落ち着け私。神父を数えるんだ。二プッチ、三プッチ、五プッチ、七プッチ、十一プッチ。神父は孤独な男。私に勇気を与えて……あれ、なんか違う。くそ、なんだっけ、くそ、くそっ。
 とにかく、今日のことをひとつひとつ思い出してみよう。朝起きて、着替えるときに、ちゃんと第三の目を着けた。間違いない。朝ごはんのときも、第三の目はあった。それも間違いない。ペット宿舎に入って、エーちゃんを呼んだときは――どうだっけ、はっきりと思い出せない。
 エーちゃんに跨がってからは? どうだろう。そういうつもりで思い出してみると、なんだか胸のあたりがすっきりしすぎていたような気がする。絶対に、とは言えないけど。
 ……あ! わかった、あのときだ!
 いつもエーちゃんの装鞍をするとき、紐がひっかかったりして邪魔だし危ないから、第三の目は外してちょっと柱にかけておく。それで今日はハミをかけ終わった後、第三の目を着けるのを、すっかり忘れてた。
 うん、間違いない。
 それがわかると、すこしだけ気が楽になった。どこに置き忘れたか、わかってるのとわからないのとじゃ、やっぱり不安の度合いが違う。
 でも、ものすごくヤバい状況だってことは変わらないんだけどね。
 第三の目は地霊殿にある。ということは、第三の目がない状態で地霊殿まで帰らなきゃならない。
 もしも、誰かにこの姿を見られたら?
 きっと、第三の目がただの飾りだってことが、ばれてしまう。心を読むのに、第三の目はなにも関係ないってことが、ばれてしまう。私が無意識じゃないってことが、ばれてしまう。
 マズいよ、マズいってこれ!
 地上に出てきたときは、たいてい何人かとは顔を合わせる。今日はここまで誰とも会わなかったけど、このまま無事に帰れるかというと、その見込みは薄い。こんなにいい天気なんだから、吸血鬼とかは別として、みんなぶらっと散歩にでも出てきてるに決まってる。
 行き交う他人の視線という弾幕をかいくぐって、地霊殿までたどり着けるか。なにこれ、難易度ルナティックどころじゃないよ。デスレーベルだよ。
 私ひとりなら、気配を消せばどうにでもなる。でも今は、エーちゃんがいる。存在を隠そうにも限度があるっての。かといって、エーちゃんを置いていくわけにもいかない。このへんはルーミアがうろついてるから食べられるかもしれないし、チルノに悪ふざけで氷づけにされるかも。珍しいもの大好きな紅魔館のメイド長に見つかったら、きっと剥製にされちゃう。あの気色悪い鹿といっしょに飾られちゃうよ。とにかく、ただの動物のエーちゃんをひとりにするのは危なすぎる。
 どうする、古明地こいし。さあ、どうする。
 やっぱり、できるだけ気配を消しながら、誰にも見つからないことを祈りつつ、エーちゃんといっしょに帰るしかない。まあ、モンキースタイルなら鞍上の胸元は見えにくいし、なんとかごまかせる――よね?
 よし、そうと決まれば、早く行こう。こうしている間にも、誰かがここにやってきて、第三の目を着けていない私の姿を見つけてしまうかもしれないんだから。
「エーちゃんごめん、もう行くよ」
 馬具を持って近寄っていくと、エーちゃんは顔をこっちに向けて、ちょっと不満そうに口をもごもごさせた。ごめんってば。
 てばやく装鞍をすませて、騎乗。さあ、ここからだ。生まれつきの影の薄さを最大限に引き出して、自分の存在感を消していく。希薄な空気をエーちゃんのまわりにも広げていき、人馬そろって世界の表層から退場していく。
 誰にも見つからず、無事に地霊殿までたどり着けるか。天性のステルスガール、いざ出陣!
「お、古明地んとこのこいしちゃんじゃないか」
「ぶふぉっ」
 鼻水噴いた。
 振り返ると、幼女が不思議そうに首をかしげていた。手には瓢箪を持って、頭からは二本、角のような牛蒡が突き出ている。鬼の、伊吹萃香さんだ。
 ちょっとちょっと、見つかるの早すぎでしょ。厳しい闘いになるのはわかってたけど、まさか開幕撃沈とは。
 いやいや、まだ終わりじゃない。見つかったけど、第三の目がないことに気づかれないまま立ち去ることができれば、まだ負けたことにはならない。
「ごごごごごきげんよう萃香さん。私急いでるから、またね!」
「おい、ちょっと待ちな」
 萃香さんはすばやく寄ってきて、後ろから私の襟首をつかんだ。
「ぐえっ、な、何?」
「忘れ物」
「……あ」
 指さされた先では、手入れ道具が草の上に置いたままだった。慌ててたにしても、どうかしてる。エーちゃんからいったん降りて、道具を拾って、また乗るまでの間、顔がパイロになったような気分だった。
 でも、まだだ。まだ負けと決まったわけじゃない。萃香さんはまだ、第三の目のことに気づいていない。
【あれ、胸のところ、第三の目がない?】
 ……終わった。
 いやいやいやいや、まだ可能性はある。第三の目がないことには気づかれたけど、それとサトリの能力とが結びつかなければいいんだから。この場をうやむやにして立ち去ってしまえば、後からなんとでもごまかすことはできる。
 となれば 今はとにかく無意識っぽい言動でアピールしなきゃ。
「ふはははは、今宵も上腕二頭筋が疼くのう!」
「……」
「私のアルゼンチンバックブリーカーで、紅魔館を腰痛天国に変えてくれる! そいや!」
「……」
【こんなに動揺しまくって、こいつ、本当に無意識なのか?】
 ……ああ、そうですか。そんなに動揺してますか、私。
 もう無理っぽいね。もう、萃香さんには隠し通せそうにない。だったら方針転換だ。せめて、被害を最小限に抑える。
 エーちゃんから降りた。萃香さんは私の顔と胸とを、交互に眺めた。



「――と、いうわけでごぜぇます」
 草の上に三つ指ついて、私は話をしめくくった。
 みんなに隠していたことを、萃香さんにはぜんぶ話した。いや、もちろんお空の下着を日常的にもぐもぐしてることとかは言わないけど、私が無意識じゃないこと、第三の目がただの飾りだってこと、そのへんは隠さずにぜんぶ話した。
 他の誰にも見つからずに地霊殿へ帰れるよう、萃香さんに協力してもらうためだ。
 鬼というのは、良くも悪くも誇り高い種族。これまではお姉ちゃんしか知らなかった秘密を洗いざらい白状して、真正面から協力を求めたら、きっと救いの手を差しのべてくれる。そこまで言ってくれるのならと自尊心をくすぐられるはずだし、正直さに免じて悪いようにはされないはず。しかも鬼の力というのは桁違いのものだから、味方につければ、無事に帰れる可能性もぐんと高くなる。
 萃香さんにばれてしまったのは、もう仕方ない。無理に隠そうとしたって、どうせ感づかれてただろうし。だけど、やっぱり鬼は誇り高い種族。涙目で口止めでもしておけば、私の秘密を他のひとに言いふらしたりは、絶対にしないと思う。
 とっさの判断、なかなかよかったんじゃない? 満更でもない気分で、萃香さんが同情を示してくれるのを待った。……でも、なんだか萃香さんの目、つり上がってるように見えるんですけど。草を何本かちぎって放りあげる手つきが、やたらと荒っぽいんですけどー。
「あんた、嘘つきだったのか」
【ずっと、みんなを騙していたのか】
 仰るとおり。返す言葉もございませぬ。
「我ら鬼が最も嫌うもの、知らないわけじゃないだろうな」
 存じ上げておりまする。だから、さっき正直にぜんぶ話したでしょ。だから――。
【最低だ、こいつ】
 萃香さんは心を読まれていることを何とも思っていない様子で、むしろ心の声をわざとぶつけてくるような感じで、私の眉間をにらんできた。私は思わず首をちぢめた。
 姿形は幼女でも、やっぱり鬼の迫力はすごい。加えて、非はこっちにある。反論なんて、できっこない――けど。だけど。しばらくちぢこまってるうちに、なんか、だんだん腹が立ってきた。
 なに? なんなの?
 知ってるよ。鬼は嘘が嫌いだってことくらい、もちろん知ってるよ。だからって、なに? これまで必死で隠してきたことを、一から十まで話して聞かせたじゃない。獣で言ったら、仰向けになってお腹を見せたのとおなじことだよ。だったら、あんたも誇り高い鬼として、武士の情けというか、多少は手心を加えてくれたっていいんじゃないの? 心の中で軽蔑するのはいいとしても、すこしくらいは取り繕おうとしてみるのが、一応の礼儀ってもんじゃないの?
「……好きで、嘘つきになったわけじゃないもん」
 言葉が口をついて出てくるのを、もう止められなかった。
「サトリだからって、心が読めるからって、みんなが私のことを嫌うから。気味の悪い奴だって避けるから。耐えられなくなって、仕方なく、心が読めなくなったってことにしたの。そうするしかなかったのよ」
「はァ?」
 萃香さんはいっそう腹立たしそうに、右の眉尻を上げた。
【こンの、甘ったれが】
「あんたの姉さんも、心が読めるサトリだろう。でもあいつは、心が読めないふりをしてるか? 無意識のふりをしてるか?」
「だって、お姉ちゃんは強いから」
「自分の弱さを言い訳にして、開き直るつもりか。ますます気に入らない」
 ねじるように地面をふみつけて、萃香さんは立ち上がった。エーちゃんは草を食べるのをやめて、なにごとかとこっちを見ている。
「嘘つきの顔なんて、もう一秒だって見ていたくないね」
「ふん、胡散臭いスキマ妖怪とは仲良くしてるくせに」
「あ? 今度はひとの友人に文句をつけるつもりか」
 見たくない、なんて言ったわりに、萃香さんはまた私をにらみつけた。
「紫は確かに胡散臭いし、存在自体がインチキだ。でも、嘘はつかない。はぐらかしたり、ぼかしたり、適当なことを言ったり、わざと誤解を招くようなことをしたりはするけど、大事なことについては、嘘はつかないんだ」
【誰かさんとは違ってな】
 屁理屈。嘘さえつかなければ、ひとを騙したり惑わせたりしてもいいの? いいことと悪いことの基準をこのひとはどこに置いてるのか、さっぱりわからない。好き嫌いの後づけで理屈をこねまわしてるようにしか聞こえない。わけのわからない価値観をあてがわれて、私はボロクソに言われてる。なんなの、これ。
「自分だって、嘘つきのくせに」
 言っちゃった。でも、もう我慢できない。我慢したくもない。鬼の力を借りたかったけど、もう知ったことか。鬼を敵にまわしたら冗談じゃ済まないんだろうけど、もう、どうだっていいや。
 知ってるんだからね。じつは萃香さんは素面の状態だと、ひどい人見知りで、どうしようもないくらい弱気なんだ。それを、お酒の力でごまかしてる。実際に素面のところを見たことはないけどね。
 いつも豪快な性格なのは、いつも酔っぱらっているから。でも、本当の性格っていうのは、素面の状態での性格を指すんじゃないの? いつもの萃香さんは、言ってみれば偽物なんじゃないの?
「お酒の力で作り出した偽物の自分を、いかにも本物みたいに見せかけて。あなただって、立派な嘘つきだよ」
「あぁ?」
 瓢箪が、ほとんど真っ逆さまに傾けられた。萃香さんの喉がぐびんぐびんと鳴って、アルコールのにおいが漂ってくる。
「酔っていようが、素面だろうが、どっちも本物の自分だ。多重人格者ならともかく、私はそうじゃないからな。酒の力を借りて、強気で陽気な部分を強めているだけだ。嘘なんてついちゃいない」
「……屁理屈」
「あんたはどうだ。地霊殿でいっしょに暮らしているみんなを騙して、姉さんひとりにサトリの負の部分を押しつけて、そうまでして演じる自分が、心を読めない自分が、一瞬でも本物の自分になったことがあったか?」
 うるさい。ひとの心も読めないくせに、何がわかるっていうのよ。サトリの苦しみが、おまえなんかにわかるわけないでしょ。
 瓢箪のお酒をひと口飲んで、苛立ちをこらえるように大きく息を吐いて、を萃香さんは三回くりかえした。
【失望したよ】
 え?
「あんたのこと、気の毒な奴だって少し思っていたんだけどな」
 萃香さんは、軽蔑を含んだまなざしを私に向けた。それから、むしり取るみたいな手つきで髪に絡まった鎖を外すと、そっぽを向きながら差し出してきた。
「ほら、これ、貸してやる」
「え?」
「他の奴にはバレずに帰りたいんだろ」
「えっ」
 そのことは言ってないのに、どうしてわかったの? もしかして鬼も、心を読む能力を持ってるとか。
【心なんか読むまでもない。顔を見てりゃわかるって】
 あ、そうですか。私ってそんなに顔に出やすいタイプ? ぐはー、ものすごく恥ずかしいし悔しい。
 で、萃香さんが差し出した鎖をよくよく見てみる。先っぽに拳くらいの大きさの分銅がついてるんだけど、まるでマシュマロみたいに軽々と持ちあげられていた。うーん、貸してやるって言われたって……。
「えーと、これをどうしろと?」
「体に巻きつけるんだよ。遠目には第三の目みたいに見える」
「はー。でもこれ、四角だよ」
「知ってる」
【文句あるのか】
「いや、せっかく貸してくれるなら、四角より丸のほうが……」
「なに言ってるんだ。丸くても黄色だったら、ぱっと見て違うってわかるだろうが。それより四角でも青いほうが、まだごまかせる」
「あー、言われてみればそうかなあ」
「それに、」
【四角は『不変』を表す】
 ああ、それぞれの分銅の形には、ちゃんと意味があるんだってね。でも、なんで『不変』の四角?
【変わらない。変われない。逃げてばかりで自分を変えようともしないあんたにゃ、これが似合いだ】
「なっ……」
「ほらよ」
「えっ」
 萃香さんは分銅を放り投げた。って、そんな馬鹿みたいに重そうな金属の塊を、かよわい少女に向かって――
「ぐぼえっ」
 ちゃんと、受け止めたつもりだった。でも、両手はあっけなく押しのけられて、分銅の角が土手っ腹に深くめり込んだ。たちまち食道を逆流してくる乙女汁。しかし私は、それを鋼鉄の意志でなんとか飲み下し――まあ、つまり、すんでのところでゲロは吐かずに済んだってこと。
「他の誰かに見つからないうちに、それ着けてさっさと帰っちまいな」
 萃香さんは吐き捨てるように言うと、背中を向けてぶらぶらと歩きだした。
 くそ、なんなのよ。
 確かに、これがあれば第三の目のことはかなりバレにくくなると、私も思う。萃香さんは、何の義理もない私の手助けをするために、大事な(たぶん大事なんだろう、いつも着けてるし)分銅を貸してくれた。神様仏様伊吹様っていうくらい感謝したっていい状況なんだろうとは思う。でも、この腹の気持ち悪さはどうにもならない。非難する価値すらないと言わんばかりの態度を向けられたことに対するむかつきと、内臓に対する物理的なダメージ。両方が合わさって、ともすれば今にも胃から内容物が噴き出してきそうだった。
 あー、くそ。ちくしょう。このままじゃ、腹の虫がおさまらない。
 見ると、右へ左へふらつきながら歩いているせいで、萃香さんはまだそれほど遠くへは行っていない。
 ふと、仕返しのいたずらを思いついた。――いつも酔ってるおかげで、いつも理想の自分でいられる萃香さん。でも、あの瓢箪がなくなったら、いつでも好きなときにお酒を飲むわけにはいかなくなるね、っと。
 はぁ、最低だね、私。そんな誰も得しない、いやな気分になるだけのいたずらなんて、よく思いつくもんだ。
 まあ、いいや。
 相手は山の四天王に数えられたほどの大物だもん。私の似非無意識なんて通用するはずもないし、いたずらは失敗するに決まってる。『何しやがる』なんて追い払われて、私はあかんべしながら逃げていく。どうせ、それだけでおしまいだ。
 気配を消して、萃香さんの背中にするすると近寄っていった。手が届く距離までは、あと三歩。まだぜんぜん気づかれてない。
【あー、胸くそ悪い】
 あと二歩。さあさあ、そろそろ気づかないとマズいよ。
【帰ったら酒盛りだ。飲まなきゃ、やってられるか】
 あと一歩。うん、酒盛りもいいけど、とりあえず今は腰にぶら下げてるお酒を守ったら? ほら、盗っちゃうよ、盗っちゃうよ。
【さとりも苦労してるんだろうな、甘ったれな妹を持ったせいで】
 どうするの、ねえ。もう手の届く距離まで来ちゃったよ。山の四天王なんて、その程度のものなの? 甘ったれに隙だらけの背中を見せて、腰の瓢箪はがら空きで、鬼の勘なんてそんなものなの?
【こいしのやつ、なんなんだよ。逃げてばっかりで、自分の殻に閉じこもって】
 ねえ、いつになったら気づくのよ。いいかげん振り向いて、『バレバレだよ、ばーか』って言ってくれなきゃ、本当に盗っちゃうよ。いいの? あなたを強気で陽気にしてくれる、大事な大事な瓢箪だよ。ねえ、このままだと、最低のいたずらが成功しちゃうんだけど。
【まるで、昔の私みたいじゃないか】
 手を伸ばす。ねえ、そろそろ気づくでしょ? 瓢箪に触れる。ねえ、さすがにもう気づくでしょ? 瓢箪をつかむ。ねえ、いいかげん気づいてよ。これ以上は、お互い気まずいじゃない。瓢箪の紐をほどく。ねえ、気づいてよ。さっきみたいに、こそこそ隠れようとする私のこと、見つけてよ。瓢箪を、胸に抱く。ねえ、本当に気づいてないの? 私、すぐ後ろにいるんだよ。あなたの大事な瓢箪を持って、ここにいるんだよ。ねえ、だから、気づいてよ。ねえってば!
【なんだか、悪い酔い方しそうだな、今日は】
 どうしよう。早く返さなきゃ。でも――肩を叩こうと手を伸ばして、だけど、やっぱり引っ込めてしまった。文字どおりの、鬼の形相が頭に浮かんだ。こわい。でも、怒鳴り散らされて、殴り倒されるのもこわいけど、同じくらい、軽蔑の目で冷たく眺められることもこわい。怒る価値もない奴だ、とか思われてしまったら、きっと私は耐えられない。
 でも、どうするのよ、これ。もう盗っちゃったし。というか、なんで成功しちゃったのよ。なんでこんなときに限って、こんなにも上手くいくのよ、私の似非無意識。
「あ……」
 迷ってる間に、萃香さんの背中は離れていく。あんな千鳥足で、どうしてこんなに速いのよ。返さなきゃ。返すしかないでしょ、どんな反応をされるとしても。でも、瓢箪があまりにも重くて、足が地面にめり込んだみたいに動かない。どうしてこんなに重いのよ、盗ったときには片手で軽く持ててたじゃない。
 萃香さんの背中は離れていく。待って。待って。ああ、でも、喉がきゅっと締めつけられて、声がちっとも出てきやしない。どうして思いどおりに動かないのよ、私の体。くそっ、くそっ。
【神社に、何か肴はあるかねぇ】
 ざ、と萃香さんの姿が揺れて、崩れた。霧は風向きとは無関係に、博麗神社の方角へと流れていく。待って、と思う間もなく、萃香さんはどこにも見えなくなった。エーちゃんが尻尾を振って、ばしゃっと音をたてた。
 ……盗っちゃった。
 どうするのよ。本当に盗っちゃったじゃない。あとから返したって、いちどは盗ったっていう事実はもう消えない。
 嘘をついてたことを責められて、ふてくされて、逆恨みで仕返しに瓢箪を盗った。端から見たら、そういうことになる。古明地こいしは、陰険で最低なやつ、って。――いや、実際、そのとおりなのかも。私は、陰険で最低なやつ。
 どうするのよ。あなたがぼんやりしてるから、私が最低なやつになっちゃったじゃない。なんで気づいてくれなかったのよ。
 ばーか。



 空気が、顔面を殴りつけてくる。振動が、足の筋肉を軋ませる。
 私とエーちゃんは、全速力で地霊殿への帰り道を急いだ。
 萃香さんのことは、気にしないようにっていったって無理だけど、でもとりあえずそのことは置いといて、今はやらなきゃいけないことがある。もう誰にも見つからないように、地霊殿へと帰り着くこと。でなきゃ、あんな不愉快な思いをした甲斐がない。
「うぎっ」
 一完歩ごとに、肩に鎖が食い込む。胸に分銅が食い込む。
 貸してくれた分銅は、それっぽく体に巻きつけてみた。これなら、ぱっと見では第三の目と見まちがえてくれるかもしれない。でも、重い。とんでもなく重い。こんなのを三つも着けて軽々と動けるなんて、鬼ってどれだけ筋肉馬鹿なのよ。
 腰が悲鳴をあげる。手も足もしびれて、感覚がなくなってきている。エーちゃんも、さすがにすこし走りづらそうだった。だけど、途中で止まるわけにはいかない。がんばって、エーちゃん。
 地底に入った。
 橋姫さんがいる。でも、これは想定内。怯まず、さらに速度を上げる。思ったとおり、橋姫さんはあまり興味なさそうに私たちを見送った。
 足を緩めず、そのまま走る。ヤマメちゃんとか勇儀さんとかに見つかったら厄介だと思ってたけど、幸いなことにどこかよそへ行ってるみたいだった。
 後は誰にも会うことなく、地霊殿までたどり着いた。やった、お空もお燐も見あたらない。装鞍所に戻ると、やっぱり柱に第三の目がかかったままになっていた。
「はぁー……」
 ひとまず、よかった。鎖を外し、第三の目を着けてから、エーちゃんの馬装を解いた。
 全身が砂袋になってしまったみたいに、だるくて重くて、ぜんぜん動かない。このまま服をぜんぶ脱ぎ捨てて、ベッドにもぐり込んで、タールのように眠りたかった。でも、エーちゃんはお腹の下から汗を滴らせている。またお手入れしてあげなきゃ。
 ――いま、エーちゃんのこと、ちょっと邪魔だって思っちゃってる。
 都合のいいときには、かっこいいだのかわいいだの大好きだの言って、気が済むまで猫かわいがりするくせにね。本当に最低だ、私。
 ……お手入れ、してあげなきゃね。
 お湯で白い馬体を洗っていく。地霊殿では灼熱地獄跡から熱エネルギーを引っ張ってきてるから、栓をひねればホースの先からそのままお湯が出てくる。お空の下着を使う必要はない。もぐもぐ。
 そして汗こき。水気を、こき飛ばす。白く濁った液体が、放物線を描いて飛んでいく。
「お帰りなさい」
 振り返ると、お姉ちゃんが立っていた。汗こきに夢中になっていて、ぜんぜん気づかなかった。
 エーちゃんが愛想よく鼻を鳴らした。
 いつもそうだ。お姉ちゃんは、私のペットたちにも好かれている。毎日世話をしているのは私なのに、私とそう違わないんじゃないかって思うくらい、お姉ちゃんも懐かれている。
【お燐やお空はこいしのことも大好きなんだから、おあいこよ】
 そうかなあ。いや、それなりには好かれてるんだろうけど。でも、あのふたりにとって、やっぱりお姉ちゃんは別格だよ。もしも私が、お姉ちゃんのペットを懐柔して自分のものにしてしまおうと考えたとしても、付け入る隙なんてどこにも見あたらない。
「エーちゃんだって、人参や角砂糖くらいで私に寝返ったりはしないわ」
 そうかなあ。
【ところで、こいし】
 お姉ちゃんは腕を組んで、じっとりとした目で私を見据えた。
【また、お空の下着を持ち出したわね】
 う。
【お空が悩んでいるわよ。自分の下着だけ黄ばみや傷みが早すぎる、と】
 あー、……ごめん。
【私に謝っても仕方がないでしょ】
 うん、気をつけるようにするよ。
 もうしません、とは言えないのが辛いところ。だって、我慢できる自信なんて、これっぽっちもないもん。そんな私の本音は、隠そうとしたってお姉ちゃんにはぜんぶわかってしまう。口先だけ、というか心先だけで反省してみせたって、なんの意味もない。
 サトリ同士の私たち姉妹の間では、お互いに心の中はぜんぶ筒抜け。お空の下着を温水器代わりに使ってるだけじゃなくて、スーハーしたり、もぐもぐしたりしてることも、ぜんぶ筒抜け。
 もちろん、萃香さんとの間であったことも。
【なら、私の言いたいことはわかっているわね?】
 汗こきをタオルに持ち替えて、エーちゃんのお腹をこする。ただ力を込めてこすればいいってもんじゃなくて、風を送るようにすばやく動かすのが、速く乾かすコツ。
【こいし】
 うーん、なんだか乾きが遅い。ちょっと汗こきが足りなかったかな。
【こいし】
 幻想郷一の汗こきテクニシャンを自任する私としたことが、抜かったわね。
「こいし」
「……わかってる」
 そう、わかってる。分銅といっしょに、瓢箪を返しにいかなきゃならない。殴られるか、罵られるか、軽蔑の目で眺められるか。それは、わからないけど。
 でも、やっぱり、心の準備がまだ、ね。
【あまり、のんびりとはできないわよ】
 お姉ちゃんもタオルを持って、私の反対側からエーちゃんの体を拭きはじめた。
【伊吹瓢のお酒がどんなものか、知ってる?】
 かなり強いお酒だ、とは知ってるけど。
【アルコール度数換算で、二千四百度相当】
「にせっ……?」
 んな無茶な。純アルコールどころの話じゃないよ。
【そうね。でも、どういう仕組みかはわからないけれど、確かな話だわ】
 うへぇー。
【それくらいでなければ、鬼は満足に酔えないということ。伊吹瓢を手に入れる前の萃香さんは、ひと晩で酒蔵をひと棟、丸ごと飲み干していたそうよ】
 なんて傍迷惑な。放っといたら、幻想郷中のお酒をぜんぶ飲み尽くしちゃうかもね。
【幻想郷中というのは大袈裟だとしても、博麗神社のお酒くらいなら、ひと晩で消えてしまうわね】
 あ。そういえば、萃香さんは博麗神社に行くみたいだった。
【博麗神社のお酒がなくなって、その原因を博麗の巫女が知ったとしたら――】
 知ったとしたら?
【地霊殿に殴り込みにくるかもしれないわ】
 ……それはマズい。
 ある意味では鬼よりもおそろしいと言われる霊夢が、怒り狂って襲撃をかけてきたとしたら。地底は死の廃墟に早変わりしてしまうに違いない。お金とお酒のこととなったら容赦ないからね。
【まあ、それもあるけれど】
 お姉ちゃんは手を止めて、エーちゃんの首の下から私の顔をのぞきこんだ。
【相手が誰であろうと、無意味に困らせるのはとても悪いことよ】
 エーちゃんのお手入れを最後まで手伝ってくれた後、お姉ちゃんは足早に去っていった。足は長くないのに、動きは颯爽として、格好よく見える。地霊殿の主という立場とか、忙しく仕事を片づける毎日とかが、お姉ちゃんを強くしてるのかな。それとも、強いからこそ地霊殿の主が務まってるのかな。どっちだろう。
 ペットたちにご飯をあげてから、今度は馬具のお手入れ。でも、気分が乗らない。
 頭絡の革が、ちょっと硬くなってる。このまま放っておくと表面がひび割れてきて、切れやすくなっちゃう。そろそろオイルを入れなきゃ。でも、今はそんな気分じゃない。また今度にしよう。絞ったタオルで汚れだけ拭き取って、鞍といっしょに片づけた。
 さて、どうしようか。あれだね、うん、とりあえず、自分の部屋に戻ろう。
 途中、ふと思い立って、食料庫に寄った。ここにはひととおりの種類のお酒も置いている。ビール、ウイスキー、ワイン、ブランデー、リンゴ酒、ジン、焼酎――すこしだけ迷ってから、ウオッカの瓶を手に取った。
 自分の部屋に入るなり、ベッドに勢いよくお尻を預けた。でもクッションがよすぎて、私の体はふわりと受け止められてしまう。お空のベッドみたいにもっと硬くて安っぽかったら、トランポリンみたいに跳ねてすこしは楽しいのに。
 瓶を開けて、直接口をつける。ちび、と中身を口の中へ。それだけで、広がったアルコールのにおいに脳味噌をかきまわされてるみたいだった。
 私はお酒に弱い。ウオッカどころか、ウイスキーの水割り一杯で潰れてしまう。だからふだんはあまり飲まない。だけど今は、なぜか飲まないといけないような気がしていた。
「飲まなきゃ、やってられるか」
 萃香さんのまねをしながら、またひと口。喉が焼けつく。胃がよじれる。また瓶を口に運んで、やっぱり、サイドテーブルに置いた。
 お酒の力で、自分の中の強気で陽気な部分を強める? 私には無理っぽい。第三の目と同じように、二つの目も閉じてしまいそうだ。本当に、鬼っていうのはどんな体の構造をしてるんだろう。それとも、私が弱すぎるだけ?
 なんだか、頭がぼーっとしてきた。ウオッカの瓶の隣には、萃香さんの瓢箪が置いてある。手に取ってみると、たぽんと低い音がした。重さからいっても、中には七割くらいお酒が入っていそうだ。
 無尽蔵に湧いて、鬼すら酔わせる伊吹瓢のお酒。いったい、どれほどのものなんだろう。気づくと私は、瓢箪の栓を抜いていた。ああ、危ない。こんなものをひと口でも飲んだら、私なんてひとたまりもない。でも手は勝手に持ち上がって、口に近づいていった。あれ、もしかしてこれが無意識ってやつかな。
 こくり。瓢箪のお酒は意外にも軽い口当たりで、驚くほどすんなりと食道を流れ落ちていった。なーんだ、これなら私でも飲め――
 あ、無理。
 部屋が回転を始めた。音が遠くなっていく。あれ、まっすぐに座ってるはずなのに、目の前にあるのはこれ、床かなぁ。ん? 頭が上で、お尻が下で――あ、もう、どうでもいいや。
 拝啓、お姉ちゃん。いま私は、アレな世界へと旅立とうとしています。アリーヴェデルチ。



 頭、痛い。
 気持ち悪い。
 全身が絨毯に貼りついたみたいに、ぴくりとも動かない。動かしたいとも思わなかった。ん、絨毯? ベッドじゃなくて?
 酸っぱくていやな、味とにおい。あー、……やっちゃったな。観念して目を開いてみる。私は床にうつぶせに倒れて、ゲロの湖に顔を半分浸していた。
【こいし、いい?】
 お姉ちゃんの心の声と、ノックの音が響いた。うー、この状況は見られたくないなあ。
【残念。さっき、こいしが寝ている間に見てしまったわ】
 ……じゃあ、入ってもいいよ。
 お姉ちゃんは手にタオルと雑巾と、バケツを持っていた。腕を引っ張ってもらって、ようやく私はゲロだまりから体を起こすことができた。
「こんなきついお酒なんか飲んで。自分の強さくらいわかっているでしょう」
 うん、馬鹿なことしたね。
「ほら、こっち向いて」
 お姉ちゃんはタオルで私の顔を拭いてくれた。ごめんね、面倒かけて。
「はいはい。いいから、じっとしてなさい」
 髪の毛に付いたゲロカスも、優しく丁寧に拭き取っていく。お姉ちゃんの顔つきはどこか楽しそうだ。いくら血を分けた妹だっていっても、こんな汚いものの処理をしてるのに。根本的に世話好きなんだろうね。
 従者でもなく、部下でもない。仲間でもなければ、友人でもない。お燐やお空たちをあくまで『ペット』と呼ぶのは、そのあたりが理由かもしれない。
【べつに、深い理由なんてないわ。なんとなくよ、なんとなく】
「だよねぇ」
【はいはい、ちょっと寝てなさい】
 私をベッドに寝かせて、お姉ちゃんは床の始末にとりかかった。いくら妹のだからって、ひとのゲロの片づけなんて、よくできるね。
【そうよねえ】
 新聞紙でおおまかにゲロを取り除いて、あとは雑巾で拭いていく。お姉ちゃんの手つきは鮮やかだ。地霊殿の主なのに、まるでメイドみたい。いい意味で、だよ。
 あっという間に掃除を終えると、お姉ちゃんはバケツを持って立ち上がった。それから、ちらりとサイドテーブルの瓢箪に目をやる。
 わかってるよ。言いたいことは、わかってるから。ベッドから引きはがすように体を起こして、
「うおぇっぷ」
 危ない危ない、また吐くところだった。ゲロ袋は持っとかなきゃだめだね。頭も痛いし、体も重い。できることなら、もうしばらく寝ていたかった。
【無理なら、私が代わりに返しに行ってもいいのよ】
 ……だめだって、それは。本人は怖じ気づいて逃げたんだと思われたら、それこそ鬼の逆鱗に触れてしまう。やっぱり私が行かなきゃ。
【なら、いいんだけれど】
 お姉ちゃんはポケットからウコンドリンクを取り出して、サイドテーブルに置いた。
【あまり、ゆっくりとはしていられないわよ。あなた、丸一日寝ていたんだから】
 あー、そりゃまずいね。ていうかこれ、今から飲んでも効くもんなの? まあ、飲むけど。
 ウコンドリンクの栓をねじ開けて、ひと息に飲み干した。ぬふー、なんともいえない変な味。でも、胃のむかつきはなんとなく治まってきたような気がする。あ、頭痛もちょっと楽になってきたかも。ウコンってこんなに効くものだっけ?
【さすが、永遠亭のよくわからない薬はよく効くわね】
「えっ」
【ウコンドリンクに混ぜておいたの。味は酷いけれど、よくわからない効果が抜群らしいわ】
 いやいやいや、ちょっとちょっと、なんてもの飲ませるの。あそこの薬なんて、どんな副作用が隠されてるか、わかったもんじゃないでしょうが。
【たまにはちょっとしたスリルも必要よ、平穏な日々を楽しむためには】
 だからって、こんな命がけのスリルはいらないってば。
【あら、そう? まあ、とにかく、あまり遅くならないようにね】
 最後、お姉ちゃんは床に消臭剤を噴きまくって、部屋から出ていった。
 ふう、と深く息を吐く。本当に二日酔いが治ってきていた。
 机の上に置かれた分銅。立方体の下側になった一面がずっしりと腰を下ろして、ちょっとやそっとじゃ動きそうにない。不変を表す四角。丸とはちがって、そう簡単に転がっていくことはできない。
 現状にべったりと貼りついたまま、似非無意識という鎖でがんじがらめ。本当に、よく気の利いた皮肉だ。
 よし、と景気をつけて、ベッドから立ち上がる。帽子をかぶって、瓢箪を持って、分銅の鎖を体に巻きつけた。腕や足の筋肉が、みしみしと軋んでいる。こりゃ、明日は筋肉痛かな。



 ふらふら、よろよろ。右へ左へ、落ちかけてはよじのぼって。
 まっすぐに飛ぶこともできない妖怪なんて、端から見たら、みっともないことこの上ないよねえ。いや、今の私のことなんだけど。
 地上に出てきたんだけど、もう汗だく。分銅が重すぎるからエーちゃんには乗らずに、自力で飛んできた。私が乗れるサイズのペットっていったら、他にはいないもんね。
 霧の湖まで来て、ひとまず着地。さてと、萃香さんは――博麗神社にいるかな。とりあえず行ってみよう。
 鳥居が見えてきたあたりで、すこし息を整える。神社のお酒の減り具合によっては、いきなり問答無用で霊夢にぶん殴られるなんていうことだって、充分に考えられるから。まずは気配を消して様子を確かめる。まあ、異様に勘のいい相手だから、それでも気づかれないとは限らないんだけど。
 気配を消すコツは、隠れようとしないこと。変に隠れようとすると気の流れが乱れて、ひとの意識に引っかかってしまう。逆に自然体を保っていれば、たとえひとの目には私の姿が映っていたとしても、頭では認識できない。手品と似たようなもの、かな。まあ、もともとの影の薄さがあってこそのステルス性能なんだろうけど。
 よし、じゃあ行こうか。
 ぶらっと境内に降りて、ぬるりと見まわしてみる。あ、いた。萃香さんじゃなくて、霊夢。腕を組んで、困った顔をしている。実際、困っている。
【どうしたものかねえ】
 霊夢は腋が丸見えなのにもかまわず、ぼりぼりと頭を掻いた。
「どうしたものかねえ」
 視線は縁の下に向けられている。真似して私ものぞき込んでみると、――いた。膝を抱えて、顔を伏せて、もともと小さな体をいっそう縮こめて、萃香さんが座っていた。隠れていた、と言ったほうが正確かもしれない。薄暗いところにいるのと、あまりにも心の声が弱かったのとで、ぜんぜん気づかなかった。
「おーい萃香、出ておいでー」
 霊夢は腋が丸見えなのにもかまわず、日本酒の一升瓶を顔の高さに掲げて、振り子のようにぶらぶらと振ってみせた。
「うちのお酒、飲んでいいからさー。そりゃ、ぜんぶ飲み尽くされちゃさすがに困るけど、二本までだったら……いや、三本……ええい、五本! 五本までなら飲んでもいいからさー」
 萃香さんはちらりと目を上げて、すぐにまた下を向いて、よわよわしく首を横に振った。霊夢は腋が丸見えなのにもかまわず、しばらく一升瓶を揺らしていたけど、そのうち諦めたようなため息といっしょに腕を下ろした。
 ……え、どゆこと、これ? 予想外の状況で、ちょっと混乱してきた。
 霊夢の心を読んだ限りでは、萃香さんは博麗神社のお酒に手をつけていない。止められたわけでもないのに、一滴も飲んでいない。ここに来たときにはすでにあんな状態で、それからずっとああしている。霊夢は、これが初めて見る萃香さんの素面だと判断して、むしろお酒を勧めているのに、ぜんぜん乗ってこない。
 というか、素面だと弱気で人見知りになるとは聞いてたけど、こんなにひどいの? まるで別人だよ。かなり気を許してるはずの霊夢ですら、まったく言葉を交わすこともできてないし、顔もまともに見れないみたいだ。
「難儀だこと」
 どこからともなく聞こえてきた声に、霊夢は振り向いた。ちょうどその視線の先で、空間にスキマが開いて、八雲の紫さんが上半身を出してきた。
「あー紫、これ、あんたの仕業?」
 霊夢が萃香さんを指さす。紫さんはだるそうにかぶりを振った。
「知らないわ」
【知らないわ】
「ふーん。でも、あんたのほうが付き合いははるかに長いんだし、心当たりくらいは何かないの?」
 放り投げるように言われて、紫さんは「そうねえ」とつぶやきながらスキマを抜け出した。縁の下の萃香さんに向かって歩き、でも手は届かないだけの距離を残して止まり、しゃがみ込んで顔の高さを合わせた。
「事情を話してもらえないかしら。話せることだけで構わないから」
 いつになく穏やかで包容力のある話し声は、いかにも優しいおば……お姉さん、って感じだ。萃香さんは顔を上げた。霊夢に向けるよりは、まだ怯えていない表情だ。
「千年の友情に免じて、ね?」
「……うん」
 蚊の鳴くような声で、萃香さんはうなずいた。
「まず、伊吹瓢はどうしたの? あなたがあれを、うっかりか何かでなくすとは考えられないのだけれど」
 萃香さんは黙ったまま、どう答えるべきか困ったような顔で、ふるふると首を横に振った。
「どこかで落とした?」
 ふるふる。
「置き忘れた?」
 ふるふる。
「盗まれた?」
 ふるふる。
 紫さんはひとつ息をついて、顎を右手に乗せた。
「お酒、飲みたくないの?」
「……飲みたい」
「神社のを飲まないのは、どうして?」
「待って……いや、焼け石に水、だから」
「まあ。神社の台所事情を考えて、遠慮しているのね」
 すこし間を置いて、萃香さんはこくんとうなずいた。
「それから、分銅もひとつ足りないようだけど」
「……貸した」
「貸した? ということは返ってくるのよね」
 こくん。
「誰に貸したの?」
 ふるふる。
「もしかして伊吹瓢も、そのひとに貸した?」
 ふるふる。
「伊吹瓢を探してあげたいのだけれど、何でもいいから心当たりを教えてもらえないかしら」
 ……ふるふる。
 うーん、なんだかよくわからないけど、萃香さんは私とのことを話すつもりはないみたい。どうして? こっちにとっては好都合なんだけどね。というか実は、瓢箪を盗ったのが私だってこと、気づいてないのかなあ。だとしたら、見つからないようにこっそり返せば一件落着、ってことで済ませられるかも。
 紫さんは大きく息をついて、立ち上がった。くるりと萃香さんに背を向けて、とたんに表情が険しくなる。
【伊吹瓢をどこかに落としたり忘れたりというのは、やはり考えにくい。息をするように酒を飲む子だもの。手元になければ十秒で気づいて、すぐに探し出すはず】
 私に盗られた後、ぜんぜん気づかずに行っちゃったけどね。
【だとしたら、誰かに盗まれたか。だけど、萃香から伊吹瓢を盗めるほどの技術を持った者が、果たして存在するかどうか。私でも難しい。魔理沙程度ではとうてい無理だ。十六夜咲夜あたりの能力なら――どうかしら】
 意外と隙だらけだったけどね。
【まさか、力ずくで奪った? いいえ、そんなことができる者なんて、それこそ存在するはずがない】
 そこは同意。同じ鬼の勇儀さんなら、五分の確率でできるかも。命をかける覚悟で、っていう条件付きだけど。
【いずれにしても、ただごとではないわね。私自身で動いてみるか】
 わーお。式神を使うんじゃなくて、御自身で出張りますか。しかも眉間に深く皺が寄って、かなりこわいですよ。ますます、これはまずいことになってきたっぽい。
 にしても、萃香さんはどういうつもりなんだろう。心を読もうにも、声が小さすぎてよくわからない。気弱なひと、気弱なときには心の声も小さくなるものなんだけど、ここまでひどいのは珍しい。
 こんな状態、一秒でも早く抜け出したいはずなのに。どうしてお酒を飲まないんだろう。どうして紫さんに瓢箪を探してもらわないんだろう。わからない。気になる。心の声を聞き取れるように、もうすこしだけ近寄ってみよう。
 ふと、萃香さんの視線が上がった。何かに気づいたように。
 ――目が、合った!
【……伊吹瓢、返して】
 気配を消すコツは、隠れようとしないこと。でも、無理だった。足が勝手に動いて、気づけば木の陰に飛びのいていた。
 なに? なに? 私が盗ったってこと、わかってたの?
 今、瓢箪は袋の中に入れていて、外から見ても絶対にそうとはわからない。だから、もともと知ってたんだ。瓢箪を盗んだのは私だってこと。
 だったら、余計にわからない。どうして私のことを、紫さんや霊夢に言わなかったの? 鬼の誇りってこと? そんな状態になってまでやせ我慢するほど、鬼にとって誇りって大事なものなの?
「んー、萃香、なに見てんの」
 腕を組んで腋を隠しながら、霊夢が訊ねた。まずい、見つかる! ……と思ったら、萃香さんは体を霧にして縁の下から這いだし、神社の裏手へと向かった。
「あれー、ちょっと、どこ行くのー」
 見当はずれな方向を見まわして、霊夢が呼びかけた。ん、萃香さんの位置がわかってない? あの、馬鹿みたいに勘の鋭い巫女が? 紫さんも難しい顔をして、誰もいない縁の下を見つめていた。
 萃香さんの霧が、ざわ、と鳴った。私を、私だけを手まねきしている。



 うす暗い森の中、萃香さんは実体化して私を待っていた。
 うーん、追いかけてる途中で思ったんだけど、これっていわゆる『てめぇちょっと裏まで来いや』ってやつじゃないよね?
 まあ、その心配はないと思う。だって萃香さんはさっきと同じように膝を抱えて、おどおどした目で私をちらっと見てはすぐに目をそらして――って、なにこれ。端から見たら、私がいじめてるみたいじゃない。なにこれ。
「あの……」
 声をかけてみたら、萃香さんは肩をびくんと震わせた。いやいやいや、あなたがここまで連れてきたんでしょうが。なにこれ。
 ふたりして、黙り込む。
 私の顔を潰さないように、ってことだとは思うけど。あのふたりに私の秘密がバレないように気を遣って、ここに来た。瓢箪を盗まれて散々な目にあってるのに、鬼っていうのはすごいのか、馬鹿なのか。感動しちゃうね、まったく。
 もういいや、さっさと返して、さっさと謝って、さっさと帰ろう。私は分銅の鎖を体からほどきながら、近寄っていこうと――したとき、萃香さんの頭の部分だけ、形が崩れた。
 霧が漂ってきて、私の顔を包む。
 頭の中で、見知らぬビジョンが再生を始めた。これは、萃香さんの記憶? サトリの能力に働きかけて、過去を見せようとしている?
 いったい、何のつもり――考える余裕もなく、私は霧の力に意識を奪い取られた。



 O)))



 夏には涼しくもじめついた空気が立ちこめる。春と秋には肌寒く、冬にはいっそう冷たく肌を刺す。暗がりに見えるのは岩肌ばかりで、ただ虫の音はいやによく響く。
 瀕死の状態で逃げ込んで以来、数十年。険しい山中にあるこの洞穴が、萃香にとっては世界と同義だった。
 自業自得だったと、つくづく思う。
 生まれてからいくらもしないうちに、酒の虜になった。自分が強く、大きくなったような感覚に浸らせてくれる、魔法の水。毎夜浴びるように飲み、潰れ、目が覚めるとまたすぐに酒を欲した。
 元々、よほど体質が合っていたのだろう。見る間に、酒に強くなった。浴びるほど飲んでも潰れなくなった。満足に酔えるまで、大量の酒を必要とするようになった。そしていつしか、酒がなければ半刻も耐えられなくなっていた。
 酒を求めての彷徨。民家を一軒一軒襲い、酒屋を見つければ当然襲い、酒蔵を見つければ小躍りして襲い、飲み尽くすとまた次へと向かった。襲われる側のことなど、頭にもない。抵抗する者をひねり潰せるだけの力があることが、逆に悪かった。
 付いた異名が、酒呑童子。
 たまりかねた人間たちの策略にかかり、命からがら逃げ出した。
 洞穴で長い年月をかけて傷を癒しつつ、よくよく考えてみるだに、嫌気がさしてきた。卑劣な手段を用いて騙し討ちをかけた人間たちは、許せない。だが、そこまで人間たちを追い詰めてしまった己の所業を思い出してみれば、同じくらいに許し難いものだった。
 きっぱりと酒を絶った。どうしようもないほど弱気な、素面の己と向き合った。岩肌を眺め、虫の音を聞き、長い年月を過ごした。こんな山奥の洞穴を訪れる者などいない。孤独が心を蝕んだ。それもまた、受け入れるべき罰なのだと萃香は思った。
 こんな山奥の洞穴を訪れる者など、普通はいない。が、ただひとり、例外がいた。
「こんばんは。星がきれいね」
 雨音が響く洞穴に、今日も今日とて大徳利をぶら下げて現れたのは、八雲紫だった。
 こんな天気で、こんな場所で、星なんて見えるはずもない。わかっていてそんなことを言うのは、もしかして馬鹿にしているのか。いくつもの言葉は萃香の肚を転がりまわって、そのうちにすり減って消えた。
「一緒に飲みましょう」
 萃香はうつむいたまま、黙って首を横に振った。しかし、この程度であっさりと引き下がってくれる相手ではない。
「ねえ、いいじゃないの、減るものでもなし。一升だけ、ね?」
 いいかげんにしてくれ。萃香は小さくため息をついた。
 連日だ。雨の日も風の日も、晴れの日も雪の日も――宵の口になると、決まって飲みの誘いにくるのだった。断っても、わりとしぶとく食い下がってくる。四半刻ほどで諦めて帰っていくが、翌日にはまたやってくる。嵐の日も、雷の日も。
 場所がどうあれ、天候がどうあれ、紫にとっては苦のない訪問なのかもしれない。スキマを使えば、寝床とこの洞穴を直結することだって造作もないのだから。ただ、惰眠を貪ることに定評のある彼女が、こうも律儀に、こうも根気強く、毎夜毎夜訪ねてくるとは。萃香は辟易するよりもむしろ、気色悪さを覚えていた。
「さて、何故でしょう」
 よく晴れた満月の夜、紫は掴みどころのない微笑を浮かべて言った。
 洞穴から出て空を見てみたわけではないが、萃香にはよくわかる。空にはまばらな浮き雲しかなく、月は完全なる円形を成している。気の流れと、自らの力の疼きによって、自然と知ることができた。
 何故でしょう、だって? 知るか。
 いつもなら、吐き捨てるような言葉は肚の中を転げまわるだけで、音として表に出てくることはない。ところが、その夜は違った。数百回にも及ぶ紫の訪問によって、外に出なかった言葉たちの残骸はもはや山のように積み上がっており、肚の中は満杯になっていた。
 ほんの気まぐれにも押されて、口から言葉が転がり出る。
「……知らないよ」
 そのひと言だけで紫は勝ち誇った表情になり、間近から萃香の顔をのぞき込んできた。
「意味なんて、あるのかしらねえ?」
 自分が勝手にやっていることの意味を、自分から話題に出しておきながら。馬鹿にするにも程がある。
「帰ってよ、もう」
「一緒に飲んでくれたら、明け方には帰りますわ」
 ふざけている。萃香はきつく口を閉ざした。
「あら、せっかく少しだけ話してくれたと思ったのに。また、だんまり?」
 紫はいっそう顔を近づけてきた。長い髪の先が、萃香の角にかかっている。
「でも、観念なさい。今日という今日は、無理矢理にでも飲んでもらいますわ」
 無理矢理? できるものか。萃香は身をこわばらせた。
 紫は滑るような動きで、二歩、三歩、後ろに下がっていく。手元にごく小さなスキマを開くと、そこに徳利の中身を、とくとくと流し込んだ。
 萃香はわけがわからず、身構えたまま、一連の動作を眺めていた。すると、急に体が揺らいだ。紫のではなく、自分の体が、だ。次いで視界が猛烈な勢いで回転を始め、顔がたちまち火照ってくる。――酔っている? 酒など一滴も飲んでいないのに?
「何を……した」
「これを直接、流し込んでみましたわ。膣内に」
「なっ」
「酒虫で作った強烈なお酒を、下のお口で直飲み。やはり早いわね」
「ふざけ――」
 どぐん、と脈打つ音。伊吹萃香の中に確かに存在し、しかし長らく封じ込められていた部分が、頭をもたげ始めていた。こうなると、もう止めることなどできない。折悪くも今夜は満月だ。抵抗すらできず、萃香は酒呑童子へとすっかり立ち戻ってしまった。
「ぶわっはっはっはっはっはっは!」
 轟音に等しい笑い声が、ごく自然に口から放たれた。洞穴の壁面はそこかしこがひび割れ、風圧に紫の髪がなびいた。
「鬼に飲み比べを挑むつもりか! いい度胸だ、気に入った!」
「光栄ですわ」
「しかし、酒はあるんだろうな。樽の一本や二本で足りると思うなよ」
「ご心配は無用かと」
 紫はスキマを大きく開き、その向こうを指し示した。どこかの酒蔵なのか、巨大な酒樽が整然と並んでいる。紫の所有物というわけでもないだろう――が、構うものか。スキマの入り口をまたぎながら、萃香は手の甲で涎をぬぐった。
「ふん。これだけあれば、まず喉を湿らすには充分か」
「まあ、頼もしい。では、式神に二軒目、三軒目を用意させておきますわ」
「うむ。まずは一献」
 萃香は一本の酒樽を片手で持ち上げ、投げて渡した。紫は両手とスキマをうまく使って、よろめきながらもなんとか受け取った。
 自分も一本取って、蓋を叩き割る。それから、ぐい飲みでも持つように高く掲げて、
「乾杯!」
 いったん口をつけたら、あとは傾けていくだけだ。酒樽一本をひと息で空にすると、ぷはぁ、と言いながら地面に叩きつけた。酒樽は木端微塵に砕けた。
 見ると、紫は引きつった笑みを浮かべたまま、自分の酒樽の前で固まっている。
「どうした。あんたが用意した酒だ、遠慮せず飲め飲め」
「……いただきますわ」
 紫はどこからか柄杓を取り出して、放り込むように口に酒を流し込んだ。
「ははは、おとなしい飲みっぷりだな! 手本を見せてやる、ついてこい!」
 萃香はまた新たな酒樽を手に取った。久方ぶりの酒宴は、まだ始まったばかりだ。



 一軒目の酒蔵が、あらかた空になってしまった頃。
 一本目の酒樽をまだ三分の一ほど残して、紫の手はぴたりと止まってしまった。
「どうしたどうした、これで終いか? だらしないぞ」
「……まだまだ、いけるわ」
 蒼白な顔で、紫は酒樽にしがみついた。肩で息をしながらも、なまめかしい手つきで長い髪をかき上げ、柄杓に口を近づけて、
「うぷ」
 すんでのところでスキマを開き、中に顔を突っ込んだ。
「おろろろろろろろろろろろろ」
「おー、おー」
 背中を撫でてやると、紫は顔を出さないままで少し咳き込み、また軽く吐いて、そのまま動かなくなった。だらりと垂れた腕の先が、ときおり小さく痙攣している。
「こりゃ、もう無理かな」
 ひとりごちて、萃香は酒樽を背に腰を下ろした。
 単純に酒の量だけでいえば、まだ飲み足りない。けれど、胸は不思議と満たされていた。何十年ぶりなのか、正確にはわからないほど久しぶりに、欲求のまま酒を流し込んだおかげか。あるいは、八雲紫の持つ魅力のおかげか。とにかく、常に萃香を苛んできた猛烈な渇きは、どこかに消えてなくなっていた。
「こんないい酒、初めてだ……」
 そのうち萃香も、眠気に襲われてきた。
 こんなに幸せな気分で眠りに就けるのも、初めてかもしれない。萃香はスキマからぶら下がった紫を眺めて、それから、目を閉じた。



 目が覚めたとき、萃香はひとり元の洞穴で寝転がっていた。紫の姿は消えていた。
 酔いはすっかり醒めていた。ほとんどひとりで酒蔵ひとつ飲み干しても、寝て起きればこんなものだ。
 ひどい自己嫌悪が、たちまち萃香を包み込んだ。もう二度と酒など飲まないと心に決めていたのに、何だこのざまは。恥ずかしさと情けなさに、思わず両手で顔を覆った。
 洞穴の一番奥で、萃香は膝を抱えて一日を過ごした。その日、紫は来なかった。



 次の夜、紫が姿を現した。
「ごきげんようー。さあ、飲みましょう」
 萃香は目を上げて、胡散臭さの塊を睨みつけた。
「飲まない」
「あら、一昨日は一緒に飲んだじゃない」
「あんなの……」
 不意打ちで最初に酒を流し込まれた、そのやり口に、腸が煮えくり返っていた。
「騙し討ちみたいなものじゃないか、ふざけやがって!」
「ふふ。楽しそうな顔で、酒蔵をほとんどまるまる飲み尽くしたのは誰だったかしら」
「あれは――酒呑童子だ。本当の私じゃない」
「多重人格でもあるまいし。素面の姿が本物で、酔った姿が偽物だとでも?」
「うるさい! 酒呑童子はもう死んだはずだったんだ、それなのにあんたが!」
 妖気が空気を震わす。洞穴の壁から、砂や小石が崩れ落ちた。
 紫は激昂する鬼を眺め――そして、嬉しそうに頬を緩めた。
「何がおかしい!」
「いや、ね」
 紫はふふっと声を漏らし、
「今日は随分と、元気に話してくれるのね」
「えっ」
「何百回も訪ねて、数えるほどしか喋ってくれなかったのに。やはりお酒が、あなたの心を解してくれたのかしら」
「違う……」
 否定してみても、紫は嬉しそうに笑うばかりだ。
「酔ったときのあなた、すごく素敵な顔をしていたわよ。お酒の楽しさを思い出せたのではなくて?」
「そんなの、忘れた」
 いっときの楽しさを得られるとしても、それがために嫌悪や憎悪を呼び寄せてしまうのだとしたら、もう酒などいらない。萃香は膝を抱える手に、強く力を込めた。
「もう、私に構わないでよ。飲みに誘いたければ、他に誰でもいるだろ」
「そうねえ……」
 紫はスキマから降りて、萃香の隣に腰を下ろした。スカートの裾が、萃香のつま先にかかった。
「確かに、妖怪は他にいくらでもいる。友人と呼べる存在も、それなりには持っている。それでも私がしつこくあなたを誘う理由、わかるかしら」
「知らないよ」
 突き放すように言ったつもりが、どこか拗ねたような口調になってしまった。
 萃香と同じように、紫も膝を抱えてうつむいた。
「私は大妖怪であり、妖怪の賢者」
 自分で言うか、と萃香は心の中で苦笑した。
「それは動かしようのない事実だし、他者からもそう呼ばれるようになって久しい」
 苦笑しつつも、不思議と嫌な気分ではなかった。
「大層な称号なんて、息苦しいものよ。ねえ、『酒呑童子』さん?」
 心の中だけで、小さくうなずく。
「弱味だとか、みっともない姿だとか、誰にでもは見せられない。私は大妖怪であり、賢者だから。飲みすぎでゲロ吐いたりは、ね」
 一昨日の、酔い潰れた紫を思い出してみる。そこには一匹の、ただの妖怪の姿があった。
「対等な友人が欲しかった。何も気取らず、あるがままの自分をさらけ出せる相手が。そして、それにふさわしい力を、あなたは持っていた」
 身も蓋もない言い方だ。だが、だからこそ、本当に自分が求められているのだと、強く感じることができた。
 紫はスキマから取り出した瓢箪を、萃香に差し出してきた。
「これの内面には酒虫の体液が塗ってあって、酒が無限に湧いてくるわ。強さは、アルコール度数にして二千四百度相当。鬼だって酔わせる代物よ。これをあげる」
「えっ、そんなすごいもの、もらえないよ……」
「いいから、もらってちょうだい。お近づきのしるしとして。どうせ私にはきつすぎるんだから」
 有無を言わさず、紫は瓢箪を萃香の手に押しつけた。
 なみなみと中身が詰まっていることを伝えてくる、心地よい重み。栓をしていても漂ってくる酒気。萃香はまじまじと眺めながら、瓢箪の手ざわりを粛々とした気分で味わった。
「幻想郷」
 紫は顔を上げて言った。
「と、いうものを作ろうと考えているのよ」
「ゲンソウキョウ?」
「妖怪と人間の住み分けは、絶対に必要になってくると思うの。完全に隔離してしまうわけにもいかないけれど、互いに不可侵の部分が消えてしまいつつある現状も、長く保つものではない。だから私が、妖しき者たちの楽園を作る。幻想が現実を、夢が現を支配する世界」
「それが、幻想郷……」
「そう。すでに数人の鬼とも話はつけてあるから、あなたも飲み比べや力比べの相手には事欠かないはずよ。酒呑童子の居場所だって、見つかるはず。だから、」
 紫は白く冷たい指を、萃香の小さな手に絡めた。
「あなたにも来てほしい。私の、幻想郷に」
「……」
 空いているほうの手で、萃香は瓢箪の栓を抜いた。芳醇な香りが漂ってくる。割れ物を扱うように、少量を口に含んだ。酒は透き通るように、喉から臓腑へと染み込んでいった。
 栓をして、瓢箪を置く。そっと紫の手をほどいて、足にかかったスカートもどかした。
「わかった」
 萃香は勢いよく立ち上がった。
「でも、待ってほしい」
「あら、何かあるの?」
「うん、ちょっとね」
 萃香は瓢箪を拾い上げ、またひと口飲んだ。
「もっと、世の中をよく見てからにしたいんだ。ずっと閉じこもってばかりだったから、いろいろ見て、いろんな奴と会って、もっと広い世界を知りたい」
「そう……」
「ごめん。でも、それが終わったら絶対に行くから。紫の、幻想郷に」
「ええ、待っているわ」
 紫はスキマを開き、体の右半分を入れた。
「それまでに、素敵な箱庭を用意しておくわ」
「楽しみにしてるよ」
「ただし、定員一杯になったら入れてあげないからね」
「だったら、のんびりとはしてられないな」
 萃香は笑った。紫も笑って、スキマの向こうへと消えていった。
 ひとり残ると、今更ながら洞穴の中は静かすぎた。静かすぎて、耳が痛くなってくる。瓢箪を勢いよく傾け、酒で思いきり喉を鳴らして、静寂を追い払った。
 さて、まずはどこに行こうかね。洞穴を出て見上げた空には、少しだけ欠けた月が眩しいほどに輝いていた。



 O)))



 萃香さんの記憶がフェードアウトして、入れ替わりに視界が戻ってきた。
 頭がくらくらする。サトリの能力を無理に使わされたせいだ。音声だけじゃなくて映像も、しかもあれほど鮮明に見せられたら、さすがに負荷が大きすぎた。脳味噌の容量をほとんど食われて、ものを考える余裕があまり残っていなかった。
 萃香さんは目を泳がせながら、ちらちらと私のほうをうかがっている。こんなもの見せて、どういうつもり? いや、だいたいはわかるんだけど。
「ねー萃香ー、どこー?」
 やばっ、霊夢の声だ。かなり近い。
 見つからないうちに逃げなきゃ。存在を消していられるのなら逃げる必要なんてないんだけど、やっぱり霊夢は勘がいいから危険だ。それに、いまの私がまともにステルス性能を発揮できるのか、まったく自信がなかった。
 あ、でも、瓢箪と分銅を返さなきゃ。それに、謝らないといけないし。いや、そんなことしたら霊夢に見つかってしまう。もう足音だって聞こえてるんだから、ここに来るまで何十秒もかからないはず。もう行かなきゃ。いやでも、瓢箪と分銅は返さなきゃ。それで謝らなきゃ。いやいや謝ってる時間なんてあるわけない。でも瓢箪と分銅は返さないわけにはいかない。どうしよう。ああもう霊夢が来る。どうする古明地こいし、どうする。どうする。
 だぁー、もう!
 私は瓢箪と分銅を、自分の足下に置いた。ごめんなさい、と口だけ動かして、萃香さんに背中を向けて、駆けだした。逃げだした。
「あ、萃香、いたいた。ねえ、さっきまでもうひとり他にいなかった? ……ん、これ、あんたの瓢箪じゃないの」
 霊夢の声にも振り向かずに、森を駆けぬけて、頭上が開けたところで空に飛びあがった。
 心臓がばくばく鳴っている。息苦しくて喉が破れそうだ。頭痛と吐き気がまたぶり返してきた。それでもスピードを緩めずに、地底の入り口めざしてひたすら飛んだ。
 ……あー、何やってんの私。こんなの、謝ったことにならないよ。でも、いまさら引き返すこともできない。萃香さん、また怒っちゃうかなあ。
 本当、どうしよう。とりあえず帰ってからじっくり考えて……あー憂鬱。



 自分の部屋に帰るなり、ベッドに潜りこんで頭から布団をかぶった。
 萃香さん、やっぱり怒ってるんだろうなあ。もうブチギレかもね。でも、私が瓢箪を盗んだってことは、霊夢や紫さんには言わないんだろうな。私が心を読めるってことも、誰にも言わないんだろうな。
 はぁ、情けない。鬼の義理堅さを当て込んで、ちょっと安心しちゃってる自分が、どうしようもなく情けない。軽蔑されてる相手に、こんなにも何から何まで助けてもらっといて、素直に感謝もできない私って、なんなの。
 頭の中がむずむずする。考えれば考えるほどいろんなものがこんがらがって、身動きひとつ取れなくなってしまいそうだった。
 布団を蹴飛ばして、ベッドから飛び出した。
 駆けだす寸前の早歩きで、廊下を進む。途中で飼料庫に寄って、チモシーの乾草をひとつかみ手に取った。また早歩きで、向かう先はペット宿舎。
「エーちゃん」
 声をかけると、立ったまま居眠りしていたエーちゃんは、愛想よく馬房から首を出してきた。それから目ざとくチモシーを見つけると、目をまん丸にしてブヒブヒ鳴いた。かわいい。
 チモシーを差し出すと、エーちゃんは勢いよく食らいついた。短い切れはしをぼろぼろこぼしながら、幸せそうな顔で口をもごもごさせる。かわいい。
 ペットといっしょにいるときが一番、気持ちが安らぐ。
 でも、これじゃ立場が逆だよね。私が主人なのに、ペットに慰めてもらおうだなんて。こんな情けない主人、エーちゃんもいやだよね。お姉ちゃんみたいな、もっとちゃんとした主人に飼われてたほうが、エーちゃんも幸せだったのにね。
 ごめんね。
 エーちゃんは大きな目で私の顔をじぃっと見て、それから、ぶふーと鼻息を吹きかけてきた。
【こいしちゃん、大丈夫?】
 うん、大丈夫。私は大丈夫だよ。だから、心配なんてしなくてもいいよ。
 エーちゃんはいい子だね。こんな駄目な主人でも、優しく気にかけてくれる。時間が経てば、お燐やお空にも劣らない立派な妖怪になれるよ、きっと。
 おでこをなでてあげると、エーちゃんは気持ちよさそうに目を細めて、私の胸に顔をこすりつけてきた。
 ……あれ?
 さっき、心の声が――聞こえた?
「うえぇっ!?」
 思わず飛び下がる。背中が壁にぶつかって、かけてあった道具がいくつか地面に落ちた。派手な音に、エーちゃんは驚いて頭を高く上げた。
 こいしちゃん、大丈夫、って……あれは確かに、心の声として読み取れたものだった。んで、初めて聞く声だったけど、声質とか方向とか考えたら、エーちゃんのものだったとしか思えない。
 それはつまり、エーちゃんの妖怪化が、ある程度のところまで進んでいるということ。
 どうしよう――最初に頭に浮かんだ言葉は、それだった。普通なら、主人としては喜んで当然のはずなのに、いまの私はうろたえている。エーちゃんとの関係が次の段階に進もうとしていて、それはつまり今までどおりの関係をそのまま続けるわけにはいかないってことで、じゃあ新しい関係を作り直すときに今よりいい関係を取り結べるかっていうと、そこはまったく自信が持てなくて。
 そりゃそうだ。お姉ちゃんに甘えてばかりで、苦しいことから逃げてばかりで、お燐やお空にすら嘘で塗り固めた自分しか見せられなくて、毎日のようにお空の下着をもぐもぐせずにはいられなくて。エーちゃんが人型になって、高い知能を身につければ身につけるほど、こんな私のことなんて軽蔑するようになるに決まってる。
 どうしよう。待ってよエーちゃん。まだ変らないでよ。私、まだ心の準備ができてない。
 たまらなくなって、走りだした。ペット宿舎を出て、廊下を抜けて、自分の部屋に飛び込んで、力任せにドアを閉めた。
 床にへたりこんで、何度も何度も深呼吸をする。息の乱れが収まらない。鼓動が落ち着かない。咳き込んだら、涙が出そうになってきた。
「こいし」
 ドアの向こうからお姉ちゃんの声と、ノックの音がした。
【入るわよ】
 ちょっと怒ってる。ていうか、もうドア開けてるし。
「ドアは静かに閉めなさい。それに、これ――」
 言いかけて、お姉ちゃんは口を半開きのまま止めた。私の心を読んで、何があって私が何を思ったのか、ぜんぶわかったからだ。
 ……読まれたくなかったな、今の気持ちは。
 お姉ちゃんはため息をついて、手に持っていたものを差し出してきた。
「あなたのペット宿舎、ちゃんと片づけなさい。これとか下に落ちていたわよ」
 ああ、壁にぶつかったときに落ちて、そのままだったんだ。私はそれを受け取って、じっと眺めた。
 プラスチック製の汗こき。
「それと、エーちゃんが不安がっていたわ」
 うん、それ私のせい。最低の主人だ。
【こいしのこと、よほど好きなのね】
 はっとして、顔を上げた。お姉ちゃんはもうドアを開けていて、こっちには顔も見せずに、しれっと出ていった。
 もういちど、手元に視線を落とす。
 汗こきに魅せられて数十年。コレクションはもう五百本近いけど、そのほとんどは金属製で、プラスチック製のはこの一本だけ。
 金属製のは全体から無骨な色香がにじみ出てて、見てるだけでも下腹部がきゅんきゅんするんだけど、プラスチック製のはそういう感じがしなくて、べつに欲しいとは思わなかった。でも最近はプラスチック製のも人気があるって聞いて、じゃあ汗こき愛好家としては一本くらい持っとかなきゃと思って手に入れたんだけど、結局はいちども使わないまま、壁のオブジェになってしまってた。
 手の中で、弄んでみる。けっこう軽い。それに馬体に当てる部分はゴムでできていて、これなら優しい接触で、しかもしっかりと水気が切れるかもしれない。
 力を込めて、握りしめてみた。ラバーのグリップがよく手になじんで、ちっとも痛くなかった。
 そうか。そうなんだ。
 私は立ち上がった。部屋を出て、地霊殿を出て、全速飛行で地上へと向かった。



 博麗神社のまわりにはお酒のにおいが立ちこめていて、息をするだけでめまいがしそうだった。
 いつものことと言ってしまえばそのとおりなんだけど、それにしたって今日はひどい。大宴会でも開かれてるのかと思って見てみたら、三人しかいなかった。霊夢と、紫さんと、萃香さん。
「ぶはー! やっぱりコレがないと始まらないね」
 瓢箪片手に、萃香さんは顔を真っ赤にしている。それを眺めて、霊夢は呆れていた。
「よくそんなきつい酒、がぶがぶ飲めるわね」
「鬼にはこれくらいがちょうどいいんだ。逆に言えば、鬼を満足に酔わせられるのはコイツくらいなもんさ」
「ふーん」
 霊夢は冷たく言って、じめついた目を向けた。
「そんな大事なもの、知らないうちになくすだなんて。しかも、偶然見つかるだなんて。どう考えても怪しいのよね」
「世の中には、怪しいことが山ほどあるんだよ」
「ふーん」
 霊夢はまた、冷たく言った。
「ま、どうでもいいけどね。萃香がいいならそれで」
「そうそう。細かいことはどうでもいいんだよ、私は」
 言って、萃香さんはまた瓢箪のお酒を呷った。横から紫さんが、スルメをくわえたままで口を挟む。
「お節介なんて、霊夢の柄じゃないわね。あなたは阿呆みたいな顔して、縁側でお茶でも飲んでいればいいのよ」
「へーへー、どうせ私は阿呆面の無気力巫女ですよ。明日異変が起こったって、もう紫に協力なんてしてやらないんだから」
「拗ねた霊夢が一番かわいいわ」
「うるせえ」
 霊夢はふくれっ面をグラスで隠した。
 他のふたりの笑い声が、軽やかに響く。気兼ねのないお酒の席――いいなあ、と思った。
 と、萃香さんと目が合った。途端、酔いの色は消えて真顔になる。
 背骨が急に冷たくなった。
「よっと」
 萃香さんは立ち上がった。何かと思って見上げたふたりに、何でもないような調子で告げる。
「ちょっくら小便」
 行っといで、と霊夢は手を振った。紫さんは何かあると気づいたけど、知らん顔でスルメをしゃぶった。
 ちらっと私を見て、萃香さんは神社の裏手にまわる。前も誘い出された森の方向だ。心の中でひとつうなずいて、私も後を追った。



「ごめんなさい!」
 向かい合う時間に一秒も耐えられず、私は腰を直角に折った。
「顔、上げなよ」
 萃香さんは言ったけど、私は頭を下げたままでいた。ため息が聞こえた。
「いや、実は私もちょっと後悔してたんだ。最初のときカッとなって、ついついきつく言いすぎたかなって」
「でも、単に腹が立っただけじゃなくて、私のためを思って言ってくれた部分もあるんでしょ?」
「さあね。そんなご立派な脳味噌は持っちゃいないよ」
「なのに私は逆ギレして、大事な大事な瓢箪を盗んじゃった」
「あのときは私もぼんやりしてたね。まあ、こうして手元に戻ってきたんだから、いいってことさ」
「本当、いくら謝ったって足りない」
「もういいってば。ほら、頭上げろよ」
「よくない。私の気が済まない」
【まいったね】
 萃香さんが頬を掻く気配が、伝わってきた。
【許してやるって言ってるのに、面倒な奴だな】
 うん、萃香さんには迷惑かけてばっかりだね。でも私は、ここで変わらなきゃならない。もうひとつだけ、わがままを言わせて。
 紫さんが背中を押してくれたおかげで、萃香さんは変わることができた。あんなものを見せて、言いたかったのはそういうことでしょ? 図々しいようだけど、もうすこし付き合ってもらうよ。こんどは萃香さんが、私の背中を押してください。私に、変わるための勇気をください。
 いちにのさん、で頭を上げた。おなかに力を入れて、正面から萃香さんの顔を見る。よし、言うよ。
「な、なななななな殴ってください!」
 噛んだってレベルじゃないね。萃香さんは呆気にとられた顔で、私を眺めた。
「殴れ、って?」
「はい! グーで、顔面を、殴ってください!」
【何を言ってるんだ、こいつ】
 萃香さんは手で顔を覆った。
「私は、あまり手加減ってものはできないぞ」
「かまいません!」
「痛いぞ」
「のぞむところ!」
「怪我するかも」
「やってください!」
【猪木か何かと勘違いしてるんじゃないだろうな】
 腕を組んで、萃香さんはしばらく考えを巡らせた。それから、頭をぐしぐしと掻きむしって、にかっと笑った。
【ええい、うだうだ考えるのは面倒くせえ】
「よく意味はわからんが、その根性は気に入った! 殴ってやる!」
「ありがとうございます!」
「歯を食いしばれ!」
「はい!」
「目はつぶるなよ!」
「はい!」
「よし、喰らえ!」
 目は開いていたはずなのに、その動作は、速すぎて私には見えなかった。気づけば鬼の拳が、左の頬に食い込んでいた。
 頸椎がねじれる。背骨がよじれる。私の体は宙に浮いて、厄神様も真っ青の回転を始めた。きっちり三回転半。着地しても止まらず、もんどりうって転がった。
 一瞬、意識が飛んでたんだと思う。次に見えたのは、私の顔の横に立って、手を差しのべる萃香さんの姿だった。
 丸見えのドロワを視線で舐めまわしながら、萃香さんの手を握る。軽々と引き上げられたけど、全身が軋むように痛かった。口の中に硬いものがあったから吐き出してみると、折れた奥歯だった。唾が溜まるなあと思って吐き捨てると、真っ赤だった。
 足元がおぼつかない。つかまるものがなかったら、すぐに転んでしまいそうだ。でも、頭の中は妙にすっきりしていた。少しでも変われたって証拠かな。逃げてばかりの自分が、全部とはいかないけど、いくらかは痛みで押し流されていった気分。
「よし、次は私の番だ」
 腰に手を当てて、萃香さんが顔を突き出してきた。え?
「私が殴られる番だ、ってこと」
「ええっ?」
「ほら、やってくれ」
「で、でも」
「なんだ、私の顔が殴れないってか?」
「いや、あの……」
 どうしろと。
「いいか。一方的に殴ったら、それはただの暴力だ。でも互いに殴り合ったら、それは違う。正面から拳を交えれば、どんなにいけ好かない相手だったとしても、たちまち骨の髄まで理解できるんだ」
「はあ」
「つまりだな。一度でも殴り合ったら、そのときからはもう友人だってことだ」
「友人……」
「ああ。私の友人になるのが嫌じゃなければ、さあ、殴れ。全力で」
 友人? 私と萃香さんが、友人になる?
 心臓が狂ったように鳴っている。息が乱れる。いいの、私で?
「さあ来い」
 萃香さんはぐっと胸を張った。
 口の中に溜まった血を、飲みこんだ。左足を前に出して、腰を沈める。
 足を踏ん張って、腰を回転させて、固く固く握った右の拳を、まっすぐに突き出し、萃香さんの左頬に叩きつけ、体重を乗せて、思いきり振り抜いた。
 萃香さんは一歩だけよろめいて、踏みとどまった。血が、口の端から顎へと伝った。
「っくぅー」
「だっ、大丈夫?」
「あー? 心配無用。ただ、思ってたよりも効いたから、ちょっと驚いただけ」
 萃香さんは親指で血をぬぐって、その指を私に向けてぐっと立ててみせた。
「なかなか、やるじゃん」
 私もなんだか嬉しくなって、親指を立てた。
「ぷっ」
 萃香さんが噴き出した。肩を震わせて、おなかを抱えて、そのうち、口をいっぱいに開いて大笑いを始めた。私もなんだか楽しくなって、涙が出るほど馬鹿笑いした。
「あーははは、よっしゃ、飲むぞー!」
 萃香さんは瓢箪を、私の目の前に突きつけてきた。
「さあ、飲め飲め!」
 えっ。よりによって、これを飲めとおっしゃいますか。二千四百度相当のお酒を、水割り一杯で潰れる私に。
「殴り合って友人になった後は、一緒に酒盛りに決まってるだろ! これで今日から、私たちは大親友だ!」
「大親友……」
「そう、大親友!」
 私の肩に腕をまわして、萃香さんはまた豪快に笑った。大親友――ああ、なんて素敵な響き。これまでの私には無縁だったその言葉は、しみったれた理性を軽く払いのけてしまった。
「いただきます!」
 萃香さんの手から瓢箪を引ったくる。心の壁をぶち壊してくれる魔法の水を、私は喉の奥に流し込んだ。



「おろろろろろろろろろろろろ」
 数秒後、私の意識はゲロの湖に沈んでいった。



 目覚めると、そこはいつもの天井。私は自分の部屋のベッドで寝ていた。
「おはよう、こいし」
 お姉ちゃんの顔がのぞきこんでくる。
「大丈夫?」
 いろいろと、大丈夫じゃないかも。痛くて、熱くて、重くて、だるくて、体がまったく動かない。
「萃香さんが運んできてくれたのよ」
 あー、やっぱり。何から何までお世話になりっぱなしだ。
「気にするな、と言っていたわ。私たちは大親友なんだから、と」
 大親友。
 そうだ、私たち、大親友になったんだ。なんたって、互いに殴り合って、そのあといっしょにお酒まで飲んだ仲だからね。私はあっという間に潰れちゃったけど、でも、いっしょに飲んだことに変わりはない。
 むふふ。
「なあに、こいし。その笑い方、気持ち悪い」
 お姉ちゃんも、ふふふと笑った。やさしくて、やわらかくて、おしとやかな笑い方だ。いつか私も、そういうふうに笑えるようになるかな。
「私は私、こいしはこいしよ。いいから寝てなさい」
 うん。
 いや、まだ。
 いまの私にはまだ、やらなきゃいけないことが残ってる。
「そんなに慌てなくても、体調が良くなってからでいいでしょ」
 だめ。こういうのは勢いが大事なの。
「そう」
 うん、そう。だからお姉ちゃん、永遠亭のよくわからない薬、まだ残ってる?
「あと一本だけあるわよ。はい」
 出た、よくわからない薬入りウコンドリンク。いただきます。
 栓を開けると、独特のいやなにおい。口に含むと、悶えそうなほど変な味。こんなもの、ちびちび飲むもんじゃない。目をつぶって、ひと息で飲み干した。うー、来た来た。ほら、さっきまで身動きできなかったのに、もう起き上がれるよ。
「さすが、濃度が倍だと効き目もすごいわね」
「えっ」
「じゃあ、ふたりを呼んでこようか?」
 いや、倍って……まあ、いいか。確かによく効いてるし。それより、
「いいよ、こっちから行く。それが筋ってもんでしょ」
「あら。呼び付けたって、あの子たちはべつに気を悪くしたりしないわよ」
「私が気にするの」
「こだわるのね。いいわ、思うようになさい」
 お姉ちゃんは私の頭をなでてから、帽子をかぶせてくれた。私は第三の目を壁に投げつけて、部屋から出た。



 目当てのふたりの居場所は、お姉ちゃんに教えてもらっていた。灼熱地獄跡で、休憩中。
 いた。
「お燐!」
 呼びかけると、並んで座っていたお燐とお空が、そろって振り向いた。
「お空も! ちょっと話いい?」
 この距離からじゃ、心の声は聞こえない。ふたりとも不思議そうな顔をしてるのはわかった。
 そりゃそうだね。これまでは、こんな声で話しかけたりしたことなんて、なかったもんね。無意識を装うことばかりに必死で、やたらとふにゃふにゃした声で話してた。
 私が飛び寄るのを待つ間に、ふたりは立ち上がった。
「どうしたんですか、こいし様、って、うにゃああああああああっ!?」
 お燐が私の胸を指さして、絶叫した。
「なによ。まな板おっぱいが、そんなに珍しい?」
「そそそそそそそそそうじゃなくて、どうしたんですか、第三の目は!」
 着けてこなかった。わざと、置いてきた。私がみんなを騙しつづけてきたことを、ふたりに知ってもらうために。
 お姉ちゃんには勢いが大事だって言ったけど、いきなり全幻想郷にぜんぶをさらけ出せるほどの勇気はない。まずは、家族同然のこのふたりに。それから、地霊殿のみんなに。最終的には、幻想郷全体に。エーちゃんが人型になるまでには、本当の私をみんなに知ってもらうんだ。
 面白いくらいに慌ててるお燐とは対照的に、お空は呆けた顔で突っ立ってる。でもそれは、かわいそうなほどの勢いで頭が回転していて、かえって身動きがとれなくなっているせいだった。
【えっ。えっ。第三の目がなくなったってことは、もう絶対に心は読めないってこと? でも、どうして。顔にでっかいバンソーコー貼ってるし……まさか、誰かに引きちぎられた? ぬおー、許さない! 犯人は八つ裂きにして、私の全力全開の核融合エネルギーで灰も残さずにぶっとばしてやる!】
 いやー、やめてー。
「あのね、よく聞いてほしいの。私、嘘をついてたんだ」
 第三の目が、ただの飾りだったこと。ちゃんと心を読めていること。無意識なんかじゃないこと。自分のために、お姉ちゃんにも嘘をつかせてしまったこと。お空の下着をもぐもぐしていること。ぜんぶ話した。
 お燐は目を泳がせながら、両手の爪をこすり合わせていた。
【え、じゃあ、いつもあたいが考えてたこと、こいしちゃんにもぜんぶ読まれてたってこと? まずいよ。こいしちゃんの死体を見てみたいとか、おっぱいが残念だとか、いろいろ聞かれちゃってるよ。感じ悪いなあ。あ、やばい、これも聞かれてるんだ。えと、こいし様ね。こいし様マジ天使。かわいい。大好き】
 お空はあいかわらず呆けた顔で、じっと突っ立っている。
【こいし様、私たちに嘘をついてたんだ。家族と思って、信じてたのに。こいし様のつらさはわかるけど、裏切られた気分。これからこいし様と、どういうふうに付き合っていけばいいんだろう。わからない。よくわからない。頭が痛い】
 ふたりとの距離が、遠く遠く離れてしまった。間には、茨の道ができあがってしまった。これまで長い年月をかけて築いてきたハリボテの関係が、軽々しい音をたてて崩れていく。
 わかってたことだ。変わるためには、いったん崩さなきゃならなかった。
 お姉ちゃんは変わった。お空も変わった。お燐は――どうだろう。エーちゃんも変わろうとしてる。萃香さんは、とっくの昔に変わった。私だけが取り残されるわけにはいかない。
「いままで騙してて、ごめんなさい! それから、ものすごく勝手な話だけど、これからもよろしくお願いします!」
「はあ」
【どうしよう】
 口と、心の声を、ふたりは両方ともそろえた。
 急によそよそしくなったふたりの態度が、胸に刺さる。心を抉る。でも、逃げちゃいけない。これまでずっと逃げていたぶん、これからはちゃんと現実を受け止めて、向き合わなきゃいけない。
 この痛みには、お姉ちゃんも耐えてきたはずなんだ。血まみれになって、血みどろになって、それでようやく、お燐やお空との信頼し合える関係を手に入れたんだ。
 私だって、乗り越えてみせる。



 水滴が宙を舞って、地面に落ちていく。
 ただ今、エーちゃんのお手入れ中。洗い終わって、汗こきをしているところだ。
 プラスチック製の汗こきを初めて使ってみた。使い心地は悪くない。すっと吸いつくように馬体に当たって、しっかりと水気を切り飛ばしてくれる。まあ、芸術性では金属製に劣るけどね。
「エーちゃん、どう?」
 訊ねてみると、エーちゃんは思いきり鼻を鳴らした。
 悪くない、ってことかな。
 あれ以来、エーちゃんの心の声は聞こえない。人型になるには、まだ思ったより時間がかかるかもね。
 だからといって私は、気を緩めたりはしない。すこしでも立ち止まったら、またすぐに弱い自分が顔をのぞかせてくるに決まってるから。
 私とエーちゃんは、どんな主従になるんだろう。
 とりあえず、私のことは『様』付けで呼ばせなきゃね。『こいし様』なんて、本当は柄じゃないんだけど、主人とペットの関係だもん。『こいしちゃん』じゃ格好がつかない。
「ね、わかった?」
 言って、白い首筋をぺちんと叩く。エーちゃんは上を向いて、顎が外れそうなほど大きなあくびをした。
執筆中BGM
Theory in Practice 『Third Eye Function』
汗こきハァハァ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.800簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
ファンキーですね。
3.100名前が無い程度の能力削除
なんつーか、このこいしちゃんはたまんねぇ。
好きになりそうだ。
6.80奇声を発する程度の能力削除
何だか悪くないですね
9.100名前が無い程度の能力削除
こいしのキャラがとても良いですね。このこいしは存在感が薄い程度の能力なのでしょうか。
萃香と紫の馴れ初めを描いた作品はあまり見たことがなかったのですが割と良い解釈だと思います。
10.90名前が無い程度の能力削除
こいしがどうなっていくかみたかったなあ
15.100名前が無い程度の能力削除
ペット二人と本音を語ったこいしちゃんのぎこちない距離感。やがては変わるであろうそのいびつな雰囲気を、もっと見ていきたい。
16.90名前が無い程度の能力削除
こんなしっかりと書く方だとは思いませんでした。驚きました。
17.100名前が無い程度の能力削除
なんていうか微笑ましいよ、こいしちゃん。
ものすごく応援してあげたくなる。

このあとどうなっていくのか気になる。
19.100名前が無い程度の能力削除
こいしちゃんマジキュート
すごく応援したくなりますね
こいしちゃん頑張って!
22.70名前が無い程度の能力削除
アクというか、クセが強いなあ。でもそれがいい、のかも。
書きたいものがしっかり練りこまれている気がします。